TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 2月東京公演『冥途の飛脚』国立劇場小劇場

一度は思案、二度は不思案、三度飛脚。戻れば合はせて六道の、冥途の飛脚と

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『冥途の飛脚』は記録映像映画『文楽 冥途の飛脚』と内田吐夢監督の劇映画『浪花の恋の物語』で観たことがあり話を知っているので、初心者ながら予習はバッチリ。また、第一部・第二部とは別日に観劇したので、パンフレットの鑑賞ガイドを予めしっかり読んでおけた。おかげで筋の理解に気をとられることなく芸そのものに集中でき、ゆったりした気持ちで観劇できた。

 

 

淡路町の段。

送り出す荷物を搬出したり、為替金の問い合わせに客が来訪したりで忙しい飛脚屋・亀屋。亀屋は大坂の飛脚屋の中でも鑑といわれるほどの立派な店だった。その後家・妙閑(配役・吉田文昇)は不在にしがちな後継の養子・忠兵衛(吉田玉男)の近頃の素行の悪さを気にしており、小言を聞かされる手代(吉田勘市)はそのフォローと店の切り盛りに手一杯。帰ってきたものの家に入りづらくうろうろしていた忠兵衛は、店先で友人の八右衛門(吉田簑二郎)と出くわす。八右衛門は亀屋に届くはずの金五十両の到着が遅延しているクレームにやって来たところだった。忠兵衛は、実はその金はすでに到着していたが、それを田舎客に請け出されそうになっていた新町の女郎・梅川(豊松清十郎)を先に身請けしようと、手付金として勝手に使ってしまったと告白する。八右衛門は言いにくいことを正直に告白した忠兵衛への友情として、支払いは待つと言って帰ろうとするが、話し声を聞いていた妙閑が現れて八右衛門に上がってもらえと促す。八右衛門が仕方なく亀屋へ上がると、妙閑は忠兵衛に五十両を早く渡すようにと言いつける。もちろん五十両はどこにもなく、忠兵衛は仕方なしに鬢水入れを紙に包んで小判の包みに見せかけ、八右衛門もそれを承知して芝居を打って包みを受け取り、文盲の妙閑にはわからないようかたちばかりの受取を書いて帰っていった。
夜更け、遅れていた江戸からの荷物が到着した。その中にはさきほど催促を受けた堂島の武家の為替金三百両も含まれており、忠兵衛はさっそく客先まで金を届けに行くことにした。ところが忠兵衛、気がついたら遊里・新町の前に立っていた。忠兵衛は引き返して堂島へ金を届けに行くか、それともこのまま梅川に会いに行くか迷うが、羽織がはらりと落ちたことにも気づかず、ついに新町のほうへ足を向けてしまう。

忠兵衛のしょうもない、かわいい男感がすばらしかった。イヤー玉男様ーって感じだった。どれくらいしょうもなかわいかったかと言えば、休憩時間にトイレに並ぶ着物姿の奥様方がダメ男の話題で盛り上がっていたくらいである。近くの席のオッチャンも「いるよねーこういう人。公金横領した人とか」と盛り上がっていた。

そんな忠兵衛に代わってよく働く手代、人形だけに無表情で仕事を黙々とこなしているが、妙閑のお小言の「忠兵衛は鼻紙を妙に無駄遣いする」というくだりだけひゅっと下がり眉になるのがとってもかわいい。妙閑が本気で鼻紙の無駄を言っているのか、鼻紙の用途を揶揄して言っているのかはどうとでも取れて、どちらを言っているのかはわからなかった。しかし他の人へのお小言を本人の不在時にかわりに聞かされるとは、勤め人は大変だ。

家に入りにくい忠兵衛がタルを下げて酒屋へ使いに出かけて行く下女(吉田清五郎)を引き止めるくだりは、店の前で下女と忠兵衛と二人してウンコ座りでしゃべっているのがコンビニの前のヤンキーみたい。普通の人形は正座や床几に座るイメージできれいな姿勢で座るけど、下女は着物の裾をまくってひざから下の足を見せ、はしたなくひざを広げて座っていた。この座り方がいかにも下女っぽくておもしろい。そして、忠兵衛のクソぶりがキラリと光るシーンであった。ご贔屓さんだかの内々の会で和生さんがお染を遣い、久松に見立てたお客さんの肩に手を置いてクドキをやってくれたという話を聞いたことがあるのだが、それで言えば、私もこの下女役をやりたいです。

忠兵衛が淡路町を出てつい新町へ向かってしまう場面は背景書割がスクロール。窓の明かりもちゃんと一緒に動く仕掛けで、風景が普通の街中から色里へうつりかわっていくさまを表現していた。文楽の人形は歩き方が特徴的で、実際の人間よりゆっくり歩く(=一瞬うしろに下がってから歩き出し、大きい足取りだがその動作ほど前には進まない)と思うのだけど、この忠兵衛の動きと背景効果があわさって、前方席のほうで視界いっぱい背景の状態で観ていると空間認識が歪んでちょっと酔う。

最後に現れるぶちいぬ。人形と比べるとむちゃでかくないか。スコティッシュ・ディアハウンド的な。しかし、忠兵衛はなぜあの犬に石を投げつけたのだろう? あの犬だけがもういちど正気の世界へ立ち返る最後のチャンスのようにも、またはその逆、忠兵衛の心の迷いが形をなしたもののようにも見えた。

淡路町の奥(竹本呂勢太夫鶴澤清治)はとてもよかった。清治さんは盛大な拍手を受けていた。

 

