TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

麻雀漫画と昭和の日本映画と文楽(人形浄瑠璃)について書くブログ

文楽 5月東京公演『加賀見山旧錦絵』国立劇場小劇場

楽しみにしていた五月東京公演。なぜなら今回はダブルキャスト配役を狙って取っているのと、玉男様の女形配役があるからです。 

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前半は加賀家の陪臣(家臣の家臣)・又助とその一家の、陪臣であるがゆえの悲劇を描くエピソード。まず筑摩川の段。

大雨で増水し轟々と渦巻く筑摩川(つくまがわ)のほとりに、ゴザを被った裸の男・又助(人形配役=吉田玉志)が現れる。又助は引き抜いた脇差を口にくわえると荒れ狂う水の中に飛び込んだ。次にその川岸へ現れたのは、馬に乗った多賀藩の大殿様・多賀大領(吉田玉佳・代役)と近習・山左衛門(桐竹勘次郎)。山左衛門は水量の多さに危険を伝えるが、多賀大領は馬で海を渡った『平家物語』の「藤戸」の逸話を引き、川の中へ入っていく。が、水中に潜んでいた又助によって大領は討たれ、馬だけがその難を逃れて走り去っていく。

水面が段々状になった川の中のセット。又助に水中へ引き摺り込まれた馬や人形が水面のあいまからスローモーションのようにゆっくりと動くのが映画みたいで印象的だった。最後に大岩の上に立つ又助の姿も決まって格好よい。

すごくどうでもいいのだが、又助は長い髪を下ろして左右両側に垂らす髪型で、髪ブラだった。動きが激しいわりに乳首がほぼ見えなくて感動した。ちなみにパンフレットに載っている過去の公演写真ではメッチャ見えていた。

 

 

又助住家の段。

筑摩川の一件から5年後。加賀国の片田舎にある又助の侘び住いでは、彼の女房・お大(豊松清十郎)が夫の留守に針仕事。門口では二人の息子の又吉(吉田和馬)が遊んでいた。お大は猪狩りの竹槍を届けに来た近所の男(歩きの太郎作=桐竹亀次)から金に詰まった者が娘を鏡山の廓へ売るのにその親方が村へ来ていることを聞きつけると、廓へ奉公したい者があるから親方へうちにも来てくれるよう伝えてくれと頼む。その頃、又助の主人・求馬は悪人の罠にかかり主家の家宝・菅家の一軸を紛失し、浪人の身の上となっていた。その菅家の一軸が質入れされていることを知った又助は預かっていた村の公金を使ってそれを請け出し、求馬を帰参させようとしていた。その使い込みの穴埋めに、お大は身売りを考えていたのだ。お大が髪を直していると、話を聞いた廓の亭主才兵衛(吉田玉佳)がやってくる。お大は事情を話し、亭主から百両を受け取って暇乞いの時間をもらう。

やがて求馬(吉田勘彌)を連れた又助が帰宅。愛想が尽きた、出て行くと言いだすお大に怒った又助は三行半をつきつけるが、ちょうどそこへ庄屋の治郎作(吉田簑一郎)がやってくる。治郎作は預けておいた公金百両を返せと迫るが、お大がすかさず先ほどの百両を差し出し、盗人は自分だと告げる。彼女が出て行こうとしたところ門口に廓の親方が駕籠屋を連れて現れたのを見た又助は、事情と妻の本心を悟り、涙ながらに別れるのだった。

夜も迫る頃、編笠を被った立派な身なりの武士が又助の家を訪ねてくる。その男は多賀家の家老・安田庄司(吉田文昇)だった。その来訪に驚く二人の様子に、本国の様子を知っているかと尋ねる庄司は、一振りの脇差を差し出す。それは求馬がかつて大領から拝領した刀で、以前又助に渡していたものだった。その脇差を見て又助は帰参の機会と喜び、求馬に菅家の一軸を庄司へ渡すよう促す。それが間違いなく本物の菅家の一軸であると認めた庄司だったが、彼が懐から取り出したのは白木の位牌。庄司は大領は5年前筑摩川で何者かによって暗殺されており、犯人の手がかりとなるこの脇差が筑摩川下流で見つかったというのだ。すなわち、多賀大領暗殺の犯人は又助だったのである。求馬は怒り狂って又助を打ち据え、事情のわからない又吉は必死で父を庇おうとする。又助は足手まといと脇差で又吉の首を撥ね、求馬に「子殺し、主人に刃向かう大悪人」と竹槍で突かれる。又助はその苦しい息の中、望月源蔵に騙され、闇の中で主家を害する蟹江一角と思い込んで大領を討ってしまった5年前の筑摩川のいきさつを物語る。それを門口で聞いていたお大は涙ながらに一緒に死ぬと喉に刀を突き立て、又吉の首を抱く。又助の告白から大領暗殺の首謀者は望月源蔵と知れ、その又助を討った手柄で求馬の帰参が許される。庄司の言葉を聞いた又助とお大は安心して息を引き取った。

又助住家の段、大満足。床も人形もとても良くて、ええもん見せてもろた、文楽観た〜って感じだった。

又助の人形はダブルキャストで、私が観た回は玉志さんだった。だったというか、それを狙ってチケットを取った(ダブルキャストを考慮してチケットを取る知恵を獲得したのです)。すっとしたまっすぐな気性を感じる又助で、とても良かった。所作ひとつひとつが丁寧でつなぎに無駄がなく、堂々としていた。背骨がぴんとしているので、身分は低くても心根は卑しくないまっすぐな人間、ゆえに悲劇に陥るという雰囲気がつたわってくる。なかでも苦しい息の又助が筑摩川での一件を身振り手振りで物語る部分が光っていた。ここの部分の人形のひとつひとつの型が淀みなく綺麗で印象に残った。文楽を観るようになってびっくりしたことのひとつに、登場人物の独白(物語やクドキ)の部分がこんな長いんだ〜という点がある。それが成立し得るのは浄瑠璃のことばひとつひとつの美しさや出演者の芸によるものだろうけど、現代の娯楽では忌避されそうなこういった長ゼリフが最大の聴きどころ見どころになるのはおもしろい。と、話は戻って、玉志さんは昨年5月東京の『絵本太功記』に武智光秀役で出演されていて、演技をあまりにさらっと自然にこなされているので、なんて洗練された人なのかとびっくりしたことが記憶に残っている。そのときはどういうわけでああいう配役なのか理解できなかったのだが、そりゃいい役やる人だよとこの一年でよくわかった。

そして呂勢太夫さんが良かった。呂勢さんは2月の『冥途の飛脚』の淡路町の奥も盛り上がってすごく良くて印象に残っているけど、今回も良かった。荒削りな部分もあるだろうが(これで千穐楽まで持つの!?と思った)、今後どうなっていかれるのか、楽しみ。

そんないい話のあとで恐縮だが、求馬メンタルめちゃ強では。ひとんち上がっていきなりそこで離婚話始まったら、私ならストレスで卒倒すると思う。うしろのほうで静観してないでちょっとはフォローしたほうがよいのではと思ったが身分制度がある時代は違うのでしょうか。あと、庄屋さんは子どもの生首転がってるわ嫁さんは喉突いて自害してるわ旦那さんは死にかけてるわという状況で訪ねてきて、「コレ又助殿」と話しかけておきながらその様子に一切タッチすることなく報告だけして帰っていったが、家の中の様子を全然見てないということなのだろうか。という2点のみ、なんでそんなことなってるのと思わされた。

しかし又吉の首がいきなり目の前に飛んできたのには腰を抜かした。前触れなくいきなり子どもの首を撥ね飛ばすとはさすが文楽。子どもを見たら殺されると思えくらいの勢いがあった。 

脇役で印象に残ったのは廓の亭主。ステージが不幸の予感オーラで辛気臭い状態になっているところ、いい笑顔(もともとそういう顔)でトントントンと入ってくるので笑う。気前よく百両出してしまうし、なんかこの人良い人では状態だった。

 

 

ここからは有名な部分、草履打の段。局・岩藤(吉田玉男)と中老・尾上(吉田和生)が鶴岡八幡宮を参詣している。岩藤は尾上が町人の出であり、金があるというだけでもしものときのための武芸の嗜みがないと言って執拗に詰るが、尾上はそれに耐えるばかりだった。

紅白幕が落ちると桜満開の鶴岡八幡宮。尾上と岩藤が大勢の腰元たちとともに舞台に並んでいる。客席の視線一点集中、玉男さんの女形配役ははじめて見た。いや、映像ではデモンストレーション演技を見たことあるが、WEB動画だったんですけど、突然のことにあまりにびびりすぎて速攻ブラウザを閉じ、二度目に指の隙間から見るという奇行をかましてしまった記憶が。くねっとした動きがいつもと違って、しかし普通になじんでいるようにも思え(少なくとも人形のかしらとの取り合わせは)、不思議な感じだった。普段まっすぐ立っている方が首をかしげてくねっとしているとドキドキする。ここが大阪なら玉男様ガチ恋勢のおじいちゃんたち倒れちゃうって思った。10年前にも大阪で同じ配役があったようだが、おじいちゃんたち大丈夫だったのだろうか。草履打ちの場面では、岩藤は草履を地面に丁寧にスリスリしてから尾上をぶっており、その細やかさがちょっとかわいかった。だから草履の裏が茶色に塗ってあるんだね。ところで草履が人形の足よりデカく見えるのは気のせいでしょうか???

尾上、和生さんはいつもと変わらぬ気品ある立ち姿。人形の姿勢や衣装の整えが美しかった。人形を高く掲げているからか、いつもより一生懸命な様子でいらっしゃった。岩藤の嫌がらせにうつむいてじっと耐える姿は、人形に表情があるように思われるほどだった。

それはともかく、岩藤役の津駒太夫さんの陰湿ぶりがすごかった。しょっぱなからいきなりトップギアで岩藤が尾上にインネンつけてくるのだが、ものすごい陰湿ぶり。津駒さんは昨夏の伊勢音頭の万野の陰湿ぶりも大変よかったが、今回は身分の高い役ということもあって、気位が加算されより一層陰湿になっておられた。東映のヤクザ映画ならインネンつけられた時点で即座に刺されているほどのネチネチネチネチとした陰湿さだった。

ほかには咲寿太夫さんが大変頑張っておられた。3月地方公演、妹背山の「道行恋の苧環」の橘姫でご出演されていたときから明らかに向上されていた。3月のときは声が不安定で「がんばってね〜」としか言えなかったが、4月大阪菅原伝授の「喧嘩の段」ではそこから一歩進んで「がんばってるね!」という感じになり、今月お聴きして、声の安定感に驚いた。わずか2ヶ月程度でここまで向上するとは、やはりお若い方は日進月歩、責任ある一人での語りを任されると、素人客にもわかるレベルで成長するのだなと思った。

 

 

■ 

廊下の段。屋敷の廊下は腰元たち(吉田玉勢、吉田玉誉)が噂話で盛り上がっている。そこに通りかかった尾上の新参の召使い・お初(桐竹勘十郎)は彼女らから鶴岡八幡宮での一件を聞かされるが、現れた岩藤に謗りの張本人と見咎められ打擲される。

噂をすれば影が差す、突然ぬーーーんと現れる岩藤に場内爆笑。そして、全身に毛がびっしり生えてそうな人形(伯父弾正=吉田玉輝)が出てきたので、「全身に毛がびっしり生えてそう」と思って気が気でなかった。生身の人間なら、全身すべての毛がつながってる部類の人だと思う。しかも仏壇の前においてある座布団みたいなすごい柄の着物を着ていたので、ますます気が気でなかった。妙に堂々と座っているのが悪そうでとてもよかった。

この段でお初が手首に結んでいるうぐいす色の包みは何なのだろう? 最後にはほどいていたが、何が入っていたのかは見えなかった。そして、玉勢さんの持っている腰元お仲の人形が2月東京『冥途の飛脚』に続き、やっぱり170cmくらいありそうなモデル風のスラっとした感じだった。

 

 

長局の段。尾上とお初は居室に帰るが、尾上の様子がおかしいのでお初は心配している。実家への急ぎの文使いを頼まれやむなく出かけるお初だったが、門を出たところで文の中身が遺書であることに気づき慌てて屋敷内へ戻るも、尾上はすでに自害した後だった。尾上の文箱の中には書き置きと件の草履、そして岩藤の陰謀の証拠となる密書が入っていた。

前半と後半で雰囲気がまったく変わる段。まめまめしく尾上の世話を焼くお初が普通の女の子風でかわいらしい。ちょっと子供っぽく、おきゃんな印象で、奉公にあがるようになったばかりという設定がうなずける。尾上のまわりを一生懸命付いて回り、打掛を畳んだり、煙草を用意したり、薬湯を煎じたりという子犬のようなせわしない所作がかわいかった。衣装も町娘風の黄色い着物でキュート。ここまでのお初は武家の生まれと言っても普通のやさしい女の子のようで、とてもこのあと刃傷沙汰をやらかすような強い意思を持っているようには見えない。段の最後で仇討ちを決意したお初が尾上の打掛を被り、人形とは思えないものすごい速さ(いままでに見た文楽人形の動きの中でも最速の部類)で上手へ走り去って行く姿がある意味恐ろしかった。勘十郎さんは本当にこういう異様に意志の強い思い込み暴走娘が似合うと思う。どんな役でもご自分に引き寄せている部分があるのかもしれない。ところでお初は最後に髪を下ろすのだが、ふりほどいた瞬間髪がまっすぐになり、くせがない状態だった。又助も竹槍で刺されたあとはツインテール(?)から髪をふりほどくが、それは少しくせがついた状態。お初はシャンプーのCMのようにするっとまっすぐにほどけていて、さらりと綺麗に髪が下りるよう、出演直前に結ってもらっているのかしらん。

お初が「歌舞伎より操り芝居の浄瑠璃が私は面白うござります」と言うところ、文楽で聴くと面白くて場内ウケていたのだが、歌舞伎でも同じことを言っているのだろうか。

 

 

