TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 7・8月大阪夏休み特別公演『新版歌祭文』『日本振袖始』国立文楽劇場

ところでいま思い出したが、こないだ東京公演で近くに座っていた20歳ばかりのヤング男子が勘壽さんにキャーキャーしていた。本当にモテる男は違うなと感じた。

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『新版歌祭文』野崎村の段。

これ、今回の夏公演イチの注目演目じゃなかろうか。人形もとっても良いんだけど、とにかく津駒さん〜三輪さんにリレーする床が超絶豪華で、この二人ここに固めていいのって感じ。細切れの見取り上演にしている分、配役に注力しているということなのだろうか。演目が発表されたときは、三十三間堂にどちらかの方が回るかと思っていたのだが……。老父久作の慈愛、おみつの優しさとこらえる内面、船路の華やかさの影に光る涙、美しい情景だった。

津駒さんは見台も素敵だった。黒地に金や銀で無数の蝶々が群れ羽ばたいている柄をあしらったもの。土台部分だけでなく、床本を置く台やそれを支えている足部分にも蝶々が羽ばたいており、いっぴきずつ蝶々の模様が違っていた(見すぎるとちょっと怖い)。津駒さんは見台はお声に似合う見台をいつも使われていて、最近使われていた朱塗りのものも似合っていて素敵だった。津駒さんのお声や語りの雰囲気だと、ああいう派手な色味も嫌味にならず、物語の艶やかさを引き立てる。三輪さんは紋をあしらったシンプルなもの。これもお声そのものの美麗さをより引き立てる清楚さがあって良いなと思う。簡素だけど、フサフサを吊るしてる金具にあしらわれた紋が合ってるので、こだわりの一品だと思う。あ、でも今回はみなさん結構演目の内容に合わせてきてる感じだったかな。『大塔宮曦鎧』に出ていた千歳さん(確か……)は、荒れ狂う波に巨大な鳶?鷲?が舞い降りている柄で、狂言の中に出てくる灯籠の柄に合わせていらっしゃるのかなと思った。細かなおしゃれ。

で、三味線は、ここの「前」の三味線が寛治さんです。前回記事『卅三間堂棟由来』の奥の配役を寛治さんと書いてしまったが、実際にはこっちに寛治さん、『卅三間堂棟由来』は清治さんです。なんでそんな間違いすんねんという間違いで本当すみません。過去記事の方も訂正しました。もちろん寛治さんとてもよかった。「田舎の清楚なお爺さんと娘さんが住んでいる、貧しいけど心持ちはすてきなおうち」という時代劇フィクションでしか実現しえない観念が表現されていたと思う。

 

人形ではやはりおみつ役の清十郎さんが抜きん出ている。なんともいえないおみつの透明感ある哀れさ。地味で心優しい娘がやっと報われると思いきや……という悲劇が似合う。あのそこはかとない地味感と悲惨感は貴重。少女漫画のヒロイン気質を感じる。清十郎さんは最近調子がよさそうでよかった。語弊があるが、より一層の不幸オーラを期待する。しかしおみつがなますを乱暴に刻むのはなぜなのだろう。体の悪いお母さんに代わって家事をして、義理のお父さんの食事にも気をつけている孝行娘なので、本当は料理に慣れている子のはず。祝言の準備をといきなり言われて舞い上がって失敗しちゃってるってことなのかな。鏡の中のお染を櫛のお尻でつついたり、厄介者を追い払うおまじない=手ぬぐいを巻いたホウキをひっくり返して立てかけるのは娘らしく愛らしい。こういった仕草が愛らしく見えるのは人形浄瑠璃ならではだなあと思う。人間だったらよほどの演技力がない限り白々しいだろう。

あとはお染の人形が美しかった。人形そのものがとても美しい。ふっくらとしたやわらかな頰や淡い陰影が落ちた目元口元の優美さ、娘と女の中間ぎりぎりのような華美寸前のつややかさのある清楚な輪郭など、まるで生きている人間のような美しさ。いままでに見た娘のかしらとは少し違う印象。双眼鏡でも見てみたけど、相当の寄りで見ても(変な言い方だけど、演技と関係なく)生きているみたいで不思議だった。なんか、ちっちゃい人がいる感じ。時々、twitter文楽公演のアカウントで人形のかしらが技芸員私物等の特殊な出どころの場合は紹介があるが、今公演に関しては情報公開がないので、このかしらが何者なのかはわからないが……、良いものだと思った。

そして、おみつ、お染が出ているあいだはお客さんみんなこの二人の娘役に「かわいい〜」とキャッキャとなっているが、最後にお染ママ・お勝(簑助さん)が出てきた瞬間、客席全員熟女マニアになってしまうのが最高だった。観客の視線一点集中、やっぱ簑助様は美しさがケタ違い、異次元だね。すべてが霞むわ……。残念ながら船に乗ってからは黒衣サンに交代していたのでほんの一瞬の出番だったが、やっぱり舞台の雰囲気が掃き変わる艶やかさがあった。簑助様は「ふむ!」って感じでお元気そうだった。

そして久作役の勘壽さんがとても良かった。おっとりした動きが優しげでのんびりしているふうだけど、おみつのため、久松とお染を諌めて説諭する場面はすこし所作が違っていて、ぴっぴとしたハリのある動きに優しさゆえの厳しさが滲んでいた。メリハリのある無駄のない動きが美しい。あと、体育座りになりながら(人形ってなぜかよく体育座りになるよね)、お灸を据えてもらって「あち、あち、あち」と手足をばたばたしているのが可愛かった。ポイ〜〜〜ンとゆっくり飛んでいくお灸もおもしろい。針金がついていて人間が動かしてるから、動きがなんだかファンシーに……。あれ、本当に点火してるんですね。おみつが持っている点火器具が屋外で線香に火をつけるヤツみたいな仕掛けになっているのだろうか。お灸を据えられるごとにサンカクのてっぺんがどんどん減っていっておかしかった。

最後に出てくる船頭が紋秀さんで爆笑した。そこかい。でも、昨年の若手会で寺子屋の源蔵をされていたとき並みに目が超マジだった。あそこの場面で演技してるの、あの船頭しかいないものね。お客さん全員あの船頭を見てるし……。

あとは久松(またも登場する文昇さん)の着物の柄がめっちゃチラチラして目が痛かった。テレビ中継があったらモアレする柄だと思った。

しかし最後の船で別れ行くところ、2回観たうちの2回目がなぜか三味線バラバラだったのが残念。なぜこんなベーシックな曲でガタガタに??? 途中の交代時のつなぎも2回目に観たときは変えていたような気がしたので、何か演奏に変更等を加えて、その調整をしていたのかしら。

 

 

 

『日本振袖始』大蛇退治の段。

出雲のとある村では、ここ数年、荒ぶる八岐大蛇への生贄として年ごとに美女を捧げる習わしがあった。今年の人身御供は稲田姫〈桐竹紋臣〉。神官〈吉田和馬〉は高棚の周囲の8つの酒壺には毒酒が仕込んであると言い、八岐大蛇が毒酒に酔った隙に大蛇の喉を刺せば、素盞嗚尊が助けに来ると言う。姫は夫・素盞嗚尊から預かった名剣・蠅斬を袖のうちに忍ばせ、怯えながらも大蛇の出現を待つ。夜が更けるうち、にわかに轟々とした嵐が訪れ、不思議な女〈桐竹勘十郎〉が姿を見せる。女、岩長姫は邪智深き大蛇の化身であった。岩長姫は稲田姫をひと飲みにしようとするが、酒の香りに気がつき、魅入られたように次々と毒酒を飲み干してしまう。やがて酒と毒が回った岩長姫はついに蛇身の姿を顕し、抵抗する稲田姫を飲み込んでしまう。しかしそこに素盞嗚尊〈吉田玉助〉が現れ、八岐大蛇と格闘になる。素盞嗚尊が大蛇を斬り伏せると、その胴体から、かつて八岐大蛇に奪われた名剣・十握の宝剣と蠅斬のふた振りの剣を掲げた稲田姫が傷ひとつない姿で現れる。周囲の山々に雲が立ち込める名剣の威徳に、尊は名剣を「天の叢雲」と名付けるのであった。

