TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 4月大阪公演『寿柱立万歳』『菅原伝授手習鑑』国立文楽劇場

今回は襲名披露公演ということで、劇場フロアのロビーにご祝儀の飾りがしつらえてあったり、展示室も歴代呂太夫特集だったりと華やかな雰囲気だった。

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『寿柱立万歳』。

平屋の屋根が続く街角で、太夫(人形役割=桐竹紋臣)と才三(吉田清五郎)が舞い踊る祝儀曲。人形の踊りが愛らしく、鼓をぽんぽんしたり、扇を広げて舞ったりと様子を見ているだけで楽しい。紋臣さん、扇の扱いや舞いが大変丁寧で綺麗だった。動作のひとつひとつが丁寧な人は目を引く。普段、地味目の奥様とか、女中さんが多いのがもったいない(それはそれで平野耕太の好みのタイプぽい味があって良いが)。途中、太夫がポンと投げた鼓を才三がキャッチするくだりがあって、いきなり投げた&綺麗にキャッチしたので驚いた。とか言って、このあとの『菅原伝授〜』喧嘩の段でどでかい人形がどでかいものを投げる演出に圧倒されて『寿柱立万歳』の記憶が揮発し、ここで何を投げたかを忘れてTwitterで教えていただいてしまった。ありがとうございました。人形は二人とも五色の縞模様の着物を着ており、お茶漬け感があった。

しかし太夫さんたちはもうちょっとなんとかならなかったのか……。頑張っている方がおられるのも承知しているが、あれでは人形がかわいそうだと思う。

 

 

『菅原伝授手習鑑』。

茶筅酒の段。きょうは菅丞相の下屋敷を預かる白太夫(吉田玉也)の70歳の誕生祝いの日。3人の息子とその妻たちが来る予定だが、肝心の息子たちは現れず、妻たちが先に屋敷へやって来る。

しょっぱなから仕掛けられた初心者への罠「ソックリな人形が何体も出てくる」。松王丸・梅王丸・桜丸の妻たちが全員お揃いのうぐいす色の着物でかなりトラップ感ある。桜丸の妻・八重(吉田簑二郎)だけはかしらや髪型・帯が違うからわかるとして、松王丸の妻・千代(桐竹勘十郎)と梅王丸の妻・春(吉田一輔)がまじソックリでやばい。さらに嫁たちがしきりに納戸へ出たり入ったりするのが最大のトラップ。どっちがどっちだかわからなくなる。よく見ると着物に入っている模様が千代は松、春は梅(多分)と違っているのだが、かなり小さい柄なので、客席からはほとんど見えない。もちろん着物の柄を見るまでもなく人形遣いで簡単に見分けられるのだが、人形遣いが黒衣だったら罠にはまってたね。でも千代のほうが着付けが柔らかい感じだったので、黒衣でもギリギリ見分けられる自信ありますね(ドヤ)。

この嫁たちが祝いのお膳の準備をする場面が面白かった。千代が大根を切り、春は井戸端で米をとぎ、八重がすり鉢で味噌をすっている。この料理をする場面にそれぞれの性格が出ていて可愛い。千代がおもむろに取り出した包丁がギラリと異様な光を放つので何事かと思ったら、持っているのは本物の包丁で、まな板の上に乗せた本物の生の大根をトトトトトと小気味よく切っていた。包丁を持っている勘十郎さん(が持っている女の人形)はなんとなく怖い。人を刺しそうで。千代、大根をめちゃくちゃ細かく切っていたが、何を作ろうとしていたのだろうか。浄瑠璃の詞章からするとお雑煮らしいが、勘十郎さんちのお雑煮は細かい大根が入った雑煮? その横では不器用らしい八重の味噌を擦るモーションがどんどん大きくなってゆき、すり鉢がぐらぐら、自分もぐらぐら、ついに千代とぶつかる。千代は大根を切るのと味噌をするのを交代してあげるのだが、すりこぎでへりの味噌をこそぎ落としてからすりはじめていて、細かい。料理上手の表現なんですね。と、その横で首斬り浅のごとく包丁を振り上げる八重。その見事な太刀捌きでダイナミックな大根の輪切りができていた。風呂吹き大根でも作るのかな。そんないきさつがありつつも、無事料理は完成したようだった。

 

 

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喧嘩の段。松王丸(吉田玉男)と梅王丸(吉田幸助)がやっと現れるが、不仲の二人は言い争いから喧嘩をはじめ、そのはずみで庭の桜の木を折ってしまう。

どでかい人形×2がいきなり俵を投げはじめるので驚く。客席側に向かって投げるためか確実にキャッチできるよう低めに投げるのだが、ラグビー? そして取っ組み合いの大げんかをはじめるんだけど、この人たちいくつなの。大きな人形が騒ぐので迫力がある段だった。

