TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

ながと近松文楽『出世景清』山口県立劇場ルネッサながと

ひさびさの長距離出張! 山口県長門市で開催された「ながと近松文楽」に行ってきた。

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長門市へは宇部山口空港から公共交通機関だと4時間程度、車でも1時間40分程度と交通の便がかなり悪く、いままで行くことができなかった。が、今回は『出世景清』の復曲通し上演ということで、アシを手配して行ってきた。折からの西日本の豪雨被害で開催されるかどうか、自分がいけるかどうか心配が多かったけれど、当日現地は雨の雲を抜けて決行となり、飛行機も飛んだので無事観ることができた。開演1時間ほど前に会場に着くと、現地の実行委員らしい方々が入り口でわざわざ出迎えてくださってびっくり*1。かなり力を入れている企画であることを感じた。

会場は伝統芸能専用というか、文楽劇場程度の幅のステージと文楽回しを有するホール。人形の見え方が自然だったので、舟底構造も設置されているようだ。ここまでの人形浄瑠璃専用の設備を地方自治体(別に人形浄瑠璃が地域の民俗芸能として有名等でもない)が所持しているのがすごい。ダークブラウンの木目が美しいシックな内装で、客席は1F、2Fの二層構造になっており、1Fには簡易的な桟敷席が設置されている。桟敷席の上には赤い小さな提灯も下がっていて、建物や内装はモダンながら古典芸能らしい雰囲気もあってオシャレだった。何もかもが国立劇場小劇場より品がよくセンスあって素敵。改築の折にはたのんます国立劇場。と思った。

 

 

 

今回の復曲は鳥越文蔵氏が7年前に企画し、燕三さんに依頼して新規で作曲したものとのことで、開演前に鳥越氏から挨拶があった。鳥越氏は近松を「読む」ことで研究をしてきたが、やはり、人形浄瑠璃の芝居は舞台にかけてこそと思われたそうだ。また、近松は世話物で有名であるが、鳥越氏の考える「近松らしさ」は時代浄瑠璃にあるとも語られた。『出世景清』は先代燕三師匠の復曲で小野姫道行・六条河原の段・景清牢破りの段が文楽劇場国立劇場でも1度ずつ上演されているようだが、今回はそのときとは違う曲と人形演出で復刻したとのことだった。

鳥越氏の思い入れが相当あることはこの挨拶でわかったが、こういった単発公演は詰めが甘い部分があったり、新曲だと特にヤバいことになりがちだと思う。去年の杉本文楽の『女殺油地獄』がなかなかにアレだったのが良い例というか……(よくねえよ)。手を抜いているとは思わないけど、稽古不足や不慣れが如実に出てしまう人がいるのは事実だと思う。地方自治体の単発企画公演は地元の方々の心意気と配役の豪華さが大きな魅力だが、この点はどうしようもないとある程度諦めている部分があった。

しかし今回、その「諦め」は大きく裏切られた。もう、ほんと、すっごく、良かった!!!! すごい力の入り具合!!!! 出演者のみなさんの熱意と頑張りに胸をつかれた。特に太夫三味線の力の入り具合がすごい。本公演並みにしっかり稽古なさっているのでは。新曲にもかかわらず三味線さんは全員暗譜。ほんの一回の公演にここまで注力されるとは、ただならぬこだわりと探究心、プロフェッショナルぶりを感じた。

以下、各段のあらすじを書きながら、上演内容について書いていきたいと思う。今回は「通し上演」とは銘打たれているが大幅なカットも伴っているため、原文は小学館から出ている『新編日本古典文学全集 近松門左衛門集』を参考に《》内に原文段分け表記を併記する。

 

 

 

熱田の段《熱田大宮司館の場》

平家の武将・悪七兵衛景清は平家滅亡後も生き延び、縁故ある熱田神宮の大宮司(だいぐじ)のもとに匿われている。大宮司は娘・小野姫(おののひめ)を景清に娶せ実子のように大切にしている。この頃、かつて平家によって焼き払われた奈良の東大寺源頼朝によって再建されることになり、その奉行として頼朝の寵臣・畠山重忠が赴任してくることになった。景清の目的は頼朝を討ち君父の恨みを散ずることであるが、常にこの智将・重忠に隔てられそれを果たすことができない。そこでまずは重忠を討つべく景清は奈良に出立しようと大宮司に暇を乞う。大宮司もまた絶好の機会到来と喜び、その北の方は宗盛より賜った平家の名刀・痣丸を贈って景清を奈良へと送り出すのであった。

浄瑠璃上演。太夫=豊竹靖太夫、三味線=鶴澤燕二郎。

ステージに素浄瑠璃用の舞台をしつらえての上演。暗幕を背後に太夫三味線が座る台と屏風が設置されている。屏風は金か銀だったような……(すでに薄れる記憶)。そしてなんとびっくりステージ上部に字幕表示があった。地方自治体の公演でここまでやるとは……、驚いた。本公演でもおこさま向け公演とかだと字幕出さないのに……。入場者全員に床本も配ってるのに字幕まで用意するとは、長門市のすさまじいやる気を感じた。

それにしても、燕三さんのひとりっこ愛弟子とはいえ、燕二郎さんがこんな舞台を勤められるまでにスクスク成長されたというのが驚き。靖さんともども「「💦💦💦💦💦💦」」と頑張っておられた。この世から300年以上消えていた曲で、誰もイメージつかない場面を表現するのは大変だったと思うけど、本当、頑張っておられた。演奏としても三味線が映える面白い節が多々あったのも良かった。

なお、この段は文章カットなしでフル上演だった。

 

 

 

東大寺の段《東大寺大仏殿の場》

奈良では頼朝公から奉行職を賜った畠山重忠が指揮をとり、東大寺大仏殿の再建が行われていた。その柱立の儀式の日、あまたの侍たちが居並ぶ前を頰被りした怪しい人足が通り過ぎる。重忠の重臣・本田二郎はそれを見咎め、晴れの場に頰被りとは無礼であると叱りつけるが、男は作法も知らぬ下人ゆえにと去ろうとしたため、中間たちが彼を取り囲む。様子を見ていた重忠はその人足を景清と見抜き、部下たちに彼を捕らえるように命じる。人足もとい景清は「自分はあくまで鎌倉方の浪人者である」と嘯き、景清と間違われるような侮辱は堪忍ならないとして中間たちと斬り合いになる。景清は重忠に見参せんと暴れるが、大勢の雑兵に隔てられて重忠に近づくことができない。景清は歯噛みしてその場を駆け去っていくが、その飛ぶ鳥のような神通業を恐れぬ者はいなかった。

浄瑠璃上演。太夫=豊竹芳穂太夫、三味線=鶴澤清馗。バックは白屏風。メンツのせいか若手会のような雰囲気、フランクに楽しむ感じ。大仏殿建築現場の勇壮で華々しい雰囲気が出ていた。

ここは原文をかなりカットしていた。東大寺の柱立の様子や建築の壮麗さを描く部分、景清をかばう番匠の棟梁と本田二郎のやりとり、しらばっくれを貫く景清の描写、正体を見破った重忠と景清のやりとりの一部、雑兵を蹴散らす景清の奮闘の描写をカットして大幅に軽快にしている。東大寺の豪華さを描く部分の遊び言葉の並べ立ては浄瑠璃らしい言葉遣いで曲がつけばさぞ美しい場面かと思われるので、カットが惜しいところ。

 

 

 