これ、勘十郎さんありきの企画だね。今回のこの『日本振袖始』は国立劇場歌舞伎鑑賞教室との提携上演だったり、大蛇は石見神楽から借りたりといろいろ企画性を持たせていることは理解するし、立ち回りの演出などで場を盛り上げようとする意図はわかるけど、そんなものはまったく意味をなさない。途中、毒酒に酔った岩長姫が踊る部分……、そこがもっとも重要で、勘十郎さんの舞踊の技術が上演のすべてを支えている。あの間を持たせられる人はほかにいない。勘十郎さんがいなければ上演が成立しないと感じた。文楽ではスターありきの演目編成は難しいと思うが、本作はそれだと思う。

目を引くのはやはり岩長姫の妖しい美しさ。悪意が人の形をなしたような美。自分自身の毒気に当てられて乱れる姿。通常の娘の人形とは違う少し縮れて広がった髪、三角のウロコ模様の黒い振袖から覗く大蛇の舌のような赤い襟元や袖口、振り乱す帯の揺れが不気味で麗しい。あれだけ技量と表現力があったら、わざわざガブのかしらを使わなくても、普通の娘のかしらで十分妖しさが伝わる思う。岩長姫が魔性の者であることは演技のみで理解できる。鬼女の姿にもなっていたが、それも人形を差し替える以上の演技力が勘十郎さんにあるので、そこまでしなくてもいい演出だと私は感じた。勘十郎さんは普通のちょっと野暮ったい娘さん役も好きなんだけど、やっぱり人工的な美しさの狂人、魔性役が映える。『シグルイ』を文楽化したら伊良子清玄は絶対勘十郎さんに演じて欲しい(実現するまで永遠に言い続ける)。

とはいえ稲田姫の紋臣さんはとても良かった。邪智に満ち人工的な美しさと光輝を放つ岩長姫とは対照的に、神話の時代の豊かさ、おおらかさを感じる柔らかな美しさ。白い振袖の着物と化粧気のない下ろし髪姿が暗闇で清楚に輝いていた。ヤマタノオロチの巣?の前に連れてこられて心細さにおびえる様や、岩長姫の恐ろしさに逃げ惑う仕草などとても良かった。途中、岩長姫が踊っている間はずっと端っこで倒れっぱなし(人形遣いも離れる)なのはちょっと残念だったけど、最後大蛇の腹を割いて出てきたのは「自己解決!?!?!?!? 素盞嗚尊おらんでよくない!?!?!?!」とびびった。さすが文楽業界イチの平野耕太ヒロインタイプは違う。

あと、天の叢雲になったのは蠅斬ではなく十握の剣のほうということでよろしゅうございますか(国立劇場や老舗百貨店の係員口調)。

13日の金曜日と言えばヤマタノオロチ、の、ヤマタノオロチの首が4本しかなかったのは少々残念だった。8本の首がニョロニョロするところを見たかったのに……。これが文楽の限界(人形遣いの人数的な意味で)だろうか。でも、ニョロののたうち自体はよかったし、いっぴきずつの造形が細かく違っていて、細密で美しいつくりが文楽人形にも似合っており、とても良かった。こんなもの作る金あったのか、にしても細工のクオリティが通常の美術に比べて高すぎないかと思ったら、どうも外部から借りたものらしい。そのニョロのレンタルもとの石見神楽では、昔は1本しかいなかったが、大阪万博に出展したときに8本にしたら大いにウケて、以降、ニョロは8本になったとの噂。国立劇場・歌舞伎鑑賞教室の『日本振袖始』観に行かれた方によると、歌舞伎では岩長姫(中村時蔵)と7人の分身役者たちという編成でヤマタノオロチを表現していたそうだ。衣装や演技も工夫されていたそうで、なるほど歌舞伎には歌舞伎の工夫があるのだなと思った。

 参考、石見神楽「大蛇」の動画。残念ながら文楽では火は吹いてくれませんでした。

なにはともあれ、話があまりに日本神話まんまで素直なので、岩長姫の技巧を観るための演目だと思う。勘十郎さん個人の舞台だと思えば満足だけども、文楽で上演する意味がよくわからなかった。セットも特別誂えでお金をかけているようだったし(手前に置いてあるツボがでかすぎて紋臣さんが見えずポクリン大ショック、人形は見えたからいいけど)、配役を花形でと工夫しているということなんでしょうが、なんというか……、技芸員さんの頑張りに見合わない演目のように思う。床のみなさんも、ここにだけ出すのは勿体無いんじゃないと思ったし……。希さんとか清楚で可憐な稲田姫で良かったですけど……。勘十郎さんもこの演目よりはるかに技量を発揮できる演目、配役されるべき役がもっといっぱいあるんじゃないでしょうか……。やるならもう近松うんたらを放棄して新作にリニューアルして、素盞嗚尊の役をなくして、岩長姫と稲田姫の百合物にして欲しい(突然のただの願望)。

 

 

 

 

というわけで、今年の夏休み公演も楽しかった。技芸員さんみなさんパフォーマンスが高くて、最近は毎公演なにかしらの発見がある気がする。千歳さんは以前は回によって波があることが多かった気がするが(頑張りすぎて会期の途中から声が枯れるという意味で)、最近はかなり安定していて、毎回滞りなく楽しませてもらえる。何かを体得されたのだろうか。

ただ、プログラム編成としては、あんり細かく刻んだ見取り上演は逆に飽きるので、少なくとも半通しなどにして欲しい。そりゃ個々人に良い配役で出演して欲しくて、そうなると見取りのほうが配役が良くなりやすいのはあるんだけど……、文楽の醍醐味は物語自体にあると思うので、 ストーリーに没入できる半通しや通しでの上演を希望する。

 

 

 

おやつに食べたたこ焼き。今回は道路挟んで劇場向かいのお店で、ソース&マヨネーズ味を。アツアツほろほろでおいしかった。

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大阪市、こんな施策やってるんですね……。900円引きとは……。この1日フリー乗車券、平日800円・土日祝600円なんでしょ? 文楽劇場行くときどうせ地下鉄乗るし、完璧モト取れるやん……。この券買った人、絶対文楽観たほうがいいと思うわ……。*1

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*1:ちなみに文楽劇場友の会、年会費1,000円に入っている私は20%OFFで3,760円です✌️(自分をはげます)

文楽 7・8月大阪夏休み特別公演『卅三間堂棟由来』『大塔宮曦鎧』国立文楽劇場

三十三間堂っていくらなんでもあんなにごんぶとな棟木あったっけ。と思ったら、後白河上皇によって造営された当初の三十三間堂は焼失し、いまのものは後嵯峨上皇によって再建されたものだそうだ。(浄瑠璃を鵜呑みにしている人)

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■ 

『卅三間堂棟由来』平太郎住家より木遣音頭の段。

まだ寒い早春の頃。熊野の山奥に、信心深い平太郎という男が老母、妻、息子と暮らしていた。その平太郎が熊野権現へのお参りで不在にしているとき、平忠盛の家臣・進ノ蔵人〈吉田勘市〉が家を訪ねてくる。それは熊野参詣していた法皇の危難を救った平太郎の妻・お柳〈吉田和生〉に褒美を取らせるためだった。お柳は遠慮し、平太郎の母〈吉田文昇〉も息子が不在中だからと断ると、武士であった平太郎の父を知っていた蔵人は忠盛に平太郎のことを執り成してくれるという。蔵人は法皇の使いに次の宿へ向かうというが、その用事というのは、法皇の頭痛を治すため、法皇の前世の髑髏がかかっている柳の巨木を切り倒し、都にそれを棟木にした「三十三間堂」というお堂を建てるとのことだった。今日中に柳を切り倒すという蔵人の言葉を聞いたお柳ははっとする。蔵人は褒美の小判を仏前に供え、柳の木のもとへ旅立って行った。

蔵人と入れ替わりに、雪のちらつく中を平太郎〈吉田玉男〉が帰ってくる。母が平太郎を出迎えていると、ふごを肩にかけた粗暴な男〈吉田玉勢〉が家を訪ねてくる。その男、和田四郎は平太郎を不孝者と詰り、お柳をもらい受けたいと迫る。平太郎が断ると、和田はしょってきたふごを投げつけ、自分は畑主であり、平太郎が畑から大根やうどを盗んだのを知っている、代官に触れこむと脅しをかけてくる。平太郎は俯くが、母は金で命を買うこともできると言って先ほど蔵人が置いていった小判を和田に与える。思わぬ収穫に、和田は嬉々として帰っていった。

