TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 4月大阪公演『祇園祭礼信仰記』『近頃河原の達引』国立文楽劇場

35周年記念だからか、文楽劇場自体もほんのり新調されていた。劇場内の絨毯の床張りがきれいになっていて、舞台のいちばん客席側の仕切(│×│×│×│模様になっている、すごく低い白木のついたて)がまっしろの新品になり、鳴り物や陰弾きの御簾も青々としたものになっていた。もしかして床の屏風のふちも塗り直したのかな。微妙なリフォームぶりが微笑ましかった。ついては国立劇場もだいぶ与次郎ハウス化してきているので、少しリフォームして欲しい。

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祇園祭礼信仰記、金閣寺の段。

松永大膳〈吉田玉志〉が籠城する金閣寺が物語の舞台、舞台装置もデラックス。文楽には珍しくギラギラした美術だった。仏壇まわりのアイテムみたいな柄の着物の人がぎっしり出てきて目がちかちかした。それにしても雪姫〈豊松清十郎〉の「極楽責め」、単に一間に正座させられてる人みたいになってましたけど……、芸者はどこにいるのでしょうか。周囲をウロウロしている水色の着物のツメ人形は単なる腰元ですよね。芸者は文楽特有の怪現象、見えるはずのものが見えない air geisha でしょうか。歌舞伎だとちゃんと芸者がいるんですかね。最近どうもこういう人数に対する猜疑心が……。

松永大膳は「こういうキャバ嬢、いるよね?????」みたいな髪型だった。たんなる黒髪ひっつめではないわりと最近風の髪型だった。ハーフアップでも髪をブロック分けしてやや束状に取って立体感をもたせたり、頭頂〜後頭部の髪を少し引き出して頭の形をよく見せてる人、いるじゃないですか。ああいう感じ。松永大膳、毎朝の髪の毛のセット、私より時間かかってると思う。こういうかなりケバい出で立ちながら、玉志さんの芸風がケバくないため、うまいこと「黄金貼りがすこしくすんできた茶室」みたいな地点に落ちていた。ぎとぎとしない、でも油気はあるしっとりした品をたたえた鷹揚さで、個人的にはとても良いと思った。それはそうと玉志さん、昼の部と袴が同じだと思うんだけど、変えないのかな。格が高い人はもちろん、若い人でも一部二部出る場合、変えている人がいるのに……(あれで実は違ってたら逆に怖いけど)。せっかく派手な役なのにと思ったけど、でも玉志さんはあの飾り気のないブルーグレーの袴がいちばんよくお似合いで人形も美しく見えるので、良いです。

松永大膳と久吉〈吉田玉助〉はぽちぽちと碁を打つが、本当に碁石を置いている。はじめに行われる松永大膳と松永鬼藤太〈桐竹紋吉〉の勝負では石は置いていなかった。久吉との勝負で本当に石を置くのは、大膳が最後にちゃぶ台返しするからだろうか。「だ、達磨ハン!!!!!!!!!!」と思った。(人形遣いの)二人は置き方の手つきが違うので、よく見ていると面白い。玉志さんは人差し指と中指で挟む、上品な持ち方をしていた。テレビの囲碁中継で棋士がしているようなやつ。このさいはっきり言いますが私は玉志さんの松永大膳役見たさに最前列を取りましたので人形自体と関係ない細かいところまで見ているのですどうでしょうきもいでしょう。しかしあの碁石たち、決まったところにちゃんと置いてるのかな。最前列だと舞台上段にある物はあおり気味になるため盤面まで見えず、どう置いているかまではわからなかったが……、2回観たうち、1回目に見たときは久吉が途中で石を取っていたけど(アゲハマ)、2回目には取っていなかったように見えた。変な位置に置くと囲碁がわかる客に見破られると思うが、どうしているのだろうか。

松永大膳が倶利伽羅丸を滝に掲げて龍を出現させるくだり。滝に映ったというか、滝の前にかかげられた金色の龍のぬいぐるみがちっちゃ可愛かった。もっとすごいのが出てくるかと思ったけど、ウミヘビというかリュウグウノツカイというか、田舎の水路にはああいうアオダイショウがぐんぐん泳いでるよね。と思った。あれで妙心寺の天井画のような雲龍図(筆・狩野探幽だそうです)を描けるかはかなり怪しく思うが、むくむくしていてとても良い龍だった。

それにしても文楽劇場刀剣乱舞とコラボすればいいのに。私が文楽劇場に一番コラボして欲しいのは山口貴由だが(やらないほうがおかしい)、現実的にいちばんうまくいくのは刀剣乱舞なんじゃないかと思うんだよね。コラボとまではいかなくても、「『祇園祭礼信仰記』には名刀倶利伽羅丸が出てきます⭐️」とかの一言を添えて、松永大膳が刀を抜いてるところの人形の写真をツイッターに投稿すればいいのに……。歴史系コンテンツが好きな人は周辺知識も学ぼうとする勉強熱心も人が多いので、文楽に興味を持ってくれる可能性も高いと思うが……。でも玉志さんが変なことやらされるのは絶対にイヤ(わがまま)。

 


爪先鼠の段。

清十郎、平成最後のひどい目。ちらちらと桜の花びらが舞い散る中、桜の木に縛られている雪姫。思っていたのと若干違う縛られ方だった。てっきり桜の木に磔状に縛り付けられると思っていたのだが、コンビニの前につながれてるいぬみたいな感じだった。桜の木に紐を巻きつけて、そこから数メートル紐をのばして、その先につながれていた。だから、腕の自由はきかないけど、場所は動き回れる状態になっていた。あの紐の余裕は、松永大膳の心の余裕なのか。雪姫は飛び跳ねるような大きな振りで桜の花びらをかき集め、ねずみの絵を描く。前列だったので手すりで隠れてしまい、足元の仕草はよくわからなかったが、あれはちゃんと絵を描いているらしくて、最後に雪姫が倒れるのは、ねずみに目を描くことによって魂を入れた=魂を乗り移らせたかららしい。普段はひたすら力なく、死にかけてヨロヨロしているイメージの清十郎さんだが、一途さ、懸命さがありありと滲むたいへん情熱的な雪姫で、良かった。しかし、雪姫が描いたねずみ、浄瑠璃では桜の花びら色ということになっているが、なんかこう……、一度お洗濯したほうがよいのではという塩梅のねずみさんだった。ほこりみたいな色してた。あれが体の上を馳け廻るのはつらい。清十郎がかわいそう。

