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文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

田宮二郎『白い巨塔』映画版vsドラマ版 ―昭和BL邦画列伝 第3夜―

前回更新からだいぶあいてしまいましたが、昭和BL邦画列伝、今夜は昭和実写BL界の巨塔、田宮二郎版『白い巨塔』について。

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白い巨塔』は旧帝大・浪花大学医学部を舞台に、苦学生から成り上がり野望に燃える財前五郎助教授が海千山千の魑魅魍魎たちをかきわけ、教授の座を射止めるべく権力闘争を繰り広げるという山崎豊子原作の社会派作品だ。権力欲という自身でも制御しきれない化け物に取り憑かれた財前五郎の傲慢さと戸惑いの揺れ動き、そして彼の親友でもありライバルでもある里見脩二との関係(ここ重要)が素晴らしい傑作である。有名作で何度も映像化・リメイクされている本作だが、有名な田宮二郎主演版は映画版(1966年)とドラマ版(1978年)があり、ちょっと見てみよっかな?と思い立っても「で、結局どっちを観たらいいの!?!?!?」と思われることも多いかと思う。どっちと言わず両方観て〜〜〜!!!!!!が私の偽らざる本心だが、どっちから入ったらいいの?という方へのヒントとなるべく、以下に映画版とドラマ版の概要とその違いを解説したいと思う。

 

 

┃ はじめに:あらすじと概要

はじめに、映画版・ドラマ版共通の最初のエピソードであり、最も有名であろう「教授選編」のあらすじをご紹介しておく。(ネタバレは抑えめにしてあります)

大阪、国立浪花大学。

医学部の中でも花形の第一外科の頂点に君臨する東教授は絶対的な権力を持ち、第一外科は彼の名を取って「東外科」と呼ばれていた。しかしその東教授も来年で定年退官。次期教授の最有力候補、東教授の弟子であり長年東教授を補佐してきた財前五郎助教授は若年ながら学問的な実績も臨床の技術もきわめて高い稀なる人物であったが、その一方、大変に傲慢で自信過剰な面を持つ男でもあった。涼しい顔で教授を無視してことを運ぶ財前助教授に嫌悪感を抱いていた東教授は、次第に医局員たちが気兼ねするほど財前助教授への憎悪の感情をあらわにするようになる。東教授は財前を教授にさせないため、母校である東都大学・船尾教授の紹介を受け、金沢大学の菊川教授を次期教授候補者に推薦。一方の財前助教授は、義父で産婦人科病院を経営する財前又一の縁故から、違う学閥が学内に入ることを嫌う同窓会・医師会をバックにつけ、東教授に徹底抗戦を仕掛けた。

こうして教授選の投票権を持つ医学部教授陣はおのおの私利私欲で東派、財前派、そしていずれにもつかない勢力に分かれることになる。財前派は財前又一の財力にものを言わせ金にあかせて買収工作を行い、東派は船尾教授の持つ権力を利用して医学界の重要ポストをエサに票を集めようとした。選挙を決定する浮動票読みに明け暮れる両派。そしてついに教授選投票日がやって来る。 

原作小説は現在、新潮文庫に『白い巨塔』全5巻として収録されているが、発表当時は『白い巨塔』、『続 白い巨塔』という正続編になっていた。映画版製作当時は正編までしか発表されていなかったため、正編の教授選編・医療裁判編をもとに構成されている。一方、ドラマ版は原作完結後に作られたため、続編を含めた原作全編が映像化されている。

映画版、ドラマ版ともに主演は田宮二郎田宮二郎は昭和を代表する美男俳優にして「傲慢で自信過剰のクッソいけ好かねえエリートイケメン役」を演じさせたら右に出るものはいない名優である。顔がいいのは見た瞬間わかるからいいけど、何を根拠にそんなに自分に自信があるんだってくらいのクソ尊大さがすばらしい。その尊大さはもはや清々しいほどである。傲慢エリートのバリエーションは警察キャリア、大企業の有望社員などいろいろあるが、本作では旧帝大医学部助教授と芸歴の中でも最高ともいうべきエリート役だ。田宮二郎の数々のエリート役キャリアの中でも『白い巨塔』でとくに良い点は、財前は単なるいけ好けねえエリートではないという点。財前は自信家で傲慢だが、一方で給料をもらったらすぐ郷里の母に仕送りするという親孝行な一面もある。財前は岡山の貧農の母子家庭の出で、母の希望と篤志家の支援で大阪の名門大医学部に進学、そしてこれもまた母の希望で、堂島の大きな産婦人科開業医の娘と結婚して婿養子になったという設定なのだ。また、他人を省みない尊大さがありながら、並みいる医学会重鎮の魑魅魍魎たちに比べれば精神的に華奢でまだまだ他人に遠慮しているという多面性を持つ。このあたりの精神的にアンバランスなキャラクター性が田宮二郎本人にぴったりで、本人がかなり熱を入れていたというのも納得できる。映画版製作当時は教授の椅子を狙う助教授にしては田宮二郎は31歳とかなり若く、無謀な野心家感があってこれはこれで良いのだが、ドラマ版では43歳と原作設定に近い年齢になっていて、味わいが出ている。

 

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で、みなさん以上のあらすじに肝心の里見くんが出てこないじゃないかと仰るでしょうが、ここが重要、里見は権力闘争と関係ない境地にいる、財前とは真逆の性格とスタンスの医師なのだ。

里見は内科の助教授で、研究主体で固い雰囲気の基礎医学から近年臨床に転向してきたという設定。財前とは彼が基礎医学の研究室にいたころの同級生で、困ったことがあれば相談もしあう仲。だがべったり仲良しというわけでもなく、何かあったら喋る程度で、実は里見はわりと財前の存在を気にしていない。だがそのぶん、里見は本作中で唯一財前その人そのものを正確に捕らえられる人物でもある。

映画版とドラマ版では、財前と里見は真逆の性格の友人兼ライバル……?ということは一緒なのだが、イヤ〜❤️ 真逆の性格の友達兼ライバルやて〜❤️ あざとすぎや〜❤️ どないしょ〜❤️ って感じじゃないですか?

