TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 6月文楽若手会・東京公演『義経千本桜』椎の木の段・小金吾討死の段・すしやの段『妹背山婦女庭訓』道行恋苧環 国立劇場小劇場

出演者は完全にド他人なのに、「よかったねぇ〜😭よかったねぇ〜😭」と親戚のオバチャン気分になってしまう若手会・東京公演へ行ってきた。

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義経千本桜』三段目 椎の木の段〜小金吾討死の段〜すしやの段。

昨年度の地方公演で出た椎の木の段・すしやの段に小金吾討死の段を追加して三段目を通しにしていた。これを本公演でやってくれよと心の底から思った。

出演者が若いからか、登場人物たちも年相応に若い雰囲気。権太は詞章の中では「若い人」などと何度か若さが強調されるが、地方公演で観た勘十郎さん・玉男さんの権太は人物像が強く全面に出て、年齢という概念を感じなかった。しかし今回の玉勢さんの権太は若い。かなり若い。20歳ちょっとくらいに見える。というかむしろこれくらいが浄瑠璃に対して適正なのかもしれない。権太があのような結末を迎えたのは愚かさゆえだと思っていたが、この権太にはもうすこしニュアンスがあって、若さゆえの浅はかさの感がある。「椎の木の段」でもずぶとい横道者というより、無軌道に生きる軽薄なチンピラっぽいというか、アメリカンニューシネマ感が……。すしやの最後に弥左衛門が権太のいままでの素行に対し、なぜ早く改心しなかったのかと言うくだりがあるが、あれを地方公演で観たとき以上に可哀想に感じた。ただ若くてバカだったからちょっと素行が悪かっただけなのに、最悪な運命がいくつも重なって巡り合わせて、最悪な結末を迎えたようで、ひどく哀れに思えた。権太が若く見えるのは人形がスラッとして見えるのが最大の理由ではあると思うけど、人形・床ともに作り込んだ芝居がかりがなく、飾り気のない素地そのままの若者に感じられて、すがすがしく好ましかった。

その点でいうとお里〈人形役割=吉田簑紫郎〉もすごかった。等身大の娘さん、ごく普通のなんでもない女の子って感じ。世が世なら絶対タピオカ吸ってるタイプ*1。至極普通の若い娘さんならではの良い意味での中身のなさ、軽い佇まいがあるというか、こういう普通さって、なかなか出せるものではない。すしやの冒頭で店に押し寄せてくる村人ツメ人形への、商売やってる家の娘さんらしい素朴な対応。奥の一間で枕をちょとずつくっつけて「キャーーーーーーーッ💞💞💞」と一人で大盛り上がりするところのよい意味での色気のなさ。ピュアに気持ちの盛り上がりだけを表現していて、男性演者でここをまったくキモくなくやるのはすごい。男を意識した目線のシナがない*2。これらの仕草の素直さが本物の女の子みたいだった。こういう素直な演技はうまく映える役とそうでない役があると思うけど、お里にはかなりはまる。私は文楽の人形においては人工的な女性性のある演技が好きで、実はいままでこの手の自然体演技って文楽には向かないと思っていたんだけど(私は時代劇での自然体演技を認めません)、このお里はとても良かった。

権太もお里も、作為をやってる場合ではないほどに大幅ランクアップした配役だから天然でこうなっているんだろうけど、とにかくすごい。素直さゆえの輝きがある。こういうのはあと数年のうちに消えてしまうだろうと思う。

小金吾の玉翔さんはとても良かった。この手の佇まいがお得意なんだと思う。「小金吾討死の段」が特に良かった。自信をもってやっていらっしゃるのがわかった。きりっと瑞々しい雰囲気から、小金吾の生真面目さ、純粋さが直球で感じられた。そして、(ご本人には不本意だろうけど)完璧じゃないところが良い。小金吾自身の「及ばなさ」と合っている。若干中性的な若武者なのも良い。

しかし「小金吾討死の段」の小金吾の左遣いの人、相当上手いと思ったけど、おにいさんにやってもらってますかね。あのようなぴりっとした立ち回りをあそこまで綺麗に処理できる人はなかなか限られているのではないかと思う。ほかにもおにいさんに左をやってもらってるのかなって思った役があった。あれをもし若手の中から出しているのなら、すごい。小割を公開して欲しい。

それと予想外(?)に良かったのは、弥左衛門役の文哉さん。独特のジジイの味があった。変にクセ付けをすることなく、かつぎこちなくもなく、自然にジジイジジイしているというか……。干物感があった。うるめいわしの若干し的テイスト。文哉さんは昨年の若手会も新口村の孫右衛門役でご出演されていたと思うが、実はジジイ役がお得意なのだろうか。もっと若い層では、猪熊大之進役の玉彦さん、梶原平三景時役の玉路さんが丁寧で良かった。人形の姿勢がとても綺麗だった。「よかったねぇ〜😭」と親戚のオバチャン気分になった。あとはもうほんとしょうもないこと言って申し訳ないんですが、すしやで若葉の内侍たちが一夜の宿を求めて訪ねてくるところ、若葉の内侍が扉を叩いているところで六代君〈吉田簑悠〉が下手の手すりのキワでしゃがんで何かしてるけど……、あそこ、足をさすって「足が疲れたよー」ってやってたんですね。今回初めてわかった。いままでずっとバッタかコオロギを獲っているのかと思ってた……。田舎だから都にはいないようなすんごいでっかいコオロギ(ゴ?)がいて、それが珍しいのかなーと思って……。

太夫ではすしやの後の亘さんがくっきりと際立った語りで良かった。若手会らしい前向きなみずみずしさを感じた。中の靖さんも良かった。小住さん(小金吾討死の段)、芳穂さん(すしや・前)はなんかこう、普通に良かった。地方公演や単発公演ではこういう配役でもおかしくない感じ。小住さんには謎の貫禄があり、人形の若手ならではの線の細い印象を語りでカバーしていた。

先述の通り、登場人物が年相応に若く感じられる分、話が生々しく悲惨に思えて、終演後、悲しい気分になった。寺子屋だろうが尼ヶ崎だろうが、普段は「もう本人が自分で決めたことだから仕方ない」と思って観ているので、悲しいとか可哀想だと思うことはないのだけど、なんだかとても哀れに感じた。加藤泰監督『沓掛時次郎 遊俠一匹』の冒頭のほうで、気さくな渡世人として登場する渥美清が残酷に殺されるシーンを思い出した。

しかしご出演の方々とは一切関係ないですが、衝撃的だったのが『義経千本桜』に休憩時間が入らなかったことですね。2時間45分休憩なしはやばい。出演者ががんばっとるんやからおまえらの膀胱もがんばれってことなのか。ご出演の皆さんのがんばりは重々承知しておりますが、年寄りの膀胱はがんばれない。途中離席しているお客さんが結構いたが、そういうことにならないよう、すしやの前に休憩を入れて欲しかった。

 

 

 

『妹背山婦女庭訓』道行恋苧環

本公演でも5月に出たばかりで比較されやすい演目。今回の三角関係3人は、ほんわかおっとりした橘姫〈吉田簑太郎〉、ちょっとおとなしげで上品な求馬〈吉田玉誉〉、勢いとロリぶりがすごいお三輪〈桐竹紋臣〉の3人だった。