◾️

阿古屋住家の段《阿古屋住家の場》

京都・清水寺の近くに住まう遊女・阿古屋は景清の年来の恋人であり、二人の間には弥石・弥若という息子まであった。その阿古屋のもとに、重忠を討ち損じた景清が落ち延びてくる。阿古屋は三年も姿を見せなかった夫の突然の来訪に驚き、景清はここまで来るに至った経緯を語って久々の再会を楽しもうとするが、小野姫のことを嗅ぎつけている阿古屋は嫌味を言う。しかしゴカイダヨーと誤魔化す景清にすっかりほだされる阿古屋。二人は弥石に酌をさせて会わない間に積もり積もった話を語り明かす。やがて、清水観音の信仰篤い景清は轟の御坊に七日間の参籠をするとして出かけていくのだった。

そこに阿古屋の実兄・伊庭十蔵が帰ってくる。景清を訴人すれば勲功は思いのままという制札を見てきた十蔵は早速阿古屋に景清の行方を尋ねるが、義理堅い阿古屋は取り合おうとせず逆に兄を説諭する。しかし十蔵は小野姫の件を持ち出してなおも訴人を勧め、阿古屋はそんなことはないと反論した。そうこうしているうちに絶妙のタイミングで熱田の大宮司からの飛脚が景清のここは宿かと訪ねてくる。預かった文箱を開いてみるとそれはなんと小野姫から景清への恋文で、阿古屋とかいう遊女のもとに身を寄せているのかという恨み言が書かれていた。小娘に「遊女」呼ばわりされた阿古屋は超激怒。十蔵は喜び勇んで六波羅へ向かおうとするが、阿古屋は間際になって思い切れない。しかし十蔵は彼女を振り払って飛び出していくのだった。

浄瑠璃太夫=豊竹呂勢太夫、三味線=鶴澤燕三。肩衣が黒地にグラフィカルな紋の染め抜きだったり、背後の屏風が格子戸のような障子風だったりでモダンな印象だった。

まず呂勢さん、かなり力が入っていて驚いた。正直、呂勢さんは大変失礼ではあるが単発公演でのパフォーマンスが良いと思ったことがなかったので、そもそもの仕上がりぶりにびっくり。大変丁寧に語っておられて、相当力を入れて稽古されたんだろうと感じた。ぬるさや迷いが感じられない語りだった。今回の立役者・燕三さんは当然ながら一切の曇りない清澄な演奏、本公演となんら遜色ない素晴らしい音。三味線さんて慣れてない曲だと手元を見ちゃう人がいますが、そんなことはまったくなく、まっすぐに客席を見据えて弾いておられた。燕三さんて本当うまいね……。まず音が綺麗だものね。あでやかな阿古屋のたたずまい、景清とのしっとりとした関係を感じさせる演奏。素浄瑠璃となるとどうしても玄人向けというか地味になりそうなところではあるが、嫉妬に狂う阿古屋の乱れるさまなど華やかで、おふたりの技量を感じさせるすばらしい舞台だった。

この段もカットが多く、阿古屋が二人の子供を弓箭の道に進ませるべく養育していたこと、景清と阿古屋の細かいやりとり等が整理されていた。

 

 

 

ここからしばらく原作を大幅にカット。以下に概要を示す。


清水寺轟坊の場》

阿古屋兄妹が訴人に及んだと知らない景清は清水寺轟御坊で博奕を打っているが、十蔵と彼を捕らえようとする五百余騎の軍勢が御坊を取り囲む。清水寺の荒法師たちは、寺内は不可侵の地であり、信心篤い景清を討たせてはならないとしてその軍勢に立ち向かう。阿古屋の裏切りに気づいた景清は受け流し斬り結び、軍兵たちを斬り立てていく。その勢いに押された追手たちは六波羅へ引き上げていき、景清もまた姿を消す。


六波羅の場》

景清が姿を消したため、熱田の大宮司が身代わりに捕らえられる。梶原源太は大宮司を責め立てるが、なおも景清の行方は知らないとしらを切り続ける。畠山重忠はその様子を見て、景清ほどの仁義を重んじる勇士であれば、大宮司を牢に入れればその難を救おうとして自ら名乗り出てくるだろうとして、六波羅に新造の牢を作り、そこに大宮司を押し込めておくことにする。

 

《小野姫道行》

宮司の娘・小野姫は父の入牢に心を痛め、せめてその身代わりになるべく熱田を出立し六波羅へと向かう。しかしその心のうちは昨年来音信不通の景清のことでいっぱいなのであった。

 

 

 

ここから再び上演部分。

六条河原の段《六波羅の場》

京都にたどり着いた小野姫は、来合わせた梶原源太に捕まってしまう。景清の行方を問い詰められるも、知っていたとしても景清の行方は言わないと言う姫。そのため大宮司の代わりに縛られ、六条河原で水責めにされる。姫は気丈にもこの水は清水観音の甘露法雨だと言いはり、しかしながら次第に弱っていくのであった。そしてついに火炙りにされようとしたとき(ってか人形はサンマを焼くように炙られてたけど)、景清が垣根を破って現れ、姫を救う。そして大宮司や姫の代わりに自らを捕縛せよと迫る景清。その話を聞いた畠山重忠が大宮司を連れて六条河原に現れ、景清の心底に感心して大宮司と姫を解放し、かわりに景清を引っ立てることを命じる。

ここから人形が入り、人形浄瑠璃。前:太夫=豊竹芳穂太夫、三味線=鶴澤燕二郎、後:太夫=竹本三輪太夫、三味線=鶴澤清志郎。人形は小野姫=豊松清十郎、悪七兵衛景清=桐竹勘十郎梶原景季=吉田玉助梶原景時=吉田簑一郎、熱田大宮司=桐竹紋秀、畠山重忠=吉田玉志。

小野姫の人形はポニテ風に下げた髪+姫の簪の娘のかしらにピンクの着物のすそをまくって足を吊るした旅装。着物、すぐ脱がされますが……。景清は斧定九郎や京極内匠みたいなふさふさしたモヒカン風の髪型、濃紺の縦縞のラフな着物に紅色のふかふか帯をしめていた。ほか、梶原景季は鬼若のかしらにグリーンの裃×オレンジの小袖で小姓や童子風のこしらえ、景時はめっちゃ気が強そうなジジイ(鬼一?舅?)で渋い金の裃、大宮司はいい人爺さんのかしらで神主さんみたいな簡素な衣装だった。

小野姫は雑兵たちに水をかけられたり、棒でしばかれたり、火炙りにされたりするのだが……。清十郎……、このためだけに長門に来たんだなって感じ。このド悲惨感、いかにも清十郎さんって感じの配役。ここが文楽劇場なら「待ってました〜っ!!」と声がかかってしまうところだった。小野姫は体を後ろ手に縛られているので身動きはできず、水を無理やり飲まされたり棒でつつきまくられたりするたび、時折上半身をよたよたとさせて首をよじったり、足先をすこしばたつかせて身悶えするくらいしかしないんだけど、それがなんとも苦しそうで、可憐で、そして悩ましげだった。この味、清十郎さんにしか出せない……。今年の清十郎さんで一番輝いてた……。いや、もう、人形の出演者で一番輝いてたよ……。名前が筆頭に来てもおかしくない輝きぶりだった。あと、袴がふだん本公演ではお召しになっていないような不規則に柄の入った藤色のもので、おしゃれだった。

拷問される場面は太夫も三輪さんで高音の悲しげな悲鳴がすばらしく映えていた。三輪さんが予想外に早く出てきた!?と思ったらこれで、「なるほどっ!!!!!!!!!!」と会場全員ベコ人形のようにうなずいた(でかい主語)。三輪さんの高音は自然で本当に女性の声めいているのがいい。時々、どこから声が聞こえているのかわからなくて、ちょっとぞっとする。でも、普通に考えたらまさかあんな気の良さそうなおじさんがこんなセイレーンみたいな声出してるとは思わんでしょ!?

