TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 杉本文楽『女殺油地獄』世田谷パブリックシアター

杉本文楽現代美術家杉本博司による演出で上演される単発公演。2011年に『曾根崎心中』が上演され、今回はその第二弾。

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会場となる世田谷パブリックシアターは小ぶりのホールで、舞台に対し客席が扇型に広がっている。客席に傾斜がついているので、国立劇場小劇場のように前の人の頭で舞台が見えないという悲しい現象は少ない。2階席、3階席もあるが、文楽で覗き込みになる席は厳しいので、1階席を取った。

私が行ったのは初日。客筋は本公演とは違いアート好きの人が多いのかなと思っていたが、文楽から流れているお客様が多そうだった。ただ、笑いのタイミングが速かったり、素浄瑠璃で寝ている人が少なかったりと(奇跡)、本公演とはリアクションが異なる部分もあったので、結構な文楽ファンの人が多かったのかも。若手会のような雰囲気だった。

 

 

 

本公演のように人形浄瑠璃で上演するのではなく、口上(人形のみ)、三味線曲、素浄瑠璃人形浄瑠璃の四部構成で上演。

口上の音声は杉本博司氏自身によるものだが、近松の魂がお盆に帰ってきて話しているというテイ。暗闇に浮かぶ文机に突っ伏した近松の人形に人魂(曾根崎心中の天神森でプワンプワンしてる緑色のと同じやつ)が宿ると人形が起き上がり、半円状に客席へ張り出している舞台へ歩み出て口上をはじめるという趣向。ころんと寝転がったり雑誌を取り出して投げ捨てたりと、ちょこまか動き回る人形の仕草が可愛らしい。色々な道具を突然空中から取り出すのがちょっと手品めいているのもキュート。近松役は玉佳さん、さすがのプリティさ。

 

 

 

三味線序曲は鶴澤清治によるオリジナル「地獄のテーマ」。タイトルが少々面白な気がしますがそこは置いておいて……、義太夫風の曲かと思いきやそうではなく、なんかクラシック音楽風の曲でびっくりした(音楽の語彙が皆無のため私には説明不可能)。へえ、清治さんてこういう趣味があったんだあ……と新発見。お囃子の音色を積極的に取り入れているのも本公演にはない技法。三味線もあれは太棹じゃないのかな。

この部分では暗い背景に三味線弾き三人の座る台だけがぽっかり浮かんでいて、その背後に立てらた松の描かれた大きな屏風は進藤尚郁による「松図屏風」というお品だとか。この屏風の趣向は雰囲気に合っていて良かった。

それはともかく清治さんがメガネをかけておられたのが萌えだった。

 

 

 

浄瑠璃は千歳さん&藤蔵さんで豊島屋の前。ここの曲も清治さんがオリジナルでつけているとのこと。浄瑠璃の詞章は近松原作に即しているそうだが、本公演で同演目を観たことがないので、現行曲とどこまで違うかは私にはわからなかった。

浄瑠璃をゆっくり聞けて良かったんだけど、千歳さんの声が枯れていたのが残念。台詞部分は良いのだが地合が聞き取りづらくて話に入れず。これで万全の体調でいらしたら最高の素浄瑠璃だったんだけど。本公演千穐楽直後だから仕方ないか。それを気遣ってか、藤蔵さんの唸り声が通常比30%程度だったのが面白かった。あと藤蔵さんもメガネだった。萌え。技芸員にメガネをかけさせる新趣向か、なら玉男様にもメガネをかけさせてくれ頼む博司と思って見ていたが、そうではないようだった。単に新曲なので譜面を見るためかけていたらしい。

しかし途中で千歳さんが潮を吹いたのにはびっくりした。突如暗闇に吹き上がる謎の飛沫!!! これもそういう演出なのかと思ったが、単に千歳さんが勝手にスプラッシュしているだけのようだった。本公演で床真下の席を取るときは気をつけようと思った。

そのスプラッシュがかかったであろう背後の屏風はこれは杉本博司氏の作品で「松林図屏風」。8本の松のモノクロ写真を屏風にしたもので、皇居なり新宿御苑なりといった場所で撮ったものか? 松以外に風景が一切写っていない、まるで絵のような構図だけど絵ではない、おもしろい作品だった。

 

 

豊島屋・奥は人形浄瑠璃で上演。黒の何もない舞台には上から「豊島屋」の臙脂色の巨大なのれんが吊り下げられ、舞台奥には黒光りする油桶(明治村から借りた本物だそう)が積み上げられている。義太夫は床を与兵衛/お吉でそれぞれ下手/上手に分けた、両床での掛け合いだった。与兵衛は呂勢さん&清治さん(&清馗さん)でお吉を靖さん&清志郎さん。これは太夫さんらのパフォーマンスが上々だったこともあり良かった。*1

