TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 トークイベント:竹本住大夫「文楽と国立劇場の50年」伝統芸能サロン

国立劇場主催の事前応募制イベント、2016年11月30日(水)開催。書いております通り、私、今年の2月に文楽観始めたので、住大夫さんの現役時代にカスリもしていないが、せっかくなので行ってみた。

形式は、司会の文楽劇場の企画の方(師匠のお気に入り?)が住大夫さんのお話を伺うというもの。一応テーマが「文楽国立劇場の50年」なのでまず国立劇場開場の話からのはずだったのだが、三和会時代のメチャクチャ話から引退の日の思い出へと話がアッチャコッチャしつつも、司会の方がなんとかがんばってまとめていた。

以下、住大夫さんのお話の簡単なまとめ。すべて優雅な大阪弁で話されていたのですが、ネイティブスピーカーじゃないので再現できず。標準語訳させていただきます。お名前は、特記なき限り当時です。

 

┃ 三和会時代と国立劇場の開場

  • 国立劇場ができたときまず思ったのは、「これで東京の我が家ができた」ということ。ホッとした。三和会時代は三越劇場が拠点だったが、そのころの三越は建物が古く、音響は悪いしステージは狭いしでひどかったので。国立劇場は目の前が皇居で隣が最高裁で、「こんなとこででけるんかな?」と思った。場所が不便なので、お客さんの足が心配だった。
  • 三和会では悪戦苦闘して、あのころは本当によく耐えたと思う。東京と大阪で公演していたが、大阪はそのころから入りが悪かった。1000円のギャラのはずが入りが悪いと700円だったり。生活は苦しかったが、貧乏に負けたらいかんと先代の燕三さんとよく言っていた。
  • 地方巡業は鈍行だった。途中で急行や特急に抜かれる。東北地方での公演で夜行に乗るにしても寝台には乗せてもらえなかった。入りの悪い小屋(興行主)は待遇も悪い。旅館でハンガーがないと言ったら「向かいの店に売っている」と言われたり。朝食で漬物がなくて、燕三さんが「漬物出せ!💢」と旅館の人に言ったら、「金払え!」と返された。「刑務所より待遇悪いわ!💢」「刑務所行ったことあるんか!」「昨日帰ってきたわ!💢」と言い合いになった。
  • 三和会の公演では、4つ外題をやるとして、2つ自分が出るとしたら、出ていないときは、人形遣いの人手が足らないので、人形の足を持っていた。たとえば「酒屋」のお園なら、動きの多い前半の難しいところは本職(人形遣い)が持って、じ〜っとしている後半の足を持っている。その経験は「人形遣いはこうしているのか」と勉強になった。ツメ人形も遣ったことがある。ほかには介錯。紋十郎師匠が『勧進帳』の弁慶をやったときは、小道具を渡す介錯をやった。あれも結構大変。紋十郎師匠は女形だったので弁慶もやわらかい、やさしいところがあったが、初日から落日までビシッと決まっていた。先日の大阪公演で『勧進帳』が出たが、勘十郎くん(当代)に「わしがやったときのほうがうまかったで〜」と話した。勘十郎くんは「そうでんねん、芝居気があらしまへんねん」と言っていた。(←突如発言を暴露される勘十郎さん)
  • 生活が苦しいので、アルバイトで映画にも出た。溝口健二の『西鶴一代女』、大夫役。三越劇場の公演中に。でもそんなことがバレると首が飛ぶので、楽屋へかつら合わせに来てもらったときは楽屋の前に見張りを立てた。公演が終わってからいまの枚方パークの場所にあったスタジオへ行った(このあたりよくわからなかった、間違っているかも)。出演シーンで一言のセリフに何度もNGを出す俳優がおり、何度もリテイクがかかった。みんな待っているということで、監督が諦めてOKになった。夜食は玉子丼だった。終わったら朝で、そのまま三越劇場へ直行した。暗い映画だった。
  • ほかにも藤山寛美の出ていた「俺は国宝や」(? 聞き取れず)というドラマにも出た。手紙を代読するシーンで、浄瑠璃調に読んでしまい、みんなに笑われた。
  • 国立劇場の開場記念では大夫・三味線全員で『寿式三番叟』に出た。あのときは本当にみんな揃っていた。今はバラバラ(文句ありげなニュアンス)。
  • 国立劇場の研修制度ができて、文楽は本当に助かった。当初は東京で開講していて、1授業1時間20分だった。