 

 

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訴訟の段。氏神詣に出かけていた白太夫が帰宅するが、折れた桜の木を見ても何も言わない。梅王丸と松王丸はそれぞれ「菅丞相の元へ行きたい」「勘当してほしい」と願い出るが。

かわいいおじいちゃん風だった白太夫がいきなり箒で家の上り口のところをバシバシ叩くので驚いた。通して同じかしらを使っているはずなのに、場面によって笑っているようであったり、怒っているようであったり、あるいは泣いているようだったりと、表情が変わって見える不思議な人形だというのは本当だなと感じた。

 

 

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桜丸切腹の段。三つ子の末弟・桜丸(吉田簑助)が納戸から現れ、菅丞相の不遇の原因を作ったとして八重に切腹の決意を伝える。

簑助さんの男の役は初めて見た。桜丸は出てきて→座るくらいしか大きな動きはないが、存在感があった。本当に桜の若木のような儚げな気品で、優しい華やかさがあった。桜丸はその静かな雰囲気のまま切腹して果てるが、次第に鉦を叩けなくなる父親の白太夫と、足元にうずくまりっぱなしの妻の八重の取り乱しかたが哀れだった。

しかし松王丸・梅王丸・桜丸は三つ子ということだが、桜丸だけ明らかに幼くないか。嫁さんも子供っぽいし。文楽でも歌舞伎でも三兄弟に年の差があるように演出するもののようだが、桜丸だけあからさまにキャラが違いすぎて……。いや全員いかつくても反応に困るが。

 

 

ここで狂言の途中ではございますが、豊竹英太夫改め 六代豊竹呂太夫 襲名披露口上。

紫の呂太夫の紋をあしらった金の襖を背後に、赤い毛氈を引いたステージ上に襲名する呂太夫さんと各部門の代表者・関係者が紫の肩衣姿で居並ぶ。挨拶は咲さん、清治さん、勘十郎さんからで、咲さんは司会も兼ねていた。奥の関係者一同席(?)にいる津駒さんは、顔が (>_<) になっていなかった。顔が (>_<) になるのはご自分の出番のときだけなのだなと思った。生の襲名披露口上は初めて見たが、衣装等はきちっとしているのにものすごくフランクな雰囲気で、これは誰が一番客の笑いを取れるか戦っているのだろうか。さすが大阪の人は違いますな。なごやかな15分だった。

ところで勘十郎さんは時折「ゴルフにでも行ったのかな?」って感じに黒くなっておられるが、その理由がこの口上でわかった。まごうことなき日焼けだった。

 

 

寺入りの段。武部源蔵の営む寺子屋へいわくありげな女(桐竹勘十郎)が入門志願として息子・小太郎(吉田簑太郎)を連れてくる。源蔵が不在のため、その妻・戸浪(桐竹勘壽)が対応するが。

幕が開いた瞬間、よだれくり(吉田玉翔)のデカさにびびる。ほかの子供は小ぶりなツメ人形なのに、こいつだけ三人遣いでめちゃデカい。しかも顔が完全におっさん。男塾の先輩か? そしてなにそのドヤ顔。このよだれくり含め、子供たちは自習の時間なのをいいことに、習字を顔に書く手に書く「へのへのもへじ」を書く硯の墨を人にぶっかけるなどしてさかんに遊びまくっていた。そして子供の母親=千代が手土産に持ってきた箱入りのお菓子を速攻開けてウメーウメーとばかりにバカバカ食いまくっていたが、あのお菓子はなんなのだろう。半月型のどら焼きかゴーフル(江戸時代にあったのか?)に見えたが……。浄瑠璃の詞章では「蒸物」となっており、これは小太郎の四十九日の蒸物(四十九日に供え配る餅やお萩)を暗示しているそう。菅秀才(吉田和馬)はよだれくりに勧められてもこのお菓子を食っていなかった。

 

 

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寺子屋の段。武部源蔵(吉田和生)が難しい顔をして帰宅。それは右大臣藤原時平の家来・春藤玄蕃に若君・菅秀才の首を差し出すよう迫られていたからだった。しかし小太郎の顔を見ると源蔵は表情を変える。やがて松王丸と玄蕃(吉田文司)が首実検に寺小屋を訪れるが。

松王丸は百日鬘に熨斗紙を差した紫の病鉢巻、天鵞絨の黒地に雪持松の着物の大変豪奢な衣装。杖代わりに持っている刀も大型のものだ。今回のパンフレットの表紙図案にも使われている着物の雪持松と鷹の柄はすべて刺繍で描かれていて、インパクトのある図柄ながら繊細な彩り、刺繍の縫い目も鮮やかで美しい。この衣装がじっくり見たかったのだが、幸い展示室に見本が置かれていたので細かいところまで見られて良かった。大阪での観劇はやはりこういうところがメリット。

