TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 10月地方公演『摂州合邦辻』『五条橋』『桂川連理柵』神奈川県青少年センター

今年の秋の地方公演はかなり良かった。

 


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昼の部、摂州合邦辻、合邦住家の段。

地方公演らしい自由な雰囲気があり、「合邦」の持つ古くけばけばしい世界観が活きていた。

玉志さんへの合邦の配役は、2020年度の地方公演(秋・春)以来。
その当時よりも、大幅に武張った方向に寄せられた合邦になっていた。
「武張った」をもっと正確に表現するならば、老武士的な謹厳実直さがあった。頑固親父というよりも、謹厳実直という雰囲気。かつ、すっと抜けるような上品な佇まいがあるところが独特。頑固親父と謹厳実直を正確に演じ分けできるのは驚異的。冒頭の静かにしている場面、談笑する近所の衆に対し正座してじっと人々の話を聞く様子、帰っていく人々に長く礼をする所作には、さすが青砥左衛門藤綱の息子というだけの気品と内面の重みを感じる。合邦は玉手のことを思って眉が「しゅん⤵️」と八の字になるのが可愛いんだけど、眉の動きもピンポイント使いに押さえ、田舎っぽくなりすぎるのを防いでいた。
しかし、その後、ママと二人になって以降の動きはある程度品格を崩すものになっている。体幹ごと大きく動く場合は、縦横の動きを強調した硬い所作。また、小さな動き、たとえば目をこする仕草は「コシコシ!!コシ!!」と素早く、かつ振りが小さい処理にしていた。生世話めいた人間の動きではなく、あくまで人形の動きとしているのは特徴的だ。玉志さんは常からその傾向がかなり強い。人形ならではの端的な情感を表現するには、かえって人間から離したほうが情緒的であるという判断なのだと思う。発想が普通の人(一般論)とは逆なのは、興味深い。ちょっとアニマルっぽくもあるが。
どのような方法を取るにしても、類型性があまりない微妙な身分をどう表現するかには、個人の解釈や個性が出る。白太夫(菅原伝授手習鑑)など、そのほかの身分を定めがたい役でも見てみたい。

合邦は法事の場面では腰衣(黒いプリーツつきエプロンみたいなやつ)をつけているけど、これ、村の人が帰ってから外す演技する人いるよね? 玉志さんは外していなかった。一旦引っ込んだときに外し、煙草盆を持って出直すところからはつけない方法にしていた(小袖と生地揃いの袖無し羽織になる。腰衣は最後に百万遍念仏をするところで再びつけて出る)。
袖無し羽織も途中で脱ぐが、これは脱ぐタイミングのかなり前から、すぐはねのけられるよう、人形遣い自身の腕を通す位置を変える準備をしていた。以前、脱ぐのにちょっと手間取ったことがあるからだと思うが、おそろしく用心深いなと思った。

そして合邦でも棒足は華麗だった。どこへ向かっているのか本当に謎だが、「合点承知之助」と思った。

 

玉手御前・勘十郎さんは、やたら右手を突き出す・ばたつかせる動きが押さえられていたのが何より良かった。
これは以前にも書いたけど、勘十郎さんがこのような過去の「手癖」から動きを変えているのは、意思を持ってのことだと思う。「やたら右手を突き出す」は先代勘十郎にあった「欠点」だ。劇評等で何度も批判されていたらしく、インタビュー等でも自分で悪いクセであるとして語っている。しかし、死ぬまでなおることはなかった(なおすことはなかった)。先代勘十郎はインタビューを読む限りかなり「まとも」な人物で、自分の感覚と客の感覚を峻別したうえで、自分は客に対しどのような印象を与えるべきかとその限界を分析していた様子がある。そんな先代勘十郎がなぜなおさなかったのかはわからないが、とにかく、いまの勘十郎さんはなおそうとしている。先代の頃からは時代が変わり、もはや同じままではいられないこともわかっているということか。こういった、本人の意思が介在していることこそ、トークショーやインタビュー等で「なぜそのような取り組みをしているのか」聞いてほしいのだが⋯⋯。
玉手御前の場合、特に冒頭は頭巾を被っているため、かしらの表情(ニュアンス)が見えにくくなる。かしら以外の動きはできるだけ押さえ、頭巾から覗いている目元が語るものに客の視線を集める必要がある。以上の改善によって、この点は充分に叶っていた。また、右手に限らない身体の動きを抑えたことにより、ふだんはどうしても幼い方向へ振れがちな年齢感もグッと浄瑠璃の設定に近づいたのも良かった。
ただ、落ち着いて出来ているのは序盤のみで、ママが「尼になれ」と言って以降は「やたら右手を突き出す」に戻っていた。全般的に動きが単純化している点からすると、意図的にそうしているというより、集中力が持続していないためのように感じた。このあたり、いろいろと難しいよなぁと思った。