奥庭の段。雨の降りしきる奥御殿の庭で、何かを埋めていた忍び当馬(桐竹紋吉)が岩藤に刺殺される。当馬が埋めていたのは若君暗殺計画の証拠となる品だった。お初は立ち去ろうとする岩藤に「主人の敵お家の仇」と斬りつける。

立ち回りがかなり激しくて驚き。文楽だと立ち回りに段階があって、舞踊風に様式美の場合と本気で当てる場合があると思うが、今回は本気当て。キャットファイト的なかわいらしいものではなく、わりとガンガンいっていた。勘十郎さん、玉男さん、大変息が合っていた。途中で岩藤は懐剣を打ち落とされて持っていた傘で戦うのだが、人形遣いと人形のあいだによくもまあそんなタイミングよく傘を差し込むな。あまりにタイミングよく傘を差し込むので、上演中は人形と人形が戦っているように見え、人形遣いが人形を遣っていることが気にならず華麗に思うのだけれど、あとあと冷静に考えると人間に当たる可能性があるので結構怖い。岩藤が開いた傘でお初の刀を受け止めるところも、人形のポーズ優先になるため人形遣いの顔の真横に懐剣がザクザク刺さるのをうまいことぎりぎりでよけて、綺麗に決めておられた。なるほど、玉男さんが岩藤に配役されていたのはこういうことなのね、と思わされた。

 

 

今回は前半も後半も見どころ、聴きどころが多くて大満足だった。

特に中堅出演者で固めた又助住家が印象に残った。歌舞伎だと将来が決まっているプリンスを幼い頃から見守るという楽しみがあると思うけど、基本未来が定まっていない文楽だと、自分なりに今後どうなっていくのか楽しみな人、応援したい人を見つけるという楽しみがあるのだなと思った。文楽業界にはいわゆる華麗なプリンス風の方はいないが(※個人の感想です)、みなさん個性をいかして男子校でスクスク育った野生感あって良い。すみれやバラや菜の花や菊やラフレシアが無作為にワサワサ咲いているお花畑のようだと思う。私はすみれやラフレシアに水をやりたい。

 

 

 

 

 

文楽一年生

文楽を観るようになって一年が経った。

文楽が何かもわからず思いつきでチケットを取ったのが一年前の2月東京公演第三部『義経千本桜』。古典芸能の素養があるわけでもなく、最初にチケットを取った時点で知っていたのは「人形が動く」「義太夫節という語りですべての話を進めている」という2点だけだった。

さて、ちくまプリマー新書の中に、中川右介『歌舞伎一年生』という新書がある。「歌舞伎っていうものがあるのは知っているが、観に行ったことはない。いっぺん観たほうがいいかも?」と思っている方にとても良い、きわめて平易な入門書だ。この本が他の入門書とどう違うかというと、「チケットは具体的にどうやって買うのか。いくらなのか。どの席がいいのか。良い席はどうやれば取れるのか」といった具体的な実践知識と、良い意味で著者の個人的な感想にのみ絞って書かれていることで、歌舞伎の知識のない私にも楽しく読めた。こういう本が文楽にもあったら良いのにと思う。

で、歌舞伎より若干マイナーな感じの文楽ですが(失礼)、以前書いたとおり、私は「古典芸能を理解したい」「玉男様ステキ」という立派な心がけと立派な邪念の二本立てで見始めいまに至るわけだが、入門書などを見てもわからなかった、実際にチケットを取り劇場へ行ってはじめて知った実感や、最初に見に行くときに知りたかったことを『歌舞伎一年生』にならい、一年生なりの自分の言葉でこの一年間に感じたことを書いていきたい。 

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目次 

 


┃ 1. 文楽をはじめて観に行ったときのこと


最初に文楽を観に行ったとき、いちばん驚いたのが「直感的にわかる」ということだった。

観に行くまでは、文楽は古典芸能の中でもハイコンテクストな芸能の部類だと思っていた。「生身の人間でなく人形が演じている」「セリフ・ナレーションをすべて義太夫節で語っている(音曲要素が強い語り物)」というのは、ある程度習熟しないと理解できないだろうなと思っていた。歌舞伎でも義太夫狂言のほうが難しいイメージがあるし*1

しかし、一番最初に観た『義経千本桜』渡海屋・大物浦の段、道行初音旅の最初から、内容がものすごくすんなり自分のなかに入ってくるのが本当に不思議だった。いや、何がどうなってこういう話になっているというディテールはよくわからないんだけど、なんかいい!すごくいい!と思った。

とりわけ、人形芝居部分が今まで見たことがないほどに流麗であるのには驚いた。舞踊的な、あらかじめ決められた振り付けの芝居をしているのかと思っていたけど、そうではなくわりと素早くこまごまとした動作で、ディズニーやピクサー、あるいはジブリのアニメーションのように、人間そのままの動きではないが生命を感じる、異様に洗練された大変緻密な動きだった。文楽では人形のうしろに人形遣いが立っているので、舞台上に人形遣いの姿がつねに見えている状態なのだが、上演中しばしば人形遣いの姿が消し飛んで、人形がひとりでに動いているように見えてぞっとするときがある。文楽では一体の人形に対し三人の人形遣いで遣っているわけだけど、それを知っていても何がどうなってああなっているのかまったくわからない。本当、不思議。

そのときのよくわからない高揚感のまま一年が過ぎて、いまだ何が良いと思ったのかは説明できない。でも、いま思えばはじめ障壁になるだろうと思っていた「生身の人間でなく人形が演じている」「セリフ・ナレーションをすべて義太夫節で語っている(音曲要素が強い語り物)」という点が逆に私にとって文楽に入りやすい要因だったのだろうと思う。文楽は音曲と人形で要素が構成されているので、表現が直接的ではなく、それを見てどう感じるか、観客に委ねられている部分が大きく感じられた。押し付けがましさがなく、語りや芝居をどう受け取るかはこちらに裁量がある。これが私にとっては良かったのだろう。舞台のそのままをすんなり受け取れるような気がした。

こむづかしくもったいぶって書いてしまったけど、もっと即物的に言えば、私からすると文楽は時代劇ミュージカル人形芝居で、私は時代劇が好き、ミュージカル(音楽映画)が好き、人形(人形劇、パペットアニメーション)が好きなので、実際には好きな要素の集合体でもあった。そういった自分個人にとっての「とっつきやすさ」も大きかったと思う。

そして、このとっつきやすさのひとつとして、文楽が敷居の低い、おおらかな雰囲気であったということもつけ加えておきたい。古典芸能で「わたしたち敷居低いです、庶民的です」アピールしてくる業種は結構あると思うんだけど、文楽はその中でもかなり敷居が低いほうだと思う。わざとやっているかどうかは別として、なんというか、こう、ポワ……としとるんですわ、すべてが……。このフンワリした雰囲気が魅力でもあるのだが、そのホンワカぶりはこのひとたちこんなポワっとしてて大丈夫なのかなと思うほど……。そのせいで槍玉にあげられることもあったり、本当は色々大変なのだろうけど、行く末長くホンワカしていて欲しいと願う。

 

 

┃ 2. 初心者の疑問、「文楽」と「人形浄瑠璃」の違い 


公演スケジュールの謎

観にいきたい、と思い立ったら……、文楽はどのように公演をしているのか? そもそもどのような公演が存在するのか、いつ、どこで観られるのか、チケットはどのように手配するのか、というのがまず問題になると思う。というわけで私も調べたのだが……

文楽は大阪の国立文楽劇場日本橋)を本拠としており、年5回(1、4、6、7-8、10-11月)公演を行う。東京だと国立劇場小劇場(半蔵門)で年4回(2、5、9、12月)公演を行う。「本公演」と呼ばれているのはこれらの主催公演のことで*2文楽に行くといえば基本的にはこの本公演のこと。このほかに3、9-10月に地方公演として全国を巡業する。また、本公演前後や地方公演期間には公演以外の単発イベントへの出演も多く行われる。以上が文楽公演の基本。

というわけで、東京ではなく大阪が本拠なのはわかったが、なんでこんなパラパラやってんの? 歌舞伎みたいに毎月やってないの? 東京年4公演って少なくない? とはじめは思った。歌舞伎は何箇所もの劇場で常演しているし、能も流派自前の能楽堂などで随時個別公演を行なっているのに、なぜ文楽は常演していないのか?

文楽を見はじめて一番驚いたのが、いわゆる「文楽」と呼ばれているそれは上演グループが「一座」しかなく、全パートあわせて80人程度の座員で大阪と東京の公演を交互に行っているということだ。文楽国立劇場系列館でのみ大規模な公演を行なっているのは知っていたが、国立劇場大劇場や国立能楽堂の歌舞伎・能公演みたいに、企画によっていろんな門閥から出演者をセレクトして公演を組んでいるのかと思っていたら、「文楽は門閥がしないため、その80人の一座がまるごと東西をいったりきたりしている」という形態そのものにまじ驚いた。門閥どうこうじゃなく、一座しかないとは。歌舞伎や能・狂言にならぶ日本の伝統芸能なんだから継承者がけっこういるように思っていたが、驚異の小所帯。何かあったらジャンルごと消滅しませんかこの人数では……。知名度に対してここまで演者が少ないとは、マイナー(失礼)な理由がわかった気がする。かつ、世襲制ではないというのも衝撃的だった。歌舞伎や能のような家元制度で成立していると思っていたがそうではなく、文楽実力主義になっていて、技芸員のうち7割程度は一般家庭出身(国立劇場の養成機関出身)だそうだ。なので一般ご出身の方だと技芸員になる前はまったく違うことをやっていた方というのもいて、なぜ技芸員になったのかをインタビューなどで読むと結構面白い。

一地域で見た場合の公演回数の少なさは、何も知らない客からすると「たまにしかやってねぇ〜〜暇なのかな〜〜〜😴」と思ってしまうけど、あちら様からしたら「一年中めいっぱい働いとるわっ💢」ってことだったんですね……。なるほど、そういう事情だから公演回数等に制約があるのかと、しみじみと思った。

 

文楽」と「人形浄瑠璃」は何が違うのか

初心者がまずそもそも引っかかる疑問「人形浄瑠璃」と「文楽」はどう違うかというのもこれでわかった。「人形浄瑠璃」は浄瑠璃(語り、音曲要素)に人形芝居をつけて見せる芸能の総称で、「文楽」というのは、人形浄瑠璃のうち大手の興行を行う一座の固有名詞「文楽座」のことだったのか。明治頃までは色々な人形浄瑠璃の一座があったが、文楽座以外すべて消滅、現在残っているのが文楽座だけのため、いつしか「人形浄瑠璃」ニアイコール「文楽」になったということなんですね。例えて言うなら「ステイプラー」と「ホチキス」の関係だろうか。技芸員さんたちが「“文楽”は固有名詞です!」とアピってくる理由もよくわかった。

 

仁義なきチケット争奪戦 半蔵門死闘篇

文楽でいちばん難しいのは、チケットを取ることだ。

と知ったのも、実際に観に行くようになってからのこと。文楽の東京公演はチケットが取りづらい。チケットが取れないなどとは実際に観るようになるまでまったく知らなかった。東京では10〜20年ほど前から文楽の人気が大変高く、国立劇場小劇場の560席のキャパと2週間程度の公演期間では客が捌ききれないようだ。とくに土休日公演の競争率が高く、速いと発売数時間で完売することもあるらしい。しかし会期中まで残っていることもあり、売れ行きが何に左右されているかはよくわからない。自分が最初に行った公演は思いつきで「取ろう」と思ったときにすぐ取れたのだが(いま思えば3部制の公演だったためチケット総数自体が多く、年間でもっとも取りやすい公演だったのだろう)、あのとき簡単にチケットが取れて本当によかったと思う。

対して大阪の国立文楽劇場は730席程の大劇場、公演期間も長く3週間にわたるからか当日券も出て、土休日でもチケットが比較的取りやすい。直前にチケットを取ると、キャンセルで出た分のものすごくいい席を取れることがあって(センターブロック2〜3列目とか左ブロック最前列とかが出ている)、しばしばおいしい思いをさせてもらった。東京と大阪で大阪のほうが近い方は、絶対、大阪へ行ったほうがいいと思う。

チケットは一度完売してしまっても、時々キャンセル戻りが出て空席が復活することがある。公式サイト(国立劇場チケットセンター)には時々このキャンセル戻りが出現し、それで席を取ったことがあるので(執念深いので公式サイトを毎日蛇のように這い回っていた)、公式サイトをウオッチしつづてキャンセル待ちするのはかなり有効な手段のようだ。

 

※追記

チケット購入は以下の公式チケット販売サイトをご覧ください。

http://ticket.ntj.jac.go.jp

スマホサイトhttp://ticket.ntj.jac.go.jp/m/index_phone.html

たとえば5月東京公演の場合、PCサイトでは、トップ→チケットのご購入→東京 国立劇場 大劇場・小劇場の公演→5月 文楽公演 から空席状況参照できます。文楽は大阪公演と東京公演があります。会場の購入間違いにご注意ください。

 

スマホサイトは無料会員登録すると空席状況が見られます。登録せずとも、表示をPCサイトに切り替えれば空席状況参照可能です。

 

 

 

┃ 3. 劇場の七不思議

興行形態が特殊な芸能のせいなのか、なんとかチケットを取って会場までたどり着いても疑問は尽きない。劇場で「そうなってるんだ……」と思ったこと7点についてちょこちょことメモ。

 

会場

前述の通り、文楽国立劇場小劇場(東京)と文楽劇場(大阪)で本公演を行っている。どうせいっちゅうねんという立地もさることながら(とくに半蔵門の立地の最悪さがやばい。場所が気取ってるとかそういう問題ではない)、ふたつともド昭和な建物で、中途半端な時間の止まりぶりに癒されるステキスポット。実家の近くの文化会館に行ったような感覚になる。この特にテンション上がらなさがさすがというか、派手な会場でやればいいってもんじゃないけど、ここにも文楽の地味さ(重ねて失礼)が出ている気がする。
とはいえ大阪の文楽劇場は結構快適で、屋内のロビーで入場待ちができ、公演ごとに企画が入れ替わる展示室があるので開演前の時間つぶしも可能。だが国立劇場は待合用のロビーがなく、12月と2月というクソ寒い時期に公演があるにも関わらず吹きっさらしの場所で入場待ちをさせられるのは勘弁してほしい。それと別棟の展示室は歌舞伎中心で文楽肩身狭いので、もうちょっとブイブイ言わせて欲しい。

