TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 2月東京公演『傾城恋飛脚』新口村の段『鳴響安宅新関』勧進帳の段 国立劇場小劇場

3月の地方公演やイベントが多数中止になっている。2月公演は全日程公演できて本当によかった。

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第三部『傾城恋飛脚』新口村の段。

新口村やりすぎと言いたいところながら、実際に観るとやっぱり面白い。

 
 
 
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今回新鮮に感じたのは、「孫右衛門ってこんなに若い印象だったっけ?」と、「梅川は世慣れている」という点。 

孫右衛門〈人形役割=吉田玉也〉の若さは印象的だった。前からこんなに若かったっけ?

「孫右衛門は老足の」といっても50代くらいに見える。髪が黒め(っていうかこげ茶系)だから? 今回だけ特別なのかな? と思って過去の舞台写真を見てみたら、元々髪は黒めだった。若く見えるのは、玉也さんの芝居が以前観たときに比べて変わっているのだろうか。それとも、今回の2月公演は在所ジジイネタ3連発プログラムなので、第一部の佐太村・白太夫〈吉田和生〉や第二部の野崎村・久作〈桐竹勘壽〉と比較して若く感じているのか。体が硬そうで動作がちょっと「よっこらしょ」入っており、ひょいひょいしている白太夫や久作よりも、孫右衛門はまだまだ体を元気に動かせそうだった。

孫右衛門は、初日とそれ以降では、梅川が目隠しを外したときのリアクションが異なっていた。初日では梅川が目隠しを外しても外されたことに気づかずそのままでいて、数秒後に「はっ!」として少し目を背け、忠兵衛を見るのをためらい、しかしおずおずと見るようにしていた。それは目隠しをしているときから心の目で忠兵衛を見ていたのでそうしているのかなと思ったら、後日は目隠しを外された瞬間顔をそむける方式になっていた。過去に玉也さんの孫右衛門を見たときはそうだったので、これが玉也さん的平均リアクションなのだろうけど(そのほかの役でも基本的に演技大振りだし)、それでは初日はどうしてすぐに顔をそむけなかったのか? 気になる。

あそこまで目を背けるからには、絶対に忠兵衛の顔を見られないという孫右衛門の義理堅い精神性をどこかで担保しなくてはならないが、床含めた全体として正直、そこまで詰められている印象ではなかった。それでいうと、梅川に「京のご本寺様へ上げうと思うた金なれど」でお金を渡すときに梅川の顔を見ず、下手に顔をそらすという義理ゆえの「他人のふり」はされていた。新口村は、孫右衛門の心の揺らぎが見どころだと思うので、今後もよく見ておこうと思う。和生さんが孫右衛門をやるときがあったら、役解釈ウォッチの狙い目だと思う。(和生さんは演技自体に頼らず性根を表現するので)(なに言ってるか自分でもよくわからないが、そうだと思う)

最後、忠兵衛を必死に抱きしめる芝居は、めいっぱいの気持ちにあふれていた。孫右衛門にとって忠兵衛は、大人になっていても気持ちの上ではずっと子供なのだろうと思った。

あと、今回の孫右衛門は、マフラーがほんとに「ほわ」としていて、あったかそうで、良かった。ああいうマフラーしている人、いる。と思った。

 

もうひとつの「梅川は世慣れている」という点。これは間違いなく梅川〈吉田勘彌〉の人形の演技によるもの。かねてより「勘彌さんは絶対遊女役が良い」と思ってきたが、それを確信した梅川だった。

孫右衛門は梅川の様子を見て素人ではないことに気づき、息子忠兵衛とともに遁走した大坂の遊女であると悟る。ただこの「孫右衛門に遊女であることを気付かせる、しかし息子を任せられる良い女性だと思わせる」梅川の佇まいというのは、並大抵のことではないと思う。少なくとも新口村のような素朴な在所で浮いていないといけないということだと思うが、めちゃくちゃ浮いていた。忠三女房〈前半=吉田簑一郎/後半=吉田清五郎〉や孫右衛門、ひいては忠兵衛〈吉田玉佳〉からも、あきらかに物腰が浮いている。都会の玄人感がすごかった。ここまでくっきり浮いた梅川はいままであまり観たことがなかった。

どこがどうなって浮いて見えるかというと、所作の色っぽさからだとは思う。身体の位置の上下や振りが大きめの色っぽい仕草ながら、所作の速度や浄瑠璃との間合いの取り方によって優雅さを保ち、かつ、梅川の遊女としての格(下級の遊女)に見合った寂しい佇まい。新口村の人々の貧しさや在所ゆえの侘しさとはちょっと違う。江戸時代の上方の遊女といっても誰も見たことがない存在だから、これが正しいとか間違ってるとかは誰にもわからないけど、少なくとも在所の人々(行列する新口村の村人の皆さん、最高)と物腰は全く違う。しかしそれとは別にどこか地に足がついたところがあるということが直感的に感じられた。上方文化講座で見た小春とはまたちょっと雰囲気が違うのも良かった。

孫右衛門が梅川を都会の遊女だと気づくきっかけのひとつに、彼女の持っている懐紙が真っ白の綺麗な紙であることが挙げられる。今回の孫右衛門は、梅川の白い懐紙と自分の茶色の懐紙とを比べて「ん?」というニュアンスのある芝居をしていた。私、新口村を初めて見たときはあれの意味がわからなかった。いまの感覚からすると、孫右衛門が持っているような茶色の紙のほうがオシャレげなイメージがあるから……。あと、古手買いを追い払う忠三女房の「田舎に余計な紙はない」的な話を聞いていなかったので……。

 

忠兵衛は玉佳さん。微妙にしょんぼりした雰囲気で、いい感じにヘタレておられた。物置(?)の格子につかまって外を見ている様子が妙に似合っていた。玉男さんとは違う意味でのヘタレな雰囲気。勘彌さんの梅川と見比べると、ほんと子どもっぽい。弟っぽさがある。その対比で、梅川はしっかりしている、世慣れているなとより一層感じた。

新口村の難関(?)、「覚悟極めて名乗つて出い」「今ぢやない/\」で忠兵衛が上手の一間から走り出る部分。話の意味を理解していないお客さんは笑ってしまいがちな場面だが、忠兵衛の出を「今ぢやない/\」よりだいぶあとにすることで孫右衛門・忠兵衛の心の内をわかりやすくして、ギャグっぽくなるのを防いでいた。いろいろ工夫があるもんだなと思った。


新口村は全体的に、床も人形もこじんまりと静かな印象だったのが良かった。勧進帳も虚構のイイ話だけど、新口村の虚構中の虚構のイイ話。雪の舞う新口村の情景もどこか現実ではない雰囲気が良かった。虚構の村の虚構の家の中で起こる、「こうであったらよかったのに」という虚構の物語というどこか悲しい印象が、舞台の上にあらわれていた。