私からすると、映画版とドラマ版での最大の違いとはこの二人の関係の描き方の違いなのだ。二人の関係のニュアンスが微妙に違う。ここが映画版・ドラマ版を比較して観るときの最大の見所だと思う(お前はな)。そして、里見は映画版・ドラマ版で俳優が違うため、それぞれの俳優については以下項目別本文にてご確認いただきたい。

 

 

 

┃ 映画版:明快で深遠、強靭なストーリーと、美男俳優の共演を楽しむ

先述の通り私は田宮二郎が「傲慢で自信過剰のクッソいけ好かねえエリートイケメン役」を演じている映画がしぬほど好きなのだが、その意味でも本作は田宮二郎の代表作だろう。本作は田宮二郎の美貌の絶頂期の作品であり、大映の撮影技術もあいまってひたすら「いとありがたし……」という言葉が漏れる。ご本人は当時通常はもう少しクールでさらっとした雰囲気なのだが、原作版では財前は男性的(要するにゴリラ系)と設定されているためか眉毛をメイクで少し濃いめにして、クドめの顔に役作りをしている。

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映画版の良いところはやはり脚本の緻密さだと思う。個人的にはこの点において原作よりもクオリティが高いと感じる。実は原作は結構紋切り型描写やその繰り返しが多々あり、クドく感じる部分も多い。映画では原作の通俗的な部分をカットし、物語全体のトーンをクールに処理している。そして、一箇所、原作から設定を大きく改変している部分がある。その改変している部分がうまくてうならされる。この改変部分がクライマックスの話のキモであり、最大のネタバレになってしまうので伏せるが、改変したことによってテーマの構造、メッセージがよりわかりやすく、より明確になっているのだ。

本作は社会派作品だと冒頭に書いたが、社会派として何を描いているかと言うと、設定上は医学界と大学組織の腐敗である。ここにそれだけではないさらなる社会性を乗せてくるあたり、さすが脚本・橋本忍だけあると思わされる。人間がまっとうに生きることを阻害する「社会」への怒りと悲しみと、それをお涙頂戴やいい話〆にせず現実にひきつけて描き切る覚悟。忍っちはすぐナレーション付き回想をぶち込んできたり(本作でも謎のナレーションパートが……)、やたら登場人物が切腹しようとしたりと、そのよくわからない性癖に引いてしまうこともあるが、やはり巧い。単調な感動話、あるいは勧善懲悪の社会問題告発話には持っていかないあたり、すばらしい。本作についてはまず映画としてきわめてクオリティの高い傑作であることをここにはっきり書いておきたい。

 

■ 

本作での里見修二役は田村高廣。昭和の銀幕において影のある美男子……いや、正確なことばを使えば「心のないクズ野郎」を演じさせたらこの人にまさる俳優なし。天下の大俳優・阪妻の長男、兄弟のなかでいちばんの美男子にしていちばんの名優にしていちばんのサイコパスオーラを放つ人。そしてうす顔系昭和美男俳優の中でも最高峰ではというほどの美貌で、この貴公子風で優しそうな感じ、いかにも女にモテそう。そして心がないというのがすばらしくないですか。すばらしいでしょ。

私のお気に入りは木下惠介監督『この天の虹』(松竹/1958)。ここでは製鉄工場の建築技師というエリートを演じているのだが、現場勤務の人々とは一線を画すエリートなのになんの気取りもなくひょうひょうとして誰にでも同じ態度で接するなんて、素敵!と思ったら大間違い。ヒロインに想いを寄せられ彼女に結婚の約束をしたかのように錯覚させながらも結婚する気はまったくなく、下宿先の奥さんにまで想いを寄せられそれをスルスルかわしながらも思わせぶりなことを言い、実際には別にどちらとも深い関係があるわけではなく、そのうえ実のところ誰にも関心がなくて、しかもその態度がすべて天然の為せるわざという、ありとあらゆる場所に無意識で火を放った上ガソリンをスプレー噴射して回る最悪の放火魔。人間の心というものを1mmも感じさせないド畜生名演技が八幡製鉄所の巨大な高炉をバックに高貴な輝きを放つ。木下惠介大先生とは男の趣味合わな~いと思っていた私だが、姿勢を正して「はっ、木下惠介大先生は最高であります!!!!!」と思わされた一本だった。

有名作としては勝新太郎とともに終戦直前の北支戦線を駆け回る落ちこぼれ兵士コンビを演じた『兵隊やくざ』シリーズ(大映/1965〜1972)。このときは超短髪でメガネをかけたインテリ兵士役で貴公子風のオーラは消しているが、クズ野郎っていうかどこに焦点が合っているのかわからないヤバい奴感が炸裂していてたいへんな好演だった。「どうせ戦争に負けたらみんなソ連兵に殺されるんだ!」とか言って憲兵を射殺するエピソードがとくに最高。心がないとしか思えない。

貴公子顔を活かした役だと、幕府に冷遇される地方藩の冷徹なご城代様役を演じた山内鉄也監督『忍者狩り』(東映/1964)が良い。大義のため、なんの躊躇もなく部下を見切る心ない演技が素晴らしい(結局心がない)。

と、突然田村高廣について熱弁してしまったが、田村高廣っていいよね〜。こいつが登場人物の中で唯一「心ある人物」役ってすごくないですか?

