TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 1月大阪初春公演『傾城恋飛脚』新口村の段『壇浦兜軍記』阿古屋琴責の段 国立文楽劇場

今年の初春公演は、舞台が東大寺、吉野、新口と、奈良スペシャル。
新口村(現在は新口町)は観光スポットではないけれど、免許センターがあるので、奈良の人はみんな知っているそうです(以前、演目解説でヤスさん?が言っていた)。

 

 

第三部、傾城恋飛脚、新口村の段。

今月で一番良かった。

「新口村」は、いかにも芝居らしい、虚構の物語だ。登場人物はみな澄みきった心を持っていて、つねにお互いを思い合っている。こんな都合のいい美談、端から端までなにひとつありえない。この虚構を、実感をもった姿で観客に供するのは、実は、“リアル”というエクスキュース、言い換えれば、つまらなくても言い逃れができる近松原作(忠兵衛らが孫右衛門の目の前で捕まるパターン)よりも、難しいのではないだろうか。誰もが「こうでありたい」と思うような世界を、白けさせずに舞台へ定着させることのできる力が必要だ。

そのなかで、今回は、床といい、人形といい、いま「新口村」をやるうえでのベストメンバーだったと思う。

特によかったのは、孫右衛門の描写。
錣さん〈床=切〉と玉也さん〈人形=孫右衛門〉は、基本的には「やりすぎ」感の強い人だと思う。でも、こうして孫右衛門として組み合わせて舞台を見てみると、むしろ自然。情に折れてしまう田舎の普通のお爺さん像に、ジンとくる。二人とも装飾過剰なようでいて、合わされば実は余計な塗り込みなんてなかったんだと思わされた。

錣さんはあの過剰さ、異様なまでの情の深さがいい。
孫右衛門は、「孫右衛門は老足の……」と出てきた瞬間、「ング…ング…」と唸っていた。「老衰ッ!!!」感がすごい。これ別に錣さん自身がまじで唸っているわけではなく、人形も一瞬立ち止まるので、合意の上でやっている表現だと思う。孫右衛門はそこまで老いぼれてねえだろと思うんですけど、でも、「おじいさん」って、遠くから見ていると、直に接しているときより、だいぶ衰えて見えませんか? ちょっと寂しそうな感じがしたり、疲れている感じがして、私と話してるときはこちらを心配させないように頑張って元気なように振舞ってくれてたんだなと思わされるというか……。孫右衛門も、梅川に助けられたあとは「もう大丈夫」ばかり言って、しっかりした喋り方になる。そういう意味での、老親のリアルさがあると思った。
梅川も、とても毛深そうで、良かった。清十郎さんの梅川はまったく毛深そうじゃないのに、喋り方だけびっしりしっとりと毛深そうなのが、かなり良い。情が濃い女すぎる。
錣さんの「新口村」は以前にも聴いたことがあるけど、今回はぐっと良かった。素朴で普遍的な話を、それそのままに素朴に普遍的に表現することで舞台をシッカリと成立させる才気のある人だと思った。

 

清十郎さんには梅川がよく似合う。
梅川のまごころがそのままに表現されていた。梅川は、設定や言動だけ抽出してみれば、現代の感性からすると相当鼻につく役だと思う。それをそうと思わせないのは、人形浄瑠璃の力、清十郎さんの力だなと思う。
クドキはひとりで舞い踊っているようで、その先に忠兵衛や孫右衛門のことをいっしんに思っているのが感じられる。人形の演技として端麗かというとそういうわけではないけれど、彼女の想う人々への深い情愛を覚える。そういったことを自然に表現できるのは、やはり清十郎さんならではで、これは天性のセンスによるものだと思う。
孫右衛門の話を聞いているあいだのリアクションもうまい。ひたすら嘆いているだけなので、普通にやったらかなり単調になると思うが、抑揚なのか泣き方自体なのか、真に迫るものがあった。

 

孫右衛門〈吉田玉也〉の目隠しをはずされたあとの所作は、今回は「外されて即、忠兵衛から目をそらす」になっていた。ここまですぐに目をそらすとなると、お客さんがある程度「目隠しを外す」ことを知っていること前提の芝居ですよね。
「目隠しを外す」演技については過去記事で書いたことがあるが、浄瑠璃本文にはない演出で、昭和戦前期の創出。昭和14年に豊竹山城少掾・初代吉田栄三・吉田文五郎によって発案されたものが紆余曲折ありながら現代に受け継がれている。現代では、目隠しを外すことは「孫右衛門の仕草がチャリっぽくなるのを防ぐ」という山城少掾の意図から遊離し、すでにあたらしい意味と価値を創出している。そのうえで、目隠しを外されたときの孫右衛門のリアクションをどうすべきかは、現代文楽での課題だと思う。この演技の時間をつくるために、梅川が目隠しを外すタイミングがどんどん早くなってきているのではないかという気もするし、今後、どうなっていくのだろう。

孫右衛門は小川の向こうへ去っていく忠兵衛たちを見送るのに必死になって、転倒する。そのとき一瞬、手すりに乗っけた足の甲が見える。このときの草履は、ちゃんと、梅川になおしてもらった、鼻緒に紙のこよりをすげたものになっているのね。可愛い……。本当に一瞬しか見えないけれど、ぜひ注目してほしい。
段切、うずくまって袖なし羽織で顔を覆うのは、これまでの玉也さんのやりかたと同様だった。

 

忠三女房〈吉田簑一郎〉は、出てくるとすぐ、上手の一間の障子をはたきで掃除しはじめる。最初少しはたいてからムズムズしてちょっと止まり、鼻を袖で覆ってまたはたきはじめる。この小技のさりげなさ……、さすが簑一郎さんって感じ。「すぅぅぅ〜〜べったとやら!!!」のすべりも良かったです。

忠三女房は床の藤太夫さんもよくて、藤太夫忠三女房のあの独特の「ヤバさ」は独特だなと思った。ただのチャリではない「本物」感がある。あれを「無視」するとは、忠兵衛も肝が太い。さすが公金巨額横領するだけのことはある。
しかし、忠三女房から「飯が仕掛けてあるほどに」って言われたのに、梅川も忠兵衛も一切おかまいなしだったが、いまごろ焦げてるんでしょうか。

 

 

  • 義太夫
    口[御簾内]=豊竹亘大夫(前半)竹本碩太夫(後半)/野澤錦吾
    前=豊竹藤大夫/鶴澤清志郎
    切=豊竹錣大夫/竹澤宗助
  • 人形
    忠三女房=吉田簑一郎、八右衛門=吉田玉路、亀屋忠兵衛=吉田簑二郎、遊女梅川=豊松清十郎、樋の口の水右衛門[黒衣]=吉田簑悠、伝ガ婆[黒衣]=吉田玉峻、置頭巾[黒衣]=吉田玉征、弦掛の藤次兵衛[黒衣]=桐竹勘昇、針立の道庵[黒衣]=吉田玉延、親孫右衛門=吉田玉也、捕手小頭=吉田簑太郎

 

 

 

壇浦兜軍記、阿古屋琴責の段。

この阿古屋の何がいいって、阿古屋〈桐竹勘十郎〉、秩父庄司重忠〈吉田玉志〉、岩永左衛門〈吉田玉佳〉が全員自分の世界でやっている異常空間なことだよね。
お互いなんの協調性もない(disってません)。
ちいかわで言うと、モモンガ、くりまんじゅう、ウサギが好き勝手吼え散らかしてるシーンにしか見えない(disってません)。
おのれらなんじゃ!?っていうこの個性の衝突こそ、文楽、って感じがする。

 

勘十郎さんが演奏の演技にリアリティを求めているのは、これまでも指摘してきた通りだ。(2019年1月大阪公演2019年2月東京公演
意図がとくに顕著にわかるのは、琴の弾き方が人間と同じ点。人形演技の場合、人間の演奏とは逆に、(人形から見て)手前から奥に向かって手を動かすセオリーがあるので、確信的といえる。ほかの人が配役されたときの朝顔(生写朝顔話)などと比較するとよくわかる。

なぜそうしているのか? パブリックには、おそらく、「歌舞伎の阿古屋は本当に三曲を弾くので、文楽でも」という答えになるはず。勘十郎さんは過去に玉三郎を意識したような発言もしていたし、他の演目含めて歌舞伎の見せ方を参考にしている演技が端々にある*1
しかし、今回の阿古屋を見ていて、実質的にはそれ以外の理由が大きいのだろうなと感じた。

勘十郎さんが阿古屋の演奏の写実性にこだわるのは、本人がかしらの操演よりも右手の演技を重視しているからだろう。勘十郎さんの阿古屋の場合、演奏のあいまの演技のかしらの動きがかなり硬い。かしらの重量に負けているのだと思うが、単調になっている。あえて書くと、簑助さんはもっと「上手い」だろう。人形の演技の本質で簑助さんへ競合することは絶対不可能で、では「阿古屋」は簑助さんがやるよりも「つまらない」芝居になってしまうのか? 「華やぎ」のない演目になっても仕方ないのか? そうならないよう、アトラクション的な演目のアトラクション感のより一層の強調として、得意な右手の芝居をいかした演奏演技へ注力しているのではないだろうか?

