TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

麻雀漫画と昭和の日本映画と文楽(人形浄瑠璃)について書くブログ

蓄音機文楽『新版歌祭文』野崎村の段 湯布院・束ノ間

文楽業界の広瀬アリス&広瀬すず、勘彌さんと紋臣さんがお光・お染役でご出演ということで、いままでで最も遠い最長距離出張、大分県は湯布院へ行ってきた。

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湯布院といえば特急「ゆふいんの森」、湯布院映画祭と興味のある要素がいろいろとあるけど、「遠い」というイメージだった。このイベントは昨年秋の初回開催の直前に存在を知り、そのときは遠いから行くのは無理だろうと思っていた。が、調べてみると、羽田から大分空港までは1時間45分程度、大分空港から湯布院までは直通バスだと55分、合計3時間程度と、思ったよりも近かった。昼公演なら日帰りも可能で、少なくとも長門よりは近い*1

会場となっている「束ノ間」は温泉旅館。場所としてはJR由布院駅から徒歩30分程度(歩いちゃったよ……)の山の手にあり、静かで広い敷地内にたくさんの建物が散在している、こぶりな集落のような宿だった。所々にぼかぼか立っている温泉の湯気、こんもり茂った大きなアジサイに野趣があり、美しかった。

公演は、普段は食堂として使われている建物で行われた。木目の暗いブラウンが美しい平屋の日本家屋は、どこかの庄屋さんの離れの客間だった古民家を移築・改装したものだそうだ*2。玄関脇の二間続きの座敷のうち、奥側の間を舞台にして、上手のいわゆる「一間」(障子)と下手の小幕にあたる部分はもとの建物の出入り口をそのまま生かしていた。大道具は至極シンプルで、奥に黒いパーテーションを置いてのれん口を作り、下手に黒い柱を立てて家の戸口を表現していた。ぜんまいのれんの色は赤寄りの藤色だった。舞台装置自体は簡素ながら、舞台左右は建具のしつらい(元々ある部屋の間仕切り)がそのまま生かされていることと、舞台上部の欄間の繊細な透し彫りが美しく、上品な空間になっていた。そして、客席前方の上手側、本来なら床が設置される場所に、2台のフロア型蓄音機が並べて置かれていた。

床は畳敷き。舞台と客席は手すりで仕切っているだけなので段差はなく、手すりは二の手すりのみ。最前列は手すりとの距離が1m程度しか離れていなかった。客席の設定は座布団(背もたれあり)、やや高さのある座椅子、椅子席で、定員50人。私が行った回は満席だった。

客筋としては、このようなサロン形式の公演にふさわしく、社交的な意味で来ているらしい地元の方(関係者?)、会場を提供している旅館をはじめとした近隣旅館の宿泊客、技芸員の顧客がほとんどではと感じた。東京公演の前方席に近い感じ。有象無象系の客はおらず、私は完全に場違いだった。すいませんねえお染チャンとはド真逆の意味でおそろしく場違いなやつが来て🐍カミソリは持ってませんので安心してくださいね🔪カミソリ持ってると空港の保安検査に引っかかってここまで来られなくなっちゃうんでね✈️

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(写真は終演後、舞台が川に切り替わった後のものなので、のれん口・柱は撤去されています)

 

 

 

上演前に、蓄音機の説明と、演目解説。

まず蓄音機担当の方(詳細後述)から、蓄音機の再生方法についての解説があった。今回使うのは1929年(昭和4年)発売の豊竹古靭太夫(後の山城少掾)・鶴澤清六演奏によるレコードで、蓄音機は同時代のイギリス製の機種を使用するということだった。また、戦前のレコードは収録時間が3分程度しかないため、そのままかけていてはブツ切れになるので、レコード・蓄音機とも同じものを2つを用意し、ディスク10枚組×各2面を交互にかけていくことで、途切れなく義太夫を演奏すると。前回開催時にほとんど説明せず上演したら、何をどうしているかをお客さんに理解してもらえておらず、がっかりしたので、今回はちゃんと事前説明することにしたそうだ。たしかにこの説明があったほうが企画趣旨がわかりやすい。

演目解説は野崎村の簡単なあらすじ。ご担当は緊張して言ってることが若干ごちゃごちゃになっている勘次郎さん。話の中で久作の奥さんの人形は出ません、いるつもりで観てくださいとの話があったが、現行では本公演でも久作女房はずっと奥の一間にいる設定で、人形を出していないはず。わざわざ言うとはどういうことなのかと思ったが、それは上演中にわかることになる。

 

 

 

冒頭部の久作がお夏清十郎の本を買うくだりや小助が出てくるくだりはナシで、お光が大根を刻むところ(〽引き立て入りにけり。後に娘は気もいそいそ、日頃の願いが叶ふたも、天神様や観音様、第一は親の御蔭〜)から上演。

 

はじまっての第一印象は、「非現実的だがリアル」。

義太夫が録音であることには、違和感はなかった。山城少掾の音源はCDでも出回っており(今回上演と同じものではないけど)、自分もそれを持っていて、聴き慣れているからかもしれない。蓄音機から流れる音声は戦前の録音・盤そのままのため、劇場で生演奏を聴くよりかなりくぐもっていて、トーキー映画くらいの雰囲気。軽石のように表面が柔らかくざらざらしている印象で、ノイズを除去したリマスター音源のような鋭い生々しさがなく、場内は古い時間が蘇りもういちど流れているような、非現実的な空間になっていた。

一方、人形は、座敷上演なので客席との距離がかなり近く、リアル。本公演にはない強い刺激性があった。この生々しさは距離感自体というよりも、舞台と客席との段差がないことによるものだと思う。今回は一般民家を舞台とした演目を一般民家で上演しているため、より生々しい肌理があった。それに、むかしの建物は作りが小さいので、お人形さんのサイズ感に接近しているというか……。

足拍子や人形自体の立てる物音は劇場のように反響することはないが、そのぶん本当の人間が間近で立てているように聞こえる。火をつけたお灸が燃える香りも部屋中にふんわり漂ってきて、よりダイレクトな迫真性をもって五感へ訴えかけてこられているようだった。

しかし、このリアルさが蓄音機から再生される古い義太夫の音声と乖離していない。当時と現代の人形の演技は大きく異なり、人形のかしらも現行とは雰囲気の違うものを使っていたはずなので、舞台としての見えは本来まったく違ったものだったと思う。そこに断絶がないのは、山城少掾の語りがモダンだからなのかな。今回の出演者のスマートでみずみずしい雰囲気と予想外にマッチしていた。

ただ、このやりかただと、義太夫は人形の伴奏ですね。人形さんは義太夫に合わせて演技しているとはいえど、結構下がって感じられた。そのせいか、いつ・どこに注目・傾聴すればいいかの配分が直感的にわからず、文楽を初めて観たときのように「情報量が多い!」と思われて、少し混乱した。ただ、それも数分で、すぐに慣れて、いつもと同じ感覚で観ることができた。

 

 

 

お光は勘彌さん、かわいい(涙)。日本一かわいいよ……(号泣)。勘彌さんって絶対お染タイプだよな、キリマンジャロくらいに咲いている高嶺の花で、人の男を平気で盗ってきそうな感じがする。と思っていたけれど、お光もとてもお似合いだった。在所の娘なんだけど、なんだか微妙にほかの普通の子とは違っていて、近所中で「かわいい、美人」と噂されている、でも本人は天然で全然気付いてない女の子、って感じだった。私が野崎村に住む里芋顔のツメ人形なら、毎日久作ハウスを覗き込んでお光にニヤニヤして、久作に箒で叩かれまくった挙句お灸の点火器具でつつき回されて追い払われていると思う。

勘彌さんは普段は洗練された方向の演技の方だと思うけど、お光には微妙に垢抜けない部分を作っているのがよかった。わずかな加減だと思うが、ほんのちょっとだけ女子として気が緩んでいる感があり、素朴な表情と素直な所作が愛らしい。人形って間近で見ると女形でもわりと覇気がすごいというか、異形の者としての威圧感があると思う。しかしこのお光は至近距離で見ているにもかかわらず人形に威圧感がなく、少しかすみがかかったようなふんわりしたオーラがあって、優しい匂いがしそうな女の子だった。絶妙な塩梅の可愛さに思わず合掌しそうになった。