(「やたら右手を突き出す」が何故よくないのか、私の解釈を書いておく。単に「人形の手の演技に凝っている」だけなら、欠点ではない。だが、「やたら右手を突き出している」人形遣いは、「人形の」ではなく「人形遣いの」右手を突き出している。そのため、長時間にわたって、肩・二の腕・肘・手首・手が同じ高さに上がっている状態になる。これだと、本人は「手の演技をしているつもり」「派手にやっているつもり」なのに、人形が人形の腕[衣装の袖]と人形遣い自身の身体・着付の袖に隠れて、肝心の顔や姿が見えなくなってしまう。人形見えなかったら、まじで意味ない)

玉手御前の左については、そのとき、「手のひら」がどの方向に向いているのが最も良いのか、もっと厳密に検討してみてはと思った。玉手御前は、他人にもたれかかる演技が何度かある。①久々帰省でママにちょっと甘える、②俊徳丸に演技としてしなだれかかる、③死を目前にして俊徳丸に倒れるようにもたれかかる、の3つが大きなところだと思う。このそれぞれで、「手のひら」がどこに向いていればいいかは違う。いまだと単に適当に差し出しているだけの成り行きになっているが、手のひらの向きで情緒を表現するのは女形の超超基本動作なので、よ〜〜〜〜〜〜〜く考えた上で演じていただきたい。

 

なお、合邦と玉手は非常に相性よくまとまっていた。合邦が玉手を刺す場面、抱きつきのタイミングなどは寸分たがわず合っている。お互いのポジション取りもバッチリで、人形が非常に見やすく、見た瞬間、情景そのものがクリアに入ってきた。
玉志さんは動き出しのタイミングをわかりやすく提示する人であること、勘十郎さんは相手の動きを読んで動くのが得意なことがうまくマッチしているのだと思う。また、今回は合邦がかなり派手めに振られたことによって、玉手との佇まいの違いに変な落差がなかったためもあるだろう。お互い特に意識しているわけではないだろうが、パパと娘!!!!感がよく出ていた。この点は「合邦」最大の出色。

 

浅香姫〈桐竹紋吉〉と俊徳丸〈桐竹紋秀〉は頑張っていた。若手会っぽい。紋秀さんは俊徳丸の面の仕掛けをかなり心配しながらやっているように見受けられたが、わかるで。うまくいってよかった。俊徳丸は王子様風(ガタイ良い系)だったが、浅香姫は良くも悪くも「普通の女の子」っぽかった。特に、一番最初に奥の間から出てくるところの歩みは、さすがにちょっと「一般人」すぎるかな。娘役の品格のチューニングに関しては、今回、昼夜とも、勉強が必要であるように感じた。

ママ〈吉田簑一郎〉は勘壽さんママとは異なり、落ち着いたご婦人という佇まいだった。合邦と並ぶ気品を感じた。

 

 

今回の地方公演はこの横浜公演が初日のためか、中・前の太夫はやや食い気味になっている箇所が多かった。やむを得ないが、人形さんはつられてしまい、間合いがおかしくなっているシーンも多かった。
「前」の清治さんは非常に良かった。清治さんは最近、心配になることが多かったけれど、今回は前向きな演奏だと感じた。
清介さんは久々のレギュラー公演復活。エンジンかけ中かな。

 

上演前解説で、「いまは自由恋愛の時代ですから、義理の母が義理の息子に恋をしても、どうぞご勝手に、でしょうが……」と説明していた。夫の死後とは言っても継母が義理の息子(同世代)を追いかけ回していたら、世間的には「え……👀💧」となるように思う。普通に、玉手の行動は今でも「非倫理的」だと捉えられるからこそ残っている演目なのでは。
夜の部では、「いまの感覚からのコメント」を避けた解説にしていたが、そのほうがいいと思う。若い方はとくに、「師匠」世代の方の言っていることを「コピペ」するのではなく、自分の友達や子どもの世代にどう語りかければいいのかという観点から、よくよく考えてほしいです。

 

 

  • 義太夫
    中=豊竹希太夫/鶴澤友之助
    前=豊竹呂勢太夫/鶴澤清治
    切=豊竹若太夫/鶴澤清介

  • 人形
    合邦道心=吉田玉志、合邦女房=吉田簑一郎、玉手御前=桐竹勘十郎、奴入平=吉田勘市、浅香姫=桐竹紋吉、高安俊徳丸=桐竹紋秀

 