ただ、ここでいう里見の「心がある」というのは、エゴイズムが一切なく、患者のための医療と医学の発展に心を砕くという意味である。人間味というのはやさししさや思いやりだけで形成されるものではない。エゴイズム、私利私欲、わかっていてもやれない/やってしまう愚かな行動も含めての人間味であって、その影の側面を光でとばしてしまってはやっぱりつまらないのだ。その意味での人間味といったら財前はじめ魑魅魍魎のみなさんのほうが溢れ出るくらいにあって、その薄汚い人間味のうごめきが本作最大のおもしろさ。それと対極となる里見は学問的な業績はすぐれているが融通がきかない(あるいは御しやすい)と設定されている。

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さて、そんな財前と里見の関係だが、映画版での描写は実はわりとクールである。教授選とそこにまつわる人間関係に焦点をおいた構成となっているため、教授選に無関係でかつ関心がない設定の里見には派手な出番はない。里見は部外者として物語を俯瞰している立場に設定されており、ストーリーの核心からは一歩引いている。里見は患者の診療や治療に関し財前を頼ることがあり、財前も得意げにそれを引き受けるのだが(このあたりのエッヘン演技は最高)、財前が里見に頼るときは私利私欲のために彼を利用しようとするときであり、里見はそれを固辞する。結果、二人は道を分かつことになるのだが……。うーん、そういう意味では本記事の趣旨としては残念な設定ですな。そもそも忍っち自身があんまり男男萌え要素がないですからなあ。とにかく映画としてのクオリティとルックスは抜群なので、公式なにくそ、妄想でおらがドリームを増幅(ブースト)できる猛者のみなさんは是非映画版をどうぞ。

あと一応白衣マニアの方にお知らせしておきますが、写真を見ていただけばわかる通り、俳優の衣装は白衣じゃないです。白衣マニアの方は以下のドラマ版をご覧ください。

 

 

┃ ドラマ版:財前五郎という人間の心の明暗、里見との関係性を重点的に描く

  • プロデューサー=小林俊一
  • 脚本=鈴木尚之
  • 製作=田宮企画・フジプロダクション
  • 放送期間=1978年6月〜1979年1月(フジテレビ)、全31回

結論から先に書いてしまうが、ドラマ版では財前五郎という人物自体の明暗描写に力が入っており、社会の歪みを告発するニュアンスの強い映画版とは違った印象の作品に仕上がっている。

映画版と違うのは、財前は流され易いだけで、そこまでガッついているわけではない、というニュアンスの強調だ。ドラマ版での財前は、周囲の人間にかつぎあげられた神輿として描かれ、その暴走に本人がついていけなくなるような描写が見られる。これは原作版や映画版にもある描写なのだが、ドラマ版ではそのニュアンスをことに強調しており、それが最終回の展開に効いている。このような微妙なニュアンスの付加は財前だけでなくすべての登場人物に言えることで、登場人物をわりとパキッと色づけし、わかりやすいキャラクター的に描いている原作とは異なる点でもある。特に良いのは財前の義父の財前又一。堂島の産婦人科開業医である財前又一は身内に医学部教授を出したいばかりに、金と同窓会関係の縁故にモノを言わせて財前をゴリ押しする俗っぽい大阪のオッチャンキャラだが、俳優に曾我廼家明蝶を起用し、それだけの一辺倒ではない、金持ちならではの品のある遊びのうまい大阪人で、バカっぽい言動の中にも愛嬌の滲み出るチャーミングなジイさんに仕上がっている。曾我廼家明蝶が連れて来る同窓会関係の医学会重鎮のみなさんがまたやたらと面白い配役ですばらしい。これは観てのお楽しみ。ちなみに東教授(ドラマ版配役・中村伸郎)が恃みとする東都大学・船尾教授役は佐分利信、都会的なエリート感満載で、曾我廼家明蝶との対比にうならされる。

ドラマ版はすでに述べた財前・財前又一のほか、東教授の描写も重層的でとても上手い。実は東教授本人はきわめてまっとうであり、教授選はその渦中の当人たち以上に、利権にあやかろうとする周囲のおぞましい煽てによって彩られている。また、原作にもある描写だが、東教授の長年自分を支えてきてくれた財前への愛憎が描かれるのもドラマ版の見所である。

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そしてドラマ版でもう一つ重要なのが、財前五郎という人間にとっての、里見脩二という人間の大切さを大きな扱いで描いていることだ。映画版ではわりと決裂していた二人の仲だが、ドラマ版では友達だけど友達未満だけどやっぱり友達以上……みたいな、絶妙なニュアンスのある関係に設定されている。

財前は基本的に、すべての他人に対して建て前の表情を作って対応している。素の表情を見せるのは愛人のケイ子(太地喜和子)、そして同級生だった里見と接しているときだけだ。財前は婿養子で、義父の財力でもっていまの地位を築いた部分もあるため、妻にも本性は見せず、結構ビジネスライクに対応している。家庭でも素にはならない財前が甘えられるのはこの二人だけだ。

劇中だれもが財前の動向に注目するなか、里見だけは財前をとくに気にしていない。これは映画版と同じである。違うのは財前で、映画版にあるような里見への見下しのニュアンスが薄く、かなり彼を頼っているのだ。財前はときどき相談事で里見へゴロニャンとまとわりつくのだが(このときの猫なで声喋りが最高)、里見は自分の研究で忙しく「いま中断できない作業中だから」等で結構スルーしてくる。そういうとき財前は里見の用事が終わるまで横でホワーンと待っているケイ子と喋るときは自信満々饒舌にペラペラペラペラペラ喋りまくる財前も、里見の前では口調が変わってシュッと大人しくなる。財前自身はこれを「あいつは苦手なんだ」と表現している。でもそれ苦手っていうんですかね〜。……小学生か?? ほのぼのしちゃいますね〜。