文楽業界の国民的美少女・紋臣さんのお三輪は、本公演の勘十郎さんよりだいぶ幼げな雰囲気で、年相応な娘風だった。お三輪は簪を抜いて橘姫にかざし、橘姫がそれに怯える演技があるが、簪を下ろすタイミングが勘十郎さんより早く(ほんの一瞬掲げるだけで、求馬の視線を感じた段階ではすでに下ろしている)、殺意は低めの可憐な娘さんだった。勢いでやっちゃっただけ……⭐️的な。やっぱり勘十郎さんは確信犯、殺す気満々なんだなと思った。出の直後の求馬・橘姫の間への割り込みも勘十郎さんのほうが激しかった(あれはもはやチョップしてる)。お三輪ちゃん、なかなか役の解釈が分かれますなと思った。あと紋臣さんは苧環を回すのが速かった。苧環の回転速度って変えられるんだなというか、あんなに速く回せるんだ!?と思った。多分、回すべき場所で回すこと自体に集中されてるんだと思いますが、苧環ひとつでも人によって結構違うんだなと思った。とにかく、最後の最後に出てくるだけはある、愛くるしさと覇気を兼ね備えたお三輪だった。太夫のお三輪役・希さんも可愛らしくてとても良かった。とくにお三輪の人形の出の直前の部分「思ひ乱るゝ薄影」のところ。純粋でけなげな雰囲気があって、ちっちゃな小鳥ちゃんのようなお三輪だった。

手踊りのところは本公演以上に人形3人の差が出ていた。本公演でも技量のデコボコを感じたが、もう、若手会はそういう次元じゃないですね……。揃ってないこと自体は構わないのだが、見ていて怖かった。この3人は若手会の中でも踊りがうまい人上から3人だと思う。しかし、芸風の違い・役の性質に起因するもの以上の差が見える。それは芸歴かもしれないし、やりたいことが見えるかどうかの違いかもしれないけれども……。

若手会で出る道行は、本公演のそれとは演目としてのニュアンスが違うように感じる。本公演で出るとのんびり踊りを見て一休み😪な演目だけど(休むな)、今回はみんながいい役ができて良かった良かった😭と思った。特に人形のご出演3人は、本公演ではここまでの役は絶対に来ないですもんね……。配役については、玉誉さんは橘姫でも良いんじゃないかと思った。というか、そっちのほうが向いているのではと思った。

人形の女形は人数が多く競合しているので、若手会に出ているような次々世代くらいの人は余程のものがない限り生き残れないと思うが、この人たちは今後どうなっていくのだろうかと思った。

 

 

 

はじめて若手会を観たときは、本公演との違いがよくわからなかった。しかし、いま観るともういろんな意味で全然違うし、その違いが若手会の良さだなと思う。

本公演とは必死さとひたむきさのニュアンスが違って、人の心の純粋な部分を見た気がしてちょっと心がざわつく。あかの他人の純粋な心って、普段はまず見ることはできないから……。大幅にランクアップした配役でとにかくその役をやりきることに一生懸命な方、ここぞという好配役を最大のパフォーマンスでこなすことに全力を注いでいる方、うまく役がはまって自信をもってやっていらっしゃる方、ちょっとした役でも丁寧にやってらっしゃる方、その役への喜びが純粋に出ている方、うまくいかなくともできる限りで懸命にやろうとしている方、いろいろ。本来、出演者の素地が表に出ることは好ましくないんだろうけど、なんか、いいなあと思っちゃう。こういった他人の人生の悲喜こもごもを見て物語化するのは非常に失礼だと思うんだけど、若手会は感情移入して見てしまう。

そして、本公演がなんでもなく普通に観られる(聴ける)というのは、ベテランの技術やそのパフォーマンスを最大限発揮できる環境に支えられているんだなということがよくわかった。人形の小道具の取り扱い、三味線の音の表情のつけ方。もう全然違う。本公演のクオリティの高さを実感した。人形は「やっぱりこないだの大阪での玉男さんの知盛、無理してでも観に行けばよかった……」と思った。三味線とかそれこそふだん当たり前のようにすらすら演奏されているけど、あれは当たり前に弾けているわけではなく、相当な技術と熟練に支えられていることが本当によくわかった。すしやの頭のところとか、権太がママにたかりをして泣き真似するところとか、あまりの歴然とした違いに衝撃を受けた。しかし人形に関しては、1日目にあったケアレスミスは2日目にはクリアされていて、若い人は適応が早いと思った。*3

若手会って、出演者への奨励と勉強とさせる意味と、その親類縁者向けのインナーイベントのニュアンスが濃厚だと思うけど、この点においてなんの縁故もない一般客の立場からも興味深い公演だと思う。

文楽だと、「若手」と言っても相当歳いってて、あの舞台は、世間の常識とはかけ離れた閉鎖世界ならではのものではあると思う。変な言い方だけど、あの人たちは外界から隔絶された世界に閉じ込められているから、あれだけピュアなのかもしれない。

 

終演後、あまりに「よかったねぇ〜😭よかったねぇ〜😭」という気分になり、お祝いしたい気持ちになって、とんかつを食べに行った(←出演者とまったく関係ない奴)。

若手会のみなさんに今半の弁当を差し入れたかった。*4

 

 

 

 

 

*1:こないだの大阪の鑑賞教室公演のとき、周囲の席の女学生さんたちが終演後に「タピオカ飲みたい!」と元気に叫んでいて、若い子って本当にタピオカ吸うんだ!といたく感動した。私も吸いたくなって文楽劇場のまわりを徘徊したが、現地的中華料理屋さんの売っているタピオカミルクティー、つぶつぶの覇気がすごくて買えなかった……。ぶりぶり具合がはんぱなかった。でも、あとで心斎橋のほうまで行ったら、今時風のマイルドなものが売っていた。その時点ではおなかいっぱいで買えなかった。夏休み公演に行ったおりには吸いたいので、あと1ヶ月タピオカブームがもって欲しい。

*2:いや、維盛の存在は一体とも言えるが、あのお里チャンは恋に恋しているんだよネ!

*3:でも東京でこれだけミスがあって、大阪ではどうなってたんだ!?と思った。

*4:ただしスマホのカメラのオートフォーカス機能を使いこなせる方に限ります。カンタローは三味線の稽古とともにスマホでの自撮りも稽古してください。

文楽 6月大阪文楽鑑賞教室公演『五条橋』『菅原伝授手習鑑』寺入りの段・寺子屋の段 国立文楽劇場

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大阪の鑑賞教室公演の配役は、前期・午前の部、前期・午後の部、後期・午前の部、後期・午後の部の4グループに分かれている。昨年まではこのうち前期・後期のいずれか2グループのみを観ていたが、今年は一念発起して、全グループを観た。

 

 

A. 前期・午前の部

寺子屋の段 配役]

  • 前=豊竹藤太夫・鶴澤清友/後=豊竹希太夫・鶴澤清介
  • 松王丸=吉田玉男/千代=豊松清十郎/源蔵=吉田和生/戸浪=桐竹紋臣/春藤玄蕃=吉田文司

おまけ演目だと思っていた『五条橋』。しかし、油断してはいけなかった。牛若丸役の清五郎さんがすごく良かった。みずみずしく端正な佇まいで、絵巻物が動いているような優美さ。上品な衣装の扱い、爽やかで小さめの仕草が貴公子風でとても良かった。扇をかかげる→下ろすときにも微細な表情がつけられていて、貴人らしい雰囲気があった。下ろしている途中から弁慶の演技になるので、そのとき牛若丸を見ているお客さんはごく一部だと思うが、そういった細かいところも一連の動作としてとらえた演技だった。

それにしても牛若丸の袴、ド派手。白地に鳥居の模様という北九州の成人式みたいな大変特殊なセンスだった。

 

本編・寺子屋は人形が全日程の中で突出して良い配役。なぜ玉男さんと和生さんを固めたのか。確かに玉男さんの松王丸の覇気に競り合える源蔵は和生さんか勘十郎さんしかいないとは思うが、玄蕃が文司さんだし、千代も清十郎さんだし、あからさまに人形の配役が良すぎ。

