TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

麻雀漫画と昭和の日本映画と文楽(人形浄瑠璃)について書くブログ

文楽 4月大阪公演『本朝廿四孝』『義経千本桜』国立文楽劇場

今回のメイン演目『本朝廿四孝』の勘助住家。どの解説書やチラシを見てもサイコパスが思いつきを書き連ねたような脈絡のないあらすじになっているのでどうなっているのかと思っていたが、あのあらすじ群は迷妄ではなくすべて事実だった。

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突然ですが私の知性では話が理解できないので、あらすじ文中の登場人物名を長尾家=紫武田家=緑で色分けして表示したいと思います。そういう理由につき、後ほど正体を現す登場人物も色分けしますので、ネタバレ絶対いや族の方は今の時点でブラウザを閉じてください。

桔梗原の段。

ここは甲斐(武田家)越後(長尾家)の国境にある桔梗原。武田家の奴たちが飼葉用の草をモリモリ刈り取っていると、やってきた長尾家の奴が国境からはみ出とるやんとわめき立てて喧嘩になる。両家は仲がクソ悪いのであった。そこへ武田家の執権・高坂弾正の妻・唐織〈吉田簑二郎〉、長尾家の執権・越名弾正の妻・入江〈吉田一輔〉が現れて当てこすり合戦になるも、唐織入江に言い負かされてすごすごと去っていく。
さて、ふたたび静寂となった桔梗原に、幼子を抱いたひとりの男が現れる。いまは亡き在野の軍師・山本勘助の次男・慈悲蔵吉田玉男〉であった。慈悲蔵は「母への孝行のため」と言って涙ながらに一子峰松〈吉田簑悠〉を捨てて立ち去ってゆく。
慈悲蔵が去るのと入れ替わりに、武田家執権・高坂弾正〈吉田玉輝・ナントカ弾正役が多い気が?〉&唐織が現れ、峰松にかけられた「甲州の住人・山本勘助」の下げ札を見て色めき立ち、屋敷へ連れ帰ろうとする。と、長尾家執権・越名弾正〈吉田文司〉&入江がやってきて、両者はヤレ足がこっちの領土に入っていた、ヤレ頭がこっちに向いていたと言い合いをはじめる。そこで唐織が先ほどの逆襲にどっちの乳に吸い付くか勝負にしようと言ってきたので年かさの入江はぶち切れる。しかし峰松はどっちの乳房にも吸い付かなかったので、唐織が抱いていると一応泣き止むというのと、下げ札に「甲州」とあるというので、武田家高坂弾正が引き取ることになって両者は別れいくのであった。

桔梗原、ど田舎に見えて結構人通りが多い。大道具で真ん中に左右に別れる道標が出ているというのと(左が甲斐で右が越後だったかな?)、両家の登場人物がそれぞれ左右から出てくるので、登場人物と所属地域が視覚的にもわかりやすいようになっていた。でも知性がタコかニワトリ程度しかないため、どっちがどっちか1秒でわからなくなった。

入江は一輔さんには珍しく娘のかしらではなく、八汐のかしら。出演ここだけだったけど、意外性があって面白かった。

慈悲蔵が峰松を抱いて現れる場面、峰松の抱っこ用の着物(名前がわからない、ケープのようにかけているやつ)がかわいかった。ビビッドな黄緑に色々なおもちゃの絵柄が刺繍?されているというもの。慈悲蔵の身なりや身分に似合わない上等な着物で、子供が可愛がられているのがよくわかった。すぐ捨てるけど。慈悲蔵は玉男さん。きりっとした雰囲気と、芯の強い優しさがあって、良かった。

 

 

 

狂言の途中ではございますが、ここで吉田幸助改め 五代目吉田玉助 襲名披露 口上。みなさんピンクの裃で、口上は玉男さん、和生さん、勘十郎さん。ほかの登壇は前列に簑助さんと、後列に玉がつくみなさん。玉男さんは先代玉助(追贈。吉田玉幸)の思い出話を口上に盛り込んでいた。スマイルで口上される玉男さんを見て、隣の席の人が「笑ってるとこ、はじめて見たわ……」と驚いておられた。私もその衝撃で和生さんが口上で何をお話しなさったかの記憶が飛んだ。真剣に淡々とお話しされておられる和生さんのお顔だけは覚えている。勘十郎さんは新玉助さんの話だった。勘十郎さんのお話しぶりがおもしろいから良いんだけど、パンフレットの内容とかなりかぶりがあり、勿体ないので誰か勘十郎さんにパンフ見せてあげて。と思った。

なんというか全体的に大変ほのぼのしていた。やっぱり文楽はほのぼのしてますね。末長くほのぼのしていてほしい。

 

 

 

景勝下駄の段

雪深い信濃の山奥では、山本勘助の後家・越路〈桐竹勘十郎〉が亡夫の名跡を守り暮らしている。きょうは慈悲蔵の妻・お種〈吉田和生〉が義兄・横蔵の子ども・次郎吉の世話をしながら村の衆の相手をしていた。茶をしばく村の衆は、一家の弟の慈悲蔵は母はもとより兄にまで孝行する立派な心がけだが、兄の横蔵は家族や近隣の者に非道を働く横着者と噂している。そこへ慈悲蔵が母へ食べさせる魚を採って帰宅。お種は峰松をどこへやったか尋ねるが、慈悲蔵は金持ちへ養子に出したと言って取り繕う。さて、そんな山本家の門前に、従者を引き連れた立派な身なりの侍が姿を見せる。彼こそは長尾家の嫡子・長尾景勝〈吉田玉也〉であった。越路は寒さを気遣う慈悲蔵を雪見の邪魔をする不孝者となじり、彼が母のために採ってきた魚も受け取らず、真の孝行者ならタケノコを採ってこいと無理難題をふっかける。慈悲蔵はこの寒中にと困惑するが、越路はなおも追い討ちをかけ、杖で打擲しようとしたところ、履いていた下駄が脱げて飛んでしまう。それを見ていた景勝は歩みいでて下駄を拾い、越路の足元へ捧げ置いた。その人品骨柄を見た越路が只者ではないと彼を招き入れると、景勝は軍師山本勘助の長兄・横蔵を迎えに参上したと来訪の意図を伝える。前々から横蔵の姿を知っていたという景勝に、越路は彼を家来に差し出すと返答して主従の固めの箱を受け取り、景勝は雪の中へ去っていくのだった。

今回、配役表では横蔵・慈悲蔵の母にあたる役は「勘助の母」と表記されているが、慣例では「越路」と呼ばれているようなので、便宜上「越路」と表記する。

ツメ人形に傘を捧げ持たれた景勝は一瞬の登場。玉也さん、良い役だが、一瞬すぎだった。もっと他の段も出ないと景勝の登場人物としての良さはよくわからないだろう。

 

 

 

勘助住家の段

うわさの長兄・横蔵吉田玉助〉が猟から帰宅する。越路に足を洗わせながら獲ってきた小鳥は母にやるではなく自分で食べると言ったり、こたつがぬるいと言ったり、お種にセクハラしたりと話通りの横道者である。そこへ門前から「武田信玄参上」との声がかかる。慈悲蔵が戸口に出ると、そこに立っていたのは峰松を抱いた高坂弾正の妻・唐織だった。お種は驚いて峰松を預かってくださった方かと尋ねるが、唐織甲斐の国が預かるからにはこの子は信玄公慈悲蔵を軍師として迎えに来たと告げる。慈悲蔵が自分はただの山賤であり、父の姓も譲られないうちに軍師の奉公はとてもと断ると、唐織はこの子は乳も飲まず泣いてばかりいて衰弱している、夫婦して甲斐の国で守り育てないかと迫る。しかし、奥の間に控えた母から「子どもを餌にする汚い手口の信玄に仕えては武士が立たない」と言われ、慈悲蔵唐織と峰松を突き放して門を閉めてしまう。「信玄公はここで返答を待つ」として峰松を戸口に残して去る唐織慈悲蔵は苦しみながらも母や兄への義理を立てるとして、タケノコ掘りの身支度をして出て行ってしまう。残されたお種は峰松の泣き出す声を聞いて門口の錠を開けようとするが、慈悲蔵が結びつけた縄が雪で湿ってほどくことができない。そうこうしているうちに次郎吉が泣きだし、お種は家の中へ戻るが、なおも泣く峰松の声に耐えかねて門口へ走り出し、戸を突き破って我が子を取り上げ、胸に抱く。ところがそれを密かに見ていた唐織が「信玄公を抱き上げたからには慈悲蔵甲斐の国に仕えるもの」と声を上げる。我に返ったお種が動揺していると、懐剣が飛んできて赤ん坊を貫き、峰松は死んでしまう。驚いたお種が振り返ると、狸寝入りしていたはずの横蔵が次郎吉を抱いて走り去っていくのが見えたので、横蔵の仕業と思ったお種は狂乱し、懐剣をくわえてその後を追うのだった。

