TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 9月東京公演『良弁杉由来』『増補忠臣蔵』国立劇場小劇場

なんでこんな渋い演目の取り合わせかというと、明治150年記念企画だから、らしいです。両方とも明治期につくられた演目だとか。道理で人死にが少ないと思いました。

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『良弁杉由来』。

 
 
 
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正月に大阪で観たしぃ〜。

とのんびり構えていたが、違った。大阪の方には申し訳ないですが、東京公演のほうが圧倒的に良いです。特に和生さんの渚の方。本当にそういう人がそこにいるようで、逆にここの所作がよかったあそこの仕方が好きとかの感想が特にない。なんか普通にそういうおばあさんがいます、状態と化していた。なんなら和生さんの記憶がない。ただ人形が動いているという現象がそこにあるだけ、まるで絵本を見ているみたいだった。特段個性がどうこうという芝居ではない。すべてが的確で、背後に人形遣いが立っていることを感じさせるような余計な動作がない。新聞の劇評に「手堅い」と出ていたが、まさに「手堅い」感じだった。あえて言えば、「志賀の里の段」で舞を舞うところ、「桜の宮物狂いの段」で桜の枝を子供に見立てて抱いたりあやしたりするところが美しかった。

今回は上演資料集を買ったのだが、そこに文雀師匠の芸談が再録されており、興味深いことが書かれていた。少し長いが、引用する。

 文楽では大役・難役とされる三婆というのがあります。『道明寺』の覚寿、『川中島』の勘助の母、『綱盛陣屋』の微妙を指しますが、私は、今月遣わしてもらう渚の方は、見方を変えれば三婆以上に難しいかもしれない、と思っています。
 例えば『桜の宮物狂ひの段』ですが、ワシに愛児をさらわれて永い間、気の違っていた渚の方が、淀川の水面に映った自分の姿を眺めるうち、次第に心が澄んできて正気に戻るくだりがあります。浄瑠璃ですと
 〽わが俤(おもかげ)の水の面、変り果てたる顔のなみ。ふっと気のつく渚の方。『ハアここは所もいずくぞや。アゝ浅ましや浅ましや…』
 となる部分ですが、ここが実は滅法難しい。つまり、正常の状態から物狂いに移っていくのはさして困難ではありませんで、この場は物狂いから正気に返る逆の変化をたどるわけです。顔の表情であらわすわけにはいきませんし、体全体を遣ったって、“心澄む”という表現は完璧に出来るはずもありません。毎日毎日、人形をどう遣えばお客様に変化が伝わるかを思案して、いまも悩み続けています。

−−渚の方の心情に私の心を添えて…「良弁杉」の吉田文雀吉田文雀・談、川崎一朗・記

映画などでは「正気から狂気」への変化はよく目にするが、たしかに「狂気から正気」への変化は見たことがない。正月公演では何の違和感もなく流して見てしまったが、この文章を読み、今回和生さんがどうされるのかをよく観察してみようと考えた。その切り替わりをどう表現されるのか。該当の場面には脇役の人形は出ていないので、独演になるはずである。それはもっとも興味深いシチュエーションではないか。

結論からいうと、具体的にどう演じるのかは、この文雀師匠の芸談のうちにすでに書かれている。浄瑠璃では「ふっと気のつく渚の方。」となっているので、どこかを契機にパチンと切り替わるのかと誰もが思うだろう。しかし実際には、「淀川の水面に映った自分の姿を眺めるうち、次第に心が澄んできて正気に戻るくだりがあります。」という言葉の通り、川岸の柳のたもとに佇む渚の方が左手を柳の幹に置き、右手で長くしだれた柳の葉をつかみ、珠のすだれのような無数の柳の細い枝のすきまから水面を見て、わずかにゆっくりと顔を動かして真正面を向く、その顔を動かす時間のあいだに「次第に心が澄んできて」正気に戻るのである。つまりグラデーションがあるのだ。その変化の仕草として一番大きいのは目線のつけかただろうか。前半の物狂いのあいだは目線が不安定だが、正気に戻るとだんだん目線が的確になってくる。ただ、物狂いの目線の不安定さというのはわざとらしく変な方向を向いているといったような大げさなものではなく、なんとなく目線がおかしいとわずかに感じる程度で、あくまでニュアンスの演技だ。このあたりはさすが和生さんだと感じた。顕著にわかるのは、下手から入ってくる奈良行きの船に渚の方が乗り込んでから。彼女は船に乗っている客と視線を交わし会釈して頷きあう。前半の物狂いのあいだに心配して寄ってくる村人とは視線を合わせることはなく、彼女が見ているのはあのときの鷲が飛び去った空の彼方なので、この仕草は印象的である。もっとも、正気への変化は人形だけで表現されているわけではなく、義太夫も合わさってはじめて表現されることだと感じた。とはいえ義太夫はあくまで客観的というか、Before/Afterで露骨に変化するわけではないのだが……、うまく言葉にできなくてもどかしいが、正確に渚の方の心情を表現しているぶん、何に・誰に向かってそう話しているかの目的が見えるか見えないかというか……、やはり、語りもすこし違うような印象を受けた。