 

パンフレット

初心者が劇場へ行ってまずすべきことは、パンフレットを買うことである。買わないといまから何がはじまるか一切わからない(本当)。パンフレットは劇場売店で600円くらいで売られている。パンフレットには配役や上演演目のあらすじ、解説、出演者インタビュー、演目にまつわる読み物等が載っているが、別冊で床本(浄瑠璃の台本)の小冊子がついてくる。これ、何のためにわざわざ別冊にしてまでついているかはじめはわからなかったのだが、家に帰ってから読み返すと上演中何を言っているのかわからなかった部分がわかったり話の流れをより理解できたりと、わりと重要なアイテムであった。
パンフレットまわりで一番なんでこうなってんのと思うのは、最後に載っている技芸員一覧。技芸員さんのお名前と顔写真が一覧で載っていて、さっき出ていたのはどなたというとき出演者を調べるのに便利なページではあるのだが……、なんか写真が妙に……ものすごく……古い。これ10年くらい前の写真なのではって人がいる気がしてならないんですけど……。しかも全体的に写りが悪いというか最悪というか……、……これ以上私の口からは申し上げられません……。せめて2年に1度くらいはすべて撮り直してほしいし、みなさんもう少し男前に写るよう配慮してあげてほしいです……。


幕開き三番叟

本公演の場合、朝の回の開演15分前に「幕開き(幕開け)三番叟」という前座がある。やりますよってことは公演情報のどこにも書かれておらず、やっていること自体を知らないと見られないというのがすごく不思議だった。三番叟という二人遣いの小さな人形が三味線の伴奏のみで数分間踊るのだが、これは舞台を清める意味でやっているらしい。基本的にはお若い人形遣いさんが出演しているそうだが、時々妙に上手い人がいる。三番叟の配役は表には出されないが、一度、文楽劇場のバックステージツアーへ行った時に楽屋入口に三番叟の配役表が貼ってあるのを見たことがある。それを見るとなるほどうまい人がいるのも当たり前、足は本当に若い子だけど、人形はちょいとした役をやるような、もうちょっとお兄さんな人形遣いさんたちがやってるんですね。三番叟の上演中にお客さんに着席の義務はなく、お客さんは見ている場合も、見ていない場合もあり、拍手がある場合も、ない場合もある。人形が踊っているあいだは、不思議な時間である。


初心者最大の疑問・拍手タイミング

上演中に迷うことの代表格が、舞台ものでは業種によって色々風習のある拍手タイミング。文楽だと

  1. 開演前の口上で太夫・三味線弾きの名前が紹介されるとき 
  2. 人形遣いで有名な人が出遣いで一番最初に出てきたとき(or最後の退出時)
  3. ここぞという場面
  4. 太夫・三味線の交代タイミング(床が廻るタイミング)
  5. 終演時

が拍手タイミング。1、4、5は開演・終演の拍手の部類で誰もが拍手するが、2と3は時と場合によってまちまちのようだ。
2の人形遣いの出入りでの拍手は、有名な人が出てきても演目や内容・登場の状況によっては拍手がないことも多い。そして「有名な人」ってどういうライン引きだよって話だが、これは上演によってまちまちで、会場のノリによって左右されている気がする。トップクラスの方は大抵拍手されるが、回によってはこの人が拍手されないの?ってこともあるし、中堅・若手の方でもひとりのお客さんだけが盛大に拍手していることもある。みなさんオキニの人が出て来たら拍手しているようだ。さすが自由の国、文楽、と思う。
3の「ここぞという場面」だが、歌舞伎ほど頻繁に拍手が起こるわけではない。それこそ「ここぞという場面」のみ。この拍手は太夫・三味線・人形それぞれに対して発生するのだが、人形に関して言えば、文楽義太夫節のテンポ(浄瑠璃の進行)にあわせて人形が芝居をしているので、客の拍手待ち的な間合いは存在せず、事前に拍手するタイミングをわかっていないと(あるいは拍手するに値する芸かどうかわかっていないと)なかなか拍手しにくい。私はそのへんよくわからないので、周囲の状況と自分の気持ちで拍手している。私が観た公演だとこのような「ここぞという場面」の拍手の頻度はそれほど高くないように思うが、昔の資料映像を見るといまよりはるかに拍手の回数が多い上演もあり、世につれ人につれなのかと感じる。
拍手とは違うが、声かけについて。文楽には歌舞伎のような大向こう(上演中の公式かけ声)はないが、開演前の口上時、太夫さんや三味線弾きさんは「〇〇太夫~」「〇〇~」とかけ声をかけられていることがある。大向こう風にそれっぽい節をつけている人、アイドルコンサートかってコールの人、いろいろ。人形遣いにはほとんど名前コールはないようだけど、これも昔の資料映像を観ていると有名な人はコールされていることがあり、自由の国だなと思う。

 

食事

文楽は上演時間が4時間程度あるので、ランチタイムやディナータイムにかかるときは途中で30分程度の食事休憩が入る。客席は休憩時間中なら座席でも飲食が可能なのだが、ずっと同じ場所に座りっぱなしになってしまうのでできればロビーのベンチで食べたい人が多いと思う。しかし国立劇場小劇場にしても文楽劇場にしてもロビーのベンチの数が少ないので、休憩時間になったら速攻席を取らないと座れない。私は30分休憩でロビーに座れたことがないのだが、座れている人はどんだけ早くロビーへ出ているのだろうか。
食事の調達については、場内の売店で軽食やお弁当が売られている。私は柿の葉寿司が大好きなので、ここぞとばかりに柿の葉寿司を食っている。東京会場でも大阪会場でも売られているが、東西で銘柄が異なっており、大阪・文楽劇場で売られている柿の葉寿司はまじ美味しい。東京会場で売っているものはたしかヤマトの柿の葉寿司だと思うが、大阪会場で売っているものは東京では見たことがない銘柄で、おそらくローカルブランドだと思う(製造場所が奈良県になっていた)。お弁当は持ち込みも可能で、東京会場は大阪よりお弁当メニューがうら寂しいせいか、百貨店で買ったような豪華なお弁当を持ち込んでいる方が結構いらっしゃる。開演前に三越とかに寄り道して買ってきていらっしゃるのだろうか。大阪会場だとお手製弁当ご持参のお客様もよくお見かけして、客筋の違いを感じる。お弁当以外の手段としては食堂利用があるが、東京公演・大阪公演とも、食堂のド昭和オーラには圧倒される。料理の品質、サービスが値段に見合うかといったら今時これは……とも思うのだが、余裕ある座席でゆっくり食べられるので、ある程度仕方ないとは思う。

 

観客

文楽で不思議なのが、上演中に舞台を見ずパンフレットに目を落としているお客さんが多いこと。パンフレットのあらすじ解説ページか技芸員紹介ページ、あるいは床本を見ている方が結構いる。床本を見ている人がいるのはなんとなくわかる。義太夫を聴きに来ているお客さんなのだろう。能でも上演中ずっと謡本を見ている方がいるしね(おそらく謡を習っている方だと思う)。パンフレット本体を見ている方は配役を見ておられるのだろうか。歌舞伎だとお客さんはあそこまでパンフレット見てないと思うが……。そしてやっぱり多いのが上演中寝ている方。義太夫節に催眠効果があるのではと思うほどみなさん結構スヤっている。 床が回ったときに「〇〇太夫〜❤️」と声をかけておきながらその段全部おやすみになっている方もおられるので、義太夫節には人の眠気を誘う何かが秘められているとしか思えない。
それともうひとつびっくりしたのが、これは業界自体の雰囲気でもあるだろうけど、休憩時間等にロビーに技芸員さんがいても誰も気にしていないこと。劇場近辺や駅等でも技芸員さんをお見かけすることがあるが、それも誰も気にしていない……。かく言う私も無視していますが。お客さんに派手な雰囲気がなく、キャーキャーやってる人もあまりいない。文楽の場合、ファンは技芸員さんについていると言ってもアイドルの追っかけ的な意味でのファンなわけではなく、基本的に芸でしか評価していないため、芸の熟練度が高い年配の技芸員さんほど人気があるからだとは思うが、本当、みなさん落ち着いているというかさばけているというか……。
あと、終演したら、お囃子がまだ演奏していてもお客さんみんな速攻席を立って帰るよね。このお客さんのサバサバ感はひたすらすごいと思う。個人的にはこのさっさと帰れる雰囲気は好きではある。

 

技芸員

さいごに技芸員さんについて。技芸員というのは文楽の出演者(太夫・三味線弾き・人形遣い)を指す言葉。パンフレット等では普通に使われているが、これも教えてもらわないと初心者にはわからない言葉だと思う。まさか芸人さんたちをそんな事務的な言葉で呼んでいるとは知りませんでしたわ……。
先述の通り文楽は継承者の人数が少ないのと、良い役をやる方はだいたい決まっているので、結構すぐに顔を覚えられる。文楽は容姿が関係ない業界なので基本的に親戚のオッチャンにしか見えない方が多いが、みなさん髪型が大変にきちっとしている。芸人さんなので当たり前といえば当たり前なのだが、身だしなみはほかの古典芸能業界に比してもちゃんとしておられるように思う。劇場外でお見かけしても(結構格の高い方でも緊張感なくおひとりで普通にトコトコしている)、あそこまで髪の毛をきちんとしている男性はとくに年配の方は少ないので、髪型のきちっと度ですぐわかる。
しかしどうやって髪型をセットしているのか。輝き系の方やオールバックにしている方、若い子で手ぐし風の今時なセットをしている方はともかくとして、幾人か紳士服のモデルのようなフワッとしたセットをしている方がおられるが、あれはどうやっているのだろう? ご自宅でセットしてくるのか? 出演前にセットしているのか? 自分でやっているのか? 誰かにやってもらっているのか? 疑問は尽きない。あと、輝き系の方はどういうタイミングで輝き系になるのかもすごく気になる。あるタイミングで覚悟を決めてスキンヘッドにされるのだろうと思うが、その覚悟のほどを思うと……。芸の将来性とともに髪の毛の将来性が気になる方も幾人かおられるので、長い目で今後を見守りたい。

 

 

┃ 4. 一年前の自分の疑問に答える

趣味のはじまりの時期って疑問がたくさんあって、古典芸能は初心者向けの入門本が数え切れないほど出ているが、それを読んでもよくわからないことがたくさんあった。それにいまの自分の観点から答えたいと思う。また1年後、何年かあとは意見が変わるだろうけど、いまの自分の気持ちとしての答えを記しておきたい。

 

初心者に義太夫節は聞き取れるのか

私が初めて観にいく前にいちばん気になっていたのは、義太夫節が聞き取れないのではということだった。慣れていないと聞き取れないのでは? ミュージカルとかで歌詞が聞き取れないことって結構あるよね? あれと同じ現象になるのでは? と思ったが、驚いたことに結構聞き取れた。私は特別に古典の勉強をしたことはないので、中高の古典の授業レベルの知識で内容を理解できているということだ。国語教育すごい。さすがに一言一句聞き取れているわけではないが、本公演は字幕もついているので、話についていけないということはまずなかった。謡曲は字幕がないとまず聞き取れない私だが、義太夫節は江戸時代のものだけあって使っている言葉が比較的平易。とくに会話部分はほぼ現代の関西弁日本語と同じ。字幕は旧かな表示だが、旧かなと言っても「逢ひたかつた」程度なので大丈夫。いや、しかし、聞き取れなくても字幕が読めなくても、音楽とリズムはわかるので実際には問題ないのだ。その抑揚が直接的に内容を表現しているし、舞台上の人形が浄瑠璃そのままの演技をしているので、聞き取れなくても何の話をしているかはなんとなくわかり、少なくとも話を追うことには問題がなかった。しかし浄瑠璃が聞き取れるかどうかは語っている太夫さんの力量にも左右されると思う。それが初心者への一番のトラップかもしれない。


あぜくら会に入ったほうがいいのか

本ブログには「あぜくら会 文楽 先行」の検索で来てくださる方が多いので、あぜくら会(東京・国立劇場の会員制度)の文楽チケット先行販売について私の実感を簡単に書いておきたい。

結論から言って、東京で文楽観るなら絶対あぜくら会に入ったほうがいいです。

あぜくら会先行でチケットを取ると希望日・希望通りのかなりの前方席が取れるので、基本土休日しか行けない・前方席を狙いたい人形目当ての私にはあぜくら会会員のメリットはきわめて大きい。ミもフタもないが、人形は前方席でないと物理的に見えないので中途半端に後ろのほうの席を定価で買うくらいならあぜくら会の会費を払って前列席を取ったほうがいいと私は思っている。それと、席がどうとか以前に、あぜくら会に入っていないとそもそも取れないようなチケットも存在してしまっているので……私は鑑賞教室のチケットがどうしても取れなかったのを苦に入会した。

あぜくら会入会には初年度入会金・年会費合わせて4,000円程度かかるが、あぜくら会会員はチケット代10%OFFになり、国立劇場系列館の主催公演チケットが先行で取れる。ある程度文楽を観に行く、複数人で行く、またはほかの古典芸能も鑑賞する方は金額的な元はすぐ取れる。私は国立能楽堂の能公演チケット購入でもあぜくら会の先行予約制度を使っている。ツテ等でチケットを入手できる方ならともかく、一般の方&古典芸能が好きな方にはメリットを得られる制度だと思う。

ただし先行販売については、完全好き放題に席を取れるわけではなく、あぜくら会先行予約開始時点で主催者側が抑えている席で前方はかなり埋まっている。これが一番のトラップ。昨年12月の『仮名手本忠臣蔵』、そして次回5月『菅原伝授手習鑑』はあぜくら会の予約開始直後にも関わらず前方席がほとんど埋まってしまっていて、選ぶ余地なくあいているところを取るという形になってしまった(それでもかなり良い席ではあるのだが)。また、文楽に関しては公演によって購入枚数制限があり、先行発売初日は同じ公演は2枚までしか購入できない=3席以上連番で取りたい人は先行購入不可という制約もついている。また、文楽のあぜくら会先行予約日は国立劇場のチケット販売サイトがメチャクチャ重くなってなかなかアクセスできないことは注意が必要かと思う。