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本作での里見修二役は山本學。この人、原作の里見のイメージに結構近い。映画版の田村高廣は地味め人物設定のはずの里見にしては顔よすぎじゃね?感があったが、山本學は地味めの脂っけなし、でもモテそう感がかなり里見のイメージにマッチしている。

ドラマ版での里見は映画版よりも聖人感が増しており、下手すると鼻につくことになりそうなのだが、なぜかサークラキャラになっていて謎の時空を形成していた。なにがサークラなのかというと、里見は財前だけでなく東教授の娘・東佐枝子にも信奉され思いを寄せられているのだが、里見は実は佐枝子の友人の夫なのである。里見はそれを察しつつもだいぶ終盤になるまでスルーし続けた結果、大炎上事件が発生する。正直、あれメッチャおもしろかったわ〜。そりゃそうなるだろって思った。そして、なぜか映画版に比べドラマ版の佐枝子は女性受けが悪そうなお嬢様キャラに設定されていたのもすごかった。映画版では配役が藤村志保で、佐枝子はかなりクールに設定されていたのに……。また、ドラマ版には里見にずっとくっついて回るメガネくん助手が設定されており、何があっても必ず里見についていく健気さが可愛いかった。

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ドラマ版は全31話と長く、教授選くらいまではテンポよく手に汗握る展開なのだが、以降は展開が少々緩慢で、若干厳しいものがある。しかしそこを我慢して是非最終回まで観てほしい。なぜなら最終回がこの記事の趣旨的な意味で一番すごいからである。

ここからは終盤のネタバレになるので、気になる方は読まないでほしい。

 

ドラマ版でも映画版と同じく原作の一部改変を行っており、その改変の中で最も有名なのは最終回の最後の部分。上にネタバレの警告を書いたのでいいだろう。簡単にいきさつを説明する。

ここまでの話…財前は教授選で立て込んでいた頃に食道ガンの手術を担当していた患者・佐々木庸平の術後の診療をせず、直後に佐々木がガン性肋膜炎で急死したことで遺族から医師としての職務怠慢、誤診であると裁判を起こされる。第一審ではその訴えは棄却されたものの、納得しかねる遺族から即時控訴され、控訴審が行われていた。

 

財前は誤診裁判控訴審終了後、裁判所で倒れ、胃ガンであることが発覚する。教授選で揉めて割れていた浪速大学医学部教授連も恩讐をこえて医療チームを結成し、引退していた東教授を呼んで緊急手術を行うが、末期状態で転移がひどく、手のほどこしようのない状態だった。しかし誰も財前にそれを告知できず、詳細をはぐらかされた財前は疑心暗鬼に陥る。だが里見は優れた臨床医である財前をいつまでもだまし通せるものではないと思っていた。財前は里見にだけは本当のことを言ってもらいたいと彼を呼び出して頼み込むが、里見も良性の胃潰瘍でただの疲れだとはぐらかす。そしてケイ子が見舞いに持って来たバラが枯れるのを待つまでもたず、財前は死去する。ところがその後、枕の下から遺書が見つかる。それは里見宛に書かれたもので、自分が末期の胃ガンだと気づいていたこと、その自己診断はきわめて精確であり、また今後の医学の発展のために献体すること、そして里見のいままでの友情への感謝の言葉が綴られていた。 

この紅涙をしぼる遺書、実は原作では里見宛ではないのだ。原作だと病理学教授で解剖執刀医の大河内教授宛となっており、実際の病状と寸分違わぬ自己診断、そして今後のガン医療研究のため病理解剖を行って欲しい旨が書かれていることになっており、設定としてはわりと冷静である。前述の通り、ドラマ版では財前と里見の関係をより重点的に描いているのだが、個人的にはこの遺書が里見宛というのが衝撃的すぎて、邪悪な私ですら身を乗り出した。だって感謝の言葉的な内容なら義父宛でもいいはずと思ったもん。それでも里見宛になっているとは、やっぱり財前くんは里見くんのことが好きだったんだね……。涙……。

そして、里見が最後に財前に贈ることばも心に残る。衝突することはあったけれど、里見だけは財前の本質を知っていて、ずっと見守っていたことがわかるのだ。これはぜひ、実際に観て確かめていただきたい。目の前の色々なものごとにどうしても焦ってしまう人には、とても響くことばだと思う。

 

そういう意味で、本記事的な趣旨としてはお勧めはドラマ版と言いたいところなのだが、先述の通り、ドラマ版は途中のダルさがかなり厳しいため、まずはDVDで言うと区切りの良い1〜3巻まで観ていただくのがいいと思う。まずここまで観れば皆が思っている『白い巨塔』の概要は押さえられるので「観た、観たで!!」という顔ができる。また、最終的に両方観るなら、話が整理されている映画版を観てからドラマ版に移行したほうがスムーズで、登場人物の膨らませかたを十分に味わえると思う。

以上、結論なく突然話ここで終了。どちらかしかご覧になったことのないかたは是非ご覧になってない方も観ていただきたいし、どちらもご覧になったことのないかたは是非両方観てねというのが私の言いたいことです。

 

ドラマ版 おまけ

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みんな見て。これがわたしたちが失ってしまったもの。テレビのアスペクト比がスタンダードサイズだった頃のドラマのため、画角におさまるためにメッチャ密着させられる田宮二郎&山本學。いまのような横長アスペクト比ではこの密着はもうありえないだろう。いまこそ言いたい。昔はよかった!!!!!!!!!!