今回はセリを使う大掛かりな演出が含まれていた。特に金閣寺の二階(潮音堂)での久吉と川島忠次・石原新吾・乾丹蔵との戦いの場面は平成27年5月の東京公演に続く復活らしいが……、地上ではちゃんと三人遣いの人形だった三羽烏、二階に来たら一人遣いの人形にされていた。そりゃあの狭いスペースに三人遣いの人形4番出せないのはわかるけど、この三人に配役されてた人らがかわいそすぎませんか。でも頭が梨割になったり、首がぴょい〜〜〜〜んと飛んだりのサービスがあったので、われら観客はとても喜んだ。ただこの一連の場面、舞台装置の派手さに対して間が持っていないと感じた。

最後、雪姫が倶利伽羅丸を手に舟岡へ走っていくところ、ちょっと止まって刀を抜いて自分の姿を映し、髪を直す仕草があるが、あれは文雀師匠よりはじまる歌舞伎からの移入らしい。上演資料集の文雀師匠の談話に書いてあった。その話は、こういうものだった。金閣寺の段は文楽では明治以降、ほとんど上演されることがなく、文五郎師匠もやったことがなかった(maybe 経済的・技術的問題)。1948年(昭和23年)、文雀師匠は六代目歌右衛門襲名で舞台にかけられた本曲を地方公演先から戻ってまで観に行った。感動した文雀師匠が文五郎師匠に歌舞伎のやりかたを説明したら、文五郎師匠は文楽でのやりかた(初代紋十郎のやりかたを明治期に見て覚えていた)を詳しく説明してくれた。刀を抜いて身繕いするくだりについては、「文楽ではそういう型はないが、お前が雪姫をやらせてもらうことがあったら、それをやってみい」と言った。そして時は流れ、1982年(昭和57年)の国立劇場公演で文雀師匠が雪姫を遣うことになり、この型を舞台にかけたのだそうだ。清十郎さんもこれを踏襲しているわけだが、でも、清十郎って違う意味で身だしなみ気にしなさそうな姫さんじゃない? 恋している男自体にしか興味がなさそう。身繕いしなくても完璧な美人そう。北川景子的な。逆に勘十郎さんは身繕いしそう。なぜならマジで目が座っているから。

あと、雪姫の衣装の金糸の刺繍がとてもくっきりとして綺麗で、髪飾りのシャラシャラもまばゆく輝いており、新品なのかな?と思って久しぶりに清十郎のブログを見たら、自分のことを全然更新しておらず、若手会の話をしていた。そして鳥取砂丘や梨ソフトの画像が表示されないんですけど。大阪公演もういっかい行けるなら、千穐楽終わってからでいいからなんとかしてって清十郎に言っといてってアンケート用紙に書くとこなんだけど(アンケートの設置目的を履き違えている人)。もしくは文楽劇場、プレボを設置してくれ。


↓ 『祇園祭礼信仰記』あらすじはこちらから

 

 

 


近頃河原の達引、四条河原の段。

横淵官左衛門役の玉勢さんが良い。まっすぐに傘をかまえて胸を張り、すっくと背を伸ばして、斧定九郎くらいの勢いで入ってきた。人形そのものよりも、だいぶ大柄な表現。拍手されていた。拍手されるような役ではないと思うけど、拍手したい気持ちはわかるわ。この段、何回かいろんな配役で観ているけど、ここまで派手に出てくる官左衛門がどんな人物なのかは、いまだ謎。小物としか思えないが、これだけの演技に相当する大物ぶりを見せてくれる段があるのだろうか……。

ヤスさんはよかった。時代ものだと出だしが……と思うことが多いけど、今回はいつもより少し力を抜いた印象で、気落ちしている伝兵衛〈吉田勘彌〉を励ます久八〈吉田清五郎〉の優しげで気さくな喋り方が特に良かった。落ち込んでるとき、ああいう暖かい口調で励ましてもらったら、嬉しいよね。ヤスさんには時々錦糸さんを切れさすようなことをやってもらいたい(?)。

 

堀川猿回しの段。

与次郎ハウスはかなり迫力のあるボロ屋だった。しかしよく見るとねこドアのようにおさるドアが設置されており(賃貸のくせに!)おさるルームがあった。与次郎〈吉田玉也〉はよく飯を食っていた。玉也さんの与次郎は特に好き嫌いがないようだった。これまでの与次郎研究によると、勘十郎さんはあまり食べない(翌朝分?を残して弁当の残りだけ食べる)、玉男さんはかなりよく食う(家にあるものはとにかくすべて食う)が梅干しは嫌い、玉也さんは特に好き嫌い等なく適切に食べる(食事が最後になったお父さんが残り物をさらえる感じ)、ようだ。お母さん〈桐竹勘壽〉の世話や今日の収入の計算などは手慣れた感じにやっていた。臆病かどうかはわからなかった。伝兵衛には棕櫚箒で手紙を差し出していたが。

勘壽さんの貧乏に疲れたばあさんオーラはすごかった。しかし下劣に傾かず、しかし社会の下層の生活をしてきた人だなと思わせるギリギリラインだった。あの絶妙な「生活に疲れた」感はうまい。それと、三味線弾くのがうまかった(勘壽さんの芸歴何年やと思てんねん)。三味線を弾く役、若い人だとバチの角度がおかしいことがよくあるが、勘壽さんはちゃんとバチの上の角が弦に当たるよう、胴に手首をひっかける持ち方で演奏していた。細かいところだけどうまい。人に稽古つけてるだけある年輪を感じる。でもこれをやるとバチの角と弦の距離が怪しくなってくるよね。良し悪しあるけど、手首の角度優先のほうが見え方が自然になると思う。正月の壷坂の沢市役の玉也さんもそうしてたと思う。若い子は弦に当てなきゃ!と思いすぎて、全体の姿勢まで気がいかないんだと思う。母は盲目なので、ずっと周囲の人の声や様子に気を払っているのが常に首を傾けている姿勢にあらわされていた。

おしゅんは簑二郎さんで、可憐で一心な雰囲気でよかった。お里がアレで、おしゅんがコレなのは、どういうことなんだろう。ミノジロウのセンスはよくわからない。今後研究が必要だ。

しかしこの話、四条河原の段と堀川猿回しの段しか出ないので、伝兵衛がまともなのかクズなのかよくわからん。単純にこの二つの段だけ見ると、やけになって人を殺すような軽薄な男のところに可愛い妹はやれんっっっっっ!!!!!!と与次郎には厳しく出て欲しい。

 

 

ある意味、文楽としての密度は第一部より第二部のほうが高いかもしれない。おなかにたまるような満足感があった。特に床はかなり満足。

しかし企画としてはさらっとしているというか、ちょっと散漫。『祇園祭礼信仰記』の出せる段ぜんぶ出して半通しにするか、せめて先に『近頃河原の達引』をやったほうがいいような……。かなり枯淡というか、素朴な印象だった。