私は大阪会場、文楽劇場友の会にも入会した(初年度2,000円程度)。こちらはチケット割引率が20%と大きく1公演で会費のモトが回収でき、先行予約では東京以上に好きな席が取れるので、金銭面でかなりのお得感がある。

 

初心者向けの演目はあるのか

これも検索いただくことが多いキーワードで、一年前の自分も気になっていた疑問。文楽の入門本を読むと初心者向けのおすすめ演目が書かれていることがある。だが、おすすめ演目を書かれてもタイミングよくその演目をやっているということはまずない。おすすめ演目が上演されるのを待っていたら数年経ってしまう。演目名で縛ってしまうのは不自由だと思う。ならどれを観に行けばいいのだろうか? 本当は観に行きたいと思ったときに何も考えず「えいやっ」で観に行くのが一番いいんだろうけど、いきなり難しいものを観て理解できず、つまんないと感じてしまうのはいやだというのは、私もわかる。初心者向けに上演演目の解説がつく鑑賞教室公演もあるが、年一回。普段の公演において、見に行く演目をどう選ぶか、私の観劇体験から逆算して、これは初心者の自分でも理解しやすくおもしろかったというのを、演目名ではない切り口から3つ書いておきたい。

  • その1 「道行」が含まれる回
    先述の通り、私は一番最初に『義経千本桜』を観て、なんかいいなーと思った。なぜだろうか。それは上演に「道行」(道行初音旅)が含まれていたのが大きいと思う。道行とは登場人物がある地点からある地点まで移動する場面のこと。義太夫節の中でも音楽性が強く華やかな音曲で飾られており三味線の音色を聞いているだけでも楽しく、浄瑠璃の詞章には情景を描写する面白い掛詞などが盛り込まれ、人形の演技も踊りがメインの派手なもの。ミュージカルのダンスシーン的に観ることができるのでとっつきやすく、話についていけないということはまずない。私がいちばん最初に観たときは、ひとつ前の「渡海屋・大物浦の段」はそもそも登場人物たちが何者で何をしようとしているかに「???」となり集中力を必要としたが、「道行初音旅」はメロディの立った三味線の音色が流れ、人形が踊っているので、あまり気を張らずに観られた。って、実際は忠信が色々な話をしているのをすべて聞き流しただけですが……。

  • その2 通し上演の回 
    自分の体験から観劇満足度が最も高かったのは、通し上演のとき。この一年以内には『妹背山婦女庭訓』『一谷嫩軍記』『仮名手本忠臣蔵』の通し上演があり、そのいずれもが満足感がきわめて高かった。これは幸運だったと思う。見取り(長編の一部の抜粋上演)だと話が唐突に始まるため、話の前提がわからないせいで登場人物たちが何をどうしたいのかわからないままに終わってしまうことがあるが、通し上演ならいちばん最初から話が始まるので話を理解しやすかった。とはいえ、なんせ通し上演は長いんで、多少意味がわからん段があってもその記憶自体が揮発しているだけとも言う。

  • その3 時代物
    これは完全に私の個人的な観点から。初心者向けのおすすめ演目には、町人の世界を舞台にしているからわかりやすいという理由で世話物がおすすめにされていることがあるけど、私の場合はそれ逆だよと思う。あらゆる古典に言えることだけど、昔の話って倫理観や社会規範が現代と違っている。そんななかで世話物のような感情移入系の話だと、その点十分承知している人でないと話が理解不能だったりする。嫁がいるのによその女に入り浸りで、その女との間にできた子どもを押し付けてきて来世では一緒になろうねと言ってくる男とか、あらすじだけだとコンビニで売っているすごいキャッチコピー鬼盛りのB6サイズのレディコミ状態。現代においてそこに説得力を持たせるのは芸の力だったりするのだろうが、芸のうまいへたは初心者に理解できないので、下手すると「は??????」としか思えないことがある。
    その点、私は時代物が好きだ。私は昔の映画が好きなため時代劇的な価値観・ストーリー運びに慣れているというのも大きいけど、武家社会の話は一般と倫理観がまったく違っていること大前提、その矛盾そのものを描く話が多いので、ストーリーそのものを素直に理解しやすい。というか、時代ものは、アクションがあったり、おおきな武将の人形が出てくるので、わーいって感じで、とてもおもしろいです。人形がおおきいと、うしろのほうの席からでもよく見えるし。おおきい人形がわーわーするのを見たい人には、時代物がいいと思いました。(小学生の作文)

最後に、演目ではないが「有名な人が出ている回を見る」というのもとっかかりとしてとても良いと思う。と言っても文楽の場合、歌舞伎や落語のように派手なマスコミ露出がある人はいないので、初心者には誰が有名なのか自体判別つかない。しかも配役表を見ても格の高い順に名前が並んでいるわけではないのもトラップ。しかし、実は上演を実際に見ると、有名な人というか突き抜けてうまい人は初心者でも直感的にわかる。ここでおひとり挙げるとすれば、文楽を2回目に観に行ったときに初めてご出演を見た人形遣い吉田簑助さん。それは4月大阪公演『妹背山婦女庭訓』の「妹山背山の段」で、簑助さんはヒロイン・雛鳥役で出演されていた。この雛鳥が舞台へしずしずと出てきたとき、さっと舞台の雰囲気が変わったのを感じた。オーラが違うのだ。おそらく、人形が出てくるときの姿勢や仕草、あるいは人形の衣装の着付けといった諸々が重なってオーラといえるものを形成しているのだと思う。簑助様は小柄なおじいちゃんだが、とにかく可憐、姫オーラがすごかった。まわりに桜の花びらがヒラヒラ舞い散り、かすみ草がフワフワ浮いてちょうちょがついてきているかのような可愛さだった。それまでは人形ってもともと可愛く作ってあるんだから可愛く見えて当たり前だろと思っていたが、そういう問題じゃない。可愛さのケタが違うことに驚いた。文楽を観たことがなく、一度行ってみたいという方には、ぜひ、簑助様が出演する回を観てもらいたいと思う。

 

どの席が良いのか

この一年、あてずっぽうにいろいろな席に座ってきたが、その中で思ったことを書きたい。

文楽は歌舞伎のように席種の細かい等級・分類がなく、客席のほとんどが一等席。一等席の価格は東京公演で6,000〜7,000円程度。初めて観に行ったとき、ものがよくわかんないから「とりあえず」で二等席にしたが、国立劇場小劇場の二等席というのは実はうしろから2列分というかなり悪い席。ものすごく人形が見辛かった。東京の二等席は、一等席より1,000円程度安いということ以外にメリットが何もない。一年前の自分にケチらず一等席取っとけと伝えたい。それと、言いたくないが実際問題として後列になるに従ってマナーの悪い観客が混じる傾向があるため、その意味でもできる限り前方に行った方が快適。

以下、参考までに、私が本公演で座ったことがある席の見え方・聞こえ方個人的感想メモ。 

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  • A =人形を見るのにいちばんの席
    人形を見るにはいちばん良い席。人形のファンとしては基本的にはこのあたりの席を狙いたい。足元、手元の細かい演技まで見られて、人形ってこんな細かい演技までしているんだという驚きを得られる。太夫さんの声や三味線の音も心地よく聞こえて楽しい。この席のなかでも、最前列というのはほかの席とはまた違う楽しみがある。文楽本公演で使われる専用劇場は舞台が「舟底」という掘り下げ構造になっていて、前列席からの観劇でも見上げ姿勢にならないようになっている。人形は舞台から高さ80cm程度の手すりと呼ばれる地面を表現した書割の上をグランドラインとして動いているのだが、当然ながら人形は人間より小さく、また座っているときも多いので、80cm上がっている程度では2列目以降だとどうしても前列のお客さんの頭に遮られて人形が見えなくなるときがある。しかし最前列ならその心配はなく、しかも前述の通り、見上げ姿勢にもならない(若干あおり気味にはなる)。目の前いっぱいに人形の演技を見ていると、自分もその座に混じっている人形の一体のような感覚になる。ただ、最前列をはじめあまりに前にいきすぎると字幕が見えない&舞台袖にいる人形が見づらいデメリットはある。個人的には3〜6列目くらいが全体を見やすい気がする。もし一年前の自分に席を取ってあげられるとしたら、そのあたりの席にすると思う。

  • B=人形の穴場席
    人形を見るのに良い席。文楽だとよく門扉のあるセットが出てくるが、この席は門扉の前にあたるため、門前で立ち止まる人形の演技をじっくり見ることができる。また、文楽は人形が下手(向かって左側)の小幕から出入りするので、立ち止まらなくとも人形を間近で見ることができる。大阪公演だと競争率も低く、取りやすい穴場席だと思う。ただ、床からやや遠い場所になるので、床を見るには結構無理めの姿勢をしなくてはならない。

  • C=義太夫を満喫する席
    義太夫を聴くのにいちばん良い席。文楽は会場が小ぶりなので聞こえ方にそんなに差がないと思いきや、やはり床(出語り床)に近いほうが良い。特に三味線は床に近いほうが音が綺麗に聞こえるので、このあたりの席に座るとうっとりする。文楽の三味線特有の低音は床に近いほど美しく聞こえ、離れすぎると音が華奢になってゆく。また、太夫さんや三味線さんをじーっと観察できる席でもある(時々人形を見ているよりおもしろい人がいる)。ただし人形は見づらい。いや、人形は見えるのだが、人形遣いが見えない。小柄な人形遣いさんだと人形の陰にすぽっと隠れてしまうこともあり、きょうあの人出てたっけ???どこにいた???状態になるけど、それはそれで面白い。

  • D=全体をゆったり楽しめる席
    舞台からはやや遠いが、字幕も人形も床も見えやすく、義太夫の聴こえも良い席。芝居を客観的に見られる。Dの中でもできるだけ前方、できるならセンターブロックにするに越したことはないと思うけど、センターブロックは結構すぐ売り切れてしまうので、左側席になりがち。

  • そのほかの席
    Cの後ろの席は本公演では座ったことがない。地方公演等ではここにあたる席になったことがあるが、床の音はいいとして、人形が見づらいのが結構つらい。二等席は先述の通りかなり見辛く、少なくとも東京は避けたほうが無難。東京会場にのみ存在する三等席は1,500円程度と格安だが7席しかなく、まず取れないので狙ったことがない。

 

大阪公演まで行くメリット

さきほどから普通に大阪公演(文楽劇場公演)の話をしているが、私は東京都在住。最初に行ったときは勢いと気分転換の旅行のつもりで行ったのだけど、大阪公演っていいなと思い、以降、文楽劇場の公演にも行くようになった。

当然、大阪公演へ行くにはそれなりにお金がかかるのだが、わざわざ大阪まで観に行くことには大きなメリットがある。もっとも大きいのは、大阪公演のほうが東京公演より良い席が取れること。私は渡世の義理に縛られた人間ゆえ観劇日はどうしても土休日になってしまうが、先述の通り東京公演の土休日は一般発売では良い席は取りづらく、いちばん最初に大阪公演へ行ったときは直前にチケットを購入したにもかかわらず、あまりに良い席が取れて本気でびっくりした。良い席に座ってゆっくり文楽を楽しみたいとなったら、やはり大阪公演まで行くメリットは大きい。文楽劇場国立劇場小劇場よりステージが大きいので、時代物に見栄えがするのも良いところ。大広間や御殿のセット、大きい人形により豪華さや迫力を感じられる。

それともうひとつ、大阪公演の良いところは、客席の雰囲気が良いこと。私の場合は出先でテンション上がっているという部分もあるんだけど、会場に入ると、やっぱり大阪で観るのはいいなと思う。東京会場とは客筋が異なり、お客さんがほのぼのしていて、キャッキャとなさっているのが特に良い。きょうはゆっくりのんびり文楽観よ〜っという気分になる。東京会場は東京会場でお客さんみんな静かに観ているので鑑賞環境がきわめて快適というメリットもあるんだけど(前方席だと一人で来ているお客さんが多く、私語がほとんどない)、文楽劇場の気張りや気取りのない空間はとても素敵なことだと思う。あと、大阪公演は技芸員さんものびのびされているように感じる。やっぱりおうちへ帰れるからでしょうか。

そしてやはり大きいのが、東京公演だけでは年4回しか観劇の機会がないこと。前述の通り、歌舞伎や能・狂言あるいは落語や大衆芸能だと、出演者や内容を選ばなければ都内でも上演頻度が高いけれど、文楽はたとえ選り好みしなくても首都圏上演の機会はどうしても少ない。文楽は大阪をはじめとした関西圏のほうが単発のイベント等も多く、普段は文化的イベントの多い東京在住に満足している私だけど、文楽ばかりは本当関西在住でいたかったと強く思う。

 

お金の話、予算はいかほどか

最後に、お金のことについて。趣味にかける予算は重要なはずだが、あまりそういう話はされないと思うので……。

文楽の場合、チケット代が一等席でも5,000〜7,000円と手頃なので、東京公演のみなら年間の公演を全部一等席で観ても6万円いかない程度だと思う。東京・大阪の主催公演すべてでも年間合計11万円程度。私の場合、これに大阪公演のための東京〜大阪の交通費・宿泊費と、単発公演のチケット代・交通費・宿泊費を使っている。昨年2月から今年1月までの1年で文楽にいくら使ったか計算したら、計26万円くらいであった(内訳:主催公演18ステージ、若手会・地方公演含むその他公演7ステージ。大阪行き5回・松山行き1回の交通・宿泊費を含む。食費・交際費等は除外)。

