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文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

テレビドラマ「あきのひとならば」(1959年)-文楽人形に恋した男

「あきのひとならば」というテレビドラマがあったそうだ。いまからおよそ60年前、1959年(昭和34年)、設立2年目の関西テレビが文部省芸術祭参加作品として制作した単発の1時間ドラマだ。脚本は、溝口健二作品をはじめ古典題材の映画脚本で知られる依田義賢で、文楽人形を劇中に登場させているという。

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あきのひとならば

  • 制作:関西テレビ株式会社
  • 放送日:1959年(昭和34年)10月17日(土)20:00〜21:00
  • 放送枠:東芝土曜劇場(第32回) /提供:東芝
  • 脚本:依田義賢
  • 演出:藤信次
  • 音楽:小杉太一郎
  • 出演:安江久次郎=益田喜頓、安江まさ子=村瀬幸子、安江修治=高津住男、支社長=山村弘三、病院長=内田朝雄、桐竹紋十郎=桐竹紋十郎、おさん(人形)の声=速水雛子

 

 

 

これを知ったのは、依田義賢について調べていたときに、「依田義賢と実験的映像」と題した論考を見つけたことによるものだった。『イメージ―その理論と実践』(晃洋書房/2017)という映画関係の書籍に掲載されており、文旨は、依田義賢の子息・依田義右氏が、依田義賢の脚本上の意図による実験的映像への探究心について解説するというものだ。*1

依田義賢は晩年、心酔していた空海の生涯とその奇跡をスペクタクルな映像で映画化することを企画しシナリオを書くも、映画会社からリジェクトを受け、相当な無念の涙を飲んだという。しかし、過去には野心的な脚本が実現した作品があり、それが本作「あきのひとならば」ということだった。

かなり古い作品のため、当然私は観ていないし、映像自体も残っているか怪しいラインだと思われるが、依田義賢の遺品にガリ版刷りの脚本や撮影時のスナップが残っていたそうで、これらの資料と義右氏が観た放送当時の記憶をもとに、内容が詳しく紹介されていた。また、探してみると、雑誌『テレビドラマ』1959年12月号に脚本原本が掲載されていた。義右氏の論考と脚本原本をあわせてみると、本作は以下のようなストーリーだったようだ。

 

油脂工業会社の庶務課に勤める53歳の男・安江久次郎〈配役=益田喜頓〉は家族を東京に残し、大阪支社へ単身赴任している。お銚子一本の晩酌と子どもの成長だけが楽しみという堅物の安江だったが、仕事ぶりはいまいちで、定年を間近に控えた彼への転勤命令は実は左遷でもあった。

 

 

連休前のある日、安江は支社長から呼び出され、滞った仕事を残業して終わらせるよう命じられる。その夜、事務室でひとり残業していた安江はどこかから流れてくる三味線の音色を聞く。しかしラジオではそのような放送はしておらず、安江は音をたずねて廊下をさまようが、見回りにきた守衛もそんな音は聞こえないと訝しそうにする。

安江が事務室に戻ると、やはり三味線の音が聞こえる。天井を見ると、新造の姿をした文楽人形が踊っている姿が見える。その姿はすぐに消え、今度は窓のガラスに人形の姿が映る。気づくと、新造のつくりをした文楽人形が扉口に佇んでいた。安江は「やっぱり来てくれたんだ」と喜び、人形を支社長室へ招き入れる。

応接セットの椅子に座った新造の人形は両手をついて挨拶し、安江の熱心な声に引かれてここへやってきたと話す。安江は彼女と会えたことを喜び、定年間近になって東京から大阪へ転勤してきたこと、支社長から切符をもらってはじめて人形浄瑠璃を観たこと、初めて彼女と出会った舞台のことなどをさまざまに話して聞かせる。新造は彼の妻のことを気にかけるが、安江は妻が大学に通っている末息子可愛さに大阪へついてきてくれなかったこと、妻にはいままで苦労をさせ、感謝しているので、好きにさせてやりたいことを語り、もう妻の話はしないで欲しいと新造に言う。

 

■  

安江は彼女を一人暮らしのアパートへ連れ帰ることにする。その夜道、通行人が新造にぶつかってきたので、安江は彼女を庇って通行人を突き飛ばす。しかし、通行人はそれを不審な目で見送る。

アパートへ着くと、着物へ着替えようとする安江を新造が手伝ってくれる。そして、彼女は安江に代わり、身ごしらえして世話女房のように炊事を始めるのだった。

安江と新造がちゃぶ台を囲んでいると、管理人が部屋に電報を持ってくる。その内容は、妻と末息子が明日からの連休に来阪するという知らせだった。新造は安江の家族に会いたがるが、安江は「妻子にお前のことが知られては」と言う。新造とは決して疚しい仲ではないものの、彼女に心を移したことを妻に申し訳なく、また、してはならないことだと思っていると安江は語る。それでも彼女と一緒になりたいという安江に、新造は、それは叶わないことで、自分は人形なので一緒になるには死ななければならないと言う。仲の良い茶飲み友達でいようと言う新造の言葉に、安江はうなずく。

 

■ 

翌日、安江の老妻・まさ子と大学生の末息子・修治がアパートを訪ねてくる。久しぶりの家族の再会に様々な話をする二人に対し、いら立って不機嫌そうな安江。その不審な様子に、こちらで好きな人が出来たのかと修治が尋ねると、安江は激怒し、連休にも関わらず会社へ行くと言って出て行ってしまう。その様子に、まさ子と修治は女の影を確信する。修治は、父がその女と結ばれてもいいのではないかと言うが、まさ子は女に別れを告げに行ったのだろうとつぶやく。

 

■ 

ブラインドが閉め切られたオフィスでは、新造が安江の傍らに佇んで泣いていた。新造は自分が安江を苦しめていることを嘆くが、安江は自らが苦しむのは仕方ないと言う。自分は人形であるとして帰ろうとする新造を引き止め、死んでも構わないと語る安江。そして、彼女への恋に心を弾ませていると愛の言葉を語り、新造のつめたい手をとる。

