TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 2月東京公演『大経師昔暦』国立劇場小劇場

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『大経師昔暦』。またも読めない。「だいきょうじ・むかしごよみ」だそうです。「経師」は経巻・仏画等を表装する者。「大経師」とは、経師の代表として朝廷御用を受け大経師暦の発行権を与えられた者のこと。

 

大経師内の段。

京都烏丸の大経師家は朝廷から暦の発行を許された町人ながら特権階級の家柄である。きょうは11月1日、来年の暦の発行日であり、当主・以春は明け方から宮中・親王家等の御所方へ初暦を献上にまわって振舞を頂き、帰宅後のいまは疲れてこたつで居眠りをしている。その妻・おさん〈人形配役=吉田和生〉と女中・お玉〈吉田簑紫郎〉が三毛猫をじゃらして可愛がっていると、手代・助右衛門〈吉田勘市〉がやってきて「オレ忙しいし」とアピりつつ、猫にまで小言を並べ立てて去っていった。残されたおさんとお玉はそののウザさと態度と顔をdisりまくり、もうひとりの手代・茂兵衛の品のよさを褒めちぎる身も蓋もない女子会with猫(サイコーやん)。おさんは膝に乗せた愛猫に、猫にしても男ぶりがあり、ガラ悪く鳴き立てる練物屋の灰毛猫ではなく、可愛らしく鳴く紅粉屋の茶トラ猫を夫にしてやりたいと言う。しかし外で牡猫たちの声がすると駆け出そうと暴れだす三毛。おさんはその多情さに、男を持つなら一人にせよ、間男すれば磔にかかると嗜め、飛び出した猫を追って奥の間へ入る。

お玉がひとりになると、こたつで寝ていた以春〈吉田玉勢〉が起き上がって彼女を後ろ抱きにしてしつこく口説く。胸元へ手を伸ばされた手を振り離し、おさんへ告げ口するというお玉。それでもしつこく迫っていたところにおさんの母〈吉田簑一郎〉がやってきたので、さすがの以春も退散する。出迎えたおさんが父の姿が見えないのを尋ねると、父・道順は風邪気味で同道していないとのこと。おさんは母を奥の間へ招き入れる。

それと入れ替わりに、得意回りを終えた手代・茂兵衛〈吉田玉志〉が帰ってくる。客先で頂いた酒でいい気分の茂兵衛が煙草をふかしていると、相談があるとしておさんが声をかけてくる。彼女の相談とは、実家の窮状であった。かつては名家だった彼女の実家だがいまや逼塞しており、父が家を二重抵当に入れたことが債権者にバレて即座に金を返すか家を渡せと激詰めされ、きょうのところはなんとか二貫目だけ入れることで勘弁してもらえることになったが、その金すらままならないという。おさんから以春へ頼めばすぐに整うことであるが、両親は娘に負い目をつくらせたくないと言い、だからと言って助右衛門へ頼めば性根の悪さから以春に告げ口をされて事がよりこじれる。そこでおさんは茂兵衛に金の工面を頼んだのであった。お主の頼みと酒の加減もあって茂兵衛がそれを快諾すると、おさんはよろこんで母の元へ報告へ。茂兵衛は以春の印判をそっと持ち出して白紙に押すが、それを見ていた助右衛門が大声を上げ、家中が大騒ぎとなる。やってきた以春はいままで真面目一徹だった茂兵衛がどうしてこんなことをしたのかと言うが、茂兵衛はどうあっても口を割らない。助右衛門が茂兵衛を責め立ててギャアギャア喚いていると、お玉が突然以春の前に手をつき、茂兵衛のこの所業は自分のためにやったことだと言い出す。お玉の身元保証人である伯父・梅龍が借銭を返しかねて切腹すると言うので、それを助けるための金の算段を茂兵衛に頼んだというのだ。おさん母娘は意外な玉の働きに便乗し、一緒になって以春に許しを乞うが、なぜか以春はますます怒って茂兵衛とお玉の密通を詮議立てしはじめ、明日改めて保証人を呼び出すとして茂兵衛を隣の空き家の二階へ閉じ込めてしまう。そして以春はおさんの父の見舞いに行くとして、頭巾をかぶって外出する。

夜も更けた頃、お玉の寝床のある茶の間へおさんがやってくる。おさんがお玉の機転に礼を言うと、お玉は実はかねてから茂兵衛に思いを寄せていたことを告白する。どれだけ惚れても彼が靡くことはなく悔しく思っていたお玉だったが、さきほどの難儀を見て思わず助けに入ったというのだ。そして以春があれほどに怒ったのは、お玉が慕う茂兵衛への嫉妬からだと言う。今夜お玉が起きていたのも、夜毎忍んでくる以春を捕まえおさんの前へ突き出してやろうとの算段からだった。それを聞いたおさんは、お玉と入れ替わって今夜はここで寝て、自分自身で以春をとっちめて恥をかかせてやりたいと言い出す。おさんはお玉の寝巻を借りると茶の間の床へ伏せ、お玉は明かりの火を消しておさんの寝所へ向かう。

一方、空き家の二階へ閉じ込められていた茂兵衛が考えているのは、さきほどのお玉の志であった。日頃あれほどつれなくしていたにも関わらず、恨むことなく仇を恩で返してくれたお玉。彼女の想いに報じるため、茂兵衛は空き家を抜け出し、屋根と引窓を伝ってお玉の寝床に忍んでいく。茶の間。おさんは屏風に当たった人の気配に膝を震わせるが、抱きついてきた男の頭の頭巾を撫でて夫の忍ぶ姿だと思い込み、肌を交わしてしまう。

やがて夜明けが訪れ、けたたましく鳴く鶏の声とともに門の戸を打ち叩く音、以春の帰りを告げる声が聞こえる。助右衛門が迎えに出た提灯の明かりに浮かび上がるお互いの顔に、おさんと茂兵衛は驚くのであった。

「大経師内」は人形全員黒衣。最後は三味線や柝の音、人形の極めなしで定式幕だけが引かれていくという不思議な段切れ。

和生さんのおさんの人妻らしい清楚な美しさがよかった。おさんは結構若い設定のようだが、かしらや衣装からは結構大人っぽい印象。仕草の優雅さや上品さもあいまって、正直、以春や茂兵衛より上に見える(和生様には大変申し訳ございませんが、本当そうなっちゃってたので……)。

茂兵衛は生真面目で清廉な印象が玉志さんに似合っていて、とてもよかった。かしらの源太の若さをうつしてかすこし生硬な雰囲気に振っているのと、酔って帰ってくるところはヒョイヒョイとした所作がちょっと軽妙で、町人らしいところもよい。

おさんと茂兵衛の人形配役によっては「まあそりゃ密通しますわなあ〜」みたいな事故が起こりかねないと思うが、両役とも清楚さや清潔感がある人が当たってよかった。とはいえ、以春も若い人を配役しているせいか、結構清純派だったけど……。以春のお玉へのセクハラがマイルドで、おんしは紅粉屋の猫か!? 灰毛猫並みの根性見せたらんかい!! もっとガッツリいかんと話が意味不明になるど!! と思った。人形の技量そのものとは別に、セクハラのさじ加減調整というか、距離のはかりかたががうまい人とへたな人がいる。今月は桂川の儀兵衛(玉佳さん)が一番うまかった。

はじめの浄瑠璃だけのあいだ、猫を探しておさんがちょろりと出て、すぐ引っ込む。そのおさんがかわいがっているペットの猫チャンがちゃんと普通の猫サイズで驚いた。『冥途の飛脚』の「淡路町」の段切れに出てくるぶちいぬ、あれ、やばいくらいデカいじゃないですか。あのサイズの猛犬と戦おうとする忠兵衛はほんとすごいと思う。あの時点でおのれを顧みない無鉄砲さが出ている。あのデンでいうとこの話でも1m級の化け猫が出てきてもおかしくないと思っていたが、おさんの膝にちょこんと乗るサイズの、人形に対して子猫サイズの猫でよかった。

ところで猫の細かい話していいですか。はじめのほうでおさんとお玉が平織りの帯みたいなやつで猫じゃらしを作ってあやしてますけど、猫、ぜったい助右衛門の羽織についてるポンポンのほうに食いつくと思う(食いついてたけど)。実家で猫飼ってた頃、家中のポンポンとかファーはすべてヤツに食い荒らされた。で、ここでおさんのペットの猫を遣っていらっしゃる方、猫飼ったことない人でしょうね。ぜひとも猫カフェで猫の動きや姿勢を研究し、研鑽に励んで頂きたく存じます(突然のウエメセ)。あと、灰毛猫のいる「練物屋」って、ちくわとかはんぺんを売ってる店ってこと? 猫、めっちゃ食いつくのでは? と思っていたら、「練物屋」とは「生絹を灰汁で煮て、柔らかくした練絹を売る店」のことだそうです*1。最後に話自体とはまったく関係ないけど、茶トラのオスってめちゃくちゃデカくなるよね。紅粉屋の赤猫って、いくら愛らしく鳴こうが、見た目は灰毛猫より相当やばいガテン系ではないだろうか。