ただ大変残念だったのは人形の演出。手摺なしで円形のステージの上そのままを地面として縦横無尽に人形が動き回るのだが……、頑張っておられた人形遣いさんには本当に申し訳ないが、何やってるのかよくわからん。油ですべっているとわかるのは三味線の音でのみ。殺人に至るまでの普通の演技はまあ良いのだが(お吉は隣のエロ奥さんぽくて良かった)、手摺がないせいか肝心のクライマックスの油で滑る演技に迫力がなく、ものすごくこじんまりして見える。ステージの真ん中でこちゃこちゃしているだけに見えて、普段人形しか見ていない私でさえ人形が目に入らないような見え方になってしまっていた。手摺がないぶん人形が地面すれすれでスライディングするような演技はできるのだが、効果的でない。 舞台下駄なしで上演しているので高さの差を出しにくいからか、人形の姿勢がわかりづらいのもあると思う。人形のアクションが主眼となる演目で手摺や舞台下駄をなくすなら、それに変わる迫力を出す演出か演技・配役がないと意味がないと思う。*2最後のつけたしも、殺人の場面がしっかりしてないと活きない。しかし、クライマックスがボケてしまったのには、与兵衛はどの時点からお吉を殺そうとしたのか(どこからが正気でないか)等の演技のメリハリの有無、人形の姿勢や動き、カラミは洗練されていたか等の要因もあると思う。どのみち、本公演であるような、人形の芝居を見る快感がなかったのは残念だった。

 

 

 

カーテンコールで技芸員さんたちが嬉しそうにしていたので、ファンとしては技芸員さんが良いならそれで良いんだけど、全体的に詰めが甘いな〜と思った。

浄瑠璃はまさに技芸員さん個人の芸そのものなので良くて当たり前の部分はあるのだが、素浄瑠璃と両床掛け合いのやりかたは良かったと思う。文楽を観たことがないお客様も多いだろうに、よく肝要のところを素浄瑠璃で出そうと思ったなと感じる(やろうとしても人形遣いの人数が足りないのは置いといて)。むかしは文楽でも全段人形をつけていたわけではなく、素浄瑠璃で上演する部分もあったそうなので、当時はこんな感じだったのかなと思った。

しかし人形浄瑠璃の部分に関してはどう見ても本公演のほうが洗練されている。これ、人形の見え方の検証したんでしょうか? 本公演の美術が幾ら粗末な書割だとて人形の芸がそれによって見劣りすることはないのに、同氏の美術作品に比べてなんでこんな詰めが甘いのか不思議。杉本博司、本当は文楽にそこまで興味ないんろうな〜。ことに人形の芸に興味がないんだろうな〜と思った。正直どこまで意義(芸への反映)があるのかわからない原文復刻をやっているのを見ると、浄瑠璃のほうが興味があるのかな。

古典をアレンジするなら、コンセプトに基づくアレンジの必然性と有効性がないと、単なる「やってみた」になると思う。美術に「本物」を使ったり、人形の移動方向を横のみならず縦横無尽に設定するという点では、それを先行して映画でやっている栗崎碧監督『曾根崎心中』はマジよくできている。特に冒頭の生玉社前、本当に生玉神社の前で撮っている時点でスパークしているんだけど、手摺を設置していないにも関わらず、カメラ位置や美術等で本物の地面の上を人形が動き回っているかのように見せていてほとんど怪奇映像状態。たとえば手法は違うにせよあれを肉眼で見られたら本当にすごいと思う。

また、直近の文楽現代美術家コラボで良かったのは、勘十郎さんの舘鼻則孝プロデュースでのカルティエ財団公演。これは美術のほか衣装等も専用オリジナルデザイン。これも横移動だけではない&手摺を使わない見せ方ながら、演目選定のよさもあって映像見る限り上手くいっている。ただ、この公演に関しては勘十郎さんが出ているからというのが一番大きいとは思う。勘十郎さんとか玉男さんはどんなひどい環境であってもキッチリやりきる人だというのは、私も自身の目で見て実感したので……。

↓下記からカルティエ財団公式動画が少し見られる

 

それと、はたして今、近松という題材が有効なのか? また、その中でも「不良少年の衝動殺人」は口上でわざわざ言うほどに今日的なテーマなのか? というのも疑問だった。個人的には近松の新アレンジってひと昔前のものという印象。それは私が古い日本映画が好きで、60〜70年代の近松ブームのころに作られた「新演出」の近松原作映画を観ているからだと思うが、って、ひと昔どころか50年前の話ですいませんねえ……。演目選定は杉本さんの普段の作風からしても近松作にこだわらず時代物のほうが合ってそうだと思うけど、「近松」のようなわかりやすいハクがないと集客が見込めない、資金調達がつかないと判断してるのかな。

 

 

 

と、色々言いたいことはあれど、気楽にお楽しみ会だと捉えるとおもしろい内容。玉佳さんの可愛い一人芝居が見られたり、清治さんの本公演では計り知れない個人のセンス=オリジナル曲が聞けたり、東京では滅多に聞けない千歳さんの素浄瑠璃が聞けたり、本公演ではつかないような大役の若手人形遣いの芝居が見られたり。これ自体は面白い。口上も人形浄瑠璃部分が成功していればやること自体は悪くないと思う。ただ、口上の内容がどこかで聞いたことがあるような、ひと昔のセンスなのは残念だった。“杉本文楽では、あえて、その<殺し>のくだりにこだわり、究極の「見取り狂言」をめざします”とか大上段なことさえ謳わなければよかったのに。その<殺し>のくだりが一番よくなかったもの。文楽見たことない人向けにはとっかかりやアンチョコのお試しとしてはいいかもしれないが、本公演ではいつも感じる人形の芸へのおどろきがなかった。