とかのんきに書いているが、実際にはこれ以外にも本を買ったり色々しているので、自分が使った金を計算してちょっと怖くなった。でも、先日、趣味関係に金を突っ込む人々の寄稿を集めた『悪友 vol.1 浪費』という文章同人誌(http://mogmog.hateblo.jp/entry/aku-you01)を読んだのだが、ジャンル的に文楽にもっとも近いであろう「市川海老蔵に浪費する女」という方は、歌舞伎に使うお金は毎月3万程度と決めていると書いていた。決めていて3万円。要するに控えめに言って3万円ということだろう。ということは単純計算で年間36万は使っていることになる。この人、遠隔地の公演へも行っているみたいだけど、その際の交通費等は別途計算しているはず。いくら歌舞伎が東京中心の興行とはいえ交通費込んだら月3万でおさまるわけない。私が使ったお金、まあなんてかわいいんでしょう、ひと安心〜。でも本当、文楽が歌舞伎や能よりはるかにチケット代が手頃な業界でよかった。歌舞伎のように1ステージ2万円ではさすがに毎回一等席は大変。料亭や豪華客船みたいな特殊な場所での公演を除外すると単発公演も比較的良心的でありがたい。安いと無料、最高でも10,000円前後と、逆に心配になってくるほどの庶民価格だ。

それと、文楽はグッズ類が基本的に存在しないので、無駄金は使わなくて済む。いや、グッズ、あるんだけど、謎の歯ブラシとか謎のパラパラ漫画付きメモ帳とか、それどうすんねんって感じの謎すぎて買いようがないモンばっかなので心配ないんですよ……。私は劇場での販売物は書籍とCD、それとカレンダーしか買ったことがない。変な土産物しかないと書いたけれど、書籍は劇場売店でしか売られていない内部刊行物もあるので、一番良い土産物だと思う。

 

 

┃ 5. この一年で印象的だったこと

冒頭ではいちばん最初に観たときの驚きを書いたが、最後に、何回か観てきて、すこし落ち着いて芝居を観られるようになってきたうえで印象的だったことをふたつ書いておきたいと思う。

私が観た人形の芝居でもっとも印象的なのは、昨年の錦秋公演(大阪)で観た『艶姿女舞衣』酒屋の段。さきほどコンビニで売ってるB6のレディコミみたいな話と書いたのはこの狂言で、嫁入りしても夫に無視されているお園がああだこうだ言う前半(本当はここが一番有名)はそういうもんだ程度で流して観ていたのだが、後半、夫・半七の愛人である三勝が出てきてから印象がまったく変わった。三勝はほんの少ししか出てこない。心中を決意した半七と三勝は半七の実家である酒屋・茜屋の門口までくるが、当然中には入れない。三勝は玄関の格子戸の隙間から自分が産んだ子であるお通がお園に抱っこされているのを見て嘆き悲しむ。このときの三勝の姿がとても印象的で、格子戸にすがりつく姿は驚くほど透明感のある美しさをたたえていた。三勝役は吉田簑助さん。人形が本当に生きているようだった。子供を心配した人形が生命を得てひとりでに歩いてきたような、まるで「飴幽霊」のお話のような、美しく神秘的な光景。ちょうど格子戸のセットの目の前の席が取れたのでその芝居を目の前で間近に見ることができ、鳥肌が立った。人形遣いが人形を遣っているのではなく、三人の人形遣いが勝手に動きだす人形を抑えているように見えたのが衝撃的で、忘れられない。その三勝の清廉さと美しさには、半七がお園という妻をさしおいて家をあけることに足る説得力を感じ、ぱっと聞き無茶があるだろうというストーリーを芸の力でここまで違う印象にすることができるのかと驚いた。

それともうひとつ印象的だったのは、芸における「品」という概念について。おそろしくガサツに生きている私は「品」とは縁遠い人間であったけど、文楽ではじめて「品」という概念をわかった気がする。それは人形遣いの吉田和生さんを見てのこと。和生さんの遣う人形にはつねに品がただよっている。歩く姿勢や打掛・袖のさばき、障子の開け閉め、小道具の上げ下ろしといったほんのすこしの所作、その積み重ねに品は現れる。何気ない動作のなかで気品はより一層引き立つ。派手な役でなくとも気品は人形に目を引きつける。和生さんは一見ほのぼのしたおじいちゃんだけど(進藤英太郎とか曾我廼家明蝶系のほのぼの顔)、きわだった気品を感じる人形遣いである。文楽の芸に対して使われる言葉でいうと、ほかに「情」というものがある。これはまだ、私にはよくわからない。むかしの名人の録音を聴いたり、映像を観ていると「このひとは何かが違う」と感じることがあり、ぼんやりとわかるような気もするのだが……、これの実感や理解にはまだ時間がかかりそうだと思う。

 

 

このエントリ、あとあと見返したらブログごと抹消したくなると思うが、観始めたころの気持ちというのは後になっては忘れてしまうものなので、その気持ちを覚えているうちに残しておきたいと思い、今回は長めに書いた。

拍子木の音で定式幕が開き、床が廻ると、そこからは別世界。 公演を観に行くたびにあたらしい発見や驚きがある。何がなんだかよくわからないこともたくさんあるけれど毎公演楽しくて、これは初心者のときだけの嬉しい時間だ。「なんかすごくてびっくり〜」という何も考えていない感じの入り方をしてしまったが(いまなお何も考えてないけど……)、その後良い公演やイベントに行く機会に恵まれ、知人や文楽を通じて知り合った方々のおかげでより楽しみが増して観続けることができているのは、本当ありがたいことだと思う。

 

 

 

*1:とか言って、いまとなっては義太夫狂言のほうがわかりやすいだろと思う。だって義太夫狂言って義太夫でナレーションついてるんだよ。状況全部説明してくれるんだよ。

*2:鑑賞教室公演等の短期公演は本公演には含まないようです

文楽 4月大阪公演『寿柱立万歳』『菅原伝授手習鑑』国立文楽劇場

今回は襲名披露公演ということで、劇場フロアのロビーにご祝儀の飾りがしつらえてあったり、展示室も歴代呂太夫特集だったりと華やかな雰囲気だった。

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『寿柱立万歳』。

平屋の屋根が続く街角で、太夫(人形役割=桐竹紋臣)と才三(吉田清五郎)が舞い踊る祝儀曲。人形の踊りが愛らしく、鼓をぽんぽんしたり、扇を広げて舞ったりと様子を見ているだけで楽しい。紋臣さん、扇の扱いや舞いが大変丁寧で綺麗だった。動作のひとつひとつが丁寧な人は目を引く。普段、地味目の奥様とか、女中さんが多いのがもったいない(それはそれで平野耕太の好みのタイプぽい味があって良いが)。途中、太夫がポンと投げた鼓を才三がキャッチするくだりがあって、いきなり投げた&綺麗にキャッチしたので驚いた。とか言って、このあとの『菅原伝授〜』喧嘩の段でどでかい人形がどでかいものを投げる演出に圧倒されて『寿柱立万歳』の記憶が揮発し、ここで何を投げたかを忘れてTwitterで教えていただいてしまった。ありがとうございました。人形は二人とも五色の縞模様の着物を着ており、お茶漬け感があった。

しかし太夫さんたちはもうちょっとなんとかならなかったのか……。頑張っている方がおられるのも承知しているが、あれでは人形がかわいそうだと思う。

 

 

『菅原伝授手習鑑』。

茶筅酒の段。きょうは菅丞相の下屋敷を預かる白太夫(吉田玉也)の70歳の誕生祝いの日。3人の息子とその妻たちが来る予定だが、肝心の息子たちは現れず、妻たちが先に屋敷へやって来る。

しょっぱなから仕掛けられた初心者への罠「ソックリな人形が何体も出てくる」。松王丸・梅王丸・桜丸の妻たちが全員お揃いのうぐいす色の着物でかなりトラップ感ある。桜丸の妻・八重(吉田簑二郎)だけはかしらや髪型・帯が違うからわかるとして、松王丸の妻・千代(桐竹勘十郎)と梅王丸の妻・春(吉田一輔)がまじソックリでやばい。さらに嫁たちがしきりに納戸へ出たり入ったりするのが最大のトラップ。どっちがどっちだかわからなくなる。よく見ると着物に入っている模様が千代は松、春は梅(多分)と違っているのだが、かなり小さい柄なので、客席からはほとんど見えない。もちろん着物の柄を見るまでもなく人形遣いで簡単に見分けられるのだが、人形遣いが黒衣だったら罠にはまってたね。でも千代のほうが着付けが柔らかい感じだったので、黒衣でもギリギリ見分けられる自信ありますね(ドヤ)。

この嫁たちが祝いのお膳の準備をする場面が面白かった。千代が大根を切り、春は井戸端で米をとぎ、八重がすり鉢で味噌をすっている。この料理をする場面にそれぞれの性格が出ていて可愛い。千代がおもむろに取り出した包丁がギラリと異様な光を放つので何事かと思ったら、持っているのは本物の包丁で、まな板の上に乗せた本物の生の大根をトトトトトと小気味よく切っていた。包丁を持っている勘十郎さん(が持っている女の人形)はなんとなく怖い。人を刺しそうで。千代、大根をめちゃくちゃ細かく切っていたが、何を作ろうとしていたのだろうか。浄瑠璃の詞章からするとお雑煮らしいが、勘十郎さんちのお雑煮は細かい大根が入った雑煮? その横では不器用らしい八重の味噌を擦るモーションがどんどん大きくなってゆき、すり鉢がぐらぐら、自分もぐらぐら、ついに千代とぶつかる。千代は大根を切るのと味噌をするのを交代してあげるのだが、すりこぎでへりの味噌をこそぎ落としてからすりはじめていて、細かい。料理上手の表現なんですね。と、その横で首斬り浅のごとく包丁を振り上げる八重。その見事な太刀捌きでダイナミックな大根の輪切りができていた。風呂吹き大根でも作るのかな。そんないきさつがありつつも、無事料理は完成したようだった。

 

 

 ■

喧嘩の段。松王丸(吉田玉男)と梅王丸(吉田幸助)がやっと現れるが、不仲の二人は言い争いから喧嘩をはじめ、そのはずみで庭の桜の木を折ってしまう。

どでかい人形×2がいきなり俵を投げはじめるので驚く。客席側に向かって投げるためか確実にキャッチできるよう低めに投げるのだが、ラグビー? そして取っ組み合いの大げんかをはじめるんだけど、この人たちいくつなの。大きな人形が騒ぐので迫力がある段だった。

 

 

■ 

訴訟の段。氏神詣に出かけていた白太夫が帰宅するが、折れた桜の木を見ても何も言わない。梅王丸と松王丸はそれぞれ「菅丞相の元へ行きたい」「勘当してほしい」と願い出るが。

かわいいおじいちゃん風だった白太夫がいきなり箒で家の上り口のところをバシバシ叩くので驚いた。通して同じかしらを使っているはずなのに、場面によって笑っているようであったり、怒っているようであったり、あるいは泣いているようだったりと、表情が変わって見える不思議な人形だというのは本当だなと感じた。

 

 

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桜丸切腹の段。三つ子の末弟・桜丸(吉田簑助)が納戸から現れ、菅丞相の不遇の原因を作ったとして八重に切腹の決意を伝える。

簑助さんの男の役は初めて見た。桜丸は出てきて→座るくらいしか大きな動きはないが、存在感があった。本当に桜の若木のような儚げな気品で、優しい華やかさがあった。桜丸はその静かな雰囲気のまま切腹して果てるが、次第に鉦を叩けなくなる父親の白太夫と、足元にうずくまりっぱなしの妻の八重の取り乱しかたが哀れだった。

しかし松王丸・梅王丸・桜丸は三つ子ということだが、桜丸だけ明らかに幼くないか。嫁さんも子供っぽいし。文楽でも歌舞伎でも三兄弟に年の差があるように演出するもののようだが、桜丸だけあからさまにキャラが違いすぎて……。いや全員いかつくても反応に困るが。

 

 

ここで狂言の途中ではございますが、豊竹英太夫改め 六代豊竹呂太夫 襲名披露口上。

紫の呂太夫の紋をあしらった金の襖を背後に、赤い毛氈を引いたステージ上に襲名する呂太夫さんと各部門の代表者・関係者が紫の肩衣姿で居並ぶ。挨拶は咲さん、清治さん、勘十郎さんからで、咲さんは司会も兼ねていた。奥の関係者一同席(?)にいる津駒さんは、顔が (>_<) になっていなかった。顔が (>_<) になるのはご自分の出番のときだけなのだなと思った。生の襲名披露口上は初めて見たが、衣装等はきちっとしているのにものすごくフランクな雰囲気で、これは誰が一番客の笑いを取れるか戦っているのだろうか。さすが大阪の人は違いますな。なごやかな15分だった。

ところで勘十郎さんは時折「ゴルフにでも行ったのかな?」って感じに黒くなっておられるが、その理由がこの口上でわかった。まごうことなき日焼けだった。

 

 

寺入りの段。武部源蔵の営む寺子屋へいわくありげな女(桐竹勘十郎)が入門志願として息子・小太郎(吉田簑太郎)を連れてくる。源蔵が不在のため、その妻・戸浪(桐竹勘壽)が対応するが。

幕が開いた瞬間、よだれくり(吉田玉翔)のデカさにびびる。ほかの子供は小ぶりなツメ人形なのに、こいつだけ三人遣いでめちゃデカい。しかも顔が完全におっさん。男塾の先輩か? そしてなにそのドヤ顔。このよだれくり含め、子供たちは自習の時間なのをいいことに、習字を顔に書く手に書く「へのへのもへじ」を書く硯の墨を人にぶっかけるなどしてさかんに遊びまくっていた。そして子供の母親=千代が手土産に持ってきた箱入りのお菓子を速攻開けてウメーウメーとばかりにバカバカ食いまくっていたが、あのお菓子はなんなのだろう。半月型のどら焼きかゴーフル(江戸時代にあったのか?)に見えたが……。浄瑠璃の詞章では「蒸物」となっており、これは小太郎の四十九日の蒸物(四十九日に供え配る餅やお萩)を暗示しているそう。菅秀才(吉田和馬)はよだれくりに勧められてもこのお菓子を食っていなかった。

 

 

