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文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 トークイベント:竹本住大夫「文楽と国立劇場の50年」伝統芸能サロン

国立劇場主催の事前応募制イベント、2016年11月30日(水)開催。書いております通り、私、今年の2月に文楽観始めたので、住大夫さんの現役時代にカスリもしていないが、せっかくなので行ってみた。

形式は、司会の文楽劇場の企画の方(師匠のお気に入り?)が住大夫さんのお話を伺うというもの。一応テーマが「文楽国立劇場の50年」なのでまず国立劇場開場の話からのはずだったのだが、三和会時代のメチャクチャ話から引退の日の思い出へと話がアッチャコッチャしつつも、司会の方がなんとかがんばってまとめていた。

以下、住大夫さんのお話の簡単なまとめ。すべて優雅な大阪弁で話されていたのですが、ネイティブスピーカーじゃないので再現できず。標準語訳させていただきます。お名前は、特記なき限り当時です。

 

┃ 三和会時代と国立劇場の開場

  • 国立劇場ができたときまず思ったのは、「これで東京の我が家ができた」ということ。ホッとした。三和会時代は三越劇場が拠点だったが、そのころの三越は建物が古く、音響は悪いしステージは狭いしでひどかったので。国立劇場は目の前が皇居で隣が最高裁で、「こんなとこででけるんかな?」と思った。場所が不便なので、お客さんの足が心配だった。
  • 三和会では悪戦苦闘して、あのころは本当によく耐えたと思う。東京と大阪で公演していたが、大阪はそのころから入りが悪かった。1000円のギャラのはずが入りが悪いと700円だったり。生活は苦しかったが、貧乏に負けたらいかんと先代の燕三さんとよく言っていた。
  • 地方巡業は鈍行だった。途中で急行や特急に抜かれる。東北地方での公演で夜行に乗るにしても寝台には乗せてもらえなかった。入りの悪い小屋(興行主)は待遇も悪い。旅館でハンガーがないと言ったら「向かいの店に売っている」と言われたり。朝食で漬物がなくて、燕三さんが「漬物出せ!💢」と旅館の人に言ったら、「金払え!」と返された。「刑務所より待遇悪いわ!💢」「刑務所行ったことあるんか!」「昨日帰ってきたわ!💢」と言い合いになった。
  • 三和会の公演では、4つ外題をやるとして、2つ自分が出るとしたら、出ていないときは、人形遣いの人手が足らないので、人形の足を持っていた。たとえば「酒屋」のお園なら、動きの多い前半の難しいところは本職(人形遣い)が持って、じ〜っとしている後半の足を持っている。その経験は「人形遣いはこうしているのか」と勉強になった。ツメ人形も遣ったことがある。ほかには介錯。紋十郎師匠が『勧進帳』の弁慶をやったときは、小道具を渡す介錯をやった。あれも結構大変。紋十郎師匠は女形だったので弁慶もやわらかい、やさしいところがあったが、初日から落日までビシッと決まっていた。先日の大阪公演で『勧進帳』が出たが、勘十郎くん(当代)に「わしがやったときのほうがうまかったで〜」と話した。勘十郎くんは「そうでんねん、芝居気があらしまへんねん」と言っていた。(←突如発言を暴露される勘十郎さん)
  • 生活が苦しいので、アルバイトで映画にも出た。溝口健二の『西鶴一代女』、大夫役。三越劇場の公演中に。でもそんなことがバレると首が飛ぶので、楽屋へかつら合わせに来てもらったときは楽屋の前に見張りを立てた。公演が終わってからいまの枚方パークの場所にあったスタジオへ行った(このあたりよくわからなかった、間違っているかも)。出演シーンで一言のセリフに何度もNGを出す俳優がおり、何度もリテイクがかかった。みんな待っているということで、監督が諦めてOKになった。夜食は玉子丼だった。終わったら朝で、そのまま三越劇場へ直行した。暗い映画だった。
  • ほかにも藤山寛美の出ていた「俺は国宝や」(? 聞き取れず)というドラマにも出た。手紙を代読するシーンで、浄瑠璃調に読んでしまい、みんなに笑われた。
  • 国立劇場の開場記念では大夫・三味線全員で『寿式三番叟』に出た。あのときは本当にみんな揃っていた。今はバラバラ(文句ありげなニュアンス)。
  • 国立劇場の研修制度ができて、文楽は本当に助かった。当初は東京で開講していて、1授業1時間20分だった。

 