ところで私が観た回、為替金の問い合わせにきたお侍(吉田文哉)が亀屋へ上がって座るとき、左遣いの方が腰から刀を外すのに失敗して刀身が鞘からスポッと抜けてしまい、ちょっとあせっておられたのがかわいかった(失礼)。話の流れを変えてしまうようなミスはまずいが、刀を飾り程度に差している人形でもちゃんと抜ける刀を差してるんですね。ふたたび立ち上がって刀を差すとき、人形がうしろにふりかえって、文哉さんが刀を差す位置を人形の手で「ここ、ここ👇」とジェスチャーでフンフン示していたのもかわいかった。それとも、刀をなおしてる演技? そういえば、うまいことチケットが手に入ったので、別の日にももう一度第三部を観たのだが、その日は八右衛門が亀屋に上がるとき、忠兵衛&介錯の黒衣がのれんをまくった拍子に門口の柱にのれんが引っかかってしまった。介錯の人は気づかなかったようだが、忠兵衛がちょうどのれんの引っかかったほうの柱の影にいたため、玉男さんが人形の手でそっとのれんを直していた。自然な仕草で、かわいかった。

 

 

封印切の段。

女郎・梅川が茶屋・越後屋へやって来る。とんと音沙汰もなく身請けの残金の支払いもない忠兵衛が来ていないかと訪ねてきた梅川は、忠兵衛が手をこまねいているあいだにあの田舎客に身請けされてしまったらどうしようと悲観していた。仲間の女郎たち(桐竹紋秀、吉田玉勢)は場を盛り上げようと、竹本頼母の弟子だという禿(吉田和馬)に浄瑠璃を弾き語りさせる。しかし禿が語ったのは女郎がその悲しい身の上を嘆く内容だったので、梅川はさらに暗くなり、座敷はよりいっそう沈んでしまう。そこへ八右衛門がやって来た。八右衛門は女郎たちや女主人(吉田簑一郎)を呼び出し、忠兵衛が来ても取り合わないように言いつける。彼は金がないはずの忠兵衛がここへ来ればまた人様の金に手をつけるだろうことを心配していたのだ。八右衛門が小判に似せた鬢水入れの包みを見せると一座は驚き色めき立ち、八右衛門を敬遠して一座に交わらず二階から様子を見ていた梅川も身請金の正体に泣き伏した。ところがこれを忠兵衛が立ち聞きしていた。ふらふらと越後屋へ入ってきた忠兵衛は、いますぐ八右衛門へ金を返してやると言い出す。八右衛門はよその金に手をつけてはただではすまされないと止めるが、忠兵衛はついにふところにある小判の包みを切ってしまう。ばらばらと落ちた小判を拾い集め、八右衛門に投げつける忠兵衛。梅川は階段を駆け下り、忠兵衛にすがりついてその金を本来の届け先へ早く持っていってくれと懇願する。しかし忠兵衛はそれをかえりみず、これは養子に来た時の持参金だと言い張って、残った金で女郎や店の衆に祝儀を配り、梅川の身請けの残金を払ってしまった。八右衛門は納得しない様子で越後屋を後にし、女主人や女中たちは身請けの手続きに出かけてゆく。残されたのは忠兵衛と梅川のみ。忠兵衛は、さきほどの金はやはり堂島のお屋敷の急用金だと梅川に告白する。武家の金に手をつけては死罪は免れない。忠兵衛は生きられるだけ生きようと、梅川とともに大坂から逃げることを決意する。

梅川は透明感があって、下級女郎でも心は清楚なイメージが出ていた。着付けはわりと雑ないでたちだけど(わざとやっているそう)、動きが澄み切っていて綺麗だった。梅川は始終嘆いてばかりだが、演技に飽きを感じることはなかったので、客が気づかないレベルでいろいろな工夫をされているのだろうと思った。

忠兵衛は八右衛門が越後屋で皆に鬢水入れの一件を話して以降のシーンはかしらが変わり、鬢が触覚状に左右ひとすじ垂れ、髷の部分も固定が外れてフワフワ浮く姿になり、がらりと様子がかわる。封印切りをしてしまったあとの梅川のクドキのあいだ、この忠兵衛が首をすこしかしげて肩をいからせ気味にうつむいているのが感じが出ていてうまい。わかってる、わかってるよ、わかってるんだけど、やっちゃたんだよ! という雰囲気が出ている。おなじようにじーっと聞いている演技でも、このあとの道行のときとは印象がまったく違う。ただじーっとしているだけでも、こころのなかで何かを考えている感じが出せるんだなと思った。このへんはやっぱり人形遣いさんによって上手い下手がある。脇役だと、ときどき、上司のお説教を上の空で聞いてるサラリーマン状態のお人形がおりますな。

肝心の封印切りのシーン、ぱらぱらぱら、きらきらきらと小判が流れ落ちていくさまは見事。動きはそんなに派手なわけではないが、義太夫や人形の演技によって劇的だと感じるイマジネーションの世界。人形の動きを近くでよく見ていると、落とすより結構先に封を切り始めている(小判をずらしはじめている)のがわかった。ここは塊でぼとっと落とさないよう、バラバラと落とすのがコツだそうだ(初代吉田玉男文楽藝話』より)。

 

禿ちゃん=和馬さんがとても一生懸命三味線を弾いておられた。変化の多い曲調が難しく、まだ曲を覚えきっておられないのだろう、はじめは富助さんの三味線と右手のフリが合っておらずドキドキしたが、左遣いのお兄さん(だよね?)にリードされて途中からうまく弾けていた。富助さんが棹を「トントン♪」とされるのとばっちりタイミングで左手が「トントン♪」としてお客さんも湧いているのにあわせて、うまくノってきたみたい。ようがんばった、ようがんばった(泣)。うしろに下がっているお兄さん女郎たち(変な日本語)も禿ちゃんをじっと見守っていた。お客さんとおなじくらい、ドキドキしておられたことであろう。

仲間の二人の女郎のうち、玉勢さんが持ってる方の子(鳴渡瀬)がなんだか身長が高く見えた。身長170センチはありそう。よく見ていると、他の人より人形を持っている位置が高い。玉勢さんご自身の身長が高いのもあるが、清十郎さんやもうひとりの女郎役の紋秀さんより腕を曲げて高めの持ち方をされていた。これがわざとなのかはわからないが、着付けがコンパクトなのもあり、すらりとした姿に見えて、「すっとしたお姉さんタイプの子なのかな」という感じがした。鈴木則文の映画のような、端役の脇役でも個性の見える子を配しているみたいに思えて、印象深かった。

