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麻雀漫画と昭和の日本映画と文楽(人形浄瑠璃)について書くブログ

映画の文楽4 内田吐夢監督『浪花の恋の物語』1:クライマックスへの疑問

内田吐夢監督の映画に、『浪花の恋の物語』(昭和34年(1959)9月公開)という作品がある。内田吐夢は『妖刀物語 花の吉原百人斬り』『恋や恋なすな恋』など何本かの古典芸能原作の映画を撮っているが、『浪花の恋の物語』はそのうち人形浄瑠璃を原作・題材としている作品だ。また同時に、当時の人形浄瑠璃の芝居小屋(竹本座)の内幕を舞台としていることも興味深い。

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私、この映画、文楽がどうこう以前に、映画として大好きなんですよね。東映京都撮影所というインフラがあり、時間もお金もかけて映画が制作されていた頃の密度の高い大作時代劇だし、俳優陣のパフォーマンスもきわめて高い。監督としても映画会社(東映)としても、また、歌舞伎出身である主演俳優(中村錦之助)も力を入れた企画であると思う。

しかし、この映画に対して「ヘンだなあ」と思っていることがある。それは普通に映画を観ていただけのときには気付かなかったのだが、文楽を観るようになってから「なぜそんなヘンなことになっているのか」とだんだん疑問が大きくなってきた。私が抱いている疑問の答えを知っている人はいると思うし、当時の関係者に聞けばわかることだろう。しかし、今回は自分のできる範囲で、文楽人形浄瑠璃)という切り口から疑問解決へのアプローチをしてみたいと思う。

今回の記事は長くなるため、記事を何度かに分けて書いてみたいと思う。まず第一回目の今回は、『浪花の恋の物語』の内容を振り返り、その疑問点について書く。

 

 

 

┃ 『浪花の恋の物語』の概要

本作『浪花の恋の物語』は、江戸時代の大坂、正月、『曽根崎心中』の大ヒットから時が経ち、有力な太夫筑後掾(竹本義太夫)の逝去によって再び閑古鳥が鳴くようになった人形浄瑠璃の芝居小屋「竹本座」を舞台にしている。桟敷で見物していた小豆島のお大尽(東野英治郎)は、客入りの悪さから浄瑠璃作者の近松門左衛門片岡千恵蔵)を呼び出そうとしている。お大尽は竹本座を贔屓にしており、商売になるなら金主になってやってもいいと考えているらしく、金に困っている竹本座の座主たちはこのお大尽を厚遇していた。一方、小屋の平土間のいちばんうしろで舞台を見ていた近松は、客入りには芝居の内容が重要であると考えているのだった。

そんな竹本座へ、ひとりの若い男がやってくる。桟敷で見物している飛脚屋、亀屋の後家・妙閑(田中絹代)と娘・おとく(花園ひろみ)のもとへ弁当を届けにきたのである。その男は、亀屋の養子・忠兵衛(中村錦之助)であった。青白い顔をした優男だ。おとくは兄も一緒に見ていけばと提案するが、妙閑はそれを許さない。忠兵衛は江戸から届ける金子を持っていた飛脚が「封印切」をしたこと、そのために近隣の組合に加入する飛脚屋が役人に集められる寄り合いがあることを話して帰っていく。

と、ここまで見ると、この映画が浄瑠璃『冥途の飛脚』を下敷きにしていることがわかる。

この映画には、梅川(有馬稲子)と忠兵衛の出会い、そしてその結末までが描かれている。二人は『冥途の飛脚』そのままの運命をたどる。これを見ているのが近松門左衛門だ。ただし、近松はあくまで傍観者であり、二人に干渉することはない。ただ偶然、そこに居合わせ続けるだけだ。

おもしろいのは、この映画の「結末」。長くなるが、この稿で私が語りたいことはすべてここからはじまるので、順を追って解説する。

 

 

 

┃ 封印切の果てと近松の作劇

忠兵衛は小豆島のお大尽が梅川を身請けしようとするその仮祝言の満座の中で封印を切ってしまう。封印切は大罪だ。とくに私欲のために武家の金に手をつけたとあっては獄門は免れない。梅川の主人である槌屋の親方はそれを通報し、その夜のうちに亀屋妙閑は引っ立てられる。

翌朝。道頓堀の町には封印切の瓦版が出回り、竹本座の楽屋もその噂で持ちきりだ。しかし近松は無言で大雪の中を帰宅して机に向かい、当人たちばかりではなく、彼らを心配しているであろう親の心中を案じる。