母が平太郎の土産の粟餅を仏前に備えようと仏間へ去ると、お柳がお神酒の残りをお燗して持ってきて、不思議な話を聞いたと語る。むこうの谷には夫婦となった梛の木と柳の木があり、平太郎と自身は例えていうならその木の仲。梛の木は人間に転生したが、柳の木はいまだ樹木のまま。柳の木は人間の姿となってその男と結ばれ子までなした。しかしいま、法皇のため本体の柳が切り崩されようとしている。命を惜しむつもりはないが、夫や子供と別れるのが悲しいと。平太郎は笑って、お柳がそんなことに泣くことはないと言って盃をあおると、彼女の思いを知らずウトウトと居眠りをはじめるのだった。

お柳は柳の木を打つ斧の音を聞きながら、寝入る夫の枕元で告白する。お柳の正体は、実は件の柳の木であった。前世で誓った契りを果たすため、人の姿となって平太郎のもとへ現れたのだった。5年前、藤原季仲が熊野へ鷹狩りに訪れた際、その鷹につけた紐が柳の木にからまってしまい、家臣たちに切り倒されそうになった。が、偶然通り掛かった平太郎が矢でもって鷹を解き放ち、柳は一命を取り留めた。その恩でお柳は平太郎の妻となり、みどり丸という一子をもうけた。その子ももう5歳となり、お柳がいなくても育つだろう。父の武芸を受け継いで立派に成長してほしい。母は柳の木に帰ると。わっと泣き伏すお柳の声に平太郎が目を覚まし、夢うつつに聞いた話にとまどいながら彼女を抱きしめていると、立ち聞きしていた母とみどり丸〈吉田簑太郎〉も姿を見せる。が、お柳は舞い散る柳の葉とともに姿を消すのであった。母の姿を見失ったみどり丸が泣き叫んでいると、その声に惹かれたのか、精霊の姿となったお柳が姿を現わす。お柳は名残を惜しみつつ、元々朽ちかけていた木、棟木となることも法の縁と、平太郎にせめてもの形見を手渡す。それは柳の木にかかっていた法皇の前世の髑髏だった。これを手柄に出世して欲しいと平太郎に告げると、お柳は再び姿を消してしまう。

平太郎は髑髏を仏間にそなえると、みどり丸とともに柳の木を見に行くと言って出かけようとする。入相の鐘が鳴る中、そろそろと手探りするような平太郎の様子に不審を感じた母が尋ねると、彼はひと月前から鳥目を患っており、夜は目が見えないという。母はみどり丸に火をともした提灯を持たせて雪をしのぐ蓑笠を着せ、二人を送り出すと、ひとり仏間にこもるのであった。

母が仏前で念仏をとなえていると、昼間にやってきた和田四郎が再びズカズカと踏み込んでくる。実は彼は畑主などではなかった。先ほどせしめた小判のような財物がほかにもあるだろうという山賊の本性を現したのだ。これ以上のものはないと言う母に、納戸の荷物をひっくり返していた和田は仏間のいわくありげな髑髏を見つけ、あれは何者かと尋ねる。母はあれは息子の出世のためのもので正体は絶対に言うことはできないと返すが、山賊は池の上に吊るした灯籠の紐に彼女をゆわえつけ、氷地獄のような水の中に落とすぞと脅迫する。そのとき、はるか彼方から提灯のあかりが近づく。驚いた和田は紐を離して家の奥へ隠れ、老母は水の中へ落ちてしまう。

その明かりはみどり丸の持つ提灯の火であった。池に落ちた母の姿に驚く平太郎とみどり丸は急いで引き上げるが、彼女はもう虫の息であった。何者の所業かと尋ねる平太郎に、これは昼に来た畑主を騙る男の仕業だが、この横死も宿業、かくなる上は立派に出世して曾根の苗字を上げて欲しいと告げて母は事切れる。平太郎とみどり丸が嘆いていると、家の奥に隠れていた和田がぬっと姿を現わす。平太郎の目が見えないことをせせら笑い、和田はみどり丸を人質に髑髏の正体を平太郎に吐かせようとする。子供の命には引き換えにできないと平太郎はその髑髏が法皇の前世のものであると答え、みどり丸は父の腕の中に戻る。空にはカラスが数羽飛び去っていった。髑髏をしまい込んだ和田は彼を始末しようと切り掛かる。とそのとき、不思議なことに目の見えないはずの平太郎が和田の段平を受け止める。平太郎の鳥目はにわかに治り、目が見えるようになったならばと平太郎は盗人の刃に鍬で応戦する。ところが和田は、自らの正体は藤原季仲の謀反に与しその軍用金を集めるため山賊夜盗を仮の姿とする鹿島三郎義連であると名乗る。切り掛かってくる鹿島に平太郎も得意の武芸で斬り結び、ついに母の仇・鹿島を倒す。そのとき、冷風が通り過ぎると同時にお柳の声が聞こえる。目が治ったのは平太郎の長年の孝行と信仰心に応じた熊野大権現の霊験である、肌の守りを見てみよと。平太郎がいつも懐に携えている熊野権現の護符を見てみると、そこに描かれていたはずのカラスの姿が一匹もいなくなっていた。平太郎が熊野権現に功徳に感謝していると、鳥のはばたきの音が聞こえ、カラスが飛んでいく姿が。平太郎がふたたび護符を見てみればいつもの通り、カラスが描かれた神符に戻っていた。熊野牛王の護符が盗賊よけとなると言われる御利生はこの通りである。

街道筋では多数の人夫たちが賑やかに木遣り音頭を歌いながら柳の丸太を引いていた。しかし不思議なことに、押せども引けども柳の丸太がちっとも進まなくなってしまう。進ノ蔵人が思い当たることがあると人夫たちを納めていると、武士の姿にあらためた平太郎とみどり丸が現れる。母の霊を慰めるため、みどり丸に綱を引かせて欲しいと懇願する平太郎。蔵人もそれを受け入れ、親子に新宮で船に乗せるまでの道中を任せることに。平太郎は扇をかざして涙にかすれる声で木遣り音頭を歌い、みどり丸は柳に結わえられた綱を引く。すると不思議なことに、数多の人足がいくら引いても動かなかった柳の丸太が動き出し、みどり丸は思わず丸太に抱きついて泣くのであった。このような出来事が、三十三間堂の棟木の由来として語り伝えられている。


落ち着きのある舞台だった。

平太郎の家へ畑主だと言って大根やらウドを背負ってくる和田四郎という登場人物が今回の特別出演キャラのようだ。普段は「いない」人らしい。平太郎はなぜ人の畑のものを盗んでいたのか、和田四郎はなぜそれを知っていたのか。 そのへんはよくわからなかった。和田四郎は平太郎の家に上がり込むとき、ぽんぽんと草履を後ろへ蹴っ飛ばすように粗雑に脱ぐのが良かった。文楽人形はお行儀が良いので、いくら履物を放り出しても帰るときには履かなきゃいけないため、黒衣さんが拾いにいっているのがかわいい。それと、和田四郎がひっくり返す箱に入っている着物2着は、最後の木遣り音頭の段で平太郎とみどり丸が着ている着物なんだね。2回目に観たときに気がついた。

しかしなんで最近玉男様はずっとツインテールなのでしょうか(2回目)。慈悲蔵も、六助も、平太郎も、孝行者で優しくて強い男でお似合いではあるが、フサったツインテール姿をあまりに見すぎて、最後、ポニテの武士姿になったとき、思わず「り、凛々し〜〜〜!!!」とびっくらこいた。玉男さんは人形が横向きになるときの姿が美しくて佳い。個人的には、少し前傾姿勢になって、右肩を落として左肩を引き、客席に少しだけ背面を向けて姿勢を立体的に極める姿が好きである。あとはほのぼのと寝ている姿が好き。最近よくほのぼの寝てるよね。残念ながら今回は屏風の影で寝ている場面は人形を下げてましたが……。今回は鍬を振り回しているところがよかった。和田四郎もあんななまくらそうな刀では鍬に絶対負けると思った。