その中で面白かったのは、戸浪が紋臣さんだったこと。今回は勘壽さんが出演していないので、戸浪の配役が全体的に若い人にスライドしている。その4人の中でももっとも若い雰囲気の戸浪。芸の熟練度ではなく、醸し出す雰囲気自体がかなり若い。源蔵って絶対サイコパスだとは思っていたけど、こんな若い奥さん連れて駆け落ちとか、まじでやばすぎと思った。

紋臣さんの戸浪はなかなかのお色気奥様だった。人形(着付)自体は同じものを同配役複数人で共有しているのではと思うが、一番抜き襟して見える構え方、かつ動作を分解する複雑めの遣い方だからだろうか。千代とおじぎしあうところとか、土産に手をつけるよだれくりに「めっ💓」とするところとか(ここ、おかんノリのマジ叩きする人いません?)、近所の歯医者で大島渚気取りのキモ男に見初められてストーキングされてそうな感じだった。かねてよりツメ子供たちを迎えにくる保護者が全員男性なのを不思議に思っていたが、あいつら戸浪目的だな。

戸浪の若さに引きずられて、和生さんがかなり素早くなっていた。逸る戸浪を引き止めるところとか。和生さんって、結構、人に合わせるよね。たまに突然素早くなる和生さん、好き。和生さんの源蔵はいい。おさえた律儀な雰囲気で、端正な源蔵だけれど、真面目すぎてやばい人感があって良い。真面目でやばい人って本当にやばい。和生さんによく来る役の中で源蔵だけ浮いているように思うが、ご本人的にはどう思っていらっしゃるのかしらん。*1

松王丸は玉男さん。今回、4グループ観てよくわかったが、玉男さんは相当安定度が高い。演技が非常に安定していて、ブレがない。何回やっても同じ。迷いがなく、全体の流れやメリハリのコントロールが的確。演技がシーンごとでバラけていない。目指す表現が明確で、全編の見え方から逆算して演技を設計しているんだと思う。最近、演技が場面場面でぶつ切れになる人がいるのが気になっていたけど(義太夫も)、ならない方がすごいということなのね。今回それが本当によくわかった。でも、そういう比較とか気づきとは一切関係なく、私は玉男さんの松王丸が好き。前半の本心を塗り隠した正体不明の不気味さ。後半の静かさのなかの、滲み出るような、しぼり出すような、押し殺した悲しみ。どのときも堂々として、かつ、清澄な佇まいで、本当に素晴らしいと思う。

千代は清十郎さん、ふんわりと優しい雰囲気。かしらも結構丸顔で、ふっくらとした顔立ち。寺入りの段では「大丈夫かなこの人」と思ったけど、寺子屋の後半といろは送りのところは持ち前の清楚さが美しいかたちで出ていて、良かった。段切れ、客席に背中を向けてかがむところはとても綺麗な姿勢だった。あの姿勢、高さのコントロールや上体の見せ方が結構難しいんだなとわかった。

それにしても、千代と戸浪では、千代のほうが年下だと思っていたけど、もしかして年上なのかな。戸浪は子供がいないし、最近まで腰元勤めしていた設定だから、結構若いのかも。

千代と戸浪はどう違うのか。数年前の鑑賞教室で千代と戸浪の語りわけをやっていたけど、あれ、微妙だよね。武家の妻と在所の女房という解説をしていたけれど、声色以外にちゃんと語りわけしてる人、いるのかなと思う。戸浪だって武士の妻で、それなりの家の娘のはず。人形もついてくると舞台での見え方はさらに微妙で、両者の役の性質上の違いというより、人形遣いの個性の違いに相当引きずられていると思う。

寺子屋の子供たちは今回もめちゃくちゃ騒ぎまくっていた。菅秀才に似ているとされるいちばん美形の子、冒頭部を見ていると、あまりに落ちつきがなさすぎて笑ってしまった。あの様子を見たら一発で菅秀才ではないとわかる。それと、そのほかのしょうもない顔の子供たち、机の位置をガタガタいわす低レベルなしょうもないいたずらをしていて、本当にアホな子供でとても良かった。かしこいひとが頭で考えたアホではない、天然由来成分100%の味があった。そういえば、寺子屋のツメ子供たちって、回によって並び順ややることが結構違うんですね。そこも面白かった。ふざけてやっているように見えて、よく観察していると、道具の取り落とし等のミスのフォローのしあいが的確で自然なのも面白い。

菅秀才〈吉田玉征〉はものすごくモッフモフのプックプクの巨大ハムスターみたいだった。おっとりした所作がとても可愛くて、最後の「この悲しみはさすまいに」で涙を拭うゆったりとした仕草がとても愛らしかった。

いままで気付かなかったが、松王丸が捕手に呼びかけるところ、捕手がちゃんと返事しているんですね。ときどき不自然な返事の人がいて面白かった(失礼)。

 

 

 

B. 前期・午後の部

寺子屋の段 配役]

  • 前=豊竹呂勢太夫・豊澤富助/後=豊竹芳穂太夫・野澤勝平
  • 松王丸=桐竹勘十郎/千代=吉田簑二郎/源蔵=吉田玉也/戸浪=吉田簑一郎/春藤玄蕃=吉田玉輝

『五条橋』の弁慶の足の方、どなたかわからないけど、うまいと思った。

 

寺子屋、勘十郎さんは狂っていると思った(率直)。

昨年12月東京の鑑賞教室はかなり大ぶりの演技で、なぜそこまでやる?と思っていたけど、さらなる大ぶりな演技だった。単に誇張しているというより、大ぶりにするところを変えている。12月東京で目立っていたのは、松王丸の二度目の出、菅丞相の句を詠んで寺子屋に入り、座敷に背を向けて頭巾を取るところで「まじで!?」というレベルでメチャクチャ泣いていたことだけど、今回は源蔵が首を討つ音を聞くところと、首実検で首桶の蓋を閉めたあと、「まじで!?!?!?」というレベルに誇張した慟哭ぶりだった。とくに首実検のところ、さすがに玄蕃や源蔵が察するのではと思った。

最大の特徴は、通常の立役にはないほどのうつむきの表現。胴体に対して90度に近い、人形の首が完全に落ちているような状態にしていた。女方だと背筋を伸ばしながら首だけかなり俯かせる所作をさせる人がいるけど、立役でやっている人は初めて見た。通常、うつむき姿勢、たとえば首討ちを音を聞いて刀を取り落としてよろけ、刀を拾ってもたれかかり、うつむいて右腕をひたいに当てて顔を隠す所作のところ、あそこでも通常は顔はやや見えるはずなんだけど、髪の毛(頭頂部)しか見えないくらいに下げていた。また、人形全体の構え方として、肩をいからせ気味にしているのも特徴的だった。寺子屋の中へ入る所作(後述)から推測しても、松王丸の物理的な大きさを強調しているようだった。

むかしの映像を見ると勘十郎さんもここまで誇張した演技はしていないので、何か考えがあってやっていることだろう。勘十郎さんなら、ふつうにやってもだれからもちやほやされると思う。そのほうがまっとうなはずなのに、なぜこんな戦闘的なことを……。阿古屋で本当に琴を弾いているのも狂ってると思ったが、この松王丸はまじで狂っている。なぜこんな演技をしようと思ったのか、何を目指しているのか。

私は、勘十郎さんは、単にわかりやすくしたいというより、人形の演技を人間の演技に近づけようとしているのではないかと推測している。ただ、私は、人形浄瑠璃が人間の役者のリアリズムに近づくのは、「ないわ」と思っている。歌舞伎を見慣れている客を引くという意図なのか。しかし客の立場からすればそれなら歌舞伎を観ればいい。そこをなぜ「そっち側」に近づけようとしているのか。今後、人形遣いとしてここまでの役をできる時間は限られているはずなのに。単なる派手さ志向ではない、やばいオーラを感じる。