ここで画面が切り替わる。雪の中、山狩りをする役人や捕手衆の姿。田舎道の片庇の小さな小屋に、粗末な姿で身を寄せ合う忠兵衛と梅川。*1忠兵衛が貧しい民家の木戸を開けると、中ではみずぼらしいなりの老婆がうずくまって苦しんでいる。忠兵衛と梅川は驚いて老婆を介抱するが、追っ手の足音が聞こえ、思わず家の奥へ隠れる。役人たちが去った後、梅川は老婆を母に似ていると言って背中をさすってやる。それを見た忠兵衛は梅川を呼び、ここで別れようと言い出す。槌屋で切った封印の正体はやはり武家の急用金であり、自らの行く末は諦めているゆえ、梅川は京都の母に会ってから訴え出れば無事にもとの勤めに帰れるだろうと言う。しかし梅川はその口を塞ぎ、それは薄々知っていたことだと言う。忠兵衛が新口村の父に会いに行ったあと、自害するだろうと見抜いていたのだ。逃げて逃げ抜いて、どこまでもついて行きたいと。忠兵衛はひたすら梅川を抱きしめるのだった。

画面が切り替わり、ふたたび大坂の近松の自室。竹本座の座本・竹田出雲が訪ねてきて、もうすぐ初日だからと次の芝居の台本の進行を問うてくる。あの一件をありのままに書き、封印切を見せ場として寂しい道行をつけ、「御用だ」でしめれば芝居ができると言うのだ。しかし近松は「あったことを土台にして、情(じょう)を写さななりまへんのや」と返し、槌屋で執筆するとして再び出かける。槌屋にやって来た近松が梅川の可愛がっていた下働きの少女と話していると、梅川と忠兵衛が忠兵衛の故郷・新口村の入り口で捕まったという知らせが入ってくる。やはり親里へ向かっていたのか……、近松は筆を握りながら、「人間やもん、間違いすることもあるやろ。男かわいそうには獄門、女は二度の勤め。ほんまはそうなるやもしれへん。が、わしの筆はそこまで不人情にはなれへん。舞台の上では……」とつぶやく。

ここで突然柝の音が入って画面が切り替わり、真っ暗な背景の中、揃いの黒の着付の忠兵衛と梅川が姿をみせる。「〽落人のためかや今は冬枯れて……」と清元が入ってくる。傘を差し、舞踊的な足取り・所作の二人。白粉と紅でうつくしく化粧された顔。その足元、行く先に見えるのはまっすぐな白い道、これは花道だ。バックの暗幕が落ちると、そこは本舞台。雪持ちの竹林の大道具が出ていて、雪が降っている。それが下手に引かれていくと、在所の粗末な家の書割、そして「新口村」と書かれた標柱が芝居の大道具としてあらわれる。*2

再び柝の音が入ると、そこはやはり槌屋である。周囲が騒がしくなり、梅川が連れ戻されてきたという声が聞こえる。近松が障子を開けると、廊下には黒い布をかけられ、朋輩たちに助けられながらよろよろと歩く梅川の姿が。自室に帰され、黒い布が落ちたその姿は、別人のように無残に泣き乱れている。梅川は忠兵衛と引き裂かれた瞬間を思い出し、突然部屋を飛び出す。下働きの少女の叫び声に近松が中庭を見ると、梅川は井戸へ身投げしようとしていた。近松は慌てて彼女を抱きとめるが、親方から「勝手に死なせるわけにはいかない、お前の体には金がかかっている」と言われ、梅川は「遊女は死ぬことさえ自由になれないのか」と近松にすがりつく。近松は梅川が親方らに引かれていく姿をただ見送るしかなかった。

ここで突然義太夫三味線の音が入り、また画面が切り替わる。ふたたび背景暗黒、そこにぽつんと立った黒着付の梅川の姿に、「〽大坂を立ち退いて、私が姿目に立てば……」という義太夫がかぶってくる。彼女はまるで人間でないような無機的な表情と振りで、義太夫に合わせて踊っている。