前半の芳穂さん燕二郎さんコンビも新鮮な感じで良かった。芳穂さんが体操のお兄さんみたいだった。しかし燕二郎さんがここまでソロ演奏できるのは本当にすごい、よっぽどお稽古なさったんだろうなと思った。

そして、畠山重忠は予想外の玉志さんで「やった〜!!!飛行機代の元取った!!!!!」と思った。配役表見ずに来たのでめっちゃ儲けた気分。原作を読むと大変に重要な役なので玉男さんがやるかもと思っていたけど、玉志さんとは。凛々しく上品な畠山重忠で、やる気があった。かしらは茶色の卵くらい赤く塗ってある孔明(多分)で、カッパーの裃に刺繍柄の入ったクリームっぽい小袖の拵えだった。あと、玉志さんのいつものブルーグレーな袴の色がいつもより濃かった(どうでもいい情報)。

 

 

 


六波羅新牢の段《六波羅新牢の場》

六波羅には景清を収監する頑丈な牢屋が新造され、彼は身体を厳重に禁固されている。小野姫は景清のもとへ酒や果物の差し入れを持って通っていたが、景清は姫に尾張へ帰るように告げ、阿古屋の裏切りを恨んで悔しがる。しかし姫は景清の先途を見届けるため京都に残ると言って、人目を避けてひとまず宿へ帰っていった。

太夫=豊竹靖太夫、三味線=鶴澤清馗。

景清(と勘十郎さん)は太い角材を渡した猛獣用のような頑丈な牢に入れられている。浄瑠璃の文句だと景清は髪を七方に結わえつけられ……等となっているが、そこまではされていなくて、ただ、足は浄瑠璃通り牢の外に放り出す形で上に石を乗せられている。肩には本当はサボテンを乗せられているらしいんだけど、乗ってなくて残念(勘十郎様をオモシロにしようとすな)。そんなこんなで囚われの身のわりに比較的のんびりスタイルな景清は窓からのーんと顔を出していた。なんかかわいい。馬みたい。景清は拵えが変わり、髪はさっきより伸びてモフモフ百日鬘になっていた。衣装は淡い墨色に経文のような大きな文字が書かれた着物に縄の帯をしめ、首から数珠を下げている。小野姫が持っていた果物かごがスーパーで売られているお盆のレプリカお供え物のかごみたいだった。

この段のカットは景清が捕らえられている様子の描写や景清の頭を巡っていることなどの一部で、小野姫が出てきて以降はほぼ原文通りだった。

 

 

 

牢破りの段《六波羅新牢の場》

帰っていく小野姫と入れ違いに、阿古屋が弥石・弥若の二人の息子を連れてやって来る。訴人のあと身を隠していたところに景清が入牢したと聞き、とりもなおさず訪ねてきたのであった。囚われた景清の姿を見た阿古屋はその哀れさに牢にすがりついて嘆くが、景清は夫を訴人をしながら何事かと怒り狂っている。阿古屋は訴人は嫉妬ゆえのことで許してほしいと詫び、二人の息子は父を心配し足元にすがりつく。息子たちの姿に景清も涙をこぼすも、なおも訴人したことを責め立て、阿古屋らのことはもはや妻とも子とも思わないと突き放す。阿古屋は景清に見限られては生き甲斐がないとして弥石、弥若を守り刀で刺し殺し、自らも喉を突いて自害する。

そこに訴人の褒賞で遊興していた阿古屋の兄・十蔵が戻ってくる。惨状を見た十蔵は肝をつぶし景清を責めるが、景清は阿古屋は自らの貪欲心を儚んで自害したのだと返す。次に同じことを言ったらコロスという景清に、十蔵はそのなりで何ができるとおかしがる。ところが景清が清水寺の本尊である千手観音に祈るとにわかに金剛力が湧き、巨大な牢屋をバラバラにして扉を踏み倒し、大手を広げて外におどり出る。景清は中間たちを蹴倒して十蔵に掴み掛かり、キャーキャー騒ぐのも聞かず真っ二つに割いてしまう。それを投げ捨て六波羅を去ろうとした景清だったが、また大宮司や小野姫に危害が及ぶのではないかと思い直し、自ら牢の中にソロリと戻るのであった。

太夫=豊竹睦太夫、三味線=竹澤宗助(予想外のご出演)。阿古屋=吉田簑二郎、弥石=桐竹勘次郎、弥石=吉田和馬。

阿古屋は『壇浦兜軍記』のような傾城の盛装ではなく私服(?)で、奥さん風の地味な紫のツギハギ着物。あまり盛っていないが大きな鼈甲のかんざしを挿した崩れ気味の髪型とあいまってちょっと所帯じみた雰囲気。二人の息子は武家の坊ちゃん風の着物に髪を結った男の子と、菅秀才くらいのおかっぱボーイだった。阿古屋は自分は綺麗な着物を着なくても、武士である景清との間に生まれた子どもたちにはちゃんとした格好をさせているのね。

阿古屋はかわいそうにはかわいそうなんだけど、日陰の女感がすごすぎて昭和のB級映画か低予算文芸映画状態になっていた。世が世なら木暮実千代、みたいな……。この微妙にくすんだというか、場末感のある雰囲気は簑二郎効果? 勘彌さんがやったりするとまた雰囲気が違うと思うが。話そのものだと阿古屋に肩入れしたくなるところだが、小野姫の清十郎さんのド悲惨オーラがすさまじいため感情移入度は互角の勝負になっていた。二人の子どもは本当に若めの人形遣いさんがやっているので、稚さと表現してしまうと失礼だけど、おこさま感があってよかった。

景清の牢破りは格子に渡された木材をポーンと分解して見せていた。人形だと牢破りもなんかだかかわいい。そしてそそっと自分で牢に戻るのもかわいかった。十蔵は人形浄瑠璃らしくまじ裂けていたが、最近文哉さんよくこういう役やってますね。『彦山権現誓助剣』でも踏まれてジタバタしていたような……。熱演であった。

ここもカットが多く、景清と阿古屋・二人の息子のやりとり、阿古屋が息子を殺す様子とその抵抗、景清と十蔵のやりとりなどが大幅に整理されている。全部残してると景清の言動の支離滅裂感がすごくなってしまうので、ヒロイックな印象に都合の悪いところ(阿古屋をさんざん責めているけど、事実二股をかけている自分のことは棚にあげている点)を切っているのだと思うが、カットしすぎて話が要点しか残っておらず、浄瑠璃即物的になってしまっている。情緒を表現する部分、阿古屋と息子の様子などはもう少し残してもいいような……。せっかく睦さんと宗助さんの演奏なのにちょっと勿体ない。おふたりはそういう部分を表現できる方々だと思う。

 

 

 

観世音身替の段《巨椋堤の場、三条縄手の場》

右大将・源頼朝は大仏殿再興の報謝に大赦を行い、供養の聴聞のため、佐々木高綱らを供に奈良へ向かっている。その一行が巨椋堤(おぐらづつみ)に差し掛かった頃、畠山重忠が駆けつけてきて景清の早急な処刑を勧める。ところが高綱はすでに景清の首は自らの手で刎ね、頼朝の実検に備えて三条縄手に晒してあると言う。さっき景清を見てきたばかりと言う重忠と高綱は言い合いになるが、頼朝はこの不思議な出来事を自ら検分するため、馬の向きを変えて都へ戻ることに。