でも、清治さんがちゃんとこだわってやっておられたのはわかった。そこだけは本当正しくて、おそらく杉本氏ご自身以上に強い思い入れをお持ちだっただろうと想像する。

そんなこんなで「油まみれのもみ合いのシーンの滑りが足りない」などと邪悪なことを抜かしていたら、帰りに寄ったとんかつ屋の床で自分がおもいっきり滑ったのであった。

 

 

 

参考

杉本文楽については、2011年の『曾根崎心中』の上演に至る過程をドキュメンタリーとして撮影したものがDVD化されている。杉本博司氏を中心に準備過程を追ったもので、実際の上演での舞台映像はダイジェストのみ収録。私はある方のご好意で観ることができたのだが、もう本番の様子どうこうじゃなくて、まず出演者向け説明会の緊迫感というか技芸員さんたちの様子がすごいのと、稽古で何を言われてもまずはやってみてから順を追って説明する勘十郎さんが心底本当に立派だと思った。いやもちろん本番の様子も面白いのだが。まあワシは技芸員さんの味方なんで、いくらでも演出家の悪口言えますわいの。

 

 

  

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*1:私は下手側だったのですぐ前で語っている呂勢さんの声は聴きやすかったが、靖さんの声は会場構造によりどこかに反響しているのか、まっすぐ聞こえてこず、スピーカー音声のようにヘンな方向から聞こえたのがちょっと残念だった。

*2:また、照明がちょっと明るすぎだと感じた。手摺がなく床面が見えている状態でステージ自体が明るいと、床に油が流れてないのがバレるので、それをカバーするほどの演技がますます要求される。

文楽 7・8月大阪公演『源平布引滝』国立文楽劇場

和生さん、人間国宝認定おめでとうございます。さすが和生さん、我がことのように、いや我がこと以上に嬉しいです。

 

 

 

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『源平布引滝』。平家から源氏へ翻意した武将たちと、源平の争乱に巻き込まれる名もなき一家の悲劇を源氏の白い旗をストーリーの鍵として描く話。『平家物語』の「実盛最期」の前日譚にあたるエピソードが含まれる。

 

 

 

義賢館の段。自分の勉強用にあらすじまとめ。

京都白河の木曽先生義賢の屋敷。源義朝の弟である主人の義賢は病に伏せ、懐妊している妻・葵御前(吉田文昇)は臨月も間近であった。義賢の娘・待宵姫(吉田簑紫郎)が気遣いをしすぎる継母・葵御前を労っていると、百姓・九郎助(吉田文司)が娘・小まん(豊松清十郎)、孫・太郎吉(吉田簑太郎)を連れて庭先へやってくる。九郎助は小まんの夫で義賢に仕える奴・折平が家をあけてもう長いため、暇をもらえるよう頼みにきたのだった。折平は主人の使いで不在のため葵御前は中に入って待つよう案内するが、折平と恋仲だった待宵姫は妻子の存在に動揺を隠せない。やがて使いから戻った折平(吉田玉志)が庭先で取り次ぎを願うと、人目もはばからず駆け寄った待宵姫が恨み言を述べる。そこへ主人・義賢(吉田和生)が現れ、源氏の末孫・多田蔵人行綱に宛てた書状は届けられたかと問うが、折平は行綱の館が見つからずそのまま持ち帰ったと状箱を返す。しかし義賢は書状の封が切れていることから折平こそが多田蔵人行綱であると見抜く。源氏でありながら平家に仕える義賢に、折平は自分を行綱として清盛へ訴え出る気かと疑いをかけるが、義賢は庭の手水鉢を小松で割ることで源氏に本心があることを示し、源氏の白旗を掛け置いていつか源氏を復興させることを誓い合った。

そこへ清盛の上使・高橋判官長常(桐竹亀次)と長田太郎宗末(桐竹紋吉)が館へ白旗の詮議へやって来る。平家によって義朝の首と源氏の白旗は後白河法皇のもとへ届けられていたが、法皇がその白旗を義賢に預けたことを清盛が勘付いたのだった。しらを切り通す義賢に二人は兄である義朝の髑髏を踏んで誓えと迫るが、義賢は無念を耐え忍んで髑髏を足にかけたにも関わらず、なおも拷問に及ぼうとする長田太郎を殺害する。逃げていく高橋判官の姿に、援軍を呼ばれて自らは討ち死にするであろうことを覚悟した義賢は行綱と待宵姫に源氏の行く末を託して二人を屋敷から逃がす。事の次第を聞いていた九郎助は葵御前を在所で預かると申し出る。義賢は源氏の白旗とともに葵御前を一家に託すことを決意し、生まれ来るおなかの子どもと別れの盃を交わし、平家の無道者に甲冑で立ち会っては武具の穢れと素襖姿に着替える。現れた高橋判官、進野次郎宗政(吉田玉誉)ら討手に取り囲まれる一行、九郎助らも義賢と共に応戦するが、源氏の旗は葵御前の手から奪われて横田兵内(桐竹勘介)に渡ってしまう。義賢が奪い返した隙をついて九郎助は葵御前と太郎吉を連れて館を脱出、義賢は取り付いた進野次郎とともに自らを刺し貫き、その場に残っていた小まんに白旗を託して壮絶な最期を遂げた。

