TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 トークイベント:吉田玉翔×ダニエル・カール「明日、誰かに話したくなる文楽〜文楽人形の魅力〜」あぜくらの夕べ

あぜくら会の会員限定イベント。2016年11月29日(火)開催。国立劇場主催なので国立劇場所蔵の映像、司会の職員の方(写真家)の撮った写真などを見ながらのトークで資料が充実。

お話は玉翔さんからだけでなく、人形実演のために同席されていた玉誉さん(錦秋公演お休みされていたが、お元気になられたみたいでよかった)、玉路さん(お話しされてるの初めて見ました)からのコメントもありで、ファンがじっくり、ゆったり楽しめる内容だった。文楽劇場のイベントもそうだったが、文楽イベントのふんわり癒し系っぷりは魅力。会員限定イベントで好きな人が集まっているので、雰囲気もよい。

ほぼ玉翔さんが話しっぱなしで(めちゃくちゃ元気、いつもこうらしい)、ダニエルさんはインタビュアーポジションに回ってくださった。以下、玉翔さんの話を簡単にまとめ。

文中お名前はすべて当時表記、玉男師匠=先代吉田玉男さんです。

 

┃ 少年時代

  • 玉翔さんはなぜ技芸員、人形遣いになったのか。それは玉男師匠(玉翔さんは「おっしょはん」と呼ぶ)を好きになったから。
  • 出身は高知県足摺岬があるところらへん。空港からさらに数時間の場所。母親が伝統芸能好きだった。母親の知人に玉男師匠ととても親しい人がおり、母親も玉男師匠の楽屋へ出入りするようになった。母親は大阪へ文楽を観に行っていて、弟がまず連れていかれた。弟は「眠たい」と言っていた。次に自分が連れていかれた。はじめて行ったときは眠かった。玉男師匠は舞台のほかでは本当普通のおじいちゃんだった。とても優しくしてくれた。兄弟子にも可愛がってもらえた。しばらくして、母親にまた行く?と言われ、またついて行った。次第にひとりでも行くようになった。あるとき『平家女護島』を観た。玉男師匠が俊寛役だった。最後の場面、俊寛の人形が玉男師匠と一体になっているようで、玉男師匠が俊寛になっているようで、驚いた(すみません、ここ、もうちょっと複雑な言い方で説明されてました)。それで師匠に興味を持った。
  • 中学時代は野球少年。有名校からスカウトがくるくらいだった。でも、田舎の高校で楽しんで野球がやりたいのでと言って蹴っていた(こんなこと言うたら自慢になるけど、フフフ)。高校の面接でも「ぼくが甲子園に連れていきます!」と大見得を切ったが、入部早々先輩と喧嘩して退部した。喧嘩の理由は、先輩に「練習2時から」と言われて2時に行ったら、遅いと叱られたから。早く来て準備しとけということだったんだろうけど。そしてそのまま1年が過ぎ、翌年、野球部の顧問の先生が担任になった。うわ〜っ、ぼく狙いやと思っていたら、先生から「普段は絶対担任なんかしないが、きみが野球部に戻ってくれるよう担任になった」と説得され、野球部へ復帰した。でも1年何もしてへんかったから、やっぱり勝てなかった。高校時代は野球部やりながら、黒衣を借りて文楽を手伝ったりしていた(このあたり話の詳細記憶あいまい、すみません)。高校卒業して、入門した。
  • 文楽自体というより、玉男師匠のことが大好きになって、入門した。師匠のことが大好きで、師匠に惚れていた。玉男師匠は実の親以上だと思っている。入門時、師匠はすでに70代で、ご高齢だった。当初、師匠は「玉女の弟子になれ、一番弟子は可愛いもんやから」と言っていたが、どうしても玉男師匠の弟子になりたくて、玉女さんに頼んで「何かあったときは自分が面倒をみるので、弟子にしてやって欲しい」と口添えしてもらった。あの人にもめずらしくええとこあるんです。フフ。
  • ほんまは料理人になりたかったんです。でも、言うたら料理人の方に悪いけど、料理学校出てから文楽入るより、文楽やりながら料理学校通えばええかなと思って(謎の独自理論)。
  • 自分は直接弟子入りしたので、立場は「研究生」(技芸員が直接取る弟子)。今はどうか知らんけど、当時は東京公演の旅費も自腹だった。「研修生」(国立劇場の養成過程履修者)は国立が面倒見てくれるけど。「研究生」は師匠が…………(と、ここで「研究生」と「研修生」の違いについての質問が入り、その説明で話が脱線したまま戻って来ず。アルバイトはしたことがない、師匠が世話してくれて云々。あと、師匠は自分の身の回りのことは自分でする人で、弟子にはやらせない、みたいな話)