と、また画面が突然切り替わり、人間だったはずの梅川は黒着付はそのままに、まっしろな顔をした娘の人形へと姿を変えている。背景は貧しい田舎家の大道具。人形浄瑠璃の舞台だ。「金より大事な忠兵衛さん、科人にしたのは私から、お腹も立とうが、因果づくと……」、彼女の上手側には、白髪の老爺の人形がうなだれて座っている。奥の一間の障子が薄く開き、若い男の人形が二人の様子を伺っているのが見える。

画面は近松のアップに変わる。おや、平土間席の一番後ろというセンセイの定位置ではない。小屋のほんとうに一番後ろの木戸ぎりぎり、しかも周囲には一心に舞台を見つめるたくさんの立見の見物がいるではないか。「親子は一世の縁とやら、この世の別れにたった一目、会うてしんぜてくださんせと……」カメラがどんどん引いて行くと、竹本座は近来稀に見るほどの超大入りである。押し寄せているのは町人だけではない。二階にはお武家の姿もあり、果ては槌屋の使用人まで立ち見しているではないか。

カメラがさらに引かれると……、彼らが固唾を飲んで見つめている先は、舞台上の人形だ。カメラはそのまま引き続け、人形の背後、舞台の奥から人形と観客たちを映し出す。「たった今も言う通り、たとえ詞は交わさいでも、顔見合はしたりゃ縄かけるか……」舞台では老爺の人形と梅川の人形が話しあっている。「そんなら顔を見ぬように……」と、梅川の人形が老爺……孫右衛門の人形の後ろへ回り、「慮外ながら、と、めんない千鳥……」と、手拭いで目隠しをしてやる。梅川が奥の間に隠れていた若い男の人形を呼び出すと……、「親子手に手を取交せど、互ひに親とも我が子とも、言はず言はれぬ世の義理は……」忠兵衛が走り出て、孫右衛門のひざに手をつく。孫右衛門は手探りで我が子の顔をみとめ、ふたりは抱き合う。「涙湧出づる水上と、身も浮くばかりに……泣きかこつ」。

……その舞台を見つめる近松の心のうちには、「忠さまのところへ行きたい、忠さまのところへいかして!」という梅川の悲痛な叫びがこだましているのだった。

 

 

┃ クライマックスへの疑問 

この映画では、近松は芝居を書くにあたって、現実では悲惨な結末を迎えた二人の運命をそのまま劇化するのではなく、忠兵衛が故郷で実の親に会うという夢を浄瑠璃の中で結実させたという締めになっている。もっとざっくりいうと、近松があの有名な親子の再会シーンを書いたのには、こういう秘密があったのですよ……。というお話。現実世界が近松のイマジネーション(作劇)を経て、清元舞踊、人形振り、人形浄瑠璃とだんだん虚構の世界へ移行していく映像演出が特徴となっている。

ここで問題となるのが、映画のクライマックス=人形で親子が再会する部分の人形浄瑠璃の演目。作中ではタイトルクレジット等が一切が出ないが、これは文楽では通称「新口村」と呼ばれる、大変有名で人気の高い出し物である。歌舞伎にも同一のものがある演目なので、文楽・歌舞伎を観る方ならこのシーンが何を意味しているのかは義太夫が入った瞬間にわかるだろう。

 

しかし、実は、本作で「近松が書いた」と設定されているこの人形浄瑠璃「新口村」とは、実は『冥途の飛脚』のラストシーンではない。別人による後世の改作、『傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく)』の「新口村の段」なのだ。作者が違う、別の作品だ。

このことは文楽や歌舞伎を観ない方はまったく気づかないだろう。しかし、観る人にとっては結構引っかかってくるポイント。いい映画なんだけど、肝心のところで違う作者の作品を「近松作」としているのはあまりにザックリしすぎてはいないか。私は文楽を観るようになってから、その点がずっとモヤモヤしていた。

なぜこんな致命的な改変をしているのだろうか? 当時は映画の「時代考証」のリテラシーが低かったのだろうか?