和生さんの堂々たる義賢が良かった。去年、勧進帳で冨樫で出演されてたときは大きな人形で大変そうだと思ったけど、今回はなんだか悠々としておられるように見える。とっても顔色がよくていらっしゃった。義賢が小松で手水鉢を割ることで源氏に本意があることを暗示する場面、なぜ手水鉢を割ったらそうなるのかよくわからなかった。台詞で説明があるが聞いてもわからなかった。義賢が引き抜いた小さな松には立派な根っこがついていた。

葵御前は臨月も間近の妊婦という設定だが、人形は普通の着付けになっているのね。帯のつけかた等はもしかしたら違うのかもしれないが、おなかを大きくするなどは特にない。所作も普通で、特に見た目での変化はつけないのか。この後の段で駒王丸を産んだあと出てきても見た目が変わるわけではない。

折平のスモーキーなスカイブルーに金・黒のストライプの縁のついた着物が美しかった。そして玉志さんの出番が一瞬で終了したので悲しかった。いや、こういう一瞬で出番が終わる役こそこなすべき演技そのものや人形の見た目以上のものを表現できる人がやらなくてはいけないのはよくわかるのですが……。特にこういうナチュラルにすごいドクズ役は……。

 

 

 

矢橋(やばせ)の段、竹生島遊覧の段。

白旗を持った小まんは矢橋の浦へたどり着くが、追手・塩見忠太(桐竹勘次郎)らに追いつかれてしまう。自慢の手荒さで男たちを投げ飛ばすもついに追い詰められ、小まんは琵琶湖へ飛び込む。(矢橋の段)

そのころ琵琶湖志賀の浦には豪奢な御座船が浮かんでいた。それは平家の公達・平宗盛(桐竹紋秀)の竹生島参詣の船であった。そこを小舟で通りかかった斎藤実盛吉田玉男)は清盛公の命により源氏の残党の詮議があるためと挨拶だけで去ろうとするが、宗盛の家来・飛騨左衛門(吉田文哉)に勧められて祝いの盃を頂戴するため御座船へ乗り移る。一行が盃を上げていると、勢田唐崎に松明船の無数の篝火が見え、実盛は溺れかけながら必死で泳いでいる女の姿を見つける。実盛は櫂を投げやって女−−小まんを船の上へと救い上げ、薬を与えて介抱した。小まんは実盛らに感謝の言葉を述べるが、これが平家の船と聞くと己の不運に身を震わせる。そこへ高橋判官が船で乗り付け、小まんが源氏の白旗を持っていることを一行に告げる。左衛門が小まんから白旗を取り上げようとしたそのとき、実盛が彼女の腕を白旗もろとも斬り落とし、小まんの右腕と白旗は琵琶湖の水中へと消えていった。(竹生島遊覧の段)

男勝り設定の小まんは、雑魚のみなさんを一本背負いしていた。小まんは、百人、千人にも勝るから小まんという名前らしい。パンフレット掲載の清十郎さんのインタビューには、小まんの演技は人形遣いの裁量である程度自由にできるというようなことが書いてあったが、ちょっと大人しめ、儚めのイメージにされてるのかな。御座船が平家の船と知った時点で早々にシオシオと儚くなりかかっていた。人によってはメチャクチャ強気の女に仕上げてくる人がいそうだがどうなのだろう。

文楽を前のほうの席で観ていると首等が目の前にすっ飛んできてびびることが多いが、今回小まんの腕が飛んでくるのは実盛が刀をスラリと抜いてウロウロしはじめた時点で目の前に飛んでくる予感がしたので、あまりびびらずにすんだ。とはいえ何も言わずいきなりばさっと斬り落とし、小まんの人形が後ろに倒れて小まんがどうなったのかわからないまま幕となるので驚くには驚く。

大変余計なことだが、実盛が乗っている小舟は実盛の人形のデカさのわりに小さく、前のめりに沈みそうだと思った。

 

 

九郎助住家の段。

小野原村の九郎助の家では、九郎助の女房(吉田簑一郎)が綿繰をしていた。そこへやって来たのが甥の仁惣太(吉田玉翔)。訴人すれば金になる葵御前がここにいるのではないかと探りに来た彼を、女房はそれは九郎助が孕ませたどこぞの飯炊き女だと言って追い返す。一方、葵御前はいつまで経っても帰らぬ小まんを心配していた。女房がおおよそ折平を追ってどこかへ行ったのだろうと安心させようとしていると、臨月の葵御前のために鮒を捕りに行った九郎助と太郎吉が何か獲物を持って帰ってくる。網に入っていたのはなんと若い女の片腕。草津川を流れてくるのを太郎吉がせがむので獲ったというのだ。太郎吉が女の手の持っている白絹を開いて見ると、それは件の源氏の白旗だった。一同はもしやこの腕は姿を消した娘のものではと顔を見合わせる。