惜しむらくは、人形の安定度が低く、軸や重心がぐらついていること。このような勘十郎さんの人形の不安定さは体格要因だと思っていたけど、後期の松王丸役おふたりも人形の重心が安定していなかった。不必要な揺れは、玉男さん以外の全員に起こっていた。首実検では、人形がぐらつくと頭につけている熨斗紙が振動するのでかなり気になる。人形って、体力や体格で持っているわけじゃないんだなと思った。そして、左が相当うまい人でないと、松王丸、まともに横も向けないわと思った。向き直りの姿勢移行や羽織の袖の処理、刀の扱いがめちゃくちゃになっている回があった。通常、主要な役の左を勤めているのは固定の人だと思うが、このように何配役もあると、慣れていない人が入るんだと思う。がんばって!って感じだった。

床は、私が行った回だと勝平さん(後)が弦を切ったのか、音が途中からおかしくなり、大幅に音が抜けて、大変そうだった。そのあいだは芳穂さんがひとりで頑張っていた。いろは送りの最後は三味線の音が出ないとどうしようもなくなってしまう、大丈夫かなと思ったけど、それでもなんとか演奏されていて、最後までいけていた。

 

 

 

C. 後期・午前の部

寺子屋の段 配役]

  • 前=竹本織太夫・鶴澤藤蔵/後=豊竹靖太夫・野澤錦糸
  • 松王丸=吉田玉志/千代=吉田一輔/源蔵=吉田玉佳/戸浪=桐竹紋秀/春藤玄蕃=吉田文哉

さる昨年12月東京公演の『鎌倉三代記』。高綱物語に入ったところで隣の席のおじさんが泣き出したので私はびびっていた。文楽の上演中に泣き出す人は何度も見てきたが、これ、話の内容的には別に泣けないですよね。と思っていたが……、玉志さん(高綱役)に拍手してるのが自分とこのおじさんだけということに気付いた。あの玉志さんガチ恋おじさん、どなたかは存じませんが、今回の公演はご覧になりましたか。私はこのために後期日程へ来ました。

とはいえこの部、めちゃくちゃやばい。本公演で相応の役をやっているような人は誰もいない。全員がランクアップした配役。ぎりぎりの均衡、出演者のひたむきさだけで舞台が成り立っている。紅潮した、うわずった気持ちが伝わってきた。人間(しかもまったくのあかの他人)の純粋な気持ちを見たような気がして、ドギマギした。

よだれくり〈吉田和馬〉がなんとなくおりこうそうだった。小太郎〈吉田玉峻〉も相当上品でおりこうそうだった。かなりおぼっちゃま感があった。両者とも人形の構え方が端正なことによるものだと思う。和馬さんのよだれくりは、寝る前に明日の持ち物枕元に揃えていそうだった。かぶとむしとかと一緒に。

千代〈吉田一輔〉が戸浪〈桐竹紋秀〉と礼をしあうところ、戸浪の背後でよだれくりたち〈吉田玉彦、どうしたその髪型〉が手土産を食いまくるのを千代が「食ってる!食ってる!」と戸浪に教えていた。ほかのグループでは、千代と戸浪が丁寧に二礼していたりして、戸浪がよだれくりたちのいたずらになかなか気づかないパターンもあったが、一輔さんは早々に教えるのがおかしかった。この場面では、各回の配役による千代・戸浪のおじぎの仕方の違いも面白かった。体を地面と並行気味にする人、頭をかなり下げる形にする人、動作でも、胴体部分をまっすぐにおろす人、何段階かで曲げ気味にする人。必ずしも千代のほうが上品だとか、艶やかであるとかはなく、役の性質というより人形遣いの個性が出ているようだった。場面としては一瞬で、さりげないところだけど、面白かった。

玉志サンの松王丸は、かなり若い雰囲気で、衝撃的だった。始終、凛々しい佇まいだった。前半はまったくの他人面をしているようにクールに演じ、後半はかなり率直というか、素直にその心を見せるようなストレートでみずみずしい雰囲気だった。

しかしなんというか、キラキラ感とスレンダー感がかなり出ていて、天海祐希が松王丸を演じたらこんな感じになるのではと思った。宝塚の男役スター感があるというか。『ベルサイユのばら』を文楽でやる暁にはオスカルは勘彌さんだなと思っていたけど、まさかの玉志サンかもしれない。いややっぱり玉志サンにはフェルゼンをやって欲しい。話がそれた。えっ、松王丸がこんなキラキラしてるってありえるの? 樋口とか高綱、光秀が若い雰囲気なのはわかるんだけど、なぜ松王丸でこれ? と思ったが、松王丸はまだ子供が小さいところをみると実際には若いはずなので(江戸時代制作ということを考慮すると私より若いと思う。考えたくないけど)、なるほどそういう解釈ね……と思った。寺子屋の松王丸は雪持松の衣装を着ている。あれは、どういう場所に身を置いても変わることのない、松王丸の汚れなく清らかな心を表しているのだと思っているのだけど、その雪持松の衣装が似合う、清潔な松王丸だった。

それにしても、籠から降り、寺子屋の前に立つところでの病気具合にはびびった。あまりに具合悪そうすぎて、この人、インフルエンザなのかな……。はやく家帰って……。と思った。たぶん織太夫さん(ものすごい前のめりでやっておられた)に合わせてるんだと思うけど、すごい病気ぶりだった。織太夫さんといえば、文楽の現行通常とはすこし違う詞章でやっているのかね? 綱太夫本とかでやってるのか? 藤蔵さんの演奏もすこし違うところがあるように感じたが。ただ、三味線の演奏に関しては、太夫に合わせているとか関係ない次元で、三味線さん個々が継承しているものによって違いがあるようだった。

後のヤスさんは、出だしがかすれ気味で声が出ておらず、不調なのかなと思ったけど、千代のクドキのところはとても良かった。ヤスさん、いつも通り死んだ目で解説をされていたけど、私の隣の席に座っていた学校行事観劇らしき女子生徒さんが、ヤスさんが死んだ目で解説していたことをパステルカラーの可愛らしいメモ帳に可愛くて細かい字で一生懸命メモしておられた。

 

最後になったが、『五条橋』、牛若丸〈桐竹紋吉〉が相当のショタ風、弁慶〈吉田玉翔〉がイケメン武将風のキラキラ作画でびびった。人形の体格そのものに対する遣い方がそう見せているのだと思う。

 

 

 

D. 後期・午後の部(Discover BUNRAKU)

寺子屋の段 配役]

  • 前=豊竹睦太夫・竹澤宗助/後=竹本小住太夫
  • 松王丸=吉田玉助/千代=吉田勘彌/源蔵=吉田文昇/戸浪=吉田簑紫郎/春藤玄蕃=吉田玉勢

Discover BUNRAKU(外国人向け公演)の回だったため、『五条橋』は上演なし。

昨年12月東京公演のDiscover BUNRAKUではほぼすべてを英語で解説していたが、今回は逆にほぼ日本語だった。Nozomi Englishが聞けなくて残念。Nozomiは内容が間違っている英語の解説を律儀に訂正してたが、Nozomiよ、そこは英語で言ってくれと思った。玉翔さんは大阪弁のままでいいです。

驚いたのは、デモンストレーションの定番『仮名手本忠臣蔵』「裏門の段」を、冒頭部分のみながら、人形・舞台装置付き(幕のみ)で上演したこと。年間通しで忠臣蔵をやっている大阪ならではの企画。配役は解説に出ている人で、太夫=希さん、三味線=友之助さん、人形勘平=玉翔さん、お軽=玉誉さんだった。裏門の段はシチュエーションが複雑すぎて、はじめて文楽を観る人向きの内容ではないと思っていたが、人形がついていればだいぶわかる、かもしれない。人形解説では、立役の人形に妹背山の注進を使う、女方では後ろぶりを見せるなど、いつもとは違うデモンストレーションが見られた。注進の人形で「泣く」「慟哭する(だっけ?)」をやった玉翔さんは大変だったと思う。金時のかしらの人形って、普通、泣かないよね。でも、見ていてちょっと複雑な気分になった。この人たち、本公演で勘平や後ろぶりをするような人形を遣える日が来るのかな、来るとしてそれはいつなのかなと思って……。