和生さんのお柳はシックでよかった。かなり落ち着いた優美な人妻という雰囲気だった。平太郎が「北の方」とふざけて言うのが不思議に似合う感じ。抹茶グリーンの普段着姿も、白地に柳の葉柄の精霊姿も美しかった。お柳は突然消える演出があるが、1回目の和生さんがしゃがむことで姿が消えるのも、2回目の門前の忍者屋敷みたいなどんでん返しも、なんだかあまりに自然すぎて客席無反応だった。でもやっぱり枯れかけだから、弱ってる設定なのかな。家事をする所作がすこし力なく感じて、面やつれた雰囲気がある気がした。最後に出てきた柳の丸太は和生さんの繊細で枯淡なお柳のイメージとぜんっっっっっっっ……ぜんかけ離れたものすごいごんぶとぶりで、これが?あれに?なるか!?とびっくりした。あんな柳の巨木って存在しえるの? 屋久杉並みでは。それにしてもお柳のまわりに舞い散る柳の葉が鋭すぎてびびった。柳の葉のような柔らかい素材ではなく、硬い素材でできているようで、しゃしゃしゃっとキレよく螺旋を描くように落下してきて、そのさまは台風時のキョウチクトウの勢いである。かわいそうにおもいっきり刺さってる人がいた。そして和生さんはなんだか髪型がめっちゃキマっていてときめいた(芸と一切関係ない話)。

床では木遣り音頭を演奏され清治さんが素晴らしかった。なんだか、力を入れすぎずに、自由に楽しんで弾いているように感じた。調子が角ばっておらず、少し崩したような、やわらかく、春が訪れたかのような音。優しくふんわりとしたぬくもりで、音がふくらんでいた。太棹三味線ってこんなに暖かい音だったのかと思った。しかしそのぶん、哀切がにじむ。親子の悲しみや蔵人の思いやり、熊野の街道筋の朗らかな雰囲気といったような、情緒そのものが聞こえてくるイメージ。どうやってこの音を出しているのだろうと、お手元を見ていると、清治さんのシワとシミのある枯れ木のような細い指と華奢な手首が見えた。傷んだ手元に、このひとはずっとむかしから三味線を弾いてきた人なんだなあと思った。本当に素晴らしい音だった。普段はずっと人形を見ている私だが、この段は清治さんをじっと見てしまった。

清治さん以外も床は良くて、咲さん燕三ペアも素晴らしかった。咲さんは登場人物の細かい心の動きの描写が素敵だった。ゆっくり聴かせる浄瑠璃に合っていた。そして、燕三さんは本当にいつも相手の人をよく聴いていると思った。燕三さんは普段はかなり咲さんをサポートして弾いていると思うけど……、今回は逆に咲さんが燕三さんを支えている部分も聴けてよかった。

(2018.8.12修正 すみません、ここの部分、配役をおもいっきり間違えて書いてました。×寛治さん→○清治さん。寛治さんは次の『新版歌祭文』野崎村のご出演です。記憶が混濁しまくってました。大変失礼いたしました。)

 

 

 

◼︎
法皇の前世の髑髏って何?夢のお告げとは??なんで柳に髑髏ひっかかってるの???なぜ三十三間堂を建てると頭痛が治るの????等、話に謎が多かったので少し調べてみたところ、以下のような説話があるようだ。「長年頭痛に悩まされていた法皇が熊野参詣の折に頭痛平癒を祈願すると、因幡堂の薬師如来に参れとのお告げ。そこで因幡堂にお参りした法皇は次のような霊夢を見た。法皇の前世とは熊野の僧侶で、川の底に沈んでいたその髑髏の下から柳がニョキってきて髑髏が揺れるので頭痛が起こっていると。そこで実際に熊野の川を調べさせると、マジで柳の木に髑髏がひっかかっていたので、この柳を三十三間堂の棟木として使い、髑髏を千手観音の中におさめた」……ってWikipedia調べなので確証はないが、『卅三間堂棟由来』と話がほぼ同じなので、昔は広く知られていた話なのだろう。

 

ところで、最近あまりに暑すぎて、水に落とされる平太郎ママを見て「わ〜、涼しそう〜^^」と思ってしまった。劇中は雪が舞い水が凍てつく早春の設定だが、なんだか羨ましくなってしまった。なんで今公演は季節外れの演目が多いのでしょうか。

 

 

 

『大塔宮曦鎧』六波羅館の段。

鎌倉幕府の執権・北条氏と対立し隠岐に流された後醍醐天皇。その若宮と三位の局は、永井右馬頭宣明の屋敷に預けられていた。

ここは六波羅の御殿。六波羅守護職・常盤駿河守範貞〈人形配役=吉田玉輝〉は、老武士・斎藤太郎左衛門俊行〈吉田玉也〉を呼び出していた。斎藤は天皇方について彼に謀反を勧めた実の娘とそれを知って自害した婿−−その後、娘は討死した−−を見殺しにしながらも忠烈を貫いた義臣である。さて、範貞が斎藤を呼び出した理由はめっちゃアホだった。彼はかねてより三位の局に横恋慕してしょうもない文を送りまくっており、その返事に美しい灯籠を贈られ、描かれた風物を勝手に絵解きしてテンション爆上がりしていた。そのひとつには衣桁に掛けられた波模様の着物、ひとつには秋草の花車が描かれていて、範貞は「袖を片敷き二人寝ん」「焦がれ待つ(松)」と読んでいたのだった。そのオリジナル解説をガン無視の斎藤は、鎌倉方と天皇方の対立が緊迫化しているこの時期に女衒の真似事のような恋の取り持ちなど言語道断、首を討ってこいとの命令ならいつでも参るとつっけんどんに返すのだった。

そこに右馬頭の妻・花園〈吉田勘彌〉が三位の局からの贈り物だという浴衣を持って訪ねてくる。その帆掛船の柄は範貞の恋風を受けて思う港へ焦がれ寄ろうという意味だという花園の言葉に範貞は大喜びして浴衣をクンカクンカペロペロ、斎藤は渋い顔をする。このような返事を寄越しながら三位の局が未だ応じないのはどういうことかと尋ねる範貞に、花園は「二夫にまみえないのは女の義理、天皇隠岐から戻せばそこに若宮を預け、三位の局は範貞の妻になるだろう」と甘言を囁く。バカ殿からどう思う〜?と聞かれた斎藤は、これまで多大な犠牲を払い、ますます対立が激化している今、帝を都に戻すことはあまりに危険である、我が身大事の右馬頭に相談せよと怒鳴りつける。それを聞いた花園は夫を侮辱されたとして激怒、討死した娘がそんなに自慢かと食ってかかる。夫は連歌俳諧に通じた者、無骨者の斎藤が何をと言う花園に、斎藤はそれならばと件の贈り物の絵解きをする。

曰く、まず衣桁に掛けられた波模様の着物は、波が立つのは浦=恨みの念を表しており、「恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」という歌にかけた柄であって、夫を流され息子を捕らえられた苦しみ恨みの涙と、範貞に靡くことはないことを表している。次に、華やかな紅葉などのない地味な秋草ばかりの花車は、小野小町のもとに九十九夜通い続けたが、百夜目に大雪に降り込められて死んでしまい、思いを果たせなかった深草少将をうつしたもの。最後に浴衣の帆掛船の柄は、船は入港するときは帆を下ろす、帆を揚げた舟は隠岐の帝に向かっている三位の局の心を示すと。

花園は悔しがり、周囲の人々は斎藤の意外な風雅に驚くが、ブチ切れたのは範貞。小姓〈吉田玉延〉に切子燈籠を持ってこさせ、二人のうち、局への恋心を思い切るこの灯籠の心を読み解いた者は即座に使いに出よと命じる。花園は「帝を呼び返すことはできない、盂蘭盆の精霊となって帰れ」と読み解くが、範貞の真意を見抜いた斎藤は「切子とはすなわち若宮を斬れとのこと、承る」と退出しようとする。預かった若宮を余人に討たれては夫の名折れと斎藤にすがりつく花園、斎藤は構わず立ち去ろうとするが、花園も折れずにしがみついてついに斎藤を引き倒す。彼から切子灯籠を奪った花園は、切子灯籠の使いは夫の役目と言って六波羅を後にするのであった。

今回はみんなの心のおじいちゃん・玉也さんが主役。

範貞、アホだけど面白い人ですね……。恋煩いになっちゃったぁ❤️とか、見て見てこの灯籠好きな人からもらっちゃったぁ❤️とか、恋バナを聞いてもらうために呼び出す相手を完全に間違っているのが最高。黒い大紋着て出仕してくるようなジジイを呼び出すなよ。それともほかの家臣は全員呼び出し尽くしてしまったのだろうか。言動はアホであっても、六波羅を任されるだけある煌びやかさを備えた堂々たる姿で、いかにも玉輝さんって感じでよかった(最近玉輝さんを見ただけで嬉しくなってしまう人)。