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寺子屋の段。武部源蔵(吉田和生)が難しい顔をして帰宅。それは右大臣藤原時平の家来・春藤玄蕃に若君・菅秀才の首を差し出すよう迫られていたからだった。しかし小太郎の顔を見ると源蔵は表情を変える。やがて松王丸と玄蕃(吉田文司)が首実検に寺小屋を訪れるが。

松王丸は百日鬘に熨斗紙を差した紫の病鉢巻、天鵞絨の黒地に雪持松の着物の大変豪奢な衣装。杖代わりに持っている刀も大型のものだ。今回のパンフレットの表紙図案にも使われている着物の雪持松と鷹の柄はすべて刺繍で描かれていて、インパクトのある図柄ながら繊細な彩り、刺繍の縫い目も鮮やかで美しい。この衣装がじっくり見たかったのだが、幸い展示室に見本が置かれていたので細かいところまで見られて良かった。大阪での観劇はやはりこういうところがメリット。

寺子屋に子供を預けている親や爺さんたちが松王丸と玄蕃に間違って自分の子供をとられないようにと迎えに来る場面の可愛さ。親たちが「土が産ました計芋」な子供を呼び出すのを松王丸と玄蕃が門口で検分するのだが、よだれくりのパパがよだれくりより小さいのが衝撃的だった。よだれくりは「おれはここから抱かれて去の♪」と言いつつ、最終的にパパをおんぶして帰っていった。こんなやつらの顔をいちいちチェックしなくちゃならないとは玄蕃も大変な仕事だ。せまじきものは宮仕へ。首をゲットしたらあとはどーでもえーって感じでスタコラ速攻帰っていった。

松王丸は大きな人形で、出てきた時点ですでに玉男さんは汗💧状態、首実検で首桶を開ける場面でうつむくときに大粒の汗が落ちていたのにはっとした。緊迫する首実検では最後に首桶の蓋を閉めるときに松王丸の手元が震え、桶をうまく閉められていないのが印象的だった。その直前、源蔵の首打ちの声が聞こえたときに、若干うつむいて手首で顔を覆うのが心に残る。いろは送りでは松王丸と千代の抑えた演技がとても美しかった。

 

 

人形配役の豪華さが見どころで、満足感が高かった。それぞれのかたの芝居をゆっくり見られた、大変に見応えがある舞台だった。

しかしせっかくの襲名披露なんだから、寺子屋は全部呂太夫さんが語ったほうが良かったんじゃないでしょうか……。内部事情なんだろうけど、これでは誰も得しない気がするが……。それと、今回、人形の見え方は太夫さんの影響を大きく受けるんだなということを再認識した。本当、一番大切なことだと思う、義太夫の如何は。

今回『菅原伝授〜』で上演された部分は過去の記録映像をお譲り頂き事前に観ていたので、話の筋そのものを追うことに気を取られず、落ち着いて観られてよかった。来月の東京公演にも行く予定なので、今回よく見られなかった部分、源蔵の芝居などを落ち着いてちゃんと見たいと思う。

 

 

 

この作品だけのことではないけど、長い時を経て今なお残っているもの、洗練されたものというのは話が本当によく出来ていると改めて思った。

18世紀の時代物の浄瑠璃は大抵「天下泰平の世の中→悪人によって乱される→色々あって→世の中が元に戻る」という物語構造をしているそうだ。天下泰平が続くというのは初演当時、つまり徳川期の時代の空気を反映したものらしいが、ここで重要なのが「天下泰平には戻るが、個人レベルで決して取り返しがつかない事態が起こる」ということで、必ずしも公的秩序をよしとしているわけではないことだそうだ。この「絶対的な世界秩序が最上段にあるために引き起こされる、取り返しのつかない事態」というのが文楽における「悲劇」で、『菅原伝授』でいうと物語全体では藤原時平によって乱された天下泰平を菅丞相(菅原道真)が取り戻すが、そのとき物語の大きな流れの中で覚寿・白太夫・松王丸が子供を失う。この三つの親子の別れ、これについて簡便なあらすじ紹介だと、特に寺子屋のところは「忠義のために子を殺す……」となっていて、忠義を美徳と取れるような書き方がしてあるが、実際に上演を観るとそういう話ではなくて驚かされる。本来美徳であったはずのものが悲劇になる話。笠原和夫脚本の任侠映画『博奕打ち 総長賭博』の持つ悲しさ=義理のために本当に大切だったはずのものを失う、人間性を失わざるを得なくなる悲しみを思い出す(実際にはこちらのほうが古典悲劇の物語構造を踏まえているのだろうが)。『仮名手本忠臣蔵』のあらすじ紹介でよく「忠義のために……」と書いてあるのも同じく違和感*1がある。

以上、去年文楽好きになってすぐ買ったはいいけど上演を見たことないから読みようがなかった『上方文化講座 菅原伝授手習鑑』をやっと読めたので、同書を参考にして突然の知ったかぶりを書きました。

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*1:昨年末、忠臣蔵映画を見まくったが、その意味で『仮名手本忠臣蔵』に描かれている世界観をもっとも反映していたのはまさかの深作欣二監督『赤穂城断絶』だった。仮名手本準拠の話ではないが。っていうか完全にヤクザ映画になっていたが。さすが宇宙にもヤクザはいると思っている監督&映画会社だと思った。

文楽 4月大阪公演『楠昔噺』『曾根崎心中』国立文楽劇場

初めて文楽劇場へ行ってから1年が経った。短い1年だったような、長い1年だったような。 しかし1年前は今にも増してものがまったくわかっていなかったのに、よく大阪まで行ったな。勢いだけで行ったわけだが、勢いというものはすごいものだと思った。

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『楠昔噺』。

「祖父は山へ柴刈りに 祖母は川へ洗濯に」の角書きの通り、昔々あるところにお爺さんとお婆さんがいました^^ お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました^^ から急転直下に始まる文楽的悲劇。南朝北朝が争う太平記の時代を舞台に、「桃太郎」や「舌切雀」、あるいは端午の節句の風物を織り交ぜながら語られる、とある家族の物語。話が複雑なので、あらすじをまとめながら書いていきたい。

 

碪拍子の段

河内国松原村の百姓、徳太夫(人形役割・吉田玉男)と小仙(吉田和生)はそれぞれ再婚同士の仲の良い夫婦だった。二人はきょうも連れ立って出かけ、徳太夫は山へ柴刈りに、小仙は川へ洗濯にと二手に別れた。時が経ち、山仕事を終えた徳太夫が川岸にいる小仙を迎えに来ると、小仙は徳太夫が再婚前に勘当した息子・竹五郎から自分宛に密かに詫言状が来ており、そこには実母でない自分のことを「母様」と書いてくれていたと告げる。しかし徳太夫は、婿の正作にさえ面倒をかけていない自分が出世したという竹五郎を赦しては養って欲しさと思われる、勘当を赦すつもりはないと言う。それより小仙の連れ子のおとわは赤の他人の自分を大切にしてくれる、これ以上に可愛いものはないと。しかし小仙はおとわの夫の正作が牛博労でずっと家をあけたままで不安であり、竹五郎に家に戻ってもらいたがっていたのだった。話はどこまでいっても平行線で、二人はこの話はもうしないことに。

そこへ川上から流れてくる見事な花橘の枝。小仙が拾い上げたその枝を徳太夫が欲しがった。どうせ孫への土産にしたいのだろうと小仙が言うと、孫への土産はもう山で見つけてあると徳太夫は懐から雀を取り出す。雀のほうから袖口へ飛び込んできたのを、孫に与えようと捕まえておいたというのだ。それを見た小仙は雀を欲しがり、二人は花橘と雀を交換する。しかし実は二人は花橘と雀を孫の土産にしたいわけではなかった。徳太夫の欲しがった花橘は橘氏の出である婿の正作の瑞祥、小仙の欲しがった雀は竹五郎が羽を伸ばす吉兆(竹に雀)であると思っていたのだ。

二人が連れ立って帰ろうとすると、団子売(吉田簑一郎)が通りかかる。団子売は後醍醐天皇の臣下・橘正成と鎌倉幕府方の武将・宇都宮公綱が戦う天王寺の決戦を見てきたと話す。楠木正成が幕府方の六波羅軍を破ったと聞くと、なぜか徳太夫が喜ぶ。次に落武者(吉田玉勢)が通りかかり、宇都宮公綱が現れると楠木正成は彼と一戦も交えず逃げ出したと話す。すると今度は小仙が喜びをあらわにする。二人はお互いに楠や宇都宮に縁があるのかと気色ばみ、小仙は花橘を川へ投げ捨て、徳太夫は雀の嘴を折って追い放ち、仲違いしたまま家路についた。 

絵本の昔話のように「むかしむかし」から始まるほのぼのした雰囲気の浄瑠璃。九十九折の山道を表現する、奥行きのある重層的なセットが印象的。幾重にも重なった山を徳太夫の人形がゆっくり登っていくと、途中の坂から人形が遠見の人形に差し代わる。遠見の人形は普通の人形の半分くらいの小さい人形だが、普通サイズと違わず細かく作られており、ちゃんと三人遣いだった(みな黒衣)。山を登っていく徳太夫を川岸で見送る小仙が「いとしや去年まではあのやうな足許ではなかつたに、モウ一年々々弱りが見える」とつぶやくのが妙にリアル。

小仙の人形はすそを捲るので足が吊ってあり、三味線(鶴澤清友)のメリヤスに乗せて足踏みしながら洗濯物を踏み洗いしていた。これが結構難しいとのことだが、自然にフミフミしているように見えた。小仙、和生さんが遣っているせいか、田舎の一般人婆さんだが穏やかな品があり、娘婿に武将がいてもおかしくないなと思わされた。

山から帰ってきた徳太夫が小仙の洗濯が終わるまで待っている場面、小仙が着物の裾をたくし上げて洗濯の仕上げにかかろうとすると、徳太夫が「そんなところを通りがかりの仙人が見かけたら、通力を失って落っこちる〜!」と言い出すのがかわいい。受けて小仙は「それは五十年前の話」と言っていた。

この段ですごかったのは、雀の舌を引っこ抜く徳太夫と、ビキニアーマーよりやばい格好の落武者。雀の舌、目の前でブチィと引っこ抜かれてびびった。引っこ抜かれた舌はわりと大きい赤ピンクのぺなっとした物体で怖かった。さっきまで小仙の左遣いさんが手に持った雀(原寸サイズのリアルな小道具)をぴこぴこしてあげていたというのになんという無惨。当たり前だが玉男様完全に真顔で閻魔大王状態になっておりますます怖い。落武者は裸に鎧だけを着た大胆な人形。ビキニアーマーは江戸時代からあったんだ。いやビキニじゃないけど。厚紙でできてんじゃねえかというペラッペラの鎧の胸板の両サイドからまあるいポッチ乳首がWではみ出てるのが気になって、ヤツが舞台に出ている間浄瑠璃一切頭に入らなかった。人形が動くと鎧が揺れて乳首が隠れるのではと思っていたが、隠れなかった。こだわりの着付けなのかもしれない。人形の動きはちゃんとしているのだが、客は乳首しか見てなかったと思う。文楽におけるビキニアーマーの無限の可能性を感じた。

 

徳太夫住家の段

翌日、徳太夫の家。徳太夫の義理の娘・おとわ(吉田文昇)が端午の節句のちまき用の粉を石臼で挽きつつ息子・千太郎(桐竹勘次郎)を遊ばせていると、家の前を物売り(吉田玉志)が通りかかる。千太郎を褒めそやす物売りにおとわは機嫌をよくしてオモチャの槍と長刀を買い求める。にわかに雨が降り出し、おとわは物売りを牛小屋で休ませてやることに。入れ違いに奥の間から徳太夫が現れ、婿の正作は牛博労に行ったのではなく、今は後醍醐天皇に召されて楠木正成と名乗る武将になっていると知っている、しかし小仙にはこのこと他言無用だと告げる。

やがて日が傾く頃、門前に場違いな籠がつけられ、身なりの良い女(吉田勘彌)が徳太夫はいるかと訪ねてきた。小仙がどなたかと尋ねると、自分は竹五郎の妻・照葉であり、伴っている少女は娘・みどり(吉田玉彦)だと名乗る。照葉は竹五郎=宇都宮公綱の天王寺の合戦の陣中見舞いに行く途中で、徳太夫に勘当を許してもらおうと立ち寄ったのだという。小仙はそのことは徳太夫には黙っていてほしいと頼み、二人を奥の間へ通す。

また入れ違いざまに徳太夫が現れ、小仙に仲直りしようと言いだす。お互い、竹五郎は宇都宮公綱となり、正作は楠木正成となって今や敵味方に別れて争っていることを知っていた夫婦は、孫である千太郎とみどりに祝言をあげさせ和睦の筋にしようとする。しかしそれを聞きつけた照葉は、逃げ足の早い正成の息子と縁組んだと言われては家の恥と猛反対し、祝言の盃を取り上げて叩き割る。正成を侮辱されたおとわは、正成は公綱の面目を立てるために軍を引いたのだと照葉に楯突く。言い争う二人をあとに、肩を落とした徳太夫と小仙は仏壇へ灯明を上げようとを奥の間へ消える。おとわと照葉はそれぞれの息子娘に徳太夫と小仙の行動を見守るように言い含め、二人の後について行かせる。

そのとき突如庭から烽火が上がる。すると山へ次々と篝火がともり、鬨の声が聞こえる。宇都宮公綱の使いが現れ、公綱の軍勢はいま見えた遠篝に恐れをなして散り散りになった、照葉には早く陣へ来てほしいと告げる。駆け出そうとする照葉とおとわが争っていると、奥の間から斬り合う音が聞こえ、障子に血飛沫が飛び散る。血まみれの姿で現れる徳太夫と小仙。徳太夫は、正成が軍を引いたのは公綱が徳太夫の息子であり、公綱に武勲を立てさせ徳太夫を喜ばせるためだったと言う。先ほどの狼煙は徳太夫自身が上げたもので、それを合図に仕事仲間に山へ篝火を灯させ鬨の声を上げさせて公綱の軍勢を威嚇し退けるという、正成へのせめてもの返礼だったと。そして、公綱を思いそれを止めようとした小仙と斬り合いになり、二人はお互いわざと刃にかかったのだった。徳太夫は嘆く照葉とおとわの前で石臼に自らの血文字で二人の戒名を記し、公綱が後醍醐天皇へ味方すれば勘当を赦すと言って息を引き取った。

