TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 ジャンキー

来賀友志 [原作] + 高田光雄[作画]


┃あらすじ
昭和49年、初秋。桜井章一は、とある料亭で行われた代打ち勝負の場にいた。麻雀は彼のトップに終わるが、勝負の緊張感に彼の体は悲鳴を上げていた。次の日、桜井は懇意の雀荘のマスターからの電話に起こされる。三人連れの熊が現われたというのだ。麻雀をする奴らを動物に例えるなら、3種類に例えられる。まずギャンブルを楽しんでいるだけの狩られる者・うさぎさん。次にうさぎさんを騙して喰っている奴ら、きつねさん。きつねさんは麻雀で生活の殆どを補っている。最後がきつねさんをも喰っている熊。うさぎ1万匹に対しきつねは100匹程度、熊は7、8匹が普通の比率であるが、ここ歌舞伎町には熊が常時5、60匹たむろしている。しかし、熊の上に君臨する者もいるのだ。それが熊の中の熊、グリズリーベア……桜井章一なのである!!




来賀流雀鬼漫画。
モチーフがすでに固まっているものだけに、来賀テイストは薄い。雀鬼漫画としては『shoichi』と同時期の作品だが、裏技の応酬がある大勝負の世界を描くものではなく、簡単に言うと、『shoichi』の会社員さんの話みたいなのが続く感じで、『真説ショーイチ』に近い。
……と、いかにもつまらなさそうな紹介をしてしまったが、雀鬼漫画の中では『shoichi』『牌の音ストーリーズ』についで面白い。一般的な雀鬼もののような語り方は若い読者に嫌われるのをよくわきまえており、同じ話を語るにしてもどう演出していけばよいかが十分検討されているように感じられる。前半はわりと従来の雀鬼漫画に近い、古臭い自慢話なのだが(失礼)、後半はいまの『天牌外伝』のような、ある人々の麻雀にまつわる悲哀を主人公が見守りときに手助けする、しかしその人生や運命を最終的に決めるのは彼等自身でしかない、主人公はあくまできっかけを作るのみ……という構造になる。




モチーフが固まっていることを逆に言うと、従来の来賀作品にはないモチーフが語られるということになる。
例えば、子持ちの女クマ師のエピソードがある。快活な彼女は、夫や仲間とともに関西から上京してきて歌舞伎町で一旗揚げようとしている。ショーちゃんも彼女らの実力を認め仲良くなるが、やがて彼女の夫はヤクザになり、彼女の腕も衰える。数年後、彼女は街娼に身を落としていた。……この話はいまの天牌外伝には絶対ない。
逆に最終話、著名なゴルフの解説者が交通事故で全盲になり、ショーちゃんの手ほどきで麻雀をはじめる話はわりと来賀先生的なロマンチシズムがあるエピソード。解説者はもとよりの才覚もあり、めきめき上達してフリー雀荘で打てるまでになるが、そこで出くわしたドサンピンどもにセットに誘われ、通しやサマを使われて破滅させられる。最後にショーちゃんが助けに来るも、彼がショーちゃんにつぶやいた「麻雀てこんな世界だったんですね」という言葉のやるせなさは重い。


私が好きなのは、昔のジュクの雀荘では数日間にわたる麻雀大会が開催されていたというエピソード。Vシネでも同じ話があって、それだと普通に新宿頂上決戦になるんだけど、「ジャンキー」ではショーちゃんが大会で出会った大会荒らしの青年と仲良くなる話になる。
要約すると、先日「ツモクラテス」でやっていたような、グループ戦の麻雀大会の人間関係の話。青年は明るく純粋で一途な子で、でも、あまりに天真爛漫すぎて人の心の機敏を知らない。青年は、サマを使われ虐められていた子を集め、彼等をいたぶっていたヤツらを見返させようと4人ひと組で参加するグループ戦の麻雀大会に参加することになる。青年は仲間が失敗しても明るく励まし、その分自分が頑張ってポイントを叩きまくって彼のチームは3位に入賞する。彼は祝勝会をしようと仲間に声をかけるのだが、仲間は「勝ったのは僕たちの力じゃないから」と言って3位入賞のカップを彼につっ返してしまう。で、青年は泣いちゃう。こうやって男の子は成長してゆくのよって話なんだが……。そうだよなあ。そうなるよ、普通は。残酷だけど、例え優勝しても、みんなでイエーイ!なんて本当はできっこないのだ*1。来賀先生は竹をマサカリで割ったような話も多いものの、こういう心の柔らかで微妙な部分を描くのがとても巧い。




闘牌はイカサマとヒラが半々くらい。でも、イカサマものって、あまり来賀先生の持ち味と相性がよくない。

少し話がずれるが、去年病的に来賀作品を読みまくった印象から述べると、来賀作品は闘牌の描写に以下のような傾向が感じられる。

  1. オーラスを偏重しない
  2. 高目追求をしない、決め打ちしない(ベストのアガリは常に高目ではない)
  3. 受け、すなわちオリや迂回を含む手牌の変化を見せ場にする(はじめからアガリ形が決まっていることはなく、局の進行によってベストは変化し続ける)
  4. 流れは、外部ではなく内部にある。

簡単に言えば "ハイライトを作らない" ということになるが、これは従来の麻雀漫画一般とは真逆にあたる手法だ。これは天然ではなく、信念に基づいた確信としてやっているのだろう。

で、イカサマであるが、イカサマは一種の必殺技で、その技自体を見せるために局を進めなくてはいけないし、流れだの引きだの関係ないから、上記のような傾向には相性が悪いのだ。『天牌外伝』でもイカサマは牌の扱いの慣れ・上手さを表現する以上の意味では出てこない。この作品でのイカサマを使った闘牌は面白いには面白いのだが、やっぱ来賀先生はイカサマなしのほうが面白い……。




なお、作画の漫画家は従来の雀鬼ものにはないような変わった絵ヅラの人で、ショーちゃんがずいぶんキュルンとした顔に描かれているのが面白い。例えて言うなら、Vシネ雀鬼シリーズ初期のシミケンのリス顔に近い印象。
 

*1:片チンはそういう意味では本当に優しい。