右手への優先性については、琴の演奏時が顕著。後列席からだと人形の顔はまったく見えず、異様に伏せた姿になっていると思う(少なくとも、過去上演時の記録映像はそうなっている)。歌舞伎、あるいは実際の琴の演奏家は背筋を伸ばして顔が見える状態で演奏しているはず。本来人形も同じはずだが、客席から美しく見えるように顔をあげた状態に構えると琴の弦に手が届かないから、その見栄えを捨てても手を伸ばせるよう、上体を大きく下を向かせて琴に覆いかぶさっているのではないか。人形の命のはずの顔が見えなくなってもやる執着心はまじで狂ってると思う。

勘十郎さんを天才という人は多い。でも、私は、「天才」のような、持って生まれたセンスだけでものごとをなしとげているニュアンスの言葉を使うには惜しい人だと思う。勘十郎さんが私たちに見せているものの99%は、勘十郎さんの努力に支えられているだろう。いや、なんなら、120%くらいは努力によるものではないか。はたして今後、ここまでの気迫をもつ人は出てくるのだろうか?

その路線で考えると、三味線、胡弓と進んでいくうちにリアリティの練りが抜けてくるのは、なんとも惜しいと感じた。
三味線では胴への右手手首のかけかた、またそれとの弦との関係など、他の人には及び難いリアリティだ。これらは普通は両立できない場合が多いので、かなり研究してやっていると思う。ただ、かしら(目線)を右手に向けているのは、やや不思議。三味線の場合、手元を見るとしたら左手の場合が多いのでは思うが、なぜ。琴のときもほぼずっと右手を見ているのが気になったけど、殊に三味線だと、ふだん三味線さんを見慣れているので、「目線そっちなのか?」と、結構不自然に思った。長唄とかでも、正面見て弾くと思いますけど……。うなだれている表現なのかな?
胡弓はもう一工夫欲しい! 胡弓らしさがいまいちなのは、左手が原因だと思う。胡弓は楽器自体を左右に振るのが演奏上の特徴。振るタイミングそのものは合っていると思うんだけど、振りがほとんどなく、ほんの少しずらす程度になってしまっていた。人形は実際に楽器を弾いているわけではないことを逆用して、大げさにやったほうがいいのではないかと思った。今回の左は本公演の阿古屋は初めての人だと思うが、そうそうすぐには対応できないわな。頑張れ!!!!!

阿古屋の細かい演技で気になったのは、重忠に髪から抜いた簪を差し出す部分。結髪の都合で本当に髪に挿している簪は抜けないので、わざわざ介錯にうしろから簪を出してもらうという面倒な手順があるわりに、かなり形式的な演技のように感じた。昔はもっと意味のある(意味を持たせた)演技だったのだろうか?

 

 

重忠は非常に知的でクリーンな佇まい。11月の冨樫の香り高さとは異なる方向の、清潔感と華麗さのある姿。
以前重忠がきたときに比べて研究が進んでおり、今回は人物像のやわらかみを重視しているようだった。じっと白洲を見据えるように位置を低めに構え、阿古屋に目線を合わせて親身に説諭するような姿勢。柔らかく優しげだ。特に阿古屋に話しかけるときにはかなり低めに構えていて、物堅そうにミュッと伸び上がっている岩永と並ぶと、ひとめで役の性質がわかるのが面白かった。
玉志ウオッチャー的には、玉志サンは最近は人形の佇まいに柔らかみが増してますよね。以前は鋭利なところが多かったけど、芝居に余裕が出てきて、全体的に柔らかく、ふんわりもっちりとした弾力がある系の所作になってきている気がする。単にキレがいいだけでは「拙速」にしかならないので、良い。

そして、独自のキラキラ感がかなり高まっていて、ポーズがキマりすぎているのが良すぎた。三味線の音色に耳を傾け、階に右足を下ろして長袴を流し、両手で支えた刀を下ろしてついて、目を閉じ首を少しだけ傾ける姿……。重忠は孔明のかしらでかなり小顔なこともあり、キラッキラにキマりすぎて、絵みたいになっていた(文楽劇場ウェブサイトの、この舞台写真に載っているポーズ)。阿古屋潰す気か? 玉志さんは去年正月の「尼ヶ崎」でも、勘十郎の光秀潰す気か?ってくらいにキラッキラにキマりまくった久吉をやっていたが、この主役ガン無視の1ミリの遠慮会釈もない前のめりぶりは本当にすごいと思った。また、阿古屋に告白を迫ってわずかに前のめりになる姿も、物柔らかさを忘れず綺麗に止まってとても美しく決まっており、わずかな場面にも手を抜かないのが玉志さんらしくて、良かった。

重忠は阿古屋の三味線の演奏の手が止まったとき、注意を促して刀を階に「トン!」と突く。この音にはっとさせられて阿古屋はまた三味線を弾き始めるが、この音で“謎の途中離席をしていた岩永が襖の陰からピョコッと顔を出す。その際、重忠もはっとして後ろを振り向くのだけど、そのタイミングが岩永とまったく合ってなさすぎて、笑った。玉佳さんが出るのが遅いのではなく、玉志さんの振り返りが早すぎるのが悪いんですけど(こういう拙速さは改めて欲しい)、そこも含めて「こいつら気が合ってねえな」って感じで、良かった。もしくは、兄貴風をビュービューに吹かして、タマカ・チャンを早く出させるしかないな!

しかし玉志さん、芸風的に重忠が似合いすぎていて、「ご本人登場」を通り越してカメオ出演みたいになっていた。まあこの人はずっと前から「これ」だから……。と思っていたが、調べてみたら、重忠役、2回目だった。2019年1月大阪公演で出たときが初役だったのか。なんだろう、この比類なき「畠山重忠」の貫禄。

 

もう一人の「阿古屋潰す気か」、岩永左衛門〈吉田玉佳〉。
玉佳岩永は、リアルにマイペースなおじさんだった。マイペースっていうか、素? 玉男様の六助(彦山権現誓助剣)が玉男様自身であることのように、玉佳さんの岩永左衛門も玉佳さん自身なのかもしれない。
もうねえ、胡弓の真似が、長い。長すぎる。しつこいわ(笑)。火箸を延々カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ言わすのも、勘十郎への嫌がらせかいって感じで、笑ってしまった。文司さん岩永の場合、「火鉢に当たってぬくぬく」「阿古屋を観察」「だんだんフリフリ」「ゴキゲンにまねっこ」「火鉢の炭が跳ねてアチチ」など、小刻みに変化をつけており、あれは相当工夫してたんだなといまさらによくわかり、苦笑いしてしまった。文司さんは、コメディアンとして上手いなと思った。
それにしても、岩永左衛門は、足が相当ユラユラしていた。袴の裾に猫はいっとるんか……?????
あと、タマカ・チャンの熟柿色の肩衣にはめちゃくちゃ笑った。そんな色、岩永左衛門以外いつ着るんだ?????? でも、個人的には好きな色です。

 

今月良弁の次に動かない人、榛沢六郎〈吉田玉翔〉は、ハナ肇銅像と化していて、良かった。頑張っとる頑張っとると思った。

水奴ブラザーズは、“お揃い感”がそう見せるのか、『忍たま乱太郎』に出てましたか?って感じで、良かった。時々フォーメーションが変わるのも、なんか面白い。水奴役のご本人たちのうち、上手側の2人は舞台中央にいる人形たちを横目で見られるので、気になる人形を観察しているのが良かった。

 

今回は阿古屋役が呂勢さんに交代。情念深く貫禄のある錣さんの阿古屋とは異なり、すんなりとした立ち姿がイメージされる阿古屋で、廓の水に慣れた教養ある女性のイメージ。MARCH卒な感じがする。脱毛してそう。
ひとつ気になったのは、三曲が「歌っている」ように聞こえなかったこと。演奏としては上手だと思うんだけど、セリフや地の文との違いがわからなかった。歌唱になっていない感はどこからくるのか。過去の阿古屋役の錣さんは歌っているように聞こえたが、錣さんの場合、地や詞部分の抑揚に強い特徴があり、逆に歌唱部分はスッキリしているので、その差分を感じ取れるからなのか……?