そこへ源氏の胤を詮議する瀬尾十郎(吉田玉也)と実盛が、庄屋(吉田玉彦)と仁惣太に連れられてやって来る。褒美狙いの仁惣太が訴人したのであった。しらを切る九郎助に瀬尾は葵御前を出せと迫るが、実盛の執り成しで九郎助は子どもが生まれるまで待って欲しいと瀬尾に頼む。しかしなおも腹を割いてでも詮議すると強く迫る瀬尾に、九郎助の女房はいましがた生まれたと産衣の包みを抱いて持ってくる。瀬尾がその産衣を解いてみると、錦に包まれていたのは血に染まった女の片腕であった。驚き激怒する瀬尾に、実盛は中国で王妃が鉄球を産んだ故事を語り、このような不思議も世にあることと告げる。瀬尾は実盛の胸に思案があることを気取りつつ、清盛公へ言上するため腕を彼に預けて帰っていった。

入れ替わりに葵御前が太郎吉を連れて実盛の前へ現れる。実盛は葵御前に自らの本意は源氏にあることを語り、その腕はたしかに自分が源氏の白旗を守るため琵琶湖の船上で斬り落とした女の片腕だと告げる。実盛の話によるとその腕は小まんのものに間違いはなく、一同は娘の死に嘆き悲しむ。そこへちょうど近隣の漁師たちが娘が斬られていたと小まんの遺骸を届けにきた。太郎吉が母は自分に何か言いたいことがあったはずと嘆くので、実盛は斬り落とされた腕に白旗を持たせて遺骸に継げば霊魂が戻るかもしれない、この片腕に温もりがあるのも不思議なことだと言って小まんの遺骸に腕を継いでやる。すると小まんの体が起き上がり、太郎吉の名を呼ぶではないか。驚く一同、小まんは太郎吉に何か言いかけるも再び息絶える。九郎助は小まんが言いたかったのは自身の筋目のことではないかと皆に告げる。実は小まんは九郎助と女房の実の子どもではなく、堅田の浦に捨てられていたのを拾って育てた子で、彼女が懐に持っている合口はその親の形見、さらには彼女は平家の何某の娘であるという書付が添えられていたというのだ。本当の親が迎えに来るのをおそれていたのに、それより先に死んでしまうとはと、九郎助が小まんの遺骸へ取り付いて泣いているところへ葵御前が産気づく。夫婦は葵御前を奥の間へ連れてゆき、実盛は柱に白旗を飾って無事の出産を願う。葵御前は無事男の子を出産し、父義賢の幼名をもらって駒王丸と名付けられた。この男子がのちの木曽義仲である。九郎助は太郎吉を駒王丸の一の家来にと願い、実盛も太郎吉に手塚太郎光盛という名を与えて執り成すが、葵御前は平家の血を引く者とあっては念のため成人して手柄を立ててからと一旦それを退けるのだった。

そこへ一部始終を影から見ていた瀬尾十郎が赤ん坊を取り上げようと踏み入ってくる。実盛は立ち塞がって見逃しするのが武士の情けと言うが、瀬尾は聞き入れず、思えばこの女のせいで平家方は夜も寝られないと小まんの遺骸を足蹴にする。それを見た太郎吉が形見の合口で瀬尾の脇腹を刺す。瀕死の瀬尾は、平家譜代の侍の自分を討ち取る手柄を立てたのだから太郎吉をいますぐ駒王丸の家来にしてやって欲しいと葵御前に懇願する。実は瀬尾こそがかつて小まんを堅田の浦に書付を持たせて捨てた父であり、太郎吉は彼の孫だった。太郎吉が平家の縁と嫌われ一生埋もれぬよう初奉公の手柄にと、瀬尾は自らの首を搔き落とす。これには葵御前も太郎吉をすぐに若君の家来にすると喜んだ。太郎吉は母の仇である実盛に挑もうとするが、実盛は太郎吉と若君が成人して挙兵したそのときこそ改めて討たれようと告げ、軍馬の手綱を取る。どこからか出てきた仁惣太が事の次第を平家方へ注進しようと駆け出すところへ実盛は鉤縄を投げ、仁惣太の首をかき落とした。太郎吉はおもちゃの馬に乗って時期を待たずとも今勝負と声を上げるが、実盛は歳月が経っても太郎吉に自分の顔がわかるよう、髪を黒く染めて出陣しようと約束し、馬に乗って去っていった。

まず言わせてもらいたいが、文楽時空、首とか腕とか転がりすぎではないか。武家社会の云々で首がすっ飛ぶのはもう仕方ないと思うが(それにしても転がりすぎだとは思うが)、川をどんぶらこっこと腕が流れてきて「とって〜」とせがんでくる子ども怖すぎ。ただの死んだ腕が何故怖いってお前が怖いわ。

