TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 12月東京公演『仮名手本忠臣蔵』国立劇場 小劇場

忠臣蔵深作欣二監督の『忠臣蔵外伝 四谷怪談』でしか観たことがない私だが(それは忠臣蔵じゃない)、折角なので一日で全通しで観た。

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全通しで観た一番の感想としては……、様々な登場人物が入れ替わり立ち替わり入り乱れるさまは、まるで壮大な絵巻物を見ているようで、一日夢を観ているようだった。なんだか記憶が渾然としているが、思い出して、段ごとの感想を少しずつ書いていきたいと思う。

 

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鶴が岡兜改めの段、恋歌の段。小さな箱から次々兜が出てくるのが手品のようだった。 顔世御前(配役・吉田文昇)が高師直(吉田玉也)のよこした恋文をポイッと投げるのがうまくて、さすがと思った(?)。しかしこの演技、人形だからチャーミングに見えて可愛いけど、人間がやったら失礼すぎてヤバい。歌舞伎はどうなっているのだろうか。

ここだったと思うが、高師直の人形(人形遣い)が喋ったので驚いた。何と言っているのかわからなかったのだが、パンフレットにそのことらしい解説が載っていて、それによると「早えわ」と言っているらしい。かけ声以外で人形が喋っているのを初めて聞いた。かけ声はそんなに大きい声でないし、お声が可愛めの方も多いので、あんまりびっくりしないが、これはわりと大きな声だったので!?!?!?となった。(そういえばツメ人形はときどき喋りますな)

桃井館本蔵松切の段。このあとの展開もそうなんだけど、錦秋公演で『増補忠臣蔵』観てなかったら意味全然わかんなかった。加古川本蔵(桐竹勘十郎)が松を切る行為、ここでは素直に「高師直を討て」と取ってもいいのかもしれないけど、すぐに賄賂を渡しに出るので、本蔵が何をしたいかよくわからない。主君がパーだと裏工作が大変なことになるという話なのか。若狭助(吉田幸助)は若干パーとしか思えないのだが……。松はどういう仕掛けなのか、カリカリと本当に切っているように見えた。

下馬先進物の段。ここからは夏に内子座で観ているので次の展開がわかり、余裕を持って観られた。内子座では相当狭い場所で呼び止めて、人目に立たないよう賄賂を渡しているように見えたのだが、国立劇場内子座よりステージが広いのでそれっぽく見える。もう記憶があやふやだが、内子座ではここで高師直は姿をあらわす演出だったんだっけな? 今回は姿を見せず駕籠の中のままで声のみ、鷺坂伴内(吉田文司)が対応するという見せ方だった。

腰元おかる文使いの段。おかる(吉田一輔)は腰元らしく、衣装の帯が大きなリボン状になっていて可愛かった。しかし、えげつない女である。

殿中刃傷の段。これはさすがに国立劇場のステージの広さが活きていた。殿中〜って感じだった。殿中、見たことないけど。人形が演技をするスペースが十分にあり、見応え抜群。ばたばたと逃げ回る&追いかけ回す人形に迫力があった。茶坊主(茶道珍才・吉田簑之)の止め方が内子座とちょっと違って面白かった。内子座は本気止めの感じだったが、今回はコアラのようにぎゅーっとしがみついておられて可愛らしかった。そしてここには私の好きな津駒さんが出ていたので嬉しかった。津駒さんは始まる前からものすごく気張っている感じのお顔なのがとても良い。

裏門の段。観劇日の前日に燕三さんの座話会に行ったのだが、三味線弾きさんは入座してすぐのときは道行の端っこにいたり、胡弓や高音(細棹の三味線)を弾いたりしているけど、成長するにつれ次第にひとりで弾く場面に出られるようになってきて、裏門が回ってくると嬉しかった、というお話しがあった。その理由はお話しがなかったが、わりと話の転換点になるところだからだろうか。しかし勘平(豊松清十郎)はライフプランが全体的にアバウトすぎないか。勘平に斬り付けられて(しっぽがないから)頭がまだくっついているか振ってみて「あるともあるとも大丈夫❤️♪」と去ってゆく伴内がかわいい。「鷺」坂伴内だけど、人形だとコロンとしていて黄緑の衣装(たしか)を着ているので、ちょっとうぐいすっぽい。

 

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花籠の段、塩谷判官切腹の段。塩谷判官切腹の段は客席中がピーンとした緊張感で張り詰めていた。音がなにもしない。人形の衣擦れの音だけが聞こえた。先述の燕三さんの座話会のお話は、ここでの演奏の解説がメインだった(塩谷判官切腹の段にご出演なので)。ひとつひとつ、かなり細かく、何故そのように弾くのかを説明しながら実際に弾き語りをしてもらったのだが、観るより先にお話聞いておいてよかった。実際の上演で、ひとつひとつの三味線の音、あるいは詞章、または人形の足拍子の音を注意して聴くことができた。たとえば、塩谷判官(吉田和生)が入場してくるときの「トーン」という音。この音「カラニ」は、弾くと客席が静かになるという。本番でも客席はもとから静かなのだが、その音が鳴るごとにシーンと、これ以上ないほどに静まり返っていった。この段での三味線の弾き方としては、それまでのワサワサした雰囲気から打って変わって静かに始まり、大名である塩谷判官が切腹する場なので、その格調を重んじなくてはいけない(同じ切腹でも、勘平の腹切とは弾き方が違う)というのが大筋のお話しだった。

ちなみに今回、この部分で「通さん場」が設定され、客席の出入りが不可になっていた。「通さん場」は国立劇場の制作の方が頑張って「やる!」と言い出したが、燕三さんは、最近はそこまで厳しくやっていなかったので大丈夫かなと思っていたそうだ。案内係の方が休憩時間にロビーの客に声をかけたりして頑張っておられて、私の観劇した回では無事成立していた。

おまけ話。むかし、文楽が大阪の朝日座で公演していたころ、「塩谷判官切腹の段」はまさに「通さん場」、暗黙の了解で出入りしてはいけない……ということになっていたのだが、当時学生だった入座前の〇〇さん(現役の三味線弾きの方。燕三さんはお名前出されていましたが、一応伏せます)が床の前を横切って出入りしていて、床に座っていた弥七師匠が「うーーーーーーーーーん💢!?💧!?」となっていたそうだ。

城明渡しの段。由良助が暗い門前で提灯の紋を小柄(?)で切り取る場面。内子座では気づいたら切り取られていた提灯の家紋、ちゃんと見ていようと思ったら、ありがたいことだが正面席が取れたので、今回は切っている部分は見えなかった。しかし内子座より切り離すのが速かった。先日の玉翔さんのイベントで、先代の玉男さんの「城明渡しの段」の資料映像を見せていただいたのだが、それも結構速く切っていたので、これくらいが標準スピードなのか?