ヤス左衛門はちょっと若い印象だけど、下品さがないのが良い。時折「悪役」を「下品」に語る人がいるが、悪役かどうかと下品かどうかは全く違う。その区別がついていないのを聞くのが個人的にかなりのストレスなので、その意味でも、良かった……。

 

「阿古屋」の舞台は堀川御所なので、京都。余談だが、「琴責」の決断所のイメージは、江戸時代の奉行所をモデルにしていると思う。岩永は火鉢にあたってヌクヌク参加しているけれど、江戸時代の奉行所の規定では、奉行は「ちゃんと」座っていなければいけないことになっていたそうだ。もちろん、寒くても火鉢禁止。ざえもん……、自由……。

 

┃ 参考

2019年2月東京公演時、阿古屋についての勘十郎さんのトークショー記事

 

  • 義太夫
    阿古屋 豊竹呂勢太夫、重忠 竹本織太夫、岩永 豊竹靖太夫、榛沢 竹本小住太夫、水奴 竹本聖太夫、水奴 豊竹薫太夫/鶴澤藤蔵、ツレ 鶴澤寛太郎、三曲 鶴澤清公
  • 人形
    秩父庄司重忠=吉田玉志、岩永左衛門=吉田玉佳、榛沢六郎=吉田玉翔、遊君阿古屋 桐竹勘十郎(左=吉田簑紫郎、足=桐竹勘昇)、水奴= 吉田和馬、吉田簑之、吉田玉延、吉田簑悠

 

 

 

第三部には、現在の文楽とその技芸員の魅力がよく出ていたと思う。

「新口村」のメンバーのすばらしさは、前述のとおり。このメンバーを得て、あらためて、「新口村」は、現実から離れた「こうであったらいいのに」という虚構の物語だからこそ、人形浄瑠璃特有の純粋性を最大限にいかせる演目だと感じた。
公演全体のバランスでいうと、藤太夫さんや錣さん、清十郎さんは第二部へ回ってほしかったという欲はあるものの、「新口村」をここまでのクオリティで観られるのは、初春公演ならではかもしれない。

「阿古屋」はそれとは真逆の意味での虚構の物語。嘘であるからこその華やぎをどう見せるかという点で、勘十郎さんのアプローチはとても貴重。
そして、玉志さんは、徹底して師匠に近づくことを目指す指向性は勘十郎さんとは真逆の考えでありながら、アウトプットされた状態になると、実は結構近いラインにあるのではないかと思う。
今回の重忠と岩永は、はからずもブルース・ブラザーズ的なことになっているのが良かった(背後霊の話)。玉志サンとタマカ・チャン、日によってランダムで配役逆にして欲しいと思った。

 

 

 

2Fロビーに飾られていた阿古屋の人形。

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次に人形展示の機会があったら、博物館での仏像展示のように、周囲をぐるっと回れるようにしてほしい。舞台ではなかなか見られない背後アングルも見てみたいです。

 

 

 

 

 

*1:玉三郎といえば、以前、玉三郎は岩永左衛門役がきたときにその人形振りの勉強のためフレンドである玉男さんに教えを乞うべく文楽の楽屋へやってきたが、玉男さんが玉三郎を気遣うあまり来訪の話を周囲にしていなかったせいで逆に騒ぎが巻き起こったとかいう話が面白かったですね。あと、玉三郎はこの「玉男さんに習ったよ」話をインタビューで話していて松竹のサイトにも玉男さんの名前つきで載ったのに、文楽のほうは何もしなかったも面白かったです(失礼)。そこは玉男様も「おれはあの玉三郎が勉強しにくるような貫禄だ」というアピールをしてくれと思うが、それをしないのが玉男様って感じがする。

異身傳心 文楽『嬢景清八嶋日記』/能「景清」 宝生能楽堂

文楽人形遣い吉田玉男宝生流シテ方・辰巳満次郎のコラボ「炎之會(ほむらのかい)」の企画、「異身傳心」第一回公演へ行った。




そもそもなぜ玉男さんが辰巳満次郎さんとコラボに至ったかというと、昨年2月のイベントで意気投合したのがきっかけだそう。おふたりは同年代で(玉男さん69歳、満次郎さん63歳のはず)、ますますこれから芸道に精進したいということで「炎之會」と名付けたとのこと。同じ舞台で文楽と能を上演することを趣旨としているようだ。
文楽・能に共通する題材として、今回は「景清」が選ばれ、文楽は『嬢景清八嶋日記』日向嶋の段、能は「景清」を上演するという内容だった。

今回の会場は宝生能楽堂。最寄駅は水道橋、東京ドームのほど近くにある、ビル入居のこじんまりとした能楽堂だ。昭和テイストなしつらえで、応接間のような懐かしい雰囲気のロビーや昼白色の暗い場内照明が印象的。なんともいえない鄙び感があって安心する。個人的には、客席座席が座りやすいところが好きです。フカフカしとる。
普段、能楽関連の展示物が置かれているロビーの展示スペースには、玉男さんの舞台写真パネル、文楽人形(お染?)などが飾られていた。

昼の部・夜の部の2部制のうち、夜の部は、能舞台の周囲に蝋燭を立てるという演出があった。とはいってもいわゆる蝋燭能ほど蝋燭を大量に立てているわけでもなく、舞台の照明は普通についていた。蝋燭の光はほとんど意味がなくて、雰囲気程度。客電を落としていること自体は良かった。上演自体の演出の違いとしては、能は昼夜で一部配役を変える、囃子方の肩衣有無という変化をつけていたようだが、文楽は不明。

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文楽『嬢景清八嶋日記』日向嶋の段。

玉男さんの景清についてはこれまでも感想を書いているため(2019年9月東京公演2022年4月大阪公演)、今回は本公演とは異なる条件下での見え方に絞って書いておきたいと思う。

文楽本編では、能舞台の構造の特性をいかし、橋掛りを海、本舞台を陸地に見立てた演出になっていた。手すりは立てず、人形遣いは舞台下駄なし、全身が見える状態で上演。
能を写し取ったような舞台の考え方、立ち位置配置で、空間の使い方が面白かった。横長の舞台で上下二段に別れて左右へ平面的に動く文楽とはまったく異なる、立体的な空間構成。主役だけが舞台センター、そのほかの脇役は舞台端へ下がって距離をとるという立ち方だった。その距離感と大道具のない舞台の簡素さによる景清の孤立性は印象的。
能楽堂は、本舞台が正方形であることが特色だ。ホール系会場とは異なり、舞台正面以外に、舞台下手真横(脇正面)と正面・真横の中間(中正面)にも客席が設置されている。文楽は通常真正面にむけて人形演技を行うが、能楽堂では脇正面や中正面も無視することはできない。そのため、本舞台での芝居でも、能楽堂の客席配置を意識した演出アレンジが行われていた。具体的には、冒頭のみどころ・重盛の位牌の前での独白は正面席向き、最後の一回転は脇正面向きで演じるようにアレンジがなされていた。これ自体は能の登場人物の動き方、正方形の能舞台の奥行きをいかしたやりかたで、面白い。*1
橋掛りを海、本舞台を陸地に見立てると、糸滝が船に乗って帰っていくときに、景清と糸滝の距離が際立つのは良かった。いや、実際に距離があるのだが、距離感を見失わせるような大道具がないため、人形の小ささもあって、より一層遠くに見えた。

 

しかしこの条件、実力がある者しか舞台上に存在しない世界だった。
私の感じた最大の問題は、手すりがないこと。率直に言って、人形遣いが邪魔で、人形がものすごく見辛い。文楽はなぜ手すりを立てて上演しているのか、よくわかった。技芸未達の人は、人形の芝居にボリューム感がないために人形より本人のほうが目立ち、人形の存在感がゼロになる。正直なところ、景清以外、誰かおったか?って感じ。景清も人形に動きが少ないところは人形遣いがノイズになり、厳しい。文楽として品質を高めることだけを考えるのならば、全員黒衣でもいい。
グランドラインがないことで、芝居が成立していない箇所もあった。糸滝の身売りを知り、景清が暴れて浜辺で転げる本曲のみどころは、手すりがないと何をしているのか非常にわかりづらく、迫力や見栄えが削がれていた。
この企画が文楽を文化簒奪的に扱っているわけではないことは承知しているので、浅い印象はない。が、文楽としては本公演で見たほうが面白いよねとしか言えなかった。人形出演者をよほどのハイレベルな方ばかりで固めない限り、物珍しさ以上のものにはならなさそうだ。

この条件でも、玉男さんの景清の人形は、はっきりと見えた。玉男さん自身の力強い足取りが見えるので、そこで人形の「小ささ」が少しは補われている。
玉男さんはどっしりと腰を据えて人形を遣っている。景清が地に低くかがむとき、玉男さんは状態を動かさないまま、スクワットのように大きく腰を落として、両足を大きく開き舞台に人形ごと低く深く沈む。玉男さんの人形は体幹が太くブレのないことが最大の特徴だけど、ブレていないのは玉男さん自身もなのだ。玉男さんは景清の巨大な精神性の具現のようだった。

また、今回ならではの気づきとして、玉男さんの人形の動きの特殊性をあらためて実感した。玉男さんの人形の玉男さんの人形の余剰の少なさ、抽象度の高さは、能舞台の雰囲気に適合していた。たとえば、能楽師の足取りは、歩いているようには見えるのだけど、人間としての普通の「歩き」の動作ではない。摺り足で、「滑っている」に近い。それを芸で歩いているように見せている。写実を離れた緩慢さ、一挙一動それ自体に注意を配った精緻な動き、これらによって独特の時空と強度をつくる玉男さんの人形の動きは、能楽師のそれに近いのかもしれないと思った。
仕舞みたいなものですよね。玉男さん(と、玉男さんの人形)の動きというのは。付け加えや小細工なくとも場が成立するのは、玉男さんならではだと思う。

 

橋掛りを海、本舞台を陸地とすることもまた、人形のサイズ感からすると逆効果になることもあった。橋掛りと本舞台の距離が実際に遠いために、そのあいだを移動する人形が異様に早足になってしまうのだ。本来なら、船から降りる(歩き始める)タイミングなどで調整することはできると思うのだが、単発公演ではそこまで気を回せないのか。糸滝は激走女になってしまっていた。足くじいてるのにめちゃくちゃすごい勢いで走ってくるッ!!! 怖いッ!!!!