そのほか、解説で舟底のセリを動かすところを見られたのがよかった。演目によって上段下段があるときとないときがあるが、電動式で動かすことができるとのことだった。

 

本編。ものすごいチャレンジ配役だと思ったが、千代の人形が本公演相当の勘彌さんで、千代を中心にまとまっていた。ひとり相応の人がいるだけで結構もつもんだなと思った。かなり瑞々しく清楚な雰囲気の千代で、しかし微妙にあでやかさというか、色気があり、最高だった。小太郎の手を引いてしずしず入ってくるところと、白い着付に着替えてのれん口に立っているところが良かった。私があの寺子屋のツメ子供の保護者なら、ほかの芋オヤジたちから抜け駆けして仲良くなるべく毎日1000回くらいLINEを送ってブロックされたい。

が、全体的には、「いろいろな事情で微妙な配役になってしまった地方公演(夜の部)」という感じだった。千代は引っ込んでいる時間が長いので、首実検のところが微妙な空気に……。全員頑張っているのはわかるが、どうしようもない。東京は鑑賞教室2グループで配役に優劣がつかないようにしてあるけど、大阪はなぜこんなにチャレンジ精神を発揮してくるのだろうと思った。

よだれくり〈桐竹勘介、人形に男塾の先輩感が……〉はパパツメ人形におんぶしてもらって帰ろうとするも、ツメ人形が三人遣いの人形をおんぶできるはずもなく、パパは転んでしまう。そこで逆によだれくりがパパをおんぶして、親子は退場していく。というシーン、このグループのよだれくりパパは単に転ぶだけでなく、腰をいわしていて、面白かった。しかし、ツメ人形から三人遣いの人形が生まれるって、すごいよね。そこは越えられない壁だと思っていた。よだれくりのママは三人遣いなのかもしれない。

 

↓ アンケートに答えるともらえるトートバッグ。なぜこの柄。

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4グループ観て感じたこと。まず、普段、自分が何を見て、何を見ていないかが、とてもよくわかった(気がした)。それと、普段、無意識レベルで自分が「普通」と思っているものは何なのか、ベテランはそうでない人と何が違うのかがよくわかった。普通に見える、聴こえることってすごいんだなと思った。人形に関しては、とにかく、上演時間中、人形をまっすぐ持ってる時点で、すごい。人形が、立って、座るだけで、すごいです。

太夫は若手中心となっていて、大丈夫なのかと思った。が、三味線にベテランの人がついているので、なんとか上演できていた。普段の公演では三味線に「おお」となることは少ないけれど、今回のような配役の場合、その場で突出した技量の人が一番目立つ現象が起こるためか、ベテランの三味線さんの巧さがよくわかった。みなさん良かった。三味線の音の表情のディティール、うるおい、艶やかさなどが感じられた。

人形はあからさまに前期の配役がよく、後半にいくほどチャレンジ精神が横溢していて、さすがに初めて文楽を観る方には前期に来てほしいと感じた。

本当は幹部は脇に回って、玉志さん松王丸・玉男さん源蔵の回を作って欲しかったけど、玉志さんの松王丸を見たら、これは間違いなく玉志さんは玉男さんに競り負けたなと感じたので、現時点ではばらけて良かったのかもしれない。また時が経てば、変わると思う。

 

 

 

おまけ 人形見較べポイント。

 

戸浪は源蔵から受け取った袴を畳むか否か

戸浪が袴を受け取った後、源蔵は重要な話をするが、そのとき戸浪はどう源蔵に向き合うのか?

  • A 桐竹紋臣 一切畳まない。受け取ってそのまま後ろに下げ、源蔵に向き合って話を聞く。畳みそうだと思っていたんだけど。
  • B 吉田簑一郎 かなり丁寧に畳む。紐等もちゃんと畳む。ただし、源蔵の話に相当気を引かれている風で顔は源蔵に向けており、手元はお留守風。
  • C 桐竹紋秀 一切畳まない。受け取ってそのまま後ろに下げ、源蔵に向き合って話を聞く。
  • D 吉田簑紫郎 畳まない。受け取ってしばらく持ちながら源蔵の話を聞くが、自然な流れをつくって後ろに下げる。

*AとCのおふたりは兄弟弟子のため同じ所作である可能性があるけど、紋壽さんがどうしていたかは未調査。本公演の定番戸浪・勘壽さんはDの簑紫郎さんに近い感じだったはず。

 

松王丸が寺子屋へ入るときの玄関の鴨居のくぐり方

そのまんま屋内へ入ろうとすると頭につけている熨斗紙が鴨居にひっかかってしまうところ、どうやって処理するのか?

  • A 吉田玉男 人形を高い位置に構えたままで、直立状態でくぐる。人形遣い自身がかがんで人形の位置を下げ、松王丸の姿勢はキープ。ぎりぎりでくぐるので、人形の位置の上下にはほぼ気づかない。
  • B 桐竹勘十郎 人形を高い位置に構え、松王丸にやや頭を下げさせてくぐる。人形自体の高さを保ったままで、松王丸に「くぐらせる」。人形の姿勢が崩れてでもやっているので、おそらく松王丸の大きさを強調するためにやっていると思われる。
  • C 吉田玉志 土間→屋内の段差を上がる所作を利用し、土間で人形の位置を低めにしておいて、歩く動作の中で自然にくぐる。そのため土間と座敷の認識が発生している。
  • D 吉田玉助 人形の位置自体が低めで、元々つっかかりがない。くぐるという動作を意識をせずにやってるのではという感じだった。

*こちらもAとCのおふたりは兄弟弟子のはずだが、くぐり方が異なる。初代玉男師匠がどうしていたかは未調査。


そのほかの松王丸の所作

松王丸の二度目の出、「梅は飛び」と詠んで寺子屋に入り、「女房喜べ」で勢いよく扉を閉めて座敷側に背を向けて頭巾を取るところの所作。頭巾をとりながらそのまま顔へおろして涙を拭っているのは玉男さんだけだった。ほかの人はしていなかった。玉志さんがしなかったのが一番意外だった。あの所作の目的は、松王丸の感情を表現しつつ、頭巾を外した拍子に乱れた髪の毛を自然に直すのが目的だと思うけど(たしか初代玉男師匠はそういう考えでやっているはず)、玉志さん、玉助さんは頭巾を外してそのままおろし、手で髪の毛をふさふさ直していた。勘十郎さんは、去年の12月東京鑑賞教室では拭いていたけど、今回は拭いてはいなかった(12月にやっていた泣き崩れをしなかった)。髪は直していなかったかな。

それと、首実検の最中、松王丸はときどき玄蕃や源蔵、奥の一間に目をやるが、あの目を動かす速度、玉男さん以外の人はかなり速かった。しかし、一瞬だけキョロっとするのでは、客席からは何をしているのかわからない。盗み見ているわけではないと思うので、本意を隠し仕事のふりをしてじっと注視しているというふうにしたほうがよいように思うが、どうか。玉男さんって気をもたせるような演技しないよなあと思っていたけど、ちゃんとしていたんだなあと思った。玉男さんは余計な所作をカットしているように見えて、目の動きと指先の動きは結構凝っている。首桶の蓋を閉める所作に意味をつけているのは今回は玉男さんのみだった。勘十郎さんは蓋を閉めた後の所作・姿勢に意味づけをされていた。

ほか、勘十郎さんのみ、2度目の出のツケが違う気がしたが、単に打っている人の差かも。

 