 

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里見に頼まれた初期の膵臓ガン患者の手術を成功させた財前。それを里見くんに深く感謝され、握手を求められてドキッ////とするシーン(大学内のドロドロ事情により、本来はとても引き受けにくい手術だったのだ)。このキョドり感を嘘くさくなく演じられるのはさすが田宮二郎膵臓ガンの手術は滅多になく、外科医としてどうしてもやりたいから引き受けたのに、里見くんにこんなにも感謝されちゃうなんて……//// これで財前が調子に乗って飲みに誘ったのにスルーしてくる里見くんのサークラ気質がすばらしい。

文楽 10・11月大阪錦秋公演『増補忠臣蔵』『艶容女舞衣』『勧進帳』国立文楽劇場

第一部に続けて第二部を鑑賞。

錦秋公演の目玉として『勧進帳』を上演するということで、文楽劇場1Fの資料展示室でも勧進帳の企画が行われていた。モニタには歌舞伎の『勧進帳』と能の『安宅』、そして文楽の『勧進帳』の映像が流されていたのだが、第二部開演待ちのあいだに観ているみなさんの間に「エエからはよ文楽見せえや」オーラがみなぎっていた。

 

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1本目『増補忠臣蔵』。『仮名手本忠臣蔵』殿中刃傷の段で高師直を斬りつけた塩谷判官を抱きとめた加古川本蔵(配役・吉田玉也)の下屋敷に、主君である桃井若狭之助(吉田玉志)が訪ねてくるところから話がはじまる。

しょっぱなから「この人形、絶対阪神ファンだよね?」「阪神って江戸時代からあったんだ〜」としか言いようのない人形(井波伴左衛門、吉田玉佳)が出てきて話がまったく頭に入らずやばかった。なんであんなド派手な格好してんの? 大阪センス? そりゃ三千歳姫(吉田一輔)もすごい勢いでドン引きするよ。と思った。開演前に一応パンフレットのあらすじを読んだのだが、そもそも忠臣蔵のあらすじを理解していないせいで登場人物の関係とか時系列がよくわかんなかったんです……。教養がないというのは本当にあわれなことだ。加古川本蔵と三千歳姫が尺八と琴で合奏するあたりでやっと話が理解できた(最後すぎ)。いやあの阪神ファンがいなくなったからさ……。あと燕三さんが出てたから。

※ちなみにどういう話だったかというあらすじ……若狭之助の近衆(側役)・伊波伴左衛門の言によれば、桃井若狭之助が家老・加古川本蔵の屋敷を訪ねたのは本蔵を処分するためだという。井波は本蔵亡き後若狭之助らをも皆殺しにするため、茶釜へ毒を仕込む。それを物陰からこっそり見ている本蔵。屋敷には桃井若狭之助の妹・三千歳姫が預けられているのだが、姫を気に入っている伴左衛門はモゾモゾと近寄り「チミはポクリンと結婚するんだよ~ん(スリスリ)」と迫ってすごい勢いで姫にドン引きされる。三千歳姫には塩谷判官の弟・縫之助という許嫁がおり、かの一件により姫は彼と引き離されたことを嘆いて暮らしていたのだ。そこへ現れた本蔵がキモすぎる伴左衛門と姫の間に割って入って代わりに抱きつかれ、伴左衛門をたしなめるが、伴左衛門は逆に、かつて若狭之助が高師直に侮辱され斬り捨てようとしたとき(これは殿中刃傷の段より前の話)、本蔵が若狭之助への断りなく師直に賄賂を贈ってことおさめようとしたことで若狭之助は「諂い武士」と他の大名たちから陰口を叩かれるハメになったのだと非難。本蔵が下屋敷へ蟄居の身となったのもこのためだったのだ。そして伴左衛門は若狭之助の命により本蔵に縄をうち、庭へ引き出す。若狭之助は、かつて賄賂の件で彼を責めたとき、松の枝を切って見せて師直を討つよう励ましたではないかと尋ねるが、本蔵はそれは諌言のつもりだった(「松」の文字から「木」をぽきっと取ると「公」が残る、つまりは国家のためと言いたかったらしい)、主君が辱めを受けたいま、自分は死ぬのみと告げる。若狭之助は庭へ歩み出てスラリと刀を振り上げるが、その刃で斬り落とされたのは本蔵の首ではなく伴左衛門の首だった。驚く本蔵の縄を切り落とすと、若狭之助は、あのとき諌めてくれた本蔵のことは忠臣義臣と思っており暇遣いは心苦しいが、本蔵が塩谷判官の家老・大星由良之助に討たれる覚悟であることはわかっている、来世でまた忠義を尽くしてほしいと別れを嘆いた。そして本蔵が茶釜の湯を植木鉢の花にかけると花はたちまち萎れ、伴左衛門の企てが暴露される。若狭之助はさらにその忠義を讃え、餞別として三衣袋・袈裟・尺八、そして由良助への土産にと高師直の屋敷の見取り図を本蔵に与え、由良助の住む山科へ向かわせる。影からそれを見ていた三千歳姫は本蔵の門出の祝いに琴を奏で、虚無僧姿となった本蔵も若狭之助に請われてそれにあわせ尺八を吹くのだった。というお話でした。なお、尺八はお囃子ではなく、舞台下手で演奏家の方が実際に吹いてらっしゃいました。

あと、人形でとある役がトリプルキャストで、詳しくは言えないが、私が行った日は個人的に注目の方が当たっていて「おっ」と思っていたら、後ろの席の爺さんが「いや〜❤️」と盛り上がっておられた。そのとき、爺さんと私の心はひとつであった。

 

 