良弁〈吉田玉男〉は、回による波があった(2回観た)。わずかなことだけど、袂を直す所作がいかに的確かとか、向き直る所作にいかにブレがないかとか……。すこしの変化がかなり目立つ。衣装が特殊で、目に鮮やかな赤い僧衣がほんのすこしの余分な振動も伝わるようなとろみのある生地なのと、ほとんど動かない高僧という難役ゆえにごくわずかなところが波になって見えてるんだと思う。良弁は舞台に入ってきてまもなく、二月堂に向かってゆっくりと二礼する所作がある。普通に見ているぶんには人間が礼をしているかのような至極自然な動きに見えるけど、いかんせんお人形さんなのであれがもう本当に大変そう。そして袂の返し方は相当難しいのでは……。左手側はかなり上手く返していたが……。大変。でも、私の思う玉男さんの良弁のよさはそういう部分とは別次元にあって、それは何十年別れていても良弁が渚の方の子供であること、それが素直に、リアリスティックに出ていたのが好きだった。そのシンプルな清澄さ。最後に抱き合うところなど、老母と青年僧なので、良弁のからだに渚の方が低い位置から抱きつくかたちになるんだけど、感覚的には逆、幼い童子が母に抱きついているように見えた。ふたりの関係は鷲にさらわれて別れたときのままなのだ。そういう、現実的に人形そのものの姿かたちが表すものを超えたピュアさが良かった。渚の方も含め、人形浄瑠璃だけが表現できる感情の純粋さ、感情そのものが形をなして動いているような光景だった。

ちなみに良弁の芝居で私が一番好きだったのは、最後に、渚の方に錦の袋のついた錫杖(?)を少しかがんで渡すところ。もう本当に最後のほうでお客さんも大概落ち着いてきている場面で、所作として見所でもなんでもないと思いますけど、渚の方の手にそっと錫杖を握らせる手つきのその優しさにはっとさせられた。芝居の根幹を左右するところではないが、玉男さんはこういったなにげない手つきの優しさがいい。大きな動きというのは誰にでもできるけど、わずかな部分にその人形遣いの個性が出るということばを思い出した。*1 

床は津駒サン+藤蔵さんほかの「桜の宮物狂いの段」、千歳さん+富助さんの「二月堂の段」ともにとてもよかった。「二月堂の段」では渚の方が良弁の前に引き出されたあたりから隣席のおばあちゃん(それこそ渚の方とおなじ年輩)が泣き始め、二人が名乗り合うところでは逆隣のお姉さんが泣き始め……。かく言う私は「桜の宮物狂いの段」で気が触れた渚の方がわらべ歌(?)を歌うところがあまりに哀れで泣いてしまった。津駒サンが掛け合いのところに配役されているのは非常に納得しかねる部分もあるが、この哀切がモダンに表現されていること、そして彼女の悲しみと裏腹に季節は華やかに桜が咲き誇る春であることのアンビバレンスな両立は津駒サンの語りならではなので、たしかにある意味では的確な配役であるとは思う。やはり雰囲気をねじ伏せられる太夫三味線の力量というのはすごい、と感じた。夜の部の某段はかなり大炎上してたんで……。

 

瑣末ネタ1。休憩時間は大阪公演と同じく「志賀の里の段」に出てくる鷲のデカさに客席の話題持ちきりだった。あのデカさならさらわれても仕方ないよね〜普通諦めるよ〜という同情の嵐。鷲がデカすぎてそこにしか視線がいかなくなり、いつの間に渚の方のティアラがなくなったのか、いつの間に乳母〈桐竹紋臣〉が光丸〈吉田玉峻〉(背中にもろカラビナがついていたのがナイスだった。登山家?)を離したのか、よくわからなかった。大阪では鷲が上空を周回していたように思ったが……、今回の鷲はわりとすぐに飛んでいってしまった。あと、碩太夫さんは単に太夫の末席に並んでいるわけでなく、鷲役なのね……。頑張っておられた。