┃ 修行と弟子への教え

  • 文楽もこの50年でよう変わったなあと思う。
  • 自分は悪声だったが、口さばきだけはみんなに褒められた。心がけていたのは、上手にやろうとしてはいけないということ。弟子にも上手にやれと言ったことはない。百点満点は取れなくていいから、基本に忠実にやれと言っている。下手が上手ぶってやるのはひどいことだ。むかし三越劇場で『菅原伝授手習鑑』に出たとき、上手くできたと思って意気揚々と楽屋へ帰ったら、楽屋の前に師匠が立っていて、おもいっきりひっぱたかれたことがある。
  • 昔はたくさんの人のところに稽古をつけてもらいに行った。たとえば入院中の弥七さんのところへ押しかけたり。「わし入院してまんねん」と言われたが、拝み倒してなんとか病室で稽古してもらった。はじめは大人しく静かにやっていたが、だんだん盛り上がってきて、看護婦さんが様子を見に来るほどだった。「明日もまた来ます!」と言ったら、弥七さんはまた「わし入院してまんねん」と言った。ほかにもしつこく京都在住の〇〇師匠(聞き取れず)のところへ通って「明日もお願いします!」と言っていたら、「あんた、好きでんな〜」と呆れられた。〇〇さん(聞き取れず)は稽古より稽古のあとの話が長い。昔の名人の話などを聞かせてくれる。それも勉強になった。大夫に稽古をつけてもらうのと、三味線弾きに稽古をつけてもらうのとでは違いがある。若大夫さんの稽古(大夫の稽古)は横綱のぶつかり稽古みたいなもので、ドンと来い!と言ってもらって、クタクタになる。喜左衛門師匠の稽古(三味線弾きにつけてもらう稽古)とは疲れ方が違った。
  • 代役も大切な勉強。若い頃、やったこともない大役が代役で回ってきた。しかも山城掾の直前。みんなに褒められ、千穐楽までつとめた。代役はいろいろやらせてもらって、勉強になった。稽古をしていなくても、普段からいろいろ聞いていたので、つとめられた(すみません、このあたり記憶あいまい)。
  • 弟子に常々言っているのは、「大阪弁を大切にしなさい」ということ。文楽の大夫がなまる(大阪弁でない)のは許せない。日本にはいろいろな言葉があって、標準語(東京弁)は標準語で大切にしなくてはいけないが、浄瑠璃では大阪弁が大事。学校では標準語で勉強を教わるからか、いまの弟子は楽屋でも標準語で話している。どついたろかと思う。大阪弁で話しなさいときつく言っている。大阪出身者以外は言葉自体はちゃんと言えていても、イントネーションのニュアンスがちょっと違ってしまう。むかし、燕三さんがよく「(三味線の)音がなまっとる〜!!💢」と言っていて、当時は何を言っているかわからなかったが、いまならわかる。それは指使いのことだったと思う。
  • 舞台の前に気をつけていること。食べ物は、果物、アルコール、炭酸飲料は摂らない。寝不足もいけない。腰が決まらない。深酒、夜更かしもだめ。自分はお酒がダメなのでいいけど。勘十郎くん(当代)は本当によく飲む。お父さんもそうだった。がばがば飲むので、お父さんみたいになるでと言っている。勘十郎くんは最近、「人形がひとりでに動く」と言っている。(って師匠、その語順で話してしまうと勘十郎さんがアル中の妄想に取り憑かれてるみたいなんでやめたってください!!)
  • 人形も三味線も、目をかけているのが3人くらいいるが、大夫は……。弟子で、最初の面接のとき、「わたし、ゆとり教育なんです」と言ってきた子がいるが、「文楽にゆとりはないで……」と言ってあげた。その子、まだいますけどな。
  • 弟子にはほかの業種の人と付き合いなさいと言っている。いろいろな業種の人(ご贔屓さんを指しているようです)と付き合えるのは技芸員の特権だから。
  • 浄瑠璃は字と字のあいだで語れと言っている。切るのと音を止めるのとは違う。その拍子の取り方(実演)。たとえば「酒屋」でも、半兵衛はぜんそく持ちだが、ぜんそくの咳は難しい(実演)。肺病の咳とは違う(実演)。理解できない弟子には病院行って聞いてこい!と言う。
  • 浄瑠璃は「音(オン)」が大切。浄瑠璃は日常のことばの延長で、むかしは電車のアナウンスにも「音」があった(実演)(筆者注:メリハリや息遣い、伸ばし方、間の取り方のこと?) 。義太夫は三味線の音と音のあいだに声を出し、声がかき消されないようにする。昔、燕三くん(? 当代)を研修で教えているとき、(三味線の音と音のあいだに発声していることをさして)「三味線に合いますねえ」と言ってきた。「あわいでか〜」。でも、音と音をあわせにいってはいけない。
  • 公演で、出来に納得がいってスッキリするのは公演中2、3日くらい。ほとんどの日はもやもやする。舞台稽古初日は緊張する。2、3日目から本調子。NHKの収録だと、「キュー」という合図でやらされるのがいやだった。あれだと間もなにもない。

 

国立劇場での演目

  • (司会者より、国立劇場企画の公演は希少な演目も多いという紹介を受け)『国言詢音頭(くにことばくどきおんど)』が記憶に残っている(文楽劇場/昭和59年9〜10月/公演情報詳細|文化デジタルライブラリー)。人形は玉男くんと簑助くんで、良かった。首を締められるシーンがあって、どううめき声を出そうかなと考え、上を向いて語ることにした。終わったあと簑助くんがやってきて「あんたよう考えはりましたな〜」と言ってくれた。『近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)』(国立劇場小劇場/昭和49年9月/公演情報詳細|文化デジタルライブラリー)。ぬくめし(良いシーン)は良い人へいく。こっちは冷や飯。でも、一生懸命稽古して、結果的には良かった。
  • 近松ものは嫌い。七五調でなく語りにくい。文章が綺麗すぎて山あり谷ありをつけられない。つけると近松のよさが失われる。しかし、イヤなものほど稽古する。やっているうちに、だんだんイヤな気持ちが薄れてくる。結果として、『心中宵庚申』で賞をもらえた。

 

