TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 9月東京公演『嬢景清八嶋日記』『艶容女舞衣』国立劇場小劇場

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先月は普通の公演を観なかったため、文楽、なんだか久しぶりに感じる。 

 

 

嬢景清八嶋日記、花菱屋の段。

 
 
 
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あらすじ

駿河国手越宿の遊女屋・花菱屋では、女将〈人形役割=吉田文昇〉が使用人たちにガミガミ異様に細かいことを喚き散らしている。念仏三昧で温厚な性格の亭主〈吉田玉輝〉がそれをなだめるも、女将はより一層大騒ぎ。それを見た亭主は、ますますのんびりして悟りを語りだすのだった。

そんな花菱屋に、店に娘を斡旋する肝煎・左治太夫〈吉田簑二郎〉がやって来る。左治太夫の連れてきた可愛らしい娘・糸滝〈吉田簑紫郎〉を一目で気に入った女将は、保証人さえ確かならすぐにでも300貫を渡すと大騒ぎ。しかし左治太夫は、その請判がないと言う。糸滝は村はずれに暮らしていた老婆の子で、つい20日前にその老婆が亡くなり、身寄りのない娘は左治太夫の手配で代官の許しを得て奉公先を探しているとのことだった。それを聞いた女将は今度は値切ろうとするが、左治太夫は娘の望みさえ叶えば余分な金はいらないと答え、糸滝に身の上を語らせる。

糸滝が言うには、彼女が母だと思っていた老婆は、息を引き取る間際、自分は実は乳母であり、実の父母は別にいることを打ち明けたという。糸滝の実の親は大名で、わけあって糸滝が2歳のときに乳母に預けたが、その印として肌の守りに小さな観世音像をさずけられたとのこと。風の便りに実母はすでび病でこの世を去ったと聞いたが、実父は宮崎の日向で盲目の乞食となり生きながらえているということ。糸滝を父に会わせてやりたく思うも、年老いた乳母にはそれが叶わず、糸滝の今後を思うと心配で成仏できないこと。大名の子として気を強く持って成人し、父のもとを訪ねて会って欲しいと言い残して乳母は亡くなったということだった。

それを聞いた女将は忌々しいとばかりに糸滝を雇うことを拒否するが、亭主はおまえも元々はここの飯炊きで、人の行く末はわからないものではないかと執り成し、糸滝に話の続きを促す。

その後、糸滝は近所の人々の助けを得て乳母の葬いを済ませたが、自分の身の振りように悩んだ。乳母の遺言通り、日向にいる盲目の父を苦しみから救いたいが、どうすればよいかわからず泣き暮らしていたという。ふと座頭らに出会った折に問うたところによると、盲人の位階を得れば一生を安寧に過ごすことができ、それには500貫あればよいとのことだったという。そこで糸滝は奉公先を探したが、町家でそこまで出してくれるところはなく、佐治太夫に頼んで年季次第で大金を出してくれる遊女屋へ身を売ることにしたのだった。日向の父に会って仕官させ、乳母の石塔を建てるぶんの金をもらえれば、10年でも20年でも一生でも奉公すると、糸滝は亭主と女将の前で泣き崩れる。

亭主は彼女の孝行心に目を泣き腫らし、糸滝をいますぐ抱えるという。いくらでも必要なだけの金を用意し、日向へ行く暇を与えて、その間に乳母の石塔も用意いておくと言って、亭主は女将に金をしまった箪笥の鍵を出すように言うが、女将は知らん顔。構わず箪笥の錠前に木枕を打ち付けて外そうとする亭主に女将が取り付き言い合いになるも、亭主は鍵を外し大金をつかんで与え、糸滝へ餞をするよう使用人たちを呼び出す。そして亭主は佐治太夫へ糸滝に付き添って日向へ行くよう頼むのだった。それを引き受けた佐治太夫が糸滝を連れてすぐ出立しようとすると、花菱屋の遊女や下男、飯炊き女たちがたくさんやってきて、糸滝に餞別を渡したり励ましの言葉をかけてくれる。するとさっきまで糸滝にあれだけ邪険にしていた女将が身を翻し、10年の年季を半分にして、5年分を餞別にすると言い出す。こうして糸滝と佐治太夫は亭主や女将、店の人々に見送られ、西の海の果て、日向へと旅立つのだった。

人形黒衣。

花菱屋の長が女房のキセル攻撃を受けてぴょこんとちょっとだけ飛び退くところ、「ぴゃっ」とばかりにほんの少し肩をすくめていたことにびっくりした。人形って肩すくめられるんだ!?と思った。どうやっているのか。女方の人形だと肩の表情がものすごく重要だと思うけど、じいちゃんにもそんな表情があるんだと思った。それと、細身の好々爺感があって良かった。歳をとって筋肉が落ちて体重が軽くなってるけど、人間としての中身はありそう感、難しそうに思う。

最後に出てくる遊君2人、着物や帯がすべて似たようなトーンの柄もので、なんかすごかった。急いで出てきた感があった。パジャマでごみ出しにきた人感覚だった。

 

 

 

日向嶋の段。

日向の国。平家の侍大将・景清〈吉田玉男〉は、枯れ枝を杖にして痩せ衰えた体に襤褸をまとい、地元の人々の情を受けて粗末な庵で無為なる年月を過ごしていた。今日は、彼の崇め奉る重盛公の命日。景清は肌身離さず持っていた重盛公の位牌を前に、重盛の偉大さと平家の栄華、そして翻って己一人生き残り重盛の位牌に香華も満足に供えられない現在の無念さを語り、嘆き伏していた。

そうしているところへ、海岸に船がついた音が聞こえる。景清は急いで位牌をしまい庵へ姿を隠そうとするが、佐治太夫と糸滝〈吉田簑助〉に見つかってしまう。佐治太夫と糸滝は、このあたりに景清がいるなら教えて欲しいと当の景清に頼む。景清はぎょっとして自分も盲目なので見知らないと答えるも、その姿を見た糸滝は彼こそが父であると気づき、自分は生き別れた娘の糸滝であると名乗ってすがりつく。しかし景清は、自らは景清ではなく父ではないと彼女を拒絶し、景清は昨年餓え死にしたと告げて庵に姿を消す。それを聞いた糸滝は嘆き伏し、佐治太夫はそれを励まして最期の跡を尋ねてみようと肩を貸す。

ふたりがしばらく歩いていくと、柴を背負った野良仕事姿の里人〈吉田玉佳、吉田勘市〉がその先から歩いてくる。佐治太夫は二人を呼び止め、景清のかつての住処を尋ねるが、里人は笑ってその手前の庵にいた盲目の乞食がその景清であると答える。驚く糸滝らに、里人はかわりに景清を呼び出して引き合わせてやろうと、庵に声をかける。姿を見せた景清は立腹の言葉をつぶやくが、糸滝にすがりつかれ、情にひかされてついに彼女を引き寄せて撫でさする。景清は娘の姿を一目見んと盲いた瞼を引き上げるが、みずからえぐり取った目に彼女の姿がうつることはなく、ただ嘆くばかりだった。景清は糸滝がここまで来たことを褒め、どういう暮らしをしているのかと尋ねる。しかし糸滝はわっと泣きだしてしまい、そのあとの話は佐治太夫が引き取ることに。

いわく、糸滝は公家高家どこにでも嫁げる身ながら源氏の世では憚られることも多く、相模の国の大百姓へ嫁することになった。義理の両親はとてもよい人で、糸滝が実父を気にしていることを知ると、官位を得て安寧に暮らせるようにしてやろうとするばかりか、糸滝に金をもたせて日向まで自分で持っていけるようはからってくれた。