今回は、一部、二部と舞台をじーっと見ていて、思うことがいろいろとあった。文楽の場合、何の違和感もなく観られる・聴けているときが一番よくて、それは技芸の裏打ちがあるからなんだなと感じた。文楽だと、宙乗りとか花道とかの派手な舞台装置を使うには、相当の力量が必要されると思った。今回特にそれを強く感じた。完全世襲制の業界なら「仕方ないね」で終わりなのかもしれないけど、文楽の世界はそれが露骨に晒しもんになるから、怖いと思う。

そういえば、1月からだと思うが、パンフレットの技芸員一覧で一部の人の写真が新撮になっている。なにをきっかけに差し替えるのかよくわからないが、撮り直してもあんま変わってない人が若干怖い。あと私は技芸員さんの毛髪に大変強い関心を持っているので、髪の毛のビフォーアフターを観察した。あのポートレート一覧からは人体の神秘を感じる。

 

 

 

文楽 4月大阪公演『仮名手本忠臣蔵』大序〜四段目 国立文楽劇場

文楽劇場開場35周年記念ということで、1年をかけて『仮名手本忠臣蔵』をフル上演する企画。

おととし12月に東京で行われた通し上演と違うのは、4月公演で二段目「桃井館力弥使者の段」、11月公演で十一段目「光明寺焼香の段」を出すこと、11月公演の十段目「天川屋の段」は明治時代の朱をもとにした復曲で上演すること。個人的にはおととし出なかった「桃井館力弥使者の段」、「光明寺焼香の段」の上演が嬉しい。あとはいのししが新調されるかどうか。いのしし、いま、展示室に「これからぼたん鍋になるで〜^^」とばかりに横たわっていらっしゃいますけど、ずいぶん薄汚くなってるのねと思ったので……。

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大序 鶴岡兜改めの段〜恋歌の段。

幕が開いた時点で人形が正面を向いてたくさん並んだ状態になっているところ、高師直〈人形役割=桐竹勘十郎〉だけ顎を引いて若干俯いているのが暗示的。ここは黒衣なのだが、やっぱり勘十郎さんて結構動きに特徴があるから、黒衣でもわかるよね(配役を確認せずに来た人)。体の重心の位置の上下が大振りというか……。女方だとそういう動作の人多いけど、立役系の人はあまりやらないと思うので。いや、二枚目の配役がくる立役の人はもっと力強い動作で体の位置を大きく動かす動作をやるか。黒衣だと人形遣い個々の特徴が素人目にもわかりやすくなる気がする。

 

  

二段目 桃井館力弥使者の段

桃井若狭之助の館を、力弥〈吉田玉翔〉が父・塩谷判官から若狭之助への使者として訪問する。本蔵〈吉田玉輝〉から対応を任された戸無瀬〈吉田簑一郎〉は、娘・小浪〈桐竹紋臣〉の力弥への恋心を察し、仮病を使って小浪へ対応を任せる。訪れた力弥は彼女にそっけない素振りだが……という話。

そこまで重厚な意味のある話ではなかったが、道行の小浪・戸無瀬の必死さや、九段目の最後で力弥と小浪を二人にしてあげようよというのがよくわかった。配役は中堅を大幅に起用する思い切ったもの。しかしこの配役で今年ずっとこのまま行けるわけじゃないんだろうな。できれば、とは思うけど……。

小浪は結構細面のかしらを使っているのか、古風な時代劇のお姫様女優風だった。映画会社は東映だな。映画では古風でも古典芸能からするとモダンな佇まい、文楽で見るとけっこう斬新な感じ。衣装や髪飾りも普通のお姫様やあるいは町娘とは違ってその中間というか、ピンクと水色の鞠型のかんざしとか、頭の後ろに挿しているふさふさが可愛かった。徒歩で江戸から京都まで行った上に、ひとんちの門前で首を落とされようとするってガッツありすぎてかなりやばい女かに思える小浪だが、力弥のこととなると慌てはじめる、ちょちょちょっとした動きが普通のお嬢様風で、良かった。

力弥は生真面目さとみずみずしい雰囲気が同居した少年らしい佇まい。ここはまだ少しお坊ちゃんらしくぼーっとしているけど、事件が起こったあとになると、花籠の段の冒頭、幕があいたら立っている、あの立ち姿の凛々しさは良かった。玉翔さんは人形をぐっと体に引きつけて立っていて、もう少し離しているとやわらいだというかこなれた雰囲気になるところ、あの姿勢から力弥と玉翔さんの内心の緊張感が感じられた。

 

  

二段目 本蔵松切の段

松がすごく青々としていた。説明がないので、『増補忠臣蔵』を観ないと松を切る意味がわからん。いや、観てもわからん。

床(三輪さん×清友さん)は昭和の少女漫画風に渋くて良かった。なんかよくわからんけど本蔵がキラキラじじいになっているのが良い。

 

 

三段目 下馬先進物の段

お昼休憩挟んで、ここから人形出遣い。

文司サン、鷺坂伴内に似すぎでは? 素で「文司サンに似せた特製のかしらを誂えたのかな🤔🤔????」と思ったよ。客席全員そう思ったと思う。いや文司サンも伴内も元からそういう顔なのは知ってるんですけど、いくらなんでも完全に一致すぎでは。でもここまで似てるからには、やっぱり特製の新調のかしらなのかもしれない(5時起きで意識が朦朧としてきている人)。とにかく、この世が文楽なら、鷺坂伴内、偽首にされる運命だなというくらい似ていた。時々起こるこの手のミラクル、今回でいうと『祇園祭礼信仰記』の松永鬼藤太役の紋吉さんも相当人形に似ていた。

あとは本蔵役の玉輝さんの思いつめすぎない感、やりすぎない感が良い方向に出ていた。この時点ではまだ重大事件起こってないからね……。

床は小住さんが頑張っておられた。これみよがしな感じでなく、さくっと聴かせるというか、さりげなくやっておられたところが、良かった。

 

 

三段目 腰元おかる文使いの段

伴内や勘平が後ろでこしょこしょやっているという内容自体は面白かったが……。おかる〈吉田一輔〉があまりに何も考えてなさそうすぎに見える。真面目に使者をやっているのか、それとも勘平〈吉田玉佳〉のことを考えて気もそぞろなのか……、もう少し明確にした方がいいと思うが、どうか。おかるが浄瑠璃の設定上何も考えていないことと、舞台で人形が何も考えてないように見えるのは違うと思う。いろんなことが複合した結果、こうなっているのだと思う。

 

 

三段目 殿中刃傷の段

高師直の陰湿で上品ないたぶりが見どころだが、扇子でのあしらいは今回見たものが一番良かったように思う。やりすぎ感がセーブされていた。しかし和生さんの塩谷判官はどう見ても短慮には見えないのであった。茶坊主〈吉田玉路〉が活躍していた。

 

