TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 1月大阪初春公演『加賀見山旧錦絵』『明烏六花曙』国立文楽劇場

f:id:yomota258:20200127234616j:plain


 

『加賀見山旧錦絵』草履打の段、廊下の段、長局の段、奥庭の段。

加賀見山は正直話がおもしろくない(突然の直球)。「女忠臣蔵」と言われても『仮名手本忠臣蔵』のような話の深みや文章の美しさがあるわけではなく、全体的に予定調和で単調。とは言え、舞台モノは内容が重厚であることだけがおもしろさではない。そこ以外に見所を作れるかが勝負の演目だと思う。

 

見所は、お初〈桐竹勘十郎〉の異形性。

勘十郎さんは簑助さんに似ていないと思っていたが、いや違う、やはり似ていると思った。見た目そのものはまったく違うが、その異形性そのものにおいては、かなり近いのではないか。

勘十郎さんって、石井輝男の映画に出てきそうなタイプだよね。あのあからさまな異形性、毒々しいけばけばしさ、「人間」でないことの強烈な主張。石井輝男がもし存命で現役であったなら、あるいは勘十郎さんが石井輝男の全盛期と同時代に今の技量があったなら、人形ながらキャストに混じってたと思う。ナチュラルに土方巽が混じっていた、あの感覚で。

このお初にしても、『緋ぢりめん博徒』に出てくる女渡世人たちに混じっていてもおかしくない。古典芸能だと女性の役は実際の女性以上に「女性らしさ」を強調するけど、勘十郎さんはあまり性別を感じさせないところも。(結構男性的な雰囲気があって、場面によってはそれがいきすぎて浮いているけど、岩藤〈吉田玉男〉が出てくるとバランスが取れるのは面白い)

お初は、尾上の前とそれ以外では、態度が明瞭に異なる。廊下の段で最初に姿を見せるときはおしとやかで大人しいお嬢さん風なのに、尾上の出以降、特に部屋へ帰って世話をするくだりになると落ち着きがなくなり、動作もやや乱雑になる。噂話で尾上が岩藤に侮辱されたことを知り、尾上が何かしでかすのではないかという不安、わたしが励まさなくてはならない、しかしわたしに止められるのかという焦りによって過剰にテンションが上がり、カラ元気のようになっているという解釈かと思う。尾上が脱いだ打掛を片付けるところも、近視眼的な相当がさつな畳み方だったが、他の役ならもっと丁寧にやっていると思う。そのカラ元気感が一種異様で、異様な深刻さ、やや病的に歪んだ印象があるのが勘十郎さんらしさだと思う。それ以外は普通の娘さん。用事をするため控えの間に下がっているあいだは動作が落ち着いていて、襖の出入りも一度かがんでから開け閉めしていて丁寧だし。

長局の段切、尾上の打掛を被って走っていく姿は、忠義に燃える純粋な娘とかそういうものじゃなく、異様な思念に精神を支配されて人間でなくなったモノの姿のようだった。尾上が着ていたときには可憐でおとなしげな柄だと思ったあの薄紫の打掛も、勘十郎さんのお初がかぶるとぎらついているように思えて、紫の小花柄も狂気の象徴のように見える。打掛に隠された彼女の顔を見てはいけないと思った。打掛の下のお初の表情はおそらくガブのかしらよりずっと恐ろしい。ああいうことができるのは、勘十郎さんだけだと思う。私は、お初は、もとから(浄瑠璃の時点から)人間ではないと思う。それが生かされた人形の造形、演技だと感じた。

でも、勘十郎さんのあの異形性をさらにいかすには、あの異形性に追いつけるほどの左や足が必要になる。しかしその日は来ないだろう。玉男さんは方向性の合った左の人がいて、恵まれてると思う。ただそれは偶然ではなく、一門での今までの積み重ねや、ひいては亡くなった師匠がやってきたことといった、数年レベルではない長い年月をかけての積み重ねがあったからこそだと思う。

床も、勘十郎さんの勢いに負けているように感じた。勘十郎さんの勢いというのは、勢いだけで押し切っているのではなく、浄瑠璃に即した登場人物の情念とご本人の情念があってこその、狂気めいたもの。床が人形に合わせる必要があるわけでも、狂気がいるわけでもないが、なにか競合するものがないと、アンバランスに思える。

 

和生さんの尾上はすばらしかった。第一部では和生さんの夕霧役の愛らしさに驚愕したが、でもやっぱり尾上的な役のほうが落ち着く。とはいえ尾上は和生役としては結構若めで、女子校の憧れの先輩的な感じだった。洗練された佇まい、うちしおれた雰囲気が美しかった。枯れた感じじゃなくて、しおれたて(?)な感じが良かった。長局のひとり舞台はさすが。あそこまで少ない動きの中で間を持たせられるのは、当代において和生さんだけだろう。仏間へ入るときの心を定めた陰鬱さはことに良かった。