佐治太夫はそう言って財布を文箱とを景清に渡そうとするが、それをはねのけた景清は声を荒らげ、武家の娘を土百姓の女房にさせるとはどういうことか、この金で仕官せよとは親にまで名を汚させる気かと怒りをあらわにする。庵から「あざ丸」を持ち出して糸滝に投げつけた景清は、斬られないうちに早く帰れと二人を追い立てる。しかし佐治太夫と里人は景清の目に涙が浮かんでいるのを見て、彼の本心を察する。佐治太夫は里人にそっと金と文箱を預け、悲しむ糸滝の手を引いて船に乗ろうとする。それでも父の顔をもう一目見たいと嘆き岸にとどまろうとする糸滝に景清も心が弱るが、佐治太夫が糸滝を船に抱き乗せ、船は日向を離れていく。どんどん離れていく船の姿に、景清は、いま叱ったのはすべて偽りで、夫婦仲良く長生きせよと叫ぶ。あざ丸を父と思い回向し、冥途で再会しようと泣き叫ぶ景清。糸滝を乗せた船ははるか遠く、沖へと消えていくのだった。

里人は景清のそばに寄り、子に勝る宝はないと励まして、糸滝の残していった財布と文箱を渡す。景清は父を気遣って金を置いていった娘の賢さを察し、文箱に入れられた文を読んでくれるよう里人に頼む。ところが里人が封を切ると、手紙には書き置きの事とあり、父を安寧に暮らさせる金を作るため、身を売って遊女になることが書かれていた。景清は驚き、その子は売るな、船を戻せと大声で叫んで暴れる。もう帆影は見えないという里人に、景清は、清盛の悪行ゆえ平家は滅び、死ぬべきときに死なず、仁義正しい頼朝に敵せんと生き長らえた我が身を呪う。その愚かさ、悪の因果が娘に巡って身を売らせ、孝行心からのはずの不孝な金で老い先短い身が生きながらえることのやりきれなさに慟哭する景清。それを見た里人は、そこまで善悪を見極められるのなら頼朝に帰服するようにと景清に告げる。そうすれば娘も遊女にならずに済み頼朝も喜ぶ、良禽は木を選んで住み、忠臣は主を選ぶものだという言葉に、景清はおことらは何者かと問う。すると衣服を武士の姿に改めた里人二人は、頼朝の家臣・天野四郎と土屋軍内であることを明かし、隠し目付として景清を見守り、時節を見て鎌倉へ召し抱かえる役目を帯びていたことを告げる。頼朝からの書状を受け取った景清は頼朝の慧眼に敬服しきり、反逆の心も弱る。天野四郎は景清が帰服したとして上洛のための大船を召し寄せ、頼朝の家臣二人と景清を乗せた大船は笹竜胆の紋の帆を張って出航する。

景清は船上で盃を受けると、いままで大事に持っていた重盛の位牌をそっと海へと流す。こうして船は日向を離れ、大海を進んでいくのだった。

ここから人形出遣い。

内容を調べずに観に行ったので、話に感動して泣いた(江戸時代に初演を観た人状態)。

景清の、さまざまな無念さや悔しさが絡み合って、胸に迫る。重盛の位牌に満足な供えものもできないことと、娘の顔が見られないのがあまりにも可哀想。自分で言っている通り平家の滅亡は理の当然、頼朝の姿を見たくないとして両目を抉ったのも自分で決めただから仕方ないし、そういう内面をもっているからこその人なのだが、とても悲しい気分になった。

今回、日向嶋の太夫は千歳さんで、いちばん最初に糸滝が景清に話しかけるときの喋り方や声の調子をすごく小さい子のように語っていて、はじめはなぜなのかわからなかったけど、観ていくうち、景清の視点に寄せているのかなと思った。もちろん、浄瑠璃そのものは一応第三者視点だけど、景清からしたら糸滝はあくまで子どもだという意味で。世捨て人として暮らしていて、聴覚だけで周囲の人とコミュニケーションをとっている景清にとって、突然出現した「娘」がオトナな喋り方しているよりも、景清の感じ方やその演出としてわかる部分がある。実際にはどういう意図なのかな。後半はわりと普通の14、5の娘さん風の喋り方になるので、さすがにわざとやっていると思う。簑助さんが相当幼く寄せてるのもあるかもしれない(人形は逆に花菱屋は歳いきすぎだと思った。人形の遣い方に年齢の区別がつけられてないんだと思うけど)。

この段でなにより良いなと思ったのは、玉男さんの景清。
杖を頼りに粗末な庵から出てきてから重盛の位牌に無念を語る部分まで、かなりの長い時間、景清一人での演技になる。この景清の、平家源氏ひいてはこの世全てに対する心底の無念さからの緊迫感に、客席が張り詰めていた。景清は、骸骨に布を貼ったように眼窩と頰がこけたかしらと骨が浮いた手足をしていて、世の中の底辺で衰え痩せさらばえた姿。しかし、その姿かたちとは全く違う次元で、異様に線が太い。すさまじい精神の太さと力強さ、気高さを感じる。人形そのものの姿とは違う次元で複合的にイメージが立ち上がってくるのは、文楽ならではだと思う。現在を認めず辺鄙なところで隠遁しているからより一層過去に執着して、妄執入った侍大将としての精神性が突出してイメージとして舞台に立ち現れているというか……。なんかこうおそろしく強そうなんですけど、景清ってどんな人なんでしょうか。どんな人なんでしょうかと言われても、この通りの人だとは思うんですが、体長5mのヒグマでもちぎり殺しそうなんで*1
最後に糸滝が身を売ったことを知り、船やるなと大声をあげて地面を転げまわり、伸び上がって暴れるさまの荒々しさには驚かされる。千歳さんはわりと最初のほうから潮に灼かれた松の幹のような荒々しさを描写しているのだが、玉男さんはもうちょっと肌理が細かくて、ここまではあくまで品を前面に立て、それなりの地位のある武人として描いているため、突然私情がむき出しになるこの場面は劇的に映えていた。

演技そのものとは関係ないけど、どきっとしたこと。初日に観たとき、冒頭で重盛の位牌を前に泣き伏した景清の人形越しに玉男さんの大粒の汗がぼたぼたと落ちるのが見えて、本当に人形が泣いているように見え、驚いた。ほかの人も、何がキラキラしているのかと驚いておられた。

↓ この玉男様ムービー、最高じゃない??? すごく一生懸命お話しなさっているのと(景清の動きをあらわすところは必見)、前髪がおピヨり遊ばしているのが本当に良い。


国立劇場9月文楽公演 第二部『嬢景清八嶋日記』吉田玉男インタビュー

糸滝の簑助さんはとても愛らしかった。
かなり幼く寄せている印象で、守ってあげたくなるような、小鳥ちゃんのような娘さんだった。とにかく、突然可愛い。景清を慕って、すごく低い位置から一生懸命仰向いてすがりつきにいくのが本当愛らしい。ひざにちょこんとしがみつく仕草にキュン。顔が全然見えなくなるくらいに父の袖の中に頭をうずめるのも、ちょっと動物めいた感じで可愛い。景清から離れているときは不安なのか、緑の着物の袖をずっと手に巻きつけて、そわそわといじったり、ぎゅっと強く握っているさまがまた愛らしかった。
ただ、簑助さんは船の乗り降りがすこし大儀そうで、それだけが心配だった。

 

時代物の大曲というと行動が極端すぎる狂った人々が山盛り出てくることが多いと思うけど、『嬢景清八嶋日記』は登場人物がみんないい人という設計が良かった。景清が最後に娘を思う気持ちに素直になるのが文楽としてはちょっとイレギュラー。