密かに会社へついてきていたまさ子と修治は、これを耳にしてしまう。まさ子が修治に促されて部屋を覗き込んでみると、そこには安江の姿しかない。驚いたまさ子が夫に声をかけると、安江は彼女を睨みつけ、新造の姿は消える。安江は新造を探し外へと出てゆくが、その尋常ではない様子にまさ子と修治はぞっとする。夫は疲れていると思い、励まそうとするまさ子に、安江は「わたしは“あれ”とは別れない、会わせないようにしようとしても、わたしはどこでも、いつでも“あれ”と会える」とつぶやいて笑う。その笑い声にまさ子は恐怖する。「たとえ人形でも心をうつしたことをいいとは思っていない、そのことで妻を悲しませていることに苦しんでいる、許してほしい」と言う安江。

 

■ 

その夜。まさ子が気づくと、アパートの部屋に安江の姿が見えない。まさ子は驚いて修治を起こし、支社長にも電話を入れて、安江を探しに行くことにする。

その頃、安江は中之島公園に佇み、なにかをつぶやいていた。通りすがりのカップルたちはその様子を異様な目で見る。「わたしはもう帰れない、家内との絆ももうこれまでで、会社にも見限られている」と言う安江の傍には、新造が座っていた。妻のもとへ帰るように言う新造に、安江はわたしと別れたいのかと問う。首を振る新造は、安江の妻に会って自分の気持ちを聞いてもらいたいが、人形の身では会うことは叶わないと言う。安江は新造とは別れられないと語り、一緒に死んで欲しいと言って、京都へ行こうと誘う。「鳥辺山心中」の道行を口ずさむ安江は、新造と寄り添って歩いていく。

 

■ 

連休明けの会社に、警察から安江が嵐山を一人でさまよっているところを保護したという連絡が入る。病院で診察を受ける安江は、狂人と言われてもいいと語る。世間は清純な恋をしているものがおかしくて、昼間から戯れているような濁って腐ったものたちが正常であると思っているのだろうと言う安江。院長は、付き添いに来ていたまさ子や支社長に安江が「病気」であることを告げ、安江はそのまま入院することになる。

診療室、麻酔で眠りに落ちた安江に、医師たちが電気ショック療法を加えている。新造は、手を合わせて祈っている。

病室で目を覚ました安江は、傍らの新造に語りかける。安江は、妻や医者たちが自分を精神病者として扱い、新造の姿が見えなくなるよう、声が聞こえなくなるようにしようとしている、それに負けはしないと話す。新造は、安江の妻は彼を心配しているのだと言い、妻の傍へ戻るように諭して、その姿を消す。安江は彼女を引き止めようと声をあげ、新造の姿はふたたび見えるようになる。

 

■ 

医師たちが安江の治療方針を議論するうち、彼に文楽人形を見せることが提案され、院長によって桐竹紋十郎が院内の慰安を兼ねて呼ばれることになる。紋十郎は三味線の音色に合わせて新造の人形を遣って見せ、入院患者や医師、看護婦たちがそれを興味深そうに見ている。一方、安江は病室で三味線の音を聞き、立ち上がる。

紋十郎はひとしきりの芝居を終えると、人形のつくりの説明を始める。八汐、お福、傾城のかしらなどを次々見せていくが、その中で新造の人形を示し、「人形の構造でございますが」と言ってかしらを引き抜き、衣装を脱がせる。そのとき、「やめてくれ」という叫び声が響く。みなが驚いて振り返ると、そこにはいつのまにか安江の姿があった。院長は構わず紋十郎に説明を続けさせる。

安江は病室へ帰り、「姿を見せておくれ」とつぶやく。現れた新造は、背を見せると、髪をぱらりとふり乱し、窓から飛び降りる。安江は叫び声を上げ、部屋を見回し、「姿が見えない、姿が見えない」と言ってベッドへ打ち伏し、激しく泣く。

 

■ 

……安江は病室でまさ子にセーターを着せてもらっている。それは安江が退院する日のために、まさ子が編んだものだった。安江はこんな派手な色と躊躇するが、まだ若いんだからと言うまさ子。そして、自分も若くなって、安江を誰にも取られないようにすると言う。安江は自分の相手をしてくれるのは文楽人形くらいだと言い、まさ子は油断がならないと答える。安江は「秋も深くなったね……歩いてみたいね」と妻に語りかける。まさ子は「一緒にまいりましょう」と返す。窓の外の秋が深まった空には美しいいわし雲が浮かんでいる。安江は無表情である。


*要約は筆者。文中用語当時ママ。

 

なんとまさかのホラーサスペンスだった。

この話、「文楽人形の魔性に取り憑かれてしまう」ということ自体に共感できないと理解を得られない脚本だと思うけど、これ、当時どれくらい理解されていたんでしょうか……。

物語の鍵となる、安江の幻覚として登場する「新造」の文楽人形は、女方人形遣いのトップスター・桐竹紋十郎を起用し、本物の文楽人形を使用するという演出。この人形の姿は安江以外には見えない設定である。

これについて、義右氏は「現代なら新造の人形もCGで表現できるだろうが、父はそうはせず、実物にこだわっただろう」と書いている。それは、新造の人形は、幻覚上の存在であったとしても、安江にとっては「実物」だったからだ、というようなことを書いておられるが……、これ、「ある男が見た幻覚上の女を実写で表現した実験的映像」ということではなくて、「文楽人形の魔性に取り憑かれた男の話」なんじゃないかなと私は思う。新造は単なる幻の女ではなく、文楽人形として立ち現れる。安江もまた新造を文楽人形として捉えている。なので、新造の人形は実物で、本物の人形遣いが遣っている必要がある。

依田義賢文楽人形の持っている魔性について、実際の感覚に即して描こうとしたんじゃないのかなあ。脚本を見る限り、文楽についての描写が的確で、芸術祭出品用の素材としてヤッツケで盛り込んだわけではないと感じる点がいくつもあり、さすが依田義賢だと思わされる。

たとえば、会社の応接室で新造と語らうシーンに、はじめて新造と出会ったとき=安江が支社長からもらったチケットで『心中天網島』紙屋内を観に行ったときの舞台が回想として入れ込まれている。そこでは、舞台映像をバックに、新造の人形(=おさん)を見た安江が彼女を見初め、人形に引き込まれていく様子が語られる。

こんな可愛い者が、この世にあったのだろうかと思った。
それからだよ、興行のある間、欠かさず、毎日文楽座へ通うようになったのは……
浄瑠璃の外題なんかどうでもよかったんだ。
その顔その姿さえ見ればよかったんだ。
白い艶やかな頰、襟にうずめたおとがい、息づく胸のふくらみよう。