舞台と客席の距離が近い&舞台との段差がないぶん、大根刻みのバイオレンスは半端なかった。大根を刻むさまに異様な迫力がある。刃物持ってる気が早すぎる女、めちゃくちゃ怖い。言ってはなんですが、阿部定事件を起こしそうな感じというか、お染が来なくてもクソヤバなことをやらかしそうな感があった。鏡を櫛で突くところの動作がやや緩慢なのも、「いつでもおまえをころせる」的な余裕?を感じた。

ところでおみっちょの左って、もしかして玉佳さん? 玉佳さんはチラシの配役には出ていなかったが、会場で頂いた出演者一覧に「吉田玉佳」って書いてあってめちゃくちゃ笑った。出遣いないんかい。玉佳さんが本公演でお光の左に入ることはないと思うが、いつもよりちょっぴり不器用なタマカ・チャン、レアで萌えた。(※小割非公開。私がそう思っただけで、実際のところは不明。)

 

お染は紋臣さん、かわいい(2回目の涙)。日本一かわいいよ……(2回目の号泣)。都会娘らしい洗練された美しさで感動した。もともとの設定でも、鄙びたド田舎へ町の商家のお嬢様の盛装でやって来るお染は野崎村の風景から浮いてしまうが、湯布院でのお染さんはまじで浮いていた。

お染が出てきたとき、率直な言葉で言うと、不気味だった。ドキッとした。お光は前述のような微妙な垢抜けなさを持っているので場にわりあいなじんでいるんだけど、お染は簡素な舞台から異様に浮き上がっていて、エネミーが来たっ!って感じ。ぎょっとした理由は、人形の大きさなのかな。なぜか人形がすごく大きく見えた。お染は豪華な髪飾りをしているのと、立っている時間が長いので、大きく見えるのだろうか。それとも、遣い方によるものなのか。素朴なお光とは全く異なる、自然体的ナチュラルさを消したかなり人工的な所作で、人形であることを主張してくる美的な動作が多いからだろうか。本物の人間はしないような極端に首をかしげた異様な姿勢が目を引く。クドキのところで久松のうしろへ回って両肩に手をかけて顔を覗き込み、また、後ろ向きになって体を傾けて顔を久松へ向ける仕草がまことに美しく、金持ちの美少女らしい、天性の森羅万象への媚態を感じた。なんでだろう、わからない。かなり怖いお染だった。でも、だから逆に可愛い、美しいと感じるのだと思う。舞台に出ていないときでも、襟袈裟についた鈴の音がチャリチャリと聞こえるのが良かった。

お染はつねに久松ばかり見ていて、決して客席側には視線を向けず、顔をすこし傾けているような状態になるので、そこも不思議な雰囲気があった。逆にお光は視線をいろいろなところに向け、気が散った山出し感があって、可愛い。目線ってかなり人形の印象を左右するんだなと思った。

 

舞台が狭いせいで、お光vsお染の戦いは熾烈さを増していた。本公演では、家のだいぶ奥にいる久松に気づいてもらおうと戸口にいるお染が伸び上がって必死でアピールする!!のをお光がさりげなく座敷と戸口を往復して阻む!!という見え方だが、今回は舞台が大変狭いため、お光の真後ろにお染がいる状態。

お光が逆ほうきで招かれざる客を追い払うところは、もはやほうきでの物理攻撃だった。あっ、でも、ここのお光はかなり可愛かった。在所娘らしく粗雑に股へほうきの柄をはさんで手ぬぐいをかぶせるけど、その所作を上品にこなされていてゲスになっていないのがよかった。おみっちょは絶対処女😭と思った(おとうさん的感性)。

そしてお光がお染を見えないように両手を広げてあたふたする様のディフェンスぶりはもはやバスケ、お灸の点火器具をお染につきつけるところは完全に根性焼きしに行っていた。あれほんまに人形に当たるでしょ。お光は本当に見えない位置からお染に突きつけなくてはいけないので、事故を警戒してものすごい目つきになっていた(勘彌さんが)。

しかしお染も負けてはおらず、懐紙に小銭?小石?を包んで家の中に投げ込むところ、投げ込んだおひねり(?)が久作の真ん前というものすごい良い位置に着地していて、一発でグリーンに乗せたナイスショット状態だった。この覇気、私が久松なら家の外にお染が来ていることに気づいた時点でちびってると思った。

この二人の個性の違いによる可愛さの違いは本当にすばらしく、湯布院まで来て良かったと心の底から思った。

 

久松は簑紫郎さん、しゅっと背筋を伸ばして座っている様子がなぜか若干若武者風だった。都会でちょこっと暮らした程度の田舎モンがこんなに洗練されてるわけないと思うけど、あれくらいの根性がなくてはサイコパス女二人に囲まれて逃げ切ることはできないと思った。田舎の許嫁と都会でつまみぐいした女が顔を合わせるクソヤバ事態、常人ではあのようなサイコ女二人に激詰めされたら武士ならずともその場で切腹してしまうと思う。なんであいつあんな他人事顔してるんだろ。私がお光なら、大根と一緒にちょきちょきちょきと切ってたなと思った。

 

久作は勘市さん。勘市さんのジジイには独自の味がある。いかにも在所のしっかりもんのジジイって感じだった。顔立ちと同様、所作がちょっところんとした感じなのが良い。畑で京なす育ててそうだった。そして、すごい汗だくて遣ってらっしゃった。大変そうだった。

 

ところで、義太夫を聞いていて、途中から違和感をおぼえた。もしかしてこれ、現行と違う本だろうか。お光が尼になるとして髪を切って以降の展開、奥の一間にいる設定の久作女房のセリフやそのやりとりがかなり多い。前述の通り、現行では久作女房は人形を出していない。しかし昔は出していたという話を聞いたことがある*3。もしかして今日使われているのは、その頃のレコードなのだろうか。お染が再び自殺しようとしたり(でもあの女のカミソリの取り出し方、明らかに演技だよね)、それをお光と勘違いした老母が這い出てきて娘が髪を切ったことに気づいて嘆いたり、重ねて自殺しようとするお染を止める久松が自分のほうが先に死ぬと言いだしたのを聞いて久作が一家心中すると言いだしたりと、本公演にはないくだりが展開されていた。帰ってから直近の現行床本と今回上演の床本を比較してみると、今回の上演内容は結構長い。正確には本公演でももうすこし長めに上演することもあるようだが、その場合の床本と比較しても今回上演は長かった。こういった部分に新規で演技をつけている部分があるようで、ところどころ間がもたなくなっているところがあった。

このようなくだりがあるため、お勝〈桐竹紋吉〉は出てきてから、中の様子を伺っている時間が異様に長く感じられた。出のタイミングはたぶん本公演と同じなんだけど、家の中のやりとりが長いので、声をかけるまでの時間がかなり長い。お勝はそのあいだ、じーーーーっと耳を傾けている。これは大変な役だと思った。おかあさんっぽい、でも、少しだけおしろいの匂いがしそうな、ふっくらと豊かな印象のお勝だった。

 

段切、お染と久松が野崎村から去っていくところ、本公演だとお染は川に浮かんだ船から別れを告げるが、舞台が狭すぎて川の手すりが設置できないので、お染は手すりの手前にまわり、下手の建具からそっと体をのぞかせる方式だった。人形遣いは姿を見せず、人形だけが体を乗り出している状態なんだけど、そうなると人形は普通の畳の床に立っている状態になる。実際には人形を持ち上げているので少し宙に浮いているのだが、それによって人形の位置が人間の小柄な女の子くらいの身長になっており、これが結構生々しく怖くて、美しい人形が本当に生きてひとりでに動いているようだった。

 

 

 

蓄音機から再生されるレコードのかすれた柔らかい音と、やや薄暗く、狭い空間で上演される文楽は、戦前の映画を見ているようだった。溝口健二の『浪華悲歌』の文楽のシーンもたしか野崎村のこの場面だったと思う。薄暗く狭い舞台。狭い屋台の中で、水入らずをしている父子・許嫁の人形たち。外の門扉から、在所には場違いないでたちの娘がその様子を覗いている。不気味で幻想的なシーンで、あの様子を目前にしているような感覚があった。黒い背景に浮かぶ人形たちの姿は魔術的だった。

そして、西宮の白鷹文楽とおなじく超至近距離での上演なので、人形の演技に迫力(物理)があった。間近に見る人形は、やっぱり結構怖い。動作が思っていたより激しく、結構すごい勢いで演技しているのだなと思った。女形の人形でもわりと荒々しいんだなと感じた。