浄瑠璃の文章では、世の中は源氏の治世になって天下太平だからか、景清以外の人はわりと普通の喋りかたをするところ、景清だけは異様に大時代的な喋りかたをするのがおもしろかった。ほかの登場人物はパンピーらしい世話物風の口調なのに、景清は冒頭の謡と同様の喋り方というか……。『赤穂城断絶』の萬屋錦之介状態だった。途中までは、たとえ娘を抱きしめていても(←玉男さん、相当激しく糸滝を抱きしめていた。簑助さんも相当ガッと抱きついていた)、やたらと難しい言葉を並べ立てて心とは真逆のことを言い続けるも、最後、糸滝が身を売ったことを知るとわりと普通の喋り方になるのがよかった。そのあたりになると、武士の正体をあらわした里人もムズカシイ言葉遣いになるのも面白い。

景清自体からは話外れるけど、玉男さんて、引き算で演技してるんじゃないかというイメージがある。芯になにかを肉付けしていってかたちを作る塑像じゃなく、彫像的。MAXの自分から何をどう削り取っていけば理想像ができるのかを考えてるんじゃないかな。少なくとも一つ言えるのは、取り繕いはしないこと。彫像は削ったら後戻りできない。こうすると自分で決めるまでは、削らない。塑像的に造形していく人も、その変化や豊かさが面白いんだけど、彫像的だと納得するまでできん的なものがあって、玉男さんにはそのへんの異様な意思の強さを感じる。初役のときなど、初日近くに見にいくと、人形が迷っているように見えるときがあるのは、そういうことなんじゃないかなあと思っている。とりあえずみたいなことができない人なんだろうなと思う。

 

↓ ハンドメイド位牌。角が自然にまるまった古び具合に、景清の無念の日々の長さというか、文楽の歴史を感じます。しかし重盛、本名? 重盛ってたしか死ぬ前に出家してなかったっけ(平家物語の話)。景清もなんか戒名みたいなのブツブツつぶやいてたよね?? 

 

 

 

 

艶容女舞衣、酒屋の段。

 
 
 
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奥の津駒さん・藤蔵さんが圧倒的。そこまでは普通なんだけど、このお二人に交代したお園のクドキのところから世界が劇的に変わる。突然、あのただの書き割りにすぎない商家に奥行きができて、場内の空気の濃度がぐっと上がる。行灯にやわらかいあかりがともって、部屋のすみには影ができる。わずかにゆらぐ灯に照らされて、お園はしっとりとした白く細い指を行灯にかけ、ただひとり、宙空を見つめる。その瞳には、オレンジがかった光がうつっている。

津駒さん、もう自分以外の人のことを気にする必要がなくなって、本来のご自分のやりたいことをやってるんだろうなーと思った。津駒さんの持っている華やかさや仄暗さ、金襴のようなある意味では下品すれすれの質感に藤蔵さんの三味線がすごく合ってる。これくらい盛ってもらわなきゃ津駒さんはおさまりつかんし、これをここまでてらいなくいけるのは藤蔵さんだけだろう。お園のような異形の崇高さをもった女はこれでなくちゃ表現できない。しかしながら品格はキープしている。本当にすごい。今月、第二部は何回分かチケットを取ったんだけど、それだけ取っててよかったと思わされた。私はふだんは人形しか見ていないけれど、今月の酒屋は床をじっと見てしまうな。

加えてよかったのは、人形のお園の配役が清十郎さんなことだな。この、お園のある意味での異形の美しさが現われた床に対し、清十郎さん持ち前の清楚さがいかんなく発揮された結果、ミラクル調和をおこし、ものすごく良い意味で正しいところに落ちていた。お園は言ってることだいぶ狂ってるんだけど、狂ってるように見えない。かといってただ貞淑なだけのつまらない女にも見えない。ほどよく観客に「なんでこの娘さんはそのしょうもない夫を待ってるの……?」と思わせる頃合いになっていた。型をゆったり見せていくところは清らかで愛らしい雰囲気。いままでお園は勘十郎さん、和生さんのお二人で見たことがあるが、ある意味、清十郎さんがいちばん浄瑠璃自体のイメージに近いのかもしれない。いちばん雰囲気が正統に娘寄りだからなのかな。クドキでゆったりとした動きを見せていくところは、柔らかい雰囲気がとてもよかった。ただ、清十郎よ、日によってムラがあるなって感じだった。仕方ないが、そこはもう頑張ってもらうしかない。
ところで、今回のお園さんの着物、花の模様の並び方が規則的すぎて怖くない? 普段うろうろしてるお園さん(鑑賞教室に出現する人)はもっとランダムだよね。あのびっしりと規則的に並んだ模様、じっと見てたらなんか清十郎の執着心に思えてきて怖くなってきた。怖いといえば今回の上演資料集、『艶容女舞衣』の上演年表ページが180ページくらいあって、かなり怖いよね。新義座とかの情報も載っていて、お園さん並みのやばい執念を感じた。

酒屋にわらわらしている人々もよかった。そりゃ宗岸は玉也さん、半兵衛は玉志サンだなと思った。適役。ひょいひょいしているように見えて世の酸いも甘いもかみ分けた好々爺と、ぴんと背を伸ばして真面目一徹に生きてきた頑固ジジイ。逆はありえない。二人の爺さんのそれぞれのキャラに配役がマッチしていた。『巨人の星』が文楽化したら、星一徹、玉志さんになっちゃう。と思った。
玉志サン半兵衛は藤太夫さんの死にそうな咳にディレイなしで咳き込んでたけど、どうなってるんでしょうか。咳き込みはじめが揃わなくて、あとあと揃ってくるならわかるんだけど、咳き込みはじめは揃っていて、あとあとばらけはじめるのが怪奇。あとは半七ママ役の簑一郎さんの、一本気で我が強い夫に長年連れ添ってきたちゃんとした奥さん感がよかった。普通の婆のかしらだけど、年で痩せぎすになったような感じがなく、丸めた背中とふんわりした動きがやわらかな優しさを醸し出していた。

あとは前の清友さんの三味線が良くて、弾き始めたところで「これよこれ、これが文楽」と思った。

今回の酒屋は文楽の芸の力を思い知らされた。そんなわけないだろというキャラクターの人物であっても、出演者の力でここまで見えかたや感じ方が変わるのだなと思った。酒屋は話自体も完成度が高いわけじゃないと思うが、そこをねじ伏せていた。

 

 

道行霜夜の千日。

茜屋を後にした半七〈吉田玉助〉と三勝〈吉田一輔〉が長町の外れ、千日寺付近で心中するまでを描く道行。

国立劇場よ、興行側として責任持って、せめて人形どちらかには今どこの誰が何をやっているかを表現できる人を入れてくれ……。とにかく、人形は、立って、歩くだけで難しいということがよくわかった。実力以上の役をつけているから第一部のようにならないこと自体はわかるが、初日しばらく経っても向上しないというのは……。床ががんばってるのはわかるが、本公演でこれは、国立劇場はよく考えてほしい。*2

 

 

 

第二部、見取り2演目というのはなんだかなあと思っていたけど、密度の高いパフォーマンスで、とてもよかった。こういうこまぎれ上演のとき、公演の見応えや充実感を左右するのはやはり出演者とそのパフォーマンスだなと思った。先述の通り、今回の第二部は何回も観ているけど、まったく飽きない充実のクオリティ。そして、その演目への熟練度が高いベテランの安定度をあらためて思い知らされた。実際には段によるデコボコがあるとは言えど、満足度がかなり高い公演だった。

 

 

 

◼︎

おまけ

みなさんはお園さんのこと、どんな女性だと思っていらっしゃいますか?