これを読んで、自分にも覚えがあると思ってしまう人、いっぱいいると思う。「浄瑠璃の外題なんかどうでもよかったんだ」、まさにその通りとしか言いようがない。人形の美しさの描写も、容姿自体以外の人形独特の所作を褒めているのが特徴的。

いちばん最初に新造の人形が現れたときの「お前さんが来るので三味線が(聞こえたんだね)」という台詞も、なかなか味わい深い。

また、最後に出てくる院長は桐竹紋十郎と知り合いという設定のようだが、院長、若い医師が「(安江に)一度、文楽人形を見せてみたらどうでしょうか?」と言うのに対し、「文楽の何の人形を見せるのだ。文楽の女の人形といってもいろいろある」と、それはその通りなんだけど、文楽知らん人にとっては完全にどうでもいい、異様に細かいことを言うあたりにこだわりを感じる。

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上記の舞台シーンのおさんは、脚本では桐竹紋十郎の出遣いと指示されている。これは現実の舞台の通りである。しかし、安江の幻覚の中の新造は、ひとりでに人形が動き回っているかのような演出にされたらしい。幻覚の新造も紋十郎師匠が遣っているのだが、人形遣いの姿が見えないよう工夫されていたようだ。『イメージ―その理論と実践』には何点かの撮影中スナップが掲載されていて、その撮影方法を知ることができた。

人形が応接セットの椅子へ着座している状態では、椅子の背もたれをくりぬき、そこから主遣いが手を差し入れ、左遣いも椅子の背面へ回っての二人遣いだったようだ。アパートのシーン(畳の上に敷いたざぶとんに座る)ではセットの畳を抜いて、主遣いが床へ潜って一人遣いで遣ったらしい。

夜の中の島公園のシーンのスナップには、新造が立っているものがある。周囲が暗いので、黒衣で人形遣いの姿が見えなくなるようにしているのかな。立ち方が女方にしては本当にただの棒立ちになっているので、カメラ回ってないシーンかもしれないけど……。

最後に病室の窓から飛び降りるシーンをどう演出していたかは、義右氏の記憶がないということだった。シナリオでは背を見せて飛び降りることになっている。掲載されているほかのシーンのスナップを見る限り、新造には、人間的、映像的リアリスティックな演技をさせていたわけではなく、文楽の舞台の所作のセオリーを取り入れていたのではないかと思う。論考には義右氏の推測が書かれているけど、あくまで撮影上のトリックの説明で、文楽の演技に紐付けて書かれていないため、ちょっとイメージがつかなかった。

また、新造が安江の生活に溶け込んでいるように見えるよう、小道具類も文楽人形のサイズを配慮して作っていたようだ。アパートで新造の人形がちゃぶ台の前に座っているスナップでは、ちゃぶ台がちゃんとお人形さんサイズに作られているのがわかる。

 

 

 

ところで、さっきから使っている「新造」という言葉。義右氏はこの「新造」を「新人遊女」という意味に取って小春だと解釈していらっしゃるようだが(なぜか紙屋内のおさんを小春だと思っておられるようだった)、人形からすると、小春ではなく、おさんだと思う。写真を見る限り、「新造」の人形はまゆを引いていない老女方のかしら。髪型も娘や遊女の結い方ではないように思う。安江が新造を見初めた舞台で演じられているのが紙屋内、おさんが心情を語る場面(〽その涙が蜆川へ流れて小春の汲んで飲みやろうぞ……)であることからしても、ここでいう新造はおさん=「商家の若奥さん」だと思う。現実の妻の存在との対比からすると、安江の幻覚上の恋人は小春の拵え(娘のかしらに遊女の着付)でいくのが筋が通っている気がするが、なぜおさんにしたのだろう。妄想の恋の相手が娘(遊女)でないというのは、安直さを回避していて、上手いと思うが。

ただしおさんと言っても人形のつくりは特殊で、現行なら武家の妻に使うような目が大きいタイプの老女方のかしらに、着付けは黒の付け襟なしの町家の奥さん風の菱形模様が入ったもの。少なくとも現行のおさんとは違うが、当時の三和会ではそうしていたのか、それとも、どの役も感じさせない、架空の「新造」のつくりにしたのか。

 

 

 

安江の幻覚を覚ますのが「桐竹紋十郎の人形解説」というのは、本当にリアル。

ほんっとにあの人ら、ものすっごいフランクに人形の首ひっこ抜きますよね。申し訳ないけど、シナリオ読んで、ちょっと笑った。文楽を観始めたころ、レクチャーで人形の首がひっこ抜かれるのを見たときには、本当に大ショックだった。かしらが外れるのは知識として知っていたけど、「くびとれたーーーーーーーーー!!!!!」とめちゃくちゃびっくりした。いまでも鑑賞教室等でかしらだけを手にスマイルで解説する人形遣いさんを見ると、若干、引く。人形遣いさんたちは人形の首は取れて当たり前だと思っていらっしゃるのだと思うが、客は人形を人間だと思っているので、もうちょっとマイルドにやって欲しい。突然、人形の手をぽろんと取り出してきたりするのも、怖い。

病院へ慰問にやってくる桐竹紋十郎は、本物の桐竹紋十郎が本人役で出演。『テレビドラマ』1959年12月号掲載の製作中スナップでは、製作陣・俳優陣に混じって本読みへ参加している様子が写されている。ちなみに本作の放送は『浪花の恋の物語』公開(1959年9月公開)と近い。

 

 

 

義右氏の論考には書かれていないが、この話、単に文楽人形を登場させているだけではなく、要素を『心中天網島』から取っているんじゃないのかな。『心中天網島』では、治兵衛は最終的におさんと別れさせられ、小春と心中してしまう。しかし本作では、これとは異なる結末を迎える。新造の人形はひとりで消え、安江は妻・まさ子のもとへ戻る。しかし、なぜラストの安江の表情は無表情なのだろう。彼の心は新造とともに心中してしまったのだろうか。義右氏がお持ちの脚本と「テレビドラマ」掲載の脚本にはいくつか相違点があり、上記あらすじでは双方を取り合わせて要約している。最後の安江の無表情の指示は「テレビドラマ」掲載の脚本にはあり、義右氏の紹介文にはなかった要素だが、実際の演出ではどうしていたのだろう。