 

大道具については能合わせがされており、写実を離れたものだった。景清ハウスは能の作り物風、細いフレームで支えられた屋根に引き回し(周囲を囲う幕状の布)をつけた至極簡素なつくり。屋根は藁葺き。普段からして物置みたいな家に住んでるのに、さらに強度が下がっとる。台風きたら一瞬で全て吹っ飛ぶ。
糸滝たちが乗ってくる船・頼朝の迎えの船も作り物で、フレームのみのもの。頼朝の船は帆が立ててあったが、文楽本公演のような笹竜胆の源氏の紋ではなく、緑・白・黄色(だったかな?)の、縦縞マスト。ただし、作り物を人形の足の高さまで上げていなかったので「乗っている」感は能以上になく、人形は普通に宙に浮いた状態だった。
冒頭の重盛の位牌、おもち・おはしセット、それをのっけるための土台の石は、文楽で通常使用されているものと同様。あと、景清にたかってくる鳥ちゃんも普通にいました。小道具はともかく、鳥の唐突な写実性を能舞台にそのまま持ち込むべきなのか、一考の余地ありだと感じた。なお、蓮台はオリジナルで作られているようで、能舞台の床を保護するためかそっと浮かせて運ばれていた。

あとはそもそも論として、又平(佐治太夫)が能舞台をうろついているのはむちゃくちゃ浮いていて、良かったですね。能楽堂にはおらん顔じゃ。

 

千歳さん、富助さんは熱演。玉男さんの景清の強靭さや能の出演者のレベルを考えると、これくらい押し出しがきく人でないと間持ちしないだろう。
千歳さんは本当に糸滝を幼児のように思ってるんだろうな……と思った。
なお、床は舞台上手奥での演奏。本舞台へ張り出して座っており、完全に地謡座へ逃す等ではなかった。

 

無料配布していたプログラム冊子に、人形小割(左、足などの配役)が掲載されていた。これはとても良かった。最近、外部公演で小割が公開されることがあるが、国立劇場も踏襲してほしい。重要な場面の主役級だけでも公開し、若手の奨励にしてはどうかと思う。
ちなみに、頼朝の隠し目付けは、天野四郎(陀羅助のほう)ひとりだけになっていた。人材不足で土屋軍内(検非違使のほう)は日向嶋まで来られなかったのか、能に人数合わせをしていたのか……(能の里人は1人)。

 

↓ 開演前の舞台

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  • 義太夫
    竹本千歳太夫/豊澤富助
  • 人形
    悪七兵衛景清=吉田玉男(左=吉田玉佳、足=吉田玉路)
    娘糸滝=吉田一輔(左=吉田玉誉、足=吉田簑悠)
    肝煎佐治太夫=吉田玉勢(左=吉田玉翔、足=吉田玉征)
    天野四郎=吉田簑紫郎(左=吉田玉彦、足=吉田玉延)
    近習(頼朝の船に乗っているツメ人形)=吉田玉翔
  • 介錯=吉田玉峻、吉田玉延、吉田簑悠、吉田玉征
  • 幕柝=吉田玉誉
  • おはやし=望月太明蔵社中

*配布プログラムでは、人形遣いの苗字をすべて省いて掲載していた。いわゆる小割と同じ書き方で、文楽知らん人には完全意味不明なのだが、どうせ「わかってる人」しか来ないからOKということか。

 

 

文楽終演後、そのまま座談会「おもてとかしら」。

プログラム等では「座談会」とあったが、満次郎さんと玉男さんが言葉を交わすという形式ではなかった。能楽師だと装束付けがあるので、時間的な問題があるからだと思うが……、前半は満次郎さんが喋って退出、後半入れ替わりで玉男さんが喋るのを「座談会」とするのは、ちょっと疑問。

満次郎さんからは景清の面(おもて)の紹介があった。
使われた面は出目洞水(でめ・とうすい。江戸中期の能面師)の作品、辰巳家に伝承されているもの。景清の面は盲目のため、目を閉じた表情で作られているので、目の部分には横に長い切れ込みが入っている。一般的な小面などは瞳の部分に小さい穴があいているだけなので周囲が見づらいが、景清の面は見やすい。景清は盲目の設定のはずなのに、能楽師からすると実は景清の面のほうが視界が広いとのことだった。
『景清』は宝生流でも許しを得て演じるような奥伝とされている。満次郎さんも過去に1度しかやったことがないとのこと。今回のイベントでは昼夜2回上演だが、このような重い曲を1日2回演じるのは珍しいという話だった。

玉男さんからは、景清の首(かしら)の紹介。
景清のかしらは大江巳之助さんの作品で、文楽座に1つしかないもの。灰色の縮緬が貼られており、筋の浮いた手足とともに、潮風に焼かれて痩せ衰えた景清の境遇をあらわしている。普段は瞼を閉じているものの、目には赤いガラス玉が入っており、舞台では8回ほど目を開いて赤い眼窩を見せるとのことだった。
「日向嶋」でいちばん気合いを入れなくてはいけないのは、「子は親に迷うたな」の部分。糸滝に手探りで触れる瞬間、声をかけて出演者全員の息を合わせる。このとき、初代吉田玉男師匠は「ウッ」と声をかけていたという話を披露されていた。
司会者は、玉男さんは景清役これまで2回?のような話題振りをしていたけれど、文化デジタルライブラリーの上演記録で調べると、玉男さんは本公演では4回やっているはず。玉男さんの話だと、本役以前にも代役で勤めたことがあるということだった(本公演の記録にはなかったので、外部?)。本役でもらう以前に、師匠初代吉田玉男の足、左を経験しており、やはり足・左の経験がないとできないと話されていた。
糸滝が父のために身を売ったことを知った景清が船を呼び戻そうと暴れて、舞台上で一回転する見所の解説もあった。人形が倒れる際、主遣いは景清の左手を預かって一丁持ちになり、足遣いは人形とともに一回転する。玉男さんが「こうしてこう!」と突然試演をやりはじめたので、足の玉路さんは笑ってしまっていた。タマカ・チャンは鋭いので、速攻左を離して退避していた。タマカ・チャンはデヘヘ・スマイルをされていて、とても良かった。
玉男様はマイペースで渡らせ給ふため、突然、文楽鑑賞教室的な人形操演の解説をしてくださった。胴串がどうとかうなずきが云々とか眉毛がうんたらとか、今ここで!?満次郎さんのお客さんへのご配慮??と思ったけれど、景清は盲目のため、通常のスタンバイ姿勢でも若干うつむいているのが良かった。玉男さんは自然にそう持っている、景清ならばそうとしか持てないのだと思った。また、玉男さんは、人形のうなずきが一番下まで下がったときにどれくらい下向きになっているのかを見せてくれた。鑑賞教室でもやったほうがいいなと思った。
玉男様は自分の番で呼び出される前、屏風の影から「チョコ……」とコチラを覗いているのが、玉男様、って感じで、良かった。

千歳さんからは、「日向嶋」は咲さんに教わったという話があった。
頭のところだけ少しご注意があり、それ以外は"指導するほどにまで至っていないのか”、そのままだったそうだ。咲さんからは、冒頭の「松門閉ぢて」の前に、「あいうえお」でもいいから、5つ何かを言ってからやりなさいというアドバイスをもらったとのこと。それで心を落ち着かせてからやるように、という意味らしい。
千歳さんは熱演後の登壇のためか声が枯れており、妖精のような喋り方になっていた。

 

司会者は文楽トークショー系イベントにも出ている人だが、悪いけどこの人を使うの、やめて欲しい。出演者の話を遮るのが本当に迷惑。客は司会の話に金を払ったり時間を使っているわけではない。いらない話も多すぎる。
だいたい、満次郎さん自身はほとんど喋っていない。宝生流の関係者はこれで許せるのか。文楽も、千歳さんがせっかくトークに出てくれているのに、全然喋れていない状態だった。
ただし、玉男様は間合いがマイペースで渡らせ給ふので、逆に司会者の話を遮って独自の内容をおはなし遊ばされていて、うーん……、玉男様、って感じだった。
この方は、この方に向いた性質のイベントにだけお呼びしたほうがいいと思う。

 

 

 