 

┃ 修行と弟子への教え

  • 文楽もこの50年でよう変わったなあと思う。
  • 自分は悪声だったが、口さばきだけはみんなに褒められた。心がけていたのは、上手にやろうとしてはいけないということ。弟子にも上手にやれと言ったことはない。百点満点は取れなくていいから、基本に忠実にやれと言っている。下手が上手ぶってやるのはひどいことだ。むかし三越劇場で『菅原伝授手習鑑』に出たとき、上手くできたと思って意気揚々と楽屋へ帰ったら、楽屋の前に師匠が立っていて、おもいっきりひっぱたかれたことがある。
  • 昔はたくさんの人のところに稽古をつけてもらいに行った。たとえば入院中の弥七さんのところへ押しかけたり。「わし入院してまんねん」と言われたが、拝み倒してなんとか病室で稽古してもらった。はじめは大人しく静かにやっていたが、だんだん盛り上がってきて、看護婦さんが様子を見に来るほどだった。「明日もまた来ます!」と言ったら、弥七さんはまた「わし入院してまんねん」と言った。ほかにもしつこく京都在住の〇〇師匠(聞き取れず)のところへ通って「明日もお願いします!」と言っていたら、「あんた、好きでんな〜」と呆れられた。〇〇さん(聞き取れず)は稽古より稽古のあとの話が長い。昔の名人の話などを聞かせてくれる。それも勉強になった。大夫に稽古をつけてもらうのと、三味線弾きに稽古をつけてもらうのとでは違いがある。若大夫さんの稽古(大夫の稽古)は横綱のぶつかり稽古みたいなもので、ドンと来い!と言ってもらって、クタクタになる。喜左衛門師匠の稽古(三味線弾きにつけてもらう稽古)とは疲れ方が違った。
  • 代役も大切な勉強。若い頃、やったこともない大役が代役で回ってきた。しかも山城掾の直前。みんなに褒められ、千穐楽までつとめた。代役はいろいろやらせてもらって、勉強になった。稽古をしていなくても、普段からいろいろ聞いていたので、つとめられた(すみません、このあたり記憶あいまい)。
  • 弟子に常々言っているのは、「大阪弁を大切にしなさい」ということ。文楽の大夫がなまる(大阪弁でない)のは許せない。日本にはいろいろな言葉があって、標準語(東京弁)は標準語で大切にしなくてはいけないが、浄瑠璃では大阪弁が大事。学校では標準語で勉強を教わるからか、いまの弟子は楽屋でも標準語で話している。どついたろかと思う。大阪弁で話しなさいときつく言っている。大阪出身者以外は言葉自体はちゃんと言えていても、イントネーションのニュアンスがちょっと違ってしまう。むかし、燕三さんがよく「(三味線の)音がなまっとる〜!!💢」と言っていて、当時は何を言っているかわからなかったが、いまならわかる。それは指使いのことだったと思う。
  • 舞台の前に気をつけていること。食べ物は、果物、アルコール、炭酸飲料は摂らない。寝不足もいけない。腰が決まらない。深酒、夜更かしもだめ。自分はお酒がダメなのでいいけど。勘十郎くん(当代)は本当によく飲む。お父さんもそうだった。がばがば飲むので、お父さんみたいになるでと言っている。勘十郎くんは最近、「人形がひとりでに動く」と言っている。(って師匠、その語順で話してしまうと勘十郎さんがアル中の妄想に取り憑かれてるみたいなんでやめたってください!!)
  • 人形も三味線も、目をかけているのが3人くらいいるが、大夫は……。弟子で、最初の面接のとき、「わたし、ゆとり教育なんです」と言ってきた子がいるが、「文楽にゆとりはないで……」と言ってあげた。その子、まだいますけどな。
  • 弟子にはほかの業種の人と付き合いなさいと言っている。いろいろな業種の人(ご贔屓さんを指しているようです)と付き合えるのは技芸員の特権だから。
  • 浄瑠璃は字と字のあいだで語れと言っている。切るのと音を止めるのとは違う。その拍子の取り方(実演)。たとえば「酒屋」でも、半兵衛はぜんそく持ちだが、ぜんそくの咳は難しい(実演)。肺病の咳とは違う(実演)。理解できない弟子には病院行って聞いてこい!と言う。
  • 浄瑠璃は「音(オン)」が大切。浄瑠璃は日常のことばの延長で、むかしは電車のアナウンスにも「音」があった(実演)(筆者注:メリハリや息遣い、伸ばし方、間の取り方のこと?) 。義太夫は三味線の音と音のあいだに声を出し、声がかき消されないようにする。昔、燕三くん(? 当代)を研修で教えているとき、(三味線の音と音のあいだに発声していることをさして)「三味線に合いますねえ」と言ってきた。「あわいでか〜」。でも、音と音をあわせにいってはいけない。
  • 公演で、出来に納得がいってスッキリするのは公演中2、3日くらい。ほとんどの日はもやもやする。舞台稽古初日は緊張する。2、3日目から本調子。NHKの収録だと、「キュー」という合図でやらされるのがいやだった。あれだと間もなにもない。