 

玉男さんは珍しく女方、岩藤役で登場。玉男さんって、ああいう悪意とは真逆の人なんじゃないかなと思った。演技自体はうまいんだけど、そこに執拗さや陰湿さがない。義平次もそうだけど、性格が曲がってて頭で考えて人をいびるような役、あんまり向いていないなと思った。特に執拗さが全然ない。ご自分でも昔紋壽さんにもっとやらなきゃいけない的な助言をされたという話をなさっていたが、いじめかたが誠実すぎなのだと思う。ただ、佇まいはかなり上品で、大奥を仕切っている威厳はよく感じられた。

 

ほか、細かいところを箇条書きで。

  • 草履打ちの段で岩藤が地面にスリスリする泥つきの草履、表がベージュ、裏が茶色で、アルフォートみたいでおいしそうだった。文楽劇場で草履打ちチョコクッキーを売って欲しいと思った。あの丁寧なスリスリ動作、玉男さんらしい几帳面さがあって、良い。
  • 女方の人形って時々お顔を懐紙でトントンして化粧直しするが、人形遣いには化粧直しが的確な人と、「化粧直し」で何をやっているのかよくわからずやっている人がいるね。玉男さんは普段女型をやらないのに化粧直しが正しいのは、リアルな人間を含めた周囲をよく見ているのではないかと思う。
  • お初は普通の町娘とは喋り方が違うそうだ。武家の娘で御殿勤めをしているという複雑な設定のため、特殊な喋り方をするらしい。「タタタッ」と言って、ちょっとゆるむとのこと。実際の舞台ではそこまではよくわからなかった。
  • 以前に観たとき、廊下の段でお初が持っている小さな包みが何かわからなかったのだが、あの中に尾上の替えの草履(上履き?)が入っているってことなのね。あのミニ風呂敷包み、可愛い。
  • 長局は文楽以外では上演できないであろうめちゃくちゃ地味な内容で、あれをいかに聴かせるかに文楽のおもしろさがあるのだろうと思った。自分が観た回は初日・二日目だったからか、ギリギリの均衡という印象だった。良かったのだが、床と人形の兼ね合いがずれたり、緊張感が時折プツプツ切れていたように感じた。長いし、特に尾上一人になってからは大きな動きがないので難しいのだろうと思った。ただ、小娘は出てこないので、千歳さんにとっては声域的にやりやすいだろうなと思った。三味線はとても良かった。
  • お初が局を出る直前、棚に上げたお灯明がふっと消え、お初はそれに気づかないまま出て行ってしまうが、あれは不幸の予兆ということなのだろうか。
  • 廊下で岩藤と密談している伯父弾正〈吉田玉輝〉、相変わらず全身の毛がつながっていそうな風貌と仏壇の前に置いてるグッズ風の濃厚ビジュアルで玉輝〜〜〜!感満点だったが、うつむいて→顎を上げるところに下品と上品ギリギリ境界のニュアンスがあって良かった。
  • 奥庭に出てくる変なヒゲの人、ヒゲが変。〈忍び当馬=吉田玉彦〉

 

 

 

明烏六花曙、山名屋の段。あらすじは以下の通り。

雪降り積もる江戸の町。春日時次郎〈吉田玉助〉は主人の重宝「臥竜梅の一軸」を紛失して勘当され、その行方の目処もつかないことから自害の覚悟を決める。その前に、恋人である遊女・浦里〈吉田勘彌〉と娘・みどり〈前半=吉田玉路〉に一目会おうと、時次郎は浦里が奉公する山名屋へ忍んでゆく。

山名屋の二階では、湯上りの浦里とみどりがそっと話し込んでいる。みどりは浦里を実の母だと知らず、禿として彼女の身の回りの世話をしていた。塀の外に時次郎がいることに気づいたみどりに教えられ、浦里は伸び上がって時次郎に呼びかけるが、そのとき、髪結いのおたつ〈豊松清十郎〉がやってくる。慌てて身を隠す時次郎。

気分がすぐれないので髪を結うのはやめるという浦里に、おたつは髪を直せば気持ちもしゃんとするだろうと、表情の曇った彼女を鏡台の前に座らせる。おたつが髪を直しながら語るのは、夫との馴れ初め話。出会いこそ男の熱烈な求愛だったが、次第に金を貸せと言いだし、しまったと思ったものの若い時分は二度とないと思って金を工面し、それがかさんでついに心中の約束をしてしまった。しかしそれを友達に引き止められ、いまでは所帯を持って普通の夫婦のように仲良く喧嘩しながら暮らしていると。おたつは、浦里にも好きな男ができたら、思うようにいかず気が急いて無分別なことを考えてしまうかもしれないが、みどりのような可愛い子でもあったら無分別も出来ないと言う。そうして喋りすぎたと笑うおたつは、向かいの東屋へ行くと言って庭へ降りる。おたつは切戸口から出ると言って、そこに身を隠していた時次郎を山名屋の中へ押し込むのだった。