そうえいば、八右衛門のきせる入れは茶色の革にシルバーの飾りがついていて、コンビニの前にいるヤンキーが腰履き半ケツのズボンの尻ポケットにさしている財布みたいだった。

 

 

 

道行相合かご。ここは改作版上演とのこと。

大坂をのがれ、忠兵衛の故郷・新口村へ向かっていた二人は道の途中で籠から降り、人目の少ないあぜ道へ入る。空からはみぞれ・あられが舞っていた。梅川は京都にいる母を思い、忠兵衛もまた新口村の父へ梅川を紹介したいと思っていた。しかしそれも今世では叶わないだろう。忠兵衛と梅川は来世を思いながら歩みを進めるが、天候はますます悪化し、その風雨の音を追っ手の物音かと驚き怯える。忠兵衛と梅川はお互いを庇い合いながら道を急ぐのであった。

床がちゃんと揃っていた。特に團七さんを筆頭とした三味線はきれいだった。

冒頭、大きな籠をかついでトントントンとあらわれる駕籠かき(桐竹勘次郎、吉田玉彦)がかわいい。籠の中を覗いて「キャッ❤️」となったり、たばこを吸ってちょっと休憩したり。フリも揃っていてよかった。

ラストシーンでは雪がたくさん降っていた。人形や人形遣いにもフワフワと積もっていたが、空調の風に吹かれて客席にも振り込み、私の席まで舞ってきた。終演してから拾って見てみると、薄い半紙を四角く切ったものだった。

 

 

 ■

『曾根崎心中』が火力MAXの世界マッドマックスだとすると、『冥途の飛脚』は劇的だが静かに深く透明感のある世界だった。こういったクリアな質感は、文楽ならではのものだと思う。

それと、漠然とした印象だが、今回第一部、第二部、第三部と観て、三味線って、弾く人によって結構音の印象が違うもんなのだなーと思った。弾き方や旋律そのものの違いもあるけど、音の響き方の印象が人によって違う感じがする。ヲクリのひとばち目の音だけで、場の雰囲気をいっきに変える人がいたり。三味線の音で、空気がピーンと張り詰めたり、逆にほわっとほころんだ感じが急にすることがある。いままで、文楽では三味線で情景を描写するというのがどういうことなのかよくわからなかったが、すこしヒントを得たような気もする。

 

 

冒頭に触れた内田吐夢監督の『浪花の恋の物語』は『冥途の飛脚』を題材にした劇映画だが、結構話を増補してるんだな。今回、原作の文楽を観たことで『浪花の恋の物語』のよさがよりわかった。「淡路町の段」までの前段をしっかり描き込むことにより、二人の立場上の、あるいは気持ちの上での閉塞感を存分に出している。そのへんはやはり劇映画ならではのうまさ。とくにうまいのが、封印切りがいかにヤバイかという話を事前に何度も繰り返している点。これがわかっていないと、封印切りの意味することがわからなくなってしまう。文楽と同じ通り、催促に来る侍が強い調子なのはもちろん、冒頭の人形浄瑠璃の芝居小屋のシーンでよその飛脚屋での封印切りの噂話を出して、その危うさをより印象づけている。そして、ストーリー全体の整理と見せ方に関しては、原作に触れてなお傑作だと感じた。原作のアンチョコになっていないのが本当に素晴らしいと思う。

『浪花の恋の物語』、ご覧になったことがない方は、DVDが出ているので是非ともご鑑賞を。近松門左衛門を主人公に、当時の人形浄瑠璃の芝居小屋の様子も描かれている(ただし人形は三人遣いにしているなど、意図的に時代考証を無視している箇所や史実改変あり。でも、文楽お詳しい方はすぐ意図に気付くと思います)。竹本座の座員を演じる文楽技芸員の方々は最も良いシーンで登場、当時の三和会、若き日の越路太夫師匠(つばめ太夫時代)、勝太郎師匠、紋十郎師匠らが出演され、ストーリーを盛り上げている。人形の撮り方がかなり特殊なことにご注目を!

浪花の恋の物語 [DVD]

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 この映画のくわしいレビューは、過去記事2016年ベストムービー5(旧作だけど) - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹に書いております。

 

 

ところでロビーでずっと流れている文楽研修生の募集ビデオ。

幕間にじっと見ていたら、昨夏頃見たものと内容が差し変わっていて、より詳しい内容になっていた。研修内容の詳細な様子が映ってるのだが、人形の部が結構面白かった。和生さんや清十郎さんがツメ人形のような簡素な女の人形で足の動かし方などをレクチャーしている映像があり、雑な顔のツメ人形なのに主役級にしか見えないすばらしい動きで、笑ってしまった。人形がどう見えるかって、やっぱり人形遣いの芸の力がいちばん大きいんですね。清十郎さんがおそらくアドリブであちこちに動いて、足を遣わせている研修生の子をついて来させるところ、スタタタタと動きが異様に速くて面白かった。ツメ人形(と清十郎さん)、ふだんそんな激しく動かんから。師匠格の方々ばかりでなく、玉翔さんや紋秀さんなど、お兄さんたちが横からサポートしてあげていた。どの研修でも研修生のみなさんとても一生懸命な表情で、またも親戚のオバチャンの気分になってしまい、大変やろけどがんばってな……待っとるで……(ホロリ)となった。

 

 

 

文楽 2月東京公演『曾根崎心中』国立劇場小劇場

この世の名残、夜も名残。死にに行く身をたとふればあだしが原の道の霜。一足づつに消えてゆく、夢の夢こそあはれなれ。

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第一部の開演前にロビーにいたくろごちゃん。黒衣だけにロビーに溶け込んでおり、近付くまで存在に気づかなかったが、図体が山のようにでかくて驚いた。一緒に写真を撮ってもらったら、キメポーズでこっちにグイグイ迫ってくるのでびびった。くろごちゃんは調子に乗ってペン(というか筆)と三方を持っていたが、誰も突っ込んでいなかった。 *1