しかしここまで距離が近いと、出演者の技芸のレベルの差も見える。単発公演でほとんど稽古をしていないはずなので、本番一発勝負に耐えられる力量かどうかというのもあるんだろうけど、細かい所作がはっきり見えるのでその精度がわかってしまうというか……。白鷹ではそこまでは感じなかったことだが、今回は結構克明だなと思った。

個人的には勘彌さんと紋臣さんの配役は逆がよかった(ものすごい個人の意見)。慣例上、お光のほうが格上の役なんだろうと思うけど、お染は私のなかでスクールカースト最上位、お高くとまった女、かつ非処女テイスト娘役の姫的存在である勘彌さんにやって欲しかったわ。そして、紋臣さんのほうが一見おぼこく(動作が入ると吹き飛びますが)、文楽座No.1のロリオーラがあるのと、気が逸ったような所作がお上手なので、在所娘なお光が似合いそうだと思う。でも、実際にはお二人ともお染タイプだとは思う。絶対敵に回したくない。

 

 

 

おそらくどなたもが気になっているであろう、蓄音機で義太夫を演奏するという上演形態について。

自分には外部公演に行く・行かないに明確な基準があり、義太夫文楽から出ていないものには、人形からの出演・開催地関係なく、行くことはない。今回は義太夫が生演奏ではなく録音というきわどいラインだが、戦前のレコードを蓄音機で再生させるという企画に惹かれた。ただ、正直なところ、この企画において文楽にも蓄音機にも本当は主体的な意味はなくて、珍しいことをして集客しようというイロモノだろうと思っていた。主催企業は文楽に興味があるわけではなく、対外的アピールのための企業活動としての文化事業であって(にっぽん文楽や西宮の白鷹文楽も私の中ではこのカテゴリ)、私(文楽自体の客)はそれでもいいから気に入りの技芸員さんが出ているからその方のご出演に対し金を出すつもりで行くという、そういうスタイルの企画かと思っていた。

だが、実際に行ってみると、蓄音機は本気だった(はいっ、もちろん技芸員さんも本気です!!!)。

私はこの企画を聞いたとき、戦前のレコードは数分しか収録できないはず、そうなると盤の掛け替えの時間が必要になり、演奏がすぐにブツ切れになるだろう、と思っていた。しかし、文楽では義太夫がスムーズでないと人形が動けないしリズムが崩れるので、そこをどうクリアするのか。レコードは数分で切れるはずだから、クドキのサワリとかのエエとこどりをして、そこだけ「できるだけ素早く掛け替えて」やるのかと思っていた。そして、義太夫をよくわかってないとオペレーションも難しいと思ったので、そこにも期待していなかった。

ところが実際に行ってみると、先述の通り、蓄音機2台とレコード2セットを用意し、交互に再生させて切れ目をなくすという手法がとられていた(要するに映画のフィルム上映と同じ手法)。切り替え自体はかなりスムーズで、ほぼ気付かない箇所もあった。無音の空白が入って切れ目に気づくというより、2台の蓄音機の音の個性の違いで、切り替えがわかるという感じだった。微妙に切れたなと思っても、人形の動作で繋いだりしていて、そこまでストレスではなかった。そのテクニックにかなり驚いた。

これは本(マジ)気だなと思い、終演後に蓄音機演奏のオペレーションをされていた方にお話を伺った。

表に名前を出されていないけど、その方は地元の蓄音機屋(蓄音機の梅屋)のご主人で、実はこの方が公演の企画者ということだった。旅館が客寄せのために企画・主催していると思っていたので、個人企画ということにとても驚いた。ご主人は元々文楽がお好きで、こういうことをやってみたいと前々から考えておられ、自治体の文化事業支援(?)に企画を提出し、出資を受けて開催に至ったという。客層が技芸員の引いている客だけでない雰囲気なのと、チケット代が異様に安いのが気になっていたが、これで理由がわかった。

私はこの公演、出演者の中で一番大変なのはこの方だと思ったんだけど、口上で名前を紹介されなくて残念。チラシ等にもノンクレジット。黒衣を着ておられたので、名前を出すおつもりはないということなのかもしれない。でも、蓄音機は太夫三味線に続き、ツレ弾きや琴とか胡弓のノリで名前を紹介されていたんで、口上にご主人のお名前も入れて欲しいです……。

 

伺ったお話メモ(立ち話のためメモをとったりしていないので、間違いがあったらすみません……)

  • 蓄音機2台を掛け替えして連続演奏をさせるコンサートを行った経験がある。最近も湯布院でそういうイベントを行った。(話の感じからすると、常打ちでやっているとかいう感じではなかった。呼ばれたらやっている等なのかな? 蓄音機は普段は店にある「売り物」とのことだった)
  • 義太夫が途切れると文楽は成立しないので、必ずつながるよう、2台交互に掛け替える練習をした。
  • 針は蓄音機が製造された当時のもの(金属針)を、掛け替えるごとに使い捨て。針を使い続けて短くなると音が大きくなってしまう。今回は20回掛け替えたので、20本使った。
  • 蓄音機のハンドルは一度回せば本来かなり長いあいだ再生ができるが、今回は上演中に途切れてはいけないので、かけるごとに回した。
  • 義太夫は、レコードを蓄音機で再生するのが実際の演奏の音に近いと思う。
  • 二台の蓄音機は音をチューニングして揃えている。
  • 去年、初回を行ったときはとにかく手探りだった。2回目ができるとは思っていなかった。
  • 黒衣は着たくて人形遣いさんに借りた……🌸

 

という感じで、義太夫が生演奏ではないことに逆に意味があり、かつその再生の品質がキチンとしているところがとても良かった。義太夫が好きな方が蓄音機演奏ご担当なので、安心。

もうひとつ心配していた蓄音機の音量は、結構大きかった。そりゃ生演奏ならもっと音でかいですけど、コンパクトな室内なら気にならない。音量のイメージは、名曲喫茶って感じ。ご主人は室内にお客さんが多いと音が聞こえづらくなるとおっしゃっていたが、違和感や差し支えは感じなかった。少なくとも聞こえづらいことはない。文楽劇場で声がおとなしい太夫さんが出ているときの下手ブロックよりは全っっっっっっっっっっっっっっ然聞こえます(それは言ってはいけない)。

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本イベント、文楽好きの方の興味を集めている公演だと思うが、湯布院という開催地がネックとなってなかなか行かれない方も多いと思う。が、人形が好きな人には満足度が大変高い企画ではないかと感じた。個人的には、単発公演としては西宮白鷹文楽に並ぶ濃密な満足感があった。白鷹は和生さんメインなので技芸の高さと枯淡で上品な味わいにみどころがあるが、こちらはクラシカルな義太夫と出演者のモダニティの取り合わせがみどころ。本イベントが気になっていた方は、次回開催の際には是非湯布院へ行かれることを検討して頂きたい。温泉にも浸かれます(宿泊・懇親会付きプランあり。泊まらなくても束ノ間含め近隣旅館に立ち寄り湯あります)。

というか、ぜひとも東京公演もやって欲しいところ。会場設定と蓄音機の運搬の手配がつけば全然いける企画だと思う。学士会館とか、谷根千の古民家でやって欲しい。

いずれにしても、次回の開催が楽しみ。今後に期待のイベントだと思う。

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おまけ

今回使われた音源の一部を「国立国会図書館デジタルコレクション」で聴くことができる。

野崎村(五)燃ゆる思いは - 国立国会図書館デジタルコレクション

野崎村(六)エゝ愚痴なこと - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

昨年の第1回(『近頃河原の達引』堀川猿回しの段)のダイジェスト映像


蓄音機文楽2018ダイジェスト1

 

 

 

 

 

  • ゆふいん蓄音機倶楽部 蓄音機文楽2019
  • 『新版歌祭文(しんばんうたざいもん)』野崎村の段
  • 人形配役:お光=吉田勘彌/お染=桐竹紋臣/久作=吉田勘市/久松=吉田簑紫郎/お勝=桐竹紋吉/船頭=桐竹勘介/人形部=吉田玉佳、吉田文哉、桐竹勘次郎、吉田玉路、吉田簑之、桐竹勘昇
  • 蓄音機:HMV model 193(イギリス製/1929頃)
  • レコード:『野崎村(新版歌祭文より)』SP盤/Victor/13067〜70, 13100〜5/演奏=豊竹古靭太夫鶴澤清六/1930年(昭和5)6月、1931年(昭和6)1月発売
  • カーテンコールあり(出遣いの出演者のみ)