 

┃ 玉男師匠の思い出

  • 歳をとってからの弟子だったので、とても可愛がられた(でもそれは玉翔さんが頑張っていたからと劇場の人からコメント。玉男師匠と玉翔さんが一緒に写っている一枚の写真を示し、若手の公演のとき、あまりに忙しすぎてだれも玉男師匠のところへ出来を尋ねに来なかったが、玉翔さんだけが「どうでしたか?」と聞きに来た。師匠は「玉翔はえらい!」と褒めていた、これはそのときの写真、とのこと)。
  • あるとき、師匠に褒められてウキウキしていたら、兄弟子たちは「師匠滅多に褒めへんのやけどな〜?」と首をかしげていた。素で「下手やのになんでやろ〜?」と言ってくる兄弟子がいてショックだった(笑)。でも本当そのときは下手で褒めるとか褒めないとかいうレベルでもなかった。
  • 玉男師匠は理論的な人だった。ほかのお師匠さんは「足ソッチや!」「どっちですか!?」「ちゃう、コッチや!」と漠然としたことを言ってくるが、師匠は「棒足は〜……、33度!」「(逆にわからん!)」など教え方がきちんと、ちゃんとしていた。
  • 玉男師匠は字がとてもお上手だった。(玉男師匠が人形小割帳をつけている写真を見て)小割帳は筆ペンで書いていた。師匠は「わしは英語が書ける」と言って、人形の胴の部分には「TAMAO」と書いていた。(ダニエルさんからそれローマ字ですねというツッコミを受け)ぼくらからしたらこれも英語なんです!

 

人形遣いの修行

  • 小割といえば、足って場面によって違う人がついとるって知ってますか? ひとつの人形に始終ずっと同じ人がついてるわけではない。忠臣蔵やったら、はじめは高師直の足いって、次は由良助の足いってって、場面によってバラバラに細かくついている。だから気分的にはこれどうなんやって場合もある。入りたての人形遣いは朝から晩まで仕事がある。朝一番最初に来て最後に帰る。はじめは介錯、つぎに動かない足を持つ。介錯と足で出ずっぱりになって、休憩なんかない。食事の時間も取れない。終わったら顔真っ青。ぼくもいまは合間に食事取れるようになったので、いいですけど。次の12月公演の忠臣蔵、10時半(開演)から9時半(終演)て、1人2人死ぬんとちゃいますか。
  • 野球をやっていたので、人形遣いも体力面では簡単だろうと思っていた。でも、使う筋肉が違うので、入門してからとても大変だとわかった。人形遣いは体育会系。太夫と三味線は文化系で、楽屋の雰囲気も全然違う。
  • 太夫・三味線さんは、公演中の出番でないとき、空き時間に次の公演の稽古をしている。人形は基本的に稽古ができない。イメトレ(+普段からよく見ているしかない)。12月公演(12/3初日)は明日(11/30)から稽古。明日が第一部で明後日が第二部、通しはその次の日の1回しかない。この通し稽古が一番緊張する。客席に偉い師匠らが座っているので。ここで認められないと上へいけない。ある意味本番(初日)より緊張して、初日にはほっとするくらい。
  • むかしは足遣い10年、左遣い10年言うてたらしいけど(直前の勘十郎さんトークショーでは勘十郎さんは「ぼく30まで足つこてました」とコメントしていた)、いまは足遣い20年、左遣い20年。なかなか役がもらえない。いちばんいいのはいま60歳くらいの人。和生さん、勘十郎さん、(いまの)玉男さん。
  • 自分は子役が多くて、先日の大阪で出た志度寺(『花上野誉碑』)では坊太郎でかなり良い子役だった(ふふん♪)。(ダニエルさんから「赤ちゃんの役は?」という質問を受け)ハイハイしかしないような子役はもっと入りたての人がやる。いい子役がつくときはばーっとつく。でも子役の命は短く、演目のローテーションもあるし、人形遣い自身の年齢もあるので、つくのは7年くらいの間。50くらいのオッサンが子役やっててもね。配役には見た目もある。自分は子役の中でも最高齢。
  • 修行時代は男の足にも、女の足にもつく。そのうちどちらが得意かで分化してゆくが、自分は女形の勉強がもったいないので両方やりたい。(実演では女の人形の模範演技も見せてくださいました)
  • 若い頃はなかなか役がもらえず苦しかった。あるとき「どうせ黒衣だから」と茶髪にした(突然のヤンチャ告白)。人形遣い連中が「茶髪や〜!」とわいわいする中、偉い太夫さんが大激怒してハサミを持って追いかけてきた。とっつかまって玉男師匠の前に突き出されたが、玉男師匠は「若いんやったら、ええやん!」と言ってくれた。太夫さんは二の句が継げなくて、帰っていった。そんな玉男師匠も、若い頃、爺さん役を振られてヘソを曲げ、ヒゲを伸ばすというヤンチャをしていたらしい。自称・役作りとのこと。