新造の性格は、浄瑠璃に出てくる女の良いところを抽出して結晶化させたような造形。実際には浄瑠璃に登場する女って、生身の女性の持っているパッショネイトをクソヤバな方向に爆発炎上させたようなヤツがたくさんいる(というか、そういった勢いがありすぎるヤツのほうが多い)のに、この新造はキレイなとこどりをしているあたり、幻覚。世話物に出てくる男に都合よすぎの奥さんキャラよりも都合いい。新造の安江に対しての台詞「わたしらは、仲のよいお茶のみの友づれでいまひょう、なあ……」とか、人間には言えない。いかんせん文楽人形なので、実際問題手握り以上のことは出来ないから(ほんまは茶も飲めへんやろ!舞台上ではガバガバ飲んどるけど!)、安心して恋ができるところには味があるのだが。

それにしても、「あきのひとならば」という題名は、どういう意味なのかしら。「道行名残の橋づくし」にある、「短きものは我々がこの世の住まい秋の日よ」が着想のもとだろうか? 時雨の炬燵とかにそういう詞章があるのかな?

 

 

 

 ■

配役に関しては、文楽人形の幻覚に取り憑かれる冴えない中年男役が益田喜頓(当時50歳)というのがはまり役であるとともに、絶妙な怖さを感じさせる。当時のテレビ評を読む限り、文楽人形相手の芝居は結構大変だったようだ。

また、安江に妄想を抱かせたのも紋十郎師匠、幻覚上の人形を遣っているのも紋十郎師匠、幻覚を覚ますのも紋十郎師匠というのはキャスティング上の結果論ながら、よく出来ていると思う。(当時のテレビ評に、新造の人形の演技を褒めているものがあった。でも本物の舞台のほうが良い><的なことを書いていたので、多分評者は文楽マニアだな。)

新造の人形には声の出演がついていて、安江と視聴者が聞いている分には本当に自分でことばを喋るという設定。安江は普通のおじさん風の現代的な口語だが、新造は浄瑠璃がかりの大阪弁(ちょっと京都弁風?)口調で話す。ただしこのCV、残念ながら文楽からの出演ではなく、当時関西テレビ制作の番組に出演していた速水雛子という女性の方がついていたようだ。

ほか、ラストの病院のシーンでは、少なくとも三味線さんは出演している模様。スナップには後ろ姿しか写っていないのでどなたかは不明だけど、着付の紋がぼんやりと写っているので、わかる方にはわかるかも。

  

 

 

関西テレビ初の文化庁芸術祭出品作品というだけあり、大変力が入った企画であることが伺えるが、当時のテレビ評を読むと、照明・人形に見所はあるものの、最終的な出来はややいまひとつだったようだ。でも、映像が現存しているならば、観てみたい作品である。

 

 

 

  

 

┃ 参考文献

 

 

 

 

 

*1:依田義右氏の専門は映画関係ではなく、フランス哲学。そのせいか、映画の専門書ながら、この項のみ文章が談話風。

文楽 7・8月大阪夏休み特別公演『仮名手本忠臣蔵』五段目〜七段目 国立文楽劇場

忠臣蔵夏の部。今回の第二部は早々にチケットが完売。最後列に補助席も設置され、舞台も客席もにぎやかな公演になっていた。

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五段目 山崎街道出合いの段〜二つ玉の段、六段目 身売りの段〜早野勘平切腹の段。

今回の配役が発表されたとき、勘平が和生さんという配役に「え!?」と思った。和生さんがそんな役(と言ったらおかしいが)で出る必要があるのか? 他の配役も「それでいいの?」って感じだし、どうするつもりなのかと思った。収拾つかなくなるんじゃないかと思っていた。

しかし、実際に観てみると、和生さんの勘平は、往年の日本映画の美男俳優のような、美しく悲劇的な端正さをたたえていて、衝撃的だった。勘平って、いままで、ちょっと下卑た感じがする気がして、同情できなかった。本人なりには頑張っているんだろうけど、だらしなさゆえに身を滅ぼしたっていうイメージがどこかにあった。が、印象が変わった。普通の真面目な若者が、巡り合わせが悪くて運命の歯車に巻き込まれ、ついに押しつぶされて死んでしまう一部始終を見てしまった気がするというか……。おかるの母〈吉田簑二郎〉に責め苛まれるくだり、背筋をまっすぐに伸ばして肩を張り、首をぐっと落とすように顔をうつむけてその言葉を聞いているんだけど、そのとき、ほんの少しかしらを左に傾けて苦しそうにしていて、また、ちょっとずつ顔の伏せ方を変えているんですね。次第に苦悩が深まっていくさまの、そのわずかな表情が勘平の孤独な辛さと後悔を感じさせた。五段目、六段目の見方を教わった気がする。さすが和生さんだと思い直した。あと、芝居と全然関係ないが、今回の和生さんは血色がよかった。

斧定九郎は玉輝さん。瑞々しい美しさのある、端正な悪漢ぶり。でも斧定九郎はもっと若い人にやらせてあげればよかったのに。

おかるママの簑二郎さん、本当、田舎の普通のおばあちゃんという感じで、とてもよかった。なかなか出来ない普通感だと思う。勘平やおかる、与市兵衛は他人のことやその体面をずっと気にしているけど、ママは純粋に家族自体のことしか考えていない視野狭窄感(=本来は人間としてこれこそがまともであるはずの感性)が、ママらしくて、とても良い。浄瑠璃のもつ何重にも重なった不条理さを浮き立たせていて、得難いテイストだと思う。

原郷右衛門は玉也さん。いつもながら、渋い。微妙に首を動かすときの振り方も、単なる左右振りにしないとか、リズムを一定にしないとかで、ニュアンスがついていた。出番が短く、派手な見せ場がなくても、出るだけで舞台が引き締まる。ほかの人形の出演者は作為感が薄い分、いかにも辛苦を重ねた老武士らしい佇まいの作り込みが効いていた。

あと、いのししは普通に使い古されたいのししだった。あのいのししが新しくなるのはいつの日か。

 

 

 

