TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

くずし字学習 翻刻『桜御殿五十三駅』大序 御狩場の段

『桜御殿五十三駅(さくらごてんごじゅうさんつぎ)』は、近松半二・栄善平・寺田兵蔵・松田ばく・三好松洛による時代浄瑠璃
近松半二の作品としては、『妹背山婦女庭訓』の次に執筆・上演された円熟期のものである。室町時代を舞台に、愚かな将軍兄弟とそれぞれ思惑のある家臣たち、足利家に恨みを持つ反乱分子、若者たちの忍ぶ恋といった、絢爛たる時代浄瑠璃世界が描かれている。

 

物語は、将軍・義政公がお気に入りの家臣や鷹匠・太郎治を連れ、鷹狩りに出かけるところから始まる。のどかな狩場を訪ねてきた左大臣・政次公は、かつて天下転覆を狙い、足利家に鎮圧された赤松満入の残党が不穏な動きを見せていることを義政に知らせる。その政次公の娘・薫姫は、勅命によって義政の弟・左馬之助の許嫁と定められていた。薫姫は義政にすでに引き取られてはいるものの、正式な婚礼はまだ行われていない。政次はその婚礼も急ぐように告げ、狩場を去っていく。
……というのが、大序の内容。

 

本作には、文楽現行作品にはないような、とある過激な展開が含まれている。近松半二作品の中でももっとも過激で、勢いのある部類だろう。はじめて読んだときには、廃曲になった作品にもこんな面白く、現代的感覚をもった作品があるのかと驚かされた。なんだかんだいって時代浄瑠璃は典雅で品のあるものというイメージがあったが、この作品には、大映東映が1960年代に放った、ギラギラと燃え上がるような若手監督・俳優を起用したエネルギッシュな時代劇映画を彷彿とさせるものがある。

丸本は出版当時、その過激な内容に対して幕府の規制を受けたとみられ、内容を無難に改訂したバージョンが後日出版されている。そのため本作の丸本には、内容に複数のパターンが存在しているが、今回の翻刻はもっとも原型に近いと思われるものを使用している。(というか、最後まで読んでから内容を詳しく調べたときに、自分が読んでいたのがもっとも原型に近い部類の本であることに気づいただけだけという結果論なんだけど……)

かなり長い浄瑠璃なので全編掲載にまでは時間がかかるが、牛歩でがんばるので、どうぞお楽しみに。

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  • 捨て仮名、句読点はそのままとして、字体は現行に改めている。
  • 文中■は判読できない文字。
  • 画像引用元:<亭主は東山殿/上客は一休禅師>桜御殿五十三駅(東京大学教養学部国文・漢文学部会所蔵 黒4142-0449)
  • 参考文献:国立劇場芸能調査室=編『浄瑠璃作品要説<3>近松半二篇』国立劇場/1984

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亭主は東山殿/上客は一休禅師 桜御殿五十三駅  座本 竹田栄蔵

頃は文安春の空。雪も余の豊津年。御鷹狩の再宴と今日思し立ツ朝霞。召も定めぬ玉ぼこの草踏分クる武者草鞋。出立君臣わかちなく。皆一チ様にあやしの容。並行跡に御ン鷹匠。拳に居し鷹の名も。入リ波という秘蔵の翼獲物は。鶴を初めとし。あらゆる鳥を担ひ連レ兼て。構への御ン休み所暫しと。腰をかけらるゝ。上杉則忠謹

 

 

 

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で頭をさげ。御ン鷹入リ波今ン日の手柄。近来に覚へぬ獲物。君にも嘸御満悦と。申シ上クれば義政公いよ/\御機嫌麗しく。いざ折リよしと浅川左膳。御ン小竹筒盃を取リあへず捧れば。斯波多門の頭義廉が披て上クるお弁当。賎しき業を興とする貴人ぞ。いづれ貴人ンなり。遥むかふの森陰より風に靡きて真鶴の。羽打ツて来るを浅川左膳。あれこそは取リ得たる。鶴の番と覚へたりと。聞イてぬからぬ鷹匠太郎治。空にうたんと眼をくばり。拳を構へ待チ居たり。御ン大将声涼しく。只今見付ケし大鳥は。一ト矢を以て射て取レよと。聞キも
 

敢ず多門の頭弓矢をつがひ覗ひをかため。切ツて放せばあやまたず。空も遥に真鶴の片羽をぬふて落てげり。直様士卒取リ上ケて上覧に備ふれば。猶も酒宴のいさましく各。興に入ル折リから。遠見の侍イ走り付キ御前ヱに頭をさげ。扨も此度ヒ二條左大臣政次公。志賀の社へ御代イ参ンの帰りがけ。君の御遊を聞コし召れ。此狩場へ御入有ツて御内談の趣有ル由。早速に御注進と。言上申シ立チ帰る。上杉則忠気色を正し。左大臣政次公は御一チ門ン同然なれど。御遊の装束礼服に改め御対面有べしと。申シ上クれば御大将実尤と諸士引キ連レ。鷹匠には休息と仰も重き紋所。風に靉靆幔幕をしぼらせ。てこそ入リ