 

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舞台は夏になり、山崎街道出合いの段、二つ玉の段。ここでは斧定九郎役をやっていた簑紫郎さんがとてもよかったことを書いておきたい。若い人がやる役っていうのはこういうことだったのね(内子座では玉男さんだった。これもとても良かった)。そしていのししが「いの、いの、いのしし〜っ」って感じだった。内子座よりステージが広いので、走りがいがありそうだった。

身売りの段、早野勘平腹切の段。内子座は本当にステージが狭いのでおかるの実家がマジ詫び住まいだった。というか家屋に人形が入り切っておらずきゅーっとなっていて、「コリャ娘でも売らな金はでけん」感がすごかったが、国立劇場ではボロ屋ながらもさすがにちゃんと広さは余裕があり、演技をじっくり観られた。駕籠によりかかって暇そうな女衒(一文字屋才兵衛・吉田玉勢)がかわいかった。

 

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ここから第二部、祇園一力茶屋の段。この段がいちばん面白かった。暗かった第一部の雰囲気から一転、太夫さんが入れ替わり立ち替わりで華やか。場面のせわしない雰囲気にも合っていてワクワクする。平右衛門役の太夫さん(豊竹咲甫太夫)、すごい場所に座るんですね。下手袖に座布団がのっかるだけの小さな仮設の演台が設置されて、落語みたいなことになっていた。咲甫さんはとてもよかった。そして、肩衣と袴が平右衛門の衣装とお揃いで可愛らしかった。

おかる(ここのみ吉田簑助)が二階からはしごで降りるのを見た由良助(吉田玉男)が「船玉様が見える」と言う場面、絶対見えない場所から言っていて笑った。本当に覗いて露骨に下品にしても仕方ないが、それにしても相当離れている。完全にヨッパライの幻覚の距離。しかし覗かれてキャーキャーじたばたするおかるは可愛かった。いや実は覗かれてないから可愛いのかも。

簑助さんはあいかわらずとても可愛かった。おかるが「はぁ?」みたいな反応をする場面できつく体をひねって肩を大きくかたむける仕草が可憐。生身の女性には絶対できないレベルのぶりっこである。体から人形を離して芝居をされるので、人形が本当に生きて動いているようだった。いや本当に、比喩ではなく、人形遣いの動きと人形の動きが関係なさすぎて、どうなっているのかよくわからないのです。ぱっと懐紙の束を舞わせる場面も背景の赤い壁とあいまって鮮やか。

平右衛門は勘十郎さんだった。先日のトークイベントでも平右衛門の人形を持ってきておられて、対談相手に何の人形ですかと問われ、「足軽ですぅ〜」とおっとり答えられていたのでそのときは何の役かよくわからなかったのだが、ここに出てくるのか。そのときは話が複雑になりすぎるから説明されなかったんでしょうが、実際には大変に重要な役だったのね。おかると掛け合う場面など、とても良かった。こういう役がお似合いなのでしょうね。

今回、休演されている紋壽さんの代役で勘壽さんが第一部最後の「早野勘平腹切の段」の与市兵衛女房役で出演しておられたのだが、勘壽さんが九太夫役でここでまた出てきたとき、幻覚を見ているのかと思った。あまりに頻繁に出てくるので……。そんなこんなでずっと縁の下にいる九太夫、私の席からは手摺に隠れて完全に死角になっており、どうやって潜んでいたかは見えなかった。少し見えたのは、由良助に火のついた紙を落とされてギャッとなるところだけ。そのあとあまりに静かにしているので存在を忘れてしまい、刺されたところでやっと存在を思い出して「ちゃんとそこにいたんですね……」と思った。勘壽さん、昼から出ずっぱりで本当お疲れ様でした。

それにしても、由良助が寝ている布団(赤ちゃん用の布団みたいな可愛い奴)、私が普段寝ている布団よりフカフカしている気がして羨ましかった。人形のすぐうしろでかがんでいる玉男さんも一緒に布団をかけられてしまっていて、ちょっと微笑ましい感じ。

 

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道行旅路の嫁入。戸無瀬(吉田和生)と小浪(吉田勘彌)が京へ上りながらいろいろ話したり踊ったり。晴れやかだけど冷たい空気を感じる爽やかな雰囲気。浄瑠璃の詞章には東海道の地名が織り込まれており、私の出身地の地名も出てきて思わず字幕を確認してしまった。

いちど二人が休憩する場面があり、この先まだ相当長いのに、小浪が鏡を取り出し、せっせと化粧を直しているのを見て本当に偉いと思った。私なら京都に着いてから直せばいいやと思ってしまう。いやむしろ面倒すぎて直さないかも。さすが恋する乙女は違う。戸無瀬の煙管からは煙がフワフワしていた。杖についている火種自体に本当に火がついているらしかった。煙管の仕掛けは相変わらずよくわからない。

はじめのほうで背景を通っていく小さな行列、大名行列?と思っていたら花嫁行列だったそうです。左様でしたか……。

 

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雪転しの段、山科閑居の段。時々あの人らの芸に見合わないトンチキな小道具や舞台装置が出てきて笑かしてくれる文楽だが、雪玉がモフモフすぎて笑った。羊毛フェルト的な質感で、申し訳ないけど硬い雪の塊には見えない。でもちゃんとリアルに転がっていた。雪玉はあとで雪だるまにされていて、それを何と説明していたかが聞き取れなかったのだが、帰ってからパンフレットの解説で調べたら、五輪塔にしたということなのね。不細工な雪だるまだと思うとった。