*1:文楽のために行った場所で大変だったのは、1位・長門、2位・湯布院、3位・熊谷。

*2:ってこの情報、どこで見たのか聞いたのか、すでに忘れた……。もらったパンフにも書かれていないので、妄想かもしれない……。

*3:久作女房の人形を出すか否かについて、『義太夫年表』に番付が載っている分を調べてみたところ、明治期の23回は8割程度が人形配役あり(人形有無に座は関係なし)。大正期の15回はすべて配役あり。昭和期は昭和11年までは配役ありだが、13年以降は人形配役なしとなっており、そのまま現行に至っているようだった。近世は未調査。

文楽 6月文楽若手会・東京公演『義経千本桜』椎の木の段・小金吾討死の段・すしやの段『妹背山婦女庭訓』道行恋苧環 国立劇場小劇場

出演者は完全にド他人なのに、「よかったねぇ〜😭よかったねぇ〜😭」と親戚のオバチャン気分になってしまう若手会・東京公演へ行ってきた。

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義経千本桜』三段目 椎の木の段〜小金吾討死の段〜すしやの段。

昨年度の地方公演で出た椎の木の段・すしやの段に小金吾討死の段を追加して三段目を通しにしていた。これを本公演でやってくれよと心の底から思った。

出演者が若いからか、登場人物たちも年相応に若い雰囲気。権太は詞章の中では「若い人」などと何度か若さが強調されるが、地方公演で観た勘十郎さん・玉男さんの権太は人物像が強く全面に出て、年齢という概念を感じなかった。しかし今回の玉勢さんの権太は若い。かなり若い。20歳ちょっとくらいに見える。というかむしろこれくらいが浄瑠璃に対して適正なのかもしれない。権太があのような結末を迎えたのは愚かさゆえだと思っていたが、この権太にはもうすこしニュアンスがあって、若さゆえの浅はかさの感がある。「椎の木の段」でもずぶとい横道者というより、無軌道に生きる軽薄なチンピラっぽいというか、アメリカンニューシネマ感が……。すしやの最後に弥左衛門が権太のいままでの素行に対し、なぜ早く改心しなかったのかと言うくだりがあるが、あれを地方公演で観たとき以上に可哀想に感じた。ただ若くてバカだったからちょっと素行が悪かっただけなのに、最悪な運命がいくつも重なって巡り合わせて、最悪な結末を迎えたようで、ひどく哀れに思えた。権太が若く見えるのは人形がスラッとして見えるのが最大の理由ではあると思うけど、人形・床ともに作り込んだ芝居がかりがなく、飾り気のない素地そのままの若者に感じられて、すがすがしく好ましかった。

その点でいうとお里〈人形役割=吉田簑紫郎〉もすごかった。等身大の娘さん、ごく普通のなんでもない女の子って感じ。世が世なら絶対タピオカ吸ってるタイプ*1。至極普通の若い娘さんならではの良い意味での中身のなさ、軽い佇まいがあるというか、こういう普通さって、なかなか出せるものではない。すしやの冒頭で店に押し寄せてくる村人ツメ人形への、商売やってる家の娘さんらしい素朴な対応。奥の一間で枕をちょとずつくっつけて「キャーーーーーーーッ💞💞💞」と一人で大盛り上がりするところのよい意味での色気のなさ。ピュアに気持ちの盛り上がりだけを表現していて、男性演者でここをまったくキモくなくやるのはすごい。男を意識した目線のシナがない*2。これらの仕草の素直さが本物の女の子みたいだった。こういう素直な演技はうまく映える役とそうでない役があると思うけど、お里にはかなりはまる。私は文楽の人形においては人工的な女性性のある演技が好きで、実はいままでこの手の自然体演技って文楽には向かないと思っていたんだけど(私は時代劇での自然体演技を認めません)、このお里はとても良かった。

権太もお里も、作為をやってる場合ではないほどに大幅ランクアップした配役だから天然でこうなっているんだろうけど、とにかくすごい。素直さゆえの輝きがある。こういうのはあと数年のうちに消えてしまうだろうと思う。

小金吾の玉翔さんはとても良かった。この手の佇まいがお得意なんだと思う。「小金吾討死の段」が特に良かった。自信をもってやっていらっしゃるのがわかった。きりっと瑞々しい雰囲気から、小金吾の生真面目さ、純粋さが直球で感じられた。そして、(ご本人には不本意だろうけど)完璧じゃないところが良い。小金吾自身の「及ばなさ」と合っている。若干中性的な若武者なのも良い。

しかし「小金吾討死の段」の小金吾の左遣いの人、相当上手いと思ったけど、おにいさんにやってもらってますかね。あのようなぴりっとした立ち回りをあそこまで綺麗に処理できる人はなかなか限られているのではないかと思う。ほかにもおにいさんに左をやってもらってるのかなって思った役があった。あれをもし若手の中から出しているのなら、すごい。小割を公開して欲しい。

それと予想外(?)に良かったのは、弥左衛門役の文哉さん。独特のジジイの味があった。変にクセ付けをすることなく、かつぎこちなくもなく、自然にジジイジジイしているというか……。干物感があった。うるめいわしの若干し的テイスト。文哉さんは昨年の若手会も新口村の孫右衛門役でご出演されていたと思うが、実はジジイ役がお得意なのだろうか。もっと若い層では、猪熊大之進役の玉彦さん、梶原平三景時役の玉路さんが丁寧で良かった。人形の姿勢がとても綺麗だった。「よかったねぇ〜😭」と親戚のオバチャン気分になった。あとはもうほんとしょうもないこと言って申し訳ないんですが、すしやで若葉の内侍たちが一夜の宿を求めて訪ねてくるところ、若葉の内侍が扉を叩いているところで六代君〈吉田簑悠〉が下手の手すりのキワでしゃがんで何かしてるけど……、あそこ、足をさすって「足が疲れたよー」ってやってたんですね。今回初めてわかった。いままでずっとバッタかコオロギを獲っているのかと思ってた……。田舎だから都にはいないようなすんごいでっかいコオロギ(ゴ?)がいて、それが珍しいのかなーと思って……。

太夫ではすしやの後の亘さんがくっきりと際立った語りで良かった。若手会らしい前向きなみずみずしさを感じた。中の靖さんも良かった。小住さん(小金吾討死の段)、芳穂さん(すしや・前)はなんかこう、普通に良かった。地方公演や単発公演ではこういう配役でもおかしくない感じ。小住さんには謎の貫禄があり、人形の若手ならではの線の細い印象を語りでカバーしていた。

先述の通り、登場人物が年相応に若く感じられる分、話が生々しく悲惨に思えて、終演後、悲しい気分になった。寺子屋だろうが尼ヶ崎だろうが、普段は「もう本人が自分で決めたことだから仕方ない」と思って観ているので、悲しいとか可哀想だと思うことはないのだけど、なんだかとても哀れに感じた。加藤泰監督『沓掛時次郎 遊俠一匹』の冒頭のほうで、気さくな渡世人として登場する渥美清が残酷に殺されるシーンを思い出した。

しかしご出演の方々とは一切関係ないですが、衝撃的だったのが『義経千本桜』に休憩時間が入らなかったことですね。2時間45分休憩なしはやばい。出演者ががんばっとるんやからおまえらの膀胱もがんばれってことなのか。ご出演の皆さんのがんばりは重々承知しておりますが、年寄りの膀胱はがんばれない。途中離席しているお客さんが結構いたが、そういうことにならないよう、すしやの前に休憩を入れて欲しかった。

 

 

 

『妹背山婦女庭訓』道行恋苧環

本公演でも5月に出たばかりで比較されやすい演目。今回の三角関係3人は、ほんわかおっとりした橘姫〈吉田簑太郎〉、ちょっとおとなしげで上品な求馬〈吉田玉誉〉、勢いとロリぶりがすごいお三輪〈桐竹紋臣〉の3人だった。