 

 

 

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給ふ。程も有ラせずこなたより行列美々しき御乗物。左大臣ン殿御入リと声冴かへる道芝に各足をとゞむれば。慢幕の内よりは御大将を始めとし。続て上杉斯波浅川違義を正し迎ふれば。二條左大臣政次公狩屋の床を儲の座。悠々と座し給ひ互イの。礼義事終り。此度ヒ帝の代イ参ンとして。志賀の社に幣吊を納め都へ帰る途中の噂。先キ達ツて亡びたる赤松満入が残党。辺鄙の在郷に隠れ住ミ兼て事を斗ル由。下タ々の取沙汰大方ならず。禁庭へ聞コへなは震襟をなやまし。堂上穏ならざる事目下と存れば。武将へ得と知ラせ度ク道をよぎりて此狩場へ。わざ/\駕を向へしといと懇にの給へば。大将ハツト頭を下け。先キ達ツ
 

て勅命下り。御息女薫姫殿を我カ弟左馬之助に娶せよと。則養子と定められとくより館へ引キ取リしが。内イ縁ン有ル此義政外カならず思し召れ。御内イ意の深切恐悦至極と述らるれば。政次公打チくつろぎ。我カ娘かほる姫事。貴殿へ任せし事なれば心任せたるべけれど。勅命の恐れ有レば遠からぬ内婚姻の義式を調へ給はれと。親子の道のいつくしみ何れ。劣はなかりける。ハ丶御尤なる仰。此度ヒ金ン閣寺造営成就に付キ。当今の御弟宗純法親王をむかへ入レ奉り。続て息女かほる姫と舎弟が婚義調へん。御安ン心ン下タされと事をわけたる御ン詞。政次

 

 

 

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公も笑の眉。此上は赤松が残党の逆徒を。治めるが肝要たり。ホ丶其義は兼て大将の思慮をめぐらし給ふ所。斯いふ上杉並居る両人ン。斯波多門浅川左膳。山名の一党ひかへ有レば恐るゝに足ぬ残党。日を待タず切リしづめん。御心安かれと。詞を揃へ三士の面々さも潔く聞コへけれ。左大臣殿勇み立チ。各々の忠勤も。委しく奏問申スべし。いざや帰館と立チ向カふ。雲井の袖や武門の袖。花ををくらぶる礼義の形チ。大将初め並居る諸士見送クる行烈小松原緑り栄へる君が代の。御遊も鷹のいさましく。八十氏川の末ひろき誉れぞ。猛き。久かたの

(つづく)

 

文楽 4月大阪公演『花競四季寿』『恋女房染分手綱』国立文楽劇場

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◾️

花競四季寿、オールシーズンフル上演。

 

春、万歳。

なぜあの二人は手をつないで入ってくるのか。どういうシチュエーションなのだろう。たまに才蔵でイヤイヤしてる人がいるので、「仕事したくなーい」という才蔵を太夫が引っ張ってきているという設定なのだろうか。
上演内容については、フラフラしとる人形がおる! がんばってもらうしかない! と思った。

 

夏、海女。

ほかは見たことがあったが、海女は初見。
暗い夜の浜辺に月が上り、やがて夜が明けて霞に満ちた朝を迎えると、海女〈吉田勘彌/前期〉が姿を見せる。
『平家女護島』の千鳥と同じ蜑の着付で、白に赤のヒトデ柄の小袖に、水色のイソギンチャク柄(?)の帯。貝が入ったバスケットを持っている。今月は貝がよく取れるな。文楽も貝の季節なのか。海女はフワフワと柔らく軽やかな足取り、体重はわたあめ2個分……💓的な愛らしさだった。もっと土俗的な雰囲気かと思っていたけど、妖精のような清らかさ。

途中、岩陰からピンクのタコが出てきたのにはめちゃくちゃ笑った。なんだその唐突なギャグ顔は。バルーン状の頭に、反射材でできたつぶらなおめめ、ちっちゃなパイプ状のおくちに、にょろ〜〜〜〜んと長い10本のおてて。人形の仕組みとしては、タコ役の黒衣が左手で頭部を持ち、右手でタコハンド1本についた差し金(ひょっこりひょうたん島的な、細い針金状のもの)を持って操作しており、ピンクタコはタコハンドで海女にちょっかいをかけていた。
タコと海女の取り合わせは北斎の枕絵「蛸と海女」をイメージしているのだと思うが、勘彌さんの海女は豪速球のマッチ感があるものの(絶対にご注進しないでください)、タコは相当デフォルメのきいたぬいぐるみだったので、かなり可愛くまとまっていた。でも、タコの行動はちゃんとキモく、海女にナデナデされた頭を自分で撫でなおしておててを味見したり、海女の着物の裾めくりをしていた。(おてて味見はアドリブのようで、配信中の舞台映像ではやっていません!)
もっとも、タコハンドは微妙に薄汚れていて、その手で勘彌さんに触らないでくれと思った。頼む、今日終わってからでいいから、エマールでやさしく洗って屋上で陰干ししてくれ!!!!と思った。
艶笑的なノリは現代では絶滅していて、いまやるとどうにも脂ぎったオヤジ感が否めない。しかし、文楽だと海女は人形、タコも可愛いぬいぐるみなので、普通にお友達同士に見えて(?)、適度にユーモアが拡張され、愛らしかった。