七段目 祇園一力茶屋の段。

遊女おかる〈吉田簑助〉の出は夏休み公演最大の見所だった。私はこのために上手の席を取ったのだ。おかる、可愛い。可愛いよ。可愛い。かわいありがたさのあまり、泣けてきた。

おかるは茶屋の二階で酔い覚ましをしている設定だけど、二階といってもいかんせん芝居の舞台なので、大道具は中二階のような高さ。にもかかわらず、少し顔を上に向けて建物の外を見やっているおかるの姿は、ひんやりとした夜風の通る静かな二階の窓辺で、わずかにまたたく星を見ながら涼んでいるよう。おかるしかいない二階はしんと静か、階下の三味線の音が風に乗ってわずかに聴こえてくるような。舞台のほかの場所とは隔絶された空間のように見えた。由良助〈桐竹勘十郎〉が階下で演技しているあいだ、柱に身をまかせて、上気して火照ったからだを少しうざったそうにしているのが艶っぽく、愛らしい。酔いで潤んだ目はふちが赤くなり、くちびるが酒に濡れてつやつやとしているのではかしらと思わされる。手鏡を掲げて手紙を覗き見ているときの、体をうしろに大きくそらせた姿の艶やかさも印象的。簪をカタン(「チン」?)と落としてピョコンと飛び上がる様子は簑助さんらしい小動物感。小柄で華奢な体つき(のように見える遣い方)からくる小娘のような愛らしさと、女郎らしい浮世の垢がついた色っぽさの同居に味がある。

由良助に「船玉様が見える〜!」と言われたときの「ええええ?!?!?!なに!!?!??どこがめくれてる!?!?!?!?」と突然焦って着物の裾をおさえてばたばたする仕草はとても可愛かった。「スカートがへんなとこにひっかかってめくれてる女子がこっそり教えられて騒ぐ」感がかなりあった。なお、由良助は、絶対見えない距離から言っていた。酔っ払いの幻覚だった。簑助様の男品定めは厳しいのである。そんじょそこらの若造には絶対見せない。*1

しかし吉田簑助本日都合によりはしごを降りたら生娘になった。ここまで近接して交代する代役だと落差があまりに見えすぎる。事情や今後への考慮はよくわかるが、さすがにこの段は……。

おかるの太夫は津駒さん。簑助さんの、清楚なようで、妖艶なようで、少女のようで、大人の女の、クルクルと様子を変えていくおかると、この津駒さんの過剰とも思える濃厚な色気との取り合わせが面白い。津駒さんはあのむせ返るようなコテコテ感が良いんだけど、配役の取り合わせ的に由良助より覇気があり、恐ろしく声がデカい女かのようにになっていた。下手したら平右衛門より勢いがあるので、癪を起こしてグエグエ言っているとことか、かなりやばかった。津駒さんは溶けかけのソフトクリームくらい汗をかいておられたが、おかるが喋っていないときも汗を拭かず、そのまま静止しておられた。顔を拭くと、テンションが途切れるからだろうか。

 

わたくしとしては当然のことながら、平右衛門は玉志サンの回に行った。平右衛門には、奴という性質と人形の容姿からか、なんとなく、ねちっこくオヤジっぽいイメージを持っていたのだが……、この平右衛門は若いというか、年齢を感じさせないスッキリとした佇まいだった。カラリと明朗で、一本気で、めちゃくちゃ大元気で、陽気な優しいお兄ちゃんというイメージを受けた。例えて言うなら、鳥山明マンガの登場人物のような、湿気や影を感じさせないパーンと明るい雰囲気。おおぶりな人形そのもの以上の大きく伸びやかな動作とパキンとした爽やかなキレが、平右衛門のまっすぐで飾り気のない人柄を感じさせる。妙にピコピコとしてせわしないのも良い。というか玉志サンのせわしなさが役にマッチしている状態。寝入った由良助に布団をかけてあげるところ、自分より小柄な由良助を「そぉ〜っと、そぉ〜っと」一生懸命丁寧に扱っているのが可愛かった。猫がひざに座って寝始めたらそのまま動けなくなって永遠にトイレをがまんしてしまうタイプの人、になっていた。

最後のほうの、おかると向き合ってペアで演技するところがとくによかった。前半も結構大きな身振りをみせる遣い方だったが、ここは人形の体自体よりも数倍のスケールを感じるかなり大きな動きで、それまでの演技とメリハリをつけていた。平右衛門のテンションに、おかるが追いついてなかった。ご本人の演技にまったく迷いがない。やりきることに集中して、合わせにいかなかったんだなと思った。これからはそうであって欲しい。もっと美麗な役柄のほうがお似合いになる方かと思っていたけど、こういう荒物的な役も(が?)実は芸風に合ってるということなのか、以前からやりたくて、来たらどうするということをずっと考えておられた役なのか。ある意味、第二部最大のベストアクトだった。

 

今回の由良助は勘十郎さんだった。ものすごい真面目に考え込んで、ものすごい真面目に芝居してる感じになっていた。真面目が狂った方向にいく真面目感が勘十郎さんの良いところだと思うんだけど、由良助は狂人じゃないから……。あの変なキモい紫の着物、勘十郎さんだと頑張って着てる感じ(玉男さんはキモ紫の着付で頼む)。勘十郎さんなら、ふざけていてもはじめから黒の着付けが似合いそうだ。そのほうが、あの、本来そんなんじゃない人が考え込みすぎたあまり真面目にふざけている感じに合う気がする。すごい真面目な格好なのに、居眠りしはじめて茶屋の派手なふとんかけられちゃったり、おかるの簪を拾って自分が挿しちゃったりしたら、おもしろい。勘十郎さんって演出は玉男さん以上に地味に決めていくほうが逆に芸風自体の派手さが映えそうな気がする。あそこまでわざとらしくしなくても客に伝わるし、舞台映えもして間も持つと思う。へんな言い方だが、勘十郎さんはご自分でご自分に対して思っているよりうまいのではないかと思うのだが……。勿体無く感じる。

最後のところは、さすがに演技過剰に感じた。今回は九段目がついていないから、ここだけで完結できるよう由良助の本心をわかりやすくしようとしているとも取れるが……。勘十郎さんは由良助の個人としての感情、悔しさ自体を強調されていたように感じたが、ここで由良助が語るのは「個人」の感情なのだろうか。彼はここでもなお「家老」なのではないか。由良助に「個人」はあるのか? 『仮名手本忠臣蔵』にとって「個人」とはなにか? 浄瑠璃の根幹にかかわる、重要な問題であると思う。このへんどういう解釈で演じられたのだろう。

あと、七段目の由良助、立ち姿(酔ってふらつくフリ)が難しいのかな。ふらつきかたがやりすぎというか、「?」な感じだった。酔っ払いの演技はお酒が好きな人より飲まない人のほうが上手いと言われているが、そういうこと?