 

┃ 海外公演

  • 入ったばかりのころ、玉男師匠がこれが(ご自身が海外公演に出るのは)最後だからと「フランス公演一緒に行くか?」と言ってくれて、嬉しかった。ついて行ってもなんの役にも立たないのに。当時は海外公演が3週間程度あり、兄弟子たちが師匠のために日本食を用意しておけと言うので、師匠の好物である南座のニシン蕎麦を休みの日に京都まで行って買ってきた。師匠喜ぶやろな〜❤️と思って、公演も半ばにさしかかったころにドヤッと出したら、「なんでここまで来て蕎麦食わなあかんねん」と言われ、大道具さんに配った(涙)。
  • 玉男師匠は「エビフライが食べたい!」と言った。でもレストランで「エビフライ」を何と言ったらいいかわからず、同伴の弟子は必死にエビポーズで説明。レストランの人がわかってくれて、エビが出て来たのだが、エビの丸焼きだった。自分が同伴したときは、師匠が「ハンバーグが食べたい!」と言うのでハンバーグを注文したのだが、中がレアというのか生焼けで、大丈夫かなと思ったがエエわ!と思って食べた。大丈夫だった。
  • 海外では舞台がはじまるのは夜8時くらいで11時終わり。ディナーを食べてから見に行くという時間帯に設定されている。開演時間まではすべて自由時間。観光が好きな人は「どこ行こ!?」と本当にあちこち行きたがるが、自分はあまり観光に興味がなくて、ホテルで読書したり(現地で売っている日本語の本を買う)、ちょっとあたりを歩き回ったり、美術館やお寺(教会)へ行くくらい。スペインへ行ったときは美術館へピカソの『ゲルニカ』を見に行った。ぼく、ピカソけっこう好きなんで。『ゲルニカ』はとても大きく、壁いっぱいの大きさだった。周囲にも製作過程のパネルなどが展示されていた。帰り、兄弟子が「ところで『ゲルニカ』ってどれやった?」と言い出したので、仰天した。
  • 海外公演でも、食事はお米が食べたい。最近は大都市なら日本食店がある。まえのフランス公演では一風堂へ行った。地方都市で日本食の店がない場合は、中華へ行く。中華はどこにでもあるので。

 