九郎助の家へ詮議にやって来る二人の使い、瀬尾十郎と実盛は実盛のほうが正使なのかと思っていたが、瀬尾のほうが正使なのかと思うくらい、瀬尾のほうがのし!のし!と歩き、家のどまんなかにドーンとすんごい居丈高に座る。どんだけデカいジジイやねんというくらいドーンと座っていた(床几に座っているんだそうです)。実盛は控えめに上手に座っていた。ここは二人の座り方の違いで人物像やポジションの違いを出しているのだと思うが、やはり人形は姿勢のつけかたひとつで見え方が全く変わるんだなと思わされた。ここだと大きいはずの実盛の人形も瀬尾との対比でそんなに大きく見えないのが不思議だった。

瀬尾は葵御前が産んだと言って見せられる女の腕にものすごい勢いでびっくりしていた。腕より瀬尾のリアクションのほうにびっくりした。床几から転がり落ちるくらい驚いていたが、武士なのにそんなにびっくりしてくれるとは、首やら腕やら足やらがフランクに転がる文楽業界においてなんとありがたい人だろうかと思う。

実盛の人形もこの間に何かちょっとしたお芝居をやっているらしいが、瀬尾のリアクションが大きすぎて目に入らなかった。いや確かに時々なにか……、いやなにかって眉毛とか目とかがピコピコしていたのだが……。中国の故事を唐突に語り出して瀬尾をケムに巻くところは、「莫耶の剣」ってそういうふうにできたんだーと違うところに感心した。そして突然「手孕村」と名付けるところとか、これも突然太郎吉に「手塚太郎光盛」という名前を授けるところでは、浄瑠璃ならではの謎のダイナミズムを感じた。あとはもう書くまでもないが、小まんがこうなった琵琶湖での経緯を語る「物語」の部分では、扇子の扱いなどの所作の丁寧さが光った。実盛って目立つ動きのある演技はこの物語と馬に乗るところだけなので、はじめは良い役ながら地味だなーと思ったのだけど、しっかりした人でないと、物語部分やじ〜っとしている間の間が持たないんだろうなと想像する。

瀬尾は一番良い役。一度は九郎助の家を後にするが、小まんの死体とともに笠で顔を隠しながら戻ってきて(デケー人形なので頭隠して尻隠さず状態なのが可愛かった)、家の中の話をこっそりと聞いている。瀬尾はいつから小まんが自分の娘だとわかっていたのだろう?もとから知っていた?話を立ち聞きして知った?太郎吉がすぐには駒王丸の家臣にしてもらえなかったことを聞いて、わざと太郎吉に討たれる。そのとき、大人になって手柄を立ててからでは埋もれてしまう、若いうちから家臣としてついていないと出世できないということを言うのが妙にリアルだ。瀬尾が首のうしろに刀を当て、鋸引きのようにして自らの首を落とすシーンは生々しくて怖かった。文楽は人形がやっているから生々しくない、怖くないと思いきや、人間の俳優が演技しているよりも生々しくおろそしかったりするのが不思議である。

あとは実盛の馬がめちゃデカかった。玉男さんが手摺の上部くらいの高さにまで位置が上がっていたがあれは本当大変だと思う。少しとはいえ、実盛、馬に乗ったまま移動するし……。でも文楽のお人形さんは本当うまく馬に飛び乗ることよと思う。ものすごく颯爽と飛び乗っていた。本当に生きているかのようピョコンと飛び乗るのが可愛いし、客席にお尻を向けて飛び乗るというのがうまいよね。実盛はぴんとした姿勢で馬に乗った姿が凛々しく美しかった。その隣でちいちゃなオモチャの木馬に乗る太郎吉が可愛らしい。

それにつけても仁惣太が何回も出てきたのには笑った。玉翔さん今回出番多いな!と思った。最後に実盛に馬上に持ち上げられ、首を落とされるところは大変見事に首が落ちたので驚いた。ほぼ手品状態でどうやっているのかよくわからなかったが、あまりに見事な首コロリぶりに客席「おお〜」と盛り上がっていた。文楽劇場のお客様は首が転がってもおかしい年頃。

しかし何はともあれ九郎助住家、床が4交代するのは交代しすぎだと思う。太夫さんによって登場人物の語り分けのしかたが異なるので、誰が喋ってるのかわかんなくなるのが一番困る。とくに実盛と葵御前が人によって語り方が結構違い、つらい。ぶっちゃけ誰が喋ってんのか人形見ないとわからない太夫さんもいるし。それに交代しているあいだに待っているお人形さんが不憫すぎて……。でも、いつも滝汗の玉男様が床が回っている間に目立たないようひっそりと汗を拭いておられて(人形が後ろを向いているのです)、そこだけはキュンとしたので今回は特別に許そうと思う。

 

 

 

舞台としては全体的に落ち着いた雰囲気で、ゆっくりと浄瑠璃を楽しめて良かった。やはり文楽はゆったりした気分で観られるのが良い。

正月の『奥州安達原』や2月東京の『平家女護島』では浄瑠璃のバックグラウンドへの知識がなく、いきなりはじまる話についていけず「????」となったが、今回の『源平布引滝』は『平家物語』を少し知っていたのでまだついていきやすかった。こういった登場人物の入り組んだ争乱の話も、すこしとっかかりがあると理解しやすい。それと、浄瑠璃が有名なモトネタに何を・どこに話を盛っているかがわかると、より話が面白く感じられる。この「何を盛っているか」が意外と(?)理解の鍵になると思う。やはり『平家物語』は文楽、能の観劇には必修の一冊だなと感じた。 