三条の縄手には高綱の言う通りに景清の首が高札とともに晒されていた。なおも不審が晴れない重忠が景清の首をじっと見ていると、その首はたちまち燦然と輝き、清水寺の千手観音の首に変じる。そこへ清水寺の僧侶があわててやって来て、昨夜、観音堂の扉が開いていたので盗人が入ったのかと調べてみると、観音の首が切れてなくなっており、切り口からは血が流れて一面が血の海になっていた由を注進する。頼朝は涙を流して、景清が長年篤く清水観音を信仰していたため、観世音が身代わりになられたのだと手を合わせる。急ぎ観音の首を継ぐ法事を執り行い、その後景清に対面するとして、頼朝は観音の首を袖に包んで清水寺に向かうのだった。

太夫=竹本三輪太夫源頼朝)、豊竹睦太夫畠山重忠)、豊竹芳穂太夫佐々木高綱)、豊竹靖太夫。三味線=鶴澤清志郎。人形は源頼朝=吉田玉男佐々木高綱=吉田玉佳、清水寺の僧=吉田勘市。

浅葱幕が下りた舞台に、黒い馬に乗った頼朝とそれに付き従う佐々木高綱。気品と瑞々しさを備えた人をキャスティングしている納得の配役ではあるが、玉男さんと玉佳さんが同時に出ているのは珍しい。景清が玉男さんなら玉佳さん左でしょうが……。この配役、二人の忠臣・重忠と高綱に左右からギャイギャイされる頼朝が玉男さんなのがおかしかった。上演ではカットされているが、頼朝は両サイドで言い争いをはじめる重忠高綱を見て「ふたりともいい加減なことを言うタイプじゃないしなあ〜」と鷹揚に構えているところがなんだかお似合い。頼朝は白塗りの孔明のかしらにヤギ風のひげ。衣装は上品な紫の薄手の大口(狩衣)、表面が偏光で金っぽく光っていた。玉男さんは袴も人形の衣装にあわせた浅い紫で上品な感じ。佐々木高綱検非違使のかしらに金襴の衣装で豪華だった。

浅葱幕が引き上げられると、獄門台に景清の首が晒された三条縄手。この首には仕掛けがあり、頼朝が扇をかかげてその首を検分しているうちにかつらと被せてある面が落ち、黄金の清水観音の首に早変わりする。結構うまくかつらが落ちて、さっと自然に観音像へ変化していて上手かった。

この段も重忠と高綱の言い争いの一部をはじめ、全体的に細かい言葉・段取りの端々が若干整理されている。

 

 

 

清水寺の段《清水寺轟坊の場》

やがて首継ぎの法事も終わり、頼朝の御前に重忠・高綱に連れられて景清・小野姫が参上する。頼朝は景清が今なお平家の仇として自らを狙い続けている武士の心を持っていることを褒め称え、清水観音が身代わりになったからにはこれ以上の処罰は観音の首を二度討つことになるとして彼をこのまま助けおき、日向の国の庄を領地として与えると告げる。景清は感涙にむせび、頼朝がこのように情けのある君と知らずにつけ狙っていたことを悔やみ泣きする。ところが頼朝がその場を退出しようとすると、景清はその隙を突いて刀を抜き、頼朝に飛びかかった。が、すぐに思い直し、ここまでの恩賞を受けながらまた頼朝の命を狙う自らの凡夫心を悲しみ、頼朝の姿を見ればまた同じ考えが湧いてしまうだろうとして脇差で両目をえぐってしまう。頼朝はその姿に感じ入り、景清は平家の恩も頼朝の恩も忘れないまたとない武士、その鑑であるとして、数々の褒美を下す。景清は清水観音に普門品を読誦し、日向国を拝領するのであった。 

太夫=豊竹呂勢太夫、三味線=鶴澤燕三。呂勢さんはここもよかった。もちろん、燕三さんは言うまでもない。

全員集合で大団円の段。景清は衣装変わって、なんかあの〜、よく、最後に正体をあらわす系の役の人形が着ている、すそに体育館の緞帳みたいな金の縁取りのついた衣装だった(鱶七とかが着てるようなやつ)。ここまでも景清の行動が支離滅裂というか感情過多というかその場その場すぎる言動になっていたが、ここはそれがMAXで、さすがに無茶な印象。目をえぐる部分が物語展開上のカタルシスになればいいけど、ちょっと無理。ほとんど古浄瑠璃状態なので、そういう説話と思うしかない。

ちなみに目をえぐる部分は本当に目玉がころりと出ていておもしろかった(?)。観たことないけど『嬢景清八島日記』とは違う演出だと思う。目をえぐる場面は人形をうしろに倒し、戻したあとは景清は目を閉じて血の涙をつけていた。おめめは頼朝にあげていた(頼朝、ちゃんともらっていた。ヤクザ映画ならこういうシーン、絶対受け取ってもらえないんだけどな〜)。

この段には大幅なカットがあり、 重忠に請われた景清が屋島の合戦の様子を物語る部分がすべてなくなっていた。話の本筋に関係ないのでカットはやむなしだけど、燕三さんの三味線で聞きたかったな。逆にここが素浄瑠璃なら聴かせどころになるはずだからやってくれたに違いないのに〜と思った。

 

 

終演後にちょっとだけカーテンコール。燕三さん、三輪さん、勘十郎さんが挨拶。燕三さんは病気で中断もあったが無事上演できたという関係者への謝意、勘十郎さんはボク近松門左衛門と300歳違い(?)なんですうと笑いを取り、三輪さんは燕三さんに誘われたときはこんなんできるかな!?と思ったけど無事こなせてよかったということを話された。なんだかすごくいいメンバーでの上演だなと思ったけど、燕三さんセッティングの人脈なのかな。三輪さんをこういうイベント公演で聴けるなんて、豪華だよね。人形も勘十郎さん玉男さんが揃うのってほとんどないし……。カーテンコールは出演者全員での挨拶で、さっきまで出ていた玉志さんが一瞬にしてめがねっこになっていたのが最高だった。玉志さんは人形を持ってないと目が虚無になっちゃうのが超最高だと思う。玉男さんはとても嬉しそうに勘十郎さんのうしろでしきりにソワソワされていた。私は玉男さんが景清でもいいと思ってたけど……、玉男さんが嬉しそうで、よかった。どなたもホワワーンとした笑顔の温かい雰囲気で、癒された。

今回は技芸員さんがたも豪雨被害の影響で長門へ集合するのがとても大変だったようで、中国地方の交通が断絶していたので大阪組の方はフェリーで一旦門司まで渡って山口県側へ移動したり、被害が大きかった地域にお住まいの方は自力で車を運転してなんとか前夜にたどり着いたりだったようだ。安全が一番大切なのであまり無理はして欲しくないけれど、豪華メンバーの全員集合ぶりに芸人魂を感じた。

 

冒頭にも書いたが、いままで地方自治体等が主催の単発公演は仕上がりがちょっと、でもまあお楽しみ会だから、と思うこともあったけど、この公演はとても力が入っていて、それ自体に感動した。本当にすばらしい舞台だった。無事公演できて本当によかったと思う。客席もほぼ満席でした。