 

 

今回の2月東京公演は近松名作集と題して、『曾根崎心中』と『冥途の飛脚』を同時上演するプログラムになっている。しかも、両方とも男役が玉男さん。ぶっちゃけ似たような話で、人形の配役も同じで、それで変化つくんか、よう続けてやるわいなと思っていたが、実際に観てみたら、受ける印象がまったく違っていて驚いた。基本的には「もう死ぬしかない」オチの話のはずが、なんか違う方向にいっていた。具体的には『曾根崎心中』のほうが……。

 

 

生玉社前の段、冒頭、網笠をかぶった徳兵衛(配役・吉田玉男)が丁稚をともなって生玉神社に現れる。徳兵衛は茶屋の障子の奥に恋人である遊女・お初(桐竹勘十郎)の姿をみとめる。適当な言い訳をつけて丁稚を先へ帰し、徳兵衛が「初ぢゃないか初、初」と呼びかけると、お初もこちらに気がついて「ナウ徳様か、どうしてぞ」と走り寄ってくるが……

なんかこう、この時点からすでにお初がトップギア入っている。この走り寄り、かわいらしい仕草なのだが、速度と目つきが尋常ではない。いや、人形には目つきはないが、なんか、あるんだよ。こいつやばいだろ的な何かが。お初役は勘十郎さんなので、茶屋ののれんから出てくるときには習慣的に出の拍手をしてしまうが、なんだろうこの不穏な気持ち。何がどうとは言えないが、そのさま、ただの「情熱的」ではおさまらない火力を感じる。

 

ところで皆様、増村保造監督による映画版『曽根崎心中』(ATG/1978)をご覧になったことはありますでしょうか。

曽根崎心中 【初DVD化】

このお初(配役・梶芽衣子)が異様にアグレッシブというかエキセントリックで、別になにも始まっていないうちから死ぬ気まんまん、男を地獄に引きずりむ気まんまん。目つきがさそりシリーズと同じで、異様に積極的にガンガンいく、もう最初のシーンからいきなり死を決意したおそろしい目つき。で、私はこれを「まあ、増村保造白坂依志夫コンビだから……」と思っていたのだが、今回のお初、まさにこの通りの火力のお初であった。本物の文楽の演者でもお初をこう解釈している人がいるんですね……。勘十郎さんご本人の火力が強いのはわかるし、お三輪や八重垣姫が強火なのはわかるけど、なぜお初がこんな強火なのか。『曾根崎心中』ってもっと「儚い」「かわいそう」な感じの話かと思っていたがそうでもないのか。増村保造の映画が火力強いのは増村保造が歌舞伎・文楽の現行含むいわゆる「原作」を無視し、自分の色に合わせてオリジナルでそう演出しているからと思っていたが、実はそうでもない、のかもしれない。

勘十郎さんのお初増村保造説は同行の方もおっしゃっていたので、増村保造版『曽根崎心中』を観たことがある方は同様の感想を覚えるのかもしれない。逆にこの映画をご覧になったことがなくて、今回の文楽『曾根崎心中』を観劇したという方は、ぜひ映画版を観てみてください。勘十郎さんは勉強家でいらっしゃるようなので、ご自身でこの映画をご覧になったことあるかもしれませんが、なら、この映画に対してどう思っておられるのか気になります。

ちなみに徳兵衛は宇崎竜童(なぜ)で、かなりのヘタレ。宇崎竜童自身が何もわからず流されてやってる感がやばさを増幅していた。先に書いてしまうが、今回の玉男さんの徳兵衛はヘタレではなかった。服装はこの段でゴミ野郎・九平次(吉田玉輝)にボコられて以降ボロボロなのだが、雰囲気はずっとキリリとしていた。徳兵衛はなんだかんだいっても最後はお初をリードしなくてはいけない役という話を聞いたことがあるが、まさに、ひよっとしていても芯のある雰囲気だった。

  

 

天満屋の段。

お初が縁の下に徳兵衛を忍ばせ、店の会話にまぎれて徳兵衛と死ぬ決意を語る有名なシーン。お初の打掛の中に隠れた徳兵衛がお初の白いちいさな足を頬ずりするようにして首に当て、一緒に死ぬ気持ちを伝えるところが色っぽいが、徳兵衛が打掛の中でモゾモゾしながら時折すそからちょこっと顔をのぞかせる姿はこたつにもぐった猫っぽくてかわいらしかった。ひっこむときは裾を綺麗なかたちに整えるのもかわいい。ヒヨっとしたイケメンの面目躍如だった。

玉男様勘十郎様厨のわたくしとしては普通に観ていればここで「ンギャー!!!!!!!!」と絶叫して劇場外へつまみ出されるところだが、チケット取得当初から絶対やばいと思い、観劇日前日に国立劇場のサイトに載っていた初日レポの写真を見て予習していたので、叫ばずに済んだ(50周年記念公演ニュース|国立劇場50周年記念サイト|国立劇場)。文楽劇場には時折玉男さんに「イヤ〜❤️❤️❤️」と叫んでいる玉男様ガチ恋勢の爺さんがおられるが(直後同行の奥様から肘鉄を食らう)、あやうくあれになるところを文明の利器インターネットの力で乗り切った。

そして夜も更けて、ひそかに天満屋を抜け出す二人。お初の火力はますますアップ、八方(天井から下がった吊行灯)を扇子のついた箒で扇いで消すのがムチャクチャ速かった。増村保造はこのシーンを相当引っ張っていたが、勘十郎さん、すごい速度で扇ぎ、2回目で瞬間的に消していた。見つかるとか見つからないとかを意識していないのではと思える扇ぎぶり、ちょっと速すぎのように思うが(少なくとも八方の下で寝ている下女に見つかるかもというスリルはない)、もう目の前のこと、徳兵衛と逃げるということしか見えていないという解釈だろうか。このシーン、本当に八方に火を入れていたら炎がゆらめいて面白いんだろうけど、今回はさすがに危ないからか、電気ONッ!OFFッ!の割り切りぶりがすごかった。