それにしてもこの段、長い。上演時間そのものが長いこともあって、このあたりになるとだんだん我にかえってきており、前半、戸無瀬と小浪が死ぬ死なないで話しているあたり、あまりに打掛を着たり脱いだりしているので幻覚が見えそうになった。いやとてもいい場面なんですけどね。しかし後半は加速度的に緊張感が高まってくるので、また話に没入することができた。

 

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天河屋の段。私、天河屋義平(吉田玉志)が何者なのか本気でわからないんですが、実はみんな知ってたりするんでしょうか。それと、長持が動くのがおもしろすぎるけど、あれはああいうもんなんでしょうか。しかしこの部分、子どもに刀をつきつけるあたりがなんでそんなことなってんのか話が理解できず、帰宅してから解説を読んでやっとわかった。

花水橋引揚の段。はあ〜、これでいよいよ最後〜、と思っていたら、どなたとは言わないが義士のうち一人がドジっ子状態になっていて笑った。最後の最後で緊張感を破壊してくるドジっ子義士、嫌いじゃない。その得物は芝居用の軽い拵えものではなく、本物だったんですね、大変なことで。明日からも頑張ってほしい。

 

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いままでの観劇のなかで一番上演時間が長く、休憩時間も短めで大変だったが(もちろん出演者の方はもっと大変)、とても充実した一日だった。文楽忠臣蔵には討ち入りの場面がないのが不思議だったが、なるほど、刃傷事件が色々な人に波及してゆく、その過程の話が重要ということがよくわかった。別に討ち入りの場面を直接見せる必要はないのね。いい歳こいて、やっとのことで忠臣蔵がどういう話なのか理解できて、よかった。

人形遣いの由良助の役は難しいんだろうなと思った。ほかの役は部分的にしか出てこないため、その部分部分で完結するのでいいのだが、由良助だけはずっと出てくるので、通して見ると個々の場面とは違うイメージが立ち上がってくる。しかも別に派手な動きがある役なわけでもないから、より一層わかりづらい。大筋とても素敵だと思ったんだけど(なんというおこがましい言い方)、良いと思った部分と、よくわからない、ピンとこない部分が混在していた。演技がブレている、迷わせられているという意味ではないのだが、私の理解不足もあって、これってどういうことなんだろうと思ったところもあり……。よく考え直すために、本当はもう一度通して観たいのだが、チケットが完売でもう残っていないので、それは叶わない。人形遣い個々による解釈の違うもあるだろうから、来年の鑑賞教室は『仮名手本忠臣蔵』らしいので、由良助の配役が玉男さん以外になっている回があればそれを観てみるか……比較してどうこうというものでもないけれど。こういう面での理解には時間がかかりそうだと思った。

それと、いろいろなツメ人形がたくさん出てきてとても可愛かった。アバウトな顔でもひとつひとつにみな個性があって、とても良い。パンフレットにも、いつも載っている代表的な役の人形の写真だけでなく、ツメ人形の写真コーナーがあって嬉しかった。

ちなみにパンフレットといえば、寛治さんの思い出語りが読み応えあって面白かったのだが、すこし載っていたご本人提供のむかしの写真、そこにグラサン姿のヤング簑助様が写っていて最高だった。これだけでパンフレット買う価値あると思う。

 

 

  • 仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』大序 鶴が岡兜改めの段・恋歌の段、二段目 桃井館本蔵松切の段、三段目 下馬先進物の段・腰元おかる文使いの段・殿中刃傷の段・裏門の段、四段目 花籠の段・塩谷判官切腹の段・城明渡しの段、五段目 山崎街道出合いの段・二つ玉の段、六段目 身売りの段・早野勘平腹切の段、七段目 祇園一力茶屋の段、八段目 道行旅路の嫁入、九段目 雪転しの段・山科閑居の段、十段目 天河屋の段、十一段目 花水橋引揚の段
  • http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2016/12155.html

文楽 トークイベント:竹本住大夫「文楽と国立劇場の50年」伝統芸能サロン

国立劇場主催の事前応募制イベント、2016年11月30日(水)開催。書いております通り、私、今年の2月に文楽観始めたので、住大夫さんの現役時代にカスリもしていないが、せっかくなので行ってみた。

形式は、司会の文楽劇場の企画の方(師匠のお気に入り?)が住大夫さんのお話を伺うというもの。一応テーマが「文楽国立劇場の50年」なのでまず国立劇場開場の話からのはずだったのだが、三和会時代のメチャクチャ話から引退の日の思い出へと話がアッチャコッチャしつつも、司会の方がなんとかがんばってまとめていた。

以下、住大夫さんのお話の簡単なまとめ。すべて優雅な大阪弁で話されていたのですが、ネイティブスピーカーじゃないので再現できず。標準語訳させていただきます。お名前は、特記なき限り当時です。

 