そして「饂飩に胡椒はお定り」、コショウっていまでいうコショウと同じもののことだろうか。うどんにコショウってかけたことないけど、今度かけてみようと思う。

 

 

 

岡崎村梅龍内の段。

京都の外れ、岡崎村に、『太平記』を語り聞かせる講釈師として身を立てるお玉の伯父・赤松梅龍の粗末な住居があった。そこへやって来たのはお玉を連れた助右衛門。戸口を叩いて大騒ぎする助右衛門に、梅龍〈吉田玉也〉が何事かと顔を出す。助右衛門はお玉が手引きして主人の妻と手代を密通させた上に駆け落ちさせたとわめき、かくなる上は二人が見つかるまでは保証人である梅龍にお玉を預けると言う。梅龍は逆に預けものの受け取りにも作法があるとまるで講釈を語るように助右衛門を責め立てるが、助右衛門は構わずに縛り上げたお玉を突き出す。伯父の顔を見て泣き出すお玉に、梅龍もまた涙を喉に詰まらせ、歯嚙みをする。お玉は、助右衛門がおさんに横恋慕していたのを自分が見張って邪魔した恨みからあれほど大騒ぎしたのだろうと言う。そして、本来は助右衛門とその手下になった腰元が磔獄門になるところを黙っていたのに恩が仇となったと悔し泣きするのだった。助右衛門は構わず帰ろうとするが、梅龍はその首根っこをひっつかみ、お玉に縄をかけて返すとはお上の威光を着る慮外者として籠の棒を引き抜いて打擲する。その勢いに助右衛門はしぶしぶ縄を解き、まだゴチャゴチャ言ったところを梅龍にポコスカ殴られてスゴスゴ帰っていった。

それと入れ替わりに梅龍の小屋の前に現れたのは、おさんと茂兵衛。不義の仲立ちの嫌疑をかけられたお玉の行く末を確かめ、また、父母を恋しがるおさんの実家に連絡をつけてもらおうと思ってここへやって来たのだった。二人が家の中の様子を伺うと、梅龍が『太平記』を引いてお玉に密通の仲立ちとなってしまったことを諫めているのが聞こえる。梅龍は、不義が事実でないにしても二人が駆け落ちしたことは事実であり、より一層の嫌疑を避けるため、おさんと茂兵衛がここへ現れても決して会ってはいけないと戒めるのだった。獄門にかけられても主人のために命を惜しむなという梅龍に、お玉はそれはもとより覚悟の上だが、おさんが心配であると涙を流す。

そこへおさんの父母が通りかかる。菩提寺である黒谷へ金を借りに行った帰りであった。おさんは思わず走り寄るが、父・道順〈桐竹勘壽〉は涙をこらえて振り払い、母は彼女を押し隠す。道順は、鳥でも雌雄はひとつがいであり、多くの相手とまじわるのは犬猫のような畜生の所業であると意見し、おさんが処刑されるようなことがあれば、妻がそれを嘆くのが悲しいと大声を上げて泣く。おさんは親に会えたからにはもう思い残すことはないと言うが、父は彼女を磔にさせまいと心を痛めているのだと語る。路銀のために着物を売払い薄着となったおさんを見た母は少しばかりの金を彼女に渡そうとするも、おさんは母からもらったこの「芦に鷺」の着物があれば寒くないとして、受け取った金は死後の弔いに使いたいと言う。聞いていた茂兵衛は自分ひとりで死ぬので、父母におさんを連れ帰って欲しいと頼む。しかしおさんはそれが出来るなら二人で永らえられる、不義は事実で悪名はぬぐえないと返し、茂兵衛は自らの故郷の丹波へ逃げようと言うのだった。月光があたりをありありと照らし出し、闇夜ならばお互いの顔が見えず未練が残らないところ、おさんとその父母は思い残しを振り払うことができない。父は黒谷の和尚から借り受けた金を「落とした」と言っておさんに拾わせ、路銀の足しにさせて去っていく。それを物干しにもたれて見送るおさんと茂兵衛の姿が月光に映し出された影はまるで磔の姿のようであり、またお玉がくぐり戸から一同の様子を見る影はあたかも獄門にされた首のよう。黒谷の後夜の鐘が鳴り響く中、こうして面々はそれぞれに別れ行くのであった。

今月はパンフレットのインタビューが玉也さんで、飛び上がった。梅龍の人物造形について、みんなが思っているけど口に出してはいけないから黙っていようと思っていた疑問をそのままおっしゃっていた。お答えはマイルドにぼかされていたけど……。それと、玉也さんが『太平記』好きというのが意外(?)だった。そんな玉也さんの梅龍は当て書きみたいになっていた。シブい感じでかっこよかったです(知性が一切ない感想)。

 

 

 

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丹波隠れ家の段。

まだ残雪の消えない立春の頃、奥丹波には万歳〈吉田玉誉=前期〉の姿があった。鼓を鳴らして万歳歌をうたい舞う芸人に、おさんは祝儀を包んで差し出す。しかしおさんの顔を見た万歳はなぜか「おひさしゅうございます」と言う。その万歳は京都烏丸の大経師の家にも出入りしている者で、彼女の顔を覚えていたのである。おさんははっとして自分は実家の窮状ゆえにここにいる、近所の者にはひかされてきた島原の傾城ということにしておいて欲しいと言いつけ、さらに祝儀を包む。芸人はそれなら近日中に参る烏丸の大経師には無事を伝えようと言うが、おさんは烏丸へは行かないようにと頼む。振る舞い酒のかわりにさらなる大金の祝儀を差し出された万歳は上機嫌で帰っていった。

こうしておさんが世間の狭さにおびえていたところに茂兵衛が帰ってくる。顔色の悪い茂兵衛は、大経師家の者がこの近在に宿を取っていること、このあたりの駕籠かきにまで二人の噂が詳しく聞こえていることを語って身を震わせる。二人はここにもいられないとして、茂兵衛と親しい者のいる宮津へ逃れようと話し合う。*2

しかしそのとき捕手の役人〈桐竹亀次〉が現れ、二人は周囲を取り囲まれる。歩み出た茂兵衛は、ここで武士相手に抵抗ができるような心得もあるが、主人に手向かうのと同じことになるとしておとなしく縄にかかると告げる。捕手たちは縄をかけながらもしおらしい二人を哀れに思うのだった。そこへウキウキやってきたのは助右衛門、喜んで二人を引き受けたいと申し出る。しかし役人は二人を召し捕ったのは京都からの解状によるものだとして一喝する。そうして助右衛門がヘコヘコしているところへ早駕籠で梅龍が駆けつけてくる。梅龍はおさんと茂兵衛に不義はなく、お玉の余計な言葉をおさんが誤解したことから間違いが起こっただけであって、その濡れ衣はお玉の責任だと言う。梅龍が手にしていた首桶にはお玉の首が入っていた。驚くおさんと茂兵衛。しかし意外なことに役人は「早まった」と言う。二人の有罪は決まっておらず、これからお玉を含めて取り調べるところだった、そうすれば三人とも無罪になるかもしれないところ、その証人であるお玉が死んでは罪は決まってしまったというのだ。梅龍は地団駄を踏み、腹を切るなら道連れだと言って助右衛門を斬りつける。額を斬られた助右衛門は血だらけになって一目散に逃げていく。梅龍はなおもそれを追おうとするが、捕手たちに引き止められる。こうしておさんと茂兵衛は役人たちに引かれていくのだった。

この段……、出演されている方には申し訳ないんですけど、蛇足ですよね……。岡崎までで止めるか、やるなら最後までやって欲しい。

でも、出演者はよくて、万歳はかわいかったし、三輪さんのジジイ役が上品でよかった。梅龍は話自体の破綻もあるけど、太夫の語り方の違いの影響で段によりキャラがバラついている印象だった。この段が一番零落した武士っぽさ、無骨な浪人ぽさがあって良いかなあ。話の内容は一番ないなと思うけど。桂川の長吉も太夫と段ごとの造形のバラつきによって幕が開いたり閉まったりするごとに人格変わってましたが……。

 

 

 

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第二部は出演者のパフォーマンスにはたいへん満足した。とにかく玉志さんがいい役でよかった。茂兵衛はかなり人を選ぶキャラクターだと思うが、その雰囲気にピタッとはまっていた。

が、話自体は上演が途絶えていたのがよくわかる微妙さだった。この話、観客全員が「なんで??????」となると思う。パンフレットやら上演資料集やらに技芸員の解釈等がいろいろ載っているけど、言い方は悪いけど、そのような無理のある屁理屈を後付けしてやらなきゃいけないなんて、やってるほうも大変。太夫はある程度その場その場でまとめられればいいと思うが、通しての出演になる人形は理屈をこねまわしていると収集がつかなくなるのではないか。個人的には茂兵衛が人違いに気づかなかったのには目をつぶれても、駆け落ちしたのがよくわからない。そうしないとその場で殺されもおかしくないとは思うけど。でももう次の段がはじまる頃には幕間にオヤツを食ったからかいろいろどうでもよくなってきていて、もはや人形の演技自体にしか気がいかなくなっているのだった。