瑣末ネタ2。「桜の宮物狂いの段」の冒頭に出てくる吹き玉屋〈吉田勘市〉が最後に飛ばすビッグなしゃぼん玉は、キラキラ入り風船を使っていた大阪公演と異なり、本当に浮かんでいる大きめの風船になっていた。そして、千穐楽ではこの風船にデコレーションが施され、客席が盛り上がっていた。

最後にネガティブなことだけど、「二月堂の段」で上手のほうに並んでいる脇役人形さんたちの中に傾いているお人形さんがいるのが気になった。人形遣いが寝ているのか、それとも起きているのに人形が傾いているのか……。後者ならやばいと思う。いや前者もやばいけど。人形が傾いて見えるのには様々な要因があるそうだが、とにかく大変気になるのでがんばって欲しい。でも二月堂はほんと、客席含めてその場にいる人全員の根気勝負だと思う。

 

↓ 2018年1月大阪公演の『良弁杉由来』感想。

 

 

 

『増補忠臣蔵』。 

 
 
 
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個人的に9月公演最注目の演目。なぜなら我らの貴公子(プリンス)・玉志さんが本蔵に配役されていたから〜〜〜〜〜。

2年前に大阪で拝見したときは本蔵役は玉也さんで、玉志さんは若狭之助役だった。なので今回は役がランクアップ、楽しみにしていた。玉志さんの武士系じいさん配役といえば去年観た熊谷陣屋の弥陀六のカクシャク具合が印象的だったが(異様に凛々しいジジイで時空が歪んでいた)、今回はどうなるかなーと思っていた。それで実際観てみると本蔵の勢いにびびった。とにかく覇気がすごい。80万石以上あるとこの家老では!?!?!?って感じだった。いま調べましたが若狭之助の領国というのは石見国津和野藩らしくて、赤穂事件が起こったときの石高は4万3千石(wikipedia調べ)なので、18.6倍に石高UP。これならあの場で若狭之助がぶちきれて高師直を🔪していても上杉家をプギーとも言わせず張り倒せる。いやこの勢いならむしろ徳川家の家老役でもいけるというエッジの立ち具合に常軌を逸した何かを感じた。『赤穂城断絶』とか『柳生一族の陰謀』の中村錦之助状態の、完全にヤバいジジイになっていた。

本蔵はそんなにド派手なアクションがあるわけじゃないけど、すべての動作が異様に速いというか、目をギョロリと動かすとかの浄瑠璃に対する反応速度が超速い。人形って言葉からワンテンポほどおいてその動作をすることも多いと思うんだけど、そのワンテンポが0.01テンポくらいしかない。ずっと本蔵を見ていないと、浄瑠璃を聞いて本蔵のほうを見たときにはすでに動きを完了しており、動作を見逃す。突然、プロシュート兄貴のことばを思い出した。この人は人を殺したことがある人ですな。と思った。

しかしそのせいで若狭之助〈吉田玉助〉よりも本蔵のほうに勢いがある。若気で至っているのは本蔵ではないかと思われるくらいの前のめりぶりだ。た、玉助が勢いで負けてる……! ここで勢いで食われたら出てる意味ないぞ、競り負けるな、がんばれっ!!!!と思ってしまった。でも若狭之助はすこし体を傾け右肩を下げ気味にしているのが遠山の金さん風(?)で若気の至り感が雰囲気出ていて良かった。

シャープな印象がより鋭く研ぎ澄まされて、先日の光秀もそうだったけど、最近の玉志さんチョット違う……。時代劇映画でいうと、三隅研次作品に出てきそうな潔癖なドライさと怜悧な清廉さがある。いままでは洗練された所作が美しい、凛々しく清澄な人だと思っていたけど、これからはきっとそれだけの人じゃなくなるのだろう。12月の『鎌倉三代記』の佐々木高綱役が本当に心から楽しみ。