 

秋、関寺小町。

舞台が明るくなると、折れた卒塔婆に老婆〈吉田簑二郎/前期〉が腰掛けている。シケのある下ろし髪、手には笠と細い杖を持ち、足を吊った格好。
過去に和生さん出演で観たことがあるが、それとはだいぶ雰囲気が違っていた。男性能楽師が女性の役を演じているようだった。身体性を強く矯正することで生まれる表現のように感じられた。左は難しそうな感じだった。

 

冬、鷺娘。

文楽業界の北川景子、清十郎さんが鷺娘役。現実にいる若い女の子のようなキラキラした自然な愛らしさがあって、とても良かった。生命力と純粋さのきらめきを感じた。
衣装の早替りがすべて素早く成功していたのも良かった。ここ1年、引き抜きやぶっ返りの不手際が多かったが、これは良い。偶発性に左右されるところで多少一発でいかなくても、動きの中で自然に直していた。控えている介錯の人が髪をさばくために止め糸を外すタイミングを、左遣いさんが「ウン!」とうなずいて指示していたのがちょっと可愛かった。

 

海女・勘彌さん、関寺小町・簑二郎さん、鷺娘・清十郎さんはそれぞれに似合った役で、とても良かった。非常に満足。勘彌さんと簑二郎さんは後期になると役が逆になる配役になっていたが、そちらも観たかったな。

太夫三味線の配役はどうなっているのかと思ったら、錣さんはずっとシンなのね。万歳はヤスさん碩さん、海女は芳穂さん、関寺小町は錣さん、鷺娘は希さん、みたいに割ってあるのかと思っていた。錣さんが全部いいとこやるなら満足(正直者)。関寺小町のウタイガカリの攻め方は、錣さんならでは。あとは合唱のところを誰一人として揃える気がないのが笑った。間の撮り方が錣さんとだいぶ離れとるとこがあるがな。錣さんも相当独特だけど。フリーダム。

 

  • 人形役割
    万歳:太夫=吉田簑紫郎、才蔵=吉田玉勢
    海女:海女=吉田勘彌(前半)吉田簑二郎(後半)
    関寺小町:関寺小町=吉田簑二郎(前半)吉田勘彌(後半)
    鷺娘:鷺娘=豊松清十郎

 

 

 

『恋女房染分手綱』道中双六の段、重の井子別れの段。

あらすじ。

由留木家の姫君・調姫〈吉田玉峻/前期〉は江戸へ嫁入りすることになっていたが、お迎えの家老・本田弥三左衛門〈吉田文司〉がやってきていざ出発となった今、「いやじゃーーーーーーー!!!!」とダダをこね始めたので、家中は大騒ぎ。乳母・重の井〈吉田和生〉はなんとかなだめようとするが、まったく聞き耳持たずで手がつけられない。
外から戻ってきた腰元・若菜〈桐竹紋臣〉は、幼い馬方が門前で道中双六をして遊んでいたことを報告する。姫の慰みにとの重の井の呼び出にしより、子供のくせに月代を剃り、キセルを持って大人ぶった風情の幼い馬方・三吉〈吉田玉彦〉が屋敷の縁先へやってくる。三吉が道中双六を見せると姫君も興味を示し、一同で双六をして遊ぶことに。一番乗りでアガった姫君は双六のおもしろさに江戸へ行くと言い出し、無事出立の準備を進めることができた。

重の井は姫の機嫌をなおした褒美として、三吉へ菓子と小遣いを渡す。そして道中何かあれば、「お乳の人の重の井」という名を出せばよいと教える。それを聞いた三吉は、突然、重の井に抱きつく。驚く重の井だったが、三吉は、自らは重の井の子供であると言い出す。
三吉は本名を与之助と言い、かつて重の井が奥家老の息子・与作とのあいだにもうけて別れ別れになった息子だった。お家の法度で重の井・与作とも手討ちとなるところ、重の井の父・定之進が切腹したことで取り持ちがなされ、重の井は姫君の乳人となっていた。一方、父与作は悪人によって追放の憂き目にあい、乳母に育てられた三吉も父の行方は知らなかった。その乳母が亡くなり、三吉は子供ながら馬方をして身を立てていたのである。
実の子との思わぬ再会に、重の井は思わず三吉を抱きしめたくなるなる。しかし、姫君の嫁入りの手前、姫君が馬方と乳兄弟に思われてはと考え直す。重の井は三吉を自分の子と認めつつ、自分と与作を助けられた主家への忠義から、今は母と子と名乗ることはできないと言い聞かせ、嘆き悲しむ。三吉は母の話をよく聞きつつも、父の復帰を訴訟して欲しいと言うが、重の井はそれも聞き入れることは出来ない。重の井は三吉へ十分に体に気をつけて江戸へ向かうように言い、持ち合わせをすべて包んだ小遣いを与える。しかし三吉は、母でもない他人から金は受け取らないと言って泣き出してしまう。
やがて姫君の出立の声がかかり、館の者たちが縁先へやってくる。重の井は乳母らしく三吉へ馬子唄を歌うように言いつける。従者たちから急き立てられた三吉は涙ながらに馬子唄を歌い、重の井もまた密かに涙を流すのだった。