 

三段目 裏門の段

勘平の、人形そのものより、ふたまわりほど大きく弧を描くような動作が良かった。伴内が「そうそう💓」と喋っていた。

睦さんが頑張っておられた。いきなりテンション上げて語りはじめないといけないところに配役されているが、冒頭から緊張感MAXの高めトーンで雰囲気があった。

 

  

四段目 花籠の段

ここから顔世御前の配役が簑助さんに交代。これが奥さんでは大事故を巻き起すわなという感じだった。体の位置(異様な倒し方)とかがかなり特徴的だけど、顔世御前役でここまでクセが強い演技ができるのは簑助さんだけだなと思う。普通の人がここまでやったら批判されるけど、簑助さんは普通ではないので……。

この段が出ると、塩谷判官が生まれつき短気ということがよくわかる。「殿 is 短慮」みたいなことを本人がいないところで言っているのがリアル。それでもみんな塩谷判官が好きで(なんか素直そうだし)、いままではなんとかフォローしてやってきたんだろうね。由良助が江戸家老だったらここまでの大事件に発展しなかっただろうと思う。由良助がいたらまず顔世御前から高師直への返事の文をブロックしていただろう。

 

 

四段目 塩谷判官切腹の段

おととしの東京公演と同じく、「通さん場」を設定していた。東京だとわざわざ言うほどのことではないと思ったが、大阪は確かに上演中に入場する人が多い気がするので、設定の意味があるかも。家中の者でさえ出入りを禁じられているあの空間に入ってきていいのはただひとり、由良助だけ。そんな大名の切腹に同席できる観客は一体何者なのだろう。

塩谷判官は、由良助〈吉田玉男〉が来る前と来た後とで、表情がまったく違うようだった。由良助が来ないうちは、間に合わないだろうとわかっていても、とても悔しそうな、無念そうな表情。心の迷いと切腹の痛み以上の辛さがうかんでいる。ここまでは、彼はあくまでひとりの人間だったのだと思う。しかし、由良助が来てそばへ寄り、思いを伝えたあとは覚悟の決まった意思の強い表情になり、それこそ大名らしい堂々とした最期を遂げる。本当に表情が違うわけではなく、傾け方等のニュアンスなのだと思うけど、雰囲気が伝わってきた。ほかのお客さんも、「やっぱり前のほうの席だと人形の表情がよく見えるわ」と満足そうに語っておられた。この段は何回観ても良いと思った。

由良助が考えていることは、塩谷判官が考えていることと、本当は少し違うんじゃないかと思う。最終的にやろうとすることは同じでも、そこまでの過程が。あの間にたどりついたとき、由良助が本当はなにを思っていたのか。由良助はあまり喋らないので、わからない。塩谷判官は感情と行動を分けられず、由良助は感情と行動を分け通すがゆえに、こういう話になっているのだと思う。

あと私はちゃんと前期に行ったので玉志サンの石堂右馬之丞役を見られてよかったです。ずっとぴんとしててよかったんですけど、上手の下側に降りて切腹を見届けるところ、たぶんぐっと見てるという表現なんだろうけど、首が襟に埋まりすぎで勿体無い。2回見て2回そうしていたので確信的にやっているんだと思うが、個人的にはもう少ししゅっと座って欲しかった。(擬音語多すぎ)

ところでこの段、歌舞伎で上演されるときの配役表を見ると、大鷲文吾とか赤垣源蔵とか義士の名前が載ってることがあるんだけど……、文楽でいうと、あの、ちょっと上等なツメ人形になってる人たちのこと……????? 配役表には「諸士 大ぜい」とだけ書かれているあのツメ人形たちにも実は名前があるのかもしれない。

 

 

四段目 城明け渡しの段

さすがの玉男さんだった。

 

 

 

4時間半かけてのプロローグという感じだった。全体的に端整で慎ましい印象。

それにしても今回の第一部、かなり客が入っていた。2回観た両方ほぼ満席で、補助席を出していた。休憩時間の男子お手洗いの列が長蛇になっているところを見ると、男性客が増加しているのだろうか。お昼休憩にロビーでお弁当を食べていたら、うしろに座っていた初めて文楽を観に来たらしい中年男性二人組が「あの人たち、無事討ち入りできるのかな……💓」とお人形さんたちを心配されていた。11月までぜひ通っていただきたいと思った。文楽には討ち入りの場面はないけど、わたしたちの観ていないところで、しますので……。

年間三分割については、この入り方を見ると上演方向を探る意味があったんだろうなと思う。そりゃ1日でやるのが一番いいと思うけど、本当に通し狂言にしたとしても本当に丸1日通しで見にくる客はそんなにいないんじゃないか。1日でやろうがやらなかろうが、大半の客からすると実は関係ないだろうなと思う。1部2部を別日に観るとすると、1ヶ月に2回観に行くことになる。初見のお客さんや文楽に思い入れのないお客さんはなかなかそこまでできない。年間通して3回行けばOKなら、気軽に見始められる。私は、まる1日の通し狂言は、「たまに」のスペシャルイベント扱いでいいと思う。今回のやりかたで潜在層を発掘して、今後丸1日の通し狂言ができるよう、文楽劇場には頑張ってもらいたいと思う。だから第二部の見取りはやめて欲しい。もとからいない客は見取りにしたからって来るわけないんで(暴言)。

 

そういえば、昨年末、玉男様とめぐる忠臣蔵の史跡バスツアーに行った。泉岳寺吉良上野介邸跡に行くというツアーだったんだけど、参加者が自由にうろうろする中、玉男様は添乗員のように同行していて、町内会の慰安旅行状態でとても味わいがあった。今回、泉岳寺内の有料の記念館2箇所も見てみたんだけど、木像が置いてあるほうのとこが良かったですね、薄暗くて寒くて狭くて。どうもいかがわしいものは撤去しちゃったみたいだが、絶対嘘だろっていう謎の遺物を山盛り置いといて欲しかった。(「忠兵衛手植えの蘇鉄」とかそういうのがとても好き)

そのときの忠臣蔵についての玉男様コメント

  • 高師直は2回くらいやったことがある
  • 力弥は当たったことがない
  • 塩谷判官は2017年6月大阪鑑賞教室公演が初役
  • 若い頃、平右衛門役を由良助役の前にできたことが勉強になった

吉良上野介 with 玉男様*1

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おまけ

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いまからおよそ60年前にとられた、「『仮名手本忠臣蔵』(歌舞伎)を見るのは何回めか?」というアンケートの結果。1958年(昭和33年)の『演劇界』5月号に掲載されたもので、同年3月、新橋演舞場での『仮名手本忠臣蔵』通し上演(大序・三・四・道行・五・六・七・十一段目)でとられたもの。塩谷判官=歌右衛門、由良之助=八代目幸四郎という公演だったらしい。若い回答者がずいぶん多いなと思うけど、調査したのが日本女子大歌舞伎同好会ということで、若めの人からの回収率がよかったのかな……?