日暮れ時、家の裏の竹やぶに、タケノコ掘りの鋤を持った慈悲蔵がやってくる。タケノコはないだろうと思いながらも一心に雪を掘っていると、不思議や白い鳩がジョン・ウーの映画ばりにワッサワッサと寄ってくる。兵器のある場所には鳥が群れをなすとの言い伝えから、ここに父の遺した六韜三略の巻物があるのではと思った慈悲蔵は勇んでその場を掘りはじめ、ついに何かを掘り当てるが、突然横蔵が現れて割り込んでくる。二人は掘り当てた箱を奪い合うも、そこに越路〈ここから吉田簑助〉の「両人待て」の声がかかる。越路は雪中よりタケノコ、もとい何かの箱を掘り出した慈悲蔵の孝行心を認め、彼を下がらせた。残った横蔵に、母は無紋の裃と白小袖そして腹切刀を差し出し、長尾景勝の身代わりとなって死ねと命じる。実は将軍暗殺事件の嫌疑をかけられた長尾武田両家はそれぞれの嫡子の首を差し出さねばならない約束があった。かつて長尾家の嫡子・景勝諏訪明神で自らに似た横蔵を見かけ彼の危機を救ったのは後々偽首にするためで(横蔵が博奕の種銭づくりに賽銭泥棒をして斬り捨てられそうになったところを景勝が助けた)、さきほど景勝が越路のもとを訪ねてきたのはその時機が到来し、この白装束を届けるためであった。迫る越路に横蔵は隙を見て逃げようとするが、またもどこからか懐剣が飛んできて彼の膝に突き刺さる。膝に矢を受けてしまってな状態で、もはやこれまでと腹切刀を手にした横蔵は自らの右目をえぐる。何事かと驚く母、横蔵は「景勝に似た顔にこう傷つけて相好変れば偽首として役に立たない、今日より父の名・山本勘助を受け継ぐ」と宣言し、「長尾謙信の家臣・直江山城之助、これへ出でよ」と告げる。そこへ現れたのは長裃に姿を改めた慈悲蔵と打掛姿のお種であった。慈悲蔵=直江山城之助は実はかねてより長尾家に仕えており、兄の命を主君の身代わりとして貰い受ける引き換えに我が子の命を差し出すこととし、母もそれを承知していたのだった。山城之助は自らの目をえぐって身代わりをしのいだ兄の心意気に感心し、ともに謙信に仕えて欲しいと告げる。だが勘助はそれを断り、自分が仕える主は松寿君であるという。すると、奥の一間に次郎吉=松寿君を抱いた唐織が姿を見せる。勘助はかねてより軍学に励んでいたところに信玄公と出会って主従の契約を結んだが、義晴公暗殺事件が起こり、そのとき館から源氏の白旗とともに懐妊中の側室賤の方を連れ出したこと、産後亡くなった賤の方に代わり義晴公の遺児・松寿君を我が子と偽って養育していたこと、そして横蔵の様子を怪しんだ越路が慈悲蔵に掘らせた裏の竹林にはまさに源氏の白旗を隠していたことを告げてその白旗を掲げる。越路は、不孝者かに見えた横蔵が将軍家の危急にまで思いを巡らせていたことを知り、かえって父の名を上げる『廿四孝』にも優る孝行者だとして、亡夫の残した軍法の巻物を勘助に授けようとする。しかし勘助は自分は父の氏を賜れば十分であり、母方の氏を継ぎ母への孝に篤い弟・山城之助にその巻物を与えてほしいと言う。勘助は、景勝の忠心は理解するがその親謙信を疑い、しかしながらかつて景勝に助かられた恩に右目は越後へ献上するとした。勘助景勝が越路に捧げた片足の下駄を履き、竹を斬るとそこに源氏の白旗を揚げる。それぞれ軍師となった勘助山城之助の兄弟は合戦場での再会を約束して、甲斐越後に別れゆくのだった。

なんだこの『明治侠客伝 三代目襲名』みたいなオチは!? 「かんすけくん、えらいっ!!!!!」と言いそうになったよ*1。さんざんゴチャゴチャ大騒ぎをしたが、めっちゃ八方丸くおさまっとるやん。と思った。文楽のほかの話でもよくある、時代の大きなうねりに人々が巻き込まれ、それぞれの立場で出来うるベストを行動した結果、パチパチとパズルがはまって思わず人が生きたり死んだりする話ということね。

 

《自分なりの勘助住家要点まとめ》

  • 側室賤の方懐妊祝いの席で将軍義晴が射殺され、混乱の中、賤の方が誘拐される事件が発生。首謀者と疑われた甲斐武田家・越後長尾家は、3年以内に犯人を探し出し、それが叶わなければ両家とも嫡子、景勝と勝頼の首を差し出すことを将軍の正室に誓っている。
  • かねてより直江山城之助として長尾家に軍師として仕えていた慈悲蔵は、将軍暗殺事件の現場に居合わせながら、賤の方を何者か(=横蔵)に誘拐された責任を取って切腹しようとする。彼と密通し妊娠していた賤の方の腰元八つ橋(=お種)がその場に躍り出て一緒に死ぬと言い出すが、前々から二人の関係を知っていた長尾謙信が不義の罪にかこつけて追放処置にしてくれたおかげで夫婦は無事故郷へ帰ることができた。景勝や賤の方も二人の関係は黙認していた。(以上初段)
  • というような前段があり、慈悲蔵は、長尾家への恩義と、景勝の身代わりとして死すべき兄のために息子・峰松の命を引き換えに差し出す覚悟をしている。その話を聞かされた母は、いずれ兄を殺すことになるため、横蔵がどんな横道をしても許して甘やかしている。越路が慈悲蔵に辛くあたるのは、孝行心に篤い慈悲蔵に父の秘伝を授けるべく、それだけの器量があるかを試していた。
  • 一方、横蔵は以前より別途独力で兵法を学んでおり、武田信玄と出会って将軍家の危急を知り、将軍暗殺事件の現場にも居合わせていて、懐胎した側室・賤の方を館から連れて逃げ、彼女亡き後に一粒種・松寿君をひそかに育てている。母弟はこれを知らない(慈悲蔵は本編中のどこかの時点で横蔵の正体には気づいた?)。横蔵が異様に横暴なのはこの正体をカムフラージュするためなのか、天然なのかは謎。
  • 竹林に埋まっていたのは横蔵が埋めた源氏の白旗。越路は横蔵の行動があまりに奇矯なので何事かあると疑い、慈悲蔵に怪しい場所を掘らせた。慈悲蔵が秘伝書が埋まっていると思い込んでさかんにホリホリしはじめたので、横蔵がすっ飛んで来て無理やり箱を奪い取った。この時点では横蔵は慈悲蔵の正体を知らず、この後膝に飛んできた懐剣(賤の方を誘拐したとき、横蔵が景勝に向かって投げたもの)で気づいたのか、もとから気づいていたのか?
  • 十種香・奥庭はこの後の話。八重垣姫が諏訪湖を渡っている裏で、景勝・勝頼・勘助・謙信が将軍暗殺犯である斎藤道三を捕らえる(四段目)。兄弟は川中島の合戦で各主人を伴って再会し、その合戦を仕掛けて高笑いしていた将軍暗殺事件の黒幕・北條氏時とその臣下・村上義清を捕まえる。長尾家と武田家の不和は、実は天下に謀反するこの二人をとらえるための両家示し合わせての(それぞれ慮っての?)壮大な計略であった。おしまい。(以上五段目)

 

この段は文楽らしく、細かいことは最後に勘助がすべて「物語」で説明するので、その話をよく聞いていないと話が理解できない。ここまで理解するのに、まず事前に人様から説明していただいて、近代デジタルコレクションで床本探して読んで、上演前にパンフレットを読んで、上演観て、終演後にパンフレットを読んで、床本読んで、過去映像観て、もう一回床本読んでパンフレット読んでしまった。設定がかなり細かく、あまりに技巧に走っている作品と言われていることがよくわかった。というか、この演目は通し上演前提なんじゃないでしょうか……。そうでないとこの後の十種香も意味がわからない……。

横蔵の横着ぶり。帰ってきたところに母が気を使ってお湯を用意して足を洗ってくれるが、若い娘の手ならいいけどかあちゃんの乾物のような手はイヤじゃ。母が用意しておいてくれたこたつがぬるいと、もうすぐ焼き場へ行くんだからその稽古に熱めのこたつに当たっとれ。足はお種に揉んで欲しい。って、どんだけ思ったこと口に出しとんねん。横蔵、図体がでかくてこたつからめっちゃはみ出てて笑った。確かにあれだけはみだすなら熱めにしておいて欲しいかも……。人形がでかすぎてこたつに入りきっておらず、狸寝入りするくだりは単にふとんかぶってる状態だった。こいつ小鳥10羽程度じゃ消費カロリー追いつかないだろ。一升炊きの炊飯器から直接しゃもじで飯食ってそうと思った。