 

あの本田弥三左衛門って人の還暦パーティーの話なのかと思ったら、違った。
おじいちゃん、それだけド派手で脇役なの!? キャップ、羽織、着物、刀、すべてが赤、赤、赤、赤、顔も赤。背景のブルーの斜めストライプの襖とあいまって、目が痛い。なんでそんな全身レッド。ギンギンの全身レッドに気が取られて話が頭に入ってこない。

調姫は、菅秀才や鶴喜代君に女の子の格好をさせたようなお姫様だった。おかっぱ頭に八重垣姫のようなティアラやかんざしを挿して、ちょっとよそを向いて、ツン!とおすましポーズをしていた。調姫は姫によくある三角ポーズでじっとしているのだが、玉峻さんは袖を可愛くふっくらさせようと頑張っておられた。
調姫の小姓ガールズ〈桐竹勘介、吉田玉路〉が、わたわた〜っと出てくるのが良かった。あの人形は、人形遣いさんの顔にソックリになるよう化粧されているのだろうか。Face.app文楽版? あんまり見ないタイプの変わった顔立ちだった。一生懸命丁寧に踊っておられて、それゆえに意図せず子供風になっていたのが良かった。

遠出風の格好をしている若菜がどこから帰ってきたのかが、気になった。

 

和生さんの重の井は、暖かな優美さが光る。
乳人とはいっても、『先代萩』の政岡とは家の格式も立場もだいぶ違うので、こちらではもっとアットホームな「おかあさん」といった印象。日本の母って感じ。美人なんだけど、柔らかで暖かい雰囲気が、田中絹代感あるわ……。ゆったりとした優美な仕草の中に、母親としての子供への慈愛と、それ一徹に生きられない苦しみが直接的に表現されていた。

重の井は、目を閉じているときの表情が美しい。政岡とそっくりな顔してるな……と思っていたら、プログラム記載の和生さんインタビューに、2月『伽羅先代萩』と同一のかしらを使っている旨が載っていた。
あれは私物のかしらで、もともとは吉田文雀師匠が購入し、吉田文五郎師匠が預かって大役を遣うときに使用していたのを経て再び文雀師匠のもとへ帰り、いまは和生さんの手元にあるものということだった。和生さんは、戸無瀬、定高、政岡といった片外しの役(時代物に登場する格の高い武家の女性)ではすべてこのかしらを使っているそうだ。かしらに負けないように遣うのが大変だということだった。しかし、和生さんの政岡なり、重の井は、あの気品あるかしらだからこそ発揮できる品格と優美さがあると思う。

母であっても母として接することはできないという話の形式は、『伽羅先代萩』や『傾城阿波の鳴門』と近いけれど、「重の井子別れ」の場合、その2作より、主人公(重の井)の主観を中心に演じられている気がした。『先代萩』や『鳴門』では、主人公は「建前」を全面に出し、その裏に隠された悲しみをそこからいかに秘めやかに感じさせるかという印象があった。「重の井子別れ」では、もっと直接的に重の井の母としての愛や苦しみが描かれているように感じる。段切だと、他人が周囲にいても、三吉を抱きしめたりしているし(大切そうにキュッとしているのが可愛い)、演劇的演出として、重の井の心象風景を描いているのだろうか。『先代萩』や『鳴門』だと、子供がいなくなった後に主人公が一人になって大泣きする場面があるけど、「重の井子別れ」にはそれがないからかな。

 

三吉はちびっこの人形ながら、いっちょまえに髷部分を横に流していた。
お人形はおちびでも、仕草は大人風。たとえば団七のような大きな人形なら格好良く決まる腕を悠々と使った大振りな仕草も、ちびっこゆえに裸の腕が不自然な湾曲をするのが、いかにも子供の人形らしくて可愛い。がんばって生きている感がある。
人形にはその人形自体のサイズに伴った体格イメージがある。人形の体格に対して遣い方がミスマッチだと(腕を過剰に伸ばしすぎ、動作が大きすぎなど)、「センスなし」や「下手」に見える。三吉はそれに加えて、性格に由来する、演技するうえでの体格イメージがあり、意図的なミスマッチ演技「大人ぶっている(子供に戻る場面もある)」設定があるので、難しそうだ。玉彦さんの三吉は、そのミスマッチをうまくマッチさせた愛らしさがあり、とても良かった。めちゃくちゃエラそうなのも、良い。がんばって生きている感がある(2回目)。

