TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 2月東京公演『鶊山姫捨松』『壇浦兜軍記』国立劇場小劇場

なぜか拷問もの2本立ての第三部。両方とも最近大阪で出たばかりの演目なので、東西の配役違いによる比較や2公演見ての感想を中心に書きたいと思う。

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鶊山姫捨松。大阪で11月に出たときから岩根御前・大弐広嗣・父豊成卿の人形配役を変更して上演。

 
 
 
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大阪公演での「イチスケ頼む、しゃがんでくれ!!!(号泣)(無理)(別にイチスケのせいじゃない)」事件を考慮した上で席を取ったので、ラストシーンも全員見えて大満足だった。*1

 

という話は置いといて……、自分の席が「主観的に」中将姫〈人形配役=吉田簑助〉がものすごく美しく見える席で、ひとりで勝手に感動した。文楽で人形をよく見ようと思ったら、普通、センターブロック中央付近の席が一番いいと思う。人形は正面に向かって演技をしているから。でも、人形が一番美しく見える角度というのはそれだけじゃないんですね。取った席は、舞台中央にいる中将姫に対してかなりの角度がつくような場所だった。本来は人形を見るのには「よろしくない」席である。しかし、そこから見たときの、姫がからだを地に低く伏せ、頭をかしげて頰が雪につくすれすれくらいまで下げたときの表情があまりにも美しくて、驚いた。中将姫は娘のかしらの中でも結構細面のものを使っていると思うが、そのすっとした顔立ちが本当に美しくて……、本物の姫を見た気分だった。ああ、いま、中将姫のこの美しさを見ているのは私だけなんだ。満席の観客席の中で、私だけが姫の本当の美しさを知っている。いま、世界には姫と私しかいない。私だけの秘密。優越感を得た。

簑助さんって、もはや妄執の世界の人だと思う。中将姫が自分を打擲する奴たちにすがりつくところの表情見ました? この世のものじゃない。あのとき中将姫は人間では絶対にできない姿勢、かなり不自然なからだのひねり方と首のねじり方で、人形で見てすらおかしいと感じられるほどの異様な姿勢をしているのだが、そこに不気味なくらいに惹きつけられる。あきらかにおかしいのにそこに目が釘付けになる。使っているのはなんの仕掛けもない娘のかしらなので、ただ口元に微笑を浮かべているだけで、無表情である。しかしそれがこの世のものではない蠱惑的な表情で、奴たちはたかだか15、6歳の中将姫の気迫に押されて引き下がるわけだが、それがよくわかる悪魔的な美しさ。浄瑠璃自体からすると中将姫はひたすらに清浄なイメージで、ピュアでクリアな造形であることが正しい。いや、簑助さんの今回の中将姫もたしかに限りなく清浄なんだけど、それがいきすぎて世俗で淀んだ人間の目で見ると悪魔的になっているというか……。簑助さんは、「正しさ」はもういらない境地なんだなと思った。

 

大阪・東京と見たことで気づいたのは、冒頭で浮舟が「(文は)コレこゝに」と言って桐の谷の胸元を触る部分、あれ、懐に手を差し入れようとしているのかと思っていたけど、桐の谷が差している懐刀の袋に触っているのかな。あの袋の中身は刀ではなく文だということなのだろうか。かねてから桐の谷だけが懐刀を差しているのが不思議だったが、そういうことなのかな。そのあとで桐の谷と浮舟が左右に分かれて広げる巻物、今回は席がよかったので文章の内容まで見ることができた。あれやっぱり姫から桐の谷への手紙なんですね。あれだけのクソヤバ長文手紙をしたためてはオタ女なら最後に「乱筆乱文失礼しました」と書かなくてはいけない気がするが、そこはさすがに姫なので「あなかしこ」でしめられていた。それともうひとつ、後半の浮舟の2回目の出で、広嗣に命じられて中将姫を破竹で打擲しようとするところ、姫を打つ(フリをする)直前に、一瞬、姫にこしょこしょとなにか耳打ちして、姫もうなずくんですね。中将姫がいったいどのタイミングで腰元二人の計略を承知したのかわからなかったが、ここで死んだフリを頼んでいるということかしらん。

 

変更された配役に関して。大阪で観たとき、亀次さんの広嗣があまりにヒョイヒョイ出てきたので不思議に思っていた。広嗣はコッパとは言えど公家のはずだが、これは元々継承されている役の性質設定によるものなのか、人形遣い個人の解釈なのかと考えていたのだが、今回配役が清五郎さんに変更になったことによってわかった。元々の設定ということね。清五郎さんは普段ヒョイヒョイした動きをしない人なので、そういうことなんだと思った(突然の清五郎への全面的信頼)。