 
 
 
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ひどいことを言うが、近松にぜんぜん興味がないので、正直、今年から2月東京公演が近松特集じゃなくなって嬉しい。ヘンな近松推しは有名だからと言って近松演目で文楽をはじめて見た人に「なんだやっぱり文楽ってつまんないじゃん」と思われるリスクのほうが高いと感じる。何十年も前の近松ブームに頼らず、ほかの演目の企画にもっと力を入れて欲しい。近松演目って玄人向けだと思う。とにかく配役が良くないとどうしようもない。だからヘタレクズ役は全部玉男様に振って欲しい。以上、のびのびとした個人の感想でした。

 

 

 

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おまけ。カットされている「奥丹波隠れ家の段」以降の展開あらすじ。

  • 様々な人の命乞いもむなしく、冷えきった風の中、おさんと茂兵衛は粟田口の刑場へと引かれていく。(おさん茂兵衛暦歌)
  • 刑場。見物の人混みをかきわけてきた道順夫婦が娘と茂兵衛の身代わりになることを懇願するも、役人頭は聞き入れず、警固の者は夫婦を打ち払おうとする。そこへ黒谷の菩提寺の和尚・東岸が走り出て、出家を棒で叩けば極悪罪であると言って二人をかばい、僧衣をかける。役人頭はお上に反逆する気かと腹を立てるが、東岸は「助ける」というのは僧侶も武士もかわらない三世にわたる功徳であり、ここで二人を助ければ現世の功徳、もしまた罪に処せられるとすれば自らの弟子にして未来の功徳であると語ると、群衆はわっと沸きあがる。こうして二人は助けられ、道順夫婦の喜びは万年暦のように尽きることがなく、ことし未年の新暦の使いはじめをめでたく寿ぐのであった。(粟田口刑場の場)

「おさん茂兵衛暦歌」は二人が引かれていく様子を暦にまつわる言葉を織り込んで歌う道行(?)で、内容はほぼなし。「粟田口刑場の場」では東岸が二人にかけた僧衣と功徳を結びつけて役人頭を説得するのだが、その理屈がよくわからなかった。理解できないのは仏教の知識がないせいだろうか。頭が悪すぎてそれすらわからない。勉強しなかった因果の報いはおそろしい。私がいままでの自分の人生で一番後悔しているのは、勉強せずに生きてきたことだ。

 

 

↓ 本公演に関する和生さんのトークイベント要約

  

 

 

 

*1:『日本古典文学全集 近松門左衛門集2』小学館/1975 による

*2:原作ではここで隠れ家の家主・助作(助右衛門のいとこ)が登場。おさんと茂兵衛は傾城とその恋人である金持ちの息子の駆け落ちになりすましており、道順から受け取った金を馴染み客から借りた金と偽って助作に預けていた。助作は預かっていた金を戻すのでここにいるようにとおさんに言って出て行く。おさんは宮津まで逃れられれば、そこから母の知己である切戸の文殊の法印を頼って落ちのびられるだろうと考えるが、実は助作は二人の件を役所へ通報しており、捕手が隠れ家を取り巻く。以降、助作の存在は除外されるが、現行上演とほぼ同様。

文楽 トークイベント:吉田和生「『大経師昔暦』について」文楽座話会

2月4日開催、NPO法人人形浄瑠璃文楽主催のイベント。和生さんにご出演の第二部『大経師昔暦』について語ってもらうという趣旨の会だったが、『大経師』の話自体が微妙すぎて和生さんが途中で話すことがないと言い出し(衝撃の展開)、ほとんどが質疑応答の時間となった。以下にそのお話の概要をまとめる。『大経師』に限らない豊富な話題を通して、和生さんの気さくで飾り気ない雰囲気を伝えられればと思う。

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近松作品の特徴

今回の出演は第二部『大経師昔暦』。近松サンの芝居は「しんどい」。太夫さんも好んでやる方、やりたくないという方に分かれる。詞章に字余り字足らずが多く、形容詞が多い。これは近松の当時は人形が一人遣いだったことによるもので、細かな説明が多い(一人遣いの人形の簡素な演技で描写しきれない部分が言葉で説明されているという意味)。わたしは近松作品を紹介するときには「ラジオドラマの脚本」と言っている。人形浄瑠璃を「聞くもの」としてホンが書かれているから。時代が下って近松半二などの頃になると、人形浄瑠璃は「見せるもの」になり、「テレビドラマの脚本」になる。

『曾根崎心中』は復活の際、大幅改作された。大学の先生などは「改悪」と言うが、近松作品は江戸時代から改作されている。というのも、「難しい注文が多い」から。というのは、人形が一人遣いから三人遣いになったことによって、一人遣いのころには簡単に出来たことも三人遣いでは難しくなってしまっている。例えば「二階から降りる」とか、一人では人形を簡単に上下できても、三人では難しい。ホンも大変説明的な描写が多く、舞台装置で見せることを考えていない。「お月様の影法師」と言われても「えっ、お月さんどっちにあるんや?」(笑)。そして、登場人物が多い。一人遣いならパッと出してパッと引っ込めてたんでしょうね。しかし、このように改作ができるのはモトのネタがいいから。『大経師昔暦』もむかしは「おさん茂兵衛」という題名で女優さんや歌手の方がよくやっていた。

昭和期、松竹が文楽を持ちこたえられなくなって手放され、文楽協会ができた。ぼくが文楽に入る前ですけど、そのころ近松復活の機運が高まり、『鑓の権三重帷子』『長町女腹切』などが復活された。当時、復活は「わかりやすくやろう」という考えのもとやっていた。色々手を入れないと近松作品を舞台にかけることはできなかった。まず一人遣いを三人遣いにすると道具に制約が出てくる。例えば『曾根崎心中』の天満屋で徳兵衛がお初の足を押し頂く部分は初演当時どうしていたのかと聞かれたことがあるが、「わかりません」。観音巡りも、詞章は単に巡る先の地名を並べているだけで、人形をどうしていたのか、わからない。辰松八郎兵衛がお初を遣って評判を取ったという記録が残っているが、この内容でどこがどうやって評判になるのか。『大経師』の「大経師内」で茂兵衛が寝所へ忍んできておさんの手を取るところ、「手先に物を言はせては、伏し拝み伏し拝み心のたけを泣く涙、顔にはらはら落ちかゝる」と言われても、(お互いの位置関係として)「どうなっとんの」と思う。しかしわかっていることもあり、『国性爺合戦』では竹田の糸あやつりの演出が使われていた。小むつが栴檀皇女とともに山へ逃げて、仙人にかけてもらった虹の橋を渡るところ(四段目)を糸あやつりでやっていたらしい。情景も詞章で事細かに説明される。これをぼくらが三人遣いでやろうとすると、「余分なこと」が色々あり、やりづらい。

以前、国立劇場の企画で近松の心中三部作を一日で上演したことがあるが、題名は違うけど内容が全部同じでしんどく、人形遣いは一日が長かった。

そういえば、むかしの人はしゃれている。「近松半二」は、近松門左衛門の半分の才能しかないとして「半二」を名乗った。平賀源内は浄瑠璃作者としては「福内鬼外(ふくうち・きがい)」と名乗っていた。これはいまの季節、節分から取られたもの。

ぼくらは浄瑠璃を聞きながら、「これ、大学の先生が研究するようなものかな」と思う。故事来歴を取り入れた詞章はある。『大経師昔暦』なら、以春がお玉を口説くところは『大職冠』の謡を取り入れている(? よく聞き取れず。多分、謡曲『海士』の玉取の詞章が取り入れられていることを仰ったんだと思う)浄瑠璃はエロチックな言葉が多いが、いまは字幕が出るから……(笑)。字幕がないころはスッとできたけど。むかしはおおらかに楽しんでいたんでしょうね。

 

 

 

┃ 『大経師昔暦』の難しさ

『大経師昔暦』には「ここ」というヤマがそんなにない。先日も毎日新聞のインタビュー取材を受けたが、「おさんがこうで、ここがどうで」といった意味でのみどころは一切ないと答えた。そうとしか言えない。キライならキライでもっとやりようがあるが……(おさんが以春を嫌いだとしたら演技プランの組み立てがやりやすいということか。よく意味が汲めなかった)