そこへ牛小屋で休んでいた物売りが姿を見せる。話は聞いていた、お悔やみをと告げて物売りが立ち去ろうとするところにかかる「宇都宮公綱待て」の声。どこからか聞こえる「楠多聞兵衛正成対面せん」との言葉に、物売りは商人の化を捨てて本性・宇都宮公綱の姿を顕す。公綱は奥の間の鎧兜姿の人影へ矢を放つが、矢が命中すると鎧が剥がれ落ち、中身は藁人形であったことが知れる。再び現れる障子の奥の鎧兜の人影に矢を射るも、当たるとこれもまた藁人形であった。そして現れた本物の楠木正成(吉田玉佳)と仕込み槍で立ち会う公綱だったが、徳太夫の亡骸が起き上がり、槍の柄をバラバラにして二人の揉み合いを制する。実の子も義理の子も思う徳太夫の魂魄に一座は涙して、二人は二親の四十九日が明けてからの勝負を約束し、公綱は小仙の亡骸を、正成は徳太夫の亡骸を抱えて別れ行くのだった。 

情と義理とに引き裂かれ巻きおこる惨劇。文楽、ふだんは人を刺そうが首を切り落とそうが直球の怖い表現はないのに、突如障子に飛び散るダイレクトな血飛沫(本当に障子に真っ赤な血飛沫がビシャア!とかかる)。突然のスプラッタ展開にどよめく客席。本当は怖い昔話。

ここでは前段のなにげない要素が伏線として回収されていて驚いた。いまわのきわの徳太夫と小仙に孫たちを会わせてやろうと、子どもたちを起こそうとする嫁たちを制する徳太夫が「(孫たちが起き出して)おいら二人を尋ねるなら、祖父は山へ柴刈りに、祖母は川へ洗濯にと言うてすかしてたもいなう」と告げるくだりには涙。だから角書きが「祖父は山へ柴刈りに 祖母は川へ洗濯に」で、出だしも「祖父は山へ柴刈りに、祖母は川へ洗濯に」から始まるんですね。そういえば徳太夫が小仙に仲直りをもちかけるくだりも、自分の話を昔話の中のお爺さんに例えて話しているし、冒頭で徳太夫の柴刈り仲間たちが出てくるのも、篝火を焚く仲間の伏線だったんだな。

この段での一番の見所は宇都宮公綱が鎧人形を射る場面。豪奢な衣装の大型の人形が本当に大きな弓を射るのだ。弓を構えたときはどうするのかな〜と思ったが、本当に弓をびゅんと飛ばしていてびっくり。しかもちゃんとまっすぐ飛んでいた。てっきり途中で後見の人が差し替えると思ったから……。人形は文楽でも一番大きい部類でかなり重いだろうに、公綱役の玉志さんはスッと綺麗な姿勢で弓を引いていた。しかもあそこまでちゃんと飛ばすとは、生身の役者がやっているならともかく、文楽人形は三人遣いで右手と左手は別の人が遣っているのにすごい。私が見た回は2本ともパーンと見事に飛んでいた*1。玉志さんは昨年5月東京の『絵本太功記』の武智光秀役でも、最後、瓢箪棚に下がる瓢箪を一発でタララララーッと綺麗に切り落としたのを覚えている。そのときあまりに普通に切り落としたのでびっくりしたのだが、今回もあまりに普通に飛ばしたので、私と私の周囲のお客さんは「!?!?!?」となっていた。公綱の射る矢の2本目はおとわの人形が射程範囲に入るので、文昇さんが微妙に警戒していた。そして宇都宮公綱と戦う楠木正成は飾り人形のような美麗さで、最後に出てくるだけある立派なものだった。

この後半は千歳さんが大変に頑張っておられた。この公演の出演者一番の熱演ではと思わされた。「人形見てるより千歳さん見てるほうが面白いらしい」と聞いていたが、確かに面白かった。

あとは勘彌さんが武家の嫁さん役をやっていたので満足。個々の性格の方向性はどうあれ、貴人・武人の娘役は勘彌さんにやって欲しい。独特の「生まれながらにしてお前らとは身分が違う」感が漂っている。ああいう身分あります系の気品感は結構難しいものだと思う。

 

『楠昔噺』、昔話や節句にちなんだエピソード構成のみならず、話そのものも聴き応えがあり、文楽らしい話で面白かった。三段目のみの上演だが、短い中にも大きなストーリーのうねりや文楽のエッセンスがたくさん込められていると感じた。そして出演者も大変に豪華で、この4月公演の一押し演目だと思う。

 

 

 

『曾根崎心中』。 

2月の東京公演で観たばかりなのでどうかなと思ったが、色々と発見があった。『曾根崎心中』って名前が有名だから初心者向けっぽいけど、話が簡素すぎるため見所が出演者各個の芸になってきてむしろレベルが高い演目のような気がする。しかしながらその意味でまさしく出演者各個の芸を楽しめた回だった。

お初役は2月東京と同じく勘十郎さん。2月東京は超情熱的で超強火なお初で観客を圧倒していた。あの調子で相手役の徳兵衛が清十郎さんだと、清十郎さんは絶対食われるだろうなと思っていた。清十郎さんは絶対張り合ってこないだろうし。しかし今回はその情熱の炎は影を潜め、可憐で儚いお初像に振っていて驚いた。やはり相手役によって演技を変えているんですね。2月東京では古典作品といえども、こんな解釈や演技で普通のストーリーを新しく見せる人がいるんだと大変に驚いたが(それは相手役の玉男さんも含む)、今回の透明感のあるお初の演技にも驚き。個人的にはこちらのほうがストーリーから受けるお初のイメージに近い。ちょっとしたしぐさの一つ一つが細やかでかわいらしく、視界のそこだけ異様に解像度が高く感じた。お初だけ4Kみたいな。甘える仕草がとくに念入りで、かわいかった。

清十郎さんの徳兵衛は、いかにもちょっとした歯車の狂いで自殺に追い込まれそうな、細やかでしなっとした若者の印象だった。人形の顔が白い胡粉で塗られているからだけでなく、印象そのものが青白い感じ。遅かれ早かれこうなるというか、社会に適合できなさそうな清楚な雰囲気だった。死ぬ前からもう死んでいるような、そんな徳兵衛の胸に顔をうずめてこすりつけているお初のほうがちょっと姉さん女房っぽい。お初はひとりでも生きていけるが、情にほだされて一緒に死ぬみたいな……。

お初の全体的な方向性以外にも2月とは違うところがあって、特に天満屋の上り口でお初が徳兵衛を打掛の中に隠してやりとりするところは結構印象が違った。2月は打掛の中は二人だけのプライベートな空間で、まるで外界から切り離されているかのような色っぽい雰囲気だったが、今回は徳兵衛の仕草がシンプルで、芝居として見せることを優先しているように感じた。あるいは固いとも思ったが、それゆえの清廉さはいかにも死にそうで、2月よりもプラトニックな雰囲気。人によって、あるいは配役の組み合わせによって演じ方は違うのだなと感じた。

そんなこんなで今回のお初と徳兵衛はちゃんと心中しそうなカップルになっていた。実際に刺すシーンまでやっていたからだけでなく、もう死ぬしかない感が出ていた。

それと今回の『曾根崎心中』は太夫・三味線が大変豪華で密度が濃い。私のお気に入り・津駒さんは天満屋に出ていて一番いいとこだったが、ちょっと不安定で本領発揮じゃなかったみたい。また別の機会によく聴かせてもらいたい。

ところで、メインキャストではないが、生玉社前でワイワイやっているツメ人形たちには大変なやる気を感じた。『楠昔噺』の徳太夫住家の冒頭で物売りにまとわりつく近所の子どもや第一部の『菅原伝授手習鑑』寺入り〜寺子屋の段で登場するアホな子どもたちもそうだけど、今回の公演、なんだかツメ人形がやる気ある。

 

↓ 2月東京公演『曾根崎心中』の感想はこちら

 

 

今回は一泊ということで時間に余裕があったため、観劇前、大阪市内の近代建築巡りに連れて行っていただいた。中之島・北浜に残る戦前の建物はいまも現役として使われているところが多く、たくさんのお客さんで賑わっていて面白かった。

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*1:弓は小道具で弓道用のものとかではないので、安全の範囲で飛ばしていた。鎧人形に当たってはいない

映画の文楽 2 『文楽 冥途の飛脚』マーティ・グロス監督(1979)

東京都写真美術館でのデジタルリマスター版上映。

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  • 文楽 冥途の飛脚』
    (『冥途の飛脚』より「淡路町の段」「封印切の段」、『恋飛脚大和往来』より「新口村の段」)
  • 製作・監督・編集=マーティ・グロス
  • 撮影=岡崎宏三+小林秀昭
  • 音響・音楽監修=武満徹
  • 録音=西崎英雄
  • 太夫=淡路町の段:竹本織大夫(竹本源太夫)、封印切の段:竹本越路大夫、新口村の段:竹本文字大夫(竹本住太夫)
  • 三味線=淡路町の段:鶴澤燕三(五世)、封印切の段:鶴澤清治、新口村の段:野澤錦糸(四世)
  • 人形=忠兵衛:吉田玉男(初代)、梅川:吉田簑助、八右衛門・孫右衛門:桐竹勘十郎(二世)、妙閑:吉田文雀、他
  • 1979年/2011年デジタルリマスター
  • http://bunraku-movie.com

  

記録映像のようで記録映像ではない、不思議な映画。海外向けに製作されたといういきさつのため、日本では一般の劇場公開はされず、特殊な企画上映でのみ観られる作品(ソフトは発売されています)。『冥途の飛脚』を抄録ながら文楽公演の上演ほぼそのままに映像化したような内容で、ニュアンスとしては記録映像とドキュメンタリーの中間だろうか。バックステージ等の映像はなく、純粋に舞台映像に徹しているが、単なる上演のようすを撮った映像、でない何かがこの作品にはある。

 

本作の最大の特徴は、「芸」ではなく、あくまで「芸と人」あるいは「文楽とその人」を撮っているという点。本作では太夫、三味線弾き、そして人形遣いの表情が真正面から精緻に写し出されている。

それぞれの段の冒頭、人形が出てくる前の部分は、床を真正面からとらえた映像。一番最初の淡路町の源大夫さんは目を輝かせ、表情豊かに一心に語っておられる。語りは盛り上がっていても鶴のようにすうっとした表情で、しかし突如見台を叩いてびびらせてくるのは越路さん。新口村の住大夫さんは後半にいくにつれだんだん汗をかいてきたり。三味線弾きさんはみな、カメラ目線のようでいてカメラ目線ではない、顔をあげてまっすぐ正面、どこか遠いところを見ながら静かに演奏している。そして人形の撮り方も特徴的。人形だけでなく、出遣いの人形遣いの姿が常にトリミング内に入るように写されており、かなり人形遣いの顔寄りになるカットもある。みなさん別に表情はさほどないのだが、あんまり表情がないということが写っている。

個人的にはこの撮り方、結構、普段の公演を観ているときの視界に近い。基本的には集中していると人形しか見えないとは言え、一応人形遣いも見ているし、時折床に目をやると太夫さんが人形以上に盛り上がっていたり。それで言うと、逆に自分が普段どこを見て観劇しているかわかる部分もあった。例えば、映像がいきなり太夫さんや三味線さんに切り替わるとはっとして、やっぱり自分は普段はずっと人形を見ているんだなと思ったり、メインで忠兵衛が芝居しているシーンでも、この映画では忠兵衛が映りっぱなしになっているけど、観劇時の自分は無意識にそれを受けて何らかの反応をしている梅川を見ているので一瞬違和感、など。本作には引きの映像がほとんどないので、ある人形の芝居を受けて相手の人形がリアクションする様子はほとんど写っていない。このリアクションで心情が読める部分もあると思うのだが。そこは実際の文楽公演の雰囲気とは違うかな。

また、本作は実際の劇場ステージでの撮影ではなく、撮影所のスタジオで舞台セットを組んで撮影されている。一見ほとんど上演そのままを撮っているようだが、そうではない。本作の映像は、常に舞台を端整に真正面から見たアングルから撮影されている。すなわち実際の客席からの見え方ではない。人形は常に真正面に向かって演技をするが、広いステージの上ですべての演技に対して真正面から見られる客はいない。この映画のアングルは、空想上の文楽鑑賞の理想アングルである。ただし客席から見るよりカメラ位置は高めで、身長高めの人形遣いのみぞおちくらいの高さに設定され、封印切のところなどは小判がこぼれ落ちる蓮台*1の上もよく見えるようになっている。

それと私がこの作品の特徴だと思っているのは、「空間」の捉え方が実際の文楽公演とは違うということ。実際の公演では屋外も居室も次の間も、すべての空間がシームレスにつながっており、人形はそこを自由に行き来する。エセ日本文化論な言い方になるが、これは、日本家屋の仕切りは曖昧であるという特徴を写し取ったような空間設計だ。しかし、この作品では、屋外・居室・その次の間でカットが切り替わり、絵のつながりも断絶されて、明快に別の空間として撮られており、もともとの舞台にあるシームレスさを意図的に排除しているように見える。実際には常に真正面から撮るというアングル設定とセットを組む都合上だとは思うが、強い印象を残す。それと、いまの本公演(文楽劇場国立劇場)とくらべると人形がみんなきゅっと寄っていて、ステージがかなり狭く見えるのだが、これは当時の文楽公演のステージの大きさによるものだろうか。人形側の照明が暗いこともあって、ちいさな小屋の中で人形が動いている魔術的な雰囲気がある。

そういえばこの映画、足拍子の音が入っていない。実際に文楽公演を見ていると、足拍子の音って大きなアクセントになっている気がするが。なんで入ってないんだろう。時代物じゃないからまあいいかということかしらん。

 

 

