TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 追悼・赤木しげる 最終夜 理想雀士の掟

片山まさゆきの漫画で、『理想雀士ドトッパー』という作品がある。理想雀士と名乗る謎の人物(※本名は田中)は幾多の勝負でドトップを取りまくり、閉塞していく一方だった麻雀界を変えてゆく。理想雀士とは、片山まさゆきが思い描く、現実の麻雀界にとっての理想雀士である。ただし、彼は片山まさゆき個人にとっての理想雀士ではない。


反して、作者の超個人的な理想と情念と妄想が結集した理想雀士も存在する。最も有名なのは、『天牌』の黒沢義明と『天』の赤木しげるである。*1
この2人のキャラクターは、作者自身の理想雀士としかいいようがないキャラクター造形をしており、来賀さんと福本先生はちょっと頭がアレでいらっしゃるのじゃないのかしらと心配になるほどちょうカッコイイ男として描かれている。多分、男が考えうるカッコイイ男の頂点に立つ2人なのだろう。私は男ではないのでよくわかりませんが。
来賀さんの理想雀士「黒沢さん」は徹底的に麻雀打ちとしてカッコイイ男、まさに理想雀士として描かれており、メンズ*2も黒沢さんが(人格面も含め)理想雀士ゆえについてきている。しかし、「赤木さん」はそうではない。メンズが赤木さん大好き状態なのは、赤木が麻雀が強いからではなく、単純にカッコイイからである。明らかに福本が考えている「理想の男」の像であり、別に福本の中の「理想雀士」ではない。『天』のラストで麻雀一切やってないのも結局はそういういう理由だと私は思う。『天』のラストで赤木の身軽さを褒めちぎりまくるメンズが、赤木の麻雀についてはほとんど触れなかったのがその証拠だろう。


赤木しげるというキャラクターはブレが非常に大きい。私は麻雀がよくわからぬものだから、余計にそのことが気になる。赤木のキャラクター性のブレは、福本先生の考えのブレだと思う。(対して黒沢さんのキャラがブレないのは、来賀さんの中で理想雀士像が完璧に描かれているからなのだろう。)特に、『アカギ』の赤木しげると『天』の赤木しげるの間にある溝は単に25年の年月のなせるものというにはあまりにもブレが大きい。チンピラをヤクザからもらってきた銃で撃っちゃうようなお子が、どうしてあんなまろいことになってしまうのか。鷲巣麻雀が終わった瞬間、新條●ゆの漫画ばりに超セクシーで超カッコいいグッドルッキングガイ*3が唐突に現われて「お前を変えてやるぜ!」とか言って赤木を誘拐してゆき、(…中略…)、結果ああいうふうに改造されましたという展開にならない限り私は納得できない。「死ねば助かるのに」と言っていた13歳が、死ぬことでしか自分を助けることが出来なくなるまでの約40年。そのうちの最も赤木が華やかであったろう20〜45歳までの25年間が描かれていないことで、赤木というキャラクターは読者(と井川ひろゆきさん)の妄想の中で理想雀士化されていくのだろうか。


普通に言うカッコイイ男とは、大木のように揺らぐことのない芯を持った男のように思う。しかし、赤木は地面から一応生えてはいるけど、柳のようにゆらゆらしている印象がある。揺れてはいても、その枝はしなやかで折れることはない。そのゆらぎを生み出す原因は福本先生自身の作品に対する姿勢のゆらぎ(整合性のなさ、話をまとめる力の欠如)だが、柳だから別にゆらゆらしていてもいい。そのゆらぎにこそ柳の魅力があり、ゆらぎは柳の姿を際立たせる。赤木は常に自然体で、ナチュラルな性格の持ち主として描かれている。(福本先生の特徴も唐突に出るナチュラル展開だと思う。天然とも言うが。)そのナチュラルさが赤木のキャラクターとしての最大の魅力のように感じる。というか、一時期ジャンプではやった、ゆるキャラ*4主人公のハシリだったとも思えなくもない。よくわかんないけど。


なんだかキモい上にまとまりのないことをいろいろ書いちゃったあとで全然関係ない話ですが、黒沢さんと書くと、頭にたんこぶがある方の黒沢さん*5を思い出して泣けてきます。そういうわけで、追悼・赤木しげる 最終夜は『アカギ』の感想で終わりたいと思う。とりあえず鷲巣麻雀6回戦が西入しないことを祈って、黙祷。


牌…知りそめし頃…さんに赤木しげると福本作品についての記事が掲載されています。この記事を書く際の参考にさせていただきました。改めて御礼申し上げます。

*1:ただの私の好み一点張りチョイスですみません。

*2:叶姉妹用語。取り巻きの男性のこと

*3:しつこいが叶姉妹用語。容姿端麗な男性のこと

*4:決してみうらじゅんの言うようなゆるキャラではなくて、ワンピースとかシャーマンキングとかの主人公みたいな感じね。

*5:プロレタリアートのほうの黒沢さん