再会した浦里と時次郎は涙ながらに手を取り合うが、そのとき、遣り手・おかやが浦里を呼び立てる声が聞こえる。浦里は慌てて時次郎をこたつへ隠し、部屋へ入っていたおかや〈吉田簑一郎〉へは今起き上がったかのように振る舞う。するとおかやは旦那様が呼んでいると言って、浦里とみどりを引っ立てるのだった。

雪の降り積もる中庭に連れてこられた浦里とみどり。主人・勘兵衛〈吉田文司〉は、浦里に「時次郎から何か頼まれたことはないか」と問うが、浦里はシラを切る。勘兵衛はおかやに命じて浦里を庭の松に縛り付けさせ、拷問させるが、浦里はなおも口を割らない。止めに入ったみどりまで縛り上げると、勘兵衛は自ら庭に降り、時次郎から金岡の一軸*1の詮議を頼まれていただろうと火鉢にかけてあった鉄弓を突きつける。実は中庭に面した座敷の床の間にかけてあった掛け軸こそ、時次郎が探していた主人の重宝「臥竜梅の一軸」だったのだ。それでも吐かない浦里に業を煮やした勘兵衛は鉄弓でみどりを打ち据える。その責めに幼子はあっと声を上げて動かなくなってしまい、それを見た浦里は庭に倒れ伏して泣き叫ぶ。

その声に、現れた手代の彦六〈吉田簑二郎〉がおかやの振り上げた箒をとどめ、折檻の役目を代わりに引き受けると言う。実は彦六はかねてより浦里に横恋慕しており、この機会に彼女へ取り入ろうとしていたのだった。勘兵衛がこの場は任せるとして去っていくと、おかやは浦里の戒めを解こうとする彦六を責め立てる。しかし逆に彦六はおかやを滅多打ちにしてしまい、おかやが昏倒したすきに浦里とみどりを助け、一緒に逃げようと言ってへそくりを取りに行く。その隙にやってきた時次郎、床の間の掛け軸が探していた主家のものであると喜び、早速回収して浦里らとともに逃げ行こうとする。しかし彦六が戻ってくる足音が聞こえ、浦里は座敷の明かりを吹き消す。暗闇の中、彦六は浦里に財布を渡すと、床の間の掛け軸も持って行くと言い出す。掛け軸が見当たらず探り足で庭へ戻った彦六は倒れていたおかやに行き当たり、意識を取り戻したおかやは大騒ぎ。そのすきに時次郎はみどりを背負い、浦里を連れて店を逃げ出すのであった。

24年ぶりの上演とのことだけど……、そりゃ〜上演されないわな〜……と思った。これやるくらいなら加賀見山に筑摩川と又助住家をくっつけて上演したほうが良い気がするが、なんでこれを上演しようと思ったんだろう……。正直、途中で帰りたくなった……。

ツライのは、詞章が全部状況の説明になっていること、話にメリハリがないこと。「見せ場」も「ためにする見せ場」で、ストーリー上の意義がない。内容的に、人形浄瑠璃でやるには濃度不足なんじゃないかと思った。おたつの要素は原作である新内にはなく、義太夫オリジナルらしいけど、それでも間がもっていないし、行動が説明的すぎて不自然さがあり、あれを粋というのは無理がある。「浦里とみどりは親子だが、みどりはそれを知らない」という設定も有効とは思えなかった。正直、文楽にもこんなにつまらん話あるんだという逆の衝撃を受けた。床も相当うまい人がやらないと間がもたないと思う。こういうモタモタしてペタッとした演目こそ、錣さんが語ればもっとグッと締まるんではないかと思うけど、当たり前だけど今月は襲名演目に出演されてるからねぇ……。

人形の浦里、おかや、勘兵衛、彦六、それぞれのパフォーマンスは良い。でも、登場人物同士の人間関係が「設定」にすぎないせいで空回り感があり、ツライものがあった。おたつを簑助さんがやるくらいのパンチがないと、のっぺりした印象になる。少なくとも時次郎を清十郎にしてくれ。清十郎頼む分裂してくれと思った。