文楽浄瑠璃集』(日本古典文学大系岩波書店/1965)を読んでいたら、お園は「酒屋の段」の時点で嫁入りして3年、20歳と書かれており、あまりの鋼のメンタルと思念の強さにびびった。せいぜい1年半くらいかと思っていた。

半兵衛とその女房は初孫のはずのお通(3歳)の顔を知ってしまうことのないよう、気をつけて暮らしていたのに、お園はちゃんとお通の顔をチェックしているのが怖いなと思っていたけど(直接関わりあいがないよその家の3歳の子って、親と一緒じゃないと、その子が誰なのか、なかなか顔一発で区別つけられないと思う*3)、やばい。お通をガッチリ己の目で確認しようが、実父や義両親があそこまで自分を心配して気遣ってくれようが、身の振り方を顧みず3年間半七を一心に思い続けているとは、景清よりメンタル強い。

「酒屋」は下の巻の切なので、ここで『艶容女舞衣』の話は終わる。お園さんはここに至るまでどうやって過ごしていたのだろう。

原文を通読できていないので詳細はわからないが、『文楽浄瑠璃集』で概要をかいつまんだところ、お園の酒屋に至るまでの行動がわかった。話全体としては、道ならぬ恋に陥った半七と三勝、それに苦慮する半七の両親(半七ファミリーは最近奈良から大坂へ引っ越してきた設定らしい)、嫁にきたものの行き場のないお園、三勝に横恋慕し半七を陥れる悪党善右衛門、若殿のため三勝を身請けしようとする宮城十内らのアレコレを1年にわたって描いているようだ。お園はぼつぼつと出てきており、占い師に化けた半七から愛想尽かしをされるも正体を見抜いて恨みを言う段があったり、三勝の家へ別れてくれと直談判に行ったりする段があるようで、相当アグレッシブな女だった。お通に会ったことあるどころか三勝にダイレクトアタックしたことあるんだ……。てっきり「酒屋」でいきなり出てきて、思い込みの恋情を語るだけの、純粋すぎて行動が突き抜けた八重垣姫的な娘さんかと思っていたら、問題解決に向けて積極的に行動しておられた。私はお園さんへのリスペクトを新たにした。文楽魔界転生があったら、お園さん、知盛あたりと戦えると思った。
 

 

 

 

 

 

 

*1:宮崎にヒグマはいないそうです。

*2:これはやらないほうがいいと思ったのは今回が初めてというわけではなく、数年前、『平家女護島』の「舟路の道行より敷名の浦の段」が出たときもこれはやらないほうがまだいいと思いました。このときは文司サンが後白河法皇役で出てたんですけど、出てきて速攻清盛キックで船から海ポチャしてしまい、文司〜〜〜ッ根性で這い上がってきてくれ〜〜〜ッと思いました。このときはまじ本当にやばくて、人形はめちゃくちゃだわ床は揃ってないわで、入れ替え時間に喫茶室にいたお客さんらみんな「これはやらなかったほうがよかったねぇ……」という話をしちゃってました。私もしました。

*3:『艶容女舞衣』自体にそういう展開があるわけではなく、先行作『女舞剣紅楓』の設定を引き継いでいるらしい。「去年の秋の患ひ」の設定も同。

テレビドラマ「あきのひとならば」(1959年)-文楽人形に恋した男

「あきのひとならば」というテレビドラマがあったそうだ。いまからおよそ60年前、1959年(昭和34年)、設立2年目の関西テレビが文部省芸術祭参加作品として制作した単発の1時間ドラマだ。脚本は、溝口健二作品をはじめ古典題材の映画脚本で知られる依田義賢で、文楽人形を劇中に登場させているという。

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あきのひとならば

  • 制作:関西テレビ株式会社
  • 放送日:1959年(昭和34年)10月17日(土)20:00〜21:00
  • 放送枠:東芝土曜劇場(第32回) /提供:東芝
  • 脚本:依田義賢
  • 演出:藤信次
  • 音楽:小杉太一郎
  • 出演:安江久次郎=益田喜頓、安江まさ子=村瀬幸子、安江修治=高津住男、支社長=山村弘三、病院長=内田朝雄、桐竹紋十郎=桐竹紋十郎、おさん(人形)の声=速水雛子

 

 

 

これを知ったのは、依田義賢について調べていたときに、「依田義賢と実験的映像」と題した論考を見つけたことによるものだった。『イメージ―その理論と実践』(晃洋書房/2017)という映画関係の書籍に掲載されており、文旨は、依田義賢の子息・依田義右氏が、依田義賢の脚本上の意図による実験的映像への探究心について解説するというものだ。*1

依田義賢は晩年、心酔していた空海の生涯とその奇跡をスペクタクルな映像で映画化することを企画しシナリオを書くも、映画会社からリジェクトを受け、相当な無念の涙を飲んだという。しかし、過去には野心的な脚本が実現した作品があり、それが本作「あきのひとならば」ということだった。

かなり古い作品のため、当然私は観ていないし、映像自体も残っているか怪しいラインだと思われるが、依田義賢の遺品にガリ版刷りの脚本や撮影時のスナップが残っていたそうで、これらの資料と義右氏が観た放送当時の記憶をもとに、内容が詳しく紹介されていた。また、探してみると、雑誌『テレビドラマ』1959年12月号に脚本原本が掲載されていた。義右氏の論考と脚本原本をあわせてみると、本作は以下のようなストーリーだったようだ。

 

油脂工業会社の庶務課に勤める53歳の男・安江久次郎〈配役=益田喜頓〉は家族を東京に残し、大阪支社へ単身赴任している。お銚子一本の晩酌と子どもの成長だけが楽しみという堅物の安江だったが、仕事ぶりはいまいちで、定年を間近に控えた彼への転勤命令は実は左遷でもあった。

 

 

連休前のある日、安江は支社長から呼び出され、滞った仕事を残業して終わらせるよう命じられる。その夜、事務室でひとり残業していた安江はどこかから流れてくる三味線の音色を聞く。しかしラジオではそのような放送はしておらず、安江は音をたずねて廊下をさまようが、見回りにきた守衛もそんな音は聞こえないと訝しそうにする。

安江が事務室に戻ると、やはり三味線の音が聞こえる。天井を見ると、新造の姿をした文楽人形が踊っている姿が見える。その姿はすぐに消え、今度は窓のガラスに人形の姿が映る。気づくと、新造のつくりをした文楽人形が扉口に佇んでいた。安江は「やっぱり来てくれたんだ」と喜び、人形を支社長室へ招き入れる。

応接セットの椅子に座った新造の人形は両手をついて挨拶し、安江の熱心な声に引かれてここへやってきたと話す。安江は彼女と会えたことを喜び、定年間近になって東京から大阪へ転勤してきたこと、支社長から切符をもらってはじめて人形浄瑠璃を観たこと、初めて彼女と出会った舞台のことなどをさまざまに話して聞かせる。新造は彼の妻のことを気にかけるが、安江は妻が大学に通っている末息子可愛さに大阪へついてきてくれなかったこと、妻にはいままで苦労をさせ、感謝しているので、好きにさせてやりたいことを語り、もう妻の話はしないで欲しいと新造に言う。

 

■  

安江は彼女を一人暮らしのアパートへ連れ帰ることにする。その夜道、通行人が新造にぶつかってきたので、安江は彼女を庇って通行人を突き飛ばす。しかし、通行人はそれを不審な目で見送る。