首実検での源蔵の所作

だいぶあとになって気づいたのだが、首実検にさしかかるところ「忍びの鍔元寛げて」で、源蔵に本当に鍔元をくつろげさせている人って、実は少ない? Cの玉佳さんはやっていたが(刀身が見えるレベルで引き抜く)、ほかの人は基本的に柄の部分につばを吹きかける演技だよね。っていうか、玉佳さんは両方やっておられた。これだと若干複雑気味に見えるために、ほかの人はしないのだろうか。役の人格に付随する個々のくせ的な演技の多い玉也さんをよく見ておけばよかった。失敗。

 

 

 

展示室

↓ うし アンド 唐突にリアルなにわとり(下にこの巨大にわとりをだっこしている玉志サンの写真が置いてあって最高だった)

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↓ 松王丸の衣装

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↓ 菅丞相の木像

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↓ むかしのブロマイド。1930年(昭和5年)8月、四ツ橋文楽座公演 舎人松王丸=吉田栄三

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 ↓ 同公演 女房千代=吉田文五郎

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↓ 1945年(昭和20年)1月、四ツ橋文楽座公演 一子小太郎=吉田亀夫、女房千代=吉田文五郎、妻戸浪=吉田栄三郎、菅秀才=吉田光
舞台が暗すぎてよく見えない。古い文楽の思い出エッセイ等を読むと、文楽は(物理的に)暗いとよく書いてあるが、こういうことだったのだろうか。

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*1:突然関係ないこと言いますけど、今回私が見た回の和生さんのヘアスタイルは、あまりびしっとしていませんでした。和生さんの髪型のびしっと具合のムラが気になる今日この頃、だんだん人間だけじゃなく人形の薄毛までも気になってきて、寺子屋にいる菅秀才に似た子が頭頂部薄毛気味なことに惑わされ、寺入りの段に集中できなかった。あの薄毛感、剃ってるわけじゃない感じがする。

文楽 5月東京公演・通し狂言『妹背山婦女庭訓』国立劇場小劇場

ひさびさの全段通し上演。10時半開演21時終演の長丁場だったが、ちゃんと1日通しでチケットを取った。

通して観ると、物語自体の持っている質量に圧倒される。時代ものならではの堂々たる見応え。ふだん、集中して観ているつもりでも、ある意味で気が散っているのだなと感じた。出演者のパフォーマンスの上下だったり、誰がどこに出ているいったわずかなノイズやデコボコは消し飛び、ただ物語だけが歴然とそこに存在していた。今回は段の順序を入れ替えることはせず、原作そのままの構成で上演しているため、より一層のことだと思う。出演者はそこでどう見せるのか、聞かせるのか。物語の巨大な流れに抗う、あるいはしなやかにその上をただよう気風がないと、存在感がなくなると感じた。

その点でいうと、「妹山背山の段」の大判事〈太夫=竹本千歳太夫、人形役割=蝦夷子館から:吉田玉男〉はとても良かった。大判事は人物像がなかなか理解しがたい、難しい役回りだと思う。「蝦夷子館の段」では切腹した蝦夷子の首を即座に討ち落とすにも関わらず、「妹山背山の段」になると実子・久我之助の首をいつまでたっても討つことができない。しかし、だからといって大判事がヘタレかというと、そうではないと思う。そういうわかりやすい、紋切り型のキャラクターではなく、大判事はあくまで普通の人であることが等身大に表現されていると感じた。大判事を卑小であると表現するのは似つかわしくない。

こういった「普通さ」の表現って、古典芸能では難しいと思う。まず、現在と初演当時(+舞台となっている時代)で価値観が違うので、現在どう上演するかにあたっての解釈(翻訳)とその整理が必要。それと、一番難しいと思うのが、古典芸能にわかりやすさを求める風潮にどう対応するか。これに刃向かうのは、劇場・出演者サイドにとっては心理的にとても難しいと思う。しかし、私は「わかりやすい」って、本質と関係ないと考えている。表現がわかりやすいことと、伝わるかどうかというのは、別の話。伝える努力というのは、技芸以外の部分でしても良いと思う。伝えるためにどうするかを芸自体に求めるのはちょっと違うと感じる。

彼の心のあるがままが表現された大判事の佇まいは、とてもよかった。義太夫や人形の輪郭はあくまで大きい。でも、それが表現しているものは、至極普通のこと。義太夫や人形の動作は大きいけれど、オーバーなわけではない。うまく言えないけど、このバランス取り、絶妙だと思う。

それにしても千歳さんの声が最後までもったのがびっくり。初日に聴いた段階で「え!?この調子では中日まですらもたないでしょ!?」と思ったが、実際には最後まで持っていた。どうして最近パフォーマンスが安定してきたのかはわからないけど……、千歳さんて、本当、変わったよね。

通し上演になることによって印象が変わった役でいうと、求馬〈人形役割=豊松清十郎〉。四段目だけの見取りで観ると「何をしたいのかサッパリわからない」という印象で不思議に思っていたが、それもそのはず。本人が特に何か考えて行動しているわけではなくて、運命や大義に流されるままに行動しているだけで、本人の意思はないのねと思った。芝六は大義を自分の身に置き換えて行動したためあのような事態に陥ったが、何も考えてないヤツは強い。でも、それはそれで、「何も考えてない」感を出すのに人形遣いは大変な思いをしているだろうと思う。鱶七〈吉田玉志〉も四段目だけだとあまりに唐突で、お三輪を即座に殺す理由がよくわからない、不気味な登場人物だと感じるが、通しで二段目も出ると、芝六よりだいぶまともに見えるので、納得感がやや上がる。四段目はとくに地方公演や若手会の見取りで見たことがあったので油断(?)していた段だったが、見取りと通しでの見え方は思っていたより大きく、面白かった。

 

 


以下、各段の感想。第一部。大序がついているため開演時間が早まり、10時半開演で、死ぬかと思った。

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[大序 大内の段]

国立劇場のやる気を発揮した98年ぶりの復活。地味ながらこれがついているとモメ事の発端や登場人物の立場が明確になり、話がつながりやすくなった。

ここを抜かすと出番が少なくて「どちらさん……?」となりがちな采女〈桐竹紋臣〉、鎌足〈大序=吉田簑太郎/吉田玉翔〉が何者かわかりやすくなるのがよかった。鎌足とか、入鹿誅伐の段や五段目を切って、芝六忠義にしか出てこなかったら、マジサイコパスだから……(全部出してもサイコパス)。

蘇我蝦夷子〈吉田玉佳〉は、横柄で小物な雰囲気がよかった。ぶりっこじじいだった。大序は若い太夫さんがどんどんリレーをしていくので、それに左右されない雰囲気作りが大変だと思うけど、ちょとした首の角度や姿勢、動作のメリハリで一貫したニュアンスが出ていた。

個人的には、ここで人形の大判事・定高・鎌足に別配役を立てる必要はなかったんじゃないのかなと思った。ここに配役されている人が頑張ってらっしゃるのはわかるんだけど、以降の段との違いがあまりに歴然としているのではありませんか。話がつながらなくなる。和生さんはあるお話し会で、黒衣だと表情が見えなくなり、自制に気をとられる必要がないからやりやすいと仰っていたけれど、客の立場からすれば、黒衣はそういった出遣いによるノイズ(ある意味でごまかしになる)がすべて消えるので、力量がもろ見えになってしまうと思う。私は、うまい人は黒衣のほうがよく、そうでないなら出遣いが好ましいと思う。

 
 
 
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[小松原の段]

前半部分、可愛いけど、もうちょっと緊張感をもってやってもらえると嬉しいなと思いました。

 
 
 
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蝦夷子館の段]