能「景清」。

日向へ流された景清のもとへ娘が訪れ、景清は一度は他人のふりをするも最終的には親子の名乗りを交わし、娘はまた帰っていくという大筋の展開は文楽と同じ。「日向嶋」と異なるのは、娘の名前が「人丸」であること、景清はすでに盲官の官位を得ていること、そのため娘は身売り等をしたわけではなく単に父に会うために日向へ来たこと、景清は日向に残ること。
文楽の冒頭にある謡ガカリ「松門閉ぢて……」は本作からの流用で、能でも重視される謡。そのほか景清が栄華を誇った過去を回想し、三保谷四郎との錣引きを語る場面が見所で、この部分の詞章はどちらかというと『義経千本桜』「道行初音旅」を思い起こさせる。

景清の装束は着流しの場合もあるようだが、今回は大口(袴)をはいたもの。使用する面にヒゲがある場合は大口で、平家の武将であったことの表現らしい。面にヒゲがない場合の着流しで、勾当であることの表現のようだ(これは現場の解説で聞いたのではなく、『新編日本古典文学全集 謡曲集2』『能を読む3 元雅と禅竹』の「景清」の記述によります)。

満次郎さんはバリトン調の声がいい。能楽師の魅力にはいろいろな種類があるけれど、満次郎さんのそれは低く響く声楽家のような美声だろう。謡の調子自体に酔うことができる。いわゆる「大きな声」でなくとも、空間にいきわたるようにしっかりと聞こえていた。
また、佇まいも元平家の侍大将であった景清らしく、いまは勾当という設定であっても昔の威風を感じた。鬘桶に腰掛けるさまも決まっている。このあたりは玉男さんの景清とも近い。
景清は、舞台から退出するときも、「ちょん、ちょん」と杖をついているのも良かった。

夜の部の特殊演出として、ツレの人丸(景清の娘)を子方が演じていた。古風な演出という説明があった。この公演は古典芸能慣れしているお客さんが多かったので、「普通」にはもはや飽きている方々向けの目先替えの意図は理解する。ただ、個人的には、大人の能楽師にやって欲しかったな。

それにしても、ワキの人(森常好さん)、おなつかしや。ワキ方は人数が少ないため、能をよく見ていたころはしょっちゅうお見かけしたが……、お元気そうで何よりです。『バード』を実写化したときには蛇役をやって欲しい。

あとは、間狂言がない演目で良かった。(素直)

 

コロナ禍以降、能に行かなくなったので、3年ぶりくらいの観能だった。ひさしぶりに見ると、やっぱり、能って良いなと思った。
能は、ストーリーにとらわれず、声そのもの、動きそのもの、音そのものに集中できるのが面白い。上手い人が出ていると、あらすじなどどうでもいいくらいに場の雰囲気に酔えるのが最大の魅力だ。実際には謡本などを読んでから行っているんだけど、そうであっても「答え合わせ」や、「わかったかどうか」の自問自答の必要を感じない。現場は感覚だけで楽しめる。能舞台のうえに流れる、ゆったりとした時間とまどろみの霞のようなものが好きだ。
宝生能楽堂も久しぶりに行ったけど、上述の通り、昭和感が変わっていなくてよかった。でも、宝生グリルはなくなっちゃったのかな。
来年はまた観能を再開したいと思った。

 

  • 配役(夜)
    景清=辰巳満次郎、人丸=片桐遵(子方)、従者=和久荘太郎、里人=森常好
    笛=杉信太朗、小鼓=飯田清一、大鼓=亀井広忠
    後見=佐野登、小倉健太郎、田崎甫
    地謡=辰巳和磨、田崎甫、川瀬隆士、東川尚史、小倉伸二郎、金井雄資(地頭)、大友順、高橋憲正

 

 

 

この公演のいいところは、文楽と能を混ぜていないという点。
外部コラボイベントだと混ぜることが多いけれど、そうなるとまず、お互いのよさが削がれることになる。「やってみた」以上の意義を提供できることは稀で、ほぼないとみていいだろう。
私は、「やってみた」には、飽きている。長い時間をかけて熟成された芸能のおもしろさを楽しむには、素直にそれぞれの原型で上演したほうがいいと考えている。比較上演することで、それぞれの良さを引き立て合い、客にとっても発見がある。今回は文楽、能とも出演者のレベルが高く、お互いの良さをいっときに楽しむことができたのが良かった。
というか、普通は、資金集めなりをせんがために、意味のないプラスアルファや新奇性をくっつけなくちゃいけなくなるところ、それをせずに本物そのままの一本勝負でいけるというのは、幸せな企画だよね。自主企画であっても、玉男さんや満次郎さんのありのままを認めてくれる人、お客さんがたくさんいるということだから。そこは本当、良かったと思う。

 

来場者は、ほとんどが出演者がチケットを取り扱ったお客さん(関係者含む)、もしくは個々の出演者のかなりのファンの人ではという感じだった。ほぼ内輪の会状態だったと思う。
これは、拍手マナーからも感じられた。能の終演時に誰も拍手をしない、文楽でも本公演より拍手のはじまりが遅い(大きな拍手が起こるのは太夫が最後の一文字を言い終わってから。一番大きくなるのは三味線が最後のひと撥を下ろしてから)という点、「わかっている人」が多いことが推測できる。
あと、司会者の演目解説中に普通に退出したり、上演中に携帯を鳴らす人がいるのは、そうそう、これぞ能楽堂のお客さんだよなーと思った(失礼)。

司会者は文楽と能の客が完全に分離しているかのような言い方をしていたが、実際には両者は結構共通していると思う。伝統芸能の中でも能・文楽のような専門性が高いジャンルへ来る人だと、そもそも伝統芸能はなんでも観るという人、多いのではないだろうか。玉男さんや満次郎さんの「巧さ」を知っている、理解できる人となると、なおさらだろう。
いずれも、言い換えれば、伝統芸能の世界はものすごく狭いとも言える。
トーク等で自己紹介や基本的な芸能の紹介をカットして本論から入れるなど、内輪向けの内容に振り切れるのは客としては嬉しいですが、良し悪しはあるでしょうね。

 

この会、今後どういう形態で運営されていくのだろうか。しばらくは「俊寛」『平家女護島』、「橋弁慶」『五条橋』、「安宅」『勧進帳』など、文楽・能で題材が共通している演目でいくのかな。私がこの企画で一番観たいのは知盛だが、どうも過去にやっちゃってるっぽいんですよね。ほかには、「百万」と『良弁杉由来』とか、近似テーマの曲というのもできそうだ。今後どうなっていくのか、楽しみ。

 

 

 

内輪の会ならではの怪現象もいっぱい起こっていた。
等身大パネル。みんな爆笑して、あいだにはさまって、記念写真を撮っていました。良すぎる。

f:id:yomota258:20221226014825j:image

帰りには、出口で玉男様がたまお×まんじろチロルチョコを配っておられた。あまりにも良すぎました。

f:id:yomota258:20221226014840j:image

サイン入りポスターももらいました。
前々からうすうす思っていたけど、玉男様って自分の名前の「玉」の書き順が独特で遊ばし召されるよね。良すぎ。

f:id:yomota258:20221226014856j:image

 

 

ジャクエモン・インスタにも、このイベントに行ったよ投稿がされていたんですが(雀右衛門さんは玉男様とフレンド)、雀右衛門さんがもらったチロルチョコ、私がもらったやつとデザインが違う。雀右衛門さんがもらったやつのほうが写真が可愛い。負けた。(?)

 
 
 
 
 
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タマショー・インスタに打ち合わせ時の写真があり、チラリ程度ですが使用された作り物を見ることができます。

 
 
 
 
 
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マンジロ・インスタのキービジ撮影時のオフショット。玉男様が素すぎるのが良いです。

 
 
 
 
 
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2023年は玉男様もインスタはじめてほしい。「きょうのふく」「めだまやき」「ねこ」とかの一言写真だけでいいので、頑張ってほしい🥺

 

 

 

*1:ただ、これだと中正面が一番よく見えるということになる。席料は本来、正面→脇正面→中正面で段階がついているので、料金と見栄えがあまり比例しなくなっていることには、良し悪しあるとは思う。文楽人形遣いがいるので、正面以外からのアングルだとそもそも人形見えないし。あと、見付柱は能以上に邪魔でしたね〜……。能だと役者の体の一部が隠れる程度ですが、文楽だと人形が小さすぎて、まるごと見えへんやつがおった。

文楽 12月東京文楽鑑賞教室公演『絵本太功記』夕顔棚の段、尼ヶ崎の段 国立劇場小劇場



今年の東京鑑賞教室は『絵本太功記』夕顔棚の段、尼ヶ崎の段。

構成は、20分程度の解説のあとに、本編上演という形式。舞踊演目はなし。

解説パートで例年と違ったのは、話の順序。「文楽とはなにか」の解説のあと、先に演目紹介を行ってから、パートごとの技術的説明を行う順番にあらためられていた。

Bプロ簑太郎さんは、演目紹介で光秀とさつきの思いのすれ違いに注目するよう示唆をしており、的確なガイダンスだと思った。解説イコールあらすじ読み上げではなく、作品のテーマや理解のポイントを説明することが大切なのではないだろうか。「社会的立場や信念から、本心とは相反する発言をせざるを得ない人物がいる」という点は、文楽として非常に重要な要素であり、大きな「見方のコツ」だと思う。

個人的には、文楽特有の表現を三業で説明してもいいのではないかと思っている。たとえば、女方の述懐(クドキ)。言っている内容は悲劇的だが、曲調や演技は真逆で、ミュージカルのように歌って踊ることで、ドラマチックな感情の盛り上がりを表現するという特長も、「見方のコツ」としては有効だと思う。

Aプロの語り分け、弾き分けで「裏門」を試演する際、おかるを町娘と言っていたのが気になった。「腰元(武家屋敷で作法とか習いながら働いてる女子)」でいいのでは……?