アパートへ着くと、着物へ着替えようとする安江を新造が手伝ってくれる。そして、彼女は安江に代わり、身ごしらえして世話女房のように炊事を始めるのだった。

安江と新造がちゃぶ台を囲んでいると、管理人が部屋に電報を持ってくる。その内容は、妻と末息子が明日からの連休に来阪するという知らせだった。新造は安江の家族に会いたがるが、安江は「妻子にお前のことが知られては」と言う。新造とは決して疚しい仲ではないものの、彼女に心を移したことを妻に申し訳なく、また、してはならないことだと思っていると安江は語る。それでも彼女と一緒になりたいという安江に、新造は、それは叶わないことで、自分は人形なので一緒になるには死ななければならないと言う。仲の良い茶飲み友達でいようと言う新造の言葉に、安江はうなずく。

 

■ 

翌日、安江の老妻・まさ子と大学生の末息子・修治がアパートを訪ねてくる。久しぶりの家族の再会に様々な話をする二人に対し、いら立って不機嫌そうな安江。その不審な様子に、こちらで好きな人が出来たのかと修治が尋ねると、安江は激怒し、連休にも関わらず会社へ行くと言って出て行ってしまう。その様子に、まさ子と修治は女の影を確信する。修治は、父がその女と結ばれてもいいのではないかと言うが、まさ子は女に別れを告げに行ったのだろうとつぶやく。

 

■ 

ブラインドが閉め切られたオフィスでは、新造が安江の傍らに佇んで泣いていた。新造は自分が安江を苦しめていることを嘆くが、安江は自らが苦しむのは仕方ないと言う。自分は人形であるとして帰ろうとする新造を引き止め、死んでも構わないと語る安江。そして、彼女への恋に心を弾ませていると愛の言葉を語り、新造のつめたい手をとる。

密かに会社へついてきていたまさ子と修治は、これを耳にしてしまう。まさ子が修治に促されて部屋を覗き込んでみると、そこには安江の姿しかない。驚いたまさ子が夫に声をかけると、安江は彼女を睨みつけ、新造の姿は消える。安江は新造を探し外へと出てゆくが、その尋常ではない様子にまさ子と修治はぞっとする。夫は疲れていると思い、励まそうとするまさ子に、安江は「わたしは“あれ”とは別れない、会わせないようにしようとしても、わたしはどこでも、いつでも“あれ”と会える」とつぶやいて笑う。その笑い声にまさ子は恐怖する。「たとえ人形でも心をうつしたことをいいとは思っていない、そのことで妻を悲しませていることに苦しんでいる、許してほしい」と言う安江。

 

■ 

その夜。まさ子が気づくと、アパートの部屋に安江の姿が見えない。まさ子は驚いて修治を起こし、支社長にも電話を入れて、安江を探しに行くことにする。

その頃、安江は中之島公園に佇み、なにかをつぶやいていた。通りすがりのカップルたちはその様子を異様な目で見る。「わたしはもう帰れない、家内との絆ももうこれまでで、会社にも見限られている」と言う安江の傍には、新造が座っていた。妻のもとへ帰るように言う新造に、安江はわたしと別れたいのかと問う。首を振る新造は、安江の妻に会って自分の気持ちを聞いてもらいたいが、人形の身では会うことは叶わないと言う。安江は新造とは別れられないと語り、一緒に死んで欲しいと言って、京都へ行こうと誘う。「鳥辺山心中」の道行を口ずさむ安江は、新造と寄り添って歩いていく。

 

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連休明けの会社に、警察から安江が嵐山を一人でさまよっているところを保護したという連絡が入る。病院で診察を受ける安江は、狂人と言われてもいいと語る。世間は清純な恋をしているものがおかしくて、昼間から戯れているような濁って腐ったものたちが正常であると思っているのだろうと言う安江。院長は、付き添いに来ていたまさ子や支社長に安江が「病気」であることを告げ、安江はそのまま入院することになる。

診療室、麻酔で眠りに落ちた安江に、医師たちが電気ショック療法を加えている。新造は、手を合わせて祈っている。

病室で目を覚ました安江は、傍らの新造に語りかける。安江は、妻や医者たちが自分を精神病者として扱い、新造の姿が見えなくなるよう、声が聞こえなくなるようにしようとしている、それに負けはしないと話す。新造は、安江の妻は彼を心配しているのだと言い、妻の傍へ戻るように諭して、その姿を消す。安江は彼女を引き止めようと声をあげ、新造の姿はふたたび見えるようになる。

 

■ 

医師たちが安江の治療方針を議論するうち、彼に文楽人形を見せることが提案され、院長によって桐竹紋十郎が院内の慰安を兼ねて呼ばれることになる。紋十郎は三味線の音色に合わせて新造の人形を遣って見せ、入院患者や医師、看護婦たちがそれを興味深そうに見ている。一方、安江は病室で三味線の音を聞き、立ち上がる。

紋十郎はひとしきりの芝居を終えると、人形のつくりの説明を始める。八汐、お福、傾城のかしらなどを次々見せていくが、その中で新造の人形を示し、「人形の構造でございますが」と言ってかしらを引き抜き、衣装を脱がせる。そのとき、「やめてくれ」という叫び声が響く。みなが驚いて振り返ると、そこにはいつのまにか安江の姿があった。院長は構わず紋十郎に説明を続けさせる。

安江は病室へ帰り、「姿を見せておくれ」とつぶやく。現れた新造は、背を見せると、髪をぱらりとふり乱し、窓から飛び降りる。安江は叫び声を上げ、部屋を見回し、「姿が見えない、姿が見えない」と言ってベッドへ打ち伏し、激しく泣く。

 

■ 

……安江は病室でまさ子にセーターを着せてもらっている。それは安江が退院する日のために、まさ子が編んだものだった。安江はこんな派手な色と躊躇するが、まだ若いんだからと言うまさ子。そして、自分も若くなって、安江を誰にも取られないようにすると言う。安江は自分の相手をしてくれるのは文楽人形くらいだと言い、まさ子は油断がならないと答える。安江は「秋も深くなったね……歩いてみたいね」と妻に語りかける。まさ子は「一緒にまいりましょう」と返す。窓の外の秋が深まった空には美しいいわし雲が浮かんでいる。安江は無表情である。


*要約は筆者。文中用語当時ママ。

 

なんとまさかのホラーサスペンスだった。

この話、「文楽人形の魔性に取り憑かれてしまう」ということ自体に共感できないと理解を得られない脚本だと思うけど、これ、当時どれくらい理解されていたんでしょうか……。

物語の鍵となる、安江の幻覚として登場する「新造」の文楽人形は、女方人形遣いのトップスター・桐竹紋十郎を起用し、本物の文楽人形を使用するという演出。この人形の姿は安江以外には見えない設定である。

これについて、義右氏は「現代なら新造の人形もCGで表現できるだろうが、父はそうはせず、実物にこだわっただろう」と書いている。それは、新造の人形は、幻覚上の存在であったとしても、安江にとっては「実物」だったからだ、というようなことを書いておられるが……、これ、「ある男が見た幻覚上の女を実写で表現した実験的映像」ということではなくて、「文楽人形の魔性に取り憑かれた男の話」なんじゃないかなと私は思う。新造は単なる幻の女ではなく、文楽人形として立ち現れる。安江もまた新造を文楽人形として捉えている。なので、新造の人形は実物で、本物の人形遣いが遣っている必要がある。

依田義賢文楽人形の持っている魔性について、実際の感覚に即して描こうとしたんじゃないのかなあ。脚本を見る限り、文楽についての描写が的確で、芸術祭出品用の素材としてヤッツケで盛り込んだわけではないと感じる点がいくつもあり、さすが依田義賢だと思わされる。