お種役の和生さんは落ち着いた女房ぶり。彦山権現のお園は絶妙に不安を煽ってきたが(和生様ごめんなさい)、お種はなじんでいた。次郎吉と峰松両方に大泣きされて混乱するさまがかわいそうだった。

 

タケノコ掘りの場面は不思議なセット。手前に竹林を透し彫りしたようなフレーム状の竹の書き割りを立て、奥に竹林の書割。その間で人形が演技をしている。慈悲蔵が雪を掘るたび、大量の紙吹雪の雪がモフンモフンと舞い上がっていた。浄瑠璃本文では鳩(とり)は兵器のあるところに群れるとされているが、パンフレットの解説では鳩は孝行者の象徴であるとしている。なんで両者で解釈が違うのか。

簑助さんの越路はかわいかった。凛としたおばあちゃん。簑助さんて平素より人形の首がよく見えるような構え方をなさっているけど、おばあちゃんでもああいうふうに持たれるのね。すっと華奢な、上品な雰囲気に見える。

物語の部分は、正直言って、自分が見た時(二日目)は横蔵は山本勘助の名を継ぐに足る説得力を感じなかった。自分がちゃんと話を理解していなかったことや、幕開けしてすぐだったというのも理由だけど、個々の方の頑張りの方向というか演技が噛み合っておらず、人形にしても太夫にしても個々は良いけど結構難しい状態になっていたように思う。どういうビジョンに持っていこうとしているのかよくわからないというか……。さらには噛み合いはともかく丁寧にやって欲しいと思う部分も多かった。物語の長さぶん間が持っていない。色々もやもやすることがあるので、東京公演でもう一度じっくり観たいと思う。大阪の後半を見に行っている方からは良くなってきていると伺っているので、東京で観るのが楽しみ。

あとは横蔵がいきなり割り込んできたときに慈悲蔵が言う「兄者人、そりゃお前無理でござりましょ」はそのまんますぎて笑った。

それと、今回、昼の部も夜の部もツインテールの男多すぎじゃないですか? 玉男さんなど昼も夜も青い着物でツインテールの山賤なんですけど、どうなってるんでしょうか。横蔵とか慈悲蔵とか六助がやっているあの髪型、どういう結い方になってるのか? 『仮名手本忠臣蔵』の田舎に引っ込んでからの勘平もあの髪型なので、山仕事をする人(山賤)の髪型だろうか。

 

 

 

義経千本桜、道行初音旅。

今回は上手袖に太夫三味線が並ぶのではなく、舞台奥にひな壇を設置し、そこに太夫・三味線が並ぶという華やかな方式。なんかすごい人数が並んでしまっているが、燕三さんと宗助さんもここにいるの? 若干勿体ない感じ。人形は静御前=清十郎さん、狐忠信=勘十郎さんだった。清十郎さんの静は清廉でかわいらしく、勘十郎さんの忠信は屋島の合戦を身振り手振りで語るくだりの仕草が美しくかわいらしい。かわいいがいっぱいで、ありがたい。本朝廿四孝で全ての思考力を使い切ったので、かわいい、しか言葉が出ない。

清十郎さんの静のあの正妻に対して引き下りそう感は最高だった。そして、幸いかなり前の方の席が取れたので狐忠信をじっと見ていたが、勘十郎さんは演技に余裕があって、派手な着付での出遣いでもノイズにならない。ちょこちょことした動きが優美だった。そしてここぞとばかりに(?)お若い太夫さん三味線さんが勘十郎さんを目で追っておられた。やっぱり、普段観られないからだろうか。

この道行初音旅は勘十郎さんが狐忠信で出ること前提の演目だと思うけど、つまりそれだけの舞台を引っ張れる人ということだよね。勘十郎様、みんなのスーパーアイドル。ここだけの話ではないが、人形の演技に関して「技量が高い」というのと「スター性がある」というのと「丁寧にやっている」というのと「頑張っている」というのはやっぱり違うなと思った。重複して持っている人もいるけど。時々、その意味で誰も出ていなくて、やばい段があるよな、と思った。(そのまんますぎる感想)

 

↓ 展示室に置かれていた狐忠信と静御前の人形。忠信、お前、そんなデカかったんか……。

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文楽劇場インスタ映えスポット。なぜか戦国BASARAとコラボ。登場キャラがかぶっているわけではないらしく、ファンの方に喜んでいただけるか心配。

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*1:みなさん、加藤泰監督の『明治侠客伝 三代目襲名』(東映/1965)をご存じですか。私、この映画、任侠映画でいちばん好き。あらすじを簡単に紹介すると、明治末期、大阪で材木商を営む古くからのヤクザ一家・木屋辰の二代目(嵐寛寿郎)が祭りの喧騒に紛れて刺される。間も無く二代目は亡くなり、その初七日の席で未亡人は一家の代貸・菊池浅次郎(鶴田浩二)を跡目に指名するが、遊んでばかりいた二代目の実子・春夫(津川雅彦)は血縁の自分が三代目を継ぐべきだとして浅次郎を罵倒し、母に耳を貸さない。浅次郎は実母に刃向かう春夫を叱りつけ、自分は木屋辰を継ぐが、これから先の時代に何の役にも立たないヤクザ看板の木屋辰だけを自分が継ぎ、一家の目指すところの人のために役立つ仕事であり今後発展していくであろう材木商事業の木屋辰を春夫に継がせ、堅気にすると宣言する。という超名場面があるのですよ。そしてそれを聞いていたえらい人・丹波哲郎がすかさず唐突に「菊池くん、えらいっ。なるほど、あんたは木屋辰百年の計を考えとるっ」と言うので観客はみんなあっけに取られるのであった。加藤泰の鮮烈で力強い演出が冴え渡り、鶴田浩二には珍しく清潔感とくすみのない真心のある役のすばらしい映画。加藤泰の映画ってかぎりなく浄瑠璃っぽいよね。『沓掛時次郎 遊侠一匹』とか『人生劇場』とか『花と龍』とか、ほんと浄瑠璃みたいだと思う。

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文楽 4月大阪公演『彦山権現誓助剣』国立文楽劇場

はじめのほうの日程に行って、大阪で花見するぞ🌸🍡と思っていたら、今年は桜が咲くのが早く、初日には文楽劇場前の桜はすでに散り果てていた……。

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第二部、『彦山権現誓助剣』。話がかなり細かく展開するせいか、パンフレットのあらすじ解説がいつになく概要のみだったため、以下にあらすじまとめ。

須磨浦の段。

父・吉岡一味斎の仇を追って旅するお菊〈吉田勘彌〉は、息子・弥三松〈吉田簑太郎〉、お供の友平〈吉田文昇〉とともに須磨浦へたどり着く。体の弱いお菊を気遣って友平は駕籠を呼びに宿場へ戻り、お菊は父の盂蘭盆のあかりにと提灯を松の枝に上げ、ネムネムな弥三松を寝かしつけていた。すると、提灯の明かりに引き寄せられてか、傘を差した浪人者〈吉田玉志〉が現れる。近づいてくるその男を見ると、なんとその浪人者こそが父の仇・京極内匠であった。この男はお菊に横恋慕しており、その一件と御前試合に負けた遺恨が元で一味斎を闇討ちにしたのだった。なおも迫ってくる内匠にお菊は靡くふりをして仇討ちの機を狙うが、逆に返り討ちにされてしまう。内匠はお菊が背負っていたつづらを天の助けと背負って去ろうとするも、何故か驚いてあわててつづらを下ろす。そこへ友平が戻ってきて斬り合いになるが、暗闇にまぎれて内匠は去っていった。残忍に殺害されたお菊の遺体を発見して嘆く友平だったが、つづらの中から弥三松の無事な姿を発見する。先ほど内匠が驚いたのは、弥三松がつづらの中から脇差で彼を刺したからであった。母の姿が見えず泣く弥三松をあやし、友平はお菊の遺体をつづらにおさめて須磨浦から去っていくのだった。

京極内匠、この話で一番おもしろいキャラクター。玉志さんがやると淀みのない鋭利な残虐さがあっていいね。映画でいうと『四谷怪談 お岩の亡霊』は民谷伊右衛門役が佐藤慶、的な良さ。もうちょっとアクのある人がやればドロッとしたいかにもな色悪になると思うけど、まじで心なく人を殺しそうな、かなりクールな印象になっていた。この後の段で夜鷹相手に軽口を叩くところもドライな雰囲気を盛り上げる。人の心がなさすぎて幽霊の怨念が通用していない、それくらいのドライさ。凛々しく瑞々しい雰囲気もそれに反しての残虐さを引き立てていた。