 

ほかによかったのは、竹森喜多八(由良助を訪ねてくる侍三人組のうち真ん中にいるヤツ)役の玉彦さん。一瞬しか出てこない、おそろしく無口な役だけど、じっと真正面に構えた赤ら顔のかしらとピンとした背筋が無骨で生真面目な佇まいで、よかった。少し首を襟に埋め気味なのも猪武者感があって良い。

鷺坂伴内の太夫の希さんは最高ウザかった。だまれボケ〜!ケツから口まで竹串突き刺して焼き鳥にすんぞ〜!って感じのウザさだった。太鼓持ち、腰巾着の鑑だった。人形の文司さんは言わずもがな。「これは自分とそっくりな人形を使って演技させるという大変特殊な伝統芸能なのかな?」状態で最高だった。あの「本人役で出演」感、やばい。

あと、斧九太夫〈桐竹勘壽〉はめがねをかけていなかった。人形めがね萌えとしては、めがねをかけてほしかった。斧九太夫はやや肩をすくめて頭を突き出したような姿勢で入ってくるところからして性悪感が出ており、味があった。人形は出が勝負ということがよくわかった。

 

 

 

観る前は「この配役、大丈夫なんか」と思っていたが、端正にまとまっていた。ただ、4月もそうなんだけど、さらさら流れていく印象だった。五・六段目も、七段目も、均等にまとまっている印象で、わーっという盛り上がりがない。第三部の人を一部こっちに引っ張ってきて、七段目をもうちょい濃い味付けにして欲しかった。11月はどうなるのだろう。

個人的には、七段目の由良助を玉男さんにしないのなら、もう話題性重視で由良助を三交代にして、4月勘十郎さん、7・8月玉男さん、11月和生さんで、3人リレーにすればよかったのにと思った(なげやり)。

 

それにしても、おかるファミリーって、パパ以外、思った瞬間行動しちゃうタイプだな。家族ですきやきとかやったら、肉の取り合い、しらたきの味のしみこみやねぎの煮崩れ待ちをするかどうか、焼き豆腐買い忘れた等でボロ家が崩れるほどの大騒ぎが起こりそう。勘平もよくあの家に婿入りしたな。山崎街道で千崎弥五郎に出会わなかったとしても、そのうち、なにはなくとも切腹に追い込まれそう。

 

 

 

 

展示室のツメちゃんに、夏祭浪花鑑にいそうな人(殺人事件が起こっていてもおみこしに夢中な人)が参入していた。

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大阪グルメ。はり重カレーショップのビーフワン。味付けが薄口で、肉が柔らかくて良かった。

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*1:でも、さきおととしの東京での通しでは、癪を起こして平右衛門(そのときは勘十郎さん)に水を飲まされるところ、口移しでやってた気がするな。あれは勘十郎さんがやりたかったのかな。今回は柴垣の出から代役で一輔さんに交代だったので比較できないが、玉志さん平右衛門からは普通にひしゃくで飲まされていた。それ以前にあのおふたり、全然兄妹に見えないド他人ぶりで、ある意味おもしろかった(失礼)。

文楽 7・8月大阪夏休み特別公演『日高川入相花王』『かみなり太鼓』国立文楽劇場

第一部の『かみなり太鼓』だけ引き幕が定式幕でなく、特製のものだった。踊っているのは妖怪さん?

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まず最初は『日高川入相花王』。

上演前に、定式幕(このときは橙・黒・緑の普通の幕)の前で、小住さんによる解説がついていた。「道成寺は、ここから歩いたら1日がかりですね〜。電車だと2時間くらいですね〜」と歩く前提で話し始められたので、さすがだと思った。

清姫というのはお金持ちのお嬢様で、京都へ旅行に行ったときにかっこいい男の人に一目惚れしてしまったんですね〜。そのあと、安珍という旅のお坊さんが清姫の家に泊まったんですけど、それが京都で会った、好きになった男の人やったんですね〜。ところが安珍には「おだまき姫」という彼女がおったんですね〜。清姫には黙ってその彼女と逃げてしまったんですね〜。清姫は「騙されてた〜〜〜っ!!!」と思って、安珍を追いかけたんですね〜〜〜〜〜。

………………………………と、マイルドに話していたあらすじも、途中から通常営業というか、やばすぎる不穏な暗雲が立ち込めてきて、笑った。これでもだいぶカドをまるめているつもりなのが良い。

お子さま向けだからか、演出をかなりわかりやすく振っていた。具体的にはガブの変化を多めにして、見所をわかりやすくしていた。本公演だとどこで変化するかをあらかじめわかっていないと見逃すことがあるが、ちゃんとアピールしていた。それと、川を渡る場面では、雷光を光らせていた。場内が暗くなったので、お子さまが若干泣いていた。

しかし侮れない部分があり、清姫太夫が三輪さんなのと、船頭の人形が勘市さんなのが渋すぎる。ちびっこには理解できない芸風。若いモンにやらせといてもいいところ、「子守りをエクスキュースとして文楽に来た」系の文楽マニア保護者のみなさんのためだろうか。清姫太夫によってはマジヤバ勢いありすぎ女になるが、三輪さんだといかにも麗人といった雰囲気があり、ちょっと大人っぽい感じで、育ちのよい美人お嬢様だった。スラリと背が高く、首が細くて手足がスっとしてて、髪がいい匂いしそうな感じだった。船頭はふざけて踊るところののびのびユーモラスな動作がとてもよかった。清姫の覇気にびびって逃げる「〽︎鬼になった、蛇になった」では、ツノは頭から生えていたが、毛はへんな場所から生えていた。

 

 

 