 

道中双六の部分は、若菜・本田・重の井・調姫が本当に双六で遊ぶというものだった。原文だけで読んでいた段階では、三吉が双六の図面を見せ、図解として講釈のように江戸までの道のりにある名所を解説するのかと思っていたので、驚いた。コマを動かす様子を見ていると(おのおのの簪や扇子をコマにしている)、若菜vs本田vs重の井&調姫ペアの3組が対決していることになっているのだろうか。重の井と調姫はそれぞれサイコロを振っていた。姫だけ二人の合計を進めているってこと?
人形は勝手になんとなく演技をしているというわけではなく、義太夫の詞章の進みに合わせてタイミングを調整しているようだった。若菜が進め方を三吉に質問する、どんどんスピードアップする、姫が最初にアガるのは、詞章に合ったタイミングで演技をしていた。意外とちゃんとやってる!と思った。(いつもちゃんとやっとる)

 

『恋女房染分手綱』は、完全に母と認めていながら、事情を話して追い返す。ある意味、一番子供に対して残酷なパターンなんだな。結構モヤッとするけど、重の井の後ろめたさ、後味の悪さが上演上での最大のポイントなのだろう。それは十分に感じられた。同時に、和生さん重の井以外では、なかなか間持ちしない演目だなと思った。

この文楽現行と、今回上演部分の元になっている近松原作(『丹波与作待夜のこむろぶし』)と、内田吐夢による映画化『暴れん坊街道』とを比較すると、文楽現行の舞台がいちばん面白いなと思った。与作が出てくると、あいつが治兵衛級のカスムーブでストレスを与えてくるから……。

 

  • 人形役割
    本田弥三左衛門=吉田文司、宰領[上手]=桐竹紋吉(前半)吉田玉誉(後半)、宰領[下手]=吉田玉翔(前半)吉田簑太郎(後半)、調姫=吉田玉峻(前半)吉田玉延(後半)、乳人重の井=吉田和生、踊り子[上手]=桐竹勘介(前半)吉田和馬(後半)、踊り子[下手]=吉田玉路(前半)吉田簑之(後半)、腰元若菜=桐竹紋臣、馬方三吉=吉田玉彦

 

 

 

第一部は、『花競四季寿』が意外に面白かった。こういう上演時間が長い景事は、生の舞台ならではだなと思った。

今月はタコ、デカはまぐり、虎と、アニマルがたくさん出てきて、おもしろかった。女方で足を吊っている人形がたくさん出てきたのも、興味深かった(海女、関寺小町、小むつ、おつる)。

4月公演が千穐楽まで公演できなかったのは、本当に残念。5月の東京公演も、11日までの中止が決定している。
今度ばかりは、大阪府の感染者増加状況や医療対策はどうなってるんだ?と思う。大阪に行っている自分が言えたことではないが、劇場内部の状況はともかく、高齢の技芸員さんやお客さんの行き帰りや労働環境等を考えると、このような状況ではどのみち安心して公演できない。うちのおじいちゃんたちをどうしてくれるんですか状態……。早く公演が再開できるよう、願うばかり。

 

↓ 4月公演は、イープラスで4/26〜5/16動画配信中です。配役は前期日程です。

 

文楽 4月大阪公演『傾城阿波の鳴門』十郎兵衛住家の段『小鍛冶』国立文楽劇場

第三部は『傾城阿波の鳴門』『小鍛冶』とも、玉佳さんが登場。事情(?)を知らない方が見たら、玉佳チャンをアイドルだと思われるのではないでしょうか。はい、玉佳チャンはみんなのアイドルです!

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『傾城阿波の鳴門』十郎兵衛住家の段。

お弓が故郷に残して来た娘・おつるに偶然再会するも、母と名乗れず再び別れる「巡礼歌の段」だけでなく、その後、十郎兵衛がおつるを娘とは知らず過失で殺してしまうところまでのフル上演。

 

むかしむかし、みんなが『傾城阿波の鳴門』を知っていたころの舞台は、こんなだったのかな。
なんというか、素朴な雰囲気……。今では想像も出来ないけど、みんなが義太夫に親しんでいて、『傾城阿波の鳴門』や『伽羅先代萩』を知っていたころ……。そのころは、こんなふうにみんな浄瑠璃を楽しんでいたのかなあと思った。

なぜそう思ったかというと、「既知の感動の物語」であることに大幅に乗っかった演奏や人形演技になっていたから。浄瑠璃の文章の内容そのものに添って演奏したり人形演技を組み立てているのではなく、有名どころでとにかくめいっぱいやって、観客の紅涙を絞る方向にもってきてるというか……。

 