あと人形の配役上よかったのは友平役の文昇さん。普段はこういった奴のような役はなさらないと思うが、意外やかなり似合っておられた。人形の体格がちょっと小柄な感じに見えて、むくむくした感じ。立役の人形遣いがやるような、すっと肢体の伸びた青年というより、もうちょい中年ぽくて、力のかたまりのようなコロコロとした鈴が転がるがごときコンパクトな動き。太ったでっかい猫がばたばたしてるっぽくて、可愛い。こういう演技をなさる方とは思っていなかったので、意外だった。

勘彌さんのお菊も気丈な可憐さと色っぽさですごくよかったんだけど、すぐ死んだ……。もっと出番あると思ってた……。死んでから着物の裾をまくられていた。玉志さんが控えめにめくっていた。もっとおもいっきりめくらないと客からはよく見えないと思うが、あれが玉志さんの考える「めくってセーフ」の範囲なのかもしれない。

それと床も良かった。みんなそれぞれご本人の性質に合った配役になっていて良かった。いちばん最初の段からこういう配役だと安心する。

ところで、お菊を斬り殺した京極内匠が「この者どもを手の下に。討つはいかさま鬼神か人間にてはよもあらじ」と口ずさむ部分。義太夫が謡ガカリになるので謡曲からの引用とわかったが、何から引いてるんだろうと思い、帰宅してから文明の利器インターネットで詞章を検索してみると、『熊坂』の引用とわかった。『熊坂』は盗賊・熊坂長範の亡霊が牛若丸に成敗された無念を語る物語で、この文句が出てくるのは、熊坂が宿場強盗を働こうとして仲間を牛若丸に討たれ、その技量に驚いて退却しようとする場面の直前である(と偉そうに言っているが、見たことあるのにその記憶が完全に消し飛んでいたので調べました)。京極内匠は設定上は熊坂長範側のキャラクターのはずだが、その逆張りの面白さの趣向だろうか。それともこの一節が彼の末路を表しているのだろうか。

謡ガカリについては、義太夫ではどこまで謡に寄せるべきなのか、ずっとわからなかった。普通の義太夫調に語ってる人、結構いますよね。詞章をよく聞かないと、謡の引用とわからない人。しかし先日、国立劇場の視聴室で『堀川波の鼓』の映像を見て、結構謡に寄せている人を発見した。『堀川波の鼓』は主要登場人物に小鼓の師匠がおり、彼が時折謡を口ずさむので謡ガカリになる部分が多いのだが、そこを嶋太夫さんが語っておられて、それは、かなり、謡だった。謡をうたっています、という場面だから、誰がどう聞いても謡になっていないといけないんだろうけど、他の人からは飛び抜けて謡に寄っていると感じた。

 

 

 

瓢箪棚の段

辺鄙な田舎道で辻賭博を開いている男・胴八がいる。その正体は京極内匠が賭博師に化けた姿だった。在所の者たちはその手管にまんまと騙され、インチキ呼ばわりすると逆に報復を受けるのだった。彼らが散り散りになっていくと、今度は夜鷹たち〈桐竹紋臣、吉田簑紫郎、吉田玉誉〉がやってくる。胴八が女たちに軽口を叩いていると、老武士〈吉田玉勢〉が現れ、この近くで貴人の願掛けがあるゆえにその邪魔になるとして、彼女らに揚代を渡して追い払うのだった。
さて、そこからそう遠くはない場所に立派な瓢箪棚があった。先を払う老武士・佐五平に導かれ、駕籠の中からひとりの女が姿を現わす。彼女こそが一味斎の長女にして男を凌ぐ武芸者のお園〈吉田和生〉であった。夜鷹に変装したお園は、夜毎通りかかる男に声をかけ仇である京極内匠を探していた。幾人かの男が通り過ぎてゆくうち、馬に乗った立派な身なりの武士・轟田伝右衛門〈吉田玉佳〉が通りかかる。伝五右衛門はお園を呼び止め人払いをすると、師と仰いだ一味斎の息女・お園だと気づいたことを告げて、今後の敵討の旅のためにと通行証と花代としていくばくかの金銭を渡すのだった。さらにお園がそこに佇んでいると、噂を聞きつけた友平がやってくる。彼女は再会を喜び、妹と弥三松は無事かと尋ねるが、友平は涙ながらにお菊が何者かに殺されたことを告げる。友平は、お菊の遺髪と、殺害現場に落ちていた生年月日とへその緒の入った守袋をお園に託し、お菊を守りきれなかった無念を悔いて切腹する。死の直前に友平は近傍の池にへその緒を投げ込むが、妖しやにわかに池の水が逆巻き泡立ち、お園が懐中に持っている久吉所縁の「千鳥の香炉」が音を発する。その怪事に引き寄せられてか、京極内匠がふらふらと引き寄せられてくる。この池は実はかつて明智光秀が名剣蛙丸を沈めた池であり、また、久吉が明智の首を洗った池でもあった。そして、京極内匠は実は明智光秀の遺児だったのである。父の亡霊に導かれた内匠が池のほとりから蛙丸を発見すると、お園の香炉がその霊気に共鳴しはじめる。お園は夜鷹のふりをして内匠に近づき攻撃を仕掛けるが、内匠も抜かりなく渡り合う。内匠はお園の懐中で啼く香炉を久良所縁のものと気づき打ち砕こうとし、お園もまた太刀筋から目の前の男が探し求めていた父の仇であることに気づく。内匠はひらりと彼女をかわして逃げてゆき、お園も後を追って走ってゆくのだった。

話の展開が細かすぎて記憶が揮発気味で、上記のあらすじ、あやしいかも……。夜鷹たちに小遣い渡しに来たのが誰だったか正直記憶がない……。

冒頭、ひなびた村の風景が描かれた幕が降りているあいだにやっている辻賭博、将棋盤のようなものの上で絵が描かれた独楽のようなものを回していたが、どういうルールになっているのだろう。夜鷹のいちばん先頭に立っているお福のかしらの子(惣嫁お鹿)が紋臣さんだったが、やはり上手かった。ちょっとだけ踊る振りがついていたが、可愛らしい豊かな動きだった。

幕が落ちると瓢箪棚のセットが姿を現す。和生さんのお園は桔梗や竜胆の花のようなイメージ。大人っぽくしっとりした風情がある。夜鷹に扮して駕籠から現れる立ち姿はあでやかでとても良かった。

お園と京極内匠の立ち会いでは、京極内匠が瓢箪棚から飛び降りるくだりが見所。人形といっしょに人形遣いも屋体状に組まれた瓢箪棚の上から舟底に向かって飛び降りる。客席で見るより結構高低差があるんじゃないだろうか、玉志さんめっちゃ頑張ってた。元気。玉志さんらしく一切もったいぶらず、前触れもなく突然飛び降りるので、お客さんみなさんびっくりして客席から歓声が上がっていた。人形の姿勢の崩れなさと、すぐに立ち上がって体勢を立て直すのが実に見事。このまま東京公演千秋楽まで2ヶ月、皆さんどうかお怪我や事故のないようにと祈る。この段だけ玉志さんの袴の色がいつものブルーグレーでなく、ベージュだった。干したひょうたんの色のイメージかしらん。

この段の奥は床が津駒さん(>_<)&藤蔵さんで、とても良かった。やりすぎないようでやりすぎのようでやっぱりやりすぎない(?)ギリギリの線を攻めていて、泥臭さの抜けたモダンな感じだった。ひさびさに藤蔵さんがハッスルなさっている感じがした。

あとは池のぶくぶく役の人ががんばっておられた。友平がへその緒を投げ込むとにわかに池が泡立つくだり、プワプワとしなるワイヤーに小さな白い玉をつけたものを束ね、ネギの花か正月の繭玉かのようにしたものを黒衣サンが人力でプワプワ振っていたが、京極内匠の独り言がめっちゃ長いので途中で力尽きてかなり弱々しくなっていた。はかなげなプクプクになっていて、笑った。でも最後はちゃんと持ち直してブクブクブク〜!!!ってしていて、さらに笑った。しかしあれが明智光秀の亡霊と言われても、正直全然伝わらない。亡霊!?どこにいるの!?私からは見えない死角にいるの!?!?!?と思っていた。あとは名剣蛙丸の威徳でカエルがめっちゃ鳴いていた。

しかしこの場面、お園と京極内匠はお互いが何者かを知らないで剣を交えているのだな。見境なく斬りかかるとは、お園、ほぼ辻斬り状態? 刀を折られたお園が鎖鎌を振り回し始めたのには驚いた。和生さん、普段は鎖鎌を振り回しそうもないキャラだから……。

 

 

 