 

国立劇場での演目

  • (司会者より、国立劇場企画の公演は希少な演目も多いという紹介を受け)『国言詢音頭(くにことばくどきおんど)』が記憶に残っている(文楽劇場/昭和59年9〜10月/公演情報詳細|文化デジタルライブラリー)。人形は玉男くんと簑助くんで、良かった。首を締められるシーンがあって、どううめき声を出そうかなと考え、上を向いて語ることにした。終わったあと簑助くんがやってきて「あんたよう考えはりましたな〜」と言ってくれた。『近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)』(国立劇場小劇場/昭和49年9月/公演情報詳細|文化デジタルライブラリー)。ぬくめし(良いシーン)は良い人へいく。こっちは冷や飯。でも、一生懸命稽古して、結果的には良かった。
  • 近松ものは嫌い。七五調でなく語りにくい。文章が綺麗すぎて山あり谷ありをつけられない。つけると近松のよさが失われる。しかし、イヤなものほど稽古する。やっているうちに、だんだんイヤな気持ちが薄れてくる。結果として、『心中宵庚申』で賞をもらえた。

 

┃ 現在の文楽

  • お客さんにお願いがある。今のお客さんはマナーが良いというか、優しい。むかしは客もきつくて、浄瑠璃にあわせてヤジを飛ばしてきた。「さわりの家も これ限り」という語りに、「さわりの家も<ヤジ:お前もな〜!!>これ限り」とか(すみません、なんの浄瑠璃かわからず、詞章あいまい)。むかしは新聞の批評でもものすごく悪く書かれた。もう、ほんならいっぺん行ってみよか、と逆に思われるくらいに。いま何故当たり障りのない批評しか載らないのか文化欄の記者に聞いたら、たとえ記者がきつく書いても上になおされると言っていた。
  • 先輩方からは、終わりの拍手を聞きわけろと言われていた。その拍手は「ハー、やっと済んだ!」という拍手なのか、「ごくろうさんでしたなー!」という拍手なのか。お客さんを疲れさせてはいけない。
  • 俳優の加藤武さんとよく話をしていた。成瀬巳喜男の『流れる』はみんな芝居をせず芝居をしていた。本当のことを本当にやっては芸ではない。嘘をやるのが芸。今の芝居ではマイクをせず声が後ろまで届く人は少ない。吐く息、吸う息が大切。ただ大声を出せばいいというものではない。まともに大声を出していたのではもたない。

 