それと同様のことでもうひとつ疑問に思っているのは、大阪・東京共通配役だった桐の谷〈吉田一輔〉と浮舟〈桐竹紋臣〉の違い。桐の谷と浮舟はともに右大臣家に仕える腰元だが、配役を見ると桐の谷のほうが格上の役。単にやることが多いというだけではなく、浄瑠璃自体がそういう設定、役職的に桐の谷のほうが高い設定だからだと思う(現行上演がない部分で桐の谷が屋敷の使用人の給与査定面接をするシーンがある)。でも現行の上演ではそれはほとんどわからなくなっているし、特に冒頭は演出上シンメトリーで演技するので双子の姉妹風に見える。が、じっと見ていると結構様子が違っていて、特にラストシーンでは雰囲気に差が出ている。これが元々の振り付け(設定由来のもの)なのか、人形遣いの個性もしくは本人の考え(相手を見て判断していることも含む)によるものなのかと思ったのだが……。そこが知りたかったので、東京公演では一輔さんと紋臣さんの配役をひっくり返して欲しかった。お二人の現状の立場からすれば配役が逆になることは通常ありえないのは理解しているけど。

話の順番が逆になったが、桐の谷と浮舟はさすが通しての配役なだけあって非常に洗練されており、東京公演後半では大変上品で艶のある演技を拝見できた。大阪公演では娘っぽさや可愛らしい印象があったが、かなり大人っぽく薫る方向にきていた。でもやっぱりキキララみたいで可愛かった。

最後の姫と豊成卿の別れの部分が大阪と少し違うように思うのは、豊成卿の配役が玉男さんから玉也さんに変わったからだろうか。玉也さんははじめのほうから結構姫に迫るように演じていたように思うが……、大阪はとにかく「イチスケ、背中の広い男……💓」状態だったんで、実際のところはよくわかりません……。

 

しかし東京公演で一番びっくりしたのは千歳さんの変化。大阪公演のときは、正直、無理してるなあと感じていた。頭の「あらいたわしやの中将姫」とか、本来一番重要であろうところが聞いていられなかった。頑張っているのはわかるし、富助さんがフォローしてるからなんとかカタチにはなってるんだけど……、まあ人形陣が良いからいいかと目(耳?)をつぶっていたのだが、東京公演は驚異的に自然になっていた。若い娘、しかもちゃんとか弱いお姫様の声に聞こえる。すごい。驚いた。千歳さんは声域的に若い姫の声のような高音が出ないんだろうなと思っていて、いや、今回もそれ自体は出ていないんだけど、語り方でカバーできるんだな。本来不得手なはずのものも、経験や稽古で自分のものにしていけるんだなということを目の当たりにして、義太夫っておもしろいなと感じた。

 

↓ 2018年11月大阪公演の感想

 

 

 

壇浦兜軍記。1月大阪公演からは榛澤六郎の人形配役が変更、畠山重忠ダブルキャストなし。

 
 
 
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やっぱり勘十郎さんは狂ってると思った。琴、絶対弾いてるだろ!!!!!! 「手が当たることもありますぅ❤️」とか、しらばっくれブリッコには誤魔化されんぞ!!!!!!!

その証拠に大阪より相当上手くなってるじゃねえか!!!!!!!!!!!!!

ほんま大阪より琴が上手くなってて、このおっちゃんマジでやべえなと思った。ひけらかした上でやるならわかりますよ、わたしは文楽であっても歌舞伎と同じように琴を稽古してますとプロモーションのために大々的にアピールするなら。でもそうじゃなくてただ勝手にやっているのがやばい。なんで?

琴を本当に弾いたからって人形の見栄えが良くなるわけではない。むしろ大げさな演技にできなくなるので見栄えは下がるだろう。琴の音も阿古屋の目の前の数人の客にしか聴こえない。にもかかわらず、なにが勘十郎さんをあそこまで駆り立てるのだろう。狂気としか言えない。すばらしい阿古屋はいままで大師匠たちのそれを見てきた、だから同じことをしても意味がない、自分だけの、自分にしかできない阿古屋を作り上げたいと思っていらっしゃるのか。阿古屋本人や役の持つ性根を凌駕する、やばすぎる執念。これぞ勘十郎さんだと思った。勘十郎さん自身が詮議の場に引き出されてもあのように三曲を弾ききるのだろう。