 

 

 

 

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文楽 7・8月大阪公演『金太郎の大ぐも退治』『赤い陣羽織』国立文楽劇場

親子劇場のお客さん向けなのか、展示室には動物の小道具がたくさん置かれていた。うさぎ、すずめ、白ぎつねのほか、きつね色のきつねもあった。3匹のきつね色きつねの名前は「右コン」「左コン」「コン蔵」とのことだった。身も蓋もない名前で良い。鑑賞教室の会期中には忠臣蔵用のいのししが展示されていたが、いつか文楽に登場する動物を全展示してほしい。

 

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青鬼がドリフのコント状態なのが気になるイラストチラシ

 

 

 

チラシの絵は可愛いけど本物の人形は怖いことで名高い親子劇場、まずは『金太郎の大ぐも退治』。

おこさま向けおとぎ話仕立てですよ〜みたいなヌルいタイトルだが、正体は普通の浄瑠璃だった。『大江山酒呑童子』のうち「土蜘蛛退治」を整理してテンポアップしたものだそうです。「巌峨々たる荒血山、松柏茂りてかくかくたる峯に星霜古廟の庇……」と普通に難しい言葉を使っているにも関わらず字幕出ないし、子ども向けとは思えないトップギアぶりはさすが。モコモコと焚かれたスモークの中から現れる赤鬼(吉田玉彦)・青鬼(吉田玉路)の会話も「疾うから念掛けたアノ娘、腹存分に楽しんだその後で、大江山へ売り渡して大金儲け」とメチャ怖。ステージ中央には衣を頭から被った可憐な娘さんが……と言いたいところだが、娘さんとは思えない品のない座り方とチラ見えしている赤い前掛けのおかげで鬼ズがこの後ド悲惨な目に遭うことがわかる。

娘さんに化けたプリティボーイ・金太郎(人形役割=吉田玉佳)がマサカリで鬼のド頭をカチ割ったところへ現れるのは鬼童丸(吉田玉勢)。人形が華奢な印象でなんかショタっぽいけどわざとなのだろうか。いや名前的にはショタか。歌舞伎の移入なのだろうが、むかしの忍術映画のような衣装も可愛らしい。(『忍術児雷也』と『逆襲大蛇丸』、まじ最高なので皆さん是非観てください。すべてが最高オブ最高。監督加藤泰だし)

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鬼童丸は源頼光(吉田簑紫郎)に射掛けられ姿を消すが、金太郎が舞台奥に怪しく佇む社を真っ二つにすると、そこから巨大な土蜘蛛が現れる。のだが、そのめっちゃデカい土蜘蛛のモケモケとした足の動きが怖すぎて引いた。巨大な蜘蛛のハリボテ状の胴体に揺れ動く8本の足をつけてあるのだが(黒衣さんが蜘蛛の胴体を龍踊り的な感じで支えている)、不規則にプワンプワン動く8本の足の動きがキモすぎて、お子さま客のみなさん大絶賛されていた。蜘蛛のお尻についているフサフサの毛は可愛いけど、そこかしこの節々に生えている毛はオッサンぽくてキモい。あとプチぐもが上から大量に釣り下がってきたり地面に湧いたりするのもお子さま客大絶賛だったが、ワサワサした動きが怖すぎて引いた。とにかく金太郎早く退治してくれと願った(でも引っ張る)。

頼光が引き抜いた剣の光で一瞬たじろいた隙を狙い、金太郎が土蜘蛛を斬りつけると蜘蛛の姿は消えてかわりに傷ついた鬼童丸が姿を現す。鬼童丸は金太郎と大江山で再戦を近い、空を飛んで去って行く。蜘蛛に引きすぎてよく見ていなかったので頼光が特になにもしてなかったかのように思っていたが、一応ちゃんと働いてたのね……。蜘蛛がなんとかなった後でタイミングよく出てきて調子合わせただけかと思った。鬼童丸が「ひらりと虚空遥かに飛び上がれば」と去って行くくだりは宙乗り。客席花道の位置あたりに一部凸状に舞台が張り出しており、何かと思ったらそこから飛ぶという趣向だった。凸部分間近の席のお客さんは蜘蛛の糸(白い紙テープ)をおもいっきりかけられていて、お子さんが紙テープにはげしく掴みかかっておられた。お人形が宙に浮いているのは外連味というよりも、絵巻物や絵本の世界のように感じられて可愛らしい。人形はちっこいので結構高く飛んでいるように見える。鬼童丸は浮いている途中も銀のキラキラ紙吹雪を撒いておられた。

完全子ども向けかなーと思って行ったが、単なる可愛い人形劇的な話ではなく、土蜘蛛や鬼童丸の設定の面白さ、浄瑠璃の詞章の格好よさもあり、文楽らしい伝奇風の仕上がりで大人が観ても楽しめる芝居だった。玉佳さんの金太郎は童子ながらたんにコドモっぽいのではなく、鬼をぶちころすだけある剛力という雰囲気が出ていて興味深かった。