たとえば、会社の応接室で新造と語らうシーンに、はじめて新造と出会ったとき=安江が支社長からもらったチケットで『心中天網島』紙屋内を観に行ったときの舞台が回想として入れ込まれている。そこでは、舞台映像をバックに、新造の人形(=おさん)を見た安江が彼女を見初め、人形に引き込まれていく様子が語られる。

こんな可愛い者が、この世にあったのだろうかと思った。
それからだよ、興行のある間、欠かさず、毎日文楽座へ通うようになったのは……
浄瑠璃の外題なんかどうでもよかったんだ。
その顔その姿さえ見ればよかったんだ。
白い艶やかな頰、襟にうずめたおとがい、息づく胸のふくらみよう。

これを読んで、自分にも覚えがあると思ってしまう人、いっぱいいると思う。「浄瑠璃の外題なんかどうでもよかったんだ」、まさにその通りとしか言いようがない。人形の美しさの描写も、容姿自体以外の人形独特の所作を褒めているのが特徴的。

いちばん最初に新造の人形が現れたときの「お前さんが来るので三味線が(聞こえたんだね)」という台詞も、なかなか味わい深い。

また、最後に出てくる院長は桐竹紋十郎と知り合いという設定のようだが、院長、若い医師が「(安江に)一度、文楽人形を見せてみたらどうでしょうか?」と言うのに対し、「文楽の何の人形を見せるのだ。文楽の女の人形といってもいろいろある」と、それはその通りなんだけど、文楽知らん人にとっては完全にどうでもいい、異様に細かいことを言うあたりにこだわりを感じる。

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上記の舞台シーンのおさんは、脚本では桐竹紋十郎の出遣いと指示されている。これは現実の舞台の通りである。しかし、安江の幻覚の中の新造は、ひとりでに人形が動き回っているかのような演出にされたらしい。幻覚の新造も紋十郎師匠が遣っているのだが、人形遣いの姿が見えないよう工夫されていたようだ。『イメージ―その理論と実践』には何点かの撮影中スナップが掲載されていて、その撮影方法を知ることができた。

人形が応接セットの椅子へ着座している状態では、椅子の背もたれをくりぬき、そこから主遣いが手を差し入れ、左遣いも椅子の背面へ回っての二人遣いだったようだ。アパートのシーン(畳の上に敷いたざぶとんに座る)ではセットの畳を抜いて、主遣いが床へ潜って一人遣いで遣ったらしい。

夜の中の島公園のシーンのスナップには、新造が立っているものがある。周囲が暗いので、黒衣で人形遣いの姿が見えなくなるようにしているのかな。立ち方が女方にしては本当にただの棒立ちになっているので、カメラ回ってないシーンかもしれないけど……。

最後に病室の窓から飛び降りるシーンをどう演出していたかは、義右氏の記憶がないということだった。シナリオでは背を見せて飛び降りることになっている。掲載されているほかのシーンのスナップを見る限り、新造には、人間的、映像的リアリスティックな演技をさせていたわけではなく、文楽の舞台の所作のセオリーを取り入れていたのではないかと思う。論考には義右氏の推測が書かれているけど、あくまで撮影上のトリックの説明で、文楽の演技に紐付けて書かれていないため、ちょっとイメージがつかなかった。

また、新造が安江の生活に溶け込んでいるように見えるよう、小道具類も文楽人形のサイズを配慮して作っていたようだ。アパートで新造の人形がちゃぶ台の前に座っているスナップでは、ちゃぶ台がちゃんとお人形さんサイズに作られているのがわかる。

 

 

 

ところで、さっきから使っている「新造」という言葉。義右氏はこの「新造」を「新人遊女」という意味に取って小春だと解釈していらっしゃるようだが(なぜか紙屋内のおさんを小春だと思っておられるようだった)、人形からすると、小春ではなく、おさんだと思う。写真を見る限り、「新造」の人形はまゆを引いていない老女方のかしら。髪型も娘や遊女の結い方ではないように思う。安江が新造を見初めた舞台で演じられているのが紙屋内、おさんが心情を語る場面(〽その涙が蜆川へ流れて小春の汲んで飲みやろうぞ……)であることからしても、ここでいう新造はおさん=「商家の若奥さん」だと思う。現実の妻の存在との対比からすると、安江の幻覚上の恋人は小春の拵え(娘のかしらに遊女の着付)でいくのが筋が通っている気がするが、なぜおさんにしたのだろう。妄想の恋の相手が娘(遊女)でないというのは、安直さを回避していて、上手いと思うが。

ただしおさんと言っても人形のつくりは特殊で、現行なら武家の妻に使うような目が大きいタイプの老女方のかしらに、着付けは黒の付け襟なしの町家の奥さん風の菱形模様が入ったもの。少なくとも現行のおさんとは違うが、当時の三和会ではそうしていたのか、それとも、どの役も感じさせない、架空の「新造」のつくりにしたのか。

 

 

 

安江の幻覚を覚ますのが「桐竹紋十郎の人形解説」というのは、本当にリアル。

ほんっとにあの人ら、ものすっごいフランクに人形の首ひっこ抜きますよね。申し訳ないけど、シナリオ読んで、ちょっと笑った。文楽を観始めたころ、レクチャーで人形の首がひっこ抜かれるのを見たときには、本当に大ショックだった。かしらが外れるのは知識として知っていたけど、「くびとれたーーーーーーーーー!!!!!」とめちゃくちゃびっくりした。いまでも鑑賞教室等でかしらだけを手にスマイルで解説する人形遣いさんを見ると、若干、引く。人形遣いさんたちは人形の首は取れて当たり前だと思っていらっしゃるのだと思うが、客は人形を人間だと思っているので、もうちょっとマイルドにやって欲しい。突然、人形の手をぽろんと取り出してきたりするのも、怖い。

病院へ慰問にやってくる桐竹紋十郎は、本物の桐竹紋十郎が本人役で出演。『テレビドラマ』1959年12月号掲載の製作中スナップでは、製作陣・俳優陣に混じって本読みへ参加している様子が写されている。ちなみに本作の放送は『浪花の恋の物語』公開(1959年9月公開)と近い。

 

 

 

義右氏の論考には書かれていないが、この話、単に文楽人形を登場させているだけではなく、要素を『心中天網島』から取っているんじゃないのかな。『心中天網島』では、治兵衛は最終的におさんと別れさせられ、小春と心中してしまう。しかし本作では、これとは異なる結末を迎える。新造の人形はひとりで消え、安江は妻・まさ子のもとへ戻る。しかし、なぜラストの安江の表情は無表情なのだろう。彼の心は新造とともに心中してしまったのだろうか。義右氏がお持ちの脚本と「テレビドラマ」掲載の脚本にはいくつか相違点があり、上記あらすじでは双方を取り合わせて要約している。最後の安江の無表情の指示は「テレビドラマ」掲載の脚本にはあり、義右氏の紹介文にはなかった要素だが、実際の演出ではどうしていたのだろう。

新造の性格は、浄瑠璃に出てくる女の良いところを抽出して結晶化させたような造形。実際には浄瑠璃に登場する女って、生身の女性の持っているパッショネイトをクソヤバな方向に爆発炎上させたようなヤツがたくさんいる(というか、そういった勢いがありすぎるヤツのほうが多い)のに、この新造はキレイなとこどりをしているあたり、幻覚。世話物に出てくる男に都合よすぎの奥さんキャラよりも都合いい。新造の安江に対しての台詞「わたしらは、仲のよいお茶のみの友づれでいまひょう、なあ……」とか、人間には言えない。いかんせん文楽人形なので、実際問題手握り以上のことは出来ないから(ほんまは茶も飲めへんやろ!舞台上ではガバガバ飲んどるけど!)、安心して恋ができるところには味があるのだが。

それにしても、「あきのひとならば」という題名は、どういう意味なのかしら。「道行名残の橋づくし」にある、「短きものは我々がこの世の住まい秋の日よ」が着想のもとだろうか? 時雨の炬燵とかにそういう詞章があるのかな?