このあたりの場面で、二人は直接手をつなぐわけではなく、徳兵衛の編笠をお互いにつかんで一緒に歩いているのがいいなと思った。わがバイブル、初代吉田玉男文楽藝話』によると、この段の最後は編笠をつかむのではなく、お互いが直接手をつなぐことで情を表現するとあったが、個人的には編笠を介して手をつなぐ姿はいじらしく、強い印象が残った。

 

 

■ 

天神森の段。

暗い森の中でグリーンの人魂がふたつ、ポワンポワン揺れている。これ、増村保造の映画版にも同じシーンがあり、そのときは普通の赤い火だったので、当初てっきりお初を探す追手の松明の火かと思っていた。今回、義太夫をよく聞いていると、今夜二人より先に心中した人がいるのだろうか、それとも死ぬより先に二人の魂が人魂となって抜け出たのかと言っていた。なるほど、だから2つポワンポワンしていたのね。やっとちゃんと理解できた。

 

ところでさっきから徳兵衛とお初がやたら頻繁にひしと抱き合っているのだが、その速度がはんぱない。人形ってたいてい予備動作をもってから、綺麗な体勢になるよう形式的に抱き合うと思うのだが、徳兵衛とお初が目の前で予備動作なくものすごい速度でがしっと抱き合うので、だんだん頭がおかしくなってきて、見てはいけないものを見ているような気分になってきた。勘十郎さんが談話等で頻繁に「玉男くんとはずっと一緒にいるから、お互い次になにをやりたいかわかる」と発言していたのは本当だったんだと思った。具体的にどういうことを指すのかわからなかったけど、なるほど、こういうことだったんですね……。ペアでやる芝居も、息があっているとこうなるのかーと思った(あいすぎ?)*2。足拍子も完全に揃っていた。なんかきょう足拍子がすげーでかい音だなと思っていたら、二人完璧に揃っているだけだった。足遣いの方々もすごい。

そんなこんなで二人が異様にアツアツすぎるのと、そして太夫もわりとみなさんお元気な感じだったので(津駒太夫さん、咲甫太夫さん、芳穂太夫さん、亘太夫さん)、この二人、心中せずこのまま駆け落ちするのでは? と思ってしまった。ベテラン二人の人形が異様に火力強くて床は勢いで負けるかと思ったけど、太夫さんこれからって方ばかりだからか、人形に負けるどころかガンガン焚き付けにいっていた。三味線も寛治さん、清志郎さん、カンタロー(と突如呼び捨て失礼、寛太郎さん)、清公さんでとっても良かった。ナイスな床配役。これからのあたらしい文楽の舞台への意気込みを感じる段だった。

 

今回の上演では、最後、お互い身体に帯を巻きつけ(巻くのがうまい)、徳兵衛が刀を持つシーンで幕となっており、実際に刺すシーンはない。余韻を残す演出だが、あの前のめりぶりでは死ぬわけない。もう本当申し訳ないが、絶対駆け落ちしたと思う。もちろんこれは褒め言葉、disではないことを重ねて申し上げておきます。

 

 

人形が演じる恋人同士役は、設定上は恋人同士でも、良くも悪くも「そういう設定なんだなー」としか思わないことがあるけど、今回は本当に恋人同士に見えて他を圧倒していた。二人以外の周囲のようすすべてが環境音のようだった。生玉社前で徳兵衛が九平次にボコられるところすら、そうだった。二人の行く先には他の人が何をしようと、何を言おうと関係ない。別に九兵衛に金を着服されなくともこうなっただろう。全体的に、かわいそう、哀れを誘うという気持ちより、二人の絆の強さ自体のほうが印象に残った。お初のクドキにもエネルギーがあり、哀れを超える情念のたぎりを感じた。

 

 

昨年5月の鑑賞教室の『曾根崎心中』が取れなかったリベンジを早々に果たすことができてよかった。そして、斬新な(?)古典作品を観られて、とても興味深い体験だった。逆にふつう(??)はどういうものなのかも気になるので、それは4月の大阪公演でゆっくり観たい。人形に関しては、先代玉男さん×簑助さんの上演記録を探して観てみようと思う。

以前は、『曾根崎心中』は初演から途切れることなく継承されている演目だと思っていた。だが、初演ののちまもなく断絶し、昭和30年代に歌舞伎の影響を受けて復活上演したところから人気になったというのを文楽を観るようになって初めて知った。だから、現行曲は結構商業演劇的な側面もあることも。文楽をまったく観たことがないときは、文楽といえば『曾根崎心中』と思っていたので、とても意外だった。古典芸能において伝統だと思っていても伝統ではない、伝統とは言い切れないもの、また、古典を新作として上演すること、さらにはこういった企業努力(?)で集客を上げることってあるんだなと思った。パンフレットに近松原作も読んでほしいと書いてあったので、『上方文化講座 曾根崎心中』に載っている原作全文校注を4月までにあらためて読んでおこうと思う。

 

 

そんなことより皆様、勘十郎様のFaceBookが超火力でまじやばいので見て。


ありがたや……ありがたや……………………(成仏)

 

 

 

*1:国立劇場のチケット情報のメルマガで、「このたび、世界的に流行している、「ピコ太郎」の動画「PPAPPen-Pineapple-Apple-Pen)」の国立劇場版「PNSP(Pen-Nurisampo-Sampo-Pen)」を作成し、動画投稿サイト YouTube に公開しました。」というメールを送ってきたくらい、調子に載っている。このメルマガ、YouTubeのURLより先に出演者紹介が載っていたのには爆笑した。さすが国立劇場、そっちが先かい。