浦里は普通の娘とは少し違う印象の顔立ちのかしらのように思われて、なんというか、人間ぽい、普通ぽい顔なのが不思議だった。おもしろかったのは、後半、雪の庭に入ってくるときの足取り。他の演目にあまり見られないような雰囲気で、雪の中だからか、ツギ足のような、あるいは太夫クラスの傾城のように八の字を踏むような変わった歩き方をしていた。雪の中を歩く登場人物だと、駒下駄を履いていてカポカポ足音がするやつがいるが、そういうわけでもなく、雪をもぞもぞ踏み分けているという設定なのかな。ただ後半は縛られている時間が長すぎて、遊女らしい優美さに欠けるのが残念。演出上(浄瑠璃の文書上)の不備に感じた。

彦六が出てきて少し話にメリハリがつくかと思いきや、チャリとしてなんとも薄味。簑二郎さん自身は単調にならないよう舞台を盛り上げようと工夫なさってて、それで一息つけた感はあった。簑ブラザーズの工夫シリーズといえば、庭の雪に顔を突っ込んで気絶していたおかや婆が意識を取り戻して顔を上げたとき、フェイスパックのように顔へ雪を貼り付かせていたのは細かかった。毛穴が2年分ほど縮まりそうだった。(あと、しばらくすると頭にもちゃんと雪が積もっていきます)

 

繰り返しになるが、この上演によって、普段上演されている定番演目というのは、定番になる理由があり、かつ演出が非常に洗練されているということがよくわかった。この退屈さ、現行では見取りになっている演目の上演されていない段や、そもそも上演されていない演目を本で読んだとき、しばしば「そりゃ〜これは上演されないわな」と思うのと似た感覚を覚えた。文楽の満足感には、話のおもしろさ自体の比重が相当高いことを実感した。

 

 

 

そういうわけで、第二部はなかなかチャレンジ精神に溢れた番組編成だった。

演目の特性上、出演者の技量に上演上のおもしろさが左右されていると感じた。これによって、自分は技芸員個々のファンなのではなく、文楽自体が好きなんだなということがわかった。話がつまんないとなんだか満足感が薄い。私は本当は技芸員に興味ないのかもしれない。

 

あまりこういうことは書きたくないが、ひとつ。物陰からそっと立ち上がる人形って、封印切の忠兵衛、殿中刃傷の本蔵などいっぱいいるけど、あれは人形が物陰からすっと姿を覗かせるから雰囲気が出る。人形より先に人形遣いが立ち上がっては興ざめ。人形のミスで、小道具を落っことすとか、衣装の脱ぎ着に多少手間取るとか、そういううっかりミスや未熟故の手際の悪さは仕方ないと思っている。でも、これは偶然の過失のたぐいではない。何も考えてないからこういうことを平気でやるのだろう。この手のありえない悪手をやる人に対し、周囲は誰も注意しないのだろうか。それとも注意されても直らないんだろうか。いずれにしても虚しい。

 

 

 

文藝春秋1月号(12/10発売号)に掲載された玉男様のエッセイ。
(注:文藝春秋の公式デジタル記事配信。途中から有料)

昨年10月22日に行われた即位の儀に付随した首相夫妻主催の晩餐会に出演されたときの感想を綴ったもの。

狂言や歌舞伎と一緒に三番叟を踊ったことについて、文楽としてあの場にどういう考えで臨んだのか、他の芸能との共演の不安やその解消、どうしてあの人形だったのか等が語られている。パフォーマンス自体は動画配信で見たが、能・狂言・歌舞伎は世襲の出演者だったにも関わらず、玉男様だけ一般家庭出身。にも関わらず、「どちらのご宗家?」って感じで、押し出し度はほかの人に張っていたのがとくによかった。

しかし、玉男様の文章って、ものすごく静謐で簡素だよね。ここまでシンプルな文章は意図していないと書けないと思うが、どうなのだろう。小手先の文章テクニックtipsでは書けないタイプの文体だと思う。

↓ フル動画 1:25くらいからが古典芸能パートですが、先に狂言(翁)と歌舞伎(イケメンのほうの三番叟)が踊るので、玉男様(ギャグ顔の三番叟)が出てくるのは最後です。


【LIVE】野村萬斎・市川海老蔵が演目披露も 来日の国賓を招待 首相夫妻主催の晩さん会

 

 

おまけ。

2日目、第一部と第二部の間に、生國魂神社へ初詣に行った。4日ともなればすいているだろうと思ったら結構な行列が出来ており、第二部の開演に遅刻するかと思った。

f:id:yomota258:20200127235216j:image

f:id:yomota258:20200127235130j:image

境内の浄瑠璃神社。絵馬がお初徳兵衛だった。

f:id:yomota258:20200127235236j:image

f:id:yomota258:20200127235352j:image

のんきにたこ焼きを食ってから行こうとしたのが間違いだった。
(あほや谷町9丁目店で買いました。文楽劇場から徒歩10分くらい)

f:id:yomota258:20200127235413j:image

 

 

*1:「金岡」って何? 巨勢金岡?