┃ 質疑応答

  • (会場からの質問:芸名の由来を教えてください)当時「翔」という字が流行っていたのもあるが、玉男師匠の弟子は「たまめ」「たまか」など、基本的に「玉+読み1文字」の名前。でもそのとき「もう1文字の名前ないねん」と言われた。「たましょう」だと、まえに読みが同じ「玉昇」さんという方がいたので、みんな呼びにくいと言って本名の「けい」で呼ばれる。芸名は実は玉男師匠からではなく、先に母親から知らされた。母親が決めたのではと思った。普通は「この中から好きな名前選べ」とか、師匠から言われるはずなのに……。師匠にはもう知ってますとも言えず、有り難みがなかった。
  • 芸名について、私が思ったこと。三味線弾きさんとかでもわりと今風のお名前の方いらっしゃいますが、やっぱりお師匠様によってはちゃんと流行(?)も考慮してくれるんですね。ちょっと大きくなってからつける名前なぶん、その人にあった名前にしてもらえますしね。「玉女」さんも、ご本人の外見のわりに可愛い芸名だな〜、わざと逆打ちしてるんかなと思っていたら、入門当時の写真を見たら涼やか美少年で、コリャ玉女でええわいと思った。やっぱりみなさんちゃんとつけてもらってるんですね〜。(当たり前だ)
  • (会場からの質問:修行は大変なことも多いと思います。厳しいと思うときはどんなときですか?)厳しいと思うことはない。(考え込んで)厳しいって、どういうことかわからない。これが普通だと思うので……。昔は舞台下駄で殴られたり蹴られたりしていたと聞いているが、いまはそんなことはない。残っているのは言葉の暴力(笑)? 玉路どう? いちばん実感しとるんとちゃう?(と促された玉路さんから、自分もこれが厳しいとは思っていませんというコメント)修行は好きなことだから楽しくやっています。つらいのは、何も言ってもらえないこと。厳しいというのはどういうことをいうのか、わかりません。(首傾げ)
  • (実演でダニエルさんから「佐渡の文弥人形は一人遣いで、左手は棒状のものを振り回している状態」と説明され)幕開き三番叟と同じですね。幕開き三番叟は二人遣い。左手は棒になっていて、こんな感じで(実演)、慣れないと結構大変です。
  • 人形は主遣いひとりで持っていると重いけど、うまい左や足がついてくれると(衣装の重さも軽減されて)軽くなる。下手な左がつくと引っ張ってきたりして、よけい重くなる。
  • (客席からの実演質問:主遣いが左遣い・足遣いに出しているサインというのは具体的にどういうものですか?)主遣いの出しているサインは人形の後頭部、肩にあらわれる(実演)。(質問:足遣いのかたはどうしているのですか?見えないのでは?)足は主遣いの足と同じ方向を出す(実演)。でもお客さんはそんなんわからなくていいんですよ。



若め〜中堅の技芸員さんの個人的なお話を聞く機会はいままでなかったので、とてもいいイベントだった。どういう気持ちで毎日がんばっておられるかの言葉が生々しい。あれもやりたい、これもやりたいという前向きな気持ちが感じられる。

そして、玉翔さんが本当に「おっしょはん」が大好きだったことがわかるお話だった。上にも書いたが、玉翔さんが入門したてのころ、若手の発表会で玉男師匠に出来を尋ねに行ったときの写真が印象的だった(ご本人はこのとき何を話していたかまったく覚えていらっしゃらなかったが、撮影したカメラマンの方が対談の司会で、会話内容を覚えておられたのだ)。あかるい光が入っているロビーのような場所の喫煙所で、窓ぎわのベンチに、ハットにコート姿の玉男師匠が座っている。カメラに背を向けて座っているので、玉男師匠の表情はわからない。紋付姿の玉翔さんはひざまずいて灰皿に手をかけ、すこしからだをのり出すようにして、真摯な眼差しで玉男師匠を見ている。目の澄み方はそのころから変わっておられないのだなあと思った。

 

と、いい話のあとで申し訳ないが、知り合いの方が「むかしは玉翔さんが一番のイケメンと言われていた」と話してくださるのをいままで「フーン」とてきとうに流して聞いていたが、この写真の玉翔さん、まじ凛々しいイケメンで、ほんまや! ほんまにイケメンやったんや!!! と驚いた。いやいまも大変な男前ですけどね!!! 

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