また、今回は前半が素浄瑠璃になることがわかっていたので、事前に『新編日本古典文学全集』で全文を読んでおいたのだけれど、もうぶっちゃけて言うけど原作まったくおもしろくないんですよね。近松っていう担保がないとほんと上演できないと思う。あまりに素朴すぎ、素直すぎというか「はあ……? だから?」としか言えない即物的な話の流れで、後世の『菅原伝授手習鑑』『仮名手本忠臣蔵』などの時代浄瑠璃のクオリティの高さを逆説的に感じさせる作りだと私個人としては感じていた。ほぼ古浄瑠璃だよねと。しかし『曽根崎心中』もそうだけど、こういう素朴すぎの話だと技芸員の技量が際立つ。その点、話は「別に……」な内容ながら語りや三味線の音色、人形の芝居で舞台を楽しめた。人形も衣装を頻繁に変えたり、ケレンを色々取り入れたりで見た目を華やかに見易くされていて、現代に再演するに足る工夫がされていたと思う。本当、技芸員さんたちは頑張られたんだなということがよくわかった。これで終わるのは大変にもったいないので、ぜひ今度は欠けている段も増補して全段人形浄瑠璃、東京や大阪などの大きな劇場で上演して欲しいと思う。床の皆さんの演奏は本当によかったし、勘十郎さんはやり足りなげだったので、きっとまたどこかでさらにブラッシュアップしたものを見せてくれるはず。再演を楽しみにしている。

最後にちょっと「うーん」と思ったこと。通し上演企画にも関わらず解説を上演の途中に挟むのはやめて欲しかった。上演前はともかく上演の間に挟むのは雰囲気を壊す。そこまでいちいち解説しないといけないような内容でもましてやそのような芸のレベルでもないし、なにより一度幕を開けたら浄瑠璃の世界に酔わせて欲しい。また、内容も内輪向けはちょっと。この公演は地元の方々の尽力あってこそ成立するもののはず。いくら技芸員についている文楽の元々の客が多いと言っても地元のいちげんのお客さんもいるんだから、誠実に語るべきだと思う。この公演だけのことではなく、内輪ノリって上演内容そのものが難しいことよりもはるかに人が離れる要因になるから絶対やめたほうがいい。この二点は残念で、もったいないなと思った。

しかしなにより本当、燕三さん、お疲れ様でした。

 

 

 

毎日新聞のサイト。ダイジェスト動画のほか、人形の写真もたくさん載っている。拷問される小野姫の動画もあるので観てみてね。古典芸能でしかも人形だから大手を振って新聞社のサイトにアップロードできてるんだなとしか言いようがないナイス動画。

簑紫郎さんのインスタより、景清の人形の拵え。手前から牢破りの段、六条河原の段、清水寺の段。

 

簑紫郎さん(@minoshirou)がシェアした投稿 -

 

 

 

会場の山口県立劇場ルネッサながと。まわりには観光地的なものは何もなくて、ものすごく、静か……。日曜日の真昼間なのに音がまったくしなかった……。

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会場で配布されていた解説まんが。レトロなイラスト。景清のアフロぶりが光る。

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帰りに寄り道した秋芳洞。大雨の影響で水量が多かったようだ。

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秋吉台小林旭が出ている日活映画のような草っ原と青空がひたすら広がっている。展望台には団体観光客などで人がいるんだけど、自然の中を散策できる遊歩道には人が全然いなかった。秋吉台といえば映画『悪の紋章』で山崎努が潜んでいた場所として有名(?)だが、異様に見通しが良い場所ながらとにかく広大で全然人がいないので、確かに潜めるといえば潜める。と思った。でも、てっぺんには公営のオシャレなカフェがあってびっくりした。

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*1:なんと三輪さんも出迎えてくださった。筆頭の太夫さんが自ら出迎えとは本当に驚いた。ちなみに実行委員らしい方は帰りも見送りしてくださった

文楽 6月東京・文楽若手会(文楽既成者研修発表会)『万才』『絵本太功記』夕顔棚の段・尼ヶ崎の段『傾城恋飛脚』新口村の段 国立劇場小劇場

今年の若手会、長くない!? みんなにちゃんと役を回すため!? ならいいよっ!!

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万才。

こういう舞踊ものって人形遣いはかなり力量が出てしまうと思うが……、玉彦さん、あの若さでかなり落ち着いて太夫を演じておられて、貫禄を感じた。

 

 

 

絵本太功記、夕顔棚〜尼ヶ崎。

今回、いちばんびっくりしたのは玉翔さん。昨年は『菅原伝授手習鑑』車曳の段に松王丸で出演されていたが、本当に一生懸命頑張っていらっしゃったけれど、ご本人の表情に役の大きさへの不安がにじみ出てしまっていて、心配になった。しかし今年の『絵本太功記』十次郎は、見違えるような輝かしさ。若手らしい確信と自信に満ちた表情で演じられていて、本当によかった。尼ヶ崎冒頭の「残る莟の花一つ、水上げかねし風情にて……」ではまさにしおれた花のつぼみのような美しさ(男装の美少女風で良かったです)、「猪首に着なす鍬形の、あたりまばゆき出立は……」で鎧姿になってからはスッと伸びきった肢体のしなやかな美しさ(止めの姿勢が非常に綺麗)、「親人の指図に任せ手勢すぐって三千余騎……」と語る物語では傷ついた美貌の貴公子をフェティッシュに表現して、存分に夭折の若武者ぶりを発揮されていた。いままでご自分の中で思われていた「こう演じたい!」というのが今年は現実に形になって達成されたんでしょうね。そしてもうひとつびっくりだったのは、2Daysあった若手会、両日とも行ったんですが(脱獄広島殺人囚)、1日目より2日目のほうが確実に良かった。どなたかがご指導されたのか、ご自分で気付かれたのか、いずれにせよ即反映されるというのは誠に立派なことだと思う。正直、ここまでできる人とは思っていませんでした。

光秀役の玉勢さんも良かった。いままではどうしても人形が華奢に映ってしまっていたけど、今回はなんとも堂々とした光秀。元々お持ちだった凛々しく美しい印象は残したままで、ピンとしたメリハリある演技によって大きな人形が映えていた。ちょっと前のめりなのもいいね。大阪鑑賞教室で拝見した十次郎よりも光秀のほうが良いんではと思った。安心した。

勝手に感情移入するのも失礼だけど、このお二人は普段なかなか役に恵まれず大変な思いをなさっていると思う。本公演でもこれくらいいい役をつけて差し上げて欲しい。

われらが清純派アイドル・紋臣さんはさつきだったが、なんかこう、技量が役柄に及んでいるため、普通……。紋臣さんて、なんで若手会に出てるんだろう。演技を拝見できるのは嬉しいけど、不思議。みんなわかってることだろうけど、あきらかに中堅以上の技芸を持つ方だと思う。

 

床だと、尼ヶ崎の奥を語られた靖さん、出だしはちょっと無理されてるのかなという不思議な感じで、いつもの靖さんと違う?と思ったんだけど、途中でわかった。全体を見て、物語の流れを語っていたんですね。さつきや操のくっきりした述懐は大変良かったし、儚さを覗かせた十次郎の物語の雰囲気など、計算していないとできないと思う。若手の太夫さんってどうしてもその場その場で精一杯な声の出し方になって全体のメリハリがなくなっちゃうけど(中堅以上にもそういう方いらっしゃいますが)、いますぐは思った通りに語れなくても、そういう広い視野を持って語ってくれる人がいるのは頼もしいなと思った。尼ヶ崎のような義太夫節らしい曲に合う方法を探っていらしたのかな。靖さんも1日目より2日目のほうが断然良かった。相方の三味線はカンタローだったが、カンタロー、いつもと音が違う気がした。小さくキーンとした高音の反響が入っている気がする。いい配役だから、三味線を変えたのかなと思ったけど、それともご本人の変化なのかな。 もしくは私の幻聴。