解説「文楽ってなあに?」。

今回の解説はスペシャルバージョン by 玉翔さん。日高川の幕が閉じたらすぐにアナウンスが入り、客席の下手通路後方から玉翔さんがお人形さん(あのいつも鑑賞教室で使ってる、注進の人)とともに登場。通路脇のお客さんにお人形さんがハイタッチをしながら舞台まで歩いていくという、いわゆる「客席降り」サービスをしていた。玉翔さんは「プロレスラーの入場みたいですねー」とおっしゃっていたけど、大地に咲く一輪の花、文楽座イチの男前、吉田玉翔なので、そこは若手俳優みたいですねーということで……。自分は通路脇席を取っていたので、お人形さん(というか左を遣っていた和馬さん)にハイタッチしてもらえた。玉翔さん、今回もちゃんと左・和馬さん、足・清之助さんを紹介していた。かわいこちゃん2人組だった。

人形解説も通常とは異なり、デモンストレーションを衣装あり/衣装なしで見せていた。人形って、脱いだら体がある=ダミー人形的なものを人形遣い3人で持ち上げていると思っている観客が多いかと思うので、頭・手・足がそれぞれバラけているにもかかわらず3人で動きを揃えているとわかるようにするのは、面白い試みだと思う。鑑賞教室でもこうすればいいのにと思った。そして、玉翔さんて、このデモンストレーション、本当にお上手になったよね。カンヌキとか、以前より明らかに綺麗に決まっている。動きのつなぎがスマート。

お子さま人形遣い体験は、いままでに見た中でもっとも出来ていなくて、爆笑した。人形よりちっちゃい子3人でやっていたため、高く差し上げられないので、人形が子供と並んで地面に立っている状態。そして真夏の駅ホームでへたれている中年サラリーマン男性のようにぐんにゃりしていた。まともに立てないので、最終的には焦りまくる清之助さんがほとんど持っている状態。めちゃくちゃ笑った。

お人形はヨタヨタながら、お子さまたちはがんばっておられた。左を遣ったお子さまは、体験の感想を求められ、「思ったのと違う方にいく……」とおっしゃっていた。玉翔さんはそれに力強く「そうですね!!!!」と返していた。

今回はこのあとに30分休憩が入り、お子さまたちのおひるごはんタイムが設けられていたのがよかった。

 

 

 

親子劇場のメイン演目、『かみなり太鼓』。

2014年に初演された新作の再演。あらすじは以下の通り。

ここは大坂・島之内の太鼓屋伝兵衛。天神祭もほど近い夕方、その軒先では、ひとり息子・寅ちゃん〈桐竹勘次郎〉が暑い暑いと大騒ぎ。冷やしてあったすいかにかぶりつき、その桶で行水して全裸で座敷をうろついていると、おかあちゃん〈吉田簑紫郎〉がやってきて、浴衣を着なさいと追いかける。「雷さんにおへそを取られまっせ」と脅しても言うことをきかない寅ちゃんに、のしのし現れて着物を着なさいと注意するおとうちゃん〈桐竹紋秀〉。が、そのおとうちゃんもふんどし一丁。おとうちゃんも裸やと騒ぐ寅ちゃんに、ふんどしの布の先を肩にかければ大丈夫とふんぞり返るおとうちゃん。おかあちゃんは呆れ果て、二人ともはよう浴衣を着て蚊帳に入りなはれと怒りはじめる。父子がのろのろ着替えながらしょうもないヨタ話をしていると、ついにおかあちゃんが大激怒し、「はよう蚊帳に入りなはれ💢」と雷を落とす。ビビって蚊帳に駆け込む二人、そのとき、空から何かが降ってきて、軒先にぶつかって庭へ落ちる。

一家が驚いていると、庭から「痛い、痛い」という声が聞こえる。そこにいたのは、虎皮のふんどしを履き、チリチリパーマに二本角を生やした赤鬼?〈吉田玉佳〉だった。おとうちゃんはびっくりして「鬼は〜外!!」と豆を叩きつけるが、赤鬼?は自分は鬼ではなく、「かみなり」のトロ吉だという。修行中のトロ吉は太鼓を叩くのが下手すぎて、太鼓を「ゴロゴロ」ではなく「トロトロ」としか鳴らせない。それゆえ雲が言うことを聞いてくれなくて蛇行しまくり、なんとかしがみついていたところをおかあちゃんの落とした「雷」に驚いて手を離し、落っこちてしまったというのだ。その拍子に太鼓は壊れ、トロ吉は腰をしたたか打って痛めていた。

トロ吉はおとうちゃんに太鼓を修理してもらう間に、マッサージが得意なおかあちゃんに腰を揉んでもらうことに。ところがおかあちゃんのマッサージはわりとダイナミックな整体だったので、トロ吉は痛い痛いと大騒ぎ。しかし効果は抜群で、トロ吉の腰は元どおりになり、おかあちゃんは得意顔なのだった。そうこうしているところへ空から紙がヒラリと落ちてくる。拾ってみると、それはトロ吉の叔父からの手紙で、トロ吉の母は息子が地上に落ちてしまったことをいたく心配しており、明日から太鼓くらべも始まるので早く帰るようにという旨がしたためられていた。

大泣きするトロ吉だったが、おとうちゃんが言うには、トロ吉の壊れた太鼓を修理するにはまだまだ時間がかかるとのこと。そこでトロ吉はおとうちゃんの作った太鼓を借りることに。トロ吉の選んだ太鼓をおとうちゃんが試演すると、太鼓は見事に「ゴロゴロ」と鳴り響く。しかしトロ吉が叩くと「トロトロ」。それを見たおとうちゃんに叩き方が悪いと教えられたトロ吉は、おとうちゃん・寅ちゃんと一緒に太鼓の稽古。すると次第に空から雲が降りてきて、太鼓屋のまわりは一面黒雲が立ち込める。そのあまりに大きな音に飛んできて、「近所迷惑を考えなはれ💢」と再び雷を落とすおかあちゃん。それにビビって飛び上がったトロ吉を雲が掬い上げる。トロ吉はおとうちゃんの太鼓を譲り受け、太鼓屋一家へ別れを告げて天へと帰っていった。

夜、物干し台で天神祭の花火を見上げる太鼓屋一家。その空にはトロ吉の鳴らす雷の音が聞こえる。天神祭に雷が鳴るというのは、このときからとか、なんとか。


新作、しかも子供向けというと、微妙かな?と思っていたけど、丁寧で密度があり、とてもよかった。チャーミングで優しい雰囲気にほっこりした。

伝統芸能のアレンジ」とか「古典の現代的アップデート」ってよく見かけるけど、「いやそれなら普通に本物観たほうがいいです」と思ってしまう。けど、本作は、本公演につながるエッセンスが濃厚なのが良い。