杉坂墓所の段

毛谷村の杉坂の墓地で、六助〈吉田玉男〉がまだ新しい墓に手を合わせていた。その墓は先ごろ亡くなった彼の母のものだった。そこへ老女〈桐竹亀次〉を背負った浪人者〈吉田玉志〉が通りかかり、すぐそばの切り株で老女を休ませてなにやら心細やかに世話している様子。その孝行ぶりに感じ入った六助が声をかけると、浪人者は耳の聞こえない母を連れて仕官先を探していると身の上を話す。六助の名を聞いた浪人者は、「六助と立ち会って勝てば国主が召し抱える」という高札を見たが自分ではとても六助に勝つことはできない、しかし老い先短い母のためにどうしても仕官したいため、わざと立会いに負けて欲しいと頼み込んでくる。根が素直にできている六助は浪人者の孝行心に大感心し、快く負けを引き受けるのだった。
再び母を背負って浪人者が去っていくのを見て、親ほど大事なものはないと、自分も母の墓の水を替えるべく桶を手にして沢へ降りて行く六助。それと入れ違いに、墓所前に弥三松を抱えた佐五平がやって来る。佐五平はあとを追ってきた不審な山賊に斬りかかられるが、その山賊の正体は京極内匠の配下・門脇儀平〈吉田文哉〉だった。気付いた佐五平が応戦するも深手を負ってしまう。そこに水を汲んできた六助が戻ってきて儀平を蹴散らし佐五平を介抱するも、老武士は小屋を指差して手を合わせ、こと切れる。六助が何事かと思っていると、小屋から弥三松が出てきて佐五平の遺骸にすがりついて泣くので、佐五平が主君の子供を守ろうとしていたことに気づき、ひとまず泣く子を抱いて家へ帰ることにした。

六助……。この世の全てをプラス解釈する人なのか、桁外れにおおらかな人なのか、のびのび育った天然の人なのか……、よくいままでそのノリで生きてこられたね~と思った。あのノリで行き倒れの人や捨て犬捨て猫拾いまくってそうだと思った。弟子っていうかファン(?)がわさわさ寄ってきているのもわかる。なんだろうあの人たち……。

あとはバアさんとバアさん役の亀次さんがあまりにも動かないのでどうしようかと思った。遮光器土偶かお地蔵さんのようだった。

 

 

 

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毛谷村六助住家の段

弥三松を連れ帰った六助だったが、まだあまり喋れない幼子のため親の手がかりがなく、見つけた時に彼が着ていた着物を縁者への目印にと門口に干している。そんな六助の家の庭では、先ごろ杉坂の墓所で出会った浪人者・微塵弾正と六助の立会いが行われていた。六助は約束通り弾正に勝ちを譲るが、弾正は横柄な態度を取ったばかりか彼の額を扇で打擲し、悠々と去っていった。それでも六助は「親孝行っていいよね〜、恩に着なくて大丈夫だから〜」とほのぼのと弾正の駕籠を見送るのだった。
六助が弥三松にあげるぼたもちを探していると、旅疲れたので休ませてほしいという旅姿の老婆〈桐竹勘壽〉が軒先にやってくる。六助が気楽に家に上げてやると、老婆は親子にならないか、持参金も持っていると突然縁組を持ちかけてくる。六助は真に受けず、ひとまず老婆を奥の部屋へ通してもう一休みさせてやるのだった。
そんな六助が母を思って読経していると、弥三松が泣きながら帰ってくる。母を恋しがって泣く弥三松を抱き上げ、寝かしつけていると、今度は尺八を吹く虚無僧が現れる。干してある弥三松の小袖を手にしようとする虚無僧に不審がった近隣の者たちが掴みかかろうとするが、虚無僧はその者たちをいとも簡単にあしらうのだった。六助はその所作や尺八の手から偽僧であると見抜くが、虚無僧は「家来の敵」と突然襲いかかってくる。六助と互角の腕を持つ虚無僧が深編笠を取ると、なんと女。すると、弥三松が「おばさま〜!」と彼女に抱きつくではないか。虚無僧に化けていたのはお園だったのだ。すっかり機嫌を直した弥三松をあやしながら、六助は彼を保護したいきさつを語る。そして六助は自分の名を名乗るが、それを聞いたお園が突然態度を豹変させ、シャッと立ち上がって女房気取りで炊事をはじめたので、弥三松はびびってダッシュで逃げていった。お園は父から「毛谷村の六助」という男が彼女の許嫁で、ゆくゆくは六助とともに吉岡の家を継いで欲しいと言われていたことを六助に明かす。実は六助にも心当たりがあり、かつて彦山の麓で手合わせし師と仰いだ一味斎から授かった奥義の巻物の末尾に、娘を娶ってくれと記してあったのだった。 お園は父が京極内匠に闇討ちにされたこと、盲目ゆえ仇討ちのできない弟は自害し妹までもが返り討ちにあったことを語り、六助は師と再会できなかったことを涙ながらに悔しがる。その様子を奥の間で聞いていた先ほどの老婆が姿を現して、自らが一味斎の妻・お幸であると名乗り、六助の誠意を認めて一味斎の形見の刀を彼に授ける。
そこらにあった酒で二人が三々九度しているうち、近隣の者が戸板に乗せた遺骸を運び込んでくる。樵仲間の斧右衛門〈吉田勘市〉の母の姿が見えないので皆で手分けして探していたら、杉坂の土橋の下で無残な姿になっていたのを発見したというのだ。六助がその遺骸を見てみると、なんと微塵弾正が連れていた老女ではないか。何のゆかりもない老婆を騙して利用したことに怒りをあらわにする六助。六助の話とお園たちの持っている仇の似顔絵とを示し合わせると、その微塵弾正と名乗る男は紛れもなく京極内匠であった。六助は御前試合で微塵弾正を打ち負かした上で敵討ちをさせると二人に約束し、裃に姿を改める。そんな六助に、お園は梶原源太景季になぞらえた紅梅、お幸は娘と六助の行く末を寿ぐ白椿を贈るのだった。

冒頭から六助のアサッテの方向な天然ぶりが不安を煽ってくる段。冒頭に義太夫が入らず前奏もなく、六助と微塵弾正の立会いからはじまり、その評定をする役人たちの声から幕を開ける変わった入り方。そのあとも細切れのバタバタをした展開が続く。

文楽に出てくる娘さんはいい男に目がなくていい。イケメンと見るやものすごい勢いで手のひら返しをしてくる。イケメンとカスとでは明確に態度を変えてくるメンタル強者。実に素直である。そりゃ子どももびびって逃げるってもんよ。弥三松がピューッとものすごい勢いで逃げていったので笑った。娘な和生さんは渋かった。かわいらしい娘さんっていうかもうちょっと色っぽい年頃の人に見えた。押し掛け女房がしゃれにならない感がそこはかとなく漂っていた。でも芝居自体は良かった。クドキで踊るような振りをする部分にはそれこそ娘らしい清潔な雰囲気があり、綺麗だった。あとは茶碗の三々九度をものすごい勢いでイッキ飲みしていたのが可愛かった。

あとは勘市さんの斧右衛門が可愛かった。母親が殺されて見つかってすっかりヨロヨロになっており、仲間たちにかかえられてやっと立ち上がるも、手すりのへりで眉毛をハの字にしながらへなへなぴょこぴょこしていた。眉毛の力抜け速度の速さと、腰が抜けてる感が愛らしかった。

 

 

 

前半はクール&スタイリッシュな青年漫画風の展開だが、なぜか最後はほのぼのするのが不思議な話だった。こういうのを正月にやったほうがよかったのでは……。『馬鹿まるだし』のハナ肇のような悲惨すぎる最後を迎えそうなド善人・六助であったが、いかんせん本当に強かったので押しかけ妻子母に恵まれて良かったねと思った。偉丈夫の中の素直さというか、ほのかなポワン感が玉男さんに似合った役だった。良い意味で息が詰まってないと思った。あとはとにかく玉志さんが良かったので良かった。ワシはもうそれだけでエエ!!!!!!!!!!