 

 

 

『鳴響安宅新関』勧進帳の段。

 
 
 
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弁慶=玉男様、冨樫=玉志サンというかねてより期待していた通りの配役。ワーイと喜び勇んで、玉志サンが配役されている前半日程中心に行った。弁慶も冨樫も真面目で誠実な心を持った人物だが、その真面目さや誠実さは微妙にベクトルが異なる。それが玉男さん玉志さんの配役にマッチしていて、とても良かった。

 

弁慶=玉男さんの納得感がすごかった。「なるほどね〜、弁慶ってこういう人だったんだ〜」という不思議な納得感があった。観客、誰も弁慶見たことないのに、出てきた瞬間、「弁慶だ〜☺️」と全員納得。謎の客席一体感。人形とは思えないサイズ感と存在感、体幹強そう感がすごかった。

弁慶は全員出遣いで、左=玉佳さん、足=玉路さんだった。人形遣い3人とも出遣いだと、その対比で人形の小ささが強調されるため、人形が人間よりちっちゃいことがはっきりわかるのだが、弁慶はやたらでかく見える。国立劇場のステージの下手半分が弁慶のオーラで覆われているようだった。カブトムシならヘラクレスオオカブトだと思った。

弁慶は常にまっすぐシャキッッッ!!!!と立っていて、動いてもずっとシャキッッッ!!!!としている。そのシャッキリぶりから愚直なまでの生真面目さ、誠実さを感じた。それは冨樫も温情をもってくれるよというピュアなドまっすぐさだった。

それにしても弁慶、ほかの人形の8倍はごん太い。あの体幹のごん太さは、おそらく、かしらが超安定しているのと、人形の重心が超FIXしていることによるものだと思う。

最近とみに思うのだが、文七等の大型の人形の場合、よく見ていると人形のかしらがグラグラしている人がかなりいる。慣れていない人はもちろん、本役でもらっているような人でもポーズを変えた瞬間に不要なぐらつきが起こる。かなり重いものを棒1本、片手で支えていて、かつそれを宙に浮かせた状態で長時間続けているのだから、普通は揺れて当然だと思う。そういう揺れがほとんどない人って3人くらいで、そのうち玉男さんだけはいかなるときも絶対に揺れがなく、ビシッとしている。一体どうやってるんでしょうか。

また、人形の重心がFIXしているというのは、人形の腰の位置を動かさずに動作が構成されていることによると感じた。動作の支点が存在することで動きが安定して見える。そして、全体的に、人形がしっかと腰を落とした姿勢になっている。そうなると人形遣いのほうも腰を落とした相当無理な姿勢をしなくてはならなくなるが、それを毎日やっているのはすごいと思った。

それと、弁慶は、足拍子がやたらでかかった。今回は最前列から後方列まで様々な席に座ったが、上手11列目まで「ドン!」という足拍子の振動が伝わってきた。さすがにこの距離では幻覚かと思ったが、隣の人がびっくりしていたので、幻覚ではないと思う。寝ている人も起床した。

延年の舞は無骨で力強いものだった。冨樫への感謝の真心から舞っているのだと思った。扇を右脇に構える所作がかなり美しく決まっており、この弁慶は武骨ながら舞の心得があるのだろうと思った。いや、あまりに綺麗に構えていたあたり、玉男さんが仕舞を習っておられるのかもしれない。あそこまで綺麗に構える人形もなかなかおらんので。

最後、舞台からみんなが去った後、ひとりでそっと冨樫の去っていった方向に礼をしている姿の生真面目ぶり、実直ぶりもよかった。

ところで、玉男さんは芝居が常に超安定しているわけだが、今回、気づいたことがあった。冨樫との問答で弁慶が「臨兵闘者皆陣烈在前」と九字を切るところ、あれ、後半日程のほうが確実にうまくなっている。最後のほうの日程はものすっごい綺麗に切っていた。演技が安定しているベテランでも日々向上してるんだなと思った。

 

玉志サンの冨樫は、凛々しさ、清潔感、篤実さ、優美さがあって、とてもよかった。玉男さんが弁慶に馴染んでいるのと同じように、玉志さんも冨樫に異様になじんでいた。武張った方向ではなく、知的でクリーンな印象が関守らしい。清々しくまっすぐさがあった。白塗りの検非違使のかしらに似合う神経質な緊張感をそなえつつも、それがいやらしくならない透明感があり、真摯さを引き立てる若々しい雰囲気。そして、弁慶とは違うニュアンスで、ピンッッッ!!!!と立っていて、所作がピンッッッ!!!!としていた。弁慶に勧進帳の証明を迫る場面の美しい緊張感がとくによかった。

細かい部分では、弁慶を観察するときの目を引く速さが上手く役に乗った速度になっていて、冨樫の集中した視線の印象がとても自然に出ていて、よかった。いままでは、視線の使い方はよくても動きが速すぎて客は理解できないと思っていたんだけど、12月の熊谷役で目の引き方が劇的によくなったと思う。それが今回の冨樫に活きていた。

玉志さんの冨樫役最後の日、「強力待て」で大紋の右袖を外に跳ねるとき、袖が人形の手にひっかかるというトラブルがあった。それが簡単にはなおらず、舞台は進行するけど冨樫は袖が腕にかかったまま。冨樫が袖を跳ね上げるというのは「袖を跳ね上げる」とあらかじめ知っている客にしかわからないはずで、引っかかり方も綺麗だったのでそのままでもそこまでおかしくない(外そうとして変にモゾモゾするくらいならそのまま続行したほうがいい)と私は思ったんだけど、玉志さんには許容できないことだったようで、外していることが目立たないよう後ろから衣装を咥えて引っ張るなどで、なんとか外そうと試みていた。あそこから冨樫の雰囲気が一気に緊迫して、あの真剣さはすごいなと感じた。まもなく介錯の人が気づいて外しに来てくれたので、無事、冨樫は綺麗な姿になった。

こういうトラブルの始終を見ているのは観劇にはいらんことではあるが、玉志さんの真剣さを尊敬した。こういう細部までのこだわりがある人でないと、検非違使や文七のような人形は遣えないのだと思った。人形自身の持っている気迫を上回る精神力がないと、勤まらない。

気になっていた、冨樫は弁慶と渡り合えるかという点。文楽勧進帳を上演する上で、弁慶と冨樫が真正面からぶつかり合う、いや、ぶつかり合える力量を持った人同士であることは必須要素だと思う。玉男さんの弁慶が鉄板なのは間違いない。そこにどうやって対抗していくのか、とても心配だった。

これは予想をはるかに超えて、弁慶と冨樫が正面から衝突していて、よかった。当然、玉男さんと玉志さんは経験値や技量に差が開いているんだけど、冨樫は弁慶の金剛石のようなまっすぐさとはベクトルの異なる凛としたしなやかなまっすぐさで、異なる性質のもの同士の衝突となって、見応えを増していた。心配など余計なお世話だった。そのままでよかったのだ。冨樫は初役だと思うけど、よくここまでもってきた。玉志はこのまま玉志のよいところをどんどん伸ばしておくれ😭😭😭と思った。(何様?)