演技自体でいうなら、三曲のあいまの重忠の尋問への応答の演技がとても艶麗になっていて、すごくよかった。勘十郎さんは普通の演技では人形のからだを大きくひねるような遣い方をあんりされないと思うけれど、今回はかなりのしなを作った濃厚な振りにされていた。ただ白洲に入ってくるときなどはやっぱりちょっと可愛いね。

 

津駒さんが全体的に大阪よりさらに濃厚で華麗な方向に振っていて、おお、と思った。ご自分自身の芸への検討の結果そうしているのもあると思うんだけど、勘十郎さんの阿古屋に呼応して演技を盛ってるのかな、進展させたのかなと思う部分があった。むこうがそう来るならこっちはこうする、だからそっちももっとやれ、といったような。この過剰感が津駒さんらしい。「阿古屋」は阿古屋の人形遣いと三味線の三曲担当者に注目が集まるが、阿古屋の太夫も大変だよね。三曲歌わなくちゃいけないから……。津駒さんは観劇したどの回も美しく歌っていらっしゃって、さすがわたしたちのお局様(?)って感じでした。ところで津駒さんの見台についているフサフサ、新品ですかね。あと、津駒さんていつも(> <)で汗だくになっているイメージだけど、よく見ていたら口上で「たけもとつこまだゆ〜」って呼ばれてる時点ですでに汗かいてた。津駒さんがどの段階から汗をかいているのか気になる。

ほかに「変えてきたな」と感じたのは半澤六郎役の小住さん。大阪初日・二日目ではご自身の元来持っているものを素直に出して語っている印象だったが、東京公演で聞いたら、役を作りにいっているように感じられた。具体的には、半澤六郎の若い印象を押し出しているというか。ちょっとちゃらっとした感じに振っていた。なるほど、小住さんが素直に語ってしまうと、畠山重忠と競合してしまったり、あるいは本来格上であるはずの岩永左衛門よりも貫禄が出てしまう。それに半澤六郎は浄瑠璃全体からすると重忠の部下のなかでは下のほうのはずだし。人形も今回は玉佳さんから玉翔さんになって、ピチッとしたし。それでちょっと語りを変えてきたのかな。別にご本人に聞いたわけじゃないから、わかんないですけど。

ほか、重忠役の織太夫さん、岩永役の津國さんも密度が上がっていて、床は本当大満足だった。役の個性がよりはっきり出ていて、聴き応えが大幅アップしていた。素浄瑠璃でも聴きたいくらい。

三曲〈鶴澤寛太郎〉は演奏の間合いを日によって少し変えているのだろうか。お客さんの反応を見ているのかな。そのときの自分の相対的な感覚なのかもしれないが、胡弓が特に違うように感じた。胡弓は大阪の初日で聴いたときよりはるかによかった。

 

↓ 2019年1月大阪公演の感想

 

 

鶊山も阿古屋も、浄瑠璃自体を超えたすさまじい妄執の世界が展開されていた。文楽の場合、見取りだと半通しに比べて興行として軽い印象になるけれど、今回の第三部はかなりコッテリしていて、座っていただけなのになぜか達成感。出演者も力が入っており、両方とも大阪公演を上回るパフォーマンスで、大満足だった。

 

 

 

国立劇場の刊行物で『文楽のかしら』と『文楽の衣装』というのが出ているが、これに加えて人形の髪型の図鑑本を出してくれないだろうか。今回の桐の谷と浮舟や『菅原』の三兄弟の妻たちのように、一見、似たような姿で出てきながら全然違う髪型や簪の挿し方をしている人形も多いから、よく見たい。髪型は相当良い席で、しかも双眼鏡を使わないと細かいところまで見ることができない。とくに女方の人形で後ろ側の結い方がどうなっているかはたとえどれだけ良い席であっても細かく見ることは難しい。人形を間近で見ることって単なる客にはとても難しいし、人形遣いさんのトークショーに行くと髪型も解説してもらえるが、そういう機会はレア。単に美的な観点から見たいというだけでなく、知識として、髪型から身分等の人物像も判別できるじゃないですか。正面・左右・上・後ろからの写真に解説をつけて、人形の髪型を一冊の本にして欲しい。

 

 

↓ 本公演に関する勘十郎さんのトークイベント

  

 

*1:イチスケはまだかわゆい。以前、忠臣蔵であまりに下手前方の席にしすぎて、判官切腹の最後のシーン、由良助をはじめとしたすべての人形が玉男様(由良助役)の影に隠れてまじで全然見えず「きょうは玉男様の背中を見にきたことにしよう。玉男様を見にきたこと自体は間違ってないし。」となったことがある。内子座で……。