 

 

 

和生様インタビュー動画。この映像、なんか和生さんがすごい不自然……と思っていたのだが、それは私が普段下手側から和生さんを観ているからで(大抵下手側の席に座っているため)、この映像は上手側から撮っているので私には見慣れない和生さんになっていただけのようだ。


国立劇場5月文楽公演『彦山権現誓助剣』吉田和生インタビュー

 

 

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文楽 気になる人形遣い6人 −勝手に技芸員名鑑・アイドル篇−

文楽を見始めたとき、ある意味で一番苦労したのが、「技芸員さんがひとりもわからん!!!!!!!」ということだった。

あのひしめくおじさんたちは一体なんなのか。歌舞伎や落語ならテレビに出ているような人は知っている、能・狂言なら有名ドコのご宗家や露出のある人の名前はわかる、けど、文楽は全員まじ普通のおっ…………。失礼いたしました、普通のおじさま、おにいさまなので、誰が誰だかわからない。なんというか完全にそのへん歩いてる感じなんですけど(素直すぎる感想)。

全然知らん人の大群衆といえば、話は変わるが、みなさん、杉作J太郎の名著『ボンクラ映画魂 三角マークの男優たち』という本をご存じでしょうか。これは杉作氏が60年代後半〜70年代の東映映画の出演者800人について大スターから大部屋役者まで分け隔てなくその愛を語った俳優事典……もといエッセイ集で、杉作氏独自の視点からそれぞれの役者さんへの思い入れがこれでもかとたっぷりと書かれており、たとえその役者さんの名前すら聞いたことがなく、あまた記された無名の映画たちを観たことがなくてもその愛のパワーでじっとり読めてしまうすばらしい本である。まったく聞いたこともないような映画のタイトルにどんな映画かしらと思いを馳せ、そして、のちにその映画を観たとき、ああっ、あれ、杉作サンの言っていたあの人だ、と、背景のほうにちょろりと映った俳優さんを見つけてこの本を思い出し、またあるいはいつも見ていたはずの大スターの杉作視点の側面を知り、なるほど、と本書のページを繰りながらつぶやくのである。世間一般の評価にとらわれることのない気持ちの良い筆致によって、たとえ初めて観る映画や俳優であっても愛着を感じさせてしまう……、この本をきかっけに東映映画にハマった人もいるのではないかしらと思う。

やはりファンは個々の出演者につくもの。ほんとうは歌舞伎等のように、「この人を生で観てみたい!聴いてみたい!」と思って劇場に足を運んでもらえるのが一番良いのだろうけど、しかし文楽の技芸員さんはメディア露出もほとんどないので、たとえ人間国宝クラスでも正直知名度は低いと思う。いやほんとまじで誰一人としてわからなかったです、私。諸般の事情で簑助さん、玉男さんは元々知ってましたけど、調べないとほかの方はわからなかった。そして調べるのもなかなか一苦労だった。パンフレットの技芸員一覧の写真は古くて「誰???」状態だし、本やネットに載ってる情報も大抵「わかる人向け」に書いてあって初心者には意味不明だし……。でも少しでもわかるようになると、それぞれの方に愛着が湧いてくるんだよね。

そこで、この記事では、文楽を見始めてから2年間の自分の考えをまとめるのと兼用として、杉作J太郎氏に及ぶべくもないが、自分が「この人は」と思った人形遣いさん6人について、自分の感じたことや思っているたわごと、愛着をじと〜っと書きたいと思う。

INDEX

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┃ 1. 吉田簑助(よしだ・みのすけ

#美少女 #姫 #色気 #かわいい #かわいすぎる #わしは女方やない! #人間国宝

写真左『女殺油地獄』おかち

文楽人形に対し、「まるで生きているよう」という表現を聞いたことがある人は、多いと思う。あの言葉はまさに簑助さんのためにある、現代文楽最高の美少女。

簑助さんの遣う人形は「生きている」。もしかしたら簑助さんは人形に「遣われて」いるのではないだろうか。と思うことがある。ときおり、ひとりでに動き出す人形を簑助さんが引き止め、振り回されているように見えることがある。心に残っているのは『生写朝顔話』の浜松小屋の深雪。家老の娘・深雪は親の決めた結婚を嫌い、恋する男を追って出奔したものの盲目となって袖乞いに身を落とし、貧しい掛小屋に住んでいる。そして巡礼となって彼女を探し歩いていた乳母の朝香と再会するも、深雪は身を恥じて名乗れずに小屋に身を隠す。その苦しみに大きくからだを捩って顔をそむけ、身悶えする姿は悲しく美しく可憐であり、彼女の閉じられた目からは、流れるはずもない涙がきらきらとこぼれているようで、まさに“ただの”人形とは思えなかった。

印象的なのは圧倒的なかわいさ。簑助さんが遣う女の人形には、人智を超えた何かが取り憑いて動いているとしか思えない、破滅的で衝撃的なかわいさがある。人形って人形なんだから「かわいくて当たり前」という認識を木っ端微塵に破壊される圧倒的かわいさ。かわいさの桁が違う。まじかわいい。かわいすぎる。首筋を見せつけるような首の傾げ方や体の捻り方、人間では絶対できないような異様な姿勢が特徴的で、それが悪魔的なかわいさにつながっていると思われる。また、人形の体がちいさく華奢に見える遣い方も特徴的で、同時に出演する他の人形たちとの絡みではことに可憐な雰囲気を見せる。小動物のようなクルクルした仕草、ちょっとそわそわしたり、ひょっと伸び上がったりしている姿もいじらしく愛らしい。そして、簑助さんは基本的にきわめて清楚で可憐だが、同時に独特の色っぽさがある。もっと言うとえげつない肉感的なエロスがある。湿気をはらんだ悩ましげな仕草。柔らかく温かな肌。ぽっと上気したような表情。生身の女性にはありえない、この世には存在しない夢想的なファムファタル。言うなれば菩薩。ギリシャ神話にある人形に恋した男の心がわかるようじゃ…………。まさに国宝じゃ……。ありがたや…………ありがたや…………😭🙏😭🙏😭🙏😭🙏😭🙏

ちなみに簑助さんはご本人もかわいらしいです。いつもムキュ!とされていて、なんだか気の強いゴマちゃんって感じ。パンフレットの技芸員一覧に載っているポートレートはずるすぎ。わかっててやってるね、絶対。簑助さんはいろいろ確信犯だと思う。

 

 

 

┃ 2. 吉田和生(よしだ・かずお)

#老女形 #奥様 #気品 #人間国宝 #ほのぼの #進藤英太郎

写真左『摂州合邦辻』合邦道心

「こうすれば品が良くなるという遣い方はないんです。私らは役として捉えているだけ」−−。人間国宝に認定された直後、インタビューで「品のある芸風も師匠譲りですね」と言われて和生さんが答えた言葉がコレである。すっげーーーーーーーー!!!と思った。文楽人形の演技に欠かせないもの、それは品位である。いろいろすっとばして言うけど、人形の芝居に品があるというのは、人形遣いに対する賛辞でも最高ランクのものだと思う。それ言われて調子こかず、品があるのは私ではなく役と言えるとはさすがは和生様と、私は心の底から大尊敬したのであった。

和生さんには老女形の配役が多い。武家の奥方、身分の高い子女に仕える乳母役。『花上野誉碑』志度寺の段での乳母お辻役、『生写朝顔話』での乳母浅香役では仕える君主の身分の高さと役自身の気高さと慈愛を感じさせる、ハリのあるすばらしい演技だった。またあるいは威厳に満ちた貫禄ある老人、情にあふれた壮年の武将役もお得意な役柄。『心中宵庚申』の大百姓平右衛門、『源平布引滝』の義賢役ではきわだった気品と威厳、そして慈悲のある大人物として描いていた。いずれも知性と気品のある役である。知性や気品というのは演技そのもので表現することができない。私は文楽を含む時代劇の演技で最も重要なのは身分の表現であると思う。平家の公達役と町人の入婿役、大名の姫君役と川辺に立つ夜鷹役があるとして、使っているのがたとえおなじかしらであっても、同じ演技であってはいけない。貴公子とそのへんの青びょうたんとではそれこそ一から十まで氏育ちが違うのである(そもそも一般人は氏がない)。一般人役などの身分の低い役はよいとして、問題は身分が高い役の場合。打掛のさばき方や扇の上げ下ろしといったその身分ならではの所作は当然ながら、ちょっとした手元の動き、頭の動かし方や目線のつけかたでそれを表現しなくてはならない。そこに知性や気品がにじむからである。

しかしこういった和生さんの芝居はツウのひとだけが感じ取れる、わかる人だけがわかる演技、というものではない。和生さんの演技って誰にでも伝わるんだなって思う。文楽って、時々、会社の行事で初めて来ちゃいましたって感じの団体さんがいらっしゃることあるじゃないですか。それとか、地方の単発企画公演でお見かけする、ぜんぜんわからんけど興味本位で来てみましたっ!という方々。終演後にそういった方々が「おもしろかった〜^^」と話されているのを聞くととっても心なごむのだけれど、そこでよく「人形ってどうやって表情変えてるの????」とマジ聞きしていたり、「表情がいろいろ変わっておもしろかった!」と話されている方々をお見受けする。とくに、和生さんつとめられた役がそういう話題に登っているのをよく拝聴する。そういうとき、どんなひとにでも和生さんの表現は伝わるのだなとしんから思う。きっと「文楽人形は表情をいっぱい変えることができるんだな〜」と思って帰っていかれる方も多いんだろうな。それはすばらしい勘違いであり、同時にまごうことなき真実であると思う。