 ↓ この冨樫、玉志さんです。

 
 
 
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四天王は、若い子3人+亀次さんという配役だった。当たり前だけど亀次さんが一番ちゃんとしてるな……。人形がちゃんと歩いているように見える。若い子は頑張ってるんだけど、胴体や頭が動かず足だけで動いているから、『アダムスファミリー』(古い)で廊下をすーっとすべるように動いていく幽霊みたいになっていた。そういうふうにしろって師匠たちに言われてるのかもしれないけど、人形も不安定で、相当不自然な印象。言いたかないが、許容範囲を超えて下手な子もいたし。年の功を感じた。

途中、ぼーっと見ていて、四天王が1人増えてる……?と思ったら、玉佳さんだったのは面白かった。なんというか、人間なのに、人形の群れになじんでいた。玉佳さん、絶妙に動きが人形めいていて、良い。弁慶が白紙の勧進帳を読んでいる間、玉佳さんも勧進帳を読んでいるのも、良い。そして、死にそうな表情でいらしたのも良かった。

一方、冨樫が連れている番卒ツメ人形、右から2番目のやつ、顔がのんきすぎて笑った。弁慶と冨樫はあれだけ真剣なのに、緊張感のない顔でのこのこ出てくるのが良い。コンビニでカップ麺を買うときは必ず1.5倍サイズのやつを買うタイプの顔だと思った。

 

勧進帳はあまりに歌舞伎向けな演目に思えて、文楽で上演する意味はあんまりないと、正直、思う。話のタイプとしても、見栄えとしても。文楽の通常営業からすると、冨樫の見逃しはくさすぎる。切腹覚悟でやっているというのはわかるけど、あそこに頼朝が押しかけてきて、冨樫が頼朝を説得するためにその場で切腹し、それと引き換えに弁慶らを一度見逃させるとかでない限り、安直(過激文楽思想)。

でも、弁慶の性根と玉男さん持ち前の強靭で実直な雰囲気がマッチしていて、弁慶という役の引き立つ芝居になっていて(それは玉男さんじゃなくて、人形の弁慶が)、見応えがあった。人間じゃない弁慶は、ちっちゃいぶん、なんだか本当に真剣そうで、けなげそうで、いい。六法を踏む引っ込み、今回は花道が出なかったので舞台上でやっていたが、ちょこ、ちょこ……とした仕草が人形らしくて、よかった。弁慶はがんばって生きていると思った。

あと、文楽の弁慶は、あごのところのポンポンがねこのふぐりみたいで、可愛い。服についているポンポンとは素材が違うのがまた、いい。

 
 
 
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今回は、会期5日目の12日になってから「アフター7チケット」という勧進帳から観られる幕見チケット(3,000円/1等席のみ)の発売が発表された。その時点ですでに第三部を数枚抑えていたため、「今言うな」と思ったが、素直な性格なのでそれを利用して後半日程も1回行った。

開演直前にチケットセンターで確認したところ、上手前列に空席があったのでそこに入れるかもと思ったのだが、開演10分ほど前に行ってチケットを買ったら、センターブロック後方の席を案内された。

で、後半観てみたのだが、冨樫のような大型で大紋姿の人形はまっすぐに持つこと自体がかなり難しいことがよくわかった。頑張ってもらうしかないが、文楽は「頑張ってます」じゃ許されないですからねえ……。それと、前半だと玉志サンが冨樫の品性を大幅に担保していたので弁慶と冨樫のキャラクターの差がはっきり出ていたが、後半は誰も担保できない状態になっていた。三業すべて、もうこのさい上手い下手とかはなんも言わないので(言ってるけど)、とにかく、品がいる役には品を担保して欲しいと思った。

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しかし梅川の左の人っていつも同じだよね。この人が梅川を本役で遣う日がくるのはいつになるんだろう。近いような気もするが遠いようにも感じる。正直、近い気がする。近くても遠くても、別々の意味で悲しいことだ。そう思って梅川のクドキのところを見ていたら、もはや話の内容とは関係なく泣けてきた。それが一番泣けた。

勧進帳もそう。今後弁慶って誰が遣うようになるんだろうなと思った。前半日程最終日、弁慶が舞っている間、玉志サンは冨樫を持ちながら弁慶をじーーーっと見ていた。弁慶の足は将来弁慶を遣うことを見込んでつけられていると聞くが、玉志サンは先代玉男師匠ご存命の折、弁慶の足を遣っていたはず。玉志サンが本役で弁慶を遣う日はいつだろう。玉志サンて研修生出身でなんらかの後ろ盾があるわけじゃないし、ご本人は派手な振る舞いをする人じゃないようだから、本当に実力で熊谷なり冨樫なり権太なりの大きい役を得ているのだと思う。しかし弁慶はそれとはまた違った素質が必要になると思うので、今後どうなるのか、見ていきたいと思った。

 

 

 

 

 

くずし字学習 翻刻『女舞剣紅楓』二巻目 先斗町貸座敷の段

翻刻浄瑠璃 『女舞剣紅楓』の翻字二巻目。

『艶容女舞衣』において半七は親に勘当されたお坊ちゃんという設定だが、その先行作である『女舞剣紅楓』では設定がやや異なる。

半七が大和五條の茜屋の跡取り息子であることは同じ。しかしポジションや性格に違いがあって、『女舞剣紅楓』の半七は茜屋主人である父に命じられて、大坂の大店「宇治屋」へ出向している。現在は半七は手代の立場で若旦那・市蔵の京都行きへ同行し、世話を焼いている設定。仕事をちゃんとしていて、周囲への目配りができる結構なしっかり者。また、茜屋は半七の父(半兵衛)が宇治屋の先代(市蔵の父、現在隠居)から独立して開いたという設定になっている。

本作オリジナルの登場人物、市蔵は隠居した父から家督を譲られたれっきとした若旦那でありながら、相当なポワポワボンボンで、無邪気に遊び歩いている。市蔵には遊女の小勝という恋人がおり、実はこの小勝というのが三勝の姉。その市蔵が小勝を呼び出し、悪賢い手代・長九郎、いとこの善右衛門らとともに先斗町の貸座敷で今日もまた遊びに耽っているが……というのが二巻目のはじまり。

市蔵の放蕩や宇治屋には実在のモデルが存在するが、詳しくは三巻目の掲載時に譲る。

 

一巻目

 