ここから出遣い。床の三輪さん・清友さんがすごく良くて、品格ある浄瑠璃だった。火鉢の炭が香り、柔らかい熱さの火の粉が時々ぱちっ、ぱちっと飛ぶ感じ。三輪さんが語ってると、なんというか、雰囲気がグッとむかしの格調高い少女漫画風になる。青池保子作画的な。どういう人物や情景でも作画効果(?)でかなり上品な方向に寄るので、蝦夷子館は適役だと感じた。めどの方〈吉田文昇〉はなかなか勢いがあって、三輪さんの浄瑠璃とのバランスがよかった。

 
 
 
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[二段目 猿沢池の段]

黒衣。内容は良いよ。ソツなく良いんだけど、なんでこれを昼飯前にやるねん。生理的な区切りが悪いよ。大道具転換の都合とかなのかもしれないけど、検討して欲しい。(おなかがすいてイライラしている人)(出ている人のほうがおなかすいてるんだから、がまんしようよ……)


[鹿殺しの段]

一瞬で終わる段。ここに出てくる鹿、ああいうの、東大寺の前のお土産屋さんに売ってるよね。あまりにぬいぐるみすぎて、客も
\しか……☺️/
\しんだ……😢/
って感じだった。鹿さん、なんであんなに露骨にモフモフしているのでしょうか。ここも黒衣(だったと思う。薄れる記憶)。


[掛乞の段]

おっとり大納言兼秋〈吉田玉輝〉はおなかがすきすぎてほおがこけてるってこと? そう言われてみれば、人形のほおがこけているような、そうでないような……。帝のためにがまんしてるのが可愛い……。

米屋新右衛門〈吉田玉勢〉vs大納言の歌勝負は可愛らしくて、なかなか良かった。米屋も請求書を渡すときに直接突き出すのではなく、うちわであおいで飛ばすなど、微妙に遠慮するのが良かった。


[万歳の段]

天智天皇〈吉田勘彌〉がとにかく全く動かなくてすごい。芝六〈吉田玉也〉が演奏しているときは微妙に「音……聞いてますよ……」的にほんのわずかに顔を傾けたりしているが、ぴたっと静止していた。あのよくわからない衣装でここまで静かにしているのはすごいなと思った。個人的には勘彌さんは采女か橘姫役が良かったんだけど、これはこれで良い……。

でも、天智天皇って、本当に芝六ハウスを御所だと思っているのかな。みんなの好意を慮って御所だと思い込んでいるフリをしているんじゃないのかな。昭和の喜劇映画だと絶対そうだけど、こちとら浄瑠璃だからそのへんはわからない。淡海はめちゃくちゃ淡白で率直な思考しかしないので、天智天皇の楽の所望をもろに迷惑がっており(そもそもこの大混乱すべてお前のせいだろ)、こいつやばいなと思った。


[芝六忠義の段]

芝六が杉松〈吉田和馬〉を殺す理由がまったくわからない、と思っていた段だったが……。

お雉〈吉田簑二郎〉は元楽人の女房という設定で、そうなると本来はある程度身分があるはずで、このようなあばらやに住む在所のおかみさんキャラではないはずだけど、かなり普通の奥さん風に振られていた。昔はそうだったというニュアンスも出さない。彼女は、芝六とは考えていることが違うと思う。お雉はもう雲井に近き世界には関わりたくなくて、夫と息子二人と普通に暮らせればいいと思っているんだろうなと感じた。

その対比とみれば、芝六の意味不明の行動もある意味で説得力が出る。忠義を示すために子供を殺すといえば『本朝廿四孝』の慈悲蔵もいるが、慈悲蔵は武士の不幸を知っているから元の身分(本来の身分?)に戻りたいと思っていなさそう。でも、芝六はもとの身分に未練が残っていて、不幸には目をつぶって、積極的に武士に戻りたいと思っていたんだな。そういう単純さを利用されたように思う。かわいそう。

最後に、采女の局と三作〈桐竹勘次郎〉がそれぞれ神璽(勾玉)・内侍所(神鏡)を手に登場する。浄瑠璃の文章では采女が神鏡を持っているはず。なんで逆になってるんだ……。理解できない……。でも『絵本太功記』尼が崎の段でも、十次郎と初菊の祝言のところで操とさつきが持っているもの(銚子と土器)が浄瑠璃と人形の現行の演技で逆なので、まあそんなもんか……。

 
 
 
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[三段目 太宰館の段]

この段、ある意味、一番密度が高かった。山の段も素晴らしいのだけれど、ここでお互いが激しく対立するさまは、圧巻。大判事と定高〈吉田和生〉は大型の人形ではないし、極端に華美な衣装を着ているわけでもないんだけど、対峙するとお互いのオーラで舞台を埋め尽くすような存在感がある。一分の隙もないみっちりとつまりにつまった空気、玉男さん・和生さんという配役なくして、あの緊迫感は表現できなかったと思う。大判事と定高の放つ威厳と二人の強い意思で、舞台が狭く見えた。

大判事が人形のサイズのわりに巨大なオーラをまとって見えるのは、足取りの大きさがあると思う。最近個人的に気になるのが、人形自体のサイズに対する演技の大きさのコントロール。大判事は人形の大きさはふつうの爺さんサイズだけど、動きに強いメリハリがあり、かなり歩幅が広い。その足取りに大地を踏みしめる力強さがあって足拍子の音も大きい。だから巨大なオーラをまとっているように感じるのだと思う。

不思議なのは定高。普通の老女方の人形で、少し腰をかがめ気味にしてしずしずと入ってくるが、女帝のような威厳がある。動作がおお振りであるとかの極端さはないに、大判事と張り合うほどのオーラを持ち、瞬間的に只者ではないことが伝わってくる。動作の端正さや正面を向くときの顔の角度などのわずかなコントロールによるものなのだろうか。

共通して言えるのは、大判事も定高も(というか、玉男さんも和生さんも)一度静止したら絶対動かないのが覇気に通じているのではないかということ。時々、一連の動作が終わって止まったあとになってから姿勢を直す方がいらっしゃいますけど……、だらしないから、やめたほうがいいと思う。

それにしても、ここの最後に出てくる注進〈吉田簑太郎/吉田玉翔〉、唐突すぎてすごいよね。玉翔さんは率直さときらびやかさのバランスが好ましくて良かった。

 

 

 

ここから第二部。第二部は通常16時開演のところ、15時45分開演(微妙)。開演前、ロビーで案内スタッフの方が「開演してすぐ見所がございます〜!お早めにお席におつき下さい〜!」と言って回っておられた。山の段の冒頭は紅白幕が下りているはずだが……、藤蔵さんの「聴きどころ」のことですかね? 伽羅の香りがするような強靭さと品格をかねそなえた音色で、開演時の客席の浮ついた気持ちやざわめきを鎮める演奏だった。

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[妹山背山の段]

大判事と定高が吉野川の対岸同士から声をかけあうさまは、舞台が埋め尽くされるような覇気。雛鳥と久我之助は川を挟んだお互いの距離を果てしなく遠いと思っているだろうけれど、大判事と定高にとっては「近すぎる」くらいの距離じゃないのかと感じた。

簑助さんの雛鳥の可愛さは圧倒的。読売の劇評の見出しが「簑助の雛鳥 可愛さ圧倒的」と知性ゼロのすごい文言になっていたけど、わかるわ……。値千金の圧倒的可愛さだった。宇宙レベルに可愛い。定高の出以降が簑助さんなんだけど、もう、可愛さの解像度が全然違う。あれは、前が誰であっても対抗できないと思うわ。出のあとすぐ、母に対して礼をする所作の、香るような愛らしさは最高だった。頭下げるだけなんだけど、そのときの胴の位置や頭との関係、顔をあげるときのちょっとした傾けや定高への目線の送り方(頭をあげきる前から見ているとか)で佇まいが出ているのではないかと思う。