花園の気性の激しさが興味深かった。人形の配役が勘彌さんだからか、柔らかな言葉を発していても、どこかツンとして気位が高そうなところがいい。あの「わたくしはおまえらのようなド平民とは違います」感がいいわ。最後、斎藤を引き倒して灯籠を奪っていくのには驚いた。この段の段階では花園がなぜそこまでいきり立つのか、なぜ範貞の機嫌を取るのかわからないところも面白い。

六波羅の御殿にいるツメ人形家臣のひとりの顔がものすごくどうでもよくて最高だった。上手から2番目にいるヤツ。じゃがいもとヒラメの間に生まれた子って感じだった。千穐楽後で申し訳ないが、みんなに見てもらいたいどうでもよさMAXの顔だった。それと範貞が斎藤を「太郎左」って呼んでるのがいいよね。時代劇(?)らしい、そこで止めるんかい的ニックネーム。

 

 

 

身代り音頭の段。

近頃、永井右馬頭の屋敷では、若宮を慰めるため、夜な夜な近所の町人の子を庭に招き入れ、盆踊りをして遊ばせていた。

その日の夕方、右馬頭〈吉田玉志〉がふと若宮〈桐竹勘次郎〉の手習いの短冊を見ると、父を恋い慕う歌が書きつけられており、若宮の泣き声に三位の局〈吉田清五郎〉が姿を見せる。右馬頭は、帝のことは六波羅へ使いにやった花園がきっとうまくやっているだろう、鶴千代とお揃いの浴衣をこしらえておいたので、一緒に着て踊るのが良いでしょうと母子に勧める。鶴千代〈吉田和馬〉とは、若宮と同年輩の右馬頭・花園の一人息子だった。二人は年頃顔かたちは似ていたが、さすがに皇子と一般の武家の子は見れば違いがすぐわかる。機嫌を直した若宮は右馬頭に踊ろ踊ろと催促。右馬頭は遠慮するが、三位の局にも勧められてなかなか達者な踊りを見せる。人々がその意外な隠し芸に喜んでいると、切子灯籠を携えた花園が涙ながらに帰ってくる。「折角範貞を懐柔していたのに斎藤に邪魔をされた、この切子灯籠が返事」と言う花園に三位の局と若宮は心配そうな様子。事態を察した右馬頭は「若宮が行方不明になったという噂があるので、斎藤が灯籠が四方を照らすように日本中を探し回るということだろう」と取り持つ。花園は夫の意図を解し、斎藤が来ても若宮には対面させず鶴千代を代わりに立てる、なので鶴千代は若宮の所作を真似をするようにと息子に教え諭す。三位の局は夫婦に感謝し、若宮と鶴千代を連れて奥の間へ去る。

やがて轡の音が聞こえ、斎藤が右馬頭の館へ到着する。花園は夫に鶴千代を身代わりに立てる気か、ほかに思案がないものかと言うが、右馬頭はこのような差し迫った時に決断できなければ武士ではない、斎藤に不覚を取らせたすきに花園は若宮を大塔宮へ送り届けよ、自らは切腹すると告げる。そして、花園に平然を装えと命じて斎藤を座敷へ通す。現れた斎藤は、花園が先に戻っているからには要件は知っているだろうとして、早速若宮を出すように申し渡す。その様子に鶴千代が若宮になりすまして座敷へ入ってくるが、斎藤は一目で親子の芝居を見抜き、真実の若宮を出せと再度迫る。この子こそ真実の若宮と言い張る右馬頭と彼を斬ってでも若宮を探すという斎藤は一触即発となるが、そのとき三位の局が飛び出してきて斎藤に掴みかかる。三位の局は、かつて内裏に仕えていた斎藤の娘・早咲と土岐頼員が不義によって死罪と極まったところを取りなして夫婦とし、仲人までつとめた恩義を忘れたのかと斎藤を責め立てる。早咲が父斎藤を裏切り天皇方へついて討死したのは、実はこの恩義によるものだった。花園は幼い若宮を討首にするならせめて盆踊りに夢中になっているときにと懇願、斎藤も逃げ回るところを殺すより騙し討ちにしようと承知する。右馬頭も人違いをするなと念押しして、盆踊りがはじまる。

館の庭では、真実の若宮、鶴千代、近所の町人の子たちが輪になって盆踊りを始めていた。拍子を取る花園が唄うのは、主君からその息子を討つことを命じられながらそれが出来ず、自らの子を討ってその首を差し出した仲光の物語。斎藤は踊る子供達にそっと近づき、そのひとりの首を討つが、それは鶴千代でもましてや若宮でもない、見知らぬ子供〈吉田簑之〉であった。三位の局と右馬頭夫妻はそれぞれ自分の子の無事を確認してほっとするも、右馬頭は「若宮を助けたことは殊勝であるが、関係のない町人の子を殺すとは。なぜ鶴千代を斬って私の志を立ててくれなかったのか」と残念がる。しかし、斎藤は「町人の子呼ばわりとは恨めしい」と言う。斎藤が斬ったのは、なんと彼の孫・力若丸であった。斎藤はその場に泣き崩れる。右馬頭が花笠を取ってその首を見ると、髪を結い白粉を引いた武家の子息の姿であった。天皇方の忠臣とは知らず情け知らずと罵ったことを詫びる右馬頭に、斎藤はこれは自分の天皇への忠義ではなく不憫な死を遂げた婿・土岐頼員の子を介した忠節であると言う。そして孫の首に向き合い、武士は畳の上の病死でなく討死が晴技の果報、力若丸を討ったのは六波羅の侍大将・斎藤太郎左衛門利行で名誉なことであると涙ながらに宣言する。やがて上使の立場であることを思い出した斎藤は首を持ってその場を去ろうとするが、三位の局が引き止め、「若宮」の首をそのままでは畏れ多いと袖を与え、斎藤はそれを有り難く受け取る。右馬頭は鶴千代と自らの髻を切り取り、武士を捨てて僧となり、三位の局と若宮の供をして諸国行脚の旅に出ると告げるのだった。

行灯に照らされた薄暗い庭で、盆踊りの歌を悲しげに唄う花園の姿が良かった。六波羅館で見せた宮尾登美子の小説のような気性の激しさとは打って変わった沈んだ表情。人形の顔かたちはいつもそのまま変わることがないはずだが、なんとも情緒があった。

斬った子供は自分の孫だと告白する斎藤の慟哭は玉也さんの独壇場。隙や緩みをまったく見せない直線的な様子から一気に崩れる。それでも武士としての一線は保った強さと、いままで封じてきた娘や孫に対する思いの人間らしい弱さがないまぜになった感情、コントラストが素晴らしかった。所作のトーンはそのもの変えず滲む感情のみを変えて見せている点がよくて……。途中までは『玉藻前曦袂』道春館の金藤次と似ているかなと思ったけど、斎藤はちゃんと首を持って帰っていくのね。自害するかと思った。段切、斎藤がごくわずかに震えているのが良い。

↓突然毎日新聞に出現する玉也さん

 

錦糸さんの談話(っていうかその司会者の解釈)だと、右馬頭は斎藤への対抗心から鶴千代を身代わりに立てようとしたという見方があるようだけど、それだけの気持ちでできるかしら。浄瑠璃で右馬頭は「聡明な男子」とあるし、そういう人が安直な僻み根性から身代わりを考えるのか、疑問。潔癖さ、生真面目ゆえの極論だと思ったけれど。そう思うのは太夫や人形配役の影響ですかね。彼が最後に出家するのは、盆踊りで語られる仲光の説話になぞらえているのだろうか。右馬頭はなにはともあれ、玉志さんが踊るのが最高である。劇中でもカタブツに見えてなかなかうまいという設定であるが、本当にうまかった。普段はまったく踊りそうもない真面目系キラキラキャラ配役が多い玉志さんの意外な姿を見られて興味深かった。文楽サイリウム振ってよかったら振ってた。

 

 

 

 

◼︎

二段分しか上演がないため、話が要点のみで即物的になってしまっているのが残念だけど、配役が良くて面白かった。技芸員さんたちは話の内容を読み込んでいるだろうけど、客は途中からいきなり見るので、むこうのテンションについていけない部分もある。しかし、充実したメンバーの演技や演奏が感情移入や理解を助けてくれた。身代り音頭の段の千歳さん富助さんはことに熱演だった。内容かなり研究されているんだろうなという語りだった。