 

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二巻目

千八百両。二千六百両。三千二百両。百二十八貫六百三十三匁六分。九十六貫目。
三百五十貫目。二百四十貫目。見れば金高凡七千六百両。銀高八百十五貫七
百三十三匁二分と。帳面合す奥の間は琴の音色も美しく。こがれし其夜は。あだ

 

夢の。いつをあふせにうつせみの。何ンと喜兵衛。先斗町の借座敷で。かうした勘定すると
いふは。あたらしいではないかい。いか様旦那市蔵様は嶋の内の女郎。小勝殿を連て此京に。三月キ
余りの御逗留。月勘定は御隠居からの格式。それ故はる/“\勘定を。お目にかけに来
たれど。何があの色すに打込。勘定は打やりに気にさへ入レばめつたむしやう。金は湯水と
蒔ちらし。大内相模には廿貫目やるの。山本屋三郎を受出すのと。出入の者は金もふけ
の昼。学問やら色事やら取交たせんさくと。かげ口いへば長九郎。ア是々。そりや旦那をやくた
なしにいふのか。君々たらず共。臣従たりといふ古語か有ル。忝くも旦那は。大坂ては宇治やといふ

 

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て。ならびのない金持。百貫目や二百貫目。おつかひなされても跡のへるといふではなし。人に
やるは。そくゐんの心仁の道。余りしはきはりんしよくといふて。聖人も呵つておかせられたと。学
問ごかしに市蔵を。そやし立たる一思案是ぞ浮名の初めなる。奥より出るは。難波津の。嶋
に名高期き全盛の小かつといへる訳しりが。爰に思ひをつながれて。しとけなりふり取なりも。おぼ
こらしうて色ふかき。長九郎は膝立なをし。久しぶりでの名が琴。アいつ聞てもきびしい/\。是は
又長九様のわるじやればつかり。ヲヽしんき。それはそうと。お前は物しりじやげなが。アノ。此宇治屋を
なぜ。都の辰巳とはいふへ。ハテ。宇治屋は都から。辰巳にあたつて有ル故。そこで宇治屋を辰巳。本ン

 

にそれでよめたわいな。喜撰法師の歌の心で。かはいらしい名では有ルと。我恋人にひかされ
てあだ名浮名もにくからず。何と喜兵衛見たか。旦那の迷ひもむりではない。今の世の
国色/\。おりやこくしやうでもひらでもくふて。お留守居方へ廻らふやならぬ。そんなら今の
せんなふは。二千両迄出すつもり。そふ心得て挨拶仕や。酒すごさずとつい戻りやと。番頭顔
のきりもりは。仏頼んで地獄なる。小かつは立て長九様ン。後にあをへと奥へ行。裾をひかへてこれ
小かつ殿。むごいぞや/\。大坂からこつち。こなたにくどくは幾度ぞ。思いひきらふ。と思ふても。モヽモ
とふも思ひ切れぬ。二度とはいわねぬたつた一度。つき合じやと思うふてと。ほうどだけばふりはなし。コレ

 

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長九様ン嗜まんせ。市蔵様ンはお前の為には何ンじやへ。現在のお主様。いかにわしが勤する迚そふ
さもしうはないわいな。学問とやら獄門とやらに。そんな事が有ルかへ。仮令勤の身じやと思へ
ばこそ声山立ずにこふして居る。憎ふはないがふつつりと。思ひ切ツて下さんせと。粋のさばきはくど
からず。かたいは詞も色めなり。いかにも聞へた。そんならこなた。茜屋の半七は旦那の為にはなんで
ござる。アリヤ親半兵衛が。御隠居に仕別られて大和五条の商人。其子の半七なら市蔵様
の為にはやつぱりけらい。ムヽあぢな事をいはんすはいな。半七様がけらいなら何ンとしたへ。アヽこれ/\小かつ
殿いはしやんな。それ程道立るこなたが。何ンで半七とはしていやしやる。サア。其訳が聞たい。とふから

 

状の取かはし。くろい眼コで見て置イた。有リやうにいやりやよし。そふないと今すぐに。旦那殿へまき出す
ぞ。サア。サヽヽヽどふじやと問詰られ。小かつは顔を打赤め。指うつむいて居たりしが。成ル程状の取
かはし。様子が有ル申シましよ。全わしとの訳ではない。証拠はと懐よりほどきし状を取出し。
うは書キは私が名。中の当テ名は三勝殿半七。其又三勝の状を。何ンでこなたの当名にして有ル。
さればいな。今迄隠して居たれ共ナ。アノ長町に居る舞子の三勝はわしが妹。半七様とは
お通といふ子迄有ルふかい中。始終の世話は姉の此わし。何ンで世話やくと思しめそふが。大和の
芝居で半七様ンを。妹三勝が見初。命にかけても逢たいときつい執心といふ事を。傍

 

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輩衆に聞た故。一人の妹かはいさに色をしらぬわしでもなし。どうぞあはしてやりたいと思ふ
た斗。大和の事ならつてもなし。其中トふつと市蔵様ンと。嶋の内の夏屋で一チ座の時。そこ
へ見へたが兼て聞た半七様。それからわしが取リ持て。今はかはいらしい中じやはいなア。したがかうし
た事がおもやへ聞へては。いふ事がこたへぬと。半七様のきつい隠しやう。それて三かつを妹といふ
事も。隠してゐたは此訳。必々疑ふて下さんすな。市様ンへはきつとさたなし。是斗リは頼ぞへ。きつい
粋では有ルぞいなと。長九郎を立テのぼし。のぼし立テられ両手を打。 大和の者も油断はならぬ。
半七めあやかり者。旦那殿にはいふまいが。其かはりにこなさんに。無心が有ルと付ケ込ムをあぢに

 

あしらい紛らかす折から表に。頼ンませう。なむ三ひよんな魔がさしたと。うぢ付ク間に小か
つはそつと。奥座敷へと走り行。案内とふて入来るは卡立派にいため付。勿体らしき
侍イに。挨拶なれし長九郎。いづ方よりと手をつけば。手前義は桜川大納言殿の家来。今川
大学と申ス者。宇治屋市蔵殿に直々御内意を得たく参ン上致た。其段よろしく御取
次願入と相イのぶれば。幸イ市蔵在宿致せば其段申達ツする間。暫く是に御休息
それおたばこ盆お茶持テと。礼儀もあつく奥へ入ル。やゝ時移り奥よりも長九郎引
つれ宇治屋市蔵。病気の長髪其儘に撫付ケ鬢のつやも能ク。座に居なを

 