 

 

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五条橋。

頻繁に出る演目なので、そこそこ上手くまとまっている。
が、「初日っちゅうことかな〜」というのが正直なところ。弁慶のかしらや手のガタつき、目線の散らかりは気になる。人形に無駄なガタツキがあるのは文哉さんだけではない。が、逆にいえば、本人は華奢なのに、人形は全然ぐらついてない人もいる。重量のある大型の人形を支えるには、おそらく、なんらかのテクニックがあるのだろう。文哉さんは少しずつ改善してきているものの、それを指導として教わらず我流でやり続けるには限界がある&あまりに時間がかかりすぎるということか。

 

 

 

  • 義太夫
    牛若丸 竹本小住太夫、弁慶 豊竹亘太夫、豊竹薫太夫/鶴澤寛太郎、鶴澤清公、鶴澤藤之亮

  • 人形
    牛若丸=吉田玉誉、弁慶=吉田文哉

 

 

 

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昼夜の入れ替え時間に、ワールドポーターズにある「ちいかわ焼き」(ちいかわの形の大判焼きの店)へ行った。
おそろしい長蛇の列で、1時間〜1時間半待ちと言われたので断念した。複数人のスタッフさんが広い厨房で無限に焼きまくっているのに追いつかないのか⋯⋯。

 

逆順となるが、開演前に食べた「鬼貝」というお店のランチ回鍋肉&貝出汁粥。
ボリューミーながら脂っぽくないのでパクパク食べられた。女性や高齢者客もいて、誰でもワッシャワッシャ食べられるデカ肉として人気なのだと思う。JR横浜駅改札内にあるので、横浜乗降の機会がある方、ぜひ行ってみてください。

 

 

 

 

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夜の部、桂川連理柵、六角堂の段〜帯屋の段〜道行朧の桂川。

良かった。かなり、かなり良い。驚いた。

まず、長右衛門役の勘彌さんが素晴らしかった。
確かに10代の女の子に慕われそうで、かつ、確かにどこががおかしいという長右衛門の人物像が現れていた。清潔ながら色気が強く、若く見えるのが特徴。顔は吉沢亮で、おつむはミズダコって感じだった。

勘彌さんはおそらく長右衛門役は初めてなのではと思うが、初役初日でここまで到達していることに驚き。いままでお絹やお半を演じたときに、相当によく長右衛門を観察していたんだろう。何故ならば、お絹やお半と一緒に出ているときがものすごく良いから。相手に対しどう考えているかがよくわかる。
特に良いのはお絹に対する態度。いろいろと話し終わって布団へ潜り込んでいるとき、アゴを引いて顔をうつむかせ、布団からはオデコしか見えないような姿勢になっているのが、お絹に申し訳なさすぎて密かにシクシク泣いている、幼児のような印象があって、良い。
帯屋へ忍んできたお半が「最後にひと目」長右衛門へ抱きついてくる際、長右衛門はおもむろに顔を上げ、家の中を左右確認してからお半を抱きしめていた。お絹や繁斎が出てこないか確認したんか!? いくらなんでもセコすぎだろ!! 玉男は無考えに抱きしめとるぞ!!!!!! このあたり、さすが普段お絹役をやっている人だけあるなと思った。
前半、儀兵衛とおとせ、長吉らのワチャワチャを聞いているあいだは、少しずつだんだんうつむいていくという流れになっていた。長右衛門にはなんもすることのない時間ながら、本当になにもしていないとヤバいシーンなので、仄かな変化づけはうまい処理だ。「仄か」はわりとデストラップなんだよな。単に「人形持つのが下手」に見えるケースが多い。玉男さん(プロクズ)はこういうニュアンス付けがとても上手いけど、人形傾いとるとしか言われへん人もおる中、ようやるなと思った。

逆に、長右衛門一人になったときの演技は「研究中」感があった。最後、お半の書き置きを見て慌てて門口へ出ていく→舞い戻って内容を改めて確認するくだりは、演技としては間違っていないものの、感情の動きに対する間合いの作り方が不安定であるように感じた。ここは舞台に長右衛門しか出ていないため、左なり足なりでも長右衛門役をやったことがある人にしかわからないものがあるのだろう。何度かやっていけばできるようになる範疇かと思われたので、今後に期待。

長右衛門は、玉男さんにしか出来ない役だと思っていた。が、玉男さんとは異なるものとしての長右衛門を演じられる人が出現したことを、本当に喜ばしく思う。

 