それと尼ヶ崎・前の希さん。初菊の語りに悔しさ、無念さが滲んでいて興味深かった。初菊は「運命のままに流される美少女」というキャラクターのうつわとして演じられているのしか聞いたことがなかったので……。初菊の人間味や人格を感じた。玉誉さんのしとやかげな人形とも合っていた。

 

あと、さつきの家の軒先に下がっている夕顔の実がなんだか可愛いことになっていて爆笑した。なんかちっちゃくてころんとした実になっていた。新人光秀にも切り落とせるレベルの千成瓢箪、でしょうか。おととし観た東京の中堅公演や、今年の大阪の鑑賞教室とは実が落ちる仕掛けが違っていたようで、脇差で物理的になぎ払って落とすのではなく、光秀が棚を撫で斬るタイミングで介錯の人がひもを引くと落下する仕掛けがされているようだった。

 

 

 

新口村。

口の太夫&三味線が業界最ヤングなピチピチボーイズ、碩太夫さん&燕二郎さんでびびった。普段見ているおっちゃんじいちゃんたちの3分の1くらいしか生きてねえ……。うしろの席の男性など、盆が回った瞬間「す、すごい……」と声が出てしまっていた。でも全然 “お年を感じさせない” 演奏に、お師匠様方のお仕込みのよさを感じた。おふたりともとても丁寧に演奏しておられたのがよかった。ここって、本公演だと御簾内でやるところを、若手会だから床でやらしてもらってるってことですよね。おふたりが将来この奥を演奏されるのを楽しみにしています。そのころまで元気に生きていられるよう、1週間あたり150分以上の運動習慣をつけますわ……。

打って変わって人形のメインキャストは、忠兵衛=紋吉さん、梅川=紋秀さん、孫右衛門=文哉さんのセミ中堅で、普通に普通というか、完全に落ち着いていた。3人とも、いい……。ほんとに連れ添う仲、ずっと会っていなかった親子の仲って感じ……。なんか、ふだんの公演の、こういう配役の回、みたいな……。おっ、梅川の左遣い、うまいですね〜っ。指先の仕草に世話女房らしいしっとりした表情がありますわ〜っ。とか、まったく普通の公演を見るのと同じ感覚で観てしまった……。でも、新口村の村人のみなさんは、村人たち自体はジジババなのに人形遣いはピチピチボーイズ(業界比)で「ヒエエエエエエ」となった。村人たちの素直さ、素朴さが出ていてよかった。

いずれにせよ新口村、一番落ち着いてなくて「おこちゃま」なのは観客席の我々だった。孫右衛門が襖の向こうの忠兵衛を責めさいなみ、忠兵衛が出てきてしまうところで笑う方がよくいてはりますけど、鑑賞態度として「おこちゃま」だと思う。他人に感じ方を指図することはできないけれど、「大人」のすることじゃない。でも今回はそこですぐに拍手したお客さんがいて、笑っちゃう人も決して悪気があるわけじゃないから、ここはそういう場面じゃないってすぐ気がついて、笑いがおさまって、良かった。すかさず拍手した人、大人のセンスがあると思う。あそこで笑いが起こるのがやだなーってときの、参考になった。でも上演中に喋る奴は錣引きに処してたべ拝むわいのと手を合わせ伏し拝みます。

 

 

 

 

若手会って、文楽公演の中でいちばん純粋だと思う。出演者の方々の前向きな、もっと言えば前のめりな気持ちが舞台に輝きを添える。

出演者の方どなたもがひたむきに頑張っていらして、心を打たれる。その頑張っているというのが、たんにがむしゃらとか力任せにするというのではなく、きちんとご自分の中にビジョンや目標を持たれて、どなたも「こう演じたい!」「こう語りたい!」「こう弾きたい!」という意思をもって一生懸命に形にしようとしておられるのがとてもよく伝わってきた。それが上手くいく方、いかない方、あるいは何をどうがんばっていいかわからなくてもどかしそうにしていたり、こなすべきことに一生懸命だったり、本公演ではとてもありえない役のそのうれしさやよろこびに溢れていたり、気張りすぎてわざとらしくなっちゃってたり、2Daysの両日で芸にムラが出ちゃってたり……、ほかにもほかにもいろんな方がいたけど、もう、その頑張りに大感動だよ……(親戚のオバチャン)。そういうデコボコがあっても、なんか、いいな、と思えるのが若手会の楽しさ、醍醐味だなと思う。*1

文楽業界は、かなり歳がいくまで良い役がもらえないし、歳いっても必ずしも良い役がもらえるわけではない大変な世界だろうけど、40代の人でもあそこまで素直に頑張って、かつ短期間で個々人に劇的な向上があるというのはすごい。報われないかもしれないのに、あそこまでのひたむきさ、懸命さは一般の社会ではありえない。相当の強固な意志と、純粋な精神が必要だと思う。派手な業種でもないから、いくら古典芸能、芸術の世界だと言っても世間の人みんながみんな理解してくれるわけでもなく、都合よくオモチャやスケープゴートにされたりして、大変な思いをされていると思うけど……、できるだけ、応援していきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

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*1:というか、本公演の中堅以上は上手い下手が残酷に出てしまうから、ここまでピュアに見られない……。

文楽 6月大阪文楽鑑賞教室公演『二人三番叟』『絵本太功記』国立文楽劇場

夕顔棚の段の冒頭、舞台上手の袖にそそっと集って楽しげに「ナンミョーホーレーンゲーキョー」を唱えるお若い太夫さん方がかわいい。寺子屋の子どもたちみたいだった。

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今年の大阪鑑賞教室公演は、幹部は抑えどころの脇役に回り中堅が主演格にというチャレンジ配役。玉男さんが光秀の回は絶対あると思っていたので予想外だったが、そのぶん野生のプリンス玉志さんが光秀に配役されていた。2年前の東京5月公演で玉志さんが光秀を演じた『絵本太功記』は深く心に残っていて、もう一度観たいと思っていた配役。というわけで、今年は玉志さんが光秀に配役されている前期日程に行ってきた。

 

 

 

まずは『二人三番叟』。

二人三番叟の二人ってデキてる組とデキでない組が確実にありますよね。今回だけの話ではなく、人形遣いさん同士自体の相性と言うべきか、この人らお互いに全然興味ないんだろうな〜という組、やってる人らからしたら笑い事じゃないと思うが、なんとも言えないお仕事感が出ていて笑える(失礼)。かと思えばきゃっきゃとじゃれ合ってやっている人たちもいるのでおかしい。踊り自体もじっと見ているとなかなか面白くて、二人の三番叟は同じ振り付けで踊ってはいるけど、首の動かし方や背の伸ばし方など、それぞれ個性が違う。上手にいる孔明のほうが上品な雰囲気。下手にいるギャグ顔のほうは元気で陽気なのかな。人形遣いさん自身の個性が結構出る気がする。また、人形遣いさんにも端正に舞を披露する前半が上手い人がいれば、後半の鈴を持って激しく踊る段のほうが上手い人もいて面白い。ベタに思えてよく見ると味のある演目だと思う。

それと、床は午前・午後とも良かった。以前はこういうアミューズ的演目は引くほどヤバいときが多かった気がするが、最近は良くなっていて嬉しい。

 

 

 