┃ 三和会時代と国立劇場の開場

  • 国立劇場ができたときまず思ったのは、「これで東京の我が家ができた」ということ。ホッとした。三和会時代は三越劇場が拠点だったが、そのころの三越は建物が古く、音響は悪いしステージは狭いしでひどかったので。国立劇場は目の前が皇居で隣が最高裁で、「こんなとこででけるんかな?」と思った。場所が不便なので、お客さんの足が心配だった。
  • 三和会では悪戦苦闘して、あのころは本当によく耐えたと思う。東京と大阪で公演していたが、大阪はそのころから入りが悪かった。1000円のギャラのはずが入りが悪いと700円だったり。生活は苦しかったが、貧乏に負けたらいかんと先代の燕三さんとよく言っていた。
  • 地方巡業は鈍行だった。途中で急行や特急に抜かれる。東北地方での公演で夜行に乗るにしても寝台には乗せてもらえなかった。入りの悪い小屋(興行主)は待遇も悪い。旅館でハンガーがないと言ったら「向かいの店に売っている」と言われたり。朝食で漬物がなくて、燕三さんが「漬物出せ!💢」と旅館の人に言ったら、「金払え!」と返された。「刑務所より待遇悪いわ!💢」「刑務所行ったことあるんか!」「昨日帰ってきたわ!💢」と言い合いになった。
  • 三和会の公演では、4つ外題をやるとして、2つ自分が出るとしたら、出ていないときは、人形遣いの人手が足らないので、人形の足を持っていた。たとえば「酒屋」のお園なら、動きの多い前半の難しいところは本職(人形遣い)が持って、じ〜っとしている後半の足を持っている。その経験は「人形遣いはこうしているのか」と勉強になった。ツメ人形も遣ったことがある。ほかには介錯。紋十郎師匠が『勧進帳』の弁慶をやったときは、小道具を渡す介錯をやった。あれも結構大変。紋十郎師匠は女形だったので弁慶もやわらかい、やさしいところがあったが、初日から落日までビシッと決まっていた。先日の大阪公演で『勧進帳』が出たが、勘十郎くん(当代)に「わしがやったときのほうがうまかったで〜」と話した。勘十郎くんは「そうでんねん、芝居気があらしまへんねん」と言っていた。(←突如発言を暴露される勘十郎さん)
  • 生活が苦しいので、アルバイトで映画にも出た。溝口健二の『西鶴一代女』、大夫役。三越劇場の公演中に。でもそんなことがバレると首が飛ぶので、楽屋へかつら合わせに来てもらったときは楽屋の前に見張りを立てた。公演が終わってからいまの枚方パークの場所にあったスタジオへ行った(このあたりよくわからなかった、間違っているかも)。出演シーンで一言のセリフに何度もNGを出す俳優がおり、何度もリテイクがかかった。みんな待っているということで、監督が諦めてOKになった。夜食は玉子丼だった。終わったら朝で、そのまま三越劇場へ直行した。暗い映画だった。
  • ほかにも藤山寛美の出ていた「俺は国宝や」(? 聞き取れず)というドラマにも出た。手紙を代読するシーンで、浄瑠璃調に読んでしまい、みんなに笑われた。
  • 国立劇場の開場記念では大夫・三味線全員で『寿式三番叟』に出た。あのときは本当にみんな揃っていた。今はバラバラ(文句ありげなニュアンス)。
  • 国立劇場の研修制度ができて、文楽は本当に助かった。当初は東京で開講していて、1授業1時間20分だった。

 

┃ 修行と弟子への教え

  • 文楽もこの50年でよう変わったなあと思う。
  • 自分は悪声だったが、口さばきだけはみんなに褒められた。心がけていたのは、上手にやろうとしてはいけないということ。弟子にも上手にやれと言ったことはない。百点満点は取れなくていいから、基本に忠実にやれと言っている。下手が上手ぶってやるのはひどいことだ。むかし三越劇場で『菅原伝授手習鑑』に出たとき、上手くできたと思って意気揚々と楽屋へ帰ったら、楽屋の前に師匠が立っていて、おもいっきりひっぱたかれたことがある。
  • 昔はたくさんの人のところに稽古をつけてもらいに行った。たとえば入院中の弥七さんのところへ押しかけたり。「わし入院してまんねん」と言われたが、拝み倒してなんとか病室で稽古してもらった。はじめは大人しく静かにやっていたが、だんだん盛り上がってきて、看護婦さんが様子を見に来るほどだった。「明日もまた来ます!」と言ったら、弥七さんはまた「わし入院してまんねん」と言った。ほかにもしつこく京都在住の〇〇師匠(聞き取れず)のところへ通って「明日もお願いします!」と言っていたら、「あんた、好きでんな〜」と呆れられた。〇〇さん(聞き取れず)は稽古より稽古のあとの話が長い。昔の名人の話などを聞かせてくれる。それも勉強になった。大夫に稽古をつけてもらうのと、三味線弾きに稽古をつけてもらうのとでは違いがある。若大夫さんの稽古(大夫の稽古)は横綱のぶつかり稽古みたいなもので、ドンと来い!と言ってもらって、クタクタになる。喜左衛門師匠の稽古(三味線弾きにつけてもらう稽古)とは疲れ方が違った。
  • 代役も大切な勉強。若い頃、やったこともない大役が代役で回ってきた。しかも山城掾の直前。みんなに褒められ、千穐楽までつとめた。代役はいろいろやらせてもらって、勉強になった。稽古をしていなくても、普段からいろいろ聞いていたので、つとめられた(すみません、このあたり記憶あいまい)。
  • 弟子に常々言っているのは、「大阪弁を大切にしなさい」ということ。文楽の大夫がなまる(大阪弁でない)のは許せない。日本にはいろいろな言葉があって、標準語(東京弁)は標準語で大切にしなくてはいけないが、浄瑠璃では大阪弁が大事。学校では標準語で勉強を教わるからか、いまの弟子は楽屋でも標準語で話している。どついたろかと思う。大阪弁で話しなさいときつく言っている。大阪出身者以外は言葉自体はちゃんと言えていても、イントネーションのニュアンスがちょっと違ってしまう。むかし、燕三さんがよく「(三味線の)音がなまっとる〜!!💢」と言っていて、当時は何を言っているかわからなかったが、いまならわかる。それは指使いのことだったと思う。
  • 舞台の前に気をつけていること。食べ物は、果物、アルコール、炭酸飲料は摂らない。寝不足もいけない。腰が決まらない。深酒、夜更かしもだめ。自分はお酒がダメなのでいいけど。勘十郎くん(当代)は本当によく飲む。お父さんもそうだった。がばがば飲むので、お父さんみたいになるでと言っている。勘十郎くんは最近、「人形がひとりでに動く」と言っている。(って師匠、その語順で話してしまうと勘十郎さんがアル中の妄想に取り憑かれてるみたいなんでやめたってください!!)
  • 人形も三味線も、目をかけているのが3人くらいいるが、大夫は……。弟子で、最初の面接のとき、「わたし、ゆとり教育なんです」と言ってきた子がいるが、「文楽にゆとりはないで……」と言ってあげた。その子、まだいますけどな。
  • 弟子にはほかの業種の人と付き合いなさいと言っている。いろいろな業種の人(ご贔屓さんを指しているようです)と付き合えるのは技芸員の特権だから。
  • 浄瑠璃は字と字のあいだで語れと言っている。切るのと音を止めるのとは違う。その拍子の取り方(実演)。たとえば「酒屋」でも、半兵衛はぜんそく持ちだが、ぜんそくの咳は難しい(実演)。肺病の咳とは違う(実演)。理解できない弟子には病院行って聞いてこい!と言う。
  • 浄瑠璃は「音(オン)」が大切。浄瑠璃は日常のことばの延長で、むかしは電車のアナウンスにも「音」があった(実演)(筆者注:メリハリや息遣い、伸ばし方、間の取り方のこと?) 。義太夫は三味線の音と音のあいだに声を出し、声がかき消されないようにする。昔、燕三くん(? 当代)を研修で教えているとき、(三味線の音と音のあいだに発声していることをさして)「三味線に合いますねえ」と言ってきた。「あわいでか〜」。でも、音と音をあわせにいってはいけない。
  • 公演で、出来に納得がいってスッキリするのは公演中2、3日くらい。ほとんどの日はもやもやする。舞台稽古初日は緊張する。2、3日目から本調子。NHKの収録だと、「キュー」という合図でやらされるのがいやだった。あれだと間もなにもない。