文楽業界の国民的美少女・紋臣さんのお三輪は、本公演の勘十郎さんよりだいぶ幼げな雰囲気で、年相応な娘風だった。お三輪は簪を抜いて橘姫にかざし、橘姫がそれに怯える演技があるが、簪を下ろすタイミングが勘十郎さんより早く(ほんの一瞬掲げるだけで、求馬の視線を感じた段階ではすでに下ろしている)、殺意は低めの可憐な娘さんだった。勢いでやっちゃっただけ……⭐️的な。やっぱり勘十郎さんは確信犯、殺す気満々なんだなと思った。出の直後の求馬・橘姫の間への割り込みも勘十郎さんのほうが激しかった(あれはもはやチョップしてる)。お三輪ちゃん、なかなか役の解釈が分かれますなと思った。あと紋臣さんは苧環を回すのが速かった。苧環の回転速度って変えられるんだなというか、あんなに速く回せるんだ!?と思った。多分、回すべき場所で回すこと自体に集中されてるんだと思いますが、苧環ひとつでも人によって結構違うんだなと思った。とにかく、最後の最後に出てくるだけはある、愛くるしさと覇気を兼ね備えたお三輪だった。太夫のお三輪役・希さんも可愛らしくてとても良かった。とくにお三輪の人形の出の直前の部分「思ひ乱るゝ薄影」のところ。純粋でけなげな雰囲気があって、ちっちゃな小鳥ちゃんのようなお三輪だった。

手踊りのところは本公演以上に人形3人の差が出ていた。本公演でも技量のデコボコを感じたが、もう、若手会はそういう次元じゃないですね……。揃ってないこと自体は構わないのだが、見ていて怖かった。この3人は若手会の中でも踊りがうまい人上から3人だと思う。しかし、芸風の違い・役の性質に起因するもの以上の差が見える。それは芸歴かもしれないし、やりたいことが見えるかどうかの違いかもしれないけれども……。

若手会で出る道行は、本公演のそれとは演目としてのニュアンスが違うように感じる。本公演で出るとのんびり踊りを見て一休み😪な演目だけど(休むな)、今回はみんながいい役ができて良かった良かった😭と思った。特に人形のご出演3人は、本公演ではここまでの役は絶対に来ないですもんね……。配役については、玉誉さんは橘姫でも良いんじゃないかと思った。というか、そっちのほうが向いているのではと思った。

人形の女形は人数が多く競合しているので、若手会に出ているような次々世代くらいの人は余程のものがない限り生き残れないと思うが、この人たちは今後どうなっていくのだろうかと思った。

 

 

 

はじめて若手会を観たときは、本公演との違いがよくわからなかった。しかし、いま観るともういろんな意味で全然違うし、その違いが若手会の良さだなと思う。

本公演とは必死さとひたむきさのニュアンスが違って、人の心の純粋な部分を見た気がしてちょっと心がざわつく。あかの他人の純粋な心って、普段はまず見ることはできないから……。大幅にランクアップした配役でとにかくその役をやりきることに一生懸命な方、ここぞという好配役を最大のパフォーマンスでこなすことに全力を注いでいる方、うまく役がはまって自信をもってやっていらっしゃる方、ちょっとした役でも丁寧にやってらっしゃる方、その役への喜びが純粋に出ている方、うまくいかなくともできる限りで懸命にやろうとしている方、いろいろ。本来、出演者の素地が表に出ることは好ましくないんだろうけど、なんか、いいなあと思っちゃう。こういった他人の人生の悲喜こもごもを見て物語化するのは非常に失礼だと思うんだけど、若手会は感情移入して見てしまう。

そして、本公演がなんでもなく普通に観られる(聴ける)というのは、ベテランの技術やそのパフォーマンスを最大限発揮できる環境に支えられているんだなということがよくわかった。人形の小道具の取り扱い、三味線の音の表情のつけ方。もう全然違う。本公演のクオリティの高さを実感した。人形は「やっぱりこないだの大阪での玉男さんの知盛、無理してでも観に行けばよかった……」と思った。三味線とかそれこそふだん当たり前のようにすらすら演奏されているけど、あれは当たり前に弾けているわけではなく、相当な技術と熟練に支えられていることが本当によくわかった。すしやの頭のところとか、権太がママにたかりをして泣き真似するところとか、あまりの歴然とした違いに衝撃を受けた。しかし人形に関しては、1日目にあったケアレスミスは2日目にはクリアされていて、若い人は適応が早いと思った。*3

若手会って、出演者への奨励と勉強とさせる意味と、その親類縁者向けのインナーイベントのニュアンスが濃厚だと思うけど、この点においてなんの縁故もない一般客の立場からも興味深い公演だと思う。

文楽だと、「若手」と言っても相当歳いってて、あの舞台は、世間の常識とはかけ離れた閉鎖世界ならではのものではあると思う。変な言い方だけど、あの人たちは外界から隔絶された世界に閉じ込められているから、あれだけピュアなのかもしれない。

 

終演後、あまりに「よかったねぇ〜😭よかったねぇ〜😭」という気分になり、お祝いしたい気持ちになって、とんかつを食べに行った(←出演者とまったく関係ない奴)。

若手会のみなさんに今半の弁当を差し入れたかった。*4

 

 

 

 

 

*1:こないだの大阪の鑑賞教室公演のとき、周囲の席の女学生さんたちが終演後に「タピオカ飲みたい!」と元気に叫んでいて、若い子って本当にタピオカ吸うんだ!といたく感動した。私も吸いたくなって文楽劇場のまわりを徘徊したが、現地的中華料理屋さんの売っているタピオカミルクティー、つぶつぶの覇気がすごくて買えなかった……。ぶりぶり具合がはんぱなかった。でも、あとで心斎橋のほうまで行ったら、今時風のマイルドなものが売っていた。その時点ではおなかいっぱいで買えなかった。夏休み公演に行ったおりには吸いたいので、あと1ヶ月タピオカブームがもって欲しい。

*2:いや、維盛の存在は一体とも言えるが、あのお里チャンは恋に恋しているんだよネ!

*3:でも東京でこれだけミスがあって、大阪ではどうなってたんだ!?と思った。

*4:ただしスマホのカメラのオートフォーカス機能を使いこなせる方に限ります。カンタローは三味線の稽古とともにスマホでの自撮りも稽古してください。

文楽 6月大阪文楽鑑賞教室公演『五条橋』『菅原伝授手習鑑』寺入りの段・寺子屋の段 国立文楽劇場

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大阪の鑑賞教室公演の配役は、前期・午前の部、前期・午後の部、後期・午前の部、後期・午後の部の4グループに分かれている。昨年まではこのうち前期・後期のいずれか2グループのみを観ていたが、今年は一念発起して、全グループを観た。

 

 

A. 前期・午前の部

寺子屋の段 配役]

  • 前=豊竹藤太夫・鶴澤清友/後=豊竹希太夫・鶴澤清介
  • 松王丸=吉田玉男/千代=豊松清十郎/源蔵=吉田和生/戸浪=桐竹紋臣/春藤玄蕃=吉田文司

おまけ演目だと思っていた『五条橋』。しかし、油断してはいけなかった。牛若丸役の清五郎さんがすごく良かった。みずみずしく端正な佇まいで、絵巻物が動いているような優美さ。上品な衣装の扱い、爽やかで小さめの仕草が貴公子風でとても良かった。扇をかかげる→下ろすときにも微細な表情がつけられていて、貴人らしい雰囲気があった。下ろしている途中から弁慶の演技になるので、そのとき牛若丸を見ているお客さんはごく一部だと思うが、そういった細かいところも一連の動作としてとらえた演技だった。

それにしても牛若丸の袴、ド派手。白地に鳥居の模様という北九州の成人式みたいな大変特殊なセンスだった。

 

本編・寺子屋は人形が全日程の中で突出して良い配役。なぜ玉男さんと和生さんを固めたのか。確かに玉男さんの松王丸の覇気に競り合える源蔵は和生さんか勘十郎さんしかいないとは思うが、玄蕃が文司さんだし、千代も清十郎さんだし、あからさまに人形の配役が良すぎ。

その中で面白かったのは、戸浪が紋臣さんだったこと。今回は勘壽さんが出演していないので、戸浪の配役が全体的に若い人にスライドしている。その4人の中でももっとも若い雰囲気の戸浪。芸の熟練度ではなく、醸し出す雰囲気自体がかなり若い。源蔵って絶対サイコパスだとは思っていたけど、こんな若い奥さん連れて駆け落ちとか、まじでやばすぎと思った。