これはこれでひとつのやり方だとは思う。けど、『傾城阿波の鳴門』は、力一杯がなり立てるようにやる演目ではないと私は思う。『傾城阿波の鳴門』(巡礼歌の段)は義太夫の中でもトップレベルに知名度が高いポピュラーな演目だと思うが、実際には相当演者を選ぶな。千歳さん、勘十郎さんは、タイプ的に、『傾城阿波の鳴門』が持っている哀切、しっとりした情感が出せないのではないだろうか。そのために、このような状態になっているのではと思った。

特に気になったのが、お弓の表現。目の前におつるがいるときと、おつるが帰ってしまったあとのお弓の動乱ぶりが同一なのは疑問。お弓の心の動きを表現する方法は、大声や大振りな演技だけではないはず。引き裂かれるような切実さを無理やり押さえつけている心情の表現が必要なのでは。千歳さんはさすがにこれはない、向いてないにしても、もう少し工夫のしどころを探って欲しかった。トミスケ頼むなんとかしてくれ。

配役は、その人に向いたものにして欲しい。

義太夫に関しては、後のヤスさんは良かった。十郎兵衛の「本当はいい人」感、お弓のワタワタした雰囲気がよく出ていた。また、前半日程で聴いたときは、お弓のクドキのところとその直前が断絶しすぎていて、クドキが唐突すぎる印象だったが、最終日に聴いたときには慌て気味ながらもつながるようになっており、良くなっていた。
 

↓ 2019年11月、西宮白鷹文楽で、和生さん×錣さんで上演されたときの感想。全段あらすじつき。

 

  • 人形役割
    飛脚=桐竹亀次、女房お弓=桐竹勘十郎、娘おつる=桐竹勘次郎、十郎兵衛=吉田玉佳(代役/吉田玉也休演につき)

 

 

 

小鍛冶。

前半日程しか見られないと思っていたが、急遽簑助さんの最後の舞台を観るのに最終日にも行ったため、幸か不幸か、玉志サン稲荷明神を観ることができた。
稲荷明神は前場後場とも凛とした雰囲気が必要になるのと、舞踊要素が大きいので、玉志サンの射程距離に入る得意な部類の役なのではないか、玉志よ自分らしく存分にやってくれ……と勝手に思っていたが、実際に観たら、予想だにしない方向に行っていて、まじでびっくりした。

 

まず、老翁・稲荷明神を、神霊的存在として表現しているのが最大の特徴。

少なくとも普通の遣い方ではない。前場で謎の老翁として登場するときから、普通の老人役とは異なり、体重や人形の重量を感じさせない、空中をすべるような、異様に軽い動き。老翁は鬼一のかしらを使っているが、鬼一であのような遣い方をするのは普通はまずありえない。玉志さんのいままでのジジイ役(鬼一だと弥陀六、謙信)をみても、あの遣い方は考えられない。

これはまったくもって私の想像だけど、おそらく、演技の考え方が、原作である謡曲(能)に立脚しているのだと思う。上手いシテ方が出演する能を観たときと、同じ感覚を覚えた。
能には、この世ならぬ存在が、現世での仮の姿と、真の姿の二つの姿で化現する「夢幻能」と呼ばれる物語形式がある。前場では、観客視点にあたる人物(ワキ)が不思議な人物(前シテ)と出会い、その人物から、土地の伝承や言い伝えなどの不思議な話を聞かされる。後場になると、その不思議な人物が正体を顕し(後シテ)、実は自分こそが伝承に語られる人物−現世のものではない、神霊や亡霊−であることを語って、その伝承を舞などで再現する。文楽の『小鍛冶』も、能の『小鍛冶』を踏襲し、この構造をとっている。
能の公演を実際に観にいくと、シテは橋ガカリを通り入ってくるときから舞台上で異彩を放ち、「この世ならぬ存在」として表現される。巧みな能楽師が演じるシテは、本当に人間でない、超自然的な存在に見える。それを文楽『小鍛冶』でも取り入れるのは、シンプルながら、ちょっと驚きの発想。派手でナンボの方向に行かなかったんだ。文楽は人形を使うから、能以上に生身の肉体を排することが出来、「この世ならぬ者」神霊的存在を表現しやすいというのは、発見。

以上は私が勝手にそう思ったというだけの話ではあるけど、客に理解されるかというと、かなり難しいと思った。というか、左の人にすら、伝わってない気が……。右手と左手で動きが違ってしまっていた。

 

後場になると、宗近〈吉田玉佳〉の祈りに応え、稲荷明神が神の姿で化現する。
稲荷明神は3人とも出遣いで、左・玉勢さん、足・玉路さん。稲荷明神の拵えは文七のかしらに衣装もゴージャスでデカいのだが、軽やかで透明感の高い、神秘的な雰囲気。普通は力強い表現にするであろうところ、神霊であるイメージに大幅に寄せているのだろう。ここでも「現世の人間ではない」雰囲気が非常に強い。