 

国立劇場での演目

  • (司会者より、国立劇場企画の公演は希少な演目も多いという紹介を受け)『国言詢音頭(くにことばくどきおんど)』が記憶に残っている(文楽劇場/昭和59年9〜10月/公演情報詳細|文化デジタルライブラリー)。人形は玉男くんと簑助くんで、良かった。首を締められるシーンがあって、どううめき声を出そうかなと考え、上を向いて語ることにした。終わったあと簑助くんがやってきて「あんたよう考えはりましたな〜」と言ってくれた。『近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)』(国立劇場小劇場/昭和49年9月/公演情報詳細|文化デジタルライブラリー)。ぬくめし(良いシーン)は良い人へいく。こっちは冷や飯。でも、一生懸命稽古して、結果的には良かった。
  • 近松ものは嫌い。七五調でなく語りにくい。文章が綺麗すぎて山あり谷ありをつけられない。つけると近松のよさが失われる。しかし、イヤなものほど稽古する。やっているうちに、だんだんイヤな気持ちが薄れてくる。結果として、『心中宵庚申』で賞をもらえた。

 

┃ 現在の文楽

  • お客さんにお願いがある。今のお客さんはマナーが良いというか、優しい。むかしは客もきつくて、浄瑠璃にあわせてヤジを飛ばしてきた。「さわりの家も これ限り」という語りに、「さわりの家も<ヤジ:お前もな〜!!>これ限り」とか(すみません、なんの浄瑠璃かわからず、詞章あいまい)。むかしは新聞の批評でもものすごく悪く書かれた。もう、ほんならいっぺん行ってみよか、と逆に思われるくらいに。いま何故当たり障りのない批評しか載らないのか文化欄の記者に聞いたら、たとえ記者がきつく書いても上になおされると言っていた。
  • 先輩方からは、終わりの拍手を聞きわけろと言われていた。その拍手は「ハー、やっと済んだ!」という拍手なのか、「ごくろうさんでしたなー!」という拍手なのか。お客さんを疲れさせてはいけない。
  • 俳優の加藤武さんとよく話をしていた。成瀬巳喜男の『流れる』はみんな芝居をせず芝居をしていた。本当のことを本当にやっては芸ではない。嘘をやるのが芸。今の芝居ではマイクをせず声が後ろまで届く人は少ない。吐く息、吸う息が大切。ただ大声を出せばいいというものではない。まともに大声を出していたのではもたない。

 

┃ 病気と引退

  • 倒れる前日の夜、右肩が上がらないなあと思っていたが、そのまま眠ってしまった。翌朝、洗面所で倒れた。「わし、中風になった」と叫んだ。いまは中風言いまへんな。病院に運ばれて、検査。先生や看護婦さんが「手術はしなくてもいいけど、齢が齢だからどこまで回復するか」と言っているのがすべて聞こえた。
  • リハビリが辛くて、机を叩いて泣いてしまったことがある。そうしたら、主治医の先生に「(もっと症状の重い人もいるのに)感謝のこころが足りない!」と叱られ、頑張ってリハビリをした。病院にはいろいろな人がいた。もっと症状の重い人、若いのになあ……という人。
  • リハビリでは太宰治森鴎外の小説を読んだ。うまく発音できない。ら行がうまく言えない。「コミュニケーション」が言えなくてどうしようと思っていたら、お見舞いに来てくれた劇場の人に浄瑠璃に「コミュニケーション」という言葉は出て来ないから大丈夫ですよ!と励まされた。浄瑠璃の本でリハビリしてもいいかと先生に聞いて、浄瑠璃の本でリハビリしはじめたら、すらすら言えた。
  • みんなに引き止められたが、不本意浄瑠璃ではお客さんに申し訳ないと思い、引退を決めた。文楽協会(?)からも引き止められた(引き止めの条件は絶対言うたらあかんと言われた、そうです)。ところで文楽ちゅうんは退職金がおまへんねん(突然)。辞めてから生活どうしよう?と思って女房に相談したら、なんとかなるから好きなことをやりなはれと言ってもらえた。女房のほうが腹が据わっている。
  • 引退公演は拍手の音がすごくて緊張した。『寿式三番叟』の翁で出たが、拍手がなりやまず、なかなか演奏をはじめられなかった。お客さんの「ごくろうさんでした」という気持ちが伝わってきた。大阪での千穐楽の日、簑助くんが桜丸の人形に花束を持たせて歩いてきたのには本当に驚いた。東京(大阪より後)で花束をもらうことは事前に聞いていたが、大阪は知らなかったので……。簑助くんとはずっと一緒に苦楽を共にしてきたので、泣いて抱き合った。最後の日、国立劇場の警備員さんがプレートを作って見送ってくれて、嬉しかった。

 