┃ 現在の文楽

  • お客さんにお願いがある。今のお客さんはマナーが良いというか、優しい。むかしは客もきつくて、浄瑠璃にあわせてヤジを飛ばしてきた。「さわりの家も これ限り」という語りに、「さわりの家も<ヤジ:お前もな〜!!>これ限り」とか(すみません、なんの浄瑠璃かわからず、詞章あいまい)。むかしは新聞の批評でもものすごく悪く書かれた。もう、ほんならいっぺん行ってみよか、と逆に思われるくらいに。いま何故当たり障りのない批評しか載らないのか文化欄の記者に聞いたら、たとえ記者がきつく書いても上になおされると言っていた。
  • 先輩方からは、終わりの拍手を聞きわけろと言われていた。その拍手は「ハー、やっと済んだ!」という拍手なのか、「ごくろうさんでしたなー!」という拍手なのか。お客さんを疲れさせてはいけない。
  • 俳優の加藤武さんとよく話をしていた。成瀬巳喜男の『流れる』はみんな芝居をせず芝居をしていた。本当のことを本当にやっては芸ではない。嘘をやるのが芸。今の芝居ではマイクをせず声が後ろまで届く人は少ない。吐く息、吸う息が大切。ただ大声を出せばいいというものではない。まともに大声を出していたのではもたない。

 

┃ 病気と引退

  • 倒れる前日の夜、右肩が上がらないなあと思っていたが、そのまま眠ってしまった。翌朝、洗面所で倒れた。「わし、中風になった」と叫んだ。いまは中風言いまへんな。病院に運ばれて、検査。先生や看護婦さんが「手術はしなくてもいいけど、齢が齢だからどこまで回復するか」と言っているのがすべて聞こえた。
  • リハビリが辛くて、机を叩いて泣いてしまったことがある。そうしたら、主治医の先生に「(もっと症状の重い人もいるのに)感謝のこころが足りない!」と叱られ、頑張ってリハビリをした。病院にはいろいろな人がいた。もっと症状の重い人、若いのになあ……という人。
  • リハビリでは太宰治森鴎外の小説を読んだ。うまく発音できない。ら行がうまく言えない。「コミュニケーション」が言えなくてどうしようと思っていたら、お見舞いに来てくれた劇場の人に浄瑠璃に「コミュニケーション」という言葉は出て来ないから大丈夫ですよ!と励まされた。浄瑠璃の本でリハビリしてもいいかと先生に聞いて、浄瑠璃の本でリハビリしはじめたら、すらすら言えた。
  • みんなに引き止められたが、不本意浄瑠璃ではお客さんに申し訳ないと思い、引退を決めた。文楽協会(?)からも引き止められた(引き止めの条件は絶対言うたらあかんと言われた、そうです)。ところで文楽ちゅうんは退職金がおまへんねん(突然)。辞めてから生活どうしよう?と思って女房に相談したら、なんとかなるから好きなことをやりなはれと言ってもらえた。女房のほうが腹が据わっている。
  • 引退公演は拍手の音がすごくて緊張した。『寿式三番叟』の翁で出たが、拍手がなりやまず、なかなか演奏をはじめられなかった。お客さんの「ごくろうさんでした」という気持ちが伝わってきた。大阪での千穐楽の日、簑助くんが桜丸の人形に花束を持たせて歩いてきたのには本当に驚いた。東京(大阪より後)で花束をもらうことは事前に聞いていたが、大阪は知らなかったので……。簑助くんとはずっと一緒に苦楽を共にしてきたので、泣いて抱き合った。最後の日、国立劇場の警備員さんがプレートを作って見送ってくれて、嬉しかった。

 

┃ 皇居へ行った話

  • 引退後、文化勲章をもらったが、文化勲章には賞金がないから、お祝いの会は自腹。ある賞のパーティーで、一緒に受賞した学者さんたちのスピーチを聞いていたら、みんな賞金は研究費に使うと言っていて、驚いた。学者は本がいっぱいあるいい家に住んでいるとばかり思っていたが、どこもお金が大変なんだなと思った。みんな、妻のおかげで……、と話していた。内助の功というものはあるんだなと思った。
  • 吹上御所へお茶会(?)に呼ばれた。タクシーでは行けないので、ご贔屓さんに車を出してもらった。吹上御所は坂下門からずっと進んだ先の森の中にあって、東京にこんな場所があるのかと思うようなところだった。でも、気軽にご飯食べにこ!とかもできないし、きゅうくつやろなあと思った。やっぱり一般人はいいなと思った。皇居はトイレが広かった。両陛下が、自分の著書を読んでくれていると知り、驚いた。だれが差し入れたのだろう。両陛下とは何度かお会いしたことがあるので、気楽にお話ができた。

 

┃ これから

  • (きょうは12月公演の舞台稽古のため東京へ来たんですよね、という司会者の話を受け)東京のみなさんに久しぶりに会えて嬉しい。また来月も来たい。引退してからこんなに痩せてしまって……(気弱)。みなさん、わしが死んだら新聞に載ると思いまっか?(会場全員首をはげしく横振り、司会者あせりまくり、さっき来月来るって言ったじゃないですかとコメント)またこういう機会があればと思う。今後も、よろしくお願いします。

 

私は舞台を拝見していないので、住大夫さんは資料映像や録音、自伝、あるいは他の技芸員さんからの話でしか存じ上げなかったのだが、ものすごくふんわりとした優しい雰囲気のおじいさまで、驚いた。もっとどきつい感じかと思っていたので……。ときどき(住大夫さんに気を遣って話に割入らない)司会者の方を気遣って、進行大丈夫かとサジェストされていて、本当ちゃんとした方だな〜と思った。客席の雰囲気もとてもよく、ゆったりとお話を聞けた1時間半だった。