人形で印象的なのは忠兵衛(初代吉田玉男)。本作は、新口村以外は忠兵衛メインで撮影されている。淡路町の段で自宅周辺をうろついているときは結構瑞々しいというか、ヒヨっとした印象なのだが、羽織落とし〜封印切〜新口村は結構大人びた印象で、2月に観た公演での忠兵衛とは印象が違っていた。越後屋ではわりあいすっとしているけど自宅周辺で気まずそうにしているいたたまれない姿、石井輝男監督の『異常性愛記録 ハレンチ』の若杉英二を思い出した。

と書いたままでは玉男さんファンの方に刺されそうですので、ご説明いたします。『異常性愛記録 ハレンチ』はうら若いバーのママ・橘ますみにつきまとう粘着ストーカー・若杉英二がいかにド変態かということをしつこく描いた、まじで気が狂った異様な映画。若杉英二は橘の前では何を考えているかわからない、社会性という枠を逸した怪物として描かれているが(まず口調が「〇〇だよ〜ん」)、おもしろいのは橘以外の人(自分の妻、橘の母、伯母)が介入してくると途端に真顔になり、小心者の姑息な社会性のある人間に立ち返るという点。彼の正体は老舗染物会社の社長なのだ。ここだけが映画として異常にまともで、そこ以外全編狂っているこの映画のスパイスとして効いている。って、なぜか石井輝男褒め文章になってきたが、演出の区別の方向性は違えど、忠兵衛も自宅(しかも養子先)とそれ以外で雰囲気が少し違うのは面白い。

あとは2月公演の主役ふたり(忠兵衛=吉田玉男 当代、梅川=豊松清十郎)より主役ふたりが抱きつくのが速くて、やはり慣れてる人同士だと間合いを読むのが速いんだなと思った。とんとんとポーズをとっていくテンポが速く、メリハリがついていた。

 

 

本作は、本来なら上演時間3時間程度のところを抜粋編集で1時間半程度におさめられている。大きく切ってあるのは、淡路町の冒頭で忠兵衛が出てくるまで(番頭の接客と妙閑のお小言*2)、封印切の冒頭で禿が弾き語りをする前後。新口村は梅川のクドキの頭、捕物が来るところの途中など詞章を行単位でところどころ切ってある気が。リズム的にいま何か抜けたなとは思うけど、カットの切り替わり目なので普通に見る分にはそこまで気にならない。

ところで今回、会期中に2回観に行ったんですけど、2回とも越路さんが語っている封印切でド爆睡している人がおられて笑いました。本公演でも一番うまい人のとこで爆睡してる人おられますけど、やっぱり心地いい浄瑠璃が耳に入ってきて周囲が薄暗いと、人間、眠くなっちゃうんだなーと思いました。とは申せど私も人が切腹してても寝てることがしばしば(ソフト表現)あるので、人様のことは言えませぬ。

 

 

┃ マーティ・グロス監督トークセッション(2017.3.24)

この日は英字幕版を上映後、来日中のマーティ監督によるトークセッションが行われた。トークセッションはそのほとんどが会場との質疑応答形式で、以下にその内容をまとめる。監督は日本語超ペラペラなのでトークもほぼ日本語だったが、お話一部難しい部分があり、私がうまく意味を掬えていないところがあると思う。ご容赦ください。文中お名前すべて当時です。

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Q. 製作後32年間、日本国内での劇場上映がなされなかった理由は?

本作は海外上映を目的として製作し、日本国内上映は考慮していなかった。なぜかと言うと、当時(1979年)映画はフィルム製作の時代。35mmと16mmで、英語字幕版と日本語字幕版(英字幕がないもの)を両方製作するには予算がかかりすぎるため。日本人のかたが英字幕を見ても「うん?」となるでしょう?

 

Q. 文楽との出会い&製作のいきさつは?

陶芸の研究のため、1970年に来日した。窯元へ弟子入りし、陶工の見習い実習をした。そのとき、ヒッチハイクで日本中を巡った。常滑の窯元で修行していたので、そこから大阪、九州へ。大阪へ行ったとき、文楽を観なければ日本の伝統文化を勉強したとは言えないと思い、朝日座へ行った。朝日座というのはいまの文楽劇場の前身。最初はまったくわからなかった。1976年に記録映画『陶器を作る人たち』を作り、そのあとどうしようかと思っていたら、バーバラさん(?)に「文楽に取り組んでみては」と言われた。大阪に滞在し、朝日座に1ヶ月ほど通い、楽屋にも通い、そして製作のための寄付を集めた。大変だった。

出演者は自分で選んだ。当時は越路さんが一番えらかった。越路さんはすごいgentlemanで、???にも連れて行ってもらった(聞き取れず)。製作にあたっては越路さんに相談した。人形の配役は、簑助さんなら女の役とか、決まっているものがあるでしょう? そういうものに従って決めていった。

文楽は手品。何十回見てもわからない。何をどうしているという仕掛けはすべて知っているはずなのに、どうやっているのかわからないすごさがある。(はじめ手品という言葉にピンとこなかったのですが、前後の話から察するに、magicというニュアンスで言われているようでした)

 

Q. 文楽の映画というのは滅多にないが?

栗崎碧さんが2作撮っている。1作目は完成したが(『曽根崎心中』)、2作目は頓挫した。しかし、自分は栗崎さんの映画はあまり好きではない。理由は、セット撮りで、義太夫の意味がないから(床が写らないから)。文楽は人形の舞台の横に義太夫の床が見えている。それが大事でしょう?

 

Q. 撮影の方法は?

3日間で、初日の午前中に義太夫の録音、午後に床の映像の撮影。次に人形。カットごとに撮るのだが、いきなり途中からはじめても人形遣いはすぐにswitchできる(スタートがかかると即座にテンションをあげ、そのシーンの人形の演技を始められるというニュアンス)。玉男さん、簑助さん、勘十郎さん、すごいと思った。

床のみをずっと撮影した映像はあるのかというと、音はすべて撮っているが、映像はすべて撮っているわけではない。なぜなら、当時はフィルム撮影で、35mmは最長9分しか撮れなかった。そして、フィルムは大変高価だった。未編集フィルムは残っているが、completeではない(一段まるごと撮ってあるわけではない)。いまはNHKがすべて撮っていると思う。

 

Q. なぜ『冥途の飛脚』なのか?

自殺する話は嫌だった。自殺ものというのは、最後にばたっと倒れるというような……(心中ものを指しているようだった)。海外では日本ものと言ったら、自殺ものを連想するだろうけど。文楽を題材にした映画を海外ではじめて公開するにあたって、親子ものにしたらみんなによくわかると思った。『冥途の飛脚』には親子の愛が描かれているでしょう?(新口村の段のこと)

 

Q. 武満徹氏が音楽監修にクレジットされているが、曲を提供しているわけではないのは?

武満さんは環境音を撮った作品を通して知り合った(このあたりよく聞き取れませんでしたが、職人たちのたてる音を題材にした映像をマーティ監督が製作していた→それを武満さんが観て知り合いになったということっぽかったです)。武満さんは現代音楽の大家。武満さんは天才で、邦楽にもとても詳しかった。越路さんについての文章も書いていた。この映画を製作するにあたり、出資者を募るため有名な人を起用せねばならず、友達だった武満さんに頼んだ。武満さんはカナダまで来て、編集作業に立ち会ってくれた。

 

Q. 本作は『冥途の飛脚』すべて(上演時間3時間程度)ではなく、抜粋となっているが(87分)、収録する場面はどのようにして選んだのか?

まず先にカナダで台本を作った。台本は、床本と現代日本語訳を左右に併記したもの。それを見て撮る場面を選んだ。また、最初、JVCに提供してもらったビデオカメラで映像を撮っておいて(実際の公演かリハーサルかは意味が取れなかった)、その中から収録する場面を「ここからここを撮りましょう」と検討した。当時、videoはとても高価だったため、太秦の撮影所(大映京都撮影所)にはvideoが入ったことがなくて、ビデオを初めて見たスタッフの方々が驚いて集まってきた。videoはこういう使い方にはとても便利。

 

Q. 文楽を撮るときに大事にしたことは?

記録映画ではなく、storyにしなくてはならないと思った。文楽義太夫)はstorytellingで、storyが大事だから。angleはいつもの舞台のangle(真正面)。技術的には斜めからの映像も撮れるけど、それでは文楽の舞台らしさが失われてしまうので、まっすぐ見たときだけの映像にした。画面下部にマスクをして、映像の中ではなく黒帯部分に字幕をつけた*3(理由として、文楽を撮るにあたり映像にかぶってしまってはいけないから、という意味のことをおっしゃっていたが、うまく意味掬えず。すみません)。

 

Q. 字幕翻訳者について

英字幕作成者は黒澤さん、溝口さんの作品の英字幕も担当した方(外国の方にのみ渡された英語版解説リーフにその方の説明が載っていたらしいが、私は日本語リーフを受け取っていたのでお名前確認できず)。戦前から活動されていた方で(?)、当時日本映画の英字幕といったらその人だった。全訳せず、字幕で追いきれる分量に要約して短くしてくれた。この英訳にあたり、カナダで日本人留学生らの協力を得て、床本の文章をローマ字に直してtypeして毎日翻訳者に送っていた。最後にドナルド・キーン先生に確認してもらったが、間違っていたのは1箇所だけだった。(司会の配給会社の人よりコメント:英字幕には監督も参加しているとのこと)

 

Q. 歌舞伎や能・狂言には最近、新しい風が吹いていると感じる。文楽にはそのようなものはあるのか?(日本在住の英語圏出身者の方からの鋭すぎる質問)

文楽は人数が大変少ないので、他の伝統芸能のように毎日稽古して他のstageを勤められるという環境ではない。文楽は能のように大きい世界(業界)ではないので。60〜70人程度しかいないのではないか。しかし素浄瑠璃公演にも取り組んでいるし、小さいstageにもたまに出演しており、新作も時々はやっている。(客席内の「先生」と呼ばれている方から、シェークスピアなどにも取り組んでいますとの説明)

※ここは話に割って入りたくなった文楽ファンのお客さん、いらっしゃるのではないだろうか。あとで説明に入った方も最近は文楽がどうなっているかよくわからないとおっしゃっていたので……。技芸員さんはいまはゆっくり増えて、80人くらいいらっしゃるはずというのと、歌舞伎や能より興行規模は小さいが、最近は本公演以外の小さい公演もよくあり、新作についても出来る範囲で取り組んでいるという話をどなたかしてあげて欲しかった。

 

Q. 人形が出遣いで、人形遣いの表情をクローズアップで撮っている理由は?

人形と人間の関係を見せなくてはならないと思ったから。(それが文楽でしょう?というニュアンス)

 

 

 ■

監督は、文楽はstoryが大切であるということを繰り返しておられた。このstoryは、日本語でいう「ストーリー」ではなく、「義太夫節として語られること」という意味、あるいは英語ニュアンスでおっしゃっているように思った。私が監督のお話でとても共感したのは、「文楽は何十回観ても“わからない”、仕掛けはすべて知っているのに、どうなっているのかわからない」という点。文楽はシンプルな要素で構成されている。人間の声、簡易な構造の楽器、同じく簡易な構造の人形、どれもタネはものすごく簡単で、なーんだと思うのだが、そこに芸が加わると、まったく違った世界が出現する。

英語圏のお客様で、“義太夫”の意味がわからない、英語でいうと何?という質問をされた方がいらっしゃって、監督は“chant”だと答えておられたのも印象的だった。周囲に文楽を観るというと、“義太夫”って何ですかということをよく聞かれる。しかし私はいつもこれにうまく答えられない。要するに自分でも“義太夫”が何かをわかっていない。ストーリー(浄瑠璃)に節回しをつけて語る音曲で……と、余計わからなくなるようなことを答えてしまっている。日本語だとどう答えたらいいんだろう? 

最後の質問に関して。質問者の方は「あらゆる人形劇は人形を人間の動きに近づけようとするが、文楽はつねに横に顔出しの人形遣いがいて、人形は人形であることを主張してくる」とおっしゃっていたが、そう感じる人もいるんだーと思った。実は私は文楽に対して真逆の印象を持っていて、初めて文楽を見たとき「人形遣いって、顔出しで真横に立っていてもほとんど存在感ないんだな」と感じた。そして、「文楽の人形の動きって、人間のそれをトレースしているわけじゃないんだな」と。このように、トークセッションは監督と会場が対話する形式だったため、会場に来ているいろいろなお客さんの感想を聞けたのは面白かった。ただ、反応から推察するに、実際にはお客さんの半数以上は文楽ファンだろう。あとは、伝統芸能に興味がある系のかた、記録映像に興味があって来たらしい監督目的の方のようだった。

しかしこれ、せっかくトークイベントをやるなら技芸員さんをゲストに迎えて欲しかったな。メインキャストは亡くなっている方が多く、ご健在の方も本公演や特別なイベント以外にはお出ましにならない方ばかりなので難しいかもしれないが、人形の左や足で出演されていた方は現在のベテランの方のはず。東京での上映だから難しいだろうなとは思うけど、出演者側からのお話も伺いたかった。

 

 

おまけ

トークセッション終了後、ロビーで監督との自由歓談の時間があったので、前々から気になっていた床側と人形(手摺)側の照明の違いについて質問した。

 

Q. 照明について、床側(特に淡路町・源太夫さんの部分)が明るく、人形側が妙に暗いのは何故?

いま見ると、床側は照明当てすぎたなーと思う。人形と別の日に撮ったからねー。色味も場面によって違っちゃってるでしょ。いま撮るならあんなふうにはしないw まあ当時30歳の監督が撮ったものだからw 人形側の照明は、店の中、外(夜)など、場面によって変えている。

 

とのことでした。なるほどw 監督、ご回答ありがとうございました。たくさん人がいたので少ししかお話できなかったけど、足拍子のことも聞けばよかったな。

 

 

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Blu-ray版ソフト

 

  

*1:っていうの? 手すりぎりぎりの高さに設置されている、小道具などを置く黒い台

*2:これをカットしたせいで妙閑役の文雀さんの出番がメッチャ少なくてやばい

*3:本作はレターボックス状態での上映になっており、映像内ではなく、レターボックス下部の黒み部分に字幕が出るようになっている