あとは井浪伴左衛門〈吉田玉佳〉がやっぱり「この人形、絶対阪神ファンだよね?」「阪神って江戸時代からあったんだ〜」としか言いようがない感じで最高だった。人形は出が勝負で難しいと芸談などによく書かれているが、井浪伴左衛門は出からして小物オーラとキモオーラに満ちており拍手で迎えられていた。座ってからもせわしなく足をモゴモゴと微妙にばたつかせ、カサカサ動いているのがキモすぎて、三千歳姫〈吉田一輔〉がはじめからキモがらないのが不思議なくらいだった。なんかしきりにウゴウゴしてるんだよ。普通、あんな格好でせわしなくゴソゴソしてる人とははじめから一切口聞きたくないと思う。三千歳姫は途中まではまともに対応しているところが本当に偉い。全身黄色と黒のシマシマの人が電車で隣の席に座ってきたら、普通、席を立つ(江戸時代に電車はないし姫は電車に乗らない)。

前々から不思議に思っているのだけど、キモ腰巾着キャラやキモ番頭キャラがよくやる謎のセクハラ、あれはどれくらい「やる」ということになっているのだろう。どれくらいというのは、文楽人形のセクハラってだいたい「ひざに頰ずり」とかじゃないですか。でもその度合いに演目や配役によってやや違いがあると思う。今回の『増補忠臣蔵』の井浪伴左衛門だと三千歳姫の袖を取って顔を擦り付けるっていうか拭く(顔の脂がつきそうでものすごくキモい)というマイルドなセクハラだった。もっといってもよさそうなところ、そこはさすがに身分差設定による遠慮だったのだろうか。とはいえ、演目によって胸を掴むなどのもっとダイナミックな行為に及ぶ人(人形ね!)もいるそうだし、幼い子供が母親に甘えてる状態になっている人もいるので、それは演技として昔から決まっていることなのか、人形遣い同士の関係によるアドリブなのか、事前の打ち合わせで決めていることなのか、気になる。今までに見たセクハラで一番印象に残っているのは、おととしの『伊勢音頭恋寝刃』でお紺(簑助さん)が岩次(だっけ?確か玉輝さん)に膝に頬ずりされて、めっっっっっっっっっっちゃ嫌そうに顔を背けていたこと。あの嫌悪ぶりはすごかった。あともういっこは詳細を秘密にしときたいんですけど、あるとき見たものはセクハラされる側の人形遣いがおにいさんで、する側が若めの方だったんだけど、もう、する側の方のおにいさん大好きぶりが演技に出ていて、ママと坊や風で可愛かった。

さいごに三千歳姫が琴、本蔵が尺八で合奏するところ、本蔵の尺八の吹き替えはどうも下手の御簾内でやっているようで、本当に人形が持っている尺八から音がしているみたいで不思議だった。マジカルぶりにキョロつく客席。本蔵はさすがに指を動かせないのだが、三千歳姫は上手の一間で器用に琴を弾く。床でホンモノの琴を演奏している燕二郎さんのお手元と見比べてみたが、わりと手のフリが合っていて驚きだった。人形遣いさんたちが曲を覚えておられるということだと思うけど、よく観察していると手の動かし方が結構合っているのだ。そして、あの微妙な前傾姿勢を続けるのも大変だろうなと思った。

以上は人形の感想だが、『増補忠臣蔵』は床が大変よく、滋味ある枯淡な演奏で中堅層の人形を見事に引き締めていた。渋い演目ならではの派手さを抑えた静かな聞きどころが多かったと思う。ディテールある語りはさすがベテランだと思った。手すりと床のこのバランス、いいなあ。

 

↓ 2016年10・11月大阪公演の『増補忠臣蔵』感想。あらすじ付きです。

 

 

 

 

冒頭にも書いたとおり、このプログラム編成は明治150年記念事業によるものだが、良弁杉ってぶっちゃけ和生さんいなかったら上演できないと思う。万が一、和生さんがお風邪でも召されて休演なさったら、あの3時間どうやって間を持たすつもりだったのか。覚悟が決まりまくった演目だと思った。しかし本当に演目選定が渋すぎて、首の転がり数に物足りなさを感じた。というのは冗談で、やはり1演目は普通に近世の時代物をやって欲しいところだった。おそらくほとんどの観客がそう思っているだろう。

ところで国立劇場のインスタ、最近やっと技芸員名タグをつけてくれるようになったんですが、なんで玉志さんにはタグついてないんでしょうか。番付の格で区別してるのか? それともご本人が拒絶なさってるんでしょうか?????

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:そういえば第二部・夏祭の磯之丞役の勘彌さんの、気づいたら女の肩に手ェ回してるさりげなさすぎの所作も最高にゴミクズでよかった。もちろん、めちゃくちゃ褒めてます。