 

 

 

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配役に関しては、文楽人形の幻覚に取り憑かれる冴えない中年男役が益田喜頓(当時50歳)というのがはまり役であるとともに、絶妙な怖さを感じさせる。当時のテレビ評を読む限り、文楽人形相手の芝居は結構大変だったようだ。

また、安江に妄想を抱かせたのも紋十郎師匠、幻覚上の人形を遣っているのも紋十郎師匠、幻覚を覚ますのも紋十郎師匠というのはキャスティング上の結果論ながら、よく出来ていると思う。(当時のテレビ評に、新造の人形の演技を褒めているものがあった。でも本物の舞台のほうが良い><的なことを書いていたので、多分評者は文楽マニアだな。)

新造の人形には声の出演がついていて、安江と視聴者が聞いている分には本当に自分でことばを喋るという設定。安江は普通のおじさん風の現代的な口語だが、新造は浄瑠璃がかりの大阪弁(ちょっと京都弁風?)口調で話す。ただしこのCV、残念ながら文楽からの出演ではなく、当時関西テレビ制作の番組に出演していた速水雛子という女性の方がついていたようだ。

ほか、ラストの病院のシーンでは、少なくとも三味線さんは出演している模様。スナップには後ろ姿しか写っていないのでどなたかは不明だけど、着付の紋がぼんやりと写っているので、わかる方にはわかるかも。

  

 

 

関西テレビ初の文化庁芸術祭出品作品というだけあり、大変力が入った企画であることが伺えるが、当時のテレビ評を読むと、照明・人形に見所はあるものの、最終的な出来はややいまひとつだったようだ。でも、映像が現存しているならば、観てみたい作品である。

 

 

 

  

 

┃ 参考文献

 

 

 

 

 

*1:依田義右氏の専門は映画関係ではなく、フランス哲学。そのせいか、映画の専門書ながら、この項のみ文章が談話風。

文楽 7・8月大阪夏休み特別公演『仮名手本忠臣蔵』五段目〜七段目 国立文楽劇場

忠臣蔵夏の部。今回の第二部は早々にチケットが完売。最後列に補助席も設置され、舞台も客席もにぎやかな公演になっていた。

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五段目 山崎街道出合いの段〜二つ玉の段、六段目 身売りの段〜早野勘平切腹の段。

今回の配役が発表されたとき、勘平が和生さんという配役に「え!?」と思った。和生さんがそんな役(と言ったらおかしいが)で出る必要があるのか? 他の配役も「それでいいの?」って感じだし、どうするつもりなのかと思った。収拾つかなくなるんじゃないかと思っていた。

しかし、実際に観てみると、和生さんの勘平は、往年の日本映画の美男俳優のような、美しく悲劇的な端正さをたたえていて、衝撃的だった。勘平って、いままで、ちょっと下卑た感じがする気がして、同情できなかった。本人なりには頑張っているんだろうけど、だらしなさゆえに身を滅ぼしたっていうイメージがどこかにあった。が、印象が変わった。普通の真面目な若者が、巡り合わせが悪くて運命の歯車に巻き込まれ、ついに押しつぶされて死んでしまう一部始終を見てしまった気がするというか……。おかるの母〈吉田簑二郎〉に責め苛まれるくだり、背筋をまっすぐに伸ばして肩を張り、首をぐっと落とすように顔をうつむけてその言葉を聞いているんだけど、そのとき、ほんの少しかしらを左に傾けて苦しそうにしていて、また、ちょっとずつ顔の伏せ方を変えているんですね。次第に苦悩が深まっていくさまの、そのわずかな表情が勘平の孤独な辛さと後悔を感じさせた。五段目、六段目の見方を教わった気がする。さすが和生さんだと思い直した。あと、芝居と全然関係ないが、今回の和生さんは血色がよかった。

斧定九郎は玉輝さん。瑞々しい美しさのある、端正な悪漢ぶり。でも斧定九郎はもっと若い人にやらせてあげればよかったのに。

おかるママの簑二郎さん、本当、田舎の普通のおばあちゃんという感じで、とてもよかった。なかなか出来ない普通感だと思う。勘平やおかる、与市兵衛は他人のことやその体面をずっと気にしているけど、ママは純粋に家族自体のことしか考えていない視野狭窄感(=本来は人間としてこれこそがまともであるはずの感性)が、ママらしくて、とても良い。浄瑠璃のもつ何重にも重なった不条理さを浮き立たせていて、得難いテイストだと思う。

原郷右衛門は玉也さん。いつもながら、渋い。微妙に首を動かすときの振り方も、単なる左右振りにしないとか、リズムを一定にしないとかで、ニュアンスがついていた。出番が短く、派手な見せ場がなくても、出るだけで舞台が引き締まる。ほかの人形の出演者は作為感が薄い分、いかにも辛苦を重ねた老武士らしい佇まいの作り込みが効いていた。

あと、いのししは普通に使い古されたいのししだった。あのいのししが新しくなるのはいつの日か。

 

 

 

七段目 祇園一力茶屋の段。

遊女おかる〈吉田簑助〉の出は夏休み公演最大の見所だった。私はこのために上手の席を取ったのだ。おかる、可愛い。可愛いよ。可愛い。かわいありがたさのあまり、泣けてきた。

おかるは茶屋の二階で酔い覚ましをしている設定だけど、二階といってもいかんせん芝居の舞台なので、大道具は中二階のような高さ。にもかかわらず、少し顔を上に向けて建物の外を見やっているおかるの姿は、ひんやりとした夜風の通る静かな二階の窓辺で、わずかにまたたく星を見ながら涼んでいるよう。おかるしかいない二階はしんと静か、階下の三味線の音が風に乗ってわずかに聴こえてくるような。舞台のほかの場所とは隔絶された空間のように見えた。由良助〈桐竹勘十郎〉が階下で演技しているあいだ、柱に身をまかせて、上気して火照ったからだを少しうざったそうにしているのが艶っぽく、愛らしい。酔いで潤んだ目はふちが赤くなり、くちびるが酒に濡れてつやつやとしているのではかしらと思わされる。手鏡を掲げて手紙を覗き見ているときの、体をうしろに大きくそらせた姿の艶やかさも印象的。簪をカタン(「チン」?)と落としてピョコンと飛び上がる様子は簑助さんらしい小動物感。小柄で華奢な体つき(のように見える遣い方)からくる小娘のような愛らしさと、女郎らしい浮世の垢がついた色っぽさの同居に味がある。

由良助に「船玉様が見える〜!」と言われたときの「ええええ?!?!?!なに!!?!??どこがめくれてる!?!?!?!?」と突然焦って着物の裾をおさえてばたばたする仕草はとても可愛かった。「スカートがへんなとこにひっかかってめくれてる女子がこっそり教えられて騒ぐ」感がかなりあった。なお、由良助は、絶対見えない距離から言っていた。酔っ払いの幻覚だった。簑助様の男品定めは厳しいのである。そんじょそこらの若造には絶対見せない。*1

しかし吉田簑助本日都合によりはしごを降りたら生娘になった。ここまで近接して交代する代役だと落差があまりに見えすぎる。事情や今後への考慮はよくわかるが、さすがにこの段は……。