ちなみに好きな場ランキングは、1位・祇園一力の場、2位・塩谷館判官切腹の場、3位・殿中刃傷の場、4位・勘平腹切の場、5位・道行旅路の花聟、6位・高家討入りだったとのこと。文楽で取ったらどうなるかしらん。

このアンケートで、『忠臣蔵』が親しまれている理由として、80%の人が「日本人の主君に対する忠義の誇り」と回答したと書かれている。忠臣蔵についての自由回答らしき部分でも、否定にせよ肯定にせよ「忠義とは〜」「忠義の美が〜」というような回答が多いようだった。歌舞伎では九段目をあまりやらないと聞いたことがあるが、文楽とは解釈や観客の受け取り方が違うのかなと感じた。

 

 

 

 

*1:親孝行✌️でお義父さん👴を旅行に連れていきました✨お義父さんもとっても🙌喜んでくれました☺️みたいな写真になっていますが、実際には周囲に玉男様ガチ恋勢のみなさんがわっさりいます。あと早大児玉竜一センセイもレクチャー講師として同行されていました。

映画の文楽4 内田吐夢監督『浪花の恋の物語』2:ふたつの「新口村」

┃ 過去の記事

 

あの有名な「新口村」……と言われても、古典芸能が好きな人以外には通じないと思う。なので、まず、文楽人形浄瑠璃)で「新口村」と呼ばれている演目について説明したい。

「新口村」が何かというのは、文楽や歌舞伎を観る人なら誰もが知っていることではあるんだけど、観ない人にはわからない、つまり、観ていなかったころの自分は知らなかったこと。そのため、今回この記事を書くためにあらためて調べ直したことを含め、細かめに解説を書いておきたいと思う。

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┃ 「新口村」とは

映画公開当時も含めて、現在、文楽で一般に通称「新口村」と呼ばれている演目は、後世(近松没後)につくられた『冥途の飛脚』の改作『傾城恋飛脚』の「新口村の段」のことだ。

『傾城恋飛脚』は、『冥途の飛脚』(正徳元年(1711)以前の初演)からおよそ62年以上もの後、菅専助・若竹笛躬の合作で安永2年(1773)12月に初演された人形浄瑠璃。『冥途の飛脚』から事件の概要、登場人物、ストーリーの骨子・展開を大幅に流用し、そのうえでめちゃくちゃコッテリした味をつけたような内容。原作がおだしでさっぱり仕上げた明石焼きだとしたら、こちらは濃厚ソースとマヨネーズ、それにかつぶしも青のりもいっぱいかけた、ソースたこやきって感じ。

場面構成は『冥途の飛脚』のそれに対応していて、大枠の内容は相似性が高い。「新口村の段」は、このうち最後の場面にあたる。

以下に、文楽現行の『傾城恋飛脚』「新口村の段」の概要を解説する。ここに至る前提は基本的に映画と同じなので、そのまま読んでいただけると思う。(アンダーライン箇所が『浪花の恋の物語』に使用されている部分)

「新口村の段」文楽現行

忠兵衛の親里・大和の新口村には、田舎に似合わない季節候(門付け)や古手買いが姿を見せていた。彼らの正体は、忠兵衛を探す追手だった。

そんな中、忠兵衛は梅川を伴い、実父・孫右衛門と縁故のある忠三郎という男の家を訪ねる。しかし忠三郎はあいにく留守で、最近この村へ来たばかりというその女房が対応に出る。忠三郎の女房は目の前にいる男が忠兵衛とも知らず、「封印切をして傾城を買い逐電したという孫右衛門の息子」の噂、この村にも追っ手が迫っている話をまくしたてる。忠兵衛は彼女に外出中の忠三郎を呼びに行ってくれるように頼み、梅川とともに留守を預かることにする。

忠三郎の家の中から二人が往来を眺めていると、忠兵衛にとっては懐かしい村人たちが通りすぎていく。そして、その中に父・孫右衛門がこちらへ歩いてくる姿を見つける。忠兵衛は養家への義理から孫右衛門の前に出ることはできず、その姿を拝むのみ。しかしそのとき、孫右衛門が足を滑らせて転んでしまう。出るに出られない忠兵衛、梅川は思わず走り出て、孫右衛門を抱き起こし、忠三郎宅の上がり口へかけさせて介抱する。持っていた懐紙で下駄の鼻緒を直してくれる梅川を不思議な思いで見ていた孫右衛門だったが、身なりや様子から彼女が息子・忠兵衛が連れて逃げたという遊女だと気付く。

孫右衛門はそれなら忠兵衛もすぐそばにいるだろうと考えるが、何も知らぬふりをして、不肖の息子の噂、養子に出して縁を切っていたことを慧眼と言われることの辛さ、それでも、身請けのために金がいるのなら養家へは黙って相談してくれればよかったのにと心境を語り、嘆き悲しむ。孫右衛門はせめて二人を少しでも遠くへと逃がそうと、「先ほどの介抱のお礼」という建前で梅川へ金を渡す。自らのせいで愛する忠兵衛を咎人にして、追われる身にしてしまったことを孫右衛門へ告白する梅川。孫右衛門は忠兵衛ともう一度会いたいと思うものの、忠兵衛はお上に追われ、それをおびき出すために義母妙閑は牢に入れられている状況。もし実の父である自分が会ってしまえば、みずからが訴人しなくては義理が立たない状況であり、そんなことは出来ない孫右衛門は忠兵衛に会うことを頑なに拒む。梅川はそれを憐れみ、「顔を見なければ許されるだろう」として、持っていた手ぬぐいで孫右衛門に目隠しをする。忠兵衛は孫右衛門の前に飛び出し、親子は手を取り合って再会を喜ぶ。

しかしそのとき、多くの人の足音が聞こえ、孫右衛門はこの家に追っ手が迫っていることに気づく。捕手たちが周囲に迫りくる中、孫右衛門は二人を裏口へ押しやる。そのとき偶然にも捕手の頭に「梅川忠兵衛」が捕まったという知らせが入り、捕手たちは道を引き返していく。老父は足元に気をつけよと叫びつつ、小さくなっていく二人の影を見送るのだった。

養子先への義理から、それぞれ実父・息子に顔を合わせることができない忠兵衛・孫右衛門の葛藤を描く内容で、特に、いくら義理に苛まれていても実の息子への気持ちを捨てることができない孫右衛門の感情吐露(それもあくまで義理立てして語る)が物語の中心になっている。孫右衛門は義理を立て続けようとしつつも、最終的には人間らしい感情、言い換えると一種の弱さが勝ち(それが物語上肯定され)、最後にごくわずかな時間だけ、忠兵衛へ会うことができる。