とっつぁん坊やというか、18にして既におっさん感のある長吉〈吉田簑太郎〉。田舎のゆるめな事業所のバイトの子っぽさは良かった。
「六角堂の段」でお絹からお小遣いをもらうところ、お金数えが棒立ちなのがちょっと勿体ないかな。お絹に少し背を向けてコッソリ数える風にする等、変化があるとよいと思った。
なお、「帯屋」での鉢巻の結び方は、上手側で病鉢巻風に結んで垂らす方式だった。

儀兵衛〈吉田玉勢〉は、「近所のハナマサの店長」という感じだった(ツメ人形の店員とツメ人形の客によって構成される肉のハナマサ・ツメ店の店長)。
落ち着いた折り目正しさと社会性があり、「長右衛門よりマシやろ⋯⋯明らかに⋯⋯」と思った。姿勢のコントロールが的確なうえ、表情に人間らしさがあり、玉志儀兵衛よりサイコパス感がない(玉志サンに失礼)。振りの形の綺麗さが滑稽さを醸し出しているのが良かった。儀兵衛はニュアンスが難しい役だと思うが、雰囲気・動作とも的確で、かなりうまくいっていた。

昼の部の合邦&玉手に続き、長吉&儀兵衛もペア役として上手くよくまとまっていた。本人たち同士の相性が良いというよりも、お互い自分がなにをやるべきかを正確に把握し、正確に遂行しているためだと思った。このような「テクニックでカバーできる部分」はどんどんテクニックで動き、自分ならではの表現を追求する余裕を作っていってほしいと思った。

 

お半役は、本人なりには頑張っていたのだと思う。ただ、お半には、役として最低限きちんと押さえておかなければならない動作がいくつかある。最初の出で後ろ向きにのれんから姿を見せる部分最後、長右衛門が寝入ったのち、煙草盆に書置の手紙を置いて立ち去る部分。今回は初役だろうからこのあたり抜けていたのだと思うが、ただ、何度も左やったことあるんじゃないのという役でこの状態であることは、どう評価すればいいのか。こういうことこそ、舞台人として言われなくても気をつけて当たり前、「見て盗め」の部類なんだろうなと思った。
「見て盗め」という指導方法は現代では「時代遅れ」のそしりを免れることはできないけど、一般的な仕事でも、「ちょっと考えたらわかるやろ💢」というお叱りは遍在しているわけで、うーーーーーん。と思った。

 

 

「帯屋」は床も本当に良くて、太夫だけなら正直いままでに聴いた中で一番良かった。
理由は、睦さん、錣さんの考える「帯屋」が克明に伝わってきたから。長吉のかわゆ小声の恋バナや(睦さん)、本当に眼の前にいる人に語りかけているかのような繁斎の訓戒(錣さん)のリアルさは、彼らにしか語れないものだろう。
普段の公演での太夫の語りは、「声の大きさ」と「声の高低」で人物を区別していることは伝わってくる。「声の大きさ」がX軸、「声の高低」がY軸だとしたら、平面的なグラフ(図形)は描くことが出来ており、最低限の情報は見取り図として担保される。しかし、語りは人物を区別するために存在しているわけではない。語りは情景を描写するものであって、そこに、「どのようなシチュエーションで、何のために誰が誰に向かって話しかけているのか」というZ軸があることが重要なのだと思う。これによって語りに奥行きが出て、物語は立体的なものとして観客に迫ってくる。
睦さん、錣さんの語りには、Z軸があった。実は三角形ではなく三角柱だったとか、円ではなく球だったという「そこに確実に存在するもの」の実感として表現されていた。申し添えておくと、「長吉のかわゆ小声の恋バナ」、「本当に眼の前にいる人に語りかけているかのような繁斎の訓戒」は、単に声を小さくしたとか、声色をつけたということではない。不規則に声が震える若者らしい照れ(常にデカボイスで喋る儀兵衛とのコントラストの鮮やかさたるや!)、口中の空洞を使ったくぐもって押さえた声の響きという、生理的にはっとさせられ、ぞわっとくるような「ニュアンス」があった。気持ちよく調子に乗った語りを聞いているなかにピンポイントであらわれる、このような「ニュアンス」(今回でいうと、そのカテゴリは「生々しさ」ともいえるだろう)は、実におもしろい。
「チャリ」や「愁嘆」といったどこにでもある類型的な図形を見るだけなら、名演集で充分だ。今回は、観客が「立体物」に触ることができる点が何ものにも代えがたい魅力となっていた。立体化こそ、いま生きて、舞台に出ている実演者のこなすべきミッションだと思う。

 