文楽へようこそ。

いつも同じ解説と思いきや、午前の部の希さんは先日の『彦山権現誓助剣』でご自身が語っていた瓢箪棚の段の田舎博打の部分の語り分けを取り入れて解説していた。これは良かった。文楽の語りって聞き分けにある程度リテラシーがいるし、ぶっちゃけ語り分けが微妙すぎてわかんない人もいるんで、これくらい割り切ってやってくれたほうが解説の意図を取りやすい。午後の部・靖さんは演目解説の新兵器レーザーポインタの光量が低く、明るいスクリーンに照射してもあんまよくわからないのが微妙に悲しげだった。しかしあの演目解説、一応ネタバレに配慮しているのが微笑ましいよね。「さて、どうなってしまうのでしょうか〜(靖さんの定番棒読みお茶濁し)」とか言ってますけど、文楽の場合その伏せてるネタっていうのが親殺し、子殺し、切腹ですからね。

人形解説で面白いのは、玉誉さん(午後の部)はNHKの手慣れたアナウンサー風になのに、玉翔さん(午前の部)がやると途端に料理番組になるところ。茶碗蒸しとかカニ玉とか作り始めそう。玉翔さんはなんだか嬉しそうで良かった。レクチャーをしている玉翔さんの好きなところはもうひとつあるんだけど、ご注進されてしまって玉翔さんがそうでなくしてしまったら悲しいので秘密にしておく。でも同じところが好きな人は多い……と思う。

 

 

 

本編、『絵本太功記』夕顔棚の段〜尼ヶ崎の段。ここからは午前の部、午後の部に分けて書こうと思う。

 

先に観た午後の部。これは玉志さん・玉男さん・千歳さん&富助さん出演の本命配役回。光秀=玉志さん、久吉=玉男さんというのはいまの文楽から出せるある意味で最高の人形配役だろうと思う。

私は玉志さんは堅実に端正にやると思っていた。先日、赤坂文楽で玉男さんが光秀役で尼ヶ崎のダイジェストを演じていたが、そこから大きく違わないだろうと思っていた。おふたりは芸風が違うが、根底は同じで、かつ玉志さんはお師匠様に寄せてくると思ったから。先日国立劇場の視聴室で初代玉男師匠の光秀の映像を2本観たので(予習したんです、えらいでしょ!?)、その射程範囲に来る=キッチリ決めてくると思っていた。だが玉志さんの光秀は全然違った。出の気迫にびっくり。かなり前のめりの、勢いがある光秀だった。玉志さんがここまで突き抜けてくるとは驚いた。今日の玉志さんいつもと違う。なんだかちょっとギラついてる。全然落ち着いてない光秀。しかし彼は不義者と後ろ指をさされ親に逆賊と罵られる結果を予想してなお主君を討ち久吉を亡き者にしようとする異様に強固な意志を持っている人物である。これくらいの勢いがあってもおかしくない。玉志さんは普段はかなり綺麗目の遣い方をされる方だと思うが、そこをやや破調させてもなおやっているのだからよほど考えて意識的に演じておられるのだと思う。しかし元々が端正だし、凛々しさや瑞々しさ、透明感のある煌めきといった元来の持ち味はキープされていたので、なんか覚悟完了具合がすごすぎて葉隠覚悟になっていた。うーん、『覚悟のススメ』を文楽にするなら覚悟クンは玉男様だと思っていたけど玉志さんかもしれない。いや〜、どうしよう〜、迷う〜(すべて妄想)。びっくりしすぎてなんかもう2年前東京で観た玉志さんの光秀がどんなんだったか曖昧になってきた。妙心寺とかがついていたからか、もっと落ち着いていた記憶があるけど、もう、無理……。前のめりになった玉志さんの今後が楽しみです。

そして玉男さんの久吉、これはとても良かった。本作の主人公は武智光秀だけど、尼ヶ崎の最後は「♪威風りんりん凛然たる、真柴が武名仮名書きに、写す絵本の太功記と、末の世まで残しけり」という印象的な節で終わる。歴史に名を残す羽柴秀吉の光輝に隠れた明智光秀の明暗を描くのが話の筋ということでこういう締めになっているんだろうけど、尼ヶ崎だけ聴くと「明智一家の話でこれだけ騒いでおいて!?」と唐突で不思議な印象を受ける。しかし今回、玉男さんの久吉を見て、このクライマックスがすごく腑に落ちた。最後に怒涛の勢いで加藤正清と数多の軍卒(当社比)が久吉を迎えにくるけど、確かに立派な家臣たちが迎えに来るに相応しい大きな優美さをそなえていた。文楽だと数多の軍卒は数人しかいないし書割の海に浮かぶ軍船の大艦隊もしょぼいんだけどさ、人形や浄瑠璃がいいとそれ以上のものが見えるよね。さつきや後世の人々の考える「正義」は実際に彼にあるのだ、だからこそ光秀がより引き立つという、威風堂々とした美しい久吉だった。夕顔棚の冒頭、僧侶姿でくるりと回りながら少し軽快に出てくるところもよかったな。そしてやっぱり玉男さんは独特の安心感があると思った。なんかほっとする。

もうひとつ書いておきたいのは、十次郎を代役で勤められた玉勢さん。胸を打たれるほど頑張っておられた。直前の二人三番叟にもギャグ顔の三番叟役でご出演されていて、体力的に本当に大変だと思う。後期ではもとから十次郎に配役されているとはいえ、正直不安の中やっていらっしゃる部分もあるんじゃないだろうか。前半の裃姿の物憂げな十次郎が本当に物憂げだった。しかし三番叟の踊りもそうだったけど、動きのある部分はとても良い。三番叟なら鈴の段、尼ヶ崎だと後半の物語の部分。物語は着付の胸元に汗がぼたぼた落ちるほどに頑張っておられて、その熱演によって華麗な古典軍記物の世界が舞台上に出現していた。語りと人形の身振り手振りだけであそこまで戦場の様子が手に取るように見えるのはすごいことだと思う。もともと持っておられる瑞々しさが若武者ぶりを輝かせる方向に発露して、玉志さんの勢いのある光秀とも合っていた。なんかこう……青春映画の陸上部の真面目なキャプテンって感じ。簑紫郎さんの初菊が同じく青春映画のアイドル風だったので似合っていた。お二人とも率直に言えば荒削りなんだけど、役柄ともご本人の性質ともいえないピュアな雰囲気が十次郎と初菊の純粋な恋を盛り上げて、とても良かった。

そして素晴らしかったのは尼ヶ崎の奥を勤められた千歳さん&富助さん。午後の部は公演2日目・3日目の2回観たのだが、3日目、本当に素晴らしかった!!! 2日目は千歳さんがかなり走っているように感じられて、操の1回目のクドキなどめちゃくちゃ速くてすごいことになっていたけど(操役の一輔さんも異様に素早かった)、何があったのか、3日目はたっぷり聞かせる感じになっていた。富助さんが手綱を引っ張ってドウドウしてあげてるんでしょうか。それにつけても本公演でここまでやったら最終日まで体力持たなさそうな熱演。近くの席の初めて文楽に来たらしい若い娘さんたちも「かっこよかった〜!」「迫力あったね〜!」と大変喜んでおられた。今回の公演チラシのキャッチコピーは「これぞ、名作!」だが、そのコピーに恥じない「これぞ、文楽!」という最高の語りだった。

 

 

 

 