┃ 皇居へ行った話

  • 引退後、文化勲章をもらったが、文化勲章には賞金がないから、お祝いの会は自腹。ある賞のパーティーで、一緒に受賞した学者さんたちのスピーチを聞いていたら、みんな賞金は研究費に使うと言っていて、驚いた。学者は本がいっぱいあるいい家に住んでいるとばかり思っていたが、どこもお金が大変なんだなと思った。みんな、妻のおかげで……、と話していた。内助の功というものはあるんだなと思った。
  • 吹上御所へお茶会(?)に呼ばれた。タクシーでは行けないので、ご贔屓さんに車を出してもらった。吹上御所は坂下門からずっと進んだ先の森の中にあって、東京にこんな場所があるのかと思うようなところだった。でも、気軽にご飯食べにこ!とかもできないし、きゅうくつやろなあと思った。やっぱり一般人はいいなと思った。皇居はトイレが広かった。両陛下が、自分の著書を読んでくれていると知り、驚いた。だれが差し入れたのだろう。両陛下とは何度かお会いしたことがあるので、気楽にお話ができた。

 

┃ これから

  • (きょうは12月公演の舞台稽古のため東京へ来たんですよね、という司会者の話を受け)東京のみなさんに久しぶりに会えて嬉しい。また来月も来たい。引退してからこんなに痩せてしまって……(気弱)。みなさん、わしが死んだら新聞に載ると思いまっか?(会場全員首をはげしく横振り、司会者あせりまくり、さっき来月来るって言ったじゃないですかとコメント)またこういう機会があればと思う。今後も、よろしくお願いします。

 

私は舞台を拝見していないので、住大夫さんは資料映像や録音、自伝、あるいは他の技芸員さんからの話でしか存じ上げなかったのだが、ものすごくふんわりとした優しい雰囲気のおじいさまで、驚いた。もっとどきつい感じかと思っていたので……。ときどき(住大夫さんに気を遣って話に割入らない)司会者の方を気遣って、進行大丈夫かとサジェストされていて、本当ちゃんとした方だな〜と思った。客席の雰囲気もとてもよく、ゆったりとお話を聞けた1時間半だった。

技芸員さんて、舞台ではみなさんお澄ましなさっていてお人柄がまったくわからないが、何かの機会でお話されているお姿を拝見すると、外見どおりの方、外見とまったく違う方、いろいろいらっしゃって、面白い。

伝統芸能サロンは平日開催なのが困るのだが、うまいこと脱獄して、時々は参加したいものである。

文楽 トークイベント:吉田玉翔×ダニエル・カール「明日、誰かに話したくなる文楽〜文楽人形の魅力〜」あぜくらの夕べ

あぜくら会の会員限定イベント。2016年11月29日(火)開催。国立劇場主催なので国立劇場所蔵の映像、司会の職員の方(写真家)の撮った写真などを見ながらのトークで資料が充実。

お話は玉翔さんからだけでなく、人形実演のために同席されていた玉誉さん(錦秋公演お休みされていたが、お元気になられたみたいでよかった)、玉路さん(お話しされてるの初めて見ました)からのコメントもありで、ファンがじっくり、ゆったり楽しめる内容だった。文楽劇場のイベントもそうだったが、文楽イベントのふんわり癒し系っぷりは魅力。会員限定イベントで好きな人が集まっているので、雰囲気もよい。

ほぼ玉翔さんが話しっぱなしで(めちゃくちゃ元気、いつもこうらしい)、ダニエルさんはインタビュアーポジションに回ってくださった。以下、玉翔さんの話を簡単にまとめ。

文中お名前はすべて当時表記、玉男師匠=先代吉田玉男さんです。

 

┃ 少年時代

  • 玉翔さんはなぜ技芸員、人形遣いになったのか。それは玉男師匠(玉翔さんは「おっしょはん」と呼ぶ)を好きになったから。
  • 出身は高知県足摺岬があるところらへん。空港からさらに数時間の場所。母親が伝統芸能好きだった。母親の知人に玉男師匠ととても親しい人がおり、母親も玉男師匠の楽屋へ出入りするようになった。母親は大阪へ文楽を観に行っていて、弟がまず連れていかれた。弟は「眠たい」と言っていた。次に自分が連れていかれた。はじめて行ったときは眠かった。玉男師匠は舞台のほかでは本当普通のおじいちゃんだった。とても優しくしてくれた。兄弟子にも可愛がってもらえた。しばらくして、母親にまた行く?と言われ、またついて行った。次第にひとりでも行くようになった。あるとき『平家女護島』を観た。玉男師匠が俊寛役だった。最後の場面、俊寛の人形が玉男師匠と一体になっているようで、玉男師匠が俊寛になっているようで、驚いた(すみません、ここ、もうちょっと複雑な言い方で説明されてました)。それで師匠に興味を持った。
  • 中学時代は野球少年。有名校からスカウトがくるくらいだった。でも、田舎の高校で楽しんで野球がやりたいのでと言って蹴っていた(こんなこと言うたら自慢になるけど、フフフ)。高校の面接でも「ぼくが甲子園に連れていきます!」と大見得を切ったが、入部早々先輩と喧嘩して退部した。喧嘩の理由は、先輩に「練習2時から」と言われて2時に行ったら、遅いと叱られたから。早く来て準備しとけということだったんだろうけど。そしてそのまま1年が過ぎ、翌年、野球部の顧問の先生が担任になった。うわ〜っ、ぼく狙いやと思っていたら、先生から「普段は絶対担任なんかしないが、きみが野球部に戻ってくれるよう担任になった」と説得され、野球部へ復帰した。でも1年何もしてへんかったから、やっぱり勝てなかった。高校時代は野球部やりながら、黒衣を借りて文楽を手伝ったりしていた(このあたり話の詳細記憶あいまい、すみません)。高校卒業して、入門した。
  • 文楽自体というより、玉男師匠のことが大好きになって、入門した。師匠のことが大好きで、師匠に惚れていた。玉男師匠は実の親以上だと思っている。入門時、師匠はすでに70代で、ご高齢だった。当初、師匠は「玉女の弟子になれ、一番弟子は可愛いもんやから」と言っていたが、どうしても玉男師匠の弟子になりたくて、玉女さんに頼んで「何かあったときは自分が面倒をみるので、弟子にしてやって欲しい」と口添えしてもらった。あの人にもめずらしくええとこあるんです。フフ。
  • ほんまは料理人になりたかったんです。でも、言うたら料理人の方に悪いけど、料理学校出てから文楽入るより、文楽やりながら料理学校通えばええかなと思って(謎の独自理論)。
  • 自分は直接弟子入りしたので、立場は「研究生」(技芸員が直接取る弟子)。今はどうか知らんけど、当時は東京公演の旅費も自腹だった。「研修生」(国立劇場の養成過程履修者)は国立が面倒見てくれるけど。「研究生」は師匠が…………(と、ここで「研究生」と「研修生」の違いについての質問が入り、その説明で話が脱線したまま戻って来ず。アルバイトはしたことがない、師匠が世話してくれて云々。あと、師匠は自分の身の回りのことは自分でする人で、弟子にはやらせない、みたいな話)