紋臣さんの戸浪はなかなかのお色気奥様だった。人形(着付)自体は同じものを同配役複数人で共有しているのではと思うが、一番抜き襟して見える構え方、かつ動作を分解する複雑めの遣い方だからだろうか。千代とおじぎしあうところとか、土産に手をつけるよだれくりに「めっ💓」とするところとか(ここ、おかんノリのマジ叩きする人いません?)、近所の歯医者で大島渚気取りのキモ男に見初められてストーキングされてそうな感じだった。かねてよりツメ子供たちを迎えにくる保護者が全員男性なのを不思議に思っていたが、あいつら戸浪目的だな。

戸浪の若さに引きずられて、和生さんがかなり素早くなっていた。逸る戸浪を引き止めるところとか。和生さんって、結構、人に合わせるよね。たまに突然素早くなる和生さん、好き。和生さんの源蔵はいい。おさえた律儀な雰囲気で、端正な源蔵だけれど、真面目すぎてやばい人感があって良い。真面目でやばい人って本当にやばい。和生さんによく来る役の中で源蔵だけ浮いているように思うが、ご本人的にはどう思っていらっしゃるのかしらん。*1

松王丸は玉男さん。今回、4グループ観てよくわかったが、玉男さんは相当安定度が高い。演技が非常に安定していて、ブレがない。何回やっても同じ。迷いがなく、全体の流れやメリハリのコントロールが的確。演技がシーンごとでバラけていない。目指す表現が明確で、全編の見え方から逆算して演技を設計しているんだと思う。最近、演技が場面場面でぶつ切れになる人がいるのが気になっていたけど(義太夫も)、ならない方がすごいということなのね。今回それが本当によくわかった。でも、そういう比較とか気づきとは一切関係なく、私は玉男さんの松王丸が好き。前半の本心を塗り隠した正体不明の不気味さ。後半の静かさのなかの、滲み出るような、しぼり出すような、押し殺した悲しみ。どのときも堂々として、かつ、清澄な佇まいで、本当に素晴らしいと思う。

千代は清十郎さん、ふんわりと優しい雰囲気。かしらも結構丸顔で、ふっくらとした顔立ち。寺入りの段では「大丈夫かなこの人」と思ったけど、寺子屋の後半といろは送りのところは持ち前の清楚さが美しいかたちで出ていて、良かった。段切れ、客席に背中を向けてかがむところはとても綺麗な姿勢だった。あの姿勢、高さのコントロールや上体の見せ方が結構難しいんだなとわかった。

それにしても、千代と戸浪では、千代のほうが年下だと思っていたけど、もしかして年上なのかな。戸浪は子供がいないし、最近まで腰元勤めしていた設定だから、結構若いのかも。

千代と戸浪はどう違うのか。数年前の鑑賞教室で千代と戸浪の語りわけをやっていたけど、あれ、微妙だよね。武家の妻と在所の女房という解説をしていたけれど、声色以外にちゃんと語りわけしてる人、いるのかなと思う。戸浪だって武士の妻で、それなりの家の娘のはず。人形もついてくると舞台での見え方はさらに微妙で、両者の役の性質上の違いというより、人形遣いの個性の違いに相当引きずられていると思う。

寺子屋の子供たちは今回もめちゃくちゃ騒ぎまくっていた。菅秀才に似ているとされるいちばん美形の子、冒頭部を見ていると、あまりに落ちつきがなさすぎて笑ってしまった。あの様子を見たら一発で菅秀才ではないとわかる。それと、そのほかのしょうもない顔の子供たち、机の位置をガタガタいわす低レベルなしょうもないいたずらをしていて、本当にアホな子供でとても良かった。かしこいひとが頭で考えたアホではない、天然由来成分100%の味があった。そういえば、寺子屋のツメ子供たちって、回によって並び順ややることが結構違うんですね。そこも面白かった。ふざけてやっているように見えて、よく観察していると、道具の取り落とし等のミスのフォローのしあいが的確で自然なのも面白い。

菅秀才〈吉田玉征〉はものすごくモッフモフのプックプクの巨大ハムスターみたいだった。おっとりした所作がとても可愛くて、最後の「この悲しみはさすまいに」で涙を拭うゆったりとした仕草がとても愛らしかった。

いままで気付かなかったが、松王丸が捕手に呼びかけるところ、捕手がちゃんと返事しているんですね。ときどき不自然な返事の人がいて面白かった(失礼)。

 

 

 

B. 前期・午後の部

寺子屋の段 配役]

  • 前=豊竹呂勢太夫・豊澤富助/後=豊竹芳穂太夫・野澤勝平
  • 松王丸=桐竹勘十郎/千代=吉田簑二郎/源蔵=吉田玉也/戸浪=吉田簑一郎/春藤玄蕃=吉田玉輝

『五条橋』の弁慶の足の方、どなたかわからないけど、うまいと思った。

 

寺子屋、勘十郎さんは狂っていると思った(率直)。

昨年12月東京の鑑賞教室はかなり大ぶりの演技で、なぜそこまでやる?と思っていたけど、さらなる大ぶりな演技だった。単に誇張しているというより、大ぶりにするところを変えている。12月東京で目立っていたのは、松王丸の二度目の出、菅丞相の句を詠んで寺子屋に入り、座敷に背を向けて頭巾を取るところで「まじで!?」というレベルでメチャクチャ泣いていたことだけど、今回は源蔵が首を討つ音を聞くところと、首実検で首桶の蓋を閉めたあと、「まじで!?!?!?」というレベルに誇張した慟哭ぶりだった。とくに首実検のところ、さすがに玄蕃や源蔵が察するのではと思った。

最大の特徴は、通常の立役にはないほどのうつむきの表現。胴体に対して90度に近い、人形の首が完全に落ちているような状態にしていた。女方だと背筋を伸ばしながら首だけかなり俯かせる所作をさせる人がいるけど、立役でやっている人は初めて見た。通常、うつむき姿勢、たとえば首討ちを音を聞いて刀を取り落としてよろけ、刀を拾ってもたれかかり、うつむいて右腕をひたいに当てて顔を隠す所作のところ、あそこでも通常は顔はやや見えるはずなんだけど、髪の毛(頭頂部)しか見えないくらいに下げていた。また、人形全体の構え方として、肩をいからせ気味にしているのも特徴的だった。寺子屋の中へ入る所作(後述)から推測しても、松王丸の物理的な大きさを強調しているようだった。

むかしの映像を見ると勘十郎さんもここまで誇張した演技はしていないので、何か考えがあってやっていることだろう。勘十郎さんなら、ふつうにやってもだれからもちやほやされると思う。そのほうがまっとうなはずなのに、なぜこんな戦闘的なことを……。阿古屋で本当に琴を弾いているのも狂ってると思ったが、この松王丸はまじで狂っている。なぜこんな演技をしようと思ったのか、何を目指しているのか。

私は、勘十郎さんは、単にわかりやすくしたいというより、人形の演技を人間の演技に近づけようとしているのではないかと推測している。ただ、私は、人形浄瑠璃が人間の役者のリアリズムに近づくのは、「ないわ」と思っている。歌舞伎を見慣れている客を引くという意図なのか。しかし客の立場からすればそれなら歌舞伎を観ればいい。そこをなぜ「そっち側」に近づけようとしているのか。今後、人形遣いとしてここまでの役をできる時間は限られているはずなのに。単なる派手さ志向ではない、やばいオーラを感じる。

惜しむらくは、人形の安定度が低く、軸や重心がぐらついていること。このような勘十郎さんの人形の不安定さは体格要因だと思っていたけど、後期の松王丸役おふたりも人形の重心が安定していなかった。不必要な揺れは、玉男さん以外の全員に起こっていた。首実検では、人形がぐらつくと頭につけている熨斗紙が振動するのでかなり気になる。人形って、体力や体格で持っているわけじゃないんだなと思った。そして、左が相当うまい人でないと、松王丸、まともに横も向けないわと思った。向き直りの姿勢移行や羽織の袖の処理、刀の扱いがめちゃくちゃになっている回があった。通常、主要な役の左を勤めているのは固定の人だと思うが、このように何配役もあると、慣れていない人が入るんだと思う。がんばって!って感じだった。