*2:後日、玉男さん・忠兵衛×清十郎さん・梅川の『冥途の飛脚』を観たら、やっぱりちゃんと一拍おいてタイミングをとって抱き合っていた。

文楽 2月東京公演『平家女護島』国立劇場小劇場

鬼界が島に鬼はなく、鬼は都にありけるぞや。

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平家女護島。話を自分の中で整理しよく理解するために、あらすじを追いながらメモを書いていこうと思う。

六波羅の段。

六波羅の清盛館では、囚われの身の俊寛の妻・あづまや(配役=吉田一輔)が気を沈ませていた。平相国清盛(吉田幸助)は上臈を踊らせたりと彼女の気を引こうとしていたが彼女は一向に良い顔をせず、鬼界が島へ流された夫を思い泣き伏すばかりだった。やがて清盛の甥・能登守教経(吉田玉佳)が童・菊王丸(吉田玉翔)を従えて現れ、清盛に背かず夫に操を立てよと促すと、あづまやは守り刀を引き抜き自害してしまう。教経は彼女の首を切り落とし「顔が気に入っていたのならこれでいいだろう」と清盛に差し出すが、さしもの入道もこれには顔を背け席を立つ。そこへあづまやが自害したことを知った俊寛の従者・有王丸(吉田玉勢)が侍たちを蹴散らしながらやってきて、菊王丸と力比べになる。二人の力は互角であったが、それを遮った教経の「鬼界が島の主人を忘れ犬死するか、戯け者」という言葉に情けを感じ、有王丸は去ってゆく。

 

ここは人間関係の整理と話についていくので精一杯。能登守教経が平清盛の甥って初めて理解したわ……頭がパーすぎて半年前に『平家物語』読んだばかりなのにまったくわかっとらんかった……。とは言え、上臈たち(吉田玉誉&吉田簑太郎)の踊り、有王丸の捕手の綱を使った殺陣や鮮やかに濃いグリーンの衣装もまばゆい菊王丸との戦いなど、直観的にわかる視覚的見どころも多くて楽しい。

 

 

鬼界が島の段。

平家討滅の陰謀が発覚し、鬼界が島(硫黄島)へ流刑となった俊寛僧都(吉田和生)がヨロヨロと現れ、自らの身の悲哀を語る。気がつくとすぐそばの大岩には平判官康頼(吉田玉志)がしがみついてる。そのさまがあまりにもすごすぎて、俊寛は自分がいつの間にか餓鬼道に堕ちていたのかと勘違いするほど。さらに藪の中からは丹波少将成経(吉田勘彌)が現れる。久方ぶりの再会を喜ぶ三人、成経は顔を赤らめながら夫婦の契りを結んだ島の海士・千鳥(吉田簑助)を二人へ紹介する。この四人が水盃でわいわいやっているところへ、都から赦免船がやってくる。赦免船には、ちゃんとしてるんだろうけど性格が悪いとしか思えない瀬尾太郎(吉田玉也)と、いい人だろうけどクソまじめな丹左衛門(桐竹勘壽)が乗っていて、二人は中宮御産御祈祷のための大赦の書状を持ってきたという。その書状には康頼と成経を赦免するとあるが、俊寛の名は載っていない。俊寛は悲嘆に暮れるが、丹左衛門がさらに小松内府重盛公の書状を持っており、そこには俊寛も赦免すると書かれていた(実際に書いて持たせてくれたのは教経)。三人は喜び船に乗ろうとするが、千鳥を連れて乗ろうとしたところで瀬尾に止められる。成経は千鳥は妻だと説明するが、同道は許されず、瀬尾は通行手形の通り三人だけを船底へ押し込もうとする。千鳥は「鬼界が島に鬼はなく、鬼は都にありけるぞや」と嘆き悲しみ、自害しようとする。瀬尾から妻がすでに亡いことを聞いた俊寛は、妻のいない都へ帰っても栓なきこと、自分のかわりに千鳥を乗せてくれるように頼む。しかし瀬尾はそれをも許さない。それならばと俊寛は瀬尾の差している刀を引き抜き、彼に切り掛かって殺してしまう。俊寛は、この咎により自身はふたたび罪人となり鬼界が島に残るので、かわりに千鳥を赦免船に乗せてほしい、千鳥を入れて三人なら通行手形の筋も通ると丹左衛門に懇願する。康頼と成経、そして千鳥を乗せた船は鬼界が島を離れ、どんどん沖へ出てゆく。自分が乗るのは浮世の船ではなく弘誓の船だと言った俊寛も、いざとなれば浮世の未練捨てがたく、転げ落ちながらも岸壁の大岩へ駆け上がり、遠くなってゆく船をいつまでもいつまでも見送っていた。

 

小幕ではなく、その奥の岩のセットのあいだから俊寛が自然木でつくった杖にすがるようによろめきながら現れると、ぱっと舞台の雰囲気が変わる。シンプルな美術セットだが、ここが都から遠く離れた異界であることがわかる。文章を書くうえの誇張ではなく、本当にここが打ち寄せる波の音と松をすりぬける風の音しか聞こえない、どこか遠くの寂しい島に見えるのが不思議。これはもちろん義太夫のよさもあってのこと。俊寛の人形は古びて変色したかのように顔がすこし黄色っぽくて、腕もほかの人形と違って筋張っていた。

しかし和生さんと玉志さんと勘彌さんが同時に出てきたときはどうしようかと思いましたねえ……。私、和生さんか玉志さんか勘彌さんが出てるときはそこをじ〜っと見てるんですが、きょうはどこを見てたらいいんでしょうね??? 席の関係上、こんなにパラパラ立ってられると誰か一人しか見られないんですけど??? それにしても父や兄のようだとか言いつつこの人ら一緒に生活してたわけじゃないんですね。能だと三人一緒に暮らしてたんじゃなかったっけ。それはともかく三人ともヨロヨロ演技がすごすぎてびびった。とくに冒頭で岩にへばりついている康頼、熱演すぎてやばい。死ぬ気でボルダリングしている人状態。三人の衣装は近くで見ると単なるツギハギでなく、細かい裂けやほつれがたくさん作ってあって、精巧さに驚いた。すだれ状のほつれが見事だった。