映画に使用されている梅川のクドキ*1、「めんない千鳥」と呼ばれる目隠しをしての再会*2は、「新口村」の中でも見せ場。映画に取り込まれているのも理解できる名場面である。

しかし、近松作の『冥途の飛脚』にも物語の最後に、名前もそのまま「新口村の段」という、忠兵衛が梅川とともに故郷新口村の父に会いにいく段は存在している。ならば、この映画のクライマックスはなぜ近松原作の「新口村」の人形浄瑠璃にしなかったのだろうか。

 

 


人形浄瑠璃『冥途の飛脚』『傾城恋飛脚』の上演史

ここまでのドラマパートが『冥途の飛脚』準拠であるにも関わらず、クライマックスの人形浄瑠璃がなぜ『傾城恋飛脚』なのか? この構成そのものについては、公開当時の文楽の上演状況を知っている人だと「まあそれもあるんでは」と感じるのではないか。

なぜなら、当時は文楽でもそういう上演のしかたをしていたから。

は?と思われるかもしれないが、『冥途の飛脚』と銘打っておきながら、『冥途の飛脚』の結末「新口村の段」を『傾城恋飛脚』の結末「新口村の段」に差し替えて上演するという形態は、かつての文楽では時折行われていた。

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※注:段名表記は時代により異なるが、現行に揃えて表記する。

歌舞伎ではこのような上演はされないので気づきにくいが、文楽ではかなり長いあいだ、慣例的にこの方式の上演が行われていた。もっとも、最近ではこの上演方式はとられていないため近年のファンは知らず、私もこの事実は文楽を観慣れてきてから知ったことだった。

そのため、この映画に対して、作品への事実誤認があるとか、逆に、まったく違う作品同士を組み合わせる卓抜な発想であるとかは、ちょっと違う。

はい、以上、疑問解決!!!!!!!!!!!

……となるところなのだが、今回はもう少しよく考えてみたい。そもそも、こういう上演形態になっていったのはいつからで、どういう経緯をたどってのことなのだろうか。この状況に至った経緯を確認するには、人形浄瑠璃での『冥途の飛脚』および『傾城恋飛脚』の上演史を振り返る必要がある。

そこで、国立劇場が発行する上演資料集をベースに『義太夫年表』等を使い、『冥途の飛脚』初演から現代に至るまでの上演の記録を調べてみることにした。

 

 

伝承形態

文楽人形浄瑠璃)は伝統芸能なので、初演当時からすべての演目がしっかり原型そのまま脈々と伝承されているかのように思われるかもしれないが、実はそうではない。廃曲(伝承されなかった作品)も多いし、現在に残っている曲であっても、すべての作品が初演当時のままで残っているわけではなく、断絶からの復活、別の作者による改作の混入、部分的にカットしての上演など、さまざまな加工が行われていることがある。また、たとえば人形が一人遣いから三人遣いへ移行する、三味線の演奏技法が発展するなど、人形浄瑠璃という芸能そのものの技術発達による変更点も発生している。つまり、必ずしも現行曲は初演の原型そのままに上演されているとは限らない。

『冥途の飛脚』をはじめとする近松の世話物に関しては特に注意が必要で、長い時間の流れによって上演と断絶、復活と改作が大変複雑に入り組んだ状態になっている。極端な例を挙げると、現代の文楽でもっとも有名であろう演目『曾根崎心中』は、本来は初演後すぐに断絶し、戦後になって復活されたものだ。なので、『曾根崎心中』は本当は「伝統的な演目」ではない。現行で上演されているものは初演時を復元して復活しているわけではなく、当時の方針等によってカット・改変を行なっている。これもまたいまとなっては一般には知られていない情報になってしまっていると思う。

 

初演・改作・復活の過程

そんな中、『冥途の飛脚』は江戸時代から伝承されている曲だ。とはいえ、厳密には『冥途の飛脚』は初演当時から絶えることなく脈々と受け継がれてきたというわけではない。この曲は、初演(正徳元年(1711)以前)の後はほとんど再演の記録がなく、一旦断絶する。*3

正徳3年(1713)、人形浄瑠璃で改作『傾城三度笠』が上演。作者は紀海音で、登場人物は『冥途の飛脚』から取られている部分が多いが、この段階で話はかなり盛られている。忠兵衛が封印切りを確信的に行うこと、友人の性格等の設定が大きく異なり、ほぼ別物のように思う。この演目の再演記録はない。

近松死没・紀海音引退後、合作制が確立した発展の時代を経て、延享・寛延期 1744-50 に人形浄瑠璃は全盛期を迎える。現在に残る人形浄瑠璃の代表作『夏祭浪花鑑』『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』等の初演はこのころ)

宝暦7年(1757)、歌舞伎『恋飛脚大和往来』が上演される*4。これは大変な好評を博して繰り返し再演され、「新町封印切の段」は上方和事の代表演目になるまでに人気を得る。

(宝暦〜天明期 1751-88 は、作者として竹本座には近松半二、豊竹座には菅専助が登場。人形浄瑠璃の技巧発展全盛期を迎える。この時代の代表作は『本朝廿四孝』『妹背山女庭訓』『伊賀越道中双六』『桂川連理柵』など)

安永2年(1773)改作『傾城恋飛脚』が上演される。『冥途の飛脚』原作からはおよそ62年以上経っての改作だが、これは歌舞伎『恋飛脚大和往来』等の人気を受けてのこと。「新口村の段」は大変な好評を得て、以降、それのみでの単独上演が見られるようになる。

(寛政期以降 1789- は人形浄瑠璃業界の風潮が変わり、新作上演より芸の練磨・伝承が重視されるようになって、再演が多くなる)

寛政6年(1794)、歌舞伎『恋飛脚大和往来』の人気を受けて、改作『傾城恋飛脚』の全段通し上演が行われる。

文化2年(1805)、四世竹本染太夫により、原作『冥途の飛脚』の中の巻「新町の段」(現行「封印切の段」)が復活。そして文政3年(1820)、おなじく四世竹本染太夫によって上の巻「飛脚屋の段」(現行「淡路町の段」)が復活。これに復活済みの「封印切の段」、そして「新口村の段」(おそらく『傾城恋飛脚』)を加えた通し上演が行われた。

これ以降、原作『冥途の飛脚』「淡路町の段」「封印切の段」は、今日まで断続的に上演され続けることになる。ここから、『冥途の飛脚』「淡路町の段」「封印切の段」→『傾城恋飛脚』「新口村の段」という原作・改作混在の通し上演の形態がはじまったようだ。