剛毅なので今回はあらすじを一切確認せず上演を見たが(剛毅すぎ)、斎藤がどの子を斬るのかスリルがあった。文楽の文法上、まず若宮は斬らない。では右馬頭の子を斬るのかといえば、これも文楽の文法上、他人の子は斬らない。斎藤の身内にあたる子供のはず。あの若宮でも鶴千代でもない三人遣いの人形の子供は何者なのか。力若丸が正体不明の謎の子供だと思うのは今回が二段のみの上演だからで、前のほうの段から上演できればもっと前から出てくるみたいだけど(? 斎藤が預かるという展開があるらしい)、斬られた子が誰なのかわからないままで進行するのは右馬頭や三位の局の心境になれて面白かった。

あとは玉也さんの袴が前半と後半で違っていて興味深かった。前半は黒白の細かいギンガムチェックのような柄、後半はレレレのおじさんの着物のような黄土色ベースに茶色格子の柄だった。着替えるのが早い。(芸に関係ない話)

 

 

 

 

この作品には、たくさんの古典の引用が出てくる。

冒頭部分、「都やかなる女あり、車を同じうす、顔蕣の花の如しと謡ふ…」という漢語調の角ばった文章が出てくるが、何だろうと思っていたら『論語』の引用ということである(錦糸さんの談話より)。

斎藤が三位の局から範貞へ贈られた灯籠を絵解きする「恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」は百人一首におさめられた相模の歌。

後半には謡曲『仲光』の流用が出てくる。ここは題材となっている仲光の身代わり説話を知っていたのですぐわかってよかったマイセルフ。この謡曲のもとになっている説話はこういう話だ。主君・源(多田)満仲から、寺へ修行に出したにも関わらず武芸にばかり夢中になっている子息・美女御前を討つことを命じられた仲光は、彼の首を刎ねることができずかわりに自らの実子・幸寿丸の首を討って差し出し、美女御前はその菩提を弔うべく修行に励んで立派な僧になる。この話の何が衝撃的って、首討ちに慣れきった身としては身代わりはやるだろうなって感じで理解の範疇なんだけど、「美女御前」がmerなことがいちばんびっくらこく(話がずれまくり)。

浄瑠璃の最後に「人間有為の喜怒哀楽は無情の庭の一踊り、教へて帰る子は仏と悟りて別れ別れけり」とあり、パンフレットの昔の同人誌みたいなページにも記載があるが、身代わりに死ぬ子供=残された親を導く仏の化身と見る観念はもっとはっきり描かれている説話も存在するらしい。仲光の物語より時代が遡る「硯わり説話」と呼ばれる話が『今昔物語集』(平安後期)におさめられており、それは以下のような話である。
左大臣藤原師尹家には秘蔵の硯があり、左大臣家に仕える若い男は書道の心得があったのでこの硯に関心を持っていた。あるとき、男は密かにその硯を見ようとして割ってしまう。男が困っていると左大臣の若君が姿を見せ、私が割ったことにせよと言うので、男は心底嬉しく思う。やがて左大臣は硯が割れていることに気づき、男を問い詰める。責め苛まれた男がつい若君が割ったと言ってしまったので、左大臣は若君を家から追放する。若君は乳母の家に移るが、病を得て亡くなる。その葬儀が終わったころ、左大臣家に喪服姿の男が現れ、真相を語る。左大臣は嘆き悲しみ、男は若君の菩提を弔うため出家する。
この物語だと、身代わりで死ぬ子供はより明確に神仏の化身とみられていて、左大臣が「この児は只人に非ざりけり」と語っていたり、また別の本では、若君は長谷観音の化身であるとされているということだ。(疲れたのでこの話ここで突然終了)
参考文献:大阪市立大学文学研究科「上方文化講座」企画委員会『上方文化講座 菅原伝授手習鑑』和泉書院/2009

 

 

 

第二部の終演後、ぼやーっとロビーを歩いていたら、和生さん・勘十郎さん・玉男さん・勘彌さん・三輪さん・そのほか三味線などの若い子たちが西日本豪雨被害の募金活動をしていたのでまじ仰天した。

こういう募金活動って、ほかの芸能だと、イメージ的には若手花形が(言い方よくないけど)プロモーションを兼ねてやるもんだと思っていたから、和生さん・勘十郎さん・玉男さんが揃って出ているということにまじびっくり。いや、熊本地震のときにも熱心に募金活動をなさっていたのは知っているが、そもそも普段の公演ですらこの三人並ぶことなんてそうそうないのでびっくりである。和生さんや勘彌さんが姫の人形を遣って、募金してくれた人と記念撮影をしていた。あまりにすごいメンバーに、ものすごい人だかりができていた。ほかの時間帯だと燕三さんも出ていたりで本当びっくりした。私が燕三さんや和生さんのような立場なら、地位や名声にふんぞりかえって、こんなことしないと思った。やっても絶対売名のため。若い子にしてもなんだか嬉しそうにやっている。この人たち本当に純粋な気持ちでやってるんだなと思った。玉男様は第三部開演直前までずっと一生懸命声がけなさっていて感動した。各部、ほかにも書ききれないほどたくさんの技芸員さんたちが若い方からベテランの方まで募金活動をされていて、胸を打たれた。

私もわずかばかりながら寄付した。誰もいないときに……(!?!?!?!?)。だって、技芸員さんたちのあまりにピュアな笑顔がまぶしくて、雑菌のついた土足でガラパゴス島に上陸しちゃいけないなと思ったから……。

 

 

 

そんなこんなで2Fロビーで超絶豪華メンバーが募金活動&撮影会をしていたため、1Fロビーのインスタ映えスポットは閑散としていたのであった。

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文楽 7・8月大阪夏休み特別公演『瓜子姫とあまんじゃく』『増補大江山』戻り橋の段 国立文楽劇場

開演前、技芸員さんたちが人形を出して西日本豪雨被害の募金活動をしていて、子供たちは引率の親御さんにお小遣いをもらって募金していた。津國サンがワラワラ寄ってくる子供たちに「ありがとーっ!!!」とほがらかに対応されていた。

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第一部は夏休み公演恒例・親子劇場。歌舞伎では鑑賞教室公演に現代の社会倫理に鑑みて不適切な演目は上演しないという暗黙のルールがあるとの都市伝説(?)があるが、文楽はのびのびと上演し遊ばされているので親殺し子殺し遊女心中なんでもござっている。とはいえ去年の親子劇場の艶笑譚には目を疑ったが、今年はまじめに?やっていた。

 

 

 

『瓜子姫とあまんじゃく』。

山奥でおじいさん〈吉田文哉〉、おばあさん〈桐竹亀次〉と一緒に暮している瓜子姫〈吉田簑紫郎〉は、機織りが大好き。瓜子姫は今日も楽しく機を織り、おじいさんとおばあさんは彼女のこしらえたとびきりの織物を売りに出かけた。その留守の間も瓜子姫が歌を唄いながら機織りしていると、外の様子がなんだかおかしい。ああ、あれは「アマンジャク」だな、と瓜子姫は思った。アマンジャクとは、こちらの言うことをそっくりそのまま真似して返す悪戯者である。人々は山の中を歩いているとしばしばアマンジャクに出くわし、しつこいおうむ返しの悪戯にやきもきさせられた。が、そのアマンジャクの姿を見たことがある者は誰もいないのであった。

ある者は、アマンジャクは「山父」であると言う。山父というのは、山の中で突然声をかけてくる一つ目一本足、毛むくじゃらの顔をしたものである。山父に会ったことのある者は多くもないが少なくもなかった。たとえば……、ある夜、杣の権六〈吉田玉路〉が山小屋で火にあたっていると、山父〈桐竹勘介〉が暗闇からぬっと現れた。権六が「あっ、山父だな」と思って震えていると、山父は人間の言葉で「あっ、山父だなと思っているだな」と声をかけてきた。山父はこちらの思っていることを見透かすことができるのである。ちょうどアマンジャクがこちらの言ったことをおうむ返しするのと同じように、山父は権六が心に思ったことを次々読み当てていく。おそろしさの極まった権六は何も考えないようにしようと思うが、山父はそれをも見透かして「もう何も思うまいと思っているだな」と笑った。しかしそのとき、権六が無意識に火に炙っていた木の枝が跳ねて山父の顔に当たり、予想外の出来事にピギャーとなった山父は「人間は時々思ってもいないことをする」と文句を垂れながらまた闇の中へ帰っていったのだった。