 

┃ 玉男師匠の思い出

  • 歳をとってからの弟子だったので、とても可愛がられた(でもそれは玉翔さんが頑張っていたからと劇場の人からコメント。玉男師匠と玉翔さんが一緒に写っている一枚の写真を示し、若手の公演のとき、あまりに忙しすぎてだれも玉男師匠のところへ出来を尋ねに来なかったが、玉翔さんだけが「どうでしたか?」と聞きに来た。師匠は「玉翔はえらい!」と褒めていた、これはそのときの写真、とのこと)。
  • あるとき、師匠に褒められてウキウキしていたら、兄弟子たちは「師匠滅多に褒めへんのやけどな〜?」と首をかしげていた。素で「下手やのになんでやろ〜?」と言ってくる兄弟子がいてショックだった(笑)。でも本当そのときは下手で褒めるとか褒めないとかいうレベルでもなかった。
  • 玉男師匠は理論的な人だった。ほかのお師匠さんは「足ソッチや!」「どっちですか!?」「ちゃう、コッチや!」と漠然としたことを言ってくるが、師匠は「棒足は〜……、33度!」「(逆にわからん!)」など教え方がきちんと、ちゃんとしていた。
  • 玉男師匠は字がとてもお上手だった。(玉男師匠が人形小割帳をつけている写真を見て)小割帳は筆ペンで書いていた。師匠は「わしは英語が書ける」と言って、人形の胴の部分には「TAMAO」と書いていた。(ダニエルさんからそれローマ字ですねというツッコミを受け)ぼくらからしたらこれも英語なんです!

 

人形遣いの修行

  • 小割といえば、足って場面によって違う人がついとるって知ってますか? ひとつの人形に始終ずっと同じ人がついてるわけではない。忠臣蔵やったら、はじめは高師直の足いって、次は由良助の足いってって、場面によってバラバラに細かくついている。だから気分的にはこれどうなんやって場合もある。入りたての人形遣いは朝から晩まで仕事がある。朝一番最初に来て最後に帰る。はじめは介錯、つぎに動かない足を持つ。介錯と足で出ずっぱりになって、休憩なんかない。食事の時間も取れない。終わったら顔真っ青。ぼくもいまは合間に食事取れるようになったので、いいですけど。次の12月公演の忠臣蔵、10時半(開演)から9時半(終演)て、1人2人死ぬんとちゃいますか。
  • 野球をやっていたので、人形遣いも体力面では簡単だろうと思っていた。でも、使う筋肉が違うので、入門してからとても大変だとわかった。人形遣いは体育会系。太夫と三味線は文化系で、楽屋の雰囲気も全然違う。
  • 太夫・三味線さんは、公演中の出番でないとき、空き時間に次の公演の稽古をしている。人形は基本的に稽古ができない。イメトレ(+普段からよく見ているしかない)。12月公演(12/3初日)は明日(11/30)から稽古。明日が第一部で明後日が第二部、通しはその次の日の1回しかない。この通し稽古が一番緊張する。客席に偉い師匠らが座っているので。ここで認められないと上へいけない。ある意味本番(初日)より緊張して、初日にはほっとするくらい。
  • むかしは足遣い10年、左遣い10年言うてたらしいけど(直前の勘十郎さんトークショーでは勘十郎さんは「ぼく30まで足つこてました」とコメントしていた)、いまは足遣い20年、左遣い20年。なかなか役がもらえない。いちばんいいのはいま60歳くらいの人。和生さん、勘十郎さん、(いまの)玉男さん。
  • 自分は子役が多くて、先日の大阪で出た志度寺(『花上野誉碑』)では坊太郎でかなり良い子役だった(ふふん♪)。(ダニエルさんから「赤ちゃんの役は?」という質問を受け)ハイハイしかしないような子役はもっと入りたての人がやる。いい子役がつくときはばーっとつく。でも子役の命は短く、演目のローテーションもあるし、人形遣い自身の年齢もあるので、つくのは7年くらいの間。50くらいのオッサンが子役やっててもね。配役には見た目もある。自分は子役の中でも最高齢。
  • 修行時代は男の足にも、女の足にもつく。そのうちどちらが得意かで分化してゆくが、自分は女形の勉強がもったいないので両方やりたい。(実演では女の人形の模範演技も見せてくださいました)
  • 若い頃はなかなか役がもらえず苦しかった。あるとき「どうせ黒衣だから」と茶髪にした(突然のヤンチャ告白)。人形遣い連中が「茶髪や〜!」とわいわいする中、偉い太夫さんが大激怒してハサミを持って追いかけてきた。とっつかまって玉男師匠の前に突き出されたが、玉男師匠は「若いんやったら、ええやん!」と言ってくれた。太夫さんは二の句が継げなくて、帰っていった。そんな玉男師匠も、若い頃、爺さん役を振られてヘソを曲げ、ヒゲを伸ばすというヤンチャをしていたらしい。自称・役作りとのこと。

 