 

 
 
 
 
 
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本編、配役2グループに分けての上演。

例年はAプロ・Bプロそれぞれに感想を書いていたが、今年は役ごとに感想を書いていこうと思う。

 

武智光秀

Aプロ・光秀は、玉志さん。
玉志さんの光秀役はこれまで3回見てきたが、今月、4回目が圧倒的に良い。良すぎる。衝撃的な素晴らしさ。本人のうちのベストなだけでなく、これまでに見た誰の光秀より良い。まじでびっくりした。

いままで以上に、所作ひとつひとつが洗練されていて美しい。所作を自分のものにしているのだ。それゆえに、決まった演技・型でありながら、彼の意思で自由に動いているかのように感じる。光秀は「荒物」といわれるが、ラフさはない。弾性のある伸びやかな動きで、むしろ、優美さすら感じる。ゆとりのある精緻な所作であるため、彼の動きはスローモーションであるかのように見えた。その精度や集中力が段切までまったく落ちることがなく、芝居の強度が桁外れだった。

具体的なところをみていく。まず、「ここに刈り取る真柴垣」からの出の、嵐を予感させる静かな迫力。「夕顔棚のこなたより、現れ出でたる武智光秀」での大見得は、顔を隠していた笠をとって大きく両手を広げて決まる。文楽は演奏優先なので間合いが難しい部分だけど、決まった一瞬の中に主役の貫禄をみせていた。ほんの少しのニュアンスのことだけど、玉志さんの場合、これまでは見得から舟底へ降りる動きが速すぎて流れに埋没していたため、今回の間合いの改善は本当に良かった。このあとの舟底へ降りる際のゆらりとした不気味な陰鬱さについても書いておきたい。続けて、舟底から屋体を見上げる立見得。左手を高く掲げ、すらりと伸び上がった姿勢をみせる。さすが玉志!という怜悧な美しさ。横向きポーズ、うますぎる。

また、操の1回目のクドキのあと、「取りつく島もなかりけり」で軍扇を広げて決まるところは、ものすごくバッチリ決まっていた。力のみなぎる、やや前傾になった光秀の姿勢、扇を上げるタイミング、引き下げの力み、顔との位置関係……。決して大げさにやっているわけではないのに、がっちりと美しく決まっている姿が、光秀の人物の輪郭の大きさにつながっていた。

このようないわゆる「有名な決め」だけではなく、細かい型もきっちり綺麗に決めている。
びっくりしたのは、「三衣に変わる陣羽織」で武将姿に改まった久吉の出の部分。光秀は松の木の下で振り返って客席に背中を見せ、伸び上がって左手を掲げて上手を見返るが、その姿の圧倒的な華麗さ。フィギュアスケート選手のような、ピンとなめらかな姿勢で、見たことないレベルで美しかった。普通にやったら人形の姿が絶対によれるところ、Aプロ5回見たうち、すべての回で成功していた。ここを「なりゆき」「崩れても仕方ない」にさせない心意気、玉志さん本人はもとより、足の人も左の人も相当に気を使ってやっていると思う。
もちろん、団七走りの直前、舞台下手で松の木へ向かって悠々と両手を広げるところは、めちゃくちゃ綺麗なT字になっていた。玉志さん、ありとあらゆる役でそうなんだけど、両手広げ演技、うますぎんか。凛々しすぎる。あれが決まるかどうかで、その役の品格の桁がまったく変わってくる。*1

全般的な人形の遣い方も上手い。腕の動きの精緻さやダイナミックさは、玉志さんならでは。
操に責めさいなまれたあと「ヤア猪口才な諫言立て」からはじまる扇を手にした語り、最後の松の木へ登る団七走りの箇所では、腕の美しい動きが映えていた。本物の人間ではそこまで腕回らんっていうところまで大きく動かしているのが、いい。
逆に、動きを止めなくてはいけないところでキッチリ止めるのも効果的だった。戦場から帰ってきた十次郎を光秀が介抱したのち、「『ハッ』と心を取り直し」で操が十次郎へ駆け寄ろうとするくだり。十次郎を見据えてやや前傾になりながら、左手をさっと差し出して操を止め、右手は腰に差した刀の柄にかける姿の決まり方が秀麗だ。そして、肩や腰に表情がありからだに力が入っているから、光秀が息をつめて十次郎を見据えていることがわかり、止まっているのに躍動感がある。文楽では不思議なことに、止めなきゃいけないところでシッカリ止めると、振りがあるところとのメリハリが出るので、全体としては逆に動きがあるように見えるんだよね。この場面、お客さんはみんな十次郎を見ていると思うけど、光秀もまるで月岡芳年の武者絵のようで、大変に美しかった。

また、演技の意味を明確にするように、細かいところまでくっきりと行っていたのが今回の光秀の特徴。微細な所作でも、多数の動きに埋もれないように演じていたが(たとえば「遺恨を重ぬる尾田春長」では閉じた扇で軽く眉間の傷を示すなど)、より明確な意味をもつ所作は、意味するところがはっきりとわかるように演じていた。
瀕死の十次郎に「父上」と呼ばれるくだり。以前は光秀は正面向きのまま、扇で膝を打って音を立てる返事だけをする方法だったと思うが(十次郎はすでに目が見えなくなっているので、それで十分という解釈だったのだと思う)、今回は早々に十次郎のほうへシッカリと向き直り、ぱしぱしも大振りな演技に変わっていた。
大落としの直前、下手に座って左右に初菊・十次郎を抱く「親の慈悲心、子故の闇」のくだり。ここでいう「親の慈悲心」とは光秀自身の十次郎への愛ではなく、母さつきの光秀への愛を意味している。これに呼応するように、光秀は屋体の中でうずくまるさつきに目を向ける。ここではかなり強めにさつきのほうを見上げるようにしてあった。このほか首に振りのある演技の際は、かしらを大きく返してクッキリとした見えにしているのが特徴的だった。単に振りが大きいのではなく、余分な手数を切ったシャープさの中に強いメリハリをしっかりつけているので、所作の意味は際立っても、ガチャガチャして見えない。
細かいところでは、冒頭、刈り取ってこしらえた竹槍の穂先を髪にこすりつけるくだり。これは光秀ならではの特殊な振りのひとつで、槍先の通りをよくするために髪油をつけているという意味なのだが……、「やる」と知っている人にしかわからない小技ながら、紛れさせではなく、やっていることがはっきりわかるようになされていた。*2

この美麗さ、描写力の高さというのはほかの人では見たことがないもので、あるとしたら、記録映像の中の初代吉田玉男だ。
なぜ初代吉田玉男が戦後の名人と謳われ、一般にも高い人気があったかというと、洗練性が高いのに、何をやっているのかが誰にでもわかるからだろう。人形を使って浄瑠璃を正確に表現する、外面(所作)と内面(肚)の結合を高めることは、シンプル、無個性のようでいて、誰にでもできることではないが、それをなし得た人だったのだと思う。ひとつひとつの所作の精度を極限まで高めることで、人形の動きだけで話の内容が理解でき、しかもその姿が美しい。それが初代吉田玉男の芸が多くの人を納得させた理由だったのではないか。
高い洗練性による人形ならではの透明感、ダビデ像のような象徴的な美しさ。秀でた描写力によるくっきりとした型や所作による人物の表現は、玉志さんがまさしく師匠から受け継いだものだと思う。

 

なにより、この光秀には、光秀にふさわしい強い意思が感じられた。迷いのない自信に満ち溢れた姿、眩しすぎる。悲劇性よりも強い意志を前面に出しているのは、新鮮で、衝撃的。
なぜ光秀は「強い意思」と「迷いのない自信」を持っているのか? これはまず、浄瑠璃への深い解釈によるものだと思う。「尼ヶ崎」の光秀は大きな慟哭をみせるが、これはあくまで母さつき、息子十次郎を失うことや、それを嘆き悲しむ操・初菊の姿に打たれてのことだ。混同してはならないのは、彼の信念は揺れてはいないこと。母に強く非難されるような「逆賊」となったこと、つまり主君を討ったことが本当に正しかったのかの煩悶は、「尼ヶ崎」より前の「妙心寺の段」で終わっていて、すでに光秀の意思は定まっている。そこはきっちり区別しなくてはならない。この大枠がきっちりと定まっていたと思う。その場その場の文章を逐次的に追う即物的な芝居では、この姿は描き得なかっただろう。