おかるの太夫は津駒さん。簑助さんの、清楚なようで、妖艶なようで、少女のようで、大人の女の、クルクルと様子を変えていくおかると、この津駒さんの過剰とも思える濃厚な色気との取り合わせが面白い。津駒さんはあのむせ返るようなコテコテ感が良いんだけど、配役の取り合わせ的に由良助より覇気があり、恐ろしく声がデカい女かのようにになっていた。下手したら平右衛門より勢いがあるので、癪を起こしてグエグエ言っているとことか、かなりやばかった。津駒さんは溶けかけのソフトクリームくらい汗をかいておられたが、おかるが喋っていないときも汗を拭かず、そのまま静止しておられた。顔を拭くと、テンションが途切れるからだろうか。

 

わたくしとしては当然のことながら、平右衛門は玉志サンの回に行った。平右衛門には、奴という性質と人形の容姿からか、なんとなく、ねちっこくオヤジっぽいイメージを持っていたのだが……、この平右衛門は若いというか、年齢を感じさせないスッキリとした佇まいだった。カラリと明朗で、一本気で、めちゃくちゃ大元気で、陽気な優しいお兄ちゃんというイメージを受けた。例えて言うなら、鳥山明マンガの登場人物のような、湿気や影を感じさせないパーンと明るい雰囲気。おおぶりな人形そのもの以上の大きく伸びやかな動作とパキンとした爽やかなキレが、平右衛門のまっすぐで飾り気のない人柄を感じさせる。妙にピコピコとしてせわしないのも良い。というか玉志サンのせわしなさが役にマッチしている状態。寝入った由良助に布団をかけてあげるところ、自分より小柄な由良助を「そぉ〜っと、そぉ〜っと」一生懸命丁寧に扱っているのが可愛かった。猫がひざに座って寝始めたらそのまま動けなくなって永遠にトイレをがまんしてしまうタイプの人、になっていた。

最後のほうの、おかると向き合ってペアで演技するところがとくによかった。前半も結構大きな身振りをみせる遣い方だったが、ここは人形の体自体よりも数倍のスケールを感じるかなり大きな動きで、それまでの演技とメリハリをつけていた。平右衛門のテンションに、おかるが追いついてなかった。ご本人の演技にまったく迷いがない。やりきることに集中して、合わせにいかなかったんだなと思った。これからはそうであって欲しい。もっと美麗な役柄のほうがお似合いになる方かと思っていたけど、こういう荒物的な役も(が?)実は芸風に合ってるということなのか、以前からやりたくて、来たらどうするということをずっと考えておられた役なのか。ある意味、第二部最大のベストアクトだった。

 

今回の由良助は勘十郎さんだった。ものすごい真面目に考え込んで、ものすごい真面目に芝居してる感じになっていた。真面目が狂った方向にいく真面目感が勘十郎さんの良いところだと思うんだけど、由良助は狂人じゃないから……。あの変なキモい紫の着物、勘十郎さんだと頑張って着てる感じ(玉男さんはキモ紫の着付で頼む)。勘十郎さんなら、ふざけていてもはじめから黒の着付けが似合いそうだ。そのほうが、あの、本来そんなんじゃない人が考え込みすぎたあまり真面目にふざけている感じに合う気がする。すごい真面目な格好なのに、居眠りしはじめて茶屋の派手なふとんかけられちゃったり、おかるの簪を拾って自分が挿しちゃったりしたら、おもしろい。勘十郎さんって演出は玉男さん以上に地味に決めていくほうが逆に芸風自体の派手さが映えそうな気がする。あそこまでわざとらしくしなくても客に伝わるし、舞台映えもして間も持つと思う。へんな言い方だが、勘十郎さんはご自分でご自分に対して思っているよりうまいのではないかと思うのだが……。勿体無く感じる。

最後のところは、さすがに演技過剰に感じた。今回は九段目がついていないから、ここだけで完結できるよう由良助の本心をわかりやすくしようとしているとも取れるが……。勘十郎さんは由良助の個人としての感情、悔しさ自体を強調されていたように感じたが、ここで由良助が語るのは「個人」の感情なのだろうか。彼はここでもなお「家老」なのではないか。由良助に「個人」はあるのか? 『仮名手本忠臣蔵』にとって「個人」とはなにか? 浄瑠璃の根幹にかかわる、重要な問題であると思う。このへんどういう解釈で演じられたのだろう。

あと、七段目の由良助、立ち姿(酔ってふらつくフリ)が難しいのかな。ふらつきかたがやりすぎというか、「?」な感じだった。酔っ払いの演技はお酒が好きな人より飲まない人のほうが上手いと言われているが、そういうこと?

 

ほかによかったのは、竹森喜多八(由良助を訪ねてくる侍三人組のうち真ん中にいるヤツ)役の玉彦さん。一瞬しか出てこない、おそろしく無口な役だけど、じっと真正面に構えた赤ら顔のかしらとピンとした背筋が無骨で生真面目な佇まいで、よかった。少し首を襟に埋め気味なのも猪武者感があって良い。

鷺坂伴内の太夫の希さんは最高ウザかった。だまれボケ〜!ケツから口まで竹串突き刺して焼き鳥にすんぞ〜!って感じのウザさだった。太鼓持ち、腰巾着の鑑だった。人形の文司さんは言わずもがな。「これは自分とそっくりな人形を使って演技させるという大変特殊な伝統芸能なのかな?」状態で最高だった。あの「本人役で出演」感、やばい。

あと、斧九太夫〈桐竹勘壽〉はめがねをかけていなかった。人形めがね萌えとしては、めがねをかけてほしかった。斧九太夫はやや肩をすくめて頭を突き出したような姿勢で入ってくるところからして性悪感が出ており、味があった。人形は出が勝負ということがよくわかった。

 

 

 

観る前は「この配役、大丈夫なんか」と思っていたが、端正にまとまっていた。ただ、4月もそうなんだけど、さらさら流れていく印象だった。五・六段目も、七段目も、均等にまとまっている印象で、わーっという盛り上がりがない。第三部の人を一部こっちに引っ張ってきて、七段目をもうちょい濃い味付けにして欲しかった。11月はどうなるのだろう。

個人的には、七段目の由良助を玉男さんにしないのなら、もう話題性重視で由良助を三交代にして、4月勘十郎さん、7・8月玉男さん、11月和生さんで、3人リレーにすればよかったのにと思った(なげやり)。

 

それにしても、おかるファミリーって、パパ以外、思った瞬間行動しちゃうタイプだな。家族ですきやきとかやったら、肉の取り合い、しらたきの味のしみこみやねぎの煮崩れ待ちをするかどうか、焼き豆腐買い忘れた等でボロ家が崩れるほどの大騒ぎが起こりそう。勘平もよくあの家に婿入りしたな。山崎街道で千崎弥五郎に出会わなかったとしても、そのうち、なにはなくとも切腹に追い込まれそう。

 

 

 

 

展示室のツメちゃんに、夏祭浪花鑑にいそうな人(殺人事件が起こっていてもおみこしに夢中な人)が参入していた。

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大阪グルメ。はり重カレーショップのビーフワン。味付けが薄口で、肉が柔らかくて良かった。

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*1:でも、さきおととしの東京での通しでは、癪を起こして平右衛門(そのときは勘十郎さん)に水を飲まされるところ、口移しでやってた気がするな。あれは勘十郎さんがやりたかったのかな。今回は柴垣の出から代役で一輔さんに交代だったので比較できないが、玉志さん平右衛門からは普通にひしゃくで飲まされていた。それ以前にあのおふたり、全然兄妹に見えないド他人ぶりで、ある意味おもしろかった(失礼)。