おさんは難しい。以春が嫌いだったわけではない。茂兵衛もおさんがどうこうというわけではないし、お玉にそんなに世話になったわけでもない。「掛け違い」の話。近松は世話物というジャンルをつくって書いてきた。そのため、近松作品ではおじいさん・おばあさんが芝居の中心になることが多い。『女殺油地獄』もそう。生活の成り立ち、家庭の問題を扱ったものが多く、『油地獄』だと父親が違うとか、『大経師』ならおさんの実家の経済事情が逼塞しているとか。そういうことを踏まえて芝居をしないと、「芝居の密度が出ない」。普通の家庭のことを描いているので、裏の事情をいろいろ考えながらやらないと。文句のうわべだけやっていると、相手役と噛み合わなくなる。お互い毎日探り合うようにやっていかないと「密度」が出ず、「難しいこと」になってくる。

先代の綱太夫さんは、「お玉は“小娘”ではない」と言っていた。あの男あしらいぶりは、出戻りだろうという感覚。そうでないと、御所へも出入りするご主人をあんなふうにあしらったり、茂兵衛に声をかけてみたりは出来ない。おさんはまだ「お嬢様」だろう。われわれはお玉のほうが年上だと思っている。おさんと以春はだいぶ年が違うだろう。

師匠を相手役に茂兵衛もやったことがあるが、茂兵衛ももひとつしんどい。岡崎でおさんの両親が出てきてからはその話をずーっと聞いてないかんから、大変。茂兵衛からしたら不条理なことで苛まれるが、いくら話がヘンでもホンから外れるわけにはいかんから。茂兵衛は自分が責任を持つからとおさんだけを逃がそうとする。ひとりで逃げる方法もあるはずだが、茂兵衛は真面目な役なのでそんなことはしない。行動に煮え切らないところがある。おさんを好きなら好きでいい(が、そうではないので複雑、難しい)。「大経師内」で二階からお玉の寝床へ忍んでいくところはどうやっているのか? 屋根の引窓から屋内へ降りる部分は、綱を持つくらいまでは主遣いが遣っていて、そこで下で待っている人にバトンタッチして、下へ回ってもういちど茂兵衛を持つ。

相手に気付かず結果的に姦通してしまうのは、普通に考えたらありえない。わたしたちも「なんでやろ?(キョト顔)」となっている。……そうなんですよね……いろいろ矛盾があるんですよね……(しみじみ)。そこらへんはこちらも感じながらやっている。

舞台に出て、みんなが「ウーン……」と言うのは段切れ(奥丹波隠れ家の段)。もうちょっとなんとかならんかったのか、復活で直せなかったのか……。ぼくらが入る前のことだが、改作をやるときにちゃんとしていれば……。復活は非常になかなか難しい。ホンはあるが、音(三味線の譜=朱)がなくて、新規で作曲して今の舞台でやっている。そのせいで、なかなかまとまりがない部分がある。それは制作(劇場の企画制作)の問題。こちら(技芸員)ではどうしようもない。岡崎で終わってくれたらいいのに……。原作を全部やるのがいいのか、段取りを整理してやるのがいいのかは制作さんが考えること。梅龍が唐突に手代を斬りつけるところで笑ってしまった? 大丈夫です。今日も笑い声上がってましたから。わたしたちも「あれはないやな」と言っている。

今回は最後まで出していない。原作ではあのあと、黒太夫が衣をかぶせておさんを連れ帰ることになっている。

 

 

 

┃ 『大経師昔暦』人形の特徴

おさんの岡崎までの衣装は「芦に鷺」で、専用に作って染めたもの。文楽では専用衣装はあまりないが、これは岡崎の浄瑠璃から柄を取っている(おさんの肌着代なして、白無垢一重憲法に、裾模様ある芦に鷺)。髪型は「先笄(さっこうがい)」と言って、大阪の商家の奥様がする結い方。

以春のかしらは、昔は検非違使を白く塗って使っていた。今は陀羅助を薄卵に塗って使っている。いやらしい雰囲気があるでしょう。

今回、「大経師内の段」では人形遣いは頭巾をかぶっている。黒衣で遣うのは、登場人物が多くゴチャゴチャする場面や、陰惨な場面、端場。これも8人並ぶところがあるでしょ。出遣いでやるとゴチャゴチャする。『女殺油地獄』の徳庵堤も頭巾でやることが多い。あれも次々人が出てくる。これは制作が出し物によって決めることで、ルールではない。逆にいまやっている第三部『壇浦兜軍記』阿古屋琴責の段では、阿古屋の左、足は出遣いになる。これはそのときの都合でやる。ほかには『本朝廿四孝』奥庭狐火の段の八重垣姫、『勧進帳』の弁慶など、全員出遣いになる役は決まっている。

 

 

 

吉田文雀師匠のこと

師匠のことなら1時間でも喋りますよ!!!!!!!!!(大経師の話に飽きてきたところで師匠の話を振られ、突如エキサイトする和生さん)

師匠とぼくの出会いは変わっていた。普通、入門するときは、太夫なら豪快な語り、三味線弾きなら美しい音色など、師匠の芸に触れて入門を希望する。落語家でも先方に何度も押しかけて行って弟子にしてもらう人が多いが、自分はそんなことがなかった。

ぼくの入門のきっかけは師匠の芸に触れたとか人柄に触れたとかではない。ぼくはもともと舞台に出る気はなかった。高校を卒業して、何をやろうか、何が自分に合うか、2〜3年かけて自分のやりたいことを探そうと思っていた。そのころは伝統工芸をやってみようかと思っていて、あちこち回っていた。大阪にあった国宝の修理館を見た帰り、徳島在住の人形細工師の大江巳之助さんを訪ねてみようと思って「遊びに行っていいですか」と手紙を出した。来てもいいということだったので、愛媛の自宅へ帰る前に寄り道することにした。その時点ですでに大江さんは文楽の舞台に使うかしらの90%を作っており、「いまから(人形細工師の修行を)やってももう無理だ」と言われた。といっても自分は特に人形細工師になりたいわけではなかったので特になにも思わなかった。それで、大江さんから、「文楽は観たことがあるのか」と尋ねられ、「ない」と答えたら「4月の大阪公演へ行かないか」と言われた。何年か遊んで過ごすつもりだったので「ハイ」と答えて行ってみたら、当時首割委員だった文雀師匠を紹介され、師匠から「一日観ていき」と言われた。それで「今夜泊まるところあるの?」と聞かれ、どこも予約をしていなかったので「ない」と答えたら、自宅に連れ帰って泊めてくれた。そして、翌朝、「どうするんや?」と言われた。一宿一飯の義理やないけど、そこで思わず「はい」と答えてしまった。するとその日のうちに黒衣を着せられ、横幕を開けたり閉めたりさせられた(笑)。思い出した。そのときはちょうどこんどの5月にやる『妹背山』をやっていた。

師匠は変わっていた。師匠は東京の原宿生まれ。うちの前を馬が通ったら、陛下が来るんやと言っていた。当時は原宿がお召列車の始発駅だった。師匠は洒落た家の生まれで、子どもの頃はよくねえやに手を引かれて明治神宮にお神楽を聞きに行っていたという。お父さんは俳句に凝っていて、句集を出したほどだった。お父さんは芝居も好きで、家にはよく役者が来ていた。師匠もその影響を受けて芝居の真似ごとをしていたが、役者たちは「ぼっちゃん、役者だけはやめときなさい」と耳打ちしてきたそうだ。小学校高学年の頃、お父さんが転勤になって大阪へ来た。師匠はその頃、女給さんの羽織を借りて保名狂乱を踊ったりしていたらしい。やがて戦争になり、学徒動員で工場へ行っていたときに旋盤で指を怪我して、琴ができなくなった。それで文楽に入り浸っていたが、人形遣いに「毎日来てるんやったら手伝って」と言われ、黒衣を着せられて舞台の手伝いをはじめた。それを松竹の人が見つけて「あれは誰や!?」となった。お客さんの子です。電車賃やっとんのか。いえ。そういうやりとりがあり、松竹からは正式に文楽に入らないかという話があったが、師匠は「9月になったら徴用されるので入れない」と答えた。しかし松竹が食い下がり、それでも形式だけでも契約をと言ってネジ込んできたので、契約した。すると8月に終戦。師匠はこうして人形遣いになった。

師匠はいつも「わからんことあったらなんでも聞きや」と言っていた。もちろん、質問できるというのは、それだけのレベルに到達していないとできないことだが。師匠はなんでも教えてくれた。師匠は、「わしが20年30年かけてわかったことを、弟子が一言聞いて一瞬でわかるなら、それがええやろ」と言っていた。人形遣いの場合、芝居の核心になる手元の扱いは衣装に隠れて見えないが、女方はとくに手のひらにできたタコを見れば、どう遣っているかはわかる。でも、師匠は「わしはこうやるで!」と大っぴらに教えてくれた。しかし、「わしはこうやってるけど、ひとによって手のひらの大きさ、指の長さ、握力が違うから、同じにはできない」と言っていた。