┃ 海外公演

  • 入ったばかりのころ、玉男師匠がこれが(ご自身が海外公演に出るのは)最後だからと「フランス公演一緒に行くか?」と言ってくれて、嬉しかった。ついて行ってもなんの役にも立たないのに。当時は海外公演が3週間程度あり、兄弟子たちが師匠のために日本食を用意しておけと言うので、師匠の好物である南座のニシン蕎麦を休みの日に京都まで行って買ってきた。師匠喜ぶやろな〜❤️と思って、公演も半ばにさしかかったころにドヤッと出したら、「なんでここまで来て蕎麦食わなあかんねん」と言われ、大道具さんに配った(涙)。
  • 玉男師匠は「エビフライが食べたい!」と言った。でもレストランで「エビフライ」を何と言ったらいいかわからず、同伴の弟子は必死にエビポーズで説明。レストランの人がわかってくれて、エビが出て来たのだが、エビの丸焼きだった。自分が同伴したときは、師匠が「ハンバーグが食べたい!」と言うのでハンバーグを注文したのだが、中がレアというのか生焼けで、大丈夫かなと思ったがエエわ!と思って食べた。大丈夫だった。
  • 海外では舞台がはじまるのは夜8時くらいで11時終わり。ディナーを食べてから見に行くという時間帯に設定されている。開演時間まではすべて自由時間。観光が好きな人は「どこ行こ!?」と本当にあちこち行きたがるが、自分はあまり観光に興味がなくて、ホテルで読書したり(現地で売っている日本語の本を買う)、ちょっとあたりを歩き回ったり、美術館やお寺(教会)へ行くくらい。スペインへ行ったときは美術館へピカソの『ゲルニカ』を見に行った。ぼく、ピカソけっこう好きなんで。『ゲルニカ』はとても大きく、壁いっぱいの大きさだった。周囲にも製作過程のパネルなどが展示されていた。帰り、兄弟子が「ところで『ゲルニカ』ってどれやった?」と言い出したので、仰天した。
  • 海外公演でも、食事はお米が食べたい。最近は大都市なら日本食店がある。まえのフランス公演では一風堂へ行った。地方都市で日本食の店がない場合は、中華へ行く。中華はどこにでもあるので。

 

┃ 質疑応答

  • (会場からの質問:芸名の由来を教えてください)当時「翔」という字が流行っていたのもあるが、玉男師匠の弟子は「たまめ」「たまか」など、基本的に「玉+読み1文字」の名前。でもそのとき「もう1文字の名前ないねん」と言われた。「たましょう」だと、まえに読みが同じ「玉昇」さんという方がいたので、みんな呼びにくいと言って本名の「けい」で呼ばれる。芸名は実は玉男師匠からではなく、先に母親から知らされた。母親が決めたのではと思った。普通は「この中から好きな名前選べ」とか、師匠から言われるはずなのに……。師匠にはもう知ってますとも言えず、有り難みがなかった。
  • 芸名について、私が思ったこと。三味線弾きさんとかでもわりと今風のお名前の方いらっしゃいますが、やっぱりお師匠様によってはちゃんと流行(?)も考慮してくれるんですね。ちょっと大きくなってからつける名前なぶん、その人にあった名前にしてもらえますしね。「玉女」さんも、ご本人の外見のわりに可愛い芸名だな〜、わざと逆打ちしてるんかなと思っていたら、入門当時の写真を見たら涼やか美少年で、コリャ玉女でええわいと思った。やっぱりみなさんちゃんとつけてもらってるんですね〜。(当たり前だ)
  • (会場からの質問:修行は大変なことも多いと思います。厳しいと思うときはどんなときですか?)厳しいと思うことはない。(考え込んで)厳しいって、どういうことかわからない。これが普通だと思うので……。昔は舞台下駄で殴られたり蹴られたりしていたと聞いているが、いまはそんなことはない。残っているのは言葉の暴力(笑)? 玉路どう? いちばん実感しとるんとちゃう?(と促された玉路さんから、自分もこれが厳しいとは思っていませんというコメント)修行は好きなことだから楽しくやっています。つらいのは、何も言ってもらえないこと。厳しいというのはどういうことをいうのか、わかりません。(首傾げ)
  • (実演でダニエルさんから「佐渡の文弥人形は一人遣いで、左手は棒状のものを振り回している状態」と説明され)幕開き三番叟と同じですね。幕開き三番叟は二人遣い。左手は棒になっていて、こんな感じで(実演)、慣れないと結構大変です。
  • 人形は主遣いひとりで持っていると重いけど、うまい左や足がついてくれると(衣装の重さも軽減されて)軽くなる。下手な左がつくと引っ張ってきたりして、よけい重くなる。
  • (客席からの実演質問:主遣いが左遣い・足遣いに出しているサインというのは具体的にどういうものですか?)主遣いの出しているサインは人形の後頭部、肩にあらわれる(実演)。(質問:足遣いのかたはどうしているのですか?見えないのでは?)足は主遣いの足と同じ方向を出す(実演)。でもお客さんはそんなんわからなくていいんですよ。



若め〜中堅の技芸員さんの個人的なお話を聞く機会はいままでなかったので、とてもいいイベントだった。どういう気持ちで毎日がんばっておられるかの言葉が生々しい。あれもやりたい、これもやりたいという前向きな気持ちが感じられる。

そして、玉翔さんが本当に「おっしょはん」が大好きだったことがわかるお話だった。上にも書いたが、玉翔さんが入門したてのころ、若手の発表会で玉男師匠に出来を尋ねに行ったときの写真が印象的だった(ご本人はこのとき何を話していたかまったく覚えていらっしゃらなかったが、撮影したカメラマンの方が対談の司会で、会話内容を覚えておられたのだ)。あかるい光が入っているロビーのような場所の喫煙所で、窓ぎわのベンチに、ハットにコート姿の玉男師匠が座っている。カメラに背を向けて座っているので、玉男師匠の表情はわからない。紋付姿の玉翔さんはひざまずいて灰皿に手をかけ、すこしからだをのり出すようにして、真摯な眼差しで玉男師匠を見ている。目の澄み方はそのころから変わっておられないのだなあと思った。

 

と、いい話のあとで申し訳ないが、知り合いの方が「むかしは玉翔さんが一番のイケメンと言われていた」と話してくださるのをいままで「フーン」とてきとうに流して聞いていたが、この写真の玉翔さん、まじ凛々しいイケメンで、ほんまや! ほんまにイケメンやったんや!!! と驚いた。いやいまも大変な男前ですけどね!!! 

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