瓜子姫がそんなことを思っているうちに、次第にアマンジャクの返す声の間隔が縮まってきて、ついに家の前にアマンジャク〈吉田玉佳〉が現れる。アマンジャクは扉を激しく打ち叩き、引っ掻いて「あすんべぇや!」としつこく声をかけてくる。瓜子姫は始めは知らんぷりをしていたが、ふらふらとアマンジャクの誘いに乗ってしまい、扉をわずかにあけてしまう。するとアマンジャクはその間からにゅっと腕を差し込み、ガラガラと戸を引きあけて家の中に入ってくるのだった。アマンジャクはなおも執拗に瓜子姫に栗拾いに行こうと誘う。瓜子姫は必死に目を閉じて拒否していたが、アマンジャクは彼女を捕まえて横抱きにして裏山へ跳ね登り、縛り上げて山のてっぺんの柿の木に吊るしてしまった。

さて、瓜子姫の家に戻ったアマンジャクは瓜子姫の着物を着込んで姫に化け、何事もなかったかのように機織りをしながらおじいさんとおばあさんが帰ってくるのを待ち構えていた。ジジババぱっくんちょ計画があまりにうまくいってテンション爆上がりのアマンジャクははしゃいで機織り機をパタパタ。しかし機織りを知らないものだから織物をメチャクチャにしてしまう。瓜子姫は裏の山から「違う〜!!」と思っていたが(そこか!?)アマンジャクはお構いなし。せっかく綺麗に織っていた布をめちゃくちゃにされて残念がる姫の思いを知っているのは、彼女の友達のカラス・トンビ・ニワトリだけなのであった。

そうこうしているうちに、おじいさんとおばあさんが町から帰ってきた。が、家の前に聴こえてくる機織りの音がいつもと違うので二人は不思議に思う。おじいさんとおばあさんは瓜子姫に声をかけるも、それと同時に瓜子姫の友達鳥類三人衆、カラス・トンビ・ニワトリがカアー!!!ピーヒョロ!!!コケー!!!と騒ぎ立てたので、焦ったアマンジャクはうっかり鳥の鳴き声まで真似をしてしまい、正体がバレてしまう。なにがなんだかわからなくなってしまったアマンジャクはおうむ返しが止まらなくなる。挙げ句の果てにジリジリと近づいてきたおじいさんに弱点のシッポをギュウと掴まれたアマンジャクは驚いて飛び上がり、シッポを抱えて恐ろしい速さでむこうの谷へ飛び去っていった。

裏山に吊るされていた瓜子姫はその日のうちにおじいさんとおばあさんに助けられ、また元気に機織り仕事ができるようになった。アマンジャクはむこうの谷からじっとこちらを伺っているが、里に近づいてくることは二度となかった。

なんというか、完全に「日本むかし話」時空となっていた。いや文楽ってエブリタイム日本むかし話なんですけど、あまりに違和感がなさすぎるというか……。自分がこどものころ、「日本むかし話」ってなんだかほかのそれとは匂いが違う、すごく不思議なアニメだと思っていた。奇妙なナレーションが怖いし、奇妙な絵も怖いし、奇妙な話も怖いし。すべてが奇妙で怖くて、繊細で美しいが葉も花も実も鋭く尖ったアザミを思わせるものがあった。いま思うとあれはアートアニメーションなんだなとわかるけど。本作も言葉遣いは普通の浄瑠璃とは少し異なっていて、それこそ「日本むかし話」に近い文芸テイスト(作=木下順二)で、田舎言葉風のセリフながら洗練された雰囲気があって美しかった。

それで思い出したが、以前、『ちからばし』という岡本忠成のパペットアニメを見たことがある。誠実な男が夜の山奥で不思議な女から赤ん坊を預かるという幻想譚だが、これの音楽が清治サンなのである。義太夫三味線ではないんだけど、ナレーションに合わせたシンプルでしかし幻想的な雰囲気のある三味線の伴奏で面白かった。現在流通しているDVDのナレーションは岸田今日子だが、先代呂太夫がナレーションをしているバージョンも存在しているらしい。それを観てみたいな……。で、当代呂太夫さん、ここに出るのでええんか!?と思ったが、声質的にかなりむかし話時空が似合っていて、なるほどと思った。初めはこどもに聞き取りやすくするにはもっと声がばかでかい人がいいんじゃないかしらと思ったけど、抑えた声調が微妙におどろおどろしさを醸し出しているのと、単調にならない語り口のディティールが話に合っていてよかった。ところどころ三味線の音で声がかき消えているのが残念だったが……。

と、いきなり話がそれたが、幕があくといきなり瓜子姫・じじ・ばば・カラス・トンビ・ニワトリが舞台上にひしめいており、情報量がメチャクチャ多い。床にもいっぱい人座ってるし。どこ見たらええねん。初めて文楽を見たとき、「どこを見たらいいかわからないくらい情報量が多い」と感じたのを久しぶりに思い出した。人間はともかく、自由気ままな動きのカラス、トンビ、ニワトリがやばい。ニワトリの妙なリアルさが気色悪かった。

 

いきいきとしたコミカルな動きのアマンジャクが可愛らしい。アマンジャクは童子サイズのちっちゃなお人形で、オレンジのちりめんの肌、髪型はサラサラおかっぱヘアーで、頭にはツノが一本生えていた。ちょっとサイズの大きな田舎風の着物をひっかけている。からだが小さいぶん、おお振りな動き。そして、妖怪だからか、人間の子供とも違った、ディズニーアニメの動物キャラのようなおお振りな動きをしていた。文楽人形はいわゆる「人形劇」、たとえばむかしNHK教育で放送していたようなそれとは動きのセオリーが違うわけだけど、こういう演目だと限りなく両者の「見た目」は接近してしまう。しかし、ピョインと大きく足を上げて跳ねながら扉を打ち叩きまくったり、手足をぐんぐん伸ばしてガサツに機織りをしたりするアマンジャクの動きから、これは文楽だなと思う。瓜子姫に化けたあとのアマンジャクも玉佳さんですかね。けたたましく音を立てて機を織る仕草、私の席は下手だったので背面から見るかたちになったんだけど、後ろ姿アングルからもわかるのびのびとした自由な動きがとても可愛かった。しかしあのシッポはなんなのでしょう。はじめに瓜子姫の家に乗り込んできたときはなかったのに、おじいさんが帰ってきたら突然茶色の長〜いフサフサしたしっぽが生えていて、近くの席のこどもが「あんな長い???????」と素朴すぎるツッコミを入れていた。でもかわいいから許す。

山父は大きなオメメが電気仕掛けでぴっかぴっか光っておこさま客のみなさん大喜びだった。大型の細長い人形の山父は造形が特殊で、ちりめんのカフェオレ色の肌に平たい顔だち、ざんばら髪は黒々と、指は細長く垂れており、薄汚いような濃い墨色のぺなんとした着物を羽織って、華奢な一本足が吊ってあった。そして、ちいさな渋柿の実?がふたつついた細長い杖を持っていた。山父は突然おもむろに正座しだしたのがおもしろかった。文楽のお人形さんて、本当すぐペタンと座っちゃいますよね……。杖は持っているけど、山父は一本足なので一回座ったら立ち上がるのが大儀そうだと思った。そんな山父はリアル火花が飛び散る薪がデコに当たっていてかわいそうだった。

瓜子姫の人形は、禿に使われるような幼い女の子の人形。おかっぱ頭を童女風に結って、黄緑色の着物に足が吊ってあった。実はあんまり活躍しどころがなく、後半は木に下着姿でボーゼンと吊るされっぱなしだが(子供なのでさすがに清十郎さんが小野姫でやったほどの色気はないのです)、健気に機織りする仕草はかわいらしかった。

 