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つて是は/\。大納言家よりのお使者と有レば爰は端近。先々奥へと末座に付キ。手前義
は宇治屋市蔵。自今以後御見しりおかれ下されと。挨拶聞イて堂上の使者ハヽハツト飛
しさり。扨はあなたが宇治屋市蔵様でござりますか。初めておめ見へ仕り冥加に余る
仕合と。思ひも寄ぬ挨拶尊敬。只ひれふすぞいぶかしき。アヽこれ/\。拙者は町人。左用の
御挨拶では近頃迷惑仕ると。かうべをさぐれば今川大学。市蔵を見上見おろし涙を流し。
御前にはいまだしろしめさぬ事故。さやうの御ふ審は御尤。もと御前には。桜川大納言家
の御三男。俗に申ス四十二の御二つ子故。陰陽家で占はせし所。公家武家になし奉つては。かなら

 

す御身に凶事あらん。町人百性となし申さば。御寿命長カしと申せしより。方々と承はり合せし
所に。大坂宇治屋喜左衛門殿に取かへ子の入由。それより拙者が親今川左近と申ス者。其節
の番頭源兵衛と申ス仁と相談仕り。人しらず宇治屋の惣領とは成給共。実は桜川大納
言家の御三男と。聞クより市蔵長九郎。初めて聞きたる取リかへ子さらにふ審ははれやらず。シテ
又其証拠ばしこざるかと。長九郎が根を押ス所へ。奥より出る善右衛門。両手をついてそこつながら
御使者様へ御ふ審。拙者義は是成市蔵とは従弟。親佐左衛門為には市蔵は甥。其
伯父たる佐左衛門。終にかやうの噂も申さず。跡にも先キにも只今承はつたが初め。何ンぞ慥

 

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な蹤跡をと。皆迄いはさずいふにも/\。去ながらたとへ此方に証拠有ツても。其方に証
拠なくては。猶々ふ審に思はれんと。いふ人々心付キ。幸イ此程入用有リて取寄セし。永代帳を持チ
来れといふより早く長九郎。廿七年以前ンの年ン号。くりかへし見る其中に。今川左近手代源兵
衛内々にて。桜川大納言の御三男を。惣領に申請ると。あり/\と印せし蹤跡。扨はそふか
と市蔵始メ皆々。[革可]*1て詞なき。今川大学家頼を招き。挟箱より木地台取出し。冠
装束重二単。市蔵が前に直し置。廿七年以来。御館には殊の外の御なつかしかり。使
者を取て御様子もおきなされ度ク思しめせ共。堂上の聞へを憚り給ひ。今日迄も其事

 

なく。此程しさりの仰には。外の子供はいづれも。雲上の交するに。あれ一人リ果報拙く。町人の
生立チ。年寄ルに従ひ思ひ出すと。御館の思しめしあだ疎に思しめしますな。夫故此装束は。
常こそはならず共。式日ツ五節の折柄は内々にて御召シなさる様にとくれ/“\の思しめし。若シ奥方
もあらば此重二単を指上いと。彼是の御心遣ひ。先ツ々御機嫌の御様子見奉り。いか程か悦
ばしう存ますと次第つぶさに述ければ。市蔵も涙を流し。公家武家の交ならず。ふ運
なる某を。子と思しめす御情。偏に父母の御恵の廣大さよと斗にて。有がた涙に伏しづむ。
座敷もしらけて見へければ。善右衛門は心付キ。先ツ々めでたい家のほまれ。縁ンにつながる手前

 

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迄いか程か大慶/\。長九郎が学文は雑掌役に相応。市蔵殿の惣髪はお公家様に又
相応。重二単は指詰小勝。先ツお使者をば通しませと。俄に追従けいはくは浦山しくぞ見へに
ける。使者は改め懐中より一通取出し念の為。御装束二通り慥に頂戴の御印形をと。いふ
にげにもく市蔵が早印形も手にふれず。長九郎宜しくはからへと。仰にはつと印形を押スにおさ
れぬ高位の旦那。今川大学奥へ来れ。九献をくんで寿んと。詞に各々ハヽハツト敬ひ傅く
かんたんの。爰の栄花の雲の上。皆々打つれ入にける。引かへし出る善右衛門。続いて跡より長九郎。
顔見合せて上首尾/\。扨テ家折たは。永代帳のもくさん大伴の黒主をはだし/\。何ンと善右

 

衛門が智恵見ておけ。市蔵を奢者にして家を追イ出し。跡目なければ親佐左衛門が後見する。
スリヤ此身体は善右衛門が心儘。其時そちを別家させ惚て居る小かつを請け出すか。拙者は舞
子三勝を思ひ者。何ンと色と金とのもふけ取。むまい/\と悦べば。アヽめつたにむもふないてや。アノ
こは者は今川大学。万ン一もくを割おると。おまへやおれが首がとぶ。こちらが命にはかへられぬ。いか様そこも
有ルわいや。そんならどふせうかう/\と。耳に口よせ相談の中へ小かつは走り出。善右衛門様ン長九様ン。市蔵
様ンの御待兼。早い事じやと言ひ捨てとつかい入レばヱヽどんな。奥でとつくり相談と心せはしくはしり入ル。
所へ出る今川大学。おめでた酒のほろ/\酔。ひよろ/\立出あたりを眺め。懐中より金子取出し

 

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明て見て。褒美の金子八十両。ヱ忝しと押シいたゞく。後へ長九郎善右衛門。たまし打に切付クるを引ツ
はづして取ツて投。又切リ付ルを算盤で。はつしと請ケし手引の早わざ。こなたをすかせばあちらから。つ
いてかゝるを大帳で交ケつ流しつ両人を。右と左リに捻上ケて天秤をこだてに取リ。顔も損ぜずさはがぬ
色目。コリヤ藤戸の格じやな。十夜の晩に誓願寺で友達チに頼れた大切ツなもふけ事。仕そん
ぜぬ所が宵寝の仁助。そんなあまい事でいくやうなおれじやごんせぬ。高がかるい者じやによつて。
跡のほぐれの気づかひさに。ばらして仕廻フつもりと見た。ふ了簡/\。惣体仕事といふ物は。念を入レ
てあつらへりや末代道具。ざつとしたでき合は損じがはやい。末代道具にせうと。でき合にあつらよ

 

ふと。どふ成リと手間賃次第。ばた/\せずと出なをさんせと。せんの先ン取ルすつぱの兀頂。二人は思案
の腰ぬかれ[革可]て。詞もなかりけり。何ンと長九郎。末代道具に誂ふかい。したが善右衛門様。末代道具
の代用見にや。手間賃がやられませぬ。いか様。代物見てからと。念をつかへば飲込みました。其代物見
せませうと。表へ向ひ手をたゝけば。ずつと出くる草履取リ。是も十夜の夜番の仲カ間。長九郎様。
善右衛門様。マアおめでたふござります。仁助。ア昔にかはらぬ手際/\。どうみやく事ならお家じや。サ。
十両のわけ口。丁稚衆に聞て置イた。久しぶりじやに。マア握らせ。いかにも浚そと。いふより早くぐつと
突込氷の釼キ。二人はがち/\色青ざめ。立たり居たりうろ付ク内。物をもいはさずとどめの刃。善右衛