でも、そういうロジカルなこと以上に、玉志さんご本人が、自分が舞台の柱になるという自信をもって主役を勤めていることが、この輝きのいちばんの光源だと思う。近年の好配役、そしてここ数ヶ月の松王丸、熊谷、冨樫といった連続しての大役の経験が、舞台の大黒柱、主役としての自信に繋がったのか。もともとあった所作の綺麗さや芝居の丁寧さが、グンと伸びた印象がある。いままでの玉志さんに欠けていた主役への自信が加わったことで、芸の次元が高まったのではないだろうか。

個人的には、単に「上手い」だけでなく、ご本人が元来お持ちだった、佇まいの清らかさやみずみずしさが消えることなく、より一層輝いていたのが良かったです。あの「若い」雰囲気は、本当に玉志さん独特。絶対にオッサン臭くならない、永遠の青年のようなまっすぐさ。近年の成長によって人形の華奢さは消えたけど、清潔感と透明感は保ったままというのが、なにより素晴らしい。玉志さんには、ずっとキラキラしていてほしいです。

 


Bプロの玉助さんは演技が曖昧になっていたり、間違っている箇所が多いのが気になった。それぞれの所作の意味をわからずやっているのでは。「尼ヶ崎」は近年も高頻度で出ているので、いい加減にやると客にバレる。これまで雑にやってきたことの必然的結果だろうけど、現状、「若手」と比較しても「下手」になってきている。
そりゃ、過去の記録映像を見ると、「下手」なのにやたらいい役をもらっている人もいる。でも、そういった「悪い例」を踏襲する必要はないと思うんですよね。悪いことは手本にならぬ。自分の魅力を押し出したいという考えにせよ、まず、「上手く」なることは目指して欲しい。それでこそ、頂いた名跡にふさわしい姿なのではないでしょうか。

 

 
 
 
 
 
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操役のおふたりは、鑑賞教室で一番のチャレンジをした方々だろう。上手いけどいい役がこないという人たちが、いかに大役を張れるか。

Aプロ簑一郎さんは、質朴な佇まいの奥様。武将の内室ながら、ぽっと出の普通の人寄りである(操は事実そういう設定のはず)。1度目と2度目のクドキを区別していたのが良かった。簑一郎さんには珍しく、小道具の取り扱いに焦りがあった。大役のプレッシャーと戦っているのだろうか。取り落としなどは左の人が拾ってフォローしていた。

Bプロ清五郎さんは、清楚で美しい奥様。上品な雰囲気が良い。1度目のクドキでは、竹槍を持つ振りを派手すぎにしないなど、過剰さが抑制されており、涙に暮れている雰囲気が出ていた。ただ、2度のクドキの区別がついていない(2回目のクドキの情感が薄い)のが惜しい。息子が死にかけている状況で、そんなに落ち着いていられないのでは。これは床の問題もあるので、一概に人形だけを批判できないが……。清五郎さんは本当に上手いし、ほかの人にはない洗練性と気品もある方なので、頑張っていただきたいと思っています。

 


さつき

Aプロのさつきは玉也さんが登場。
「夕顔棚の段」、会期当初は、妙見講のツメ人形たちが帰っていたあと、屋体を出て下手の床几へ座るまでのあいだに、床几の前に出ている夕顔の鉢をさわっていた。しかし、会期中盤からは鉢に触らなくなった。そのかわり、井戸を覗き込み、夕顔の棚を見上げる時間をたっぷりめにとり、屋体を出るタイミング含めたコントロールがされていた。あの夕顔の鉢とじょうろ、出さないこともあると聞いたことがあるが、なるほど、そもそも触らない人がいるということね。
ところで、玉也さつきは、わりとずっと死んでいた。さつきレギュラー・勘壽さんの場合、かなり終盤になるまで体は上げ気味にしており、「ウウ……」と少しだけ動いている。しかし、玉也さんはうつ伏せになったまま動かないようにしていた。あいまにさつきをパッと見たとき、「もう死んでる!?」と思ってびっくりしたが、呼ばれたら少しだけ起きて動くという、寝ている猫式のムーブだった。舞台手前側にいる主役たちを引き立てるためだろうか?

Bプロさつきは清十郎さん。芝居自体は良いとは思うが、上半身の姿の崩れが気になった。構える位置が低すぎて衣装が不用意にもたついているのではないか。前半の普通の場面でも身のかがめ方が手負と同じなので変化が出ず、なにやってんだかわからない。最近、清十郎さんにはよくある傾向だが、どういう意図なのだろう。まったく良いと思えない。

 


十次郎

十次郎が良かったのは、Bプロ・玉翔さん。幼いともとれる若武者の、ウルウルな瑞々しさがよく出ていた。裃・鎧・手負できちんと演じ分けがされており、十次郎という役のもつ魅力もよく出ている。玉翔さんは若手会で十次郎をやった経験も大きいだろうけど、そもそも若手会の時点ですでに上手かった。師匠をよく見ていたんだろう。
裃のときの扇の扱いを詰めていけば、もっと良くなりそう。声を上げて泣く初菊を諌めるため床を扇で「ぺし」とするところ、気をつけないと、床に御器被り(マイルド表現)がいるみたいになっちゃいます。うちに御器被り(マイルド表現)出たときは玉翔呼ぶわ。

Aプロ・簑太郎さんは、初日は「勘十郎どういう指導しとんじゃ!!!」と、わたくし大激怒な状態だった。客席に普通に勘十郎さんいたが。好みや感覚的なことではなく、人形を構える高さがあからさまにおかしい、場面ごとの遣い分けがないなど、具体的なNGのある遣い方をしてしまっていた。しかし、最終的には、かなり改善された。なにがダメだったのかをご本人がよく理解されて、ひとつひとつに向き合って対応されたのがわかった。その点、12月で一番、改善への取り組みを頑張った方だと思う。

 

初菊

Aプロ紋吉さんはおとなしげな雰囲気で、ご本人の良さが出ていた。目線がとてもけなげで、十次郎を一心に想っている初菊の少女らしい気持ちが表現されていた。会期当初は振りが小さすぎたり、コマ飛びのように硬くなってしまっている部分があったが、後半かなり改善されたのも非常に良かった。紋吉さんはたとえ緊張していても、動きのテンポをきちんと保っていて、無理な大振りや勢いつけがないのが良い。

段切、「その黒髪をあへなくも切り払ふたる尼ヶ崎」で初菊が切髪姿で出て十次郎の遺体の上に切った髪を置く場合があるが、その出る出ないは誰が決めているのか。今回は出なしだった。

 


旅僧 実は 真柴久吉

真柴久吉は、うーん、難しい役なんだなと思った。両プロとも、陣羽織になってからの貫禄と凛々しさが非常に難しい状態。そもそも人形を支えられなくて、動くごとに体幹がゆらゆらしてしまっていた。加藤正清を呼び出すところでも、後ろ姿でT字になるところ、横顔で逆K字になる型が綺麗に決まらず。演技の難易度自体が高いのか、人形の重量的によほど立役の修行を積んでいないと持ちきれないのか。久吉は「わりとどうでもいい」配役になっていることも多いけれど、然るべき人が遣わないと、話がわけわかんなくなると思った。

Bプロ勘市さんは技量のある方だけど、勘市さんでもこれかと思ったのが正直なところ。勘市さんの場合、旅僧姿のところは上品でよかったので、陣羽織姿がいまいちだったのは、重量問題だと思う。頭よさそうなのは良かった(こう書いている私の文章が頭悪そう)。

 

 

 
 
 
 
 
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床は若手会状態。しかし、それは悪いことではない。

太夫陣は、「尼ヶ崎の段」に出ている人たちは特に、浄瑠璃の展開・構成に応じた「こういうことがやりたい」という意思がわかる語りだった。十次郎を『本朝廿四孝』の勝頼と区別する意図も感じられた。おそらくそう指導されているのだろうけど、「十次郎と勝頼は違う」と考えていること自体がわかったのは、良かった。力加減はまだ迷走気味で、実際の演奏にベストな形で出ているわけではないけれど、やりたいことがよく伝わるというのは、良い。

Aプロ・睦さんは、語尾の処理が配慮されていて、消え入りや力みで変化がつけられていた。ヤスさんは11月の冨樫は残念だったが、今回の尼ヶ崎後では、力任せの語りを封印して、ことばひとつひとつひとつに向き合って真面目に取り組んでいるのが良かった。出だしの低い音の無理矢理感もおさえられつつある。

Bプロの尼ヶ崎2人、小住さんと芳穂さんは、十次郎をかなり高めにいっているのと、語尾の処理に相当気をつけているのが特徴。「とりあえず大きい声で」に走らず、細部への注視があった。小住さんは特にディティールへの意識がなされていた。錦糸さんが指導したんだろうけど、観客に「聴かせる」ためのテクニックを習得しようとしているようだった。どこかの過程で、テクニカルな部分にまじめに向き合う時期は必要だと思う。

三味線は、「尼ヶ崎」の前のほうに上手い人が配役されていた。十次郎の憂いはある程度の人でないと弾けないということだろうか。普通にちゃんとしてますな。唐突出現する錦糸さんが当たり前のように唐突上手いのは、笑えた(当たり前)(錦糸はおもしろコンテンツじゃない)。
後は、両プロともに演奏ミスが多すぎるのではないだろうか。段切付近がかなり怪しい。表現技術も、戦物語の絢爛さ、女性登場人物が連続して話す部分の弾き分けが、ちょっとどうかと……。ただ、いずれの方も、会期後半にいくにつれてだんだん改善されたので、今後頑張っていただくということで、と思った。

 

 

なお、今月の軒下の夕顔の実は、おいしそうだった。ヘチマにしか見えないことが多い中、今月は炊いてそぼろがけしたい感じの夕顔の実になっていた。色の問題?