技芸員さんて、舞台ではみなさんお澄ましなさっていてお人柄がまったくわからないが、何かの機会でお話されているお姿を拝見すると、外見どおりの方、外見とまったく違う方、いろいろいらっしゃって、面白い。

伝統芸能サロンは平日開催なのが困るのだが、うまいこと脱獄して、時々は参加したいものである。

文楽 トークイベント:吉田玉翔×ダニエル・カール「明日、誰かに話したくなる文楽〜文楽人形の魅力〜」あぜくらの夕べ

あぜくら会の会員限定イベント。2016年11月29日(火)開催。国立劇場主催なので国立劇場所蔵の映像、司会の職員の方(写真家)の撮った写真などを見ながらのトークで資料が充実。

お話は玉翔さんからだけでなく、人形実演のために同席されていた玉誉さん(錦秋公演お休みされていたが、お元気になられたみたいでよかった)、玉路さん(お話しされてるの初めて見ました)からのコメントもありで、ファンがじっくり、ゆったり楽しめる内容だった。文楽劇場のイベントもそうだったが、文楽イベントのふんわり癒し系っぷりは魅力。会員限定イベントで好きな人が集まっているので、雰囲気もよい。

ほぼ玉翔さんが話しっぱなしで(めちゃくちゃ元気、いつもこうらしい)、ダニエルさんはインタビュアーポジションに回ってくださった。以下、玉翔さんの話を簡単にまとめ。

文中お名前はすべて当時表記、玉男師匠=先代吉田玉男さんです。

 

┃ 少年時代

  • 玉翔さんはなぜ技芸員、人形遣いになったのか。それは玉男師匠(玉翔さんは「おっしょはん」と呼ぶ)を好きになったから。
  • 出身は高知県足摺岬があるところらへん。空港からさらに数時間の場所。母親が伝統芸能好きだった。母親の知人に玉男師匠ととても親しい人がおり、母親も玉男師匠の楽屋へ出入りするようになった。母親は大阪へ文楽を観に行っていて、弟がまず連れていかれた。弟は「眠たい」と言っていた。次に自分が連れていかれた。はじめて行ったときは眠かった。玉男師匠は舞台のほかでは本当普通のおじいちゃんだった。とても優しくしてくれた。兄弟子にも可愛がってもらえた。しばらくして、母親にまた行く?と言われ、またついて行った。次第にひとりでも行くようになった。あるとき『平家女護島』を観た。玉男師匠が俊寛役だった。最後の場面、俊寛の人形が玉男師匠と一体になっているようで、玉男師匠が俊寛になっているようで、驚いた(すみません、ここ、もうちょっと複雑な言い方で説明されてました)。それで師匠に興味を持った。
  • 中学時代は野球少年。有名校からスカウトがくるくらいだった。でも、田舎の高校で楽しんで野球がやりたいのでと言って蹴っていた(こんなこと言うたら自慢になるけど、フフフ)。高校の面接でも「ぼくが甲子園に連れていきます!」と大見得を切ったが、入部早々先輩と喧嘩して退部した。喧嘩の理由は、先輩に「練習2時から」と言われて2時に行ったら、遅いと叱られたから。早く来て準備しとけということだったんだろうけど。そしてそのまま1年が過ぎ、翌年、野球部の顧問の先生が担任になった。うわ〜っ、ぼく狙いやと思っていたら、先生から「普段は絶対担任なんかしないが、きみが野球部に戻ってくれるよう担任になった」と説得され、野球部へ復帰した。でも1年何もしてへんかったから、やっぱり勝てなかった。高校時代は野球部やりながら、黒衣を借りて文楽を手伝ったりしていた(このあたり話の詳細記憶あいまい、すみません)。高校卒業して、入門した。
  • 文楽自体というより、玉男師匠のことが大好きになって、入門した。師匠のことが大好きで、師匠に惚れていた。玉男師匠は実の親以上だと思っている。入門時、師匠はすでに70代で、ご高齢だった。当初、師匠は「玉女の弟子になれ、一番弟子は可愛いもんやから」と言っていたが、どうしても玉男師匠の弟子になりたくて、玉女さんに頼んで「何かあったときは自分が面倒をみるので、弟子にしてやって欲しい」と口添えしてもらった。あの人にもめずらしくええとこあるんです。フフ。
  • ほんまは料理人になりたかったんです。でも、言うたら料理人の方に悪いけど、料理学校出てから文楽入るより、文楽やりながら料理学校通えばええかなと思って(謎の独自理論)。
  • 自分は直接弟子入りしたので、立場は「研究生」(技芸員が直接取る弟子)。今はどうか知らんけど、当時は東京公演の旅費も自腹だった。「研修生」(国立劇場の養成過程履修者)は国立が面倒見てくれるけど。「研究生」は師匠が…………(と、ここで「研究生」と「研修生」の違いについての質問が入り、その説明で話が脱線したまま戻って来ず。アルバイトはしたことがない、師匠が世話してくれて云々。あと、師匠は自分の身の回りのことは自分でする人で、弟子にはやらせない、みたいな話)

 