そして呼ばれてチョコチョコと現れる、黄緑の着物とそこから覗く赤の襟、腰蓑姿のヒロイン・千鳥。キャーカワイー! 能の『俊寛』には千鳥は登場しないので、初見、正直「誰?」と思った。いや、配役表で「蜑千鳥(鬼界が島) 吉田簑助」というのを見たので存在は知っていたが、「蜑」が読めなくて、蟹の仲間かと思ってましてねぇ……。まあ簑助様がカニ役のわけないとは思ってたんで(当たり前だ)、カニとり娘かなーと思ってましたが、「あま」でしたか……。

何がどうしてそう見えるのかよくわからないのだが、簑助さんの人形はとても可愛い。千鳥も近くで見ると、大きな動きをしているときにも静かにしているときにも、そのなかにかなり繊細で微細な仕草を加えているのがわかる。たぶんそこが可愛さにあらわれているのだろうが、こういう細かい演技は後列に座っているとなかなか見えないので、良い席でじっくり見られるのはありがたい。成経に寄り添っているときばかりか、船に乗る乗らないのところで俊寛の袖の影に隠れてきゅっとしがみついているさまなど、かなり可愛い。まるで「カワイイ」という概念が具現化した存在のようで、こういうふうに言っていいかはわからないが、生身の人間とは思えない。いや、人形は人形なんですけど、生身の人間でいうとどういう人?ということがぜんぜん思いつかない。成経が語る馴れ初めは義太夫らしく艶っぽい(というかオヤジエロギャグ)ものだが、それを忘れさせる清廉さと可憐さ。

赦免船はものすごく大きくて、驚いた。舳先しか舞台に見えていない。船の舳先に逆J字型のなにかがついているので何だろうと思っていたら、フサフサ(タッセル)らしい。パンフレットに載っている過去の舞台写真ではちゃんと本物の大きなタッセルがついていた。

ここからのヒネリが能と異なる部分で、一番おもしろいところ。能だと俊寛はマジで名前が落ちていて取り残されるオチで、助かると期待していたところからの絶望への転落、ぬか喜びがあまりに悲惨すぎておろそしい話なのだが、『平家女護島』だと自らすすんで鬼界が島に残る。『俊寛』もそうだけど、能とか説経節の中世以前に成立している話って人間味のないド悲惨なものが多いが、『平家女護島』では悲しみそのものはあるのだが、それを人間味の方向というべきか、違う方向にいかせていた。現世への未練は断ち切ったというけれど、それでもさすがに船が出ていくのを見るといてもたってもいられない俊寛の人間らしさ。クライマックスで俊寛が駆け上がる大きな岩が印象的。文楽の人形はちっちゃいので、このセットの大岩がものすごく大きな岸壁に見える。幕が閉まる直前はこの岩が半回転していた(廻り舞台を使っている?)。このラストシーン、黒衣ちゃんが波の模様の布を手すりにかけるのを失敗してて、下手側の子はそうそうに諦めたんだけど、上手側の子が最後まで一生懸命かけようとしていたのが印象的だった(そこ?)。最後に出てくる遠見の船は可愛かった。

そういえば、都からの赦免使ふたりが島に降り立ったとき、お付きのツメ人形がちいさな床几を出していて、ふたりがそこにチョコンと座ったので驚いた。もちろん足遣いの邪魔になるので床几はかたちだけですぐ下げられてしまったいたが……、いままで、文楽の人形は屋外でも「座っている」が、いったいどこに座っているのかと思っていたが、やっぱり床几に座っていたんですな。

  


舟路の道行より敷名の浦の段。

成経らを乗せた赦免船は鬼界が島を離れ、備後敷名の浦へたどり着く。そこでは有王丸が主・俊寛の帰りを今や遅しと待ち構えていたが、赦免船に俊寛の姿がないことを知り落胆する。これまでと自害しようとする有王丸だったが、千鳥にとどめられ、思い直す。そして、一行からの頼みで主人の養娘である彼女を預かることに。そうこうしているうちに清盛と後白河法皇を乗せた厳島神社ご参詣の船が敷名の浦を通りかかる。清盛は後白河法皇を「前からうざいと思ってたんだよね〜!」みたいな感じで船から海へ投げ落とすが、海に慣れた千鳥(吉田簑紫郎)が咄嗟に海へ飛び込み、法皇を海中から助け出す。ところがそれを見ていた清盛が千鳥に熊手を打ち込み、頭を踏み砕いて殺してしまう。千鳥は恨みの言葉を吐きながら死に、千鳥の瞋恚の業火に取り憑かれた清盛はその執念に恐れをなしてあわてて都へ帰ってゆく。

 

太夫さんがまったく声揃っていなかった。滅多に出ない段らしいのと、かつ私が行ったのは2日目なんで仕方ないのかもしれないが、特に人形が出ていない幕を張っているだけの状態のときに揃ってないと、浄瑠璃そのものより揃ってないこと自体に気がいく。それとも揃える気がないんですかね。というか、言ったら悪いけど、あきらかに揃える気ぃないときありませんかあの人たち。三味線もはじめのほう揃っていなかったが、だんだんなんとなく揃ってきていた。がんばって!と思った。あの人ら絶対全員が全員「おれが一番イケてる」と思っているだろうし、個性とか芸の方向性が結構違うから仕方ない部分はあるんだろうな〜、とは思う。

それはともかく千鳥が芝居ながら着物姿のまま海へ飛び込んだのは驚き。千鳥は海女なので着物の裾を普通の女の人形より上げていて、足が吊ってあるのがわかった。千鳥はわりとフワフワと泳いでいた。水中で着物が揺れているイメージなのかな。あと、千鳥は「蜑訛り(薩摩訛り)」という設定らしいが、どこがどう訛っているのかはよくわからなかった。前段の簑助様が実は方言萌えキャラだったということだけは理解した。