2本目『艶容女舞衣』。女芸人・三勝(配役・吉田簑助)と別れられず子までなし、妻・お園(桐竹勘十郎)を顧みず父母から勘当された酒屋の倅・半七(吉田勘彌)、お園はそれでも半七を慕っているという内容で、筋書きだけ見ると

「は???????????」

としか言いようのない話だが、出演者の演技力で圧倒という感じだった。なるほど、ありえない話も芸の力でこういう見え方になるのかと感服した。しかしこれ、演者が男性じゃないと無理ですね。お園役の勘十郎さん、これが初役とのことだが、フンワリ可憐な美少女人妻感がすばらしかった。女性がやったら地獄の果てまで追い詰める般若の形相になってしまうであろう、自分も人形も。

夜の部はとてもいい席が取れたため、簑助さんの演技を本当に間近で観られたのには感動した。最後のほう、心中を決意した半七と一緒に三勝が外から茜屋のなかを伺い、三勝がお通(吉田玉征)をもういちど見たさに門扉へすがりついて嘆く場面がちょうど目の前だったのだ。文楽だと人形を3人で操っているわけだけど、目の前で見ていると、まるで人形がひとりでに動いているのを3人がかりでおさえているように見えて……、小さな子供がウゴウゴぐずるのを親がおさえておとなしくさせようとしているようで……。とくに三勝が門扉にしなだれかかるところは簑助さんも右手をはなし、体から人形を遠ざけて演技をしているので、本当に生きているようだった。驚いたというよりも、恐ろしくて鳥肌がたった。三勝は設定的にはいまの感覚からするとどう考えてもド汚れキャラなのに、清楚で透明な、不思議な雰囲気に目が釘付けになり、あまりの美しさに気が狂うかと思った。半七の無茶苦茶な行動が理解できる気品と美貌だった。

ところで、お園の「今頃は半七様……」からはじまるクドキは大変有名で、昔はだれでも知っていたという話をよく聞くが、私は正直「まったく聞いたことねえ…… 昔っていつの話だよ…… 江戸?」と思っていた。ところが錦秋公演に行った数日後、加藤泰監督の『日本侠花伝』(東宝/1973)という映画を観たのだが、なんとここに出てきた。状況を説明するとちょっと長くなるのだが、大正時代が舞台の作品で、主人公の女は故郷・宇和島の大店の長男と駆け落ちして2年が経つが、ある事件に巻き込まれたことがきっかけで実家に居所が知れてしまう。男は宇和島から迎えにきた母と番頭にまったく抵抗せず、むしろコッチを無視してくるので、主人公はここで死ねば思い出は綺麗なまま、心中してくれと掴みかかるが、もみ合ううち本当に崖から海へ転落してしまう。そこへ通りかかった海釣り中の老侠客が海からふたりを救い上げ、自宅で介抱してくれるも、ふたりは目も合わさず無言。ここで彼女らを見守る老侠客・曾我廼家明蝶が「こんなことと知ったらば、去年の秋の煩いに〜♪」と突然歌い出すのだ。この映画、5年前にも観たことがあるのだが、そのときは義太夫をまったく知らなかったので、全然気づかなかった。「酒屋」のクドキって、昔は本当に有名だったんだな……。

 

 

3本目『勧進帳』。

キャアアアアアアアアアアアアアアア玉男様アアアアアアアアアアアアアアア❤️❤️❤️❤️❤️❤️❤️❤️❤️❤️❤️❤️❤️❤️❤️

って感じだった。私と、私の周辺一帯。

……と、結論から書いてしまったが、まず導入を言うと、私、これで初めて『勧進帳』の内容を知った。歌舞伎はさることながら能の『安宅』も観たことがないし、『勧進帳』は私の中で「名前とぱっと見のイメージだけ知っていて、内容をまったく知らないもの」の代表格だったが、こういう話だったのか。わりとストーリーがきっちりある内容だった。そのあらすじは、兄・義朝に疎まれ追われる身となった義経(配役・豊松清十郎)とともに山伏に化けて関所を抜けようとした弁慶(吉田玉男)は、義朝の命を受けた関守・富樫之介正広(吉田和生)の前に引き出され、矢継ぎ早の問答を受けることになるというもの。弁慶って頭いいんだなと思った(バカ感想)。

最後の引っ込みは花道を使った演出で超大盛り上がり。私の座っていた席は前方やや下手なので人形遣いのファンが固まっているのだろうが、みなさんキャーキャー状態だった。場内拍手の嵐の中、「玉男ー!」「玉男さん……❤️」コールが飛んでいた。

弁慶のみ全員出遣いで、左が玉佳さん、足が玉路さんだった。どんな人形でもそうだけど、左遣いのひとって「ぽわ……🌼」と野原にタンポポ一輪……的な感じで佇んでいらっしゃるのかと思っていたが、当たり前だが目がマジでこりゃ大変だわと思った。そうだよね〜、あれだけ人形から距離離れて正面がどうなっているかわからない状態でやってんだから、そりゃ真剣ですよね〜。今回は内容上、ぱっぱっと淀みなく小物の持ち替えをやっていかなくてはならなくて、とくに白紙の勧進帳を取り落とすと興ざめなので真剣そのもの。足遣いのかたは出てきたときから額に汗を滲ませておられ、本当大変だと思った。花道に出る場面だと人形遣いも全員全身が見える状態になるのだが、私の席は前方花道のキワで真横を通り過ぎるため、キャー玉男様ーっていうのもあるのだが、それと同等に、もう本当、足遣いがどれだけがんばっているかがよくわかった。周囲の席の人全員「「「「「足遣いのひと、本当がんばってる!!!!!!!」」」」」と絶賛だった。いやもう本当がんばっておられた。本当。