 

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門様。長九郎殿。末ツ代道具誂の代物。性根のすはらぬ安ス物と。息の根とめる手間賃が二十
両。其又殺すを代物とは。ハテそつちがばれりやこつちも此首。互イにもらさぬ引ぱり仕事。分口
やらず一人リして。頂戴致す始終の工面と。人を殺して悠々と血押シぬぐふて立ツたるは。ぞつとする程
恐ろしき。さつても物仕め落付イたと。二人もおづ/\廿両。ソレ手間賃と投ケ出せば。押シ戴て懐
中し。御用があらば何ン時でも。随分まけて上ませう。おふたり様。おさらばと。ずつと行をアヽこれ/\。其死
骸をめつそふな。かうして置イてよい物か。どふぞ頼ムと引とむれば。三条のかはら迄。かたげて行のが金
十両。それは高い。高くば外を聞キ合して。お暇申と出て行を。ヲツト十両高ふない。切が有ルならおつての

 

さん用。かゝりはないと両人を。思ふ様に取たくり死骸をかたに引かたげ表へ出るぞふ敵なる。奥より
さは/\市蔵小勝。此喜びを大坂の夏屋でくいつと惣振舞。是からすぐに下リの用意。長
九郎供せい善右殿。同舩致そふいざ/\とあすをしらふの鷹の夢。富士見る夢のたびご
ろもきつれ。引つれ難波津の詞の。花ぞさかりなる

(三巻目へつづく)

 

 

*1:あきれ。革+可で一字。

文楽 1月大阪初春公演『加賀見山旧錦絵』『明烏六花曙』国立文楽劇場

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『加賀見山旧錦絵』草履打の段、廊下の段、長局の段、奥庭の段。

加賀見山は正直話がおもしろくない(突然の直球)。「女忠臣蔵」と言われても『仮名手本忠臣蔵』のような話の深みや文章の美しさがあるわけではなく、全体的に予定調和で単調。とは言え、舞台モノは内容が重厚であることだけがおもしろさではない。そこ以外に見所を作れるかが勝負の演目だと思う。

 

見所は、お初〈桐竹勘十郎〉の異形性。

勘十郎さんは簑助さんに似ていないと思っていたが、いや違う、やはり似ていると思った。見た目そのものはまったく違うが、その異形性そのものにおいては、かなり近いのではないか。

勘十郎さんって、石井輝男の映画に出てきそうなタイプだよね。あのあからさまな異形性、毒々しいけばけばしさ、「人間」でないことの強烈な主張。石井輝男がもし存命で現役であったなら、あるいは勘十郎さんが石井輝男の全盛期と同時代に今の技量があったなら、人形ながらキャストに混じってたと思う。ナチュラルに土方巽が混じっていた、あの感覚で。

このお初にしても、『緋ぢりめん博徒』に出てくる女渡世人たちに混じっていてもおかしくない。古典芸能だと女性の役は実際の女性以上に「女性らしさ」を強調するけど、勘十郎さんはあまり性別を感じさせないところも。(結構男性的な雰囲気があって、場面によってはそれがいきすぎて浮いているけど、岩藤〈吉田玉男〉が出てくるとバランスが取れるのは面白い)

お初は、尾上の前とそれ以外では、態度が明瞭に異なる。廊下の段で最初に姿を見せるときはおしとやかで大人しいお嬢さん風なのに、尾上の出以降、特に部屋へ帰って世話をするくだりになると落ち着きがなくなり、動作もやや乱雑になる。噂話で尾上が岩藤に侮辱されたことを知り、尾上が何かしでかすのではないかという不安、わたしが励まさなくてはならない、しかしわたしに止められるのかという焦りによって過剰にテンションが上がり、カラ元気のようになっているという解釈かと思う。尾上が脱いだ打掛を片付けるところも、近視眼的な相当がさつな畳み方だったが、他の役ならもっと丁寧にやっていると思う。そのカラ元気感が一種異様で、異様な深刻さ、やや病的に歪んだ印象があるのが勘十郎さんらしさだと思う。それ以外は普通の娘さん。用事をするため控えの間に下がっているあいだは動作が落ち着いていて、襖の出入りも一度かがんでから開け閉めしていて丁寧だし。

長局の段切、尾上の打掛を被って走っていく姿は、忠義に燃える純粋な娘とかそういうものじゃなく、異様な思念に精神を支配されて人間でなくなったモノの姿のようだった。尾上が着ていたときには可憐でおとなしげな柄だと思ったあの薄紫の打掛も、勘十郎さんのお初がかぶるとぎらついているように思えて、紫の小花柄も狂気の象徴のように見える。打掛に隠された彼女の顔を見てはいけないと思った。打掛の下のお初の表情はおそらくガブのかしらよりずっと恐ろしい。ああいうことができるのは、勘十郎さんだけだと思う。私は、お初は、もとから(浄瑠璃の時点から)人間ではないと思う。それが生かされた人形の造形、演技だと感じた。

でも、勘十郎さんのあの異形性をさらにいかすには、あの異形性に追いつけるほどの左や足が必要になる。しかしその日は来ないだろう。玉男さんは方向性の合った左の人がいて、恵まれてると思う。ただそれは偶然ではなく、一門での今までの積み重ねや、ひいては亡くなった師匠がやってきたことといった、数年レベルではない長い年月をかけての積み重ねがあったからこそだと思う。

床も、勘十郎さんの勢いに負けているように感じた。勘十郎さんの勢いというのは、勢いだけで押し切っているのではなく、浄瑠璃に即した登場人物の情念とご本人の情念があってこその、狂気めいたもの。床が人形に合わせる必要があるわけでも、狂気がいるわけでもないが、なにか競合するものがないと、アンバランスに思える。

 

和生さんの尾上はすばらしかった。第一部では和生さんの夕霧役の愛らしさに驚愕したが、でもやっぱり尾上的な役のほうが落ち着く。とはいえ尾上は和生役としては結構若めで、女子校の憧れの先輩的な感じだった。洗練された佇まい、うちしおれた雰囲気が美しかった。枯れた感じじゃなくて、しおれたて(?)な感じが良かった。長局のひとり舞台はさすが。あそこまで少ない動きの中で間を持たせられるのは、当代において和生さんだけだろう。仏間へ入るときの心を定めた陰鬱さはことに良かった。

 