師匠の教えでは、「自分の工夫でやっていい部分」と、「これは絶対あかん」という部分ははっきりしていた。師匠は人形拵えにうるさかった。たとえばこのおさんなら、いまなら1時間ちょっとで拵えられるが、若い頃は3時間も4時間もかかる。それを楽屋に置いておくと、師匠が「????」(聞き取れなかった。直接的なNGの言葉ではなく、「そうかー」みたいなつぶやき)と言ったらやりなおし。そういう師匠も若い頃は文五郎師匠にさんざん人形の拵えをやりなおしさせられたそうだ。文五郎師匠が晩年、演舞場で「酒屋」に出ていたとき、もうお歳だったので、師匠がかわりに人形を拵えていた。しかし、いくら拵えても「アカン」と言われて、やりなおし。毎日言われて、毎日お園を拵えなおしていた。1週間で6回拵えなおしたそうだ。何がアカンかったんですかと尋ねたら、わからんねんと言っていた。文五郎師匠は何がいけないのか言わなかったそうだ。師匠の推測では、「たぶんな、ふところにスッと手が入らなんだんちゃうかな」ということだった。若いうちは人形の着付けをきつく締めてしまう。歳とってくると、いいかげん(笑)になってくるけど。これは感覚の問題で、本当はいいも悪いもない。

師匠の教えでいまも有難いと思っているのが、「役のとらえ方、考え方」についての部分。この人物は何を訴えて帰るのか? 何をしたい? 何者? 侍なら、石高はいくらなのか? ……こういった、サキ・アト・ウラのものの見方を師匠から学んだ。

うちの師匠はとにかく演劇はなんでも好き。それに美術館、博物館、お寺。なんでも好きだった。ぼくも一緒に行って楽しかった。波長が合ったんかなあ……。師匠が合わせてくれてたんかもしれんけど……。師匠は「引き出しはたくさん持たなあかん、舞台で通用しなくなる」と言っていた(このあたりうろ覚え。文雀師匠の言動から和生さんがそう読み取ったということかも)。なにごともすべてが舞台に直結してためになるわけではないが、人生80年だとしたら、色々楽しんだほうがいいじゃないかと思う。3月に東大寺のお水取りがあるが、どうですかと言われて、おこもりの予約を入れてきた。ぼくもこの先舞台をどれくらい勤められるかわからないが、弟子が二人おるから、最後に連れていこうと思っている。ひとり「僕、喪中なんですけど」と言ってきたので、「そらアカンわ〜」と言ったけど。

師匠が亡くなってなにが寂しいかというと、舞台の話をツーカーでできるひとがいなくなったこと。師匠と対等に芝居の話ができるようになったのは、師匠が亡くなる直前だった。師匠の家はぼくの家のすぐ横で(L字型の隣同士?斜め隣?みたいなジェスチャーだった)、師匠が舞台へ出なくなってからも、「帰りにちょっと寄ってこ」と、いつも途中で寄り道して帰っていた。そこで「こういうことがあって」と話すと、「これ、あんまおもろないやろ(笑)」「あ、あれな」と返してくれた。そういう芝居の話を通じ合ってできるひとがいなくなったのが寂しい。

ぼくの紋は師匠から受け継いだもの。雀です。雀は師匠と仲がよかった中村扇雀さん(現・坂田藤十郎)からとっている。師匠と成駒屋さんは子どもの頃から仲がよかった。師匠が入門して、芸名を決めなくてはいけないとなったとき、文五郎師匠が「これにせえ」と言ったのが文五郎師匠の兄貴筋の名前で、それを継ぐわけにはいかないのでどうしようということになった。成駒屋さんのところへ行ったら、文五郎から「文」をとり、そして二人は仲がいいんだから扇雀から「雀」をもらって「文雀」にするといいと言われて、それを芸名にした。では定紋はどうしようという話になり、許可をもらって雀をいただいた。「千匹もおるから大丈夫や」(笑)。ぼくもこの紋を使わせてもらうときにはことわりに行っている。ちなみに「かずお」というのは師匠の本名。

……師匠の話はまだいろいろあります。失敗談とか(笑)。

 

 

 

┃ やってみたい役

好き嫌いはあるけど、一番好きな役は言ったことがない。言うと差し障りがいろいろあるんで。「あのひと嫌や言うてたけどやってはるで」とかなるんで(笑)。「いただいた役は一生懸命やります」としか言わない(笑)。やってみたい役? 『菅原伝授手習鑑』の二段目(丞相名残の段)の菅丞相がやりたい。でもこの役はできない。覚寿をやらないかんから(二段目が出たら自分には確実に覚寿の配役が来てしまうから)。それでいうと、『良弁杉由来』の良弁の役もやりたい。一度代役でやったことがあるが……。でも、師匠がいなくなったので、自分がおばあさん(渚の方)をやらないかんようになったので、もうできない。忠臣蔵なら塩谷判官や戸無瀬がやりたい(このあたりうろ覚え。やりたい役が配役として来る例の話だったか?)。飛んだり跳ねたりする役はぼくは性格的に……。「お半やれ」と言われたら、それはちょっとカンベンしてくれと思う。

でも、自分がやりたいかどうかと、お客さんの評価は別。お客さんの評価がすべて。若い頃からやりたいと思っていて、やっとその役が来てはりきってやっても、評価されないことがある。逆に「やりたくないなあ」と思っていても、「よかった」と言われることもある。

じ〜っとしている役が得意と言われるのは、性格だと思う。自分のセリフ(演技の番)が来たら、「待ってました〜っ♪」となる人もいる。いろんな人がいるから、良い。

 

 


┃ 修行や指導について

舞台上で、足遣いなどに「もうちょっと前出せ」「上げろ」等、声をかけることもある。「うん!(唸り声)」はよく言う。反射的に出るので、感情ですけど……。足遣いとの関係には、その人の上手い下手とは関係なく、「相性」がある。あんまりうまくいっていなくても、気にならないヤツもいる。でも、うちの場合、左・足はかしら(主遣い)に合わせるのが基本。

左も足もやったことがない役が来ると、神経を使う。やったことがあると気が楽。だから、若い頃は「てったい(手伝い=左や足に入る)」は何でもいく。いろんな人のてったいを数多く経験することが大切。女方はその方の性格にもよるけど……(どういう意味での発言だったか記憶があやしい。女方の場合は人によってやりかたがちがうということだったか?)

いまは映像という便利なものがある。ぼくらが入ったころはカセットテープの出始めで、それまではオープンリールだった。勘十郎くんとよく言うんですけど、「ぼくらどうやって覚えてたんかなぁ……?」(笑)。映像は便利だが、弟子には「“見方” はある」と話している。うまく利用しないとあかん(=諸刃の剣である)と言っている。

 

 

 

┃ 自分の個人仕事をよくわかってない和生さん

人間国宝になっても自分自身は変わらず、急にうまくなるわけでもない。いままでに対して認めてもらったということなので、このままやるだけ。人間国宝になって一番変わったのは……、よくネタで言うんですけど……、ぼく、自転車で駅まで行ってるんですけど、その駐輪場のおじさんが「先生っ!!!!」と言ってくれるようになったこと(笑)。「先生!! 今日!!! 出番ですか!!!!」(笑)。文楽は先輩の人間国宝が多いので、なったからといってどうということはない。

そういえば、大阪で人間国宝が集まるという会があったが、内容を聞かされずに行ってしまった。大阪城公園に劇場が出来て、そのこけら落としに呼ばれたのかと思っていたら、記者会見で上方の古典芸能の人の集まりと聞かされて「そうなんや!?!?!?!?」と驚いた。おめでたいものをと頼まれ、ぼくは玉助さんと二人三番叟に出ます。三番叟、何年ぶりやろか……。もう……ずいぶんやってない……。最後までもつかなぁ……。いつも翁やってるんで……。玉助さんについていけるかな……(笑)。

(会場からどういう催しなんですかと聞かれ)全然わからん!!!!!(キッパリ)催しものの名前もわからん!!!!!!!(スーパーキッパリ)(司会から和生さんが出るところは鑑賞料9000円ですと言われ)えっ!?!? そうなん!?!?!?!?!?!?!?(司会からのイベント案内を首をコクコクしながら真面目に聞く和生さん)*1

大阪城は最近随分綺麗になって。こないだ記者会見で行って「ウワー! すごいな!!」と、こんなんなっとるんかびっくりした。博物館があったころ、師匠と人形の飾り付けに行ったことがあるが、そのころからは全然変わっていた。いま大阪は外国人のお客さんが非常に多くなって。そういえば大阪城内にあるたこやき屋さんが5億円脱税したと聞いて、「そんなもうかるんや!?!?!?!?」とビックリした。これも外国の観光客の方のおかげですね。(謎のまとめ)

本公演以外の仕事については、技芸員は文楽協会と一年契約をしているかたちになっているので、外部公演に出るときはその申請を届け出る。それで文楽協会が把握してくれればいいのだが、受け取っただけでそのあとなにかをしてくれるわけではないので(届け出は受け取っているが管理しているわけではないので)、ぼくらもほかの人が何をしているかは知らない。ぼくらは「何日出演していただけますか」「わかりました」で当日行くだけ。一日いくらで働いてま〜す❤️ ぼくらは自分たちで切符を売るわけでもなく、宣伝等そのへんはすべて主催者がやっている。