寺子屋に子供を預けている親や爺さんたちが松王丸と玄蕃に間違って自分の子供をとられないようにと迎えに来る場面の可愛さ。親たちが「土が産ました計芋」な子供を呼び出すのを松王丸と玄蕃が門口で検分するのだが、よだれくりのパパがよだれくりより小さいのが衝撃的だった。よだれくりは「おれはここから抱かれて去の♪」と言いつつ、最終的にパパをおんぶして帰っていった。こんなやつらの顔をいちいちチェックしなくちゃならないとは玄蕃も大変な仕事だ。せまじきものは宮仕へ。首をゲットしたらあとはどーでもえーって感じでスタコラ速攻帰っていった。

松王丸は大きな人形で、出てきた時点ですでに玉男さんは汗💧状態、首実検で首桶を開ける場面でうつむくときに大粒の汗が落ちていたのにはっとした。緊迫する首実検では最後に首桶の蓋を閉めるときに松王丸の手元が震え、桶をうまく閉められていないのが印象的だった。その直前、源蔵の首打ちの声が聞こえたときに、若干うつむいて手首で顔を覆うのが心に残る。いろは送りでは松王丸と千代の抑えた演技がとても美しかった。

 

 

人形配役の豪華さが見どころで、満足感が高かった。それぞれのかたの芝居をゆっくり見られた、大変に見応えがある舞台だった。

しかしせっかくの襲名披露なんだから、寺子屋は全部呂太夫さんが語ったほうが良かったんじゃないでしょうか……。内部事情なんだろうけど、これでは誰も得しない気がするが……。それと、今回、人形の見え方は太夫さんの影響を大きく受けるんだなということを再認識した。本当、一番大切なことだと思う、義太夫の如何は。

今回『菅原伝授〜』で上演された部分は過去の記録映像をお譲り頂き事前に観ていたので、話の筋そのものを追うことに気を取られず、落ち着いて観られてよかった。来月の東京公演にも行く予定なので、今回よく見られなかった部分、源蔵の芝居などを落ち着いてちゃんと見たいと思う。

 

 

 

この作品だけのことではないけど、長い時を経て今なお残っているもの、洗練されたものというのは話が本当によく出来ていると改めて思った。

18世紀の時代物の浄瑠璃は大抵「天下泰平の世の中→悪人によって乱される→色々あって→世の中が元に戻る」という物語構造をしているそうだ。天下泰平が続くというのは初演当時、つまり徳川期の時代の空気を反映したものらしいが、ここで重要なのが「天下泰平には戻るが、個人レベルで決して取り返しがつかない事態が起こる」ということで、必ずしも公的秩序をよしとしているわけではないことだそうだ。この「絶対的な世界秩序が最上段にあるために引き起こされる、取り返しのつかない事態」というのが文楽における「悲劇」で、『菅原伝授』でいうと物語全体では藤原時平によって乱された天下泰平を菅丞相(菅原道真)が取り戻すが、そのとき物語の大きな流れの中で覚寿・白太夫・松王丸が子供を失う。この三つの親子の別れ、これについて簡便なあらすじ紹介だと、特に寺子屋のところは「忠義のために子を殺す……」となっていて、忠義を美徳と取れるような書き方がしてあるが、実際に上演を観るとそういう話ではなくて驚かされる。本来美徳であったはずのものが悲劇になる話。笠原和夫脚本の任侠映画『博奕打ち 総長賭博』の持つ悲しさ=義理のために本当に大切だったはずのものを失う、人間性を失わざるを得なくなる悲しみを思い出す(実際にはこちらのほうが古典悲劇の物語構造を踏まえているのだろうが)。『仮名手本忠臣蔵』のあらすじ紹介でよく「忠義のために……」と書いてあるのも同じく違和感*1がある。

以上、去年文楽好きになってすぐ買ったはいいけど上演を見たことないから読みようがなかった『上方文化講座 菅原伝授手習鑑』をやっと読めたので、同書を参考にして突然の知ったかぶりを書きました。

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*1:昨年末、忠臣蔵映画を見まくったが、その意味で『仮名手本忠臣蔵』に描かれている世界観をもっとも反映していたのはまさかの深作欣二監督『赤穂城断絶』だった。仮名手本準拠の話ではないが。っていうか完全にヤクザ映画になっていたが。さすが宇宙にもヤクザはいると思っている監督&映画会社だと思った。