┃ 玉男師匠の思い出

  • 歳をとってからの弟子だったので、とても可愛がられた(でもそれは玉翔さんが頑張っていたからと劇場の人からコメント。玉男師匠と玉翔さんが一緒に写っている一枚の写真を示し、若手の公演のとき、あまりに忙しすぎてだれも玉男師匠のところへ出来を尋ねに来なかったが、玉翔さんだけが「どうでしたか?」と聞きに来た。師匠は「玉翔はえらい!」と褒めていた、これはそのときの写真、とのこと)。
  • あるとき、師匠に褒められてウキウキしていたら、兄弟子たちは「師匠滅多に褒めへんのやけどな〜?」と首をかしげていた。素で「下手やのになんでやろ〜?」と言ってくる兄弟子がいてショックだった(笑)。でも本当そのときは下手で褒めるとか褒めないとかいうレベルでもなかった。
  • 玉男師匠は理論的な人だった。ほかのお師匠さんは「足ソッチや!」「どっちですか!?」「ちゃう、コッチや!」と漠然としたことを言ってくるが、師匠は「棒足は〜……、33度!」「(逆にわからん!)」など教え方がきちんと、ちゃんとしていた。
  • 玉男師匠は字がとてもお上手だった。(玉男師匠が人形小割帳をつけている写真を見て)小割帳は筆ペンで書いていた。師匠は「わしは英語が書ける」と言って、人形の胴の部分には「TAMAO」と書いていた。(ダニエルさんからそれローマ字ですねというツッコミを受け)ぼくらからしたらこれも英語なんです!

 

人形遣いの修行

  • 小割といえば、足って場面によって違う人がついとるって知ってますか? ひとつの人形に始終ずっと同じ人がついてるわけではない。忠臣蔵やったら、はじめは高師直の足いって、次は由良助の足いってって、場面によってバラバラに細かくついている。だから気分的にはこれどうなんやって場合もある。入りたての人形遣いは朝から晩まで仕事がある。朝一番最初に来て最後に帰る。はじめは介錯、つぎに動かない足を持つ。介錯と足で出ずっぱりになって、休憩なんかない。食事の時間も取れない。終わったら顔真っ青。ぼくもいまは合間に食事取れるようになったので、いいですけど。次の12月公演の忠臣蔵、10時半(開演)から9時半(終演)て、1人2人死ぬんとちゃいますか。
  • 野球をやっていたので、人形遣いも体力面では簡単だろうと思っていた。でも、使う筋肉が違うので、入門してからとても大変だとわかった。人形遣いは体育会系。太夫と三味線は文化系で、楽屋の雰囲気も全然違う。
  • 太夫・三味線さんは、公演中の出番でないとき、空き時間に次の公演の稽古をしている。人形は基本的に稽古ができない。イメトレ(+普段からよく見ているしかない)。12月公演(12/3初日)は明日(11/30)から稽古。明日が第一部で明後日が第二部、通しはその次の日の1回しかない。この通し稽古が一番緊張する。客席に偉い師匠らが座っているので。ここで認められないと上へいけない。ある意味本番(初日)より緊張して、初日にはほっとするくらい。
  • むかしは足遣い10年、左遣い10年言うてたらしいけど(直前の勘十郎さんトークショーでは勘十郎さんは「ぼく30まで足つこてました」とコメントしていた)、いまは足遣い20年、左遣い20年。なかなか役がもらえない。いちばんいいのはいま60歳くらいの人。和生さん、勘十郎さん、(いまの)玉男さん。
  • 自分は子役が多くて、先日の大阪で出た志度寺(『花上野誉碑』)では坊太郎でかなり良い子役だった(ふふん♪)。(ダニエルさんから「赤ちゃんの役は?」という質問を受け)ハイハイしかしないような子役はもっと入りたての人がやる。いい子役がつくときはばーっとつく。でも子役の命は短く、演目のローテーションもあるし、人形遣い自身の年齢もあるので、つくのは7年くらいの間。50くらいのオッサンが子役やっててもね。配役には見た目もある。自分は子役の中でも最高齢。
  • 修行時代は男の足にも、女の足にもつく。そのうちどちらが得意かで分化してゆくが、自分は女形の勉強がもったいないので両方やりたい。(実演では女の人形の模範演技も見せてくださいました)
  • 若い頃はなかなか役がもらえず苦しかった。あるとき「どうせ黒衣だから」と茶髪にした(突然のヤンチャ告白)。人形遣い連中が「茶髪や〜!」とわいわいする中、偉い太夫さんが大激怒してハサミを持って追いかけてきた。とっつかまって玉男師匠の前に突き出されたが、玉男師匠は「若いんやったら、ええやん!」と言ってくれた。太夫さんは二の句が継げなくて、帰っていった。そんな玉男師匠も、若い頃、爺さん役を振られてヘソを曲げ、ヒゲを伸ばすというヤンチャをしていたらしい。自称・役作りとのこと。

 