ほか、義経役の清十郎さんも、紫の薄衣をまとい、顔を笠で隠してさささっと走り去る姿など、とても気品があってよかった。このかた、切り花のような瑞々しい感じの気品が似合うんでしょうね。いっぽう白檀の香のごとき気品の和生さんは大型の人形で大変そうだったが、堂々としておられてさすがだと感じた。

 

文楽劇場には老若男女いろんなお客さんが来ているが、玉男様ガチ恋勢の爺さんたちおもしろすぎ。なぜか毎回私の席の周囲に玉男さんにキャーキャーやってる爺さんがいるのだが、あの爺さんたちホンマ幸せそうでうらやましい。私もあれくらい自由に生きていきたいと思う。いやでも爺さんたちの言う通り、玉男さんが男前で、そして思っていた以上に男前だったのは今回の『勧進帳』でよくわかった。爺さんたちは私の心の友なのだと思う。爺さんたちにはこれからもポックリいくまで思う存分叫んで欲しい。

 

今公演、昼・夜とも、平日上演にも関わらずかなり席が埋まっていて驚いた。やはり大阪はお客さんがみな楽しそうでワーキャーしていて、雰囲気がとてもいい。実際に観る……というか大阪に行くまでは、文楽って観客がこんなにキャッキャしてるとは知らなかったので……。もうちょっと渋い、終始シーンとした感じの芸能かと思っていた。(いや、東京はお客さんあんまりキャッキャしてないですが)

今回はバックステージツアーに参加できたこともあって、本当に楽しかった。大阪公演へ行くたびテンション上がって無闇に大喜びしている私だが、今回はいままででいちばん「大阪まで来てよかった」と思った。 

 

 

 

文楽 10・11月大阪錦秋公演『花上野誉碑』『恋娘昔八丈』『日高川入相花王』国立文楽劇場

大阪は遠い。

大阪11時開演に間に合わせるためには家を6時半には出なくてはならない。6時半て、いまの時期日の出6時15分くらいなんでまだ薄暗いんですけど……。東京駅構内の喫茶店は新幹線改札内のスタバしかやってないしさあ……。これで文楽劇場に着けるのは10時半。リニア新幹線はやく開通して欲しい。

 

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今回は夜の回の『勧進帳』で花道を使うということで、場内に入ると歌舞伎の劇場のように舞台下手側から客席後部に向かって花道が伸びていた。文楽劇場友の会の入会特典でもらった無料券でパンフレットを引き換えてもらったり、場内ウロウロしているうちに開演15分前。大阪は前方列しか座ったことがないため、後列だとどれくらい見えるんかいなと思い、三番叟をやっているあいだに二等席・幕見席の後部にまわって見てみた。おお、わりと見えるね。音の聞こえ方もいい。観光でちょっと観てみるとか、ためしに一度観てみたいくらいの人なら全然いいね。大阪は二等席が一等席の半額以下で驚異的に安価というのもうらやましいのだが、今回の幕見席は500〜1000円で出ているようで、この点もますますもって大阪がうらやましい。常時満席でないことをうらましいというのは技芸員さんや関係者の方々には不本意かもしれないけれど、東京は観に行っておもしろかったからコレもっかい観たいと思っても、どうしても席の確保が難しいので……。

 

まず1本目『花上野誉碑』。先日読んだ有吉佐和子文楽ものの小説『一の糸』の最後に登場する伝説的演目で、難曲とされているそう。大阪では19年ぶりの上演だとか。『一の糸』で三味線弾きが若い太夫に事細かな稽古をつけるシーンがあるのと、三味線弾きの弟子たちが「不吉な曲だ」と謂れと内容を解説してくれるので、オチそのものは知っていたのだが、ふーんなるほどね。そのオチにいくまでが結構長いのか。はじめは何の話をしているのかよくわからないのだが、寺に預けられている口のきけない少年・坊太郎(配役・吉田玉翔)が亡父の敵である源太左衛門(吉田玉男)にとっつかまり、ふところから桃を転がり落とすところから話が急展開する。

この桃は殿への献上品として育てられており、献上するまでは本尊へのお供え物にでもとってはならないとされているものだった。禁を犯した坊太郎を縁から蹴落とす源太左衛門、そこへ走り込んでくるのがみずぼらしい身なりをした乳母お辻(吉田和生)。お辻は必死に坊太郎をかばいその場はおさまるが、桃を盗んだのは事実だと知り、ひとのものに手をつけるとは子どもながら恐ろしいと坊太郎を叱責する。ところがこの桃は、金比羅権現へ坊太郎が喋ることができるようにと願掛けをし、食事を断って果物に命をつないでいたお辻のために坊太郎が摘んだものだった。このへん、喋れない坊太郎は言いたいことを砂の上に文字を書き、それをお辻が読み上げるのだが、砂の上に書いているとは思えない超長文でいかにも語り芸の文楽って感じで驚く。お辻は坊太郎のその気持ちを喜ぶが(いままでの話は一体)、あらためて坊太郎の本復を祈るべく「南無象頭山金比羅大権現」と唱え、尋常ではない形相で水垢離を行う。

いままでに私が見た和生さんはいつもとても優雅で気品にあふれるお姿だったが、今回は激情に身を駆られ情念溢るる役でびっくりした。お辻も出てくるときは「むさい穢いなり」と表現されているが、物腰自体は穢い印象ではなくしずしずとした上品さはキープされているので、この変貌は印象的。「サアサア物を言はしやれぬか言はしやれぬか」「これほどに祈請をかけ、命を絶って願うても、やつぱり物が言はれぬか」と、超困惑する坊太郎にグワグワとつかみかかり慟哭する鬼気迫りっぷりがすばらしかった。