 

 

Aプロ]

  • 解説
    豊竹亘太夫、鶴澤清公
  • 義太夫
    • 夕顔棚の段
      豊竹亘太夫/鶴澤清公
    • 尼ヶ崎の段
      前=豊竹睦太夫/野澤勝平
      後=豊竹靖太夫/鶴澤清馗
  • 人形
    母さつき=吉田玉也、妻操=吉田簑一郎、嫁初菊=桐竹紋吉、旅僧 実は 真柴久吉=吉田文哉、武智光秀=吉田玉志、武智十次郎=吉田簑太郎、加藤正清=吉田和馬

 

[Bプロ]

  • 解説
    吉田簑太郎
  • 義太夫
    • 夕顔棚の段
      竹本碩太夫/野澤錦吾
    • 尼ヶ崎の段
      前=竹本小住太夫/野澤錦糸
      後=豊竹芳穂太夫/鶴澤清馗
  • 人形
    母さつき=豊松清十郎、妻操=吉田清五郎、嫁初菊=吉田玉誉、旅僧 実は 真柴久吉=吉田勘市、武智光秀=吉田玉助、武智十次郎=吉田玉翔、加藤正清=吉田玉路

 


総体としては、Aプロは出演者の努力がうまい方向に噛み合って花開き、爽やかな見応えだった。それぞれの人のやりたいこと、意思が同じ方向を向いているというのが、とても良かった。
Bプロは個々に良い人はいるが、物語としてのうねりや太い軸が作れず、散漫な印象だった。自分はAプロにばかり行っていたので、Bプロは出演者の向上度がどうだったかは追えなかった。自分が観た日は頑張り中なのかなという感じだった。

 

東京12月公演は、いわゆる「お勉強」のための奨励配役、下駄履かせキャスティングになっていることが多い。しかし、今月の玉志さんの光秀は、どこへ出しても恥ずかしくない立派な光秀だった。

私は、光秀は玉志さんのよさを打ち出せる役だとは思っていなかった。すでに意思が固まっていてバタバタした動きの多い「尼ヶ崎」の光秀より、「陣屋」の熊谷のような、重層的で内向的な人物のほうが性質に合っていると思っていたのだ。光秀なら絶対「妙心寺」のほうが合ってるでしょ的な。しかし、今回の「尼ヶ崎」の光秀がここまで劇的に素晴らしいとは、本当に驚いた。真逆だったのだ。人形の姿勢と所作にこだわり、どこでどう動くか、それはどのようなドラマや内面性と結びついているのかを細かく研究している玉志さんには、「尼ヶ崎」の光秀は、適性が高い役だった。ひとの可能性というのは、計り知れない。

そして、この素晴らしさは、偶然ではない。玉志さんがこれまで何十年も積み重ねてきたもの、近年連続して大役を得たことによる、本質的な実力の上昇だと思う。
本当に、あまりに立派で……、木登りのメリヤスの演奏がはじまり、光秀が振り返って伸び上がる姿に、ああこの人は、光秀にふさわしい、本当に立派な人形遣いになったのだと実感した。競合できるのは、もはや玉男さんのみだろう。洗練性、姿の美しさへの評価でいうと、すでに現代文楽の立役の頂点だと思う。ふだんはどの人にも単なる絶賛はしないようにしていますが、今回ばかりは、激賞させてください。

かねてから玉志さんは師匠の芸を敬愛し、受け継ごうとしているのだろうと感じてきた。ずっと師匠の後ろ姿を追い求めながら、たんなる真似ではない自分の世界を作ろうとしてきたのだと思うけど……、玉志さんは、今回、本当の意味で、初代吉田玉男の芸を継ぐことができたのではないだろうか。

 

ところで、話がいきなり急降下して申し訳ないんですけど、継承すべきことの継承がなされない場合もありますよね。さきほど、「尼ヶ崎」はよく出る演目なのに芝居を覚えていないとは不勉強だという旨を書いたが、覚えてないっていうか、芝居の段取りの仕組みそのものを知らない人がいるんでは???と思った。
今回わかりやすい点では、段切、光秀と久吉の振りが揃うところで、片方の人が根本的に違う演技をしちゃっている状態になっていることがあった。二人の演技が同じ(揃えてやる必要がある)ことは、漫然と資料映像を見て、なんとなく自習しているだけでは、わからないと思うんですよね。師匠・先輩から教えてもらうか、実際に自分も立ち会った舞台でよく見ていないと、知り得ないのかなと思った。部外者からすると、舞台稽古でできていなかったら、教えておいたほうがいいのではと思うんだけど、知っててもできない(演技を忘れてごまかしに走っちゃう)ということなのかな。
とはいえ、ある人は、会期中に相手役の人を見て真似てやるようになったので、おっ、気づいた? 誰かが教えた? と思った。

 

それにしても、「尼ヶ崎」、やっぱり、浄瑠璃として面白い。ドラマも曲も演出も、本当によくできている。誰がやってもある程度のものになるし、上手い人がやればものすごく充実感のある舞台になる。次回「尼ヶ崎」を観るときには、誰がどこへ出るのか、楽しみにしたいと思う。

 



 

 

今年は「外国人のための文楽鑑賞教室」へも行った。

本年の司会はクリス・グレンさん(ラジオDJ)。東京での外国人向け公演の通例通り、司会は英語、技芸員〈桐竹勘次郎〉は日本語(要約字幕あり)での進行だった。これまた例年通り、英語はネイティブでなくともなんとなく聞き取りできるような話し方にされていた。文楽の専門用語は字幕で解説が出ていた。

司会者としてもうまい人だったが、クリスさんは人形遣い体験での早打ち(雅楽之介)の人形の差し上げ方が普通にうますぎて、驚いた。人形遣い体験で素人がまず失敗するのは、人形の高さが十分でないこと。クリスさんは、なんなら、本職より上手かった。リハーサルしているといえど、あんなにまっすぐに高い位置に差し上げられるとは……。普段、私が「人形が立ってんのか座ってんのかわからん」と大激怒しているのは、一体……。と思った。

クリスさんは、戦国史や甲冑の研究がご趣味だそう。そういうご縁で今回の鑑賞教室『絵本太功記』の解説オファーを受けられたんでしょうか……? その視点から、『絵本太功記』の世界観について喋ってもらっても面白そうでした。

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*1:もちろんこれらは玉志さんひとりでできることはでなく、左や足あっての美しさ。光秀の左の人、決めの姿勢はものすごく綺麗だった。玉志さんの速度やキレにも合っていて、かなり頑張っておられたと思う。ただ、小道具の取り出しタイミングが毎回のようにやたらギリギリで、遅かったのは、なぜ。AプロBプロ同じ人のように思えたので、それぞれの光秀役の人の違いで混乱していたのか。扇はもっと早く準備してほしいです。足はいわゆる「いつもの子」ではなかったと思うけど、頑張りが実を結んでいた。しっかり地面を踏みしめて座り、歩いていたのが、良かったですね。

*2:なおこの竹槍、初日にちょっとしたトラブルがあった。光秀が竹やぶから竹を刈り取った際、仕掛けが外れて上の枝も一緒に落ちてしまい、その時点で「竹槍」になってしまったのだ。枝を払う演技が抜ける時間をどうごまかすのかと思って見ていたら、舞台前面に出てからすぐに竹槍を真横に構え、それをじっと見つめて決意を示す演技に変更していた。ツケ打ち、穂先を髪にこすりつける演技はカット。枝を払うことを知らない人は、もとからそういう演技だと思っただろう。
ちなみに、なぜ私が竹槍をこすりつける演技とその意味を知っているかというと、玉男様がトークショーで「師匠がやっとった」的な説明をしてくれたからです。『絵本太功記』についての玉男様セルフ解説はこちら。→文楽 赤坂文楽#19『絵本太功記』尼ヶ崎の段 赤坂区民センター - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