「道行朧の桂川」はいらない。(目が全く笑っていないツメ人形)

 

 

 

  • 義太夫
    • 六角堂の段
      豊竹亘太夫/鶴澤清馗
    • 帯屋の段
      前=豊竹睦太夫/鶴澤清志郎
      切=竹本錣太夫/鶴澤宗助
    • 道行朧の桂川
      お半 竹本小住太夫、長右衛門 竹本碩太夫、竹本聖太夫/鶴澤藤蔵、鶴澤清馗、鶴澤清方 

  • 人形
    女房お絹=豊松清十郎、弟儀兵衛=吉田玉勢、丁稚長吉=吉田簑太郎、母おとせ=桐竹勘壽、親繁斎=吉田玉輝、帯屋長右衛門=吉田勘彌、娘お半=吉田簑紫郎  

 

 

 

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「それぞれの人の表現したい、その演目の世界」を実演に現すのは、本当に難しいことだとだと思う。
「自分の表現」を持つことは、非常に困難だ。文楽を観る人なら、思ったことがあるのではないだろうか。「客の顔色を伺っているだけでは?」「何かの真似をしているんだな」。客に受けたい、何かとそっくりにしたいというのは、若い子の最初の一歩の「やってみたい」のためのモチベーションとしては良いだろう。が、ある程度の経験を積んだ年代ならば、あまりに無邪気であるように思う。判断基準が常に本人の外にある表現者は、客からすると、退屈だ。客の顔色をみるとか、何かの真似ならば、その人でなくともエエからである。実際の舞台には、名演集映像や音源では叶えられないものを期待したい。今回の地方公演は、それが出来ていたこと、あるいは多少ぎこちなくともその端緒が見えたゆえ、本当に行って良かったと思った。

いや本当、『桂川』は観て良かった。もうええがなというほど無限に上演される演目だが、繰り返し上演しているだけのことはある。今回の出演者は決して何度もその役へ配役されている人だというわけではない。しかし、別の役で出演した経験、あるいは他の人のパフォーマンスを見て「自分ならこうやる」と考えていたことが舞台にあらわれたのだと思う。これは、同じ演目を繰り返し上演することで洗練性を高めていく、古典芸能ならではの特性がマキシマムプラスに働いたのだと感じた。

文楽よ今夜もありがとう。

 

 

今回の舞台を見ていて思ったのは、簑助さんの弟子の中に、簑助さんのように、かしらと肩の動きに徹底的にこだわる人がいないのは何故なのだろうということ。簑助さんは、かしらと肩の動きによって人形を魅せていた。弟子がそれをわかっていないはずはないのに、なぜだれもそれを踏襲していないのだろう。たとえば簑助さんの弟子でも勘彌さんや勘市さん、清十郎さんや(お辞めになったが)清五郎さんといった元来他の師匠の弟子だった人、あるいは芸系の違う和生さんとか紋臣さん、玉誉さんなどを見ても、かしらの動きが硬いとは思わない。あるいは弟子にしても簑一郎さんあたりはかなり自然な範疇ではあるのだが、それ以外の人はどうしてこうなっているのか、かなり、気になる。

 

 

今回の横浜公演(神奈川県青少年センター)は大入りだったようで、昼の部は完売、夜の部も8割埋まった状態だった。もともと昼は満席が多い会場ながら、夜にこれだけ人が入っているのはありがたい(自他の区別ついてない系発言)。

それにしてもこの会場は柝の響きが良い。いまの東京公演で不満なことのひとつに、外部会場では柝の響きが悪いという点がある。柝が綺麗に響かないと、「伝統芸能」らしくない。

この会場環境で唯一「こりゃ大変だ」なのは、ステージ袖の客席側に張り出しているところでお囃子さんが演奏していること。お囃子さんの専用スペースが確保できないのだろうけど、パーテーションがあっても客席からめっちゃ見えとる。ツメ人形から見つめられても大丈夫なのだろうか。(お囃子さんと目があったツメ人形)(ツメ人形は客席にもおる)(ようけおる)

これは会場関係ないけど、毎回のことながら、舞台袖から出語り床への出入り用の階段、ちょっと危なくないですか。傾斜を少しゆるめる・手すりをつけることは出来ないのだろうか。ご年配の技芸員さんが「💦💦」となりながら昇り降りをするのを見ていると、心配になる。出入りのアシスタントとしてついている若い子も「💦💦💦💦💦💦💦💦」と心配して手を取ろうとしたりしてるけど、ジジは「じぶんでやる!」となっちゃうだろうから。技芸員さんは袴やから、引っ掛けたらと思うと本当に怖い。