┃ 海外公演

  • 入ったばかりのころ、玉男師匠がこれが(ご自身が海外公演に出るのは)最後だからと「フランス公演一緒に行くか?」と言ってくれて、嬉しかった。ついて行ってもなんの役にも立たないのに。当時は海外公演が3週間程度あり、兄弟子たちが師匠のために日本食を用意しておけと言うので、師匠の好物である南座のニシン蕎麦を休みの日に京都まで行って買ってきた。師匠喜ぶやろな〜❤️と思って、公演も半ばにさしかかったころにドヤッと出したら、「なんでここまで来て蕎麦食わなあかんねん」と言われ、大道具さんに配った(涙)。
  • 玉男師匠は「エビフライが食べたい!」と言った。でもレストランで「エビフライ」を何と言ったらいいかわからず、同伴の弟子は必死にエビポーズで説明。レストランの人がわかってくれて、エビが出て来たのだが、エビの丸焼きだった。自分が同伴したときは、師匠が「ハンバーグが食べたい!」と言うのでハンバーグを注文したのだが、中がレアというのか生焼けで、大丈夫かなと思ったがエエわ!と思って食べた。大丈夫だった。
  • 海外では舞台がはじまるのは夜8時くらいで11時終わり。ディナーを食べてから見に行くという時間帯に設定されている。開演時間まではすべて自由時間。観光が好きな人は「どこ行こ!?」と本当にあちこち行きたがるが、自分はあまり観光に興味がなくて、ホテルで読書したり(現地で売っている日本語の本を買う)、ちょっとあたりを歩き回ったり、美術館やお寺(教会)へ行くくらい。スペインへ行ったときは美術館へピカソの『ゲルニカ』を見に行った。ぼく、ピカソけっこう好きなんで。『ゲルニカ』はとても大きく、壁いっぱいの大きさだった。周囲にも製作過程のパネルなどが展示されていた。帰り、兄弟子が「ところで『ゲルニカ』ってどれやった?」と言い出したので、仰天した。
  • 海外公演でも、食事はお米が食べたい。最近は大都市なら日本食店がある。まえのフランス公演では一風堂へ行った。地方都市で日本食の店がない場合は、中華へ行く。中華はどこにでもあるので。

 

┃ 質疑応答

  • (会場からの質問:芸名の由来を教えてください)当時「翔」という字が流行っていたのもあるが、玉男師匠の弟子は「たまめ」「たまか」など、基本的に「玉+読み1文字」の名前。でもそのとき「もう1文字の名前ないねん」と言われた。「たましょう」だと、まえに読みが同じ「玉昇」さんという方がいたので、みんな呼びにくいと言って本名の「けい」で呼ばれる。芸名は実は玉男師匠からではなく、先に母親から知らされた。母親が決めたのではと思った。普通は「この中から好きな名前選べ」とか、師匠から言われるはずなのに……。師匠にはもう知ってますとも言えず、有り難みがなかった。
  • 芸名について、私が思ったこと。三味線弾きさんとかでもわりと今風のお名前の方いらっしゃいますが、やっぱりお師匠様によってはちゃんと流行(?)も考慮してくれるんですね。ちょっと大きくなってからつける名前なぶん、その人にあった名前にしてもらえますしね。「玉女」さんも、ご本人の外見のわりに可愛い芸名だな〜、わざと逆打ちしてるんかなと思っていたら、入門当時の写真を見たら涼やか美少年で、コリャ玉女でええわいと思った。やっぱりみなさんちゃんとつけてもらってるんですね〜。(当たり前だ)
  • (会場からの質問:修行は大変なことも多いと思います。厳しいと思うときはどんなときですか?)厳しいと思うことはない。(考え込んで)厳しいって、どういうことかわからない。これが普通だと思うので……。昔は舞台下駄で殴られたり蹴られたりしていたと聞いているが、いまはそんなことはない。残っているのは言葉の暴力(笑)? 玉路どう? いちばん実感しとるんとちゃう?(と促された玉路さんから、自分もこれが厳しいとは思っていませんというコメント)修行は好きなことだから楽しくやっています。つらいのは、何も言ってもらえないこと。厳しいというのはどういうことをいうのか、わかりません。(首傾げ)
  • (実演でダニエルさんから「佐渡の文弥人形は一人遣いで、左手は棒状のものを振り回している状態」と説明され)幕開き三番叟と同じですね。幕開き三番叟は二人遣い。左手は棒になっていて、こんな感じで(実演)、慣れないと結構大変です。
  • 人形は主遣いひとりで持っていると重いけど、うまい左や足がついてくれると(衣装の重さも軽減されて)軽くなる。下手な左がつくと引っ張ってきたりして、よけい重くなる。
  • (客席からの実演質問:主遣いが左遣い・足遣いに出しているサインというのは具体的にどういうものですか?)主遣いの出しているサインは人形の後頭部、肩にあらわれる(実演)。(質問:足遣いのかたはどうしているのですか?見えないのでは?)足は主遣いの足と同じ方向を出す(実演)。でもお客さんはそんなんわからなくていいんですよ。



若め〜中堅の技芸員さんの個人的なお話を聞く機会はいままでなかったので、とてもいいイベントだった。どういう気持ちで毎日がんばっておられるかの言葉が生々しい。あれもやりたい、これもやりたいという前向きな気持ちが感じられる。

そして、玉翔さんが本当に「おっしょはん」が大好きだったことがわかるお話だった。上にも書いたが、玉翔さんが入門したてのころ、若手の発表会で玉男師匠に出来を尋ねに行ったときの写真が印象的だった(ご本人はこのとき何を話していたかまったく覚えていらっしゃらなかったが、撮影したカメラマンの方が対談の司会で、会話内容を覚えておられたのだ)。あかるい光が入っているロビーのような場所の喫煙所で、窓ぎわのベンチに、ハットにコート姿の玉男師匠が座っている。カメラに背を向けて座っているので、玉男師匠の表情はわからない。紋付姿の玉翔さんはひざまずいて灰皿に手をかけ、すこしからだをのり出すようにして、真摯な眼差しで玉男師匠を見ている。目の澄み方はそのころから変わっておられないのだなあと思った。

 

と、いい話のあとで申し訳ないが、知り合いの方が「むかしは玉翔さんが一番のイケメンと言われていた」と話してくださるのをいままで「フーン」とてきとうに流して聞いていたが、この写真の玉翔さん、まじ凛々しいイケメンで、ほんまや! ほんまにイケメンやったんや!!! と驚いた。いやいまも大変な男前ですけどね!!! 