また、この原作復活は好評を得て、天保年間(1830-1843)には原作「淡路町の段(飛脚屋の段)」「封印切の段(新町の段)」の一般向け稽古本も刊行されたらしい。

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「原作・改作を混在させて通し上演する」という状況は、勝手なイメージでなんとなくもっと近年始まったことかと思っていたが、1820年からその状態なら、もう、むしろそれが伝統的だよね……。

このような混在通し上演が多かったのは戦前まで(特に明治期)のようだ。昭和期に入ると、混在通し上演であっても改作「新口村の段」の段名表記を「大和往来新口村」としたりして、別の狂言だとわかるよう区別されていることもある。また逆に、1日で『冥途の飛脚』「淡路町の段」「封印切の段」→『傾城恋飛脚』「新口村の段」の通しを行わず、演目入れ替え(二の替わり等)で公演前半と後半に分離させるなど、ワンセットであることを示唆しつつ区別をつけた上演もみられた。

こうして上演状況を確認していくうち、改作「新口村の段」の見取り上演の頻度の高さに驚いた。特に文楽協会設立以前(昭和30年代まで)の「新口村」の上演頻度はかなり高い。私はいままで改作の「新口村の段」は原作のオマケみたいな感覚で観ていたけれど、実際にはかつては『冥途の飛脚』自体よりも『傾城恋飛脚』の「新口村の段」のほうが有名だったのだろう。

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※注:『國文学 解釈と教材の研究』2000年2月号掲載「文楽で聴く近松心中天網島・冥途の飛脚・心中宵庚申−」の論考では、改作「封印切の段(新町の段)」は文政の原作復活以降すたれたとみなされている。*5

 

しかし、『冥途の飛脚』と『傾城恋飛脚』は同じ話の書き換え・同一構成ではあるものの、実は主要登場人物の性格設定に大きく異なる点がある。『冥途の飛脚』「淡路町の段」「封印切の段」→『傾城恋飛脚』「新口村の段」と続けて上演したときには話がつながらなくなって観客の混乱を招く。そのため、現在の文楽本公演では『冥途の飛脚』と『傾城恋飛脚』は必ず別立てで上演を行うようになっている。

この「くっつけたときに話のつじつまが合わなくなる」は、この映画を読み解く重要なヒントになると私は考えている。

 

外題表記の混乱

こういった原作・改作混在の通し上演に加えてややこしいのは、外題(上演演目名)表記の混乱だ。原作の『冥途の飛脚』という外題は、文政の復活上演依頼、長い間使われなかった。大正中期までは『傾城恋飛脚』『恋飛脚大和往来』の外題を使いながら、実際には原作『冥途の飛脚』「淡路町の段」「封印切の段」『傾城恋飛脚』「新口村の段」を上演しているという状況が続いていた。

このような慣例記載について、当時の観客がなんとも思っていなかったかというと必ずしもそうではなかったようで、『浪花名物 浄瑠璃雑誌』大正3年(1914)10月号に掲載されている同年9月の文楽座9月興行劇評には以下のように書かれているので、当時からマニアは切れていたようだ。この公演も『恋飛脚大和往来』という外題で、実際には『冥途の飛脚』「淡路町の段」「封印切の段」→『傾城恋飛脚』「新口村の段」の原作改作混在通し上演を行なっていた。

(前略)併し殊に可笑しきは番付口上近松研究の第二回として冥途の飛脚を上場いたし相演じ云々と麗々しく書立てたるにも拘らず外題表には恋飛脚大和往来とあり、為に一見世の近松研究者を蔑視したるかの感あり、斯る大矛盾に気の付かざる筈はなけれども(以下、文楽座の興行体制についてぶち切れ続ける。文楽座は斯界の「最高学府」にも関わらずこのようなことを平気でしているのは嘆かわしくお先真っ暗等、痛いヲタ独特の長文が延々と……)

『冥途の飛脚』という外題が復活されたのは、大正9年(1920)9月。しかし、これはすぐに定着したわけではなく、その後も『恋飛脚大和往来』『傾城恋飛脚』の外題での上演も行われ続けた。

現在の文楽本公演では、かならず『冥途の飛脚』の外題で上演している。しかし、文楽劇場開場(1984)以前、すなわち朝日座時代の大阪公演では、内容は『冥途の飛脚』であっても、『傾城恋飛脚』という外題で上演していた(東京公演では同時期であっても必ず『冥途の飛脚』)。理由がよくわからないが、上方演劇界の慣例を踏襲していたのだろうか……。文楽劇場開場後は、東京公演・大阪公演とも『冥途の飛脚』で統一されている。*6

 

 

 

以上が『冥途の飛脚』『傾城恋飛脚』をめぐる人形浄瑠璃の上演史。

各段の原作・改作の錯綜は、予想していた以上に複雑な状況だった。文楽現行曲の各作品の上演史というのは基本的には国立劇場が刊行している上演資料集を参照すれば江戸時代の初演からの歴史が詳細に載っている。これがもっとも手軽な調べ方だ。が、今回、『冥途の飛脚』『傾城恋飛脚』の上演資料集を見てみたところ、両者で記載が曖昧に混在していた。調べたら、両作がどのように上演されてきたのかの研究整理は遅れており、いつ・どっちの・どの段が舞台にかけられていたのかが整理確認されてきたのは近年のことらしい。人形浄瑠璃は歌舞伎・能楽に比べ研究が相当少ないというのは知っていたが、近松ものの有名作さえ、ここまで基礎的な情報整理すらされていなかったんだと驚いた。

以上の上演状況の変遷確認は、『國文学 解釈と教材の研究』(2000年2月号/学燈社)掲載の内山美樹子「文楽で聴く近松心中天網島・冥途の飛脚・心中宵庚申−」を参考にしつつ、上演資料集の記録をベースに『義太夫年表』各巻の番付(人形配役等)で検証した。*7

 

クライマックスの「新口村」が原作でない理由は、改作のほうが人気があるからそうしたというのではなく、率直には原作は廃曲だからだろう。原作の文章だけでも残っているならそれをもとに曲をつけて新しく作ればいいではないかと思われるかもしれないが、人形浄瑠璃の復曲というのは莫大な労力がかかる作業。原作の研究、作曲、人形の振り付け等を起こして実際に舞台にかけるまでは数年の時間と多大な労力を要する。仮に映画制作側からどうしても『冥途の飛脚』の「新口村の段」でやりたいという強い要望があったとしても、この映画のみのために短期間で(かつ、当時の文楽座三和会の体力で)すぐにそれを実現することは難しかっただろう。国立劇場系列はたまに古い演目を復曲するが、『冥途の飛脚』「新口村の段」の復曲は行われていない。(なぜ復曲しないのかは、国立劇場系列が刊行しているパンフレットを読むとなんとなくわかる)