と、そんな格調高い芝居をしておきながら和生さんご本人は大変にフランクでいらっしゃるようで、予告なく無料イベントに出現なさったりするのも衝撃的。屋外イベントであるにっぽん文楽が雨天中止になった際に、主催者からのサービスで無料で舞台見学ができるという臨時イベントがあったのだが、そこに突如和生さんが登壇し、記念撮影をしてくれたという話を聞いたときはマジ仰天した。和生さん、そんなん若いモンに任せてもっと悠々としとって! と思うけど、飄々としているように見えてサービス精神たっぷりでお優しい和生さん、ずっとそのままでいていただきたいです。

余談。以前、ある公演に行ったら隣の席があいていて、勿体ないなと思っていたら開演直前になって垢抜けた麻のジャケットをお召しの「ツウ」風の年配の男性がさっと入ってきてそこに座った。と同時に「落としてますよ」とその男性が床を指差して声をかけてくる。ふと見やるとそこには私のイヤホンが落ちていて、拾って「ありがとうございます」と言ってその男性のほうを見ると、ものすごい進藤英太郎に似ているではないか。「すごい〜!進藤英太郎がおる〜!息子さんかも〜!!」と興奮していたのだが、よくよく見たら和生さんだった。上演内容はまったく頭に入らなかった。またあるとき、劇場脇のベンチで時間つぶしにお茶を飲んでいたら、あられ屋の袋を持った身軽で小綺麗な身なりの年配の男性が歩いてきた。ペットボトルを傾けながらフトなにげなく顔を見るとものすごい進藤英太郎に似ていて「すごい〜!進藤英(以下略) またまたあるとき、小規模なイベント上演の入場列にクソ寒外気に凍えながら並んでいたら、前のほうからトコトコと歩いてきた男性がものすごい進藤英太郎に似ていて「すごい〜!進(以下略) とにかく、文楽公演会場の近くで進藤英太郎に似た男性を見かけたら和生さんであることは間違いない。

 

 

 

┃ 3.  桐竹勘十郎(きりたけ・かんじゅうろう)

#女形 #町娘 #おてんば姫 #思い込み暴走娘 #キツネ #武将 #謎のFacebook

写真左『玉藻前曦袂』玉藻前実は妖狐

日々力説している、山口貴由の『シグルイ』を文楽化してほしいという件。なぜそう言っているかというと、あの気品と邪智と執念に満ちた美剣士・伊良子清玄を是非とも勘十郎さんに演じてほしいからである。

勘十郎さんの持ち味、それは舞台から滲み出るような異様な執念だ。別にご本人が苦労話をしているわけではないし、わざとらしい頑張り感が出ているというわけでもない。むしろトークショー等でお見受けすると、ほんわか天真爛漫な天然キャラでいながら、実にまわりをよく見て、自分に何が求められているかを常に冷静に考えている方という印象を受ける。たいへんに実務的な方なのではないかと思う。だけどあくまで振る舞いは明るく可愛らしく、立派な方だと感じる。しかし、勘十郎さんが舞台に出ているあいだは「この人……ヤバいんじゃないか……」という、なにか超えてはならない一線を超えた、それこそ伊良子清玄のような異様なオーラが劇場を包むのである。まるで不動明王像の光背のように、情炎がその背後に見えるよう。驚異的だったのは『本朝二十四孝』の「奥庭狐火の段」。八重垣姫という深窓の姫君が恋する男の危急を知り、それを知らせるために親を裏切り、諏訪大社の神の使いのキツネの霊力を借りて諏訪湖を渡るという話。何事にもおそるおそるという風だったあどけない姫君が兜をかつぐとあら不思議やその雰囲気が一転、まるで増村保造映画に出てくるような情念が爛々と燃立つ女へと変わる。姫の衣装が早変わりで火炎柄の白い着物になるのと同時に舞台の空気が一瞬にして変わったのを感じた。

勘十郎さんはこういう情念に駆り立てられた狂った女役が良いと思う。ことに『曾根崎心中』のお初は本当に一線を超えたヤバい女になっていて、出の瞬間からびびった。あのお初は心中どころか徳兵衛の腕をひっつかんで駆け落ちしそうな勢いであった。人形の目に青く燃える情炎がともっているよう。あれには古典作品をこうも新しく解釈する人がいるのかと驚いたものである。ほかに印象的だったのは『妹背山婦女庭訓』のお三輪。おぼこい田舎娘と思いきや、恋する男にほかに女がいると知った瞬間ぶち切れてものすごい剣幕で追っていく姿。あんな普通っぽい娘さんにここまでの意思が、と驚かされた。最後まで決してヨヨとすることのない、強固な意思と情念を持ったすさまじい女の姿だった。お師匠様の簑助様の極限の美を突き詰めた非現実的なまでに美しい女性像とは異なり、女性から見た女性像というべきリアリスティックな精神性が勘十郎さんの味であると思う。

勘十郎さんは女方の一方で立役もこなされていて、そのときは「こいつ……ヤバいのでは……?」という思いつめた狂気をたたえているのが特長的(結局狂ってる)。なんか人形がヤバい感じに思いつめているんだよ……。『一谷嫩軍記』熊谷直実役はやばかった。忠義のために息子と敦盛を入れ替えて息子の首を討つという熊谷の行動は現在の倫理観では考えられない時代浄瑠璃独特のヤバすぎる行動だが、ある意味で現代に演じるにふさわしい狂気と思いつめを熊谷の人形の上に表現されていたと思う。はずみとは言え義父を殺してしまう『夏祭浪花鑑』の団七も、義父が悪辣という設定上の「理由」よりも団七自身が秘めた狂気におぞましい人間味を感じ、人っていつどういうきっかけで気が狂うかわからない、世の中はきれいごとでは済まされないと思わされる生々しい恐ろしさだった。立役の狂気と女方の情念でもって、是非ともあの美しい邪念と妄執をたたえた剣士・伊良子清玄を演じて欲しいというのが私の願いである。

演技そのものとしては洗練された外連味ともいうべき聖俗が同居した遣い方が印象的で、華とほのかな昏さを感じさせる演技が独特の味を出していると思う。先述の長町裏の団七など、手数が非常に多い複雑な動きを洗練された無駄のない手順でこなされていて観ていてスカッとしたものだ。凄惨な殺人シーンを凄惨なままで見せている点も良いと思った。キツネのお役がお好きというのもその外連の一つだろう。こういう外連が強い役って普通に考えたら芸そのもの以外に頼っているとして嫌われそうに思うけど(ご本人もトークショーでキツネの役ばかりという批判を受けるとおっしゃっていた)、それを逆に好きだとアピールしているというのは私はすごいと思う。でも実際に観てみると、外連そのものを上回る技量と研究を感じ、勘十郎さんの意思の強さと異様なまでの執念を感じるのだった。

そんな勘十郎さんには公式Facebookページがある。「コハ一体?」という謎の写真をアップするFacebookページが……。今までで一番すごかったのは満面の笑みで子ギツネを抱っこしてる写真。お父さんのFacebook状態。ほかに書くべきことあるやろ! 公演前後にアップされる人形の写真が一番の目玉コンテンツだが、頼むからスケジュールも全部事前告知して欲しい。

三世 桐竹 勘十郎 - ホーム | Facebook

 

 

 

┃ 4. 吉田玉男(よしだ・たまお)

#立役 #武将 #二枚目 #ヘタレ #人形がクソデカい #癒し系

写真『菅原伝授手習鑑』松王丸

人形の足音(足拍子)がむちゃくちゃでかいので、それまで寝ていたお客さんも玉男さんが出てくるとビックリして起きる。まるで松の巨木のごとき威風堂々とした覇気を放つ、時代物の武将ならこの人、という立役人形遣い。その演技には肉体と骨格を感じさせる芯の太さと重量感があり、古典芸能の世界観ならではの男性美が表現されている。手数をカットして動きをミニマムにとどめ、ひとつひとつの動作を重厚に見せていく演技で表現される『菅原伝授手習鑑』の松王丸、『一谷嫩軍記』熊谷直実の実直な美しさには胸を打たれるものがあった。