幣が揺れるさまのような、重力を無視したふわふわっとした動き。狐の振りで空中に浮くところも、ちんまりと可愛らしくふわふわ、ゆらゆらしていた。神というより、精霊かな。これ自体が稲荷明神だという直接的な解釈なのか、それとも稲荷明神の眷属神である狐の、従来の文楽にはない表現を目指したのか……。なんというか、メルヘンだった。文七のかしらでこんなに可愛いっていうことがありえるのか……。
なお、フェアリー度は第一部『花競四季寿』の鷺娘・清十郎さんに張っていた。清十郎〜!!! 第三部見た〜!?!? 立役一本槍の玉志にカワイイ妖精さんポジを食われそうになっとんで〜!!!!! と思った。

祭壇の手前に出て激しく踊る部分は動作にノイズや濁りがなく、キレあるシャープさが出ていて、大変良かった。人形の姿勢に激しい動きに発生しがちな余計なブレがない。このあたりはやはり最もお得意な部分だなと感じた。

宗近とともに鍛冶を打つ場面では、槌を振る仕草が妙に丁寧だった。槌を振り下ろす振りが小さい。宗近はもともとそれほど大きく振り下ろさないので、二人でトントンカンカンやっていると、こびとのかじやさん状態でかなり愛らしくなっていた。一体どういうこだわりなんだ。*1

なお、この鍛治打ちの場面では、稲荷明神と宗近が槌を打ち下ろすたび、「キン!」という音とともに火花が散っていた。はじめは、台に電流を流して、金槌と台が接触するごとに火花が散っているのかと思っていたが、時々タイミングが微妙にずれたり、不発だったりするのを見ると、人力? 火花係の人、上手いなと思った。

 

そういうわけで、玉志サンの稲荷明神、かなり独自の稲荷明神だった。フロンティアスピリットがすごすぎて、びっくりした。ここ数ヶ月、地方公演の『釣女』や、それこそ前半日程の『小鍛冶』では「後ろの鏡板をなんだと思ってるんだ、能楽堂行って勉強してくれ」と切れまくってきたが、ここまでやられると、「く、狂ってる!!!!!」と思った。(わがまま)

『小鍛冶』なら、もっと派手にやってもいいと思う。というか、頼むから、もっと“俺が俺が”の心を持って派手にやってくれ!!!と思った。(わがまま2)

 

稲荷明神の左の玉勢さんはかなり良かった。前半日程は、左手が前にくるときのほうが人形の姿勢が綺麗に見えるくらい。後半は玉志さんの透明感と合っていて、とても良かった。むしろ、そもそも稲荷明神を玉勢さんがやればいいのに、と思った。勘十郎さんがやらないなら、もはや誰がやっても同じなので、若手がやればいいと思った。

後場で一切動かず、刀が打ち上がるのを見守る橘道成は良すぎる。文哉さんと紋秀さんの「俺は一切動かん」というガッツを見せていただいた。24日の紋秀さんはペカ系だった。

あとはやっぱりみんなのアイドル! 玉佳チャン。本役の『小鍛冶』宗近を凛々しく遣われていて、良かった。第三部の2演目連続出演、さらには直前第二部『国性爺合戦』でもおそらく甘輝の左で出演と、立て続けで大変だったんじゃないかと思う。お疲れ様でした。

床は華やかで良かった。卵色と抹茶色のナミナミ模様の肩衣も、コラボの「刀剣乱舞」ファンの方に「刃文みたい」と喜ばれていて、良かった。

 

↓ 2019年3月、にっぽん文楽で、勘十郎さん稲荷明神で上演されたときの感想。

 

  • 人形役割
    三条小鍛冶宗近=吉田玉佳、老翁 実は稲荷明神=吉田玉助(前半)吉田玉志(後半)[後場 左=吉田玉勢、足=吉田玉路]、勅使橘道成=吉田文哉(前半)桐竹紋秀(後半)

 

 

 

4月公演第三部は、『小鍛冶』で「刀剣乱舞」とのコラボが行われた。

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コラボとは言っても『小鍛冶』上演内容そのものは通常通りのまま、ロビー装飾等に工夫がされているという方式。上演内容をいじらないのは、コラボコンテンツのファンの方々に未知の古典芸能へ触れていただく機会として、ベストな手法だと思う。

コラボ内容は、オリジナル文楽人形展示とオリジナル記念スタンプ設置、「小狐丸」のイラスト入りリーフレット配布程度のかなり控えめなコラボ感だった。コラボ企画の王道、オリジナルグッズ等は特に作らなかったようだ。
それでも「刀剣乱舞」ファンの人は来てくれたようで、第三部開演前は、はじめて文楽へお越しになったのかなという「刀剣乱舞」ファンのお若い方々、「刀剣乱舞」が全然わからない文楽劇場の常連さんたちで、ロビーが混沌としていた。うーん、この脈絡のない群衆、「地元の神社のお祭り」感があって、良い……。
ファンの方々は文楽劇場の誘導に従ってスタンプや人形写真の列を作っていた。文楽劇場ではレアな「最後尾」札も登場。最近の若いもんはマナーがちゃんとしとるのう。文楽劇場側も、「ふだんの客より行儀エエ!!!」と思われたであろう。
一方、文楽劇場の常連さんたちも、「刀剣乱舞、ゆうんがあるんやてぇ」と言って喜んでおられた。私も文楽のお客さんから「ああいう人(小狐丸)がおるん?」と聞かれたが、うーん、人っていうか、おるっていうか……、うん。