簑紫郎さんの千鳥。簑紫郎さんのインスタ、人形の写真を見たくてフォローしているのだが(簑助様の人形の写真をアップしてくれることがある)、絵文字たっぷりや自撮りはまだいいんだけど、時々虫のクソどアップ🐜やみんなで温泉に入りました♨️的な写真が混入してきてびびる。勘十郎様の暴走を止められるのは簑紫郎さんだけと思っていたが、これではもう誰も止められないと思った。

 

 

鬼界が島に鬼はなく〜というフレーズは聞いたことがあったけど、この作品に出てくるセリフだったのか。

ところでこの『平家女護島』、これだけでは話がまったくわからないので、全段だとどういう話になるのか我が愛読書・先代吉田玉男文楽藝話』で調べたところ、「常盤御前が牛若丸に女装させて通行人を色仕掛けで引き込み源氏再興を企てるという設定に、平宗清父娘の悲劇が絡む」と書いてあって、余計に意味がわからなくなった。俊寛の話はそこにどう関係あるんでしょうか……。

2月は東京でもチケットが取りやすいということで、『平家女護島』は最終週も取った。2回目は初回ではよく理解できていなかった部分をしっかり観て聴いて、新しく気づいたことや改めて理解できたことなどは、ここに書き足したい。

 

2017.2.27追記、鑑賞2回目感想。

結論としては2回観てよかった。1回目は人形目当てに絞った前列席を取ったので、俊寛たちがヤイノヤイノやっている輪に自分も混じっているかのような錯覚を覚えたが、2回目は浄瑠璃をゆっくり聴こうと、床の直線上にくるまんなかくらいの席にした。引いて観ることになるので客観性が生まれて物語全体を把握しやすく、また、人形の大きな動きも見やすく、これはこれでよかった。

まず「六波羅の段」、これは初見時まじで意味わからなかったので2回目観て本当によかった。初回時は入場時にロビーにいたくろごちゃんに夢中になり、開演前にあらすじを読めなかったので……。この段は教経が何者なのかわからずに観るものではないと思った。

「鬼界が島の段」、今回は康頼と成経をじっと見てみた。冒頭、『八甲田山』でこんなシーンあったよね〜って感じの這いずり回りがやばすぎてびびる康頼だが、よく観察していたら、その後も人一倍盛り上がっていた。成経が千鳥との馴れ初めを語るくだり、俊寛はときどき「ほほー」みたいに手をあげたりするのだが、康頼はものすごい前傾姿勢で成経を見つめ、興味津々に聴いている。いや、人形ってもともとやや前傾してますけど、「まじで!?」って感じで真顔で(人形だから当たり前)聴いているのがなんかおもしろくて……。人形の目線は成経にいっているのだが、玉志さん(康頼役)はぴくりとも動かず、勘彌さん(成経役)の背後をじ〜っと見ていらっしゃった。何をご覧になっていたのだろう。康頼は赦免状に俊寛の名前がないとわかったときも、「な、なんですとー!?」と言わんばかりに結構びっくりしてぷるぷるしていた。貴公子風に見えて、実はキモオタなのかもしれない。康頼はドラマに関係のない役だが、その分、わりと盛り上がっているのだなと思った。それにつけてもあの人ら、久々に再会したしょっぱなから恋バナはじまるあたり、アラサー女子会のようでのんきではある。成経はあまりウロウロはせずちょっと品があって、あんな辺鄙な島で何年も暮らしていても貴公子っぷりが抜けていない感じで、姫騎士な感じで良い(勘彌さん自身のイメージによるもの?)。

「舟路の道行より敷名の浦の段」。身もふたもないことを言うが、千鳥はやっぱり鬼界が島のほうがかわいい。鬼界が島の千鳥は、棒を振り回しても、石を投げても、落ちるがなってくらい船から身を乗り出してジタバタしても、すっごくかわいい。ぶっちゃけいわゆるブリッコなのだが、現世のものとは思えないほどに可憐だからすべて許される。体が小さく、華奢に見えるのが大きい。守ってあげたい感がある。単体での演技とあわせてほかの人形とのからみがうまいんだろう。敷名の浦では泳ぐという一番大きいアクションをしないといけないので、そういった意味での可憐さは出しにくいのかもしれない。

浄瑠璃……、太夫の声、三味線の音は、やはり床の直線上にくる席のほうが聞こえよい。字幕を見ながらゆったりと聴くことができるし、床の様子も見られるし。しかし舟路の道行のとこ、揃っている日といない日があるのだろうが、もうちょっと頑張って揃えるようにしてくれよと思った。個々の方が頑張っておられるのはわかるし、あんまりネガティブなことは書きたくないが、正直あれでは舟路の道行〜は上演しないほうが鬼界が島の余韻を楽しめると思ってしまう。咲甫さんは今回3部とも出演されて、本当にがんばっておられた。

 

 

 

今回は昼食を食堂で食べた。開演前に1Fの階段上り口で予約。国立劇場のウェブサイトに載っておらず要問合になっているあぜくら会の食堂優待だが、受付の方に質問したところ、2,000円以上のメニューに適用されるようだ。ケチって一番安いお弁当にしたので優待を受けられず、適用時の割引率は不明。

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一番安い! 梅弁当(1,600円)! こまごましたおかずが一口分ずつ入っている。歌舞伎公演とかぶっていなかったせいか食堂内は人が少なく、広めのテーブルで食べられた。少なくとも味も接客も文楽劇場よりはいい。分量は多くないけど、休憩時間の30分で食べきるにはけっこうギリギリだった。これよりランクが上のお弁当は私は分量的に食べきれないかな。


 
 
• 『平家女護島(へいけにょごのしま)』六波羅の段、鬼界が島の段、舟路の道行より敷名の浦の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2016/21039.html