文楽本公演を、「素材」と「味付け」に分けるとする。そうしたときに、この『かみなり太鼓』は、本公演の持っているクオリティの高い「素材」を、食べやすい味付けにアレンジにしているイメージ。外部制作だと、どうしても「味付け」のほうのコピーになって、いわゆる、本物の「和」ではないという意味の「和風」になっていることが多い。外部制作なら単発で終わるのでそれでもいいのだろうが、文楽劇場が制作するならば、次(文楽と社会との関係性の将来)につながっているものを観たい。

そういう意味で、本作『かみなり太鼓』は、お子さんにも、親御さんにも、演目関係なくやってくる固定常連客にもアピールできるものがあると思う。娯楽作品としてすごく丁寧で、観客に楽しんでもらおうという心意気を感じた。寅ちゃんがすいか割りをしたり、そのすいかを食べると減っていったりという楽しめる仕掛けや、トロ吉が落下してくる場面では周り舞台を使って舞台に手前(庭)/奥(寝間)という奥行きを出すなど、舞台効果上の視覚的なメリハリもあって飽きずに観られた。出演陣、文楽劇場制作のポテンシャルの高さを感じた。

寅ちゃんはパーフェクトなヌードだった。文楽には子太郎とか団七とか、準・裸の人は時々登場するが、寅ちゃんは全・裸、完全にすっぽんぽんだった。人形浄瑠璃ならではの表現だった。それはそれでよろしおますけど、たまが片方見えなくなっているのが気になって仕方なかった。おしい。人形の衣装や髪が乱れている場合、動作にまぎれて左遣いの人がなおすことがあるが、たまのゆがみはなおしていなかった。足に隠れて左遣いさんが気づかなかったのか、いや、気づいていても客前ではなおせないか……。メンズは大変だと思った。

こうなると期待がかかるのはおとうちゃん。私&周囲の席の親子連れ合計5名は超期待して「紋秀頼むっっっっ!!!!!!!」と祈ったが、脱いでくれなかった。でも、他のふんどし系人形比、もっこりしていた。ふんどしの先を肩にかけたおとうちゃんはソクラテスのようになっていた。おとうちゃんは「そのへんにおる大味なおっちゃん」「一応ちゃんと職人として働いとります」的なおとうちゃん感があり、かなりよかった。おとうちゃんは悠々としていて、無駄に身長180cmくらいありそうで、天井にいるゴ…をも退治してくれそうな感じだった。

この話、チラシのあらすじを読んだときにはトロ吉は童子なのかと思っていた。寅ちゃんと同じくらいの年齢で、ちびっこ同士でおともだちになるのかと思っていたのだが………………、見た目がどう見ても40代くらい………………。40代で「修行中」って……、文楽技芸員……? 単なる老け顔の人ですかね……??? 太鼓がまともに叩けないのはぜんぜん稽古してなかったからとしか思えないんだけど、こいつやばないか? 性格はおっとりしていていい人なんだろうけど、そんな歳でお母さんにも心配されて、いろいろ大丈夫なんだろうか。こういう人現実にも時々いるけど、ほんまやばいよな……。と複雑な気分になった。

トロ吉はゆったりというか、不器用そうというか、微妙にどんくさそうな仕草がのんびりした雰囲気を作っていて、可愛らしかった。

トロ吉のおじさんからの手紙にあるトロ吉ママの嘆きには、「〽かならずかみなりじょうぶっとぉお〜」と、卅三間堂棟木由来の節がついていた。読み上げるおかあちゃんは肩衣をつけて見台を置いていた。双眼鏡を持っていかなかったため、肩衣の紋が見えなかった。残念。

最後、雷太鼓を打ち鳴らせるようになったトロ吉は、雷雲(ダークグレーのもこもこボディの下部に⚡️がついている可愛いリフト produced by 勘十郎さんらしいです)に乗って宙乗り。ここだけ出遣いで、玉佳さんがめっちゃ汗だくで頑張っておられた。今回は客席に張り出した短い花道が設置されていて、そこからの出。偶然すっぽんの真横の席を取っていたため、むちゃくちゃ間近で見ることができ、玉佳チャンガチ恋勢みたいになってしまった(玉佳チャンガチ恋勢です!)。手ぬぐい撒きはいたたまれなくて退出したい私だが、トロ吉、もとい玉佳さんの撒いている雷おこしは欲しかった。隣の人はも見事に膝に落としてもらっていて、うらやましかった。

それにしてもトロ吉の壊れた太鼓(風神雷神図の雷さんが持っている、小さい平太鼓をアーチ状にたくさん取り付けたもの)、張り直してもらったら軽く10万以上かかるのではと思った。あと、雷さんって、虎皮をスカート状に腰へ巻いているんだと思っていたが、ふんどしなのか。雲の上でスカートだったら、まるみえだからだろうか。

『かみなり太鼓』の床のみなさん、抹茶味とバナナ味の段々アイスのような色合いの可愛いデザインの肩衣だった。そういえば、トロ吉のセリフには微妙に女方っぽい三味線の手がついていて、おもしろかった。

 

 

 

親子劇場は本当にお子さまがたくさんいらっしゃるので、私も楽しい。それと、子守りにかこつけて文楽を見に来た保護者のみなさんも良い。私の後ろの席のお父さんは娘さんに延々文楽について語っておられ、隣の席のお母さんはお連れの息子さんよりすごい勢いで人形とハイタッチしておられた。終演後のお人形さんグリーティングも、写真を撮りたがっているのはマニア客と保護者の皆さんなのがいいよね……。私も隙あらば近づいて、寅ちゃんの浴衣を捲り上げてたまをなおしてあげたかった(痴漢)。

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あまりに暑かったので、かき氷を食べた。なんばウォークの甘味屋「甘党まえだ」にて、「宇治金時きな粉ミルククリーム」。なにげなく注文したら想像の1.5倍くらいのサイズのものが出てきて、かき氷なのにおなかいっぱいになった。入れ替え時間に食べ終われないかと思って焦った。

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