文楽人形って着物の下の胴体の中身は空洞で、そこに木でできた腕と足が吊ってあるだけなので、それそのままでは重量は感じない(例え実際には重くても客からはそうは見えない)。が、玉男さんの人形にはたしかにそこに血と筋肉が存在していると思わされる。おそらくこれは「止め」の姿勢やそのメリハリの美しさによるものだろう。ひとつひとつの所作にある止めの姿勢を一発で決めて、あとで調整すればいいやというスキがない。そこに緊張感や重量感、メリハリが生まれるのだと思う。それを感じたのは中之島文楽『ひらかな盛衰記』逆櫓の段が出たのを観に行ったとき。そもそもが初心者向けの公演で客席の雰囲気がゆるいし、上演時間も短いから気楽に見ようと思っていたのだけど、上手の障子が開き、髪をさばき豆絞りのハチマキを結んで船頭のこしらえをした樋口がドンと出てきたとき、ざわめいていた会場の空気は一瞬にして掃き変わった。そこは完全に平安末期の福島の海岸であり、彼は人形ではなく本物の朝日将軍義仲の御内において四天王の随一と呼ばれたる樋口次郎兼光であった。それだけの覇気を表現できる人。

一方では世話物のヘタレた二枚目役も結構映えて、優しいんだろうけどドクズだねオーラが絶妙な不思議な人でもある。近松の世話物の上演時にはそのナチュラルで優しげな雰囲気や情けないヘタレクズオーラが幕間の話題独占。『心中宵庚申』の半兵衛が妻お千代を抱いて背中をぽんぽんしてあげる優しい手つきには、なにげない所作ながら半兵衛の心の優しさと、それゆえにそのままではこの世で生きていけない悲しさが滲み出ていた。

いままでで拝見した舞台で一番よかったのは『玉藻前曦袂』の道春館の金藤次。金藤次はかつて赤ん坊の頃に捨てた娘に再会するも、止むに止まれぬ事情で父と名乗る間もなく彼女の首を討ち落とすことになる。金藤次は前半と後半でまったく雰囲気の変わる役だが、時代物の武将を遣っているときと世話物の二枚目を遣っているとき双方の素質が結晶化していて、金藤次の威厳ある姿と裏腹の内面の優しさ悲しみが表現されていたと思う。たいへんに美しい舞台だった。

配役やご本人のぱっと見は無骨でコワそうな玉男様だが、トークショーなどに行くと意外やほんわか癒し系の方で驚かされる。なんというか、それこそ文楽に出てくる姫的なオーラを放っておられるというかのおっとり優しいお話ぶり。60代であの立場でこんなピュアな人っているんだ……。たくさんのひとに愛されてスクスクお育ちになられたのね……。税金おさめててよかった……。(養分)という思いでございます。みなさん、玉男様トークショーには是非参加して癒されてください。

 

 

 

┃ 5. 吉田玉也(よしだ・たまや)

#立役 #武将 #ジジイ #ジジイ #ジジイ

写真右『心中宵庚申』平右衛門

ジジイ役をやらせたら、玉也さんの右に出る人はいないだろう。ジジイ……それは「つまんなさそうな役」に思えて、実に奥深い役。文楽の物語にはジジイっていっぱいいて、どのジジイもストーリーの要石となる大変重要な役回りである。それゆえかあまりに無数のジジイが出てくるため、ジジイの見分けがつかなくなるのではという不安が湧き出てくるが、玉也さんがジジイ役をやっていれば、そのジジイがどんなジジイかよくわかるので安心。田舎で三本の木を守って暮らすひょうきんで穏やかなジジイ、都からの勅使を務める居丈高で横柄なジジイ、元武将でいまは石屋を営んでいるジジイ、孫LOVE婿惚れ船頭のジジイ、斬られてもなかなか死なない性根まで腐りきった強欲クソジジイなど、いいジジイから悪いジジイまで、さまざまなジジイ演技を楽しませてくれます。個人的には味のある在所のジジイ役が最高で、『ひらかな盛衰記』大津宿屋の段で無骨な船頭ジジイ・権四郎が脚絆を口にくわえて外すガサツな演技には「こんな細かいところまで!」と頭が下がる思いだった。ジジイぶりにディティールがありますな。若山富三郎的な役者スピリット、いや人形遣いスピリットを感じる。

人形遣いって動きの多い芝居をする人と、手順を刈り込んだ芝居をする人がいて、玉也さんはそのうち前者である。動きの多い芝居(業界的には「手数が多い」と言うのかな)では速い動きの中でのひとつひとつの動作、そのつなぎの洗練性が必要になり、それができていないと単なる粗雑になってしまうと気づかせてくれたのも玉也さん。激しく複雑な動きのある演目でも、アスリート的な華麗な所作を見せてくれる。その意味では『夏祭浪花鑑』の因業ジジイ・義平次役はなかなか死なない感に溢れており、異様な元気いっぱいジジイぶりが超最高だった。ボディビルジジイの時代劇版って感じ。

あと、玉也さんて絶対まともな人だと思う。全然知らないですけど、まともだと思う。

 

 

 

┃ 6. 吉田玉志(よしだ・たまし)

#立役 #凛々しい #清潔感 #動かない #袴がつねにブルーグレー 

写真中央『ひらかな盛衰記』船頭松右衛門実は樋口次郎兼光

ひたすら凛々しい人。山奥の誰にも知られていない沢の清流が昇り始めた朝日を浴びてキラキラと輝いている……みたいな感じ。心に残るのは『加賀見山旧錦絵』の又助。陪臣という卑しい身分で身なりも貧しい男、それの身分ゆえに取り返しのつかない過ちをおかすのだが、その輝くように凛とした立ち姿は彼の心根の清潔さをそのままに表現していた。そして『ひらかな盛衰記』松右衛門内〜逆櫓の段では逆に船頭に身をやつしながらもその正体は武勇に聞こえた武将・樋口次郎兼光を覆い隠せないほどの凛々しさで演じておられて大変にすばらしかった。このような輝くばかりの清潔感はほかのひとにはないものだと思う。清潔感というのは真似やナンチャッテではできないもので、例え持っていたとしてもすぐにくすんでしまうもの。きっとこれは玉志さんのいままでの修行の成果と、ご本人がもとよりそなえていてベテランとなったいまなお保ち続けていらっしゃるものであろうと思う。その清々しさが好き。

立場的につねに大々的な役が来る人ではないが、大人しめの配役でもいつもやる気に溢れておられるのが玉志さんの良いところ。あんまり活躍のしどころのない役でも、所作ひとつひとつからその情熱のほとばしりが感じられる。『平家女護島』の鬼界ヶ島の流人3人のうち一番地味な(?)康頼で出演されていたとき、冒頭の「康頼が岸壁にしがみついている姿を見て俊寛ドン引き」の場面の岸壁へのしがみつき具合は本当俊寛もドン引きとしか言えない地獄の餓鬼のごときすさまじさであった。そういうとき、玉志さんは普通に観ているのでは流し見してしまうような脇役でもよく考えて遣われているのだなと感じる。そのためか、『仮名手本忠臣蔵』の塩谷判官切腹に登場する石堂右馬丞のようなほんのすこしの出番しかない役でも、彼がたんなるパシリではなく、慈悲と真心をもった勅使であることをその一瞬の出番のうちに感じられるのだ。

しかし、たぶんだけど余計な芝居がお嫌いみたいであんまり気を持たせる演技をされないため、いきなり人の首すっとばしてきたりするので注意。めっっちゃびびる。突然客の目の前に子供の生首着地。やばい。そして、玉志さんはいつも袴が渋いブルーグレーでいらっしゃるんですけど、もっと派手な役が来るようになったらもうちょっとドレスアップされるのかが目下の疑問である。

 

 

 

今回、なぜ人形遣いについて書いたかについて。

人形ってすごく不思議だと思う。文楽を観て一番最初に目に入るのは人形だけれど、逆にある意味「見ればわかるから」として注目されることの少ないパートだと思う。ぱっと見だけでは、そのビジュアルのキャッチーさに引きずられて理解がぼやけることやわからないことがたくさんあると思ったのだ。

はじめは人形遣いによる個性の違いってわからなかった。誰であっても一律に同じ演技をしていると思っていたのだ。文楽の人形はこの役にはこのかしら(頭)、というのがだいたい決まっていて、そのかしら自体が役の性根を直接的に表す強固な個性を持っている。たとえば「お園」という役なら「お園」は人形遣いが誰であれ「娘」のかしら。文楽では役者(人形)は好き勝手に演技をすることはできず、義太夫にあわせて演技をしなくてはならないし、こなすべき演技も大筋は決まっている。しかし、よく見ていると、「お園」を遣う人形遣いによって、それぞれの「お園」からは微妙に違う印象を受けることに気づく。人間の役者が演じるなら容姿や声から違う印象を受けるのは当然だけど、人形は同じだし、声を出しているのは太夫さんなので、人形遣いは人形の演技そのものでしか勝負ができない。同じ人形を使ってもここまで個性に違いがある=人形遣いに個性があるというのがすごく不思議に思った。その個性というのは、どこから出てくるものなのだろう? いまはそれを考えて舞台を観ている。

今後、違う演目を観て自分の見方が変わったり、また、それぞれの方の配役も変わっていくだろうけど、ひとまず、この2年間に感じたことの一区切りとして書いてみました。

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