午前の部はさつき=和生さん、操=清十郎さん、初菊=紋臣さん、そして尼ヶ崎の奥・津駒さん。

津駒さんにまじびっくりした。私、津駒さんて、もうちょっと艶やかだったり、しっとりしていたり、華やかだったりする段のほうが声的に似合うと思っていて、尼ヶ崎は千歳さんのほうが圧倒的有利かなと実は思っていた。しかし、津駒さんの尼ヶ崎、本当に、ものすご〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜く良かった!!!! 期待をはるかに上回る素晴らしいパフォーマンス。津駒さんてこういういかにも文楽という雄渾な時代物も超似合うのねと発見。女性の語りの部分すべて素晴らしい。不幸を予見しつつも夫の意思を尊重して見守っていた操がついに感情を溢れさせるその嘆きと諌め、苦しみの中息子を可愛いと思ってもなお意思を貫くさつきの強さ。特にさつきがとても良くて、尼ヶ崎への理解が深まったように感じた。光秀だけではなく、すべての登場人物のお互いを思い合う苦悩が滲み出る、武智の一族の必然的悲劇が表現された語りに感動した。そして光秀が落涙する部分、「雨と涙の汐境、波立ち騒ぐごとくなり」ってやたら大げさな表現だけれど、それが嘘にならない、時代浄瑠璃独特の壮大で勇壮な世界が立ち上がっていた。男性の語りを千歳さんとは違うベクトルから攻めてる。感情を発露させる女性の語り部分がきめ細かく詰められている分、光秀の意志の強固さとそのわずかなほころびが際立ち、物語世界が立体的に感じた。津駒さんてお声の良さのせいか時々合唱のところに配役されるけど、今後は絶対にピンで切の部分を、と思った。大器の人とわかってはいたけど、いますぐここまで到達するとは思っていなかった。本当にお見逸れいたしました。

人形は紋臣さんの初菊が大変可憐で愛らしく、人形らしい限りない純粋性を見せていた。以前にも書いたことがあるが、女方人形遣いさんでもその女性造形が「現実の女性にはありえない人形独特の神秘性」方向の人と、「生身の女性を感じさせるリアリスティックな陰影」方向の人がいると思うが、紋臣さんは前者寄りの人なのね。人形でしか表現できない透明性、まさに深窓の姫って感じのあどけなくピュアな可愛さ。少しうつむき加減に目を伏せた姿や、手を袖の中に入れた姫らしい三角ポーズでじ〜っとしている姿などとても良かった。ごくわずかな仕草でも細かいところまで気配りされていて、初菊が演技をしていないときに見てもぬかりなく可愛かった。今後の本公演でもこれくらいの役を配役されるべき芸を持つ方だと思う。同世代では圧倒的では。

操役の清十郎さんは予想外に情熱的だった。もっと哀れを誘うような悲惨な感じに行くかと思っていたが(清十郎さんをなんだと思っているんだ)、いままで心にとどめていた熱い思いを一気に吐露するようなクドキにびっくりした。4〜5月は道行初音旅の静御前で、いい役なんだけど性質的にドラマの中の登場人物を演じてもらいたい人だなと思っていたのでこの配役はよかった。

そしてこちらの十次郎は清五郎さん。かなり落ち着いた雰囲気で、悲劇の貴公子ぶりがきわ立っていた。所作も丁寧で非常に綺麗。優しい筆致で描かれた幽玄な絵巻物の主人公風であった。

和生さんのさつきは当然の良さ。竹槍で刺された後は苦しんでいるというより、もう、だいぶ死にかけている感じだった。おばーちゃんだから……。あと、和生さん、髪型がすごいキマっていた。最近、和生さんに「日本の母」(スケールでかい)を感じる私です。

あとは玉輝さんの久吉に安心感を得た。

 

 

 

人形演技のメモ

  • 十次郎と初菊の祝言の盃を運んでくるさつき・操→「雨か涙の母親は、白木に土器白髪の婆、長柄の銚子蝶花型」と、浄瑠璃上では操が三方と器、さつきが銚子を持ってくるはずだが、現行の人形の演技は逆。文法合わせでなく語感合わせか? だとすれば義太夫らしい解釈。
  • 光秀の出の場所→過去の映像を確認したところ、初代玉男師匠の場合、竹やぶから出てくる場合と、夕顔棚(家屋)の裏手から出てくるパターンがあったが、今回は玉志さん玉助さんともに竹やぶから。
  • 光秀の出のすぐ後、竹槍を作る場面で切っ先を髪にこすりつける演技→本当にやっていた(そりゃそうだ)。細かい。言われないと気づかない。
  • 操の1度目のクドキの後、「取り付く島もなかりけり」 で光秀が決まるところ→玉志さん玉助さんともにオーソドックスに軍扇を広げるやり方だった。
  • 十次郎「今生のお暇乞い、も一度お顔が見たけれど、もう目が見えぬ。父上、母様、初菊殿」→光秀は呼ばれると軍扇で膝を二度打って返事をする。十次郎の上手に操、下手に初菊が座っているが、十次郎は逆に思っていて、「初菊殿」で上手の操にすがりつき、髪を触って違うと気づき、下手の初菊のほうへ向き直って髪を触り、初菊だとわかって抱きしめる。髪自体の質感で気づいたのか、それとも髪型で気づいたのかは人形の演技では判別できず。
  • 「さすが勇気の光秀も、親の慈悲心子故の闇」の「親」は光秀ではなくさつきを表している→確かにその場面、一瞬だけ光秀がさつきのほうを向く。光秀はさつきから目をそらしている場面が多いので印象的。
  • 段切直前、光秀と久吉が同じ振りになる場面→玉志さんと玉男さんだと演技が揃って舞台映えしていて、とても良かった。昨年春の『菅原』でもお二人の梅王丸松王丸の兄弟役でのペアになる演技がとてもよかったが、兄弟弟子だと持っておられる基礎部分が同じだからか揃って見えるのかしらん。

光秀の演技に関しては、先日の赤坂文楽記事での玉男さんの談話もご参照のこと。松の物見などの解説もあり。

 

 

今回の鑑賞教室公演では文楽の今後の公演が楽しみになる本当にすばらしい舞台を見せてもらった。人形、太夫、三味線、すべてのパートに超大満足。ある意味、本公演を超えるものを観て聴いたと思う。本公演だとみんながみんなここまで全力で来ないしね。そして、千歳さんと津駒さんが切場語りになる日が本当に心から楽しみ。その日はもうすぐ来ると思う。

個別に書かなかった方々もみなさん個性を発揮されていて、とても良かった。やっぱり文楽って出演者の方々の個性を見るのが楽しい。鑑賞教室は見比べが出来るのが醍醐味ですね。

 

 

 

展示室では新作映像が流れていた。去年11月上演の『心中宵庚申』 を素材に文楽を紹介する「文楽の楽しみ」というタイトルの20分くらいのもの。文楽の基礎知識をダイジェストで紐解いていく中で、技芸員からは太夫・千歳さん、三味線・ 富助さん、人形・勘十郎さんが簡単な各パートの解説や稽古・準備の仕方を話していた。観光客向けなのか、ナレーションが若干わざとらしいくらいの大阪弁(というかおっとりした関西弁)なのだが、関西以外の人には通じづらいのではという言い回しも多く、なかなかチャレンジャーだなと思った。乙女のごとき可憐なピンクほっぺの富助さんが最高だった(もはや解説関係ない)。

しかし、鑑賞教室本編でもそうなんだけど、私が文楽の紹介で最初に言ったほうがいいと思うのは、「人形は音曲に合わせて演技している」ということ。これをわかっているかどうかって重要だと思うんですが……。文楽を構成する最重要要素は浄瑠璃で、音曲が根幹になっている芸能だと知らせたほうが良いと思う。歌舞伎の義太夫狂言ともこの点は異なってるし。知らない人は人形に合わせてアフレコ的に音楽がついていると思うのではないでしょうか……。

 

 

 

◾️

六月十日に六月十日の段を観劇。「旧暦ですけどね!」(BYノゾミ)

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文楽劇場の隣のたこ焼き屋のたこ焼き。12個入りからと聞いて「多い!?!?」とびっくりしたが、小粒で食べやすかった。

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