玉男さんは珍しく女方、岩藤役で登場。玉男さんって、ああいう悪意とは真逆の人なんじゃないかなと思った。演技自体はうまいんだけど、そこに執拗さや陰湿さがない。義平次もそうだけど、性格が曲がってて頭で考えて人をいびるような役、あんまり向いていないなと思った。特に執拗さが全然ない。ご自分でも昔紋壽さんにもっとやらなきゃいけない的な助言をされたという話をなさっていたが、いじめかたが誠実すぎなのだと思う。ただ、佇まいはかなり上品で、大奥を仕切っている威厳はよく感じられた。

 

ほか、細かいところを箇条書きで。

  • 草履打ちの段で岩藤が地面にスリスリする泥つきの草履、表がベージュ、裏が茶色で、アルフォートみたいでおいしそうだった。文楽劇場で草履打ちチョコクッキーを売って欲しいと思った。あの丁寧なスリスリ動作、玉男さんらしい几帳面さがあって、良い。
  • 女方の人形って時々お顔を懐紙でトントンして化粧直しするが、人形遣いには化粧直しが的確な人と、「化粧直し」で何をやっているのかよくわからずやっている人がいるね。玉男さんは普段女型をやらないのに化粧直しが正しいのは、リアルな人間を含めた周囲をよく見ているのではないかと思う。
  • お初は普通の町娘とは喋り方が違うそうだ。武家の娘で御殿勤めをしているという複雑な設定のため、特殊な喋り方をするらしい。「タタタッ」と言って、ちょっとゆるむとのこと。実際の舞台ではそこまではよくわからなかった。
  • 以前に観たとき、廊下の段でお初が持っている小さな包みが何かわからなかったのだが、あの中に尾上の替えの草履(上履き?)が入っているってことなのね。あのミニ風呂敷包み、可愛い。
  • 長局は文楽以外では上演できないであろうめちゃくちゃ地味な内容で、あれをいかに聴かせるかに文楽のおもしろさがあるのだろうと思った。自分が観た回は初日・二日目だったからか、ギリギリの均衡という印象だった。良かったのだが、床と人形の兼ね合いがずれたり、緊張感が時折プツプツ切れていたように感じた。長いし、特に尾上一人になってからは大きな動きがないので難しいのだろうと思った。ただ、小娘は出てこないので、千歳さんにとっては声域的にやりやすいだろうなと思った。三味線はとても良かった。
  • お初が局を出る直前、棚に上げたお灯明がふっと消え、お初はそれに気づかないまま出て行ってしまうが、あれは不幸の予兆ということなのだろうか。
  • 廊下で岩藤と密談している伯父弾正〈吉田玉輝〉、相変わらず全身の毛がつながっていそうな風貌と仏壇の前に置いてるグッズ風の濃厚ビジュアルで玉輝〜〜〜!感満点だったが、うつむいて→顎を上げるところに下品と上品ギリギリ境界のニュアンスがあって良かった。
  • 奥庭に出てくる変なヒゲの人、ヒゲが変。〈忍び当馬=吉田玉彦〉

 

 

 

明烏六花曙、山名屋の段。あらすじは以下の通り。

雪降り積もる江戸の町。春日時次郎〈吉田玉助〉は主人の重宝「臥竜梅の一軸」を紛失して勘当され、その行方の目処もつかないことから自害の覚悟を決める。その前に、恋人である遊女・浦里〈吉田勘彌〉と娘・みどり〈前半=吉田玉路〉に一目会おうと、時次郎は浦里が奉公する山名屋へ忍んでゆく。

山名屋の二階では、湯上りの浦里とみどりがそっと話し込んでいる。みどりは浦里を実の母だと知らず、禿として彼女の身の回りの世話をしていた。塀の外に時次郎がいることに気づいたみどりに教えられ、浦里は伸び上がって時次郎に呼びかけるが、そのとき、髪結いのおたつ〈豊松清十郎〉がやってくる。慌てて身を隠す時次郎。

気分がすぐれないので髪を結うのはやめるという浦里に、おたつは髪を直せば気持ちもしゃんとするだろうと、表情の曇った彼女を鏡台の前に座らせる。おたつが髪を直しながら語るのは、夫との馴れ初め話。出会いこそ男の熱烈な求愛だったが、次第に金を貸せと言いだし、しまったと思ったものの若い時分は二度とないと思って金を工面し、それがかさんでついに心中の約束をしてしまった。しかしそれを友達に引き止められ、いまでは所帯を持って普通の夫婦のように仲良く喧嘩しながら暮らしていると。おたつは、浦里にも好きな男ができたら、思うようにいかず気が急いて無分別なことを考えてしまうかもしれないが、みどりのような可愛い子でもあったら無分別も出来ないと言う。そうして喋りすぎたと笑うおたつは、向かいの東屋へ行くと言って庭へ降りる。おたつは切戸口から出ると言って、そこに身を隠していた時次郎を山名屋の中へ押し込むのだった。

再会した浦里と時次郎は涙ながらに手を取り合うが、そのとき、遣り手・おかやが浦里を呼び立てる声が聞こえる。浦里は慌てて時次郎をこたつへ隠し、部屋へ入っていたおかや〈吉田簑一郎〉へは今起き上がったかのように振る舞う。するとおかやは旦那様が呼んでいると言って、浦里とみどりを引っ立てるのだった。

雪の降り積もる中庭に連れてこられた浦里とみどり。主人・勘兵衛〈吉田文司〉は、浦里に「時次郎から何か頼まれたことはないか」と問うが、浦里はシラを切る。勘兵衛はおかやに命じて浦里を庭の松に縛り付けさせ、拷問させるが、浦里はなおも口を割らない。止めに入ったみどりまで縛り上げると、勘兵衛は自ら庭に降り、時次郎から金岡の一軸*1の詮議を頼まれていただろうと火鉢にかけてあった鉄弓を突きつける。実は中庭に面した座敷の床の間にかけてあった掛け軸こそ、時次郎が探していた主人の重宝「臥竜梅の一軸」だったのだ。それでも吐かない浦里に業を煮やした勘兵衛は鉄弓でみどりを打ち据える。その責めに幼子はあっと声を上げて動かなくなってしまい、それを見た浦里は庭に倒れ伏して泣き叫ぶ。

その声に、現れた手代の彦六〈吉田簑二郎〉がおかやの振り上げた箒をとどめ、折檻の役目を代わりに引き受けると言う。実は彦六はかねてより浦里に横恋慕しており、この機会に彼女へ取り入ろうとしていたのだった。勘兵衛がこの場は任せるとして去っていくと、おかやは浦里の戒めを解こうとする彦六を責め立てる。しかし逆に彦六はおかやを滅多打ちにしてしまい、おかやが昏倒したすきに浦里とみどりを助け、一緒に逃げようと言ってへそくりを取りに行く。その隙にやってきた時次郎、床の間の掛け軸が探していた主家のものであると喜び、早速回収して浦里らとともに逃げ行こうとする。しかし彦六が戻ってくる足音が聞こえ、浦里は座敷の明かりを吹き消す。暗闇の中、彦六は浦里に財布を渡すと、床の間の掛け軸も持って行くと言い出す。掛け軸が見当たらず探り足で庭へ戻った彦六は倒れていたおかやに行き当たり、意識を取り戻したおかやは大騒ぎ。そのすきに時次郎はみどりを背負い、浦里を連れて店を逃げ出すのであった。