三味線、ご出演のみなさんよかったが、今回いちばんいいとこを弾くのは清介さんだった。ところでそれとは関係ないんですが、太夫さんと三味線弾きさんとふたりとも頭が光ってると「おっ、今日はなんかいいことありそう!」って思いませんか。私は思います。

 

2本目『恋娘昔八丈』。夫殺しの科により、馬上、黄八丈のうえに水晶の数珠掛け姿で引き回された材木問屋城木屋の娘・お駒(配役・豊松清十郎)の話だが……、こういう漠然とした美少女話って、文楽だと映えるね。映画で生身の人間がやっちゃうとどうしてもその役者の外見や過去の役に引きずられて目が曇る。私、この手の美人女優主体の映画がどうも苦手で、いくら世間で美人女優と言われていても、自分の好みの人じゃないと観ていてしらけてしまう。好きな人だと良いんだけど。そのへん人形だと客が勝手に自分の思い思いの美少女を投影できますからねぇ。いや、もちろん文楽でもちゃんと美少女に見えるのは芸の力によるものであるとは承知しているが、やっぱり生身の人間が直接演じておらず、セリフも別の人が言っているのは大きい。

お駒が自分に惚れていると勘違いし、めでたく舞い上がる番頭丈八(吉田簑二郎)もかわいい。文楽に出てくる番頭とか店の下働きとかのバカっぽい顔のヤツが調子に乗って踊りながら何か喋る、微妙にイラっとさせてくるあの感じ、ウザかわいくて好き。

ところで肝心の婿殺しのシーンが飛んでいたが、今回の上演に入っていないのか、それとも、もとからないのか。そこが飛ぶので、番頭が謎の勘違いをして独り合点したあと、いきなりお駒が引かれてくる場面になり、マジでこの女がやったんじゃないのとも取れる、良い意味でちょっと不思議な印象になっていた。

 

3本目『日高川入相花王』。恋い慕う僧侶・安珍を追って紀州日高川の川岸へやって来た清姫(配役・吉田勘彌)だったが、安珍に言い含められた渡し守(吉田勘市)が船を出してくれず、姫は大蛇に化身して川を渡るという話。姫が川に飛び込むとき、本当に人形遣いごと飛び込むのか、驚いた。

大蛇の姿は着ぐるみ等でダイレクトに表現しているわけではなく、白い着物姿に長い帯をはためかせるかたちで巨大な白蛇を表現していた。かつ、早変わりで普通の姫の姿と入れ替わりで大きくうねる波間に現れるので、はっきりとは見えない。イロモノっぽい筋書きだなと思ったけれど、あんまり華美・下品な方向にはしないのね。そして川を渡りきり、柳の木にしがみついた姫は化け物の表情になっていてポーズを決めるのだが(仕掛けのあるかしら)、ここはすごい万雷の拍手だった。

しかしこれ清姫役やるかた、大変だね。上演時間は短いけど、体力ないと息が切れてしまいそう。ご本人の雰囲気との取り合わせか、勘彌さんは黒い振袖姿の美しい清姫がとてもお似合いだった。義太夫もとてもよかったし、満足の1本だった。

 

 

第1部、一体なんの3本立てなのかと思っていたら、激情に身を駆られる女3本立てだった。

 

激情に身を駆られる女といえば、『花上野誉碑』のところに書いた有吉佐和子文楽ものの小説『一の糸』、とても面白かった。若くして師匠を凌ぐ腕を持つ文楽の三味線弾きと、彼の音に惚れた東京の大店の箱入り娘の数十年にわたる縁の話で、大正〜戦後の文楽関係の実在の人物・出来事等をモデルにしていているのが読みどころ。もちろん文楽の有名な演目も出てきて、話の内容と演目の内容がちゃんとリンクしていたり(三味線弾きが20代と若いのに格が高い設定なのはいいとこを弾かせるため?)。前半は普通?の恋愛もので、恋に狂った娘が三味線弾きを追い地方巡業先の大垣の宿まで訪ねていって……など、有吉佐和子らしい女の情念がドロドロ煮えたぎる感じなんだけど、後半が文楽の内幕の話になっていて、こっちは話の方向性が違ってくる。文楽が好きなかたはこの後半のほうが読み応えがあるんじゃないだろうか。その内幕の話というのが、三味線弾きが長年連れ添った太夫と夫婦喧嘩をして「別れる!!」と騒ぎはじめ、ふたりは大スターなので周囲は必死になだめるが……という筋書き。え!?!? さっきまでヒロインとのロマンスの話してなかった!?!? 一区切りついた途端そっちにシフト!?!?! 三味線弾きは太夫の若いころからのお気に入りで、大師匠の死後その太夫から請われて組んで25年、喧嘩していてもお互いの芸を認めあっていて、共に床をつとめることが一番だとわかっており、しかも一緒に出演するとゴキゲンで、なんどもモトザヤにおさまりそうになるのだが……。三味線弾きの心中は会話のかたちで描かれているが、相手の太夫の心中は最後まで行動そのものでしか描かれないのが読みどころ。そして、決裂が決定的になった最後の舞台でふたり揃って出演する『絵本太功記』の十段目、「こんな殿御を持ちながら、これが別れの盃かと……」という場面には涙がこぼれる。本作、kindleでも読めるので、みなさまぜひご一読を。*1

一の糸(新潮文庫)

一の糸(新潮文庫)

 

 

 

*1:あと、この小説の中だと人形遣いはもろに身分が低くて、完全に見下されてました。本当かどうかは知らないが、むかしはここまで身分差あったんだ……内幕でそんなことせんでも……と思いました。