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文楽 トークイベント:桐竹勘十郎×ダニエル・カール「人形のまなざし」三井記念美術館特別展「日本の伝統芸能展」記念対談

三井記念美術館で開催されている国立劇場50周年記念企画展の付属イベント。2016年11月29日(火)開催。たぶん会場全員勘十郎様ファン。以下、話は順不同だが覚えている限りの勘十郎さんのお話のメモ。

  • まずなぜ対談相手がダニエル・カールさんなのかという疑問があったのだが、ダニエルさんは大学生のとき日本へ留学していて、そのうち現地実習で半年ほど佐渡島の人形芝居「文弥人形」の人形遣いの師匠へついて勉強していたそうだ。ダニエルさんから「文弥人形」について色々ご紹介があった。「文弥人形」は一人遣いで、人形は「一匹、二匹」と数えるとのこと。文楽人形は「一番、二番」と数えます、と勘十郎さん。
  • 私の個人的コメント。先日、加藤泰監督の『ざ・鬼太鼓座』という映画を観たのだが、その中にちょうど文弥人形の舞台のシーンが出て来たので、このあたりの話がすぐに飲み込めてよかった。『ざ・鬼太鼓座』に入っているのは、たぶん文楽でいう「五条橋」にあたる内容の演目で、義太夫節ではなく浪曲のように切れ目なく語り続けるような音曲(三味線伴奏)に合わせて3頭身くらいの弁慶風姿の人形と若い男の鎧武者の人形を動かしているというものだった。
  • 外部イベントだけあってか、文楽とは何かというそもそも論ビデオを見せられたのだが(勘十郎さんいるのにぶっちゃけ時間の無駄)、それの人形のデモンストレーションが玉男さんで、勘十郎さんはまったく出ていなくて爆笑した。よりにもよって勘十郎さん出てへんやつ流さんでもええやろ。勘十郎さんご本人は上映中じ〜っと画面をご覧になっていた……。
  • (司会者からの質問:文楽を知らない人に紹介するとき、どうしていますか?)まず生で見てくださいと言う。文楽は三業のコンビネーションで成立しているので(このあたり違う言い回しで説明してくださったのだが、細かいニュアンスの記憶がない)、やはり生で見てもらうのが一番。きょう来ていただいているみなさんは全員12月公演に来ていただけるものと思っております(ウフフ❤️)。
  • 若い子に伝統芸能に興味を持ってもらうためのお仕事。地域の方と交流を持つため、15年前から文楽劇場の近くの高津小学校で文楽の実習授業をしている。いまはたくさん楽しいものが溢れていて、文楽を子どもに紹介しても、中学生くらいになると「そういうのはちょっと」と言われるが、小学生だと「あたらしいもの」として、ゲームなどと同じように「なにこれー!?」ととっても興味を持ってくれる。このときを逃してはだめ。このときにすかさず植え付ける!(種まきのジェスチャー
  • 高津小学校は小さな学校で、1学年1クラスしかない。生徒さんには外国人の子もいて、いろいろ。大夫、三味線、人形、お囃子に別れて「五条橋」をやってもらう。はじめは大変だったが(できるかなと心配だったが)、みんながんばってしっかりやってくれる。太夫をやりたがる子はたいてい元気な子。次が三味線。人形はおとなしい子ばかり。15年やってきてずっとそう。自分たち(本職の技芸員)も同じ。ことしは11/20に発表会をやったが、大成功。思い切って弁慶を女の子にやらせてみたが、とてもうまかった。
  • 高津小学校の授業ははじめ1時間目からだった。8時半に学校へ行かなければいけなかったが、朝が苦手なので頼んで2時間目にしてもらった。2時間目からだと9時半、これでもたいへん。授業が終わったあと楽屋へ行く。
  • (司会者からの質問:ご自分でセリフを語ってみたいと思われますか?)思いません。でも、下手な太夫がおって……そういうときは「ん〜〜〜〜〜〜〜っっっっ(>_<)💦💦💦」ってなる(首をプルプルするジェスチャー)。上演前の幕開き三番叟は、三味線は影で演奏してもらっているが、太夫は出ないので、人形遣いが自分で浄瑠璃を語っている(そうなの!?)。はじめは恥ずかしくなかなかて言えない。なんも恥ずかしゅうないんやけど。
  • 立役の人形は高い位置で構え(自由の女神のように左手をかかげるポーズ)、女形の人形は低い位置で構える(胸の前に左手をかざすジェスチャー)。女形から立役への切り替えはすっとできるが、立役を何公演か続けてから女形への切り替えは体が固まっていて難しい。だから、自分個人で受ける仕事は女形をやらせてもらう。
  • (会場からの質問:人形遣いの方はステージでは無表情ですよね。人によっては演技にあわせて表情のあるかたもおられますが。人形遣いの表情についてのお考えは?)人形遣いは人形に芝居をさせるわけで、自分が目立ってはならず、人形の芝居を邪魔してはいけない。自分が自分がという人は人形遣いには向かない。無表情は最近はだいぶできるようになってきたが……。ステージ出演中は目の焦点を合わさないようにしている。きょろきょろしていると目立つ。ぼくは目が大きいほうなので特に……。あんまりじ〜っと正面を見ていると、弊害が起こる。むかし、じ〜っと前を見ていたら、あるとき楽屋に手紙が届いて、その中身は「いつも私を見つめていらっしゃいますね。ありがたく思いますが、私には夫も子供もあり云々」……(ウフフ❤️)。