5月の連休の最後には、女流義太夫の竹本駒之助さんと秦野市のイベントに出る*2。玉男さんと良弁杉。それと釣女、二人三番叟。義太夫はすべて女流の方。これはうちの師匠の文雀と駒之助さんがむかし紀尾井町ホールに一緒に出ていたりした縁。

 

 

 

┃ 舞台にまつわる交際・交流関係

勘十郎くん、玉男くん、ぼくの三人組は同期。ぼくと勘十郎くんは同年の入門、玉男さんは一個下。むかしは一緒にいろいろ遊んだ。ローラースケートやったりしていた(まじで!? あとのポワワン二人組はともかく、和生さんが!?!?)。ぼくはあんまりしなかったけど(やっぱり……)。ずっと一緒にいるので、舞台へ出るときも何も相談も打ち合わせもせずやっている。相手役をやっても気が通じ合っているので、やりやすい。

他の業界との付き合いに関しては、さきほどの話通り、成駒屋さんとは親しくて、「(文楽では)あすこはどうするんや?」とよく聞かれる。「わし、こんど高師直やるねん! そっちはどないするねん!?」と聞かれたときは、塩谷判官と高師直がやっているのは大名の喧嘩だと話した。それで、そこまで話したのなら観に行かなあかんかな〜と思って観に行って、楽屋へ挨拶に言ったら、「この芝居のお師匠さんやから!!!!」と座布団を譲られ、上座に座らされそうになった。文楽から歌舞伎に移入されたもの(義太夫狂言)は質問されることが多い。逆に歌舞伎から文楽に移入されたものは教えてもらうこともある。例えば『鬼一法眼三略巻』菊畑の虎蔵。これは雁十郎さんから「まだ子どもやから床机に腰かけても足をペタっとつけたらいかん(地面から足を浮かせていないといけない)」と教わった。うちは人形だからその通りにはできないが。ほかには、天狗飛びの術で飛び上がるところは、ジャンプしてから切り落とすとか(このあたり記憶あいまい。菊畑を文楽でも歌舞伎でも観たことないんでよくわからなかった)。ほかに成駒屋さんから教えてもらったのは、『国性爺合戦』の錦祥女の話し方。高楼の上から話すので、言葉尻を上げないかんということ(口調のことではなく、和生さんのジェスチャー的には、人形のかしらも上向きでないといけないということっぽかった)。これは『妹背山』の山の段の定高も同じ。川の向こうに向かって語りかけるので(やまびこ風のジェスチャーをしながら)。歌舞伎役者さんから学んだことはほかにもたくさんある。良弁の渚の方についてはお能の方に聞きに行ったが、それ(能の所作)は別物。考え方、見方を聞く。

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質疑応答で文雀師匠の思い出をという質問が出て、和生さんの❤️師匠LOVE❤️が炸裂したため、メインは結果的に文雀師匠の話になった。勘十郎さんの簑助師匠の話、玉男さんの玉男師匠の話はそれぞれのお師匠様ご自身の芸談本が出ているのである程度聞いたことがあったが、文雀師匠のお話をここまで聞く機会はいままでなかったので面白かった。

というより、師匠について語る和生さんがとてもよかった。本当に師匠を慕っていらっしゃったんだなと思って……。文雀師匠について語るときだけ、話しぶりが違うもの。師匠が亡くなって寂しいとお話しされているときは、文雀さんてたんに師匠というだけではなく、和生さんにとって本当にとても大切な方だったんだなと感じた。師匠と遊びに行って楽しかったという話も、本当に心から楽しそうに語られていて、いいなあ、羨ましい、人生のうちでそこまで心から純粋に慕える人に出会うことができた和生さんて、本当に幸せな方なんだなと思った。

それと、やはり、和生さんてすばらしい人だなと思った。和生さんってひょうひょうとした雰囲気で、まったく飾らずからっとした感じでお話しされるけど……、お話の端々からにじむ物事への取り組み方、考え方に共感したというか、感じ入ったというか、勉強になったというか。たとえ人生のうちで文楽を好きになっていなかったとしても、私は和生さんのことを好きになったと思う。偶然にすぎないけど、文楽を通してこの人を知ることができて、よかった。

私は、文楽を好きになるまでは、古典芸能の世界って自分には絶対共感できない「考え方」に支配されている世界だと思っていた。客にはいい顔をしているけど、根性論が横行していて、師匠や先輩はなにも教えてくれなくて、「見て勝手に学べ」という悪しき職人肌的な世界なんじゃないかなと思っていた。でも、文楽を好きになってから、いろいろな技芸員さんのお話を聞いて、そうじゃないお師匠様もいっぱいいるんだなと知った。先代玉男師匠の話もそう。弟子に身の回りの雑事をさせることを大変嫌ったそうですね。それが修行というものであって、そういうのをやってこそ師弟というイメージだったので、知ったときは驚いた。そういう無駄な我慢をすること・させることをいかにも「かっこいいこと」として語る人がよくいるじゃないですか。でも、そういう世界でなくしようとしている人、へたに現代的な業種よりはるかに合理的・理知的な考えで後継者を指導しようとしている人がいるんだ、それも業界の超トップクラスに。って。

当然ながら私の仕事は古典芸能のような特殊な世界とはまったく違う業界なんだけど、でも世界の構造には少し似ているところがあると感じていたので*3、勝手に共感したというか、救われたような気がした。もちろん、それだけじゃすまされない厳しい世界だろうし、いまもそういう環境で苦しんでいる方や努力でそれを打破して(あるいは持ちこたえて)勤めて方がいっぱいいらっしゃることもわかるけれど。

税金納めててよかった(唐突)。

 

 

 

最後に私から一言。

\第二部の切符買ってね❤️/*4

 

 

 

*1:和生さんがご自分でまったくわかっていないご出演イベントはこれです。
上方伝統芸能フェスティバル 
https://cjpo.jp/program/#hall-ss_geinofes
日時 2019年2月25日(月)~27日(水)
場所 クールジャパンパーク大阪 SSホール
和生さんは初日「上方伝統芸能フェスティバル~おめでたづくし!~」にご出演。ちなみに2日目には勘十郎さん(河連法眼館・忠信役)、3日目には玉男さん(大物浦・知盛)がご出演。そういえばいま思い出したが、和生さん、以前あるイベントで、ご自分がお客さんにとったチケットをどなたのためにとったのか忘れたらしく、ご自分が冠のメイン出演者にも関わらず場内で「ぼくからチケット買うた人〜〜〜〜〜っっ!!!!」って大声あげながら探し回ってたせいで、開場待ちしてる人たちが「!?!?!????」となっていた。

*2:竹本駒之助の会 人形浄瑠璃 人間国宝の競演 竹本駒之助×吉田和生 | 秦野市役所

*3:もう本当しょうもない「オレの話」を延々してくる人、自慢話は文化勲章取るか、切腹してから話しはじめて欲しい。業界的に文化功労者にはなれても文化勲章はいまだかつて受章者なしで今後も絶っ対無理なので、切腹がおすすめ。せっぷくのしかたはぶんらくでいっぱいいっぱいおべんきょうしたので、いつでもやりかたをしつもんにきてほしい!!!!!! そのてんにおいてはわたし、やさしい「ししょう」だから!!!!!!!!!

*4:写真掲載の条件、モロマ。国立劇場2月文楽公演案内ページ→https://www.ntj.jac.go.jp/sp/schedule/kokuritsu_s/2018/2471.html 国立劇場チケットセンター→PC http://ticket.ntj.jac.go.jpスマホ http://ticket.ntj.jac.go.jp/m/ 営業するからにはおすすめポイントを書いておこう。第二部は「大経師内」の一部に下手(左側)ブロックからしか見えない特殊な人形の演技が含まれているので、いまからチケット手配される方で人形の演技をよく見たい方には、中央ブロック左寄り・左ブロックがおすすめです。しかも、むしろやや後方席のほうがよく見えるという特殊なシチュエーション。玉志さんガチ恋勢のみなさんは左ブロック後方を追加購入してください。

文楽  トークイベント:桐竹勘十郎「『壇浦兜軍記』阿古屋琴責の段について」文楽座学

2月5日開催、NPO法人人形浄瑠璃文楽座主催のイベント。今回の内容は勘十郎さんから阿古屋についてお話しいただくというものだった。簡易ながら以下にお話の内容を整理し、まとめる。また、撮影可能だったため、後列席で写りは悪いけど写真もつけている。ご参考まで。

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┃ 『壇浦兜軍記』阿古屋琴責の段について

人形遣い桐竹勘十郎でございます。今月はお昼から時間をもてあましていて(笑)夜の7時半頃から出番です。今回の第三部は中将姫の「雪責」、阿古屋の「琴責」、責められてばっかりです(笑)。