 

 

 

『赤い陣羽織』。あんまり上演されるものでもないと思うので、以下あらすじ。

むかしむかしある村に、姿は醜いが心は優しいおやじ(吉田文司)とその心根に惚れて一緒になった美しい女房(吉田勘彌)が、馬の孫太郎(桐竹勘介←馬役なのに配役表に名前掲載)とともに仲良く暮らしていた。しかし、殿様から拝領した赤い陣羽織を自慢にしているお代官(吉田簑二郎)が女房に横恋慕しており、しょっちゅうウザくつきまとってくるのが二人の悩みの種であった。代官はおやじと外見がそっくりで、あの赤い陣羽織さえ着ればおやじだって代官に見えるというのが二人のいつもの笑い話。今日も用もなく代官はおやじの家を訪ねてきて女房にお茶を出してもらうが、女房から今夜は客もなく二人きりだと聞きつけた代官はある悪巧みを思いつく。その夜、おやじの家へ庄屋(吉田簑一郎)がやって来て、取り調べがあるとおやじを無理矢理連れて行ってしまう。後に残された女房は代官の差し金に違いないと用心し、戸締りをして孫太郎とともに備えていたが……。

……庄屋の家からやっとのことで抜け出て来たおやじが家へたどり着くと、戸口は開け放たれ、上り口には代官の着物、そして囲炉裏にはあの赤い陣羽織がかけられている。そして奥の寝間からは代官の声が。おやじは菜切り包丁を掴み、代官を殺そうとするが、思い直して赤い陣羽織を着込み、代官に化けて屋敷へ乗り込んで代官の奥方を寝盗ろうと決意して、赤い陣羽織姿で家を後にした。

おやじが去ったあと、代官がのそのそと奥の寝間から現れる。実は代官は女房に鋤で殴られて昏倒し、奥の間へ寝かされていたのだった。そして、陣羽織が囲炉裏にかけられていたのは、ここへ来る途中に滑って転んで川へ落ちて濡れてしまったのを代官のお付きのこぶん(吉田勘市)が律儀に干したからなのであった。姿が見えない女房に、代官は村中へことの次第を言いふらされては大変、ましてや屋敷へ行かれて奥方へ吹き込まれては超大変と大慌て。ひとまずおやじの野良着を着て出かけようとしたところへ女房に連れられた庄屋と出くわし、代官は彼をおやじと勘違いした庄屋に締め上げられそうになる。こぶんの説明で誤解も解け、おやじが代官屋敷で何かしでかしているのではと一行は屋敷へ向かうことに。
代官は一行とともに屋敷へ戻るが、貧しい身なりの代官を見ても、赤い陣羽織を着たお代官様はもうご帰還なさっていると門番は取り合わない。そのうち奥方(豊松清十郎)が腰元を引き連れて現れ、おやじの姿の代官をそっけなくあしらう。奥方に呼ばれた代官姿のおやじに女房は泣きつくが、奥方の口添えもあって無事お互い誤解は解ける。自分勝手な行動をした代官とそのこぶん、庄屋はこの芝居を打った奥方にキツく叱られ、田舎の村のちいさな事件は無事一件落着するのであった。

 

…………………。子ども向けには渋すぎだろ……。異様にやる気のある色合いの💩以外子ども向け感ゼロ……。人形の所作はとても可愛く、🐴、💩など人形遣いさんたちが子ども客に喜んでもらおうと工夫なさっているのはよくわかったが、話が古いのと(好き嫌いは別として、教訓ものと艶笑ものの合体話はどうしても古臭く感じる)、途中で説明台詞が延々続くのが渋すぎる。パンフレットによると、原作者の意向で戯曲の原文が変えられず、そのまま義太夫に移入したそうだが、通常の文楽のテンポからすると説明パートの長さに厳しいものを感じる。まず代官の服が囲炉裏にかかっている理由と代官が奥の部屋で寝ている理由が別なのは複雑すぎやて。女房が孫太郎の水桶でぶん殴ったという設定にしたほうがよかないかね? あとはせめて人形出遣いにして欲しかった。勘彌さんの過去が気になる女房役は色っぽくて良かった。なぜ町で勤めをしていたことがある女房は「男は気立て」と言うのか? 勘彌さんがこの役やってると裏がありそうで面白くないですか。あとはとにかく💩がまじ💩←こういう形の💩なのが興味深かった。目もついていた。

なにはともあれ妻が代官に寝取られたと思って代官の妻を寝取りに行く話を子ども向けに上演するの、まじおおらかだと思う。パンフレットのあらすじにおもいっきり「お代官は(中略)晩に女房がひとりのところを襲う計画なのでした。」って書いてありますけど、「なのでした」じゃねえだろ。文楽は自由の国。

 

 

 

今回の夏休み公演はビックリマンコラボということで、指定日に第一部を観劇するとオリジナルビックリマンカード「松王丸」「静御前」「団七ゼウス」がもらえるというサービスがあった。団七ゼウスって何故そこを悪魔合体させるのか……。企画が発表されたのがチケット発売後だったため配布日に行くことができなかったのが残念だった。カード、欲しかったわ〜。