  • 太夫、三味線、人形の噛み合わせ。(上空に手をかざして)三業のバランスがうまくとれてちょうど真上でぶつかると、鳥肌が立つ。そういうときは、ぼくら(人形)だけでなく、太夫も、三味線も、お客さんもそうだと思う。でも毎日そうはいかない。そういうのは公演期間中2、3回くらい。ごめんなさい。日によって太夫が弱い、三味線が弱い、人形が弱いというのが出て来る。初日、二日目、うまくいかない。でもうしろにいくほどうまくいくわけではない。二日目のほうがよかったということもある。ごめんなさい。それができるだけ多くなるようがんばります。
  • (人形の実演を交え、主遣いが出しているサインの解説で)足遣いのうちから「どういうとき、なにをやるか」をよく見ていなければいけない。でないと左遣いになってもいきなりできない。
  • 実演はツケ打ちもありで、結構ちゃんとしたかたちで見せてもらえた。デモンストレーションが勘十郎さんというのはやはり大変に豪華、悪環境での実演でも迫力があり、あからさまにうまい(当たり前)。ツケ打ちや足拍子の音が大きすぎて、警備員さん来るかな!?とちょっと心配する勘十郎様。
  • (ダニエルさんから質問:おやすみの日は何をしているのですか?)おやすみはほとんどない。錦秋公演終わって(11/20)からきょう(11/29)まで、ずっと一緒に……(会場端に控えている簑紫郎さんたちを示して)。本公演、地方公演以外に個人の仕事を多くやっている人はおやすみがない(と言って自分で照れ笑い、かわいい)。おやすみがあっても人形を触っている。時間があるときは、家でも人形の修理をしたり。突然3日とかぽっと休みができると、自分の性格だろうが不安になる。他の人がなにかしてるかもと思って。旅行するといえば、地方公演。おいしいもの食べて太っちゃいました(ウフフ❤️)。
  • (会場からの質問:舞台を拝見すると、大変動きがしなやかですが、どのようにしなやかな体をつくっているのですか?)特別なことはなにもしていない、お酢を飲むとかは(ウフフ❤️)。師匠から体を柔らかくしておけと若い頃から言われていたので、普段から動きに気をつけている。
  • (会場からの質問:同じ年代の和生さん、玉男さんへ感じていらっしゃることをお願いします。言いにくいでしょうが。)…………言いにくいです(ウフフ❤️)。和生さんは昔から非常に落ち着いていた。ぼくが入門したときから大人。当たり前、自分は中学生で、そのとき和生さんは二十歳くらい。ほんまに大人と子供だった。自分は感覚的に遣っているが、和生さんはよく考えている。和生さんは文雀師匠の遣い方を受け継いでいる。芝居が毎日同じでブレがなく、アドリブを入れない(熟考のすえに演技を組み立て、完成されているので、毎日違う必要がないという意味)。玉男さんも同じ、きちっとしている。先代の玉男師匠に倣い、足遣いのころからきちっと遣っていた。ふたりともずっと一緒にいるので、打ち合わせがなくても雰囲気で次に何をするか、何をしたいかわかる。…………………と言うとうちの師匠がズボラなようですけど、ズボラやないんです。うちの師匠は段取り芝居が大嫌い。と言っても芝居の手順は決まっているのだが、立ち回りなど、ものによっては段取り芝居をすごく嫌い、毎日違うをことしはじめる。自分はそれを継いでいる。うちの師匠がズボラなわけやないんです(強調)。
  • (会場からの質問:将来的に文楽に外国人の技芸員が入ることはあるか?)UNIMA(世界人形劇連盟)のセミナー講師に呼ばれ、フランスへ文楽の三人遣いの説明に行ったことがある。三人遣いは難しいということを言いたかったのだが、ひとりすごく優秀なフランス人がいて、連れて帰りたかった。講習期間は2、3週間しかないのにすごくうまくて……。(簑紫郎さんたちをチラ見)。これからはそうなっていくのかもなあとも思う。
  • (最後に一言)おかげさまで12月の『仮名手本忠臣蔵』の切符の動きは良い(←というか、完売)。来年の目標は大阪(文楽劇場)もいっぱいにすること。一生懸命がんばりますので、今後ともよろしくお願いいたします。

 

勘十郎さんは普通にお話されているときはおっとり優しい話し方で、とってもフンワリされているのだが、お人形を持つととてもイキイキされていて、本当にお人形が好きなんだなあと思いました。いや、バカ感想だけど、本当に。お人形を持っているときは本当にキリッとしていらっしゃって、すごいと思った。

そして、さすが色々な企画にご出演されているだけあって話し方がとてもお上手。ぽわ〜っとしているようで素人がわかりづらい言い回し等はなく、本当、ちゃんとしていらっしゃるなと思った。本当にお忙しいと思うけど、ご無理をなさらず、お身体に気をつけて頑張っていただきたいと思う。