床は、私が行った回だと勝平さん(後)が弦を切ったのか、音が途中からおかしくなり、大幅に音が抜けて、大変そうだった。そのあいだは芳穂さんがひとりで頑張っていた。いろは送りの最後は三味線の音が出ないとどうしようもなくなってしまう、大丈夫かなと思ったけど、それでもなんとか演奏されていて、最後までいけていた。

 

 

 

C. 後期・午前の部

寺子屋の段 配役]

  • 前=竹本織太夫・鶴澤藤蔵/後=豊竹靖太夫・野澤錦糸
  • 松王丸=吉田玉志/千代=吉田一輔/源蔵=吉田玉佳/戸浪=桐竹紋秀/春藤玄蕃=吉田文哉

さる昨年12月東京公演の『鎌倉三代記』。高綱物語に入ったところで隣の席のおじさんが泣き出したので私はびびっていた。文楽の上演中に泣き出す人は何度も見てきたが、これ、話の内容的には別に泣けないですよね。と思っていたが……、玉志さん(高綱役)に拍手してるのが自分とこのおじさんだけということに気付いた。あの玉志さんガチ恋おじさん、どなたかは存じませんが、今回の公演はご覧になりましたか。私はこのために後期日程へ来ました。

とはいえこの部、めちゃくちゃやばい。本公演で相応の役をやっているような人は誰もいない。全員がランクアップした配役。ぎりぎりの均衡、出演者のひたむきさだけで舞台が成り立っている。紅潮した、うわずった気持ちが伝わってきた。人間(しかもまったくのあかの他人)の純粋な気持ちを見たような気がして、ドギマギした。

よだれくり〈吉田和馬〉がなんとなくおりこうそうだった。小太郎〈吉田玉峻〉も相当上品でおりこうそうだった。かなりおぼっちゃま感があった。両者とも人形の構え方が端正なことによるものだと思う。和馬さんのよだれくりは、寝る前に明日の持ち物枕元に揃えていそうだった。かぶとむしとかと一緒に。

千代〈吉田一輔〉が戸浪〈桐竹紋秀〉と礼をしあうところ、戸浪の背後でよだれくりたち〈吉田玉彦、どうしたその髪型〉が手土産を食いまくるのを千代が「食ってる!食ってる!」と戸浪に教えていた。ほかのグループでは、千代と戸浪が丁寧に二礼していたりして、戸浪がよだれくりたちのいたずらになかなか気づかないパターンもあったが、一輔さんは早々に教えるのがおかしかった。この場面では、各回の配役による千代・戸浪のおじぎの仕方の違いも面白かった。体を地面と並行気味にする人、頭をかなり下げる形にする人、動作でも、胴体部分をまっすぐにおろす人、何段階かで曲げ気味にする人。必ずしも千代のほうが上品だとか、艶やかであるとかはなく、役の性質というより人形遣いの個性が出ているようだった。場面としては一瞬で、さりげないところだけど、面白かった。

玉志サンの松王丸は、かなり若い雰囲気で、衝撃的だった。始終、凛々しい佇まいだった。前半はまったくの他人面をしているようにクールに演じ、後半はかなり率直というか、素直にその心を見せるようなストレートでみずみずしい雰囲気だった。

しかしなんというか、キラキラ感とスレンダー感がかなり出ていて、天海祐希が松王丸を演じたらこんな感じになるのではと思った。宝塚の男役スター感があるというか。『ベルサイユのばら』を文楽でやる暁にはオスカルは勘彌さんだなと思っていたけど、まさかの玉志サンかもしれない。いややっぱり玉志サンにはフェルゼンをやって欲しい。話がそれた。えっ、松王丸がこんなキラキラしてるってありえるの? 樋口とか高綱、光秀が若い雰囲気なのはわかるんだけど、なぜ松王丸でこれ? と思ったが、松王丸はまだ子供が小さいところをみると実際には若いはずなので(江戸時代制作ということを考慮すると私より若いと思う。考えたくないけど)、なるほどそういう解釈ね……と思った。寺子屋の松王丸は雪持松の衣装を着ている。あれは、どういう場所に身を置いても変わることのない、松王丸の汚れなく清らかな心を表しているのだと思っているのだけど、その雪持松の衣装が似合う、清潔な松王丸だった。

それにしても、籠から降り、寺子屋の前に立つところでの病気具合にはびびった。あまりに具合悪そうすぎて、この人、インフルエンザなのかな……。はやく家帰って……。と思った。たぶん織太夫さん(ものすごい前のめりでやっておられた)に合わせてるんだと思うけど、すごい病気ぶりだった。織太夫さんといえば、文楽の現行通常とはすこし違う詞章でやっているのかね? 綱太夫本とかでやってるのか? 藤蔵さんの演奏もすこし違うところがあるように感じたが。ただ、三味線の演奏に関しては、太夫に合わせているとか関係ない次元で、三味線さん個々が継承しているものによって違いがあるようだった。

後のヤスさんは、出だしがかすれ気味で声が出ておらず、不調なのかなと思ったけど、千代のクドキのところはとても良かった。ヤスさん、いつも通り死んだ目で解説をされていたけど、私の隣の席に座っていた学校行事観劇らしき女子生徒さんが、ヤスさんが死んだ目で解説していたことをパステルカラーの可愛らしいメモ帳に可愛くて細かい字で一生懸命メモしておられた。

 

最後になったが、『五条橋』、牛若丸〈桐竹紋吉〉が相当のショタ風、弁慶〈吉田玉翔〉がイケメン武将風のキラキラ作画でびびった。人形の体格そのものに対する遣い方がそう見せているのだと思う。

 

 

 

D. 後期・午後の部(Discover BUNRAKU)

寺子屋の段 配役]

  • 前=豊竹睦太夫・竹澤宗助/後=竹本小住太夫
  • 松王丸=吉田玉助/千代=吉田勘彌/源蔵=吉田文昇/戸浪=吉田簑紫郎/春藤玄蕃=吉田玉勢

Discover BUNRAKU(外国人向け公演)の回だったため、『五条橋』は上演なし。

昨年12月東京公演のDiscover BUNRAKUではほぼすべてを英語で解説していたが、今回は逆にほぼ日本語だった。Nozomi Englishが聞けなくて残念。Nozomiは内容が間違っている英語の解説を律儀に訂正してたが、Nozomiよ、そこは英語で言ってくれと思った。玉翔さんは大阪弁のままでいいです。

驚いたのは、デモンストレーションの定番『仮名手本忠臣蔵』「裏門の段」を、冒頭部分のみながら、人形・舞台装置付き(幕のみ)で上演したこと。年間通しで忠臣蔵をやっている大阪ならではの企画。配役は解説に出ている人で、太夫=希さん、三味線=友之助さん、人形勘平=玉翔さん、お軽=玉誉さんだった。裏門の段はシチュエーションが複雑すぎて、はじめて文楽を観る人向きの内容ではないと思っていたが、人形がついていればだいぶわかる、かもしれない。人形解説では、立役の人形に妹背山の注進を使う、女方では後ろぶりを見せるなど、いつもとは違うデモンストレーションが見られた。注進の人形で「泣く」「慟哭する(だっけ?)」をやった玉翔さんは大変だったと思う。金時のかしらの人形って、普通、泣かないよね。でも、見ていてちょっと複雑な気分になった。この人たち、本公演で勘平や後ろぶりをするような人形を遣える日が来るのかな、来るとしてそれはいつなのかなと思って……。

そのほか、解説で舟底のセリを動かすところを見られたのがよかった。演目によって上段下段があるときとないときがあるが、電動式で動かすことができるとのことだった。

 

本編。ものすごいチャレンジ配役だと思ったが、千代の人形が本公演相当の勘彌さんで、千代を中心にまとまっていた。ひとり相応の人がいるだけで結構もつもんだなと思った。かなり瑞々しく清楚な雰囲気の千代で、しかし微妙にあでやかさというか、色気があり、最高だった。小太郎の手を引いてしずしず入ってくるところと、白い着付に着替えてのれん口に立っているところが良かった。私があの寺子屋のツメ子供の保護者なら、ほかの芋オヤジたちから抜け駆けして仲良くなるべく毎日1000回くらいLINEを送ってブロックされたい。