24年ぶりの上演とのことだけど……、そりゃ〜上演されないわな〜……と思った。これやるくらいなら加賀見山に筑摩川と又助住家をくっつけて上演したほうが良い気がするが、なんでこれを上演しようと思ったんだろう……。正直、途中で帰りたくなった……。

ツライのは、詞章が全部状況の説明になっていること、話にメリハリがないこと。「見せ場」も「ためにする見せ場」で、ストーリー上の意義がない。内容的に、人形浄瑠璃でやるには濃度不足なんじゃないかと思った。おたつの要素は原作である新内にはなく、義太夫オリジナルらしいけど、それでも間がもっていないし、行動が説明的すぎて不自然さがあり、あれを粋というのは無理がある。「浦里とみどりは親子だが、みどりはそれを知らない」という設定も有効とは思えなかった。正直、文楽にもこんなにつまらん話あるんだという逆の衝撃を受けた。床も相当うまい人がやらないと間がもたないと思う。こういうモタモタしてペタッとした演目こそ、錣さんが語ればもっとグッと締まるんではないかと思うけど、当たり前だけど今月は襲名演目に出演されてるからねぇ……。

人形の浦里、おかや、勘兵衛、彦六、それぞれのパフォーマンスは良い。でも、登場人物同士の人間関係が「設定」にすぎないせいで空回り感があり、ツライものがあった。おたつを簑助さんがやるくらいのパンチがないと、のっぺりした印象になる。少なくとも時次郎を清十郎にしてくれ。清十郎頼む分裂してくれと思った。

浦里は普通の娘とは少し違う印象の顔立ちのかしらのように思われて、なんというか、人間ぽい、普通ぽい顔なのが不思議だった。おもしろかったのは、後半、雪の庭に入ってくるときの足取り。他の演目にあまり見られないような雰囲気で、雪の中だからか、ツギ足のような、あるいは太夫クラスの傾城のように八の字を踏むような変わった歩き方をしていた。雪の中を歩く登場人物だと、駒下駄を履いていてカポカポ足音がするやつがいるが、そういうわけでもなく、雪をもぞもぞ踏み分けているという設定なのかな。ただ後半は縛られている時間が長すぎて、遊女らしい優美さに欠けるのが残念。演出上(浄瑠璃の文書上)の不備に感じた。

彦六が出てきて少し話にメリハリがつくかと思いきや、チャリとしてなんとも薄味。簑二郎さん自身は単調にならないよう舞台を盛り上げようと工夫なさってて、それで一息つけた感はあった。簑ブラザーズの工夫シリーズといえば、庭の雪に顔を突っ込んで気絶していたおかや婆が意識を取り戻して顔を上げたとき、フェイスパックのように顔へ雪を貼り付かせていたのは細かかった。毛穴が2年分ほど縮まりそうだった。(あと、しばらくすると頭にもちゃんと雪が積もっていきます)

 

繰り返しになるが、この上演によって、普段上演されている定番演目というのは、定番になる理由があり、かつ演出が非常に洗練されているということがよくわかった。この退屈さ、現行では見取りになっている演目の上演されていない段や、そもそも上演されていない演目を本で読んだとき、しばしば「そりゃ〜これは上演されないわな」と思うのと似た感覚を覚えた。文楽の満足感には、話のおもしろさ自体の比重が相当高いことを実感した。

 

 

 

そういうわけで、第二部はなかなかチャレンジ精神に溢れた番組編成だった。

演目の特性上、出演者の技量に上演上のおもしろさが左右されていると感じた。これによって、自分は技芸員個々のファンなのではなく、文楽自体が好きなんだなということがわかった。話がつまんないとなんだか満足感が薄い。私は本当は技芸員に興味ないのかもしれない。

 

あまりこういうことは書きたくないが、ひとつ。物陰からそっと立ち上がる人形って、封印切の忠兵衛、殿中刃傷の本蔵などいっぱいいるけど、あれは人形が物陰からすっと姿を覗かせるから雰囲気が出る。人形より先に人形遣いが立ち上がっては興ざめ。人形のミスで、小道具を落っことすとか、衣装の脱ぎ着に多少手間取るとか、そういううっかりミスや未熟故の手際の悪さは仕方ないと思っている。でも、これは偶然の過失のたぐいではない。何も考えてないからこういうことを平気でやるのだろう。この手のありえない悪手をやる人に対し、周囲は誰も注意しないのだろうか。それとも注意されても直らないんだろうか。いずれにしても虚しい。

 

 

 

文藝春秋1月号(12/10発売号)に掲載された玉男様のエッセイ。
(注:文藝春秋の公式デジタル記事配信。途中から有料)

昨年10月22日に行われた即位の儀に付随した首相夫妻主催の晩餐会に出演されたときの感想を綴ったもの。

狂言や歌舞伎と一緒に三番叟を踊ったことについて、文楽としてあの場にどういう考えで臨んだのか、他の芸能との共演の不安やその解消、どうしてあの人形だったのか等が語られている。パフォーマンス自体は動画配信で見たが、能・狂言・歌舞伎は世襲の出演者だったにも関わらず、玉男様だけ一般家庭出身。にも関わらず、「どちらのご宗家?」って感じで、押し出し度はほかの人に張っていたのがとくによかった。

しかし、玉男様の文章って、ものすごく静謐で簡素だよね。ここまでシンプルな文章は意図していないと書けないと思うが、どうなのだろう。小手先の文章テクニックtipsでは書けないタイプの文体だと思う。

↓ フル動画 1:25くらいからが古典芸能パートですが、先に狂言(翁)と歌舞伎(イケメンのほうの三番叟)が踊るので、玉男様(ギャグ顔の三番叟)が出てくるのは最後です。


【LIVE】野村萬斎・市川海老蔵が演目披露も 来日の国賓を招待 首相夫妻主催の晩さん会

 

 

おまけ。

2日目、第一部と第二部の間に、生國魂神社へ初詣に行った。4日ともなればすいているだろうと思ったら結構な行列が出来ており、第二部の開演に遅刻するかと思った。

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境内の浄瑠璃神社。絵馬がお初徳兵衛だった。

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のんきにたこ焼きを食ってから行こうとしたのが間違いだった。
(あほや谷町9丁目店で買いました。文楽劇場から徒歩10分くらい)

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*1:「金岡」って何? 巨勢金岡?