しかし、近松原作を重視して、原作通り(原作をトレースした内容)の映画にしたいなら、脚本として近松の作劇術を謳うようなオチにしなければいい、あるいはラストシーンに人形浄瑠璃を使わなければいいはずだ。にもかかわらず、この映画はどうしてこのような混在形式になっているのだろう。

私は逆に、『冥途の飛脚』「淡路町の段」「封印切の段」→『傾城恋飛脚』「新口村の段」という原作改作混在の「通し上演」を映画化すること自体がこの映画の趣旨だったのではないかと考えている。むかしは、観客も出演者も両者が別物と認識しつつ、“梅忠もの”という大括りの「ジャンル」でこの二つの作品を理解していたのだと思う。ただ、観客はどのように「同じもの」「別物」と認識していたのか? 相当もやっとしていたのではないか。私は、それがこの映画の構成に影響を与えているのではないかと感じている。

 

その理由を述べる前に、もうひとつ気になっていることがある。それは、この人形浄瑠璃「新口村」での人形の演技が、現行の文楽公演と異なっていることだ。(つづく)

  

 

 

TIPS. 2 歌舞伎での上演状況

歌舞伎での改作『恋飛脚大和往来』は、「生玉の場」「亀屋の場」「新町揚屋の場」「新口村の場」で構成されており、このうち現在まで残っているのは「新町揚屋の場」「新口村の場」のみとなっている(「新口村の場」の前に道行がつく等の方式もあり)。

各場面での構成は『冥途の飛脚』に対応していて、「新町揚屋の場」は『冥途の飛脚』「封印切の段」、「新口村の場」は「新口村の段」に相当する。ただし、『傾城恋飛脚』と同じくかなりの脚色(類型化)が行われており、主要登場人物の性格が大きく異なっていたり、忠兵衛の封印切に正当性をもたせる演出をする場合があったりで、原作からの乖離は相当著しい。というか、歌舞伎の場合、それどころではすまない破天荒なことが起こっていたりするんですが……。

現在、舞台にかかる場合は、「新口村の場」のみで見取り上演される場合が大変に多い。ほか、「新町揚屋の場」のみの見取り上演、「新町揚屋の場」「新口村の場」で通し上演をする場合もある。

*原作『冥途の飛脚』の歌舞伎上演は明治以降。

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┃ 次の記事

映画の文楽4 内田吐夢監督『浪花の恋の物語』3:めんない千鳥をめぐる謎 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹


┃ 参考文献

*1:人形浄瑠璃で、女性登場人物が心情を述懐すること。女性登場人物が悲しみ等で心情が昂ぶらせる場面ではこのような「クドキ」が入る。歌うような節付けと舞踊的な振り付けを伴い、女方の人形にとっても派手な見せ場となる。

*2:浄瑠璃の詞章に「めんない千鳥」とあることから、孫右衛門が目隠しをして忠兵衛と手探りで再会する部分をこう呼ぶ。歌舞伎ではよく使われる用語のようだが、現代の文楽では特段言われないかも。「めんない千鳥」とは、京阪において目隠しをして逃げた子を捕らえる子どもの遊びをいう。

*3:一度だけある記録は番付等ではなく、『音曲猿口轡』記事によるもの。

*4:現存最古の台本は寛政8年(1796)。初演記録は歌舞伎年表による。ただし初演時の内容が現行と同じかというと違うらしい。

*5:ここで若干気になるのが、内山美樹子氏の考証では

改作「新町」が廃れたかとみなされる根拠の一つは、番付の人形役割に改作「新町」で活躍する槌家次右衛門の名が全く見えないことである

※引用者注:槌屋次右衛門=梅川の親方。梅川の忠兵衛への思いに理解を示し、まわりがギャンギャン騒いでも他人に身請けされないよう配慮してくれるイイ人。

と書かれているにも関わらず、『義太夫年表』明治篇・大正篇の番付には槌家次右衛門ほか、改作の封印切にのみ登場する役の人形配役がついていること(徳川期は人形配役表記なしの番付も多く、役の有無が判定できない)。表記があるのに「全く見えない」とまで断言されているのは、義太夫年表が間違えているかな(私が見ているものの版が古いのかな?国立劇場の図書室のと国会図書館のを使ってるんだけど)。それとは別に役名の揺れとして、原作の太鼓持ち伍兵衛など茶屋にいる脇役男性を指さないとも限らないというのはわかるが、少なくとも下記のうち大正9年と13年は同時に伍兵衛の配役もついているので……。昔の人形浄瑠璃、役名が一定しないのでなんとも言えませんが……(ほかにもイレギュラーとしては、歌舞伎『恋飛脚大和往来』にしか登場しない「槌屋おえん」役の人形配役がついている公演もある。おそらくこれは原作の花車のことを指してこの役名にしているか)。

  • 明治39(1909)4月・御霊文楽座『恋飛脚大和往来』(淡路町+封印切+新口村の通し)→「槌屋次右衛門」「判人由兵衛(改作・封印切にのみ登場する身請けの仲介人。端的に言ってせこい女衒)
  • 大正9年(1920)9月・御霊文楽座『冥途の飛脚』(同通し)→「槌家次右衛門 ※これは主役格を遣うような格の高い人形遣い(吉田辰五郎)が配役されているので、素人目には改作の可能性がある気がしますが……。」「判人由兵衛」
  • 大正13年(1924)2月・御霊文楽座『冥途の飛脚』(同通し)→「槌屋次右衛門」

仮にこれらが改作ではなく原作だとすると、改作「封印切の段(新町の段)」の最後の上演は、もっとも早くて文化13年(1816)にまで遡るかも。

また、同論考での改作「封印切の段」廃曲の根拠として、安政2年(1855)、慶応2年(1866)、明治22年(1889)に行われた改作「淡路町の段」+「新口村の段」通しという、「封印切の段」を抜いた特殊な上演方法に着目している。※改作であるか否かは推測。明治22年(1889)は『傾城恋飛脚』にのみ登場するおすわ(妙閑の姪で忠兵衛の許嫁)、梅川忠兵衛(梅川の兄)の役が人形配役に見られるので、まず改作と思われる。

*6:国立劇場国立文楽劇場は基本的に正本準拠で外題表記を行う。そのため、民間公演とは表記が異なる場合もある。

*7:この手法は一般図書館でもできるようないちばん手軽な手段なので、素人が判定できることは限られているけど……。検証していると上演資料集と義太夫年表で齟齬のある点がみられ、より細かい調査をするなら相当大変だと思った。それにしても上演資料集は「文楽座の忘年会でやりました💓」とかまで載ってるんですね……。師匠主催の勉強会@師匠ハウスはまだわかるけど(上演劇場の表記が突然の個人宅)。関係ないけど義太夫年表の新刊は今秋に出るらしいです。