 

コラボの目玉として、2Fロビーには、「刀剣乱舞」小狐丸の文楽人形が置かれていた。

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「小狐丸の文楽人形を展示する」という告知を聞いた段階では、「もし小狐丸を文楽『小鍛冶』の舞台に出すなら」というコンセプトで、検非違使や源太などのかしらを使って舞台用想定の人形を作るのかと思っていた。
行ってみると、作ったのはどうも、「小狐丸のイラストそっくりに作る」ことを目的とした飾り人形だったようだ。いわば、小狐丸の“コスプレ”をした文楽人形、って感じ。コスプレ好きの孫が遊びに来た……☺️というジジババ気分になった。

この人形は、各スタッフさんがいろいろな工夫を凝らして手作りしたらしい。本公演ではほとんど使われていない新作用かしら「佐助」をベースに、衣装は一部新調やありもの素材のやりくりを駆使して作られたもののようだ。基本的に文楽の既存キャラにはない衣装のため、黄色い水衣は新規染めをオーダーしたらしい。そのほかポンポンや履き物はじめ、おニューの手作りだとか。予算問題だと思うが、そのあたりに“コスプレ”感があって、「裁縫が得意なお母さんが娘のコスプレに協力して、娘以上に凝り始める🪡🧵」ぽくて、良かった。
ロビーには制作過程を説明したリーフが置かれており、文楽のお客さんには特殊な人形を拵えるときはどうするのかの参考に、「刀剣乱舞」ファンの方には文楽人形の構造がわかるようになっており、これも大変良かった。小狐丸を知らない人に対して「ここがキャラの特徴なので、再現できるよう工夫した」というような説明が丁寧に書かれていたあたり、「刀剣乱舞」を知らない文楽ファンに優しい。このリーフが公開されていないのが、とても残念。

ただ、そっくり目的の飾り人形だからか、それこそ工夫がなされた目元などがちょっと説明過剰で(人形自体で完結しすぎ)、舞台で遣うことはできないなと思った。この部分がある意味、文楽が例えば『Thunderbolt Fantasy』とは大きく異なる点だと思う。でも、今回の『小鍛冶』を観ると、玉志さんならこの人形を遣えるかもしれないですね。玉志よ、2.5次元文楽の地平を切り開いてくれ……。

 

↓ 小狐丸等身大パネル。人形のポーズもこれに合わせているようです。
一緒に記念撮影できますと勧められましたが、申し訳ありません。私、文楽のほうにマダニの如く食いついておりまして、これが玉男様等身大パネルなら撮っていただくところなのですが……。

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↓ 小狐丸人形、拡大写真。
この顔立ち、撮るのがかなり難しい。現物はこんなにマネキンっぽくないです。もうちょい、源太とかのような穏やかさがあります。

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↓ コラボスタンプ。
初めて観劇記念スタンプ押しました。

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地味、微妙(?)と思われた第三部、最終日に観た玉志さんの稲荷明神にはびっくりさせられた。正直言って、『小鍛冶』、演目としてはあまりにどうでもよすぎて、まあ人形振り回して派手にやっといたら何でもえんとちゃう?としか思っていなかったが、その甘い認識を破壊された。あまりにびっくりして、簑助さん引退の涙が引っ込んだ。

『小鍛冶』の「刀剣乱舞」コラボは、従来の文楽のお客さんも、コラボをきっかけに来場されたお客さんも楽しめる内容で良かった。
次回なにかとコラボする際は、コラボグッズを作って欲しい。グッズはコラボの王道で、記念としてコラボ先コンテンツのファンの方に喜ばれるし、文楽劇場にも利益が入る(文楽グッズは何故かボランティアみたいな値付けなので、そういうグッズ商売スピリッツがないんだと思いますが……)。
また「刀剣乱舞」とコラボできるなら、次は『祇園祭礼信仰記』で、倶利伽羅丸コラボでお願いしたい。せっかくだから、面白い演目でコラボして、文楽らしい世界を楽しんで頂きたいです。

ていうか、第三部、『傾城阿波の鳴門』にしても、『小鍛冶』にしても、文楽を初めて見た人は、どう思ったんだろ……。そこだけが疑問。

 

↓ 4月公演は、イープラスで4/26〜5/16動画配信中です。配役は前期日程です。

 

 

 

 

 

*1:帰ってから、Youtubeにある文部科学省の刀鍛冶の動画を見ました。刀の形状になる前、鉄の硬度を上げていく過程ではそれなりに大きく振り下ろすみたいなのですが、仕上げの段階では大きく振り下ろさないみたいでした。あと、能の『小鍛冶』も振り下ろしは小さいようですね。勉強になりました。ありがとう、玉志さん。