展開上、結構おもしろいのがオチの部分。アマンジャクの失敗の原因となった鳥の鳴き声と「そんだらふうでは、ちがうがな」という声。言葉尻そのものを追うとまるでおじいさんとおばあさんが言ったかのようだけど、そんなはずはない。はたして瓜子姫のおともだちの鳥類たちが姫の心を代弁して喋ったのか。瓜子姫のおともだち三羽ガラス(ってカラスじゃないのもいますが)は予想外の大活躍だった。単に賑やかしで飛んでるわけではなかったのね。ニワトリはなぜか段切で突然寝始め、おじいさんにほうきで叩かれてたのでヨソのニワトリが勝手に侵入してきているのかと思いきや、おばあさんからエサをまいてもらってつついたりしていたので、やっぱりペット(?)なのかもしれない。

しかしアマンジャク、なんで瓜子姫じゃなくてじいさんばあさんを食おうとしたの??? イメージ的には瓜子姫のほうがおいしそうだが、熟成肉とかそういう感覚??? 瓜子姫の正体は瓜だから肉食(?)のアマンジャクには口に合わないんでしょうか??? アマンジャクは最後、下手にある出入り扉(妹背山で両床設置するときに使う出入り口)からぴょこっと顔を出して瓜子姫たちの様子を伺っていて、終演時にはそっと手を振っていた。このサービスにはおこさま客も引率のパパママ客も私も大喜び。

以上、脈絡のない走り書きで失礼。いわゆる「新作」の一種なのであまり期待していなかったけど、話自体も出演者の芸も骨格がしっかりしていたおかげで、聞き応え見応えのある新鮮な作品だった。ぽんぽんとテンポよく話が進んでいくし、舞台転換もすばやくスムーズで飽きなかった。子供向けとして良い作品だと感じた。

 

小ネタ。おこさまがたの素直な反応で一番笑ったのは「くつはいとるー」。文楽人形っておそとに出るときにちゃんと履物はくよね。あれ、本当かわいくて、私も好き。あと、細かいところでいうと、家の奥にかかっているぜんまい渦巻くのれん、ぜんまいの渦巻き具合に通常の演目より勢いがあった。ゴッホの見た悪夢のようなぜんまいだった。

 

 

 

文楽ってなあに?」。

司会の玉翔さんは、自称が「最近中年太りが止まらないけどやっぱり男前」に戻っていた。

定番、人形遣いの仕事を紹介しつつ、舞台に客席のお子さん3人を上げて人形遣いを体験してもらうというレクチャーパート。レクチャーで使う女方の人形はいつものお園さんだったが、立役の人形はこのあとの『増補大江山』で玉翔さんが遣っている左源太を持ってきておられたのが良かった。そうすると、あとで「あのお人形だ」って親しみがわくものね。それと、お園さんで一発ギャグをやってくれておこさま方大喜びだったんですが、私、テレビをまじで一切見ないので本気で何かわからなかったです。あとで検索したところ「ひょっこりはん」という芸人さんの真似だとわかりました。大変勉強になりました。

それにつけても人形遣い体験をしたお子さんがあまりにしっかりしていてびびった。大人でもあそこまできちんとした挨拶のできる人間はそうそういない。最後に一言ずつ感想を求められたおこさまたちは本当にきちんとしていて、

「足遣いの修行は10年かかると聞きましたが、そうなる大変さがわかりました」(←直前の玉翔さんの修行年数の話をちゃんと聞いていて、それを受けて感想を言っている)

「人形は結構重くて大変。これからも頑張ってください」(←これも直前の人形の重量の話を受けている)

と玉翔さんを激励していた。玉翔さんたちの人形の遣い方の説明も熱心に見て聞いていたし、本当に立派。日本の未来は明るいと思った。

 

 


『増補大江山』戻り橋の段。

ある雨上がりの春の夜、渡辺源吾綱〈吉田文司〉は戻り橋のたもとで美しい女・若葉〈吉田簑二郎〉と出会う。一条から五条へ行くのが心細いという若葉に、綱は同伴を申し出る。しかし、戻り橋から覗き込んだ堀川の水面には妖しい鬼女の姿が映っているのだった。やがて愛宕山は北野の森を過ぎたころ、綱は扇折りの娘だという若菜の雅びやかな風情に舞をひとさし所望する。彼女の優美な舞を見た綱は若菜を妻にと申し出るが、不思議なことに若菜は初対面であるはずの綱の名前を知っていた。何者かと綱が髭切丸に手をかけて詰め寄ると、彼女は憤怒の形相となりたちまち姿を変じる。その正体は愛宕山の深奥部に住む悪鬼であった。二人は激しく争って天に駆け上り、ついに綱は悪鬼の片腕を討つのであった。

やはり簑二郎さんはあの北九州の成人式みたいな雲模様のド派手な着付が似合いすぎだと思う。『紅葉狩』の清十郎さんは壊滅的に似合ってなかったのに……。人形の演技としてはもうちょっと気をつけて丁寧にやって欲しいところも多いのだが、あの雲模様の着付が似合いすぎていてどうでもよくなった……。

渡辺綱役の文司さんはなんともいえない味がある。キラキラ系だったり、洗練されてる系の人ではないけれど、雅びやかで上品な雰囲気と土の匂いのする素朴な雰囲気がうまいこと同居していて、地方の伝説的な荒武者、みたいな役が引き立つ。素朴っていうのはモッサリしているのとは違う。奈良京都じゃない地方のお寺で地域の人に大切に守られている仏像とでも言えばいいのかしらん。立地がやばすぎるので参拝客が少なく大寺院のような華麗なしつらいはされていないが、近所のひとが持ってくる香華は絶えなかったり。すがたかたちにも都風とは違った味わいがある。左源太で登場の玉翔さんは凛々しい若武者風で良かった。

そしてまたツレ弾きで使われる八雲(特殊な琴)をよく聞いて、見ておくのを忘れていた。ぬかった。若菜が舞うところで使っているのだと思うが、残念。

 

 

 

今回も子供向けとはいえ通常運転だった。上演時間が短めだったり、子供を喜ばせる工夫はするけど、決して子供騙しはしないのが良い。

終演後、お若い人形遣いさんたちがアマンジャクと山父の人形を出してロビーでグリーティングをしていた。なんで妖怪ふたり!? 瓜子姫のような人間の人形より妖怪のほうが人気があるのでしょうか。おこさまがたは大変喜んでおられて、アマンジャクたちといっしょに写真を撮っていた。アマンジャクはアイドルのチェキ営業のようにおこさまたちの肩に手を置いていた。

しかしこの親子劇場公演、まじでおこさまがどっさりいるのがすごいよね。大阪では文楽の親子向けイベントとして定着してるんですね。親御さんがたも自然体で遊びにきている感じで、文楽の根付きを感じる。なにより、みんなちゃんと観てるし。国立能楽堂だと時々鑑賞教室じゃなくても高校生が観劇してることがあるんですが、そっちは観劇態度悪い子がかなりいて、不真面目な態度をとるのかっこいいと思ってるんだろうけど、ほんと「おこちゃま」だなーと思う。*1大阪のこどもたちは本当にちゃんと観てて本当にえらい。

なお、展示室には今年もアニマル小道具が展示されていた。展示アニマルは『鑓の権三重帷子』に出てくる黒馬と遠見の馬(看板だけど)、『大経師昔暦』のプチな三毛猫、『伽羅先代萩』のチンとスズメ(かご付き)、『妹背山婦女庭訓』で芝六に殺される「爪黒の牝鹿」。鹿は横倒しに展示されていたので黒衣が手を入れる部分も見えるようになっていたのだが、おなかの内部にはサラサラしたクリーム色のキルティングが貼られていて、触り心地がよさそうだった。近くにいたおかあさんと男の子が「しか〜!」「しかが出てくる話があるんだね〜」と話していたので、「そがのいるか🐬を倒すために殺されるしかさんだよ🦌🌸」と教えてあげようかと思った(不審者)。展示パネルには「文楽にはお子様の大好きな動物も出てきますので喜んでもらえるよう展示してます☆」的なことが書かれていた。勘十郎さんも「子供は動物がすき」と断定形でおっしゃってたけど、必ずしもすべての子供が動物好きなわけじゃないだろうと思いつつ、文楽人形は顔が怖すぎなので、たしかにあの中から選ぶなら子供は動物が好きかも、と思い直した。

 

 

 

文楽劇場のとなりのうどん屋で食べたごぼ天うどん。世が世ならお堂を建てて浄瑠璃に残すべきおいしさ。

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*1:ただ、能楽の場合、一般客でも観劇態度の悪い人が歌舞伎や文楽の比じゃなくいる気がしますが。