(つづく)

 

 

 

TIPS.1  人形浄瑠璃『冥途の飛脚』のあらすじ

以降の話をわかりやすくするため、最初に人形浄瑠璃『冥途の飛脚』の現在の文楽での上演内容を紹介します。近松門左衛門作の『冥途の飛脚』は、現在、「淡路町の段」「封印切の段」そして「道行相合かご」の三つの段が上演されています。以下にその現行上演内容を簡単に記します。

 

淡路町の段」

飛脚屋・亀屋では、後家・妙閑が養子・忠兵衛の不在と不品行を嘆いている。亀屋が預かっているはずの金50両が届かないクレームを入れるため、丹波屋八右衛門が店の手前までやって来たところに偶然忠兵衛が帰宅。忠兵衛は八右衛門に、その金は田舎客けらの身受け話が持ち上がっている梅川を引き留めるために使ってしまったと告白。八右衛門は友情に免じてそれを赦し、帰ろうとするが、妙閑が気づいて八右衛門を家に上がらせる。忠兵衛は妙閑から丹波屋への為替金をいま渡すように言われ、窮して手元にあった鬢水入れを紙に包んで八右衛門へ渡す。八右衛門は金包みのふりをして受け取り帰ろうとするも、妙閑が受け取り証文を書いて欲しいと言い出してしまう。八右衛門は妙閑が文盲であることから、「金は受け取っていない」としたためた証文を書き付けて一旦ことを納め、帰っていく。その夕方、亀屋の店先に江戸からの荷が到着。夜も迫っていたが、忠兵衛は堂島の武家屋敷へ届ける金300両をいますぐ持って行くとして、羽織を着て外出する。しかしいつの間にか彼の足は色街である新町の方角へ向かっていた。忠兵衛はここで引き返して堂島へ戻るか逡巡するが、羽織が落ちたことも気づかず、梅川のいる新町のほうへと向かってしまう。

 

「封印切の段」

新町の茶屋・越後屋で遊女たちが身の悲しさを語らっているところへ、見世女郎・梅川が姿を見せる。遊女たちは打ち沈んだ様子の梅川を励ましていたが、そこへ八右衛門がやってくる。八右衛門は忠兵衛が来ても店に上げるなと一同に告げ、このままでは店で扱う人様の金に手をつける可能性があるとして鬢水入れの一件を話す。しかし実は店の前には忠兵衛が来ており、この話を立ち聞きしてしまう。忠兵衛は乱れた姿で店へ上がり込み、八右衛門に金をいますぐ返すと言い出す。その金の出どころを知る八右衛門は引き止めようとするが、言い合いになり、忠兵衛はついに武家の300両の金封を切ってしまう。忠兵衛は110両を茶屋の女主人に梅川の身請け金として渡し、さらに心づけを撒く。八右衛門は50両を受け取ってそのまま帰り、茶屋の一同が座を外したあと、残された忠兵衛は梅川へ金の正体はやはり武家の急用金であることを告白する。こうなっては死罪は免れられないが、せめて逃げられるところまで逃げようと、二人は大坂を後にする。

 

「道行相合かご」

大坂を逃れた忠兵衛と梅川は、大和新口村に住む忠兵衛の実の父・孫右衛門に会おうとみぞれの中を急ぐ。

参考:文楽では、「道行相合かご」は『浪花の恋の物語』公開の11年後、1970年に復曲されて、現在の上演に至っています(原作初演当時とは別の詞章・曲で上演しています)。すなわち『浪花の恋の物語』公開時点では失われていた曲であり、文楽のレパートリーには存在していませんでした。

 

↓ 『冥途の飛脚』詳細なあらすじと上演状況は以下の記事を参照ください。

 


┃ 参考文献

 

 

 

*1:以下、老婆のいるすさまじいボロ屋含め、脚本を参照するとこのシーンは「三輪の茶屋」ということらしい。歌舞伎ではそういう設定なのかな……。文楽でも確かに「道行相合かご」の途中によくわからないものすごく粗末な小屋(しかも書割)が唐突かつおざなりに一瞬出てきますけど、あれがもしかして「三輪の茶屋」……? 単なるものすごく粗末な小屋だと思っていままで観ていました。三輪の茶屋で休んでいるおつもりでしたの……? 全然わからなかった。玉男様ごめんなさい……。でも、浄瑠璃の文脈上、「借駕籠に日を送り、奈良の旅籠屋三輪の茶屋、五日三日夜を明かし二十日あまりに四十両使ひ果して二歩残る」なので、見た目だけは羽振りのいい逃避行(エーゾエーゾ的な)だと思っていたんですけど……。

*2:初回からこんなこと言うのもなんだけど、あの踊りの出来は斯界ではどういう評価になってるんでしょうか…………。あと、ここの本舞台に降ってる雪が直前の現実シーンで降ってる雪と同質(リアル)なのはなぜ……? このシーンの意義を考えると、三角とか四角の紙の雪のほうが脚本上適切だと思うのだが……。