風邪ひいてまして、きょうの話、鼻声で聞き苦しくて申し訳ないんですが、インフルエンザじゃないんでご安心ください。先月の大阪公演の途中で風邪をひいてしまって、治ったかなと思っていたんですが、東京に来たらぶり返してしまって。風邪にはポリフェノールがええらしいですね。紅茶より赤ワインのほうが飲みやすいんですけど(笑)。それとお茶がええらしいですね。病院の先生もひとり患者さん診終わると、お茶をひとくち飲みはるそうです。……って、いまから「ためしてガッテン!」始まるわけやないですよ(笑)。

『壇浦兜軍記』は1732年に書かれた作品。当時は一人遣いで、その2年後に三人遣いがはじまったそうですが、一人遣いの頃の阿古屋はどういうふうにお琴を演奏してたんでしょうね……(笑)。「阿古屋琴責の段」は五段構成の『壇浦兜軍記』のうちの三段目の口。文楽ではこの場面しか出なくて、わたしもここ以外見たことありません。上演順序としては端場(はば)、つまり物語の最初の場面ですが、「阿古屋琴責の段」は「立端場(たてはば)」で、切場にも匹敵する重要な場面です。立端場では、独立した大道具を立てます。普通、「口」に立てた大道具はそのまま次の場面にも続けて使われるんですけど、立端場の場合はそれだけのための大道具。立端場の例は、ほかには『一谷嫩軍記』の「組討の段」など。これは熊谷直実が敦盛に仕立て上げた息子の首を討つという重要な場面ですね。太夫も非常に力がいります。

阿古屋は景清と馴染みが深いとして詮議を受けることになります。景清は源平合戦を生き残り、頼朝をまだ狙っている平家の武将。阿古屋は身重で、おなかに景清の子がいるんです。詮議といっても拷問ではなく、畠山重忠という立派な源氏の武将が楽器の演奏を聞いて、その音にゆらぎがないかを聞いて判断します。上演がない部分には阿古屋のお兄さんも出てきます。お兄さんは「伊庭十蔵(いばのじゅうぞう)」といって、景清にそっくりという設定。「なんで?」って思いますけど、いかにも芝居ですね。それで、景清のかわりに腹を切ろうとしたりする。この兄は直前に景清に会っていて、景清がどこに行くのかも知っていて、阿古屋に話そうとする。でも、阿古屋は聞きたくないと言って耳を塞ぐ。阿古屋は清い心でこの詮議に臨むんですね。

 

 

 

┃ 阿古屋の配役について

ぼくが初めて阿古屋の足をいかしていただいたのは、昭和50年の7月、22歳のときに桐竹亀松師匠−−一輔くんのおじいさんですね−−が遣っていらっしゃったとき。足はなんにもしていないように見えて、大変。見た目何もないですけど、何もないことはない。ものすごく難しい。動きはないんですよ。でも「いかに主遣いを助けられるか」が腕の見せ所。ぼくも2度も3度も怒られた。亀松師匠は厳しかったんです。

そのあと昭和62年、ぼくが34歳のとき。うちの師匠が阿古屋になって、初めて左をいかせてもらった。阿古屋の左は、完璧に曲を覚えていなくてはいけない。どこを押さえるか、はじくか……。足は曲を覚えていなくてもいいんですけど、左は大変です。

そのあとしばらく阿古屋は出なくて、平成10年の東京公演で師匠が阿古屋。左をいかせてもらいました。その翌年の平成11年の1月大阪公演にも阿古屋が出て、師匠が配役されていたんですが、その前年の11月に師匠は倒れられて、出られなくなった。そこで桐竹一暢さん−−一輔くんのお父さん−−がよく左をいっておられたので、代役になった。阿古屋の主遣いは左をいったことがないとできないんです。それで、足だったわたしが左に入った。師匠は???(忘れた……身体系のリハビリ)と謡でリハビリをされて復帰して、また阿古屋に挑戦されて2回いかれた。そのときもわたしが左。

そして平成24年、初めて阿古屋の役をいただいた。「今まで足、左で積み重ねてきたことをここで!!」と思ったんですが、見るのとやるのでは大違い。これだけしか積み重ねてきてなかったのかと思った(笑)。大慌てで曲をさらえて。そのときも三曲は寛太郎さんでした。それから平成26年に阿古屋をいただいたときも寛太郎さん。そのあとも寛太郎さん(笑)。寛太郎さんは非常にやりやすい。注目している若手の三味線弾きさんです(突然のカンタローダイマ

平成26年のときには、頼んで太夫さん三味線さんの稽古場に入れてもらって。人形はあんまり稽古してないですけど(笑)、太夫さんと三味線さんは時間を合わせて何回も何回も稽古をしている。稽古場の隅に座らせてもらって、見学させてもらいました。それとはまた別に、寛太郎くんに演奏している様子の映像の録画を頼んで。そうしたら引き受けてくれて、ひとりの稽古のときにカメラを置いてやってくれたんです。それは今もDVDでとってあって。ラベルに「寛太郎のスーパーレッスン」って書いてあります(笑)。それを見ると、「なるほどな」と思います。

三味線さんの本物の演奏と人形では「同じ」にできません。人形は「そう見えればいい」。違うのがいいんです。フリは合ってません! 合っているように見せてるんです。演奏の出来はそのときの「運」。きょうはこのあとどうなるんやろ(笑)トークは阿古屋上演前に開催)。三曲のうちでは胡弓が音が素晴らしくて好きですね。自分自身は楽器はリコーダーくらいしかできませんけど(笑)、舞台に出ると、琴も三味線も胡弓も出来るような顔をしています(笑)。

 

 


┃ 紋十郎師匠の阿古屋と初舞台

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これは今月の小割帳。人形の主遣い、左、足、介錯、口上が誰なのかがぜんぶ書いてあるものです。1日の公演でも、1ヶ月の公演でも、必ずこれを書きます。これを作らないと芝居ができません。ここに「小割委員」と書いてありますが、いまはわたしと吉田玉男さんでやっています。清書は字が下手なんですがわたしがやらせていただいています。

昔の小割帳の写しも持ってきました。これはぼくが3月に中学を卒業して、4月に人形遣いの仲間に入れてもらった昭和43年のもの。阿古屋は桐竹紋十郎師匠。紋十郎師匠は父や師匠のそのまた師匠です。紋十郎師匠は阿古屋が大好きでした。

三人の水奴の配役が、わたし。もう辞めましたけど昇二郎、同期でした。そして和生さん。ぼくはこの水奴で初舞台。(小割の足が書かれた部分を見せて)これ見てください。わたしの足が「勘十郎」。父です(笑)。昇二郎の足が「玉男」(爆笑)。すごいでしょ。当時は人形遣いの人数が少なくて、27、8人しかいなかった。それもあるんですけど、大きいのは、水奴の役は入門したての人だけでは勤められないから。わたしたちは入りたてで、『壇浦兜軍記』は初めて観るし、浄瑠璃も初めて聴く。水奴は阿古屋に楽器を渡すタイミングが難しくて、1日くらいの稽古ではできません。紋十郎師匠はそこに大変うるさかったので、父や玉男師匠が足を遣いながら指図してくれたんです。人形遣いは舞台では無言というのは嘘です。もう、むちゃくちゃ言われます。「立てっ!!」「行けっ!!!」(笑)。それくらい言われないとできないんですね。あ、阿古屋の足は紋壽兄さんですね。(小割帳を示して)水奴は、左遣いの名前は書いていない。これは「欠け」と言って、こういう端役は必要なときだけ人が来て遣うことになっています。

数えてみたら、紋十郎師匠は阿古屋を108公演勤められていた。「舞台」じゃないですよ、「公演」です。紋十郎師匠は本当に名人で、当時は「東の歌右衛門、西の紋十郎」と言われていて。師匠のもすごいけど、紋十郎師匠の阿古屋は本当にすばらしかった。阿古屋に使う傾城のかしらは文楽座には2つあって、「古いもの」と「新しいもの」。ぼくが今の公演で使っているものは、紋十郎師匠が最後に阿古屋をされた地方公演で使ったもの。紋十郎師匠はこのかしらをことに好んでいたそうです(当時の新調のかしらで、肉感的ではっきりした豊かな顔立ちとかそういう彫りのつくりが気に入っていたという理由だったと思う。このあたりうろ覚え)

 

 

 

┃ 阿古屋の人形を組み立てる

(かしらがなく、打掛・帯をつけていない着物のみの姿の阿古屋の人形を見せながら)普段、人形はかしらをつけた状態で竹製の「人形立て」に立てておくんですが、阿古屋は傾城のかしらが大変重いため、バランスが悪くて立てることができず、かしら・打掛・帯を外した状態で部屋(楽屋)に立てています。打掛も非常に重く、着せたままにすると着崩れするので、出の直前に着せます。