が、全体的には、「いろいろな事情で微妙な配役になってしまった地方公演(夜の部)」という感じだった。千代は引っ込んでいる時間が長いので、首実検のところが微妙な空気に……。全員頑張っているのはわかるが、どうしようもない。東京は鑑賞教室2グループで配役に優劣がつかないようにしてあるけど、大阪はなぜこんなにチャレンジ精神を発揮してくるのだろうと思った。

よだれくり〈桐竹勘介、人形に男塾の先輩感が……〉はパパツメ人形におんぶしてもらって帰ろうとするも、ツメ人形が三人遣いの人形をおんぶできるはずもなく、パパは転んでしまう。そこで逆によだれくりがパパをおんぶして、親子は退場していく。というシーン、このグループのよだれくりパパは単に転ぶだけでなく、腰をいわしていて、面白かった。しかし、ツメ人形から三人遣いの人形が生まれるって、すごいよね。そこは越えられない壁だと思っていた。よだれくりのママは三人遣いなのかもしれない。

 

↓ アンケートに答えるともらえるトートバッグ。なぜこの柄。

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4グループ観て感じたこと。まず、普段、自分が何を見て、何を見ていないかが、とてもよくわかった(気がした)。それと、普段、無意識レベルで自分が「普通」と思っているものは何なのか、ベテランはそうでない人と何が違うのかがよくわかった。普通に見える、聴こえることってすごいんだなと思った。人形に関しては、とにかく、上演時間中、人形をまっすぐ持ってる時点で、すごい。人形が、立って、座るだけで、すごいです。

太夫は若手中心となっていて、大丈夫なのかと思った。が、三味線にベテランの人がついているので、なんとか上演できていた。普段の公演では三味線に「おお」となることは少ないけれど、今回のような配役の場合、その場で突出した技量の人が一番目立つ現象が起こるためか、ベテランの三味線さんの巧さがよくわかった。みなさん良かった。三味線の音の表情のディティール、うるおい、艶やかさなどが感じられた。

人形はあからさまに前期の配役がよく、後半にいくほどチャレンジ精神が横溢していて、さすがに初めて文楽を観る方には前期に来てほしいと感じた。

本当は幹部は脇に回って、玉志さん松王丸・玉男さん源蔵の回を作って欲しかったけど、玉志さんの松王丸を見たら、これは間違いなく玉志さんは玉男さんに競り負けたなと感じたので、現時点ではばらけて良かったのかもしれない。また時が経てば、変わると思う。

 

 

 

おまけ 人形見較べポイント。

 

戸浪は源蔵から受け取った袴を畳むか否か

戸浪が袴を受け取った後、源蔵は重要な話をするが、そのとき戸浪はどう源蔵に向き合うのか?

  • A 桐竹紋臣 一切畳まない。受け取ってそのまま後ろに下げ、源蔵に向き合って話を聞く。畳みそうだと思っていたんだけど。
  • B 吉田簑一郎 かなり丁寧に畳む。紐等もちゃんと畳む。ただし、源蔵の話に相当気を引かれている風で顔は源蔵に向けており、手元はお留守風。
  • C 桐竹紋秀 一切畳まない。受け取ってそのまま後ろに下げ、源蔵に向き合って話を聞く。
  • D 吉田簑紫郎 畳まない。受け取ってしばらく持ちながら源蔵の話を聞くが、自然な流れをつくって後ろに下げる。

*AとCのおふたりは兄弟弟子のため同じ所作である可能性があるけど、紋壽さんがどうしていたかは未調査。本公演の定番戸浪・勘壽さんはDの簑紫郎さんに近い感じだったはず。

 

松王丸が寺子屋へ入るときの玄関の鴨居のくぐり方

そのまんま屋内へ入ろうとすると頭につけている熨斗紙が鴨居にひっかかってしまうところ、どうやって処理するのか?

  • A 吉田玉男 人形を高い位置に構えたままで、直立状態でくぐる。人形遣い自身がかがんで人形の位置を下げ、松王丸の姿勢はキープ。ぎりぎりでくぐるので、人形の位置の上下にはほぼ気づかない。
  • B 桐竹勘十郎 人形を高い位置に構え、松王丸にやや頭を下げさせてくぐる。人形自体の高さを保ったままで、松王丸に「くぐらせる」。人形の姿勢が崩れてでもやっているので、おそらく松王丸の大きさを強調するためにやっていると思われる。
  • C 吉田玉志 土間→屋内の段差を上がる所作を利用し、土間で人形の位置を低めにしておいて、歩く動作の中で自然にくぐる。そのため土間と座敷の認識が発生している。
  • D 吉田玉助 人形の位置自体が低めで、元々つっかかりがない。くぐるという動作を意識をせずにやってるのではという感じだった。

*こちらもAとCのおふたりは兄弟弟子のはずだが、くぐり方が異なる。初代玉男師匠がどうしていたかは未調査。


そのほかの松王丸の所作

松王丸の二度目の出、「梅は飛び」と詠んで寺子屋に入り、「女房喜べ」で勢いよく扉を閉めて座敷側に背を向けて頭巾を取るところの所作。頭巾をとりながらそのまま顔へおろして涙を拭っているのは玉男さんだけだった。ほかの人はしていなかった。玉志さんがしなかったのが一番意外だった。あの所作の目的は、松王丸の感情を表現しつつ、頭巾を外した拍子に乱れた髪の毛を自然に直すのが目的だと思うけど(たしか初代玉男師匠はそういう考えでやっているはず)、玉志さん、玉助さんは頭巾を外してそのままおろし、手で髪の毛をふさふさ直していた。勘十郎さんは、去年の12月東京鑑賞教室では拭いていたけど、今回は拭いてはいなかった(12月にやっていた泣き崩れをしなかった)。髪は直していなかったかな。

それと、首実検の最中、松王丸はときどき玄蕃や源蔵、奥の一間に目をやるが、あの目を動かす速度、玉男さん以外の人はかなり速かった。しかし、一瞬だけキョロっとするのでは、客席からは何をしているのかわからない。盗み見ているわけではないと思うので、本意を隠し仕事のふりをしてじっと注視しているというふうにしたほうがよいように思うが、どうか。玉男さんって気をもたせるような演技しないよなあと思っていたけど、ちゃんとしていたんだなあと思った。玉男さんは余計な所作をカットしているように見えて、目の動きと指先の動きは結構凝っている。首桶の蓋を閉める所作に意味をつけているのは今回は玉男さんのみだった。勘十郎さんは蓋を閉めた後の所作・姿勢に意味づけをされていた。

ほか、勘十郎さんのみ、2度目の出のツケが違う気がしたが、単に打っている人の差かも。

 

首実検での源蔵の所作

だいぶあとになって気づいたのだが、首実検にさしかかるところ「忍びの鍔元寛げて」で、源蔵に本当に鍔元をくつろげさせている人って、実は少ない? Cの玉佳さんはやっていたが(刀身が見えるレベルで引き抜く)、ほかの人は基本的に柄の部分につばを吹きかける演技だよね。っていうか、玉佳さんは両方やっておられた。これだと若干複雑気味に見えるために、ほかの人はしないのだろうか。役の人格に付随する個々のくせ的な演技の多い玉也さんをよく見ておけばよかった。失敗。

 

 

 

展示室

↓ うし アンド 唐突にリアルなにわとり(下にこの巨大にわとりをだっこしている玉志サンの写真が置いてあって最高だった)

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↓ 松王丸の衣装

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↓ 菅丞相の木像

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↓ むかしのブロマイド。1930年(昭和5年)8月、四ツ橋文楽座公演 舎人松王丸=吉田栄三

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 ↓ 同公演 女房千代=吉田文五郎

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↓ 1945年(昭和20年)1月、四ツ橋文楽座公演 一子小太郎=吉田亀夫、女房千代=吉田文五郎、妻戸浪=吉田栄三郎、菅秀才=吉田光
舞台が暗すぎてよく見えない。古い文楽の思い出エッセイ等を読むと、文楽は(物理的に)暗いとよく書いてあるが、こういうことだったのだろうか。

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*1:突然関係ないこと言いますけど、今回私が見た回の和生さんのヘアスタイルは、あまりびしっとしていませんでした。和生さんの髪型のびしっと具合のムラが気になる今日この頃、だんだん人間だけじゃなく人形の薄毛までも気になってきて、寺子屋にいる菅秀才に似た子が頭頂部薄毛気味なことに惑わされ、寺入りの段に集中できなかった。あの薄毛感、剃ってるわけじゃない感じがする。