┃ 病気と引退

  • 倒れる前日の夜、右肩が上がらないなあと思っていたが、そのまま眠ってしまった。翌朝、洗面所で倒れた。「わし、中風になった」と叫んだ。いまは中風言いまへんな。病院に運ばれて、検査。先生や看護婦さんが「手術はしなくてもいいけど、齢が齢だからどこまで回復するか」と言っているのがすべて聞こえた。
  • リハビリが辛くて、机を叩いて泣いてしまったことがある。そうしたら、主治医の先生に「(もっと症状の重い人もいるのに)感謝のこころが足りない!」と叱られ、頑張ってリハビリをした。病院にはいろいろな人がいた。もっと症状の重い人、若いのになあ……という人。
  • リハビリでは太宰治森鴎外の小説を読んだ。うまく発音できない。ら行がうまく言えない。「コミュニケーション」が言えなくてどうしようと思っていたら、お見舞いに来てくれた劇場の人に浄瑠璃に「コミュニケーション」という言葉は出て来ないから大丈夫ですよ!と励まされた。浄瑠璃の本でリハビリしてもいいかと先生に聞いて、浄瑠璃の本でリハビリしはじめたら、すらすら言えた。
  • みんなに引き止められたが、不本意浄瑠璃ではお客さんに申し訳ないと思い、引退を決めた。文楽協会(?)からも引き止められた(引き止めの条件は絶対言うたらあかんと言われた、そうです)。ところで文楽ちゅうんは退職金がおまへんねん(突然)。辞めてから生活どうしよう?と思って女房に相談したら、なんとかなるから好きなことをやりなはれと言ってもらえた。女房のほうが腹が据わっている。
  • 引退公演は拍手の音がすごくて緊張した。『寿式三番叟』の翁で出たが、拍手がなりやまず、なかなか演奏をはじめられなかった。お客さんの「ごくろうさんでした」という気持ちが伝わってきた。大阪での千穐楽の日、簑助くんが桜丸の人形に花束を持たせて歩いてきたのには本当に驚いた。東京(大阪より後)で花束をもらうことは事前に聞いていたが、大阪は知らなかったので……。簑助くんとはずっと一緒に苦楽を共にしてきたので、泣いて抱き合った。最後の日、国立劇場の警備員さんがプレートを作って見送ってくれて、嬉しかった。

 

┃ 皇居へ行った話

  • 引退後、文化勲章をもらったが、文化勲章には賞金がないから、お祝いの会は自腹。ある賞のパーティーで、一緒に受賞した学者さんたちのスピーチを聞いていたら、みんな賞金は研究費に使うと言っていて、驚いた。学者は本がいっぱいあるいい家に住んでいるとばかり思っていたが、どこもお金が大変なんだなと思った。みんな、妻のおかげで……、と話していた。内助の功というものはあるんだなと思った。
  • 吹上御所へお茶会(?)に呼ばれた。タクシーでは行けないので、ご贔屓さんに車を出してもらった。吹上御所は坂下門からずっと進んだ先の森の中にあって、東京にこんな場所があるのかと思うようなところだった。でも、気軽にご飯食べにこ!とかもできないし、きゅうくつやろなあと思った。やっぱり一般人はいいなと思った。皇居はトイレが広かった。両陛下が、自分の著書を読んでくれていると知り、驚いた。だれが差し入れたのだろう。両陛下とは何度かお会いしたことがあるので、気楽にお話ができた。

 

┃ これから

  • (きょうは12月公演の舞台稽古のため東京へ来たんですよね、という司会者の話を受け)東京のみなさんに久しぶりに会えて嬉しい。また来月も来たい。引退してからこんなに痩せてしまって……(気弱)。みなさん、わしが死んだら新聞に載ると思いまっか?(会場全員首をはげしく横振り、司会者あせりまくり、さっき来月来るって言ったじゃないですかとコメント)またこういう機会があればと思う。今後も、よろしくお願いします。

 

私は舞台を拝見していないので、住大夫さんは資料映像や録音、自伝、あるいは他の技芸員さんからの話でしか存じ上げなかったのだが、ものすごくふんわりとした優しい雰囲気のおじいさまで、驚いた。もっとどきつい感じかと思っていたので……。ときどき(住大夫さんに気を遣って話に割入らない)司会者の方を気遣って、進行大丈夫かとサジェストされていて、本当ちゃんとした方だな〜と思った。客席の雰囲気もとてもよく、ゆったりとお話を聞けた1時間半だった。

技芸員さんて、舞台ではみなさんお澄ましなさっていてお人柄がまったくわからないが、何かの機会でお話されているお姿を拝見すると、外見どおりの方、外見とまったく違う方、いろいろいらっしゃって、面白い。

伝統芸能サロンは平日開催なのが困るのだが、うまいこと脱獄して、時々は参加したいものである。