まず帯。阿古屋のつけている帯は「俎帯(まないたおび)」というもので、またいたに似ていることからそう呼ばれているそうです。傾城は部屋の中では鮟鱇帯をしていますが、道中などには俎帯をつけます。今回の阿古屋の衣装は打掛も着物も帯もすべて新調。綺麗なんですけど……、言いにくいんですけど、慣れていないので硬くて遣いにくい。今回、帯の上につけている蝶と金糸・銀糸の飾りは、自分が勝手につけているもの。傾城の衣装そのものは夕霧などにも使っているんですが、阿古屋には特別感が欲しかったので、自分で考えてデザインして材料を集めて作りました。なにがええかなと思ったけど、蝶にしたのは、帯が牡丹柄なのもありますが、阿古屋の馴染みの景清の平家の紋、揚羽蝶をイメージしてのこと。本当は衣装は少しでも軽くしたいんですが、これは特別。文楽では、阿古屋はお琴を演奏した後、帯を後ろに回す振りがあるんですが、このとき後ろに回したフリをして帯を外してしまいます。

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次に打掛。阿古屋の着ている打掛は、左に桜、右に紅葉の刺繍が入っています。打掛を着せると人形が非常に重くなります。人形の衣装は普通は針と糸で縫い留めてるんですが、打掛のように舞台上で脱ぐものはセンバリで肩に仮留めをしておいて、脱ぐ直前に糸を引っ張って針を引き抜きます。糸は衣装の色に合わせたもの。このように肩に針を刺しておくことが多いので、衣装の肩の部分は傷みやすいですね。

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最後にかしら。傾城のかしらは女型のかしらの中でも大型。重さも普通のもののいくつ分かありますかね。髪型は「立兵庫」で、床山さんも工夫をしてできるだけ軽くしてくれるんですが、重い。普通にまっすぐ向いて顔をあげているときはいいんですよ。お琴を弾くためにうつむくときが大変。そのままでは持っていられません。そのときに足遣いが活躍するんです。琴の演奏中は、足遣いは「イッチョウ持ち」といって、右手で衣装を持ち、左手を帯と着物間に差し込んで、かしらの重量を人形の胸のあたりで主遣いと一緒に受けます。(このあたり話をかなり要約している。以下の1枚目の写真のようにするということのようだ)

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傾城はこのように大きなかしらや衣装をつけているので、腕もそれに負けないよう、普通の女方のものより大型の「5番」を使います。これは師匠から借りました(とおっしゃっていたと思う)。この手はほかにも夕霧や梅ヶ枝にも使います。

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阿古屋は打掛を取り、帯を取りと衣装を脱いでいくと、どんどん遣いにくくなります。打掛を脱いだときは軽くなるのでホッとするんですが、かしらだけが重くなってバランスが悪くなり、遣うのが大変です。

 

 


┃ 三曲の演奏

歌舞伎の役者さんは楽器の稽古をして本当に三曲を演奏するのがみどころですけど、文楽では床でプロの三味線弾きさんが弾いてくれますので(笑)。今回は寛太郎くんです。文楽では、人形と床がどれくらい「合う」かというのは、二の次なんです。先月の大阪でもあったんですけど、何度も見に来ていただいているお客さんが、双眼鏡で人形と床を交互に見て、フリと演奏が合っているかをチェックしていらっしゃることがある(汗)。そういうもんではないんです(笑)。やめていただきたいです(笑)。なるべく合わせる、ツボを合わせるようにはしています。

(古びた木箱を示して)三曲を弾くときに使う手はこのような木箱に入っています。ぼくは師匠のものを借りて使っています。箱の蓋の上部には「三曲」と書かれていて、左下には「簑助」の名前が入っています。そして、消えかけているけど、右下に薄く「紋十郎」とあります。これは師匠が紋十郎師匠から引き継いだもの。文楽座にはこの三曲の手が4組あり、立女方、つまり座頭級の女方を遣う人に代々継承されています。これが簑助師匠のもの。また別のひとつは先代清十郎師匠が使っていたもので、いまは当代の清十郎くんが持っています。それと亀松師匠のもの。もうひとつが文五郎師匠から引き継がれた、文雀師匠のもの。それぞれの弟子が受け継いで持っています。

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琴を弾くときに使う「琴手」は親指・人差し指に黒い琴の爪がついています。通常の手を衣装の中に隠し、この手に差し替えて琴を弾きます。文楽の舞台で使う琴は「短琴」で、調子を合わせてあるそうですね。だから正しいところに手が当たれば床の演奏とだいたい近い音が出るんですが、違うところに当たれば間違った音が出てしまいます。……気になりましたか? 大阪でも同じことをお客さんに聞かれたんです。でも、正しい音が鳴っていると聞いて、「よかったー」と思いました。

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三味線の右手には撥がついています。本来、本物の三味線を演奏するときは撥の上の角の部分で弦をはじくんですが、人形でそのように演技をしても弾いているようには見えません。どう弾いているように見せるかというと、「撥のお尻をうまく使え」と言われています。撥のお尻の部分を強調して動かすと、まるで弾いているように見えます(実演。手の動きの支点を撥の先端側に寄せて、お尻側を大きく動かすイメージ)。左手は3本の指が動くようになっています。舞台では水奴が小道具として三味線の撥を運んでくるんですが、どのように普通の手と三味線手を取り替えているかというと、受け取るふりをして袖の陰で元々吊ってある手を隠し、三味線手に持ち変えるんです。受け取った小道具の撥は後ろにいる介錯が受け取って隠します。むかし人が少なかったころは介錯をつけられなかったので、持ってきた水奴が渡すフリをしてそのまま持ち帰っていた(笑)。失敗すると撥がふたつあるように見える(笑)。左手は差金がついていて、右手と構造が違うのでこのようにはできません。左手は外してしまいます。「外す」といっても人形の腕は通常、紐で結わえて吊ってあります。どのようにしているかというと……、本当は見せるものではないので内緒なんですが、阿古屋のときだけ、肩のところでマジックテープで留めてるんです(笑)。それでつけかえる。最近は便利なものがたくさんありますから(笑)。ぼくの場合は、これで付け外しをしています。

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胡弓のときは、右手は普通の手で弓を持ちます。胡弓はまっすぐ立てて演奏します。左手は三味線と同じ手。演奏中の切れ目でない箇所での拍手についてですか。拍手はありがたいと思っています。なんですけど、胡弓の「つるのすごもり(小さな音になっていって、弓を大きく引く部分)」の切れ目でない部分(弓を引く前)で拍手が来ると、あれ??つぎどうするんやったっけ???となって、演技がわからなくなります。なので、寛太郎くんが拍手がおさまるまで演奏を待ってくれます。

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使う舞台下駄について。阿古屋の場合、人形が大きいので、ぼくの場合はふだん立役に使う「5番」という高さのものを使っています。演奏中はそれでは高くて遣いにくいので、右足だけ低い舞台下駄に変えています。これはぼくがそうしているというだけで、どうするかは自由なんです。

 

 

 

┃ 最後に

50年前、はじめて紋十郎師匠の阿古屋を拝見してからずっと憧れていた役を頂けて嬉しい。ぼくはこれで4回目ですけど、紋十郎師匠の108回を目指して(笑)がんばりたいと思います。ありがとうございました。

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1時間程度の会だったが、勘十郎さんはお話しがうまくて、お考えをよく整理されているので、内容の濃い時間を過ごすことができた。そして、やはりこの人すごく鋭いなと感じた。お客さんの反応をよく見ていると言うか、ほんわかとお話しされてはいるけど、実はぜんぜんすっとぼけてなどいない。洞察力が鋭い。さすが阿古屋を張る人なだけあると思う。

最後はご好意で阿古屋の人形に近づいて見たり、撮影できる時間を設けていただいた。勘十郎さんの大切な人形で、普通には絶対こんなにも近づけない、貴重な機会。おかげで、衣装の刺繍や生地の質感などをよく観察することができてとても嬉しかった。絢爛で気品のある、本当に美しい人形だった。

実は、大阪公演では蝶の帯飾りを不思議に思っていた。よくある舞台写真等では阿古屋は普通に俎板帯をしめているだけで、それ以上の装飾をしたものは見たことがなかったからだ。それと、金糸銀糸の飾りは大阪の初日ではたしかつけていなくて、二日目からつけていたように思う。オプションの飾りなのかなと思っていたら、まさかの勘十郎さん手作りとは。近づいてよく観察すると、至近距離で見ても仕上げがものすごく綺麗で驚いた。しかも、よく見ると部分によって少しモコモコした布でできていたりと、素材感が異なった凝った設計である。この記事をお読みいただいている方は、ぜひ上に貼った写真を拡大して見てみてほしい。勘十郎さんは手先が器用すぎて、世が世なら人気ハンドメイド作家になってしまっていたと思う。デザインフェスタに出て欲しい(出ません)。勘十郎さんは遣い方自体ではそこまで人形の体格感を出さないので、帯飾りをつけることで人形に対して客の視線を集める位置がやや上のほうに行き、人形の体格がバランスよく見えるように思う。

 

 

 

最後に私から一言。

\第三部の切符買ってね❤️/*1