その雛鳥につられてか、定高が情熱的だったのもよかった。汚らわしい玉の輿、娘は入鹿へは嫁にやらない、殺して好きな男に添わせると言う定高、母娘でひっしと抱き合うところの緊密さと濃度が本当に素晴らしかった。感情そのものが形をなして動いているような、ふだんの和生さんにはあまり見られない(?)、熱い演技だった。

大判事は前述した通り。ここではとくに直線的な動作が背山の簡素な白木の庵と似合っていて、人形ならではの硬質で美的な表現がとてもよかった。

ところで、みなさん、今回はどこの席とりましたか。私は何回か観たうちのある回で下手の最前列をとったのだが、まるで自分も妹山にいるかのような気分になれて、最高だった。というか、妹山に住むもぐらの気分になった。最前列だとかなりのローアングルになり、屋体の中がけっこうアオリ気味になるので、まるでもぐらが巣穴から人形たちのさざめきを覗いているかのような視線……。あの腰元たちに虐殺されそうな気がした。穴の出入り口に松葉をギッシリと詰め込まれ、そこに点火されるんじゃないかと思った*1。残念ながら背山側の前列は取れなかったので、背山のもぐらにはなれなかった。センターブロックを取れた日もあったので、川の下流のほうの魚(というか、後列すぎて、もはや鱶)の気分にもなれた。シンメトリー構図の舞台を満喫できて、なかなかよかった。

 
 
 
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[四段目 杉酒屋の段]

勘十郎さんのお三輪のクソヤバ女感は本当に最高だと思う。私は勘十郎さんは女方のほうが好き。なぜなら、一度見込んだ男は死んでも離さない狂った目をしているから。地獄の底まで追いかけてきそうだし、なんなら常に包丁隠し持ってると思う。いくら手頃そうな「疑着の相ある女」でも絶対手を出してはいけない部類。求馬が清十郎さんではあの覇気に負けて、杉酒屋の時点ですでに殺されてそうだと思った。

お三輪は鬼灯を手に、帯のうしろにうちわを差して登場する。あのうちわについてる銀色のマル、月の模様だと思っていたんだけど、鏡になっている?みたいですね。求馬に背を向けてうちわを掲げる所作は、うちわを鏡に見立てているのかと思っていたけど、あの月の部分に本当に求馬を写しているということなのかしらん。

それはともかくこの段は子太郎〈桐竹紋秀〉がとても良かった。子太郎はすごい。文楽に出てくる丁稚や手代・番頭でチャリがかったヤツは大抵主家の娘や奥さんに惚れていて、その横恋慕で悪行をはたらくが、子太郎は非モテによるモテ男求馬への怨嗟だけで四段目の大混乱を巻き起こす。普通、モテるやつが妬ましいという思念だけでそこまで頑張れないよ。お三輪に惚れているわけでもないのに求馬を陥れようとしてくるのがイイ。お三輪を応援しているとも取れるが、それ以上に求馬への「こいつがめちゃくちゃひどいめにあったらいいのに」思念がすごい。非モテの怨嗟がこもりまくったキモユーモラスで伸びやかな動きが愛らしかった。

ところで冒頭部で子太郎が箒で叩こうとしている虫は何なのだろう? いままでなんとなく蛾かと思っていたんだけど、すごく慎重に箒の下を覗き込む動作からすると、もしかして、ゴ………………?*2それと、子太郎のエプロンをよく見ると、「子」の文字が書かれた白丸の下に、小さく「〆」と書かれているように見えたのだけど、どういう意味なのかしら。白丸の上の部分にも何か黒い、模様のような、汚れのようなものがついていたが、それが何かはわからなかった。

なにはともあれ、子太郎・ザ・妹背山で一番まともな登場人物、および紋秀さんにはありとあらゆる意味で今半の弁当を差し入れてあげたいと思った。

床は津駒サン&宗助さんで軽やか。肩のこらない、しかしラフに振りすぎない絶妙な塩梅で、山の段の緊迫感から解き放たれてリラックスして聞ける。緊張を強いることはないけど浄瑠璃を聞くのをさぼらせない程度に舞台へ惹きつけるテクニック、さすが。だからこのあと帰らないで。(理由は後述)

 
 
 
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[道行恋苧環

橘姫〈吉田一輔〉は求馬に会うため、夜毎三笠山から三輪の里まで通っているという設定のようだが、ガッツありすぎじゃないですか? 後述するが、私、ことしの初詣で大神大社へお参りするために三輪へ行ったんだけど、奈良から電車でも30分かかった。深窓の姫が歩けるとは思えない距離だった。橘姫、世が世ならオリンピックのマラソン代表選手に選ばれると思う。橘姫は求馬が手を出してこないことを悩んでいるようだが、あんな大昔のド田舎で毎晩毎晩なにをやってんだろうと思う。お話しをするにも毎晩だと流石にだんだんネタが尽きてくると思うんですが……。ジェンガでもやってるのかな? 子太郎、覗き見してきて!!!

それと、詳しくは書けないが、手踊りのところで少し衝撃を受けたことがあった。今後が気になる。あっ、踊り自体は、お人形さん(っていうか人形遣い)それぞれの個性がすごくいい感じに出ていて可愛らしかった。よって、揃ってないところが良いとも取れるんだけど、揃い方が日によって結構ムラがあるなと思った。

 

[鱶七上使の段]

鱶七は玉志サン。多分、本公演では初役(上演資料集調べ)。鱶七は野暮ったい漁師としてぶっきらぼうに出てくる……はずなのが、「田舎の漁師」っていうより「東宝戦争映画の軍人風」になっていた。そのなかでも三船敏郎とかじゃなくて、『独立愚連隊』の佐藤允のようなかなり都会的でスマートな印象。要するに玉志サンそのまんまなんだけど、玉志サンそのままがピンッと出てきちゃうと夏木陽介になってしまうところ、床が藤太夫さんだったので、そこでぶっきらぼうで図体がばかでかい印象が出ていた。やはり人形の見栄えは床あってのものだなと思った。藤太夫さんは山の段の久我之助はかなり上品な貴公子風に仕上げておられたが、こっちはまさに「どってう声」だった。

鱶七のマイペース行動について、初日に見に行ったら、「かまきりの大臣」から預かった手土産の酒を一瞬でイッキ飲みしていて「いやそれただのアナタの素では!?!?!」と思った。が、中日あたりに行ったら、ゆっくり飲むようになっており、千穐楽近くではちゃんと思わせぶりに飲み干していて、安心した。

後半で男見学にくるツメ人形の官女たち。文楽人形サンたちって、時折、自分が人形だと気づいているフシがあるが、ここでは鱶七は「立ってみい」と言って官女たちを直立させ、「ようも煮え込んだものじゃ」と笑う。「煮え込んだ」というのはツメ人形は首が衣装に埋まっているさまを指しているそうで、鱶七は自分(三人遣いの人形)とツメ人形の違いに気づいているようだった。あと、官女の袴をめくって(つまんで)セクハラをはたらいていた。

この官女のうち、向かって左から二番目にいる奴が私に似ていた。私の今年度の目標は「金殿の官女になる」で、朝起きたらツメ人形になっていないかなと毎日思ってるんですけど、残念ながらいまのところまだなれていない。でももしかしたらあの官女がツメ人形になった私なのかもしれないと思って気を紛らわせた。

ところでこの段に出てくるとある役のお人形さん。あなたがマイクロビキニの巨乳ギャルなら有難や🙏尊や🙏って感じなんだけど、誠に遺憾ながら武士なので、背筋をS字に湾曲させずにピッと伸ばして座って欲しいなと思った。もし文楽マイクロビキニの巨乳ギャルが出てくることになった暁には、頼むから勘彌さんに遣って欲しいです!!!!!! 

 

[姫戻りの段]

もうちょっと緊張感をもってやってもらえると嬉しいなと思いました(2回目)。

 

[金殿の段]

豆腐の御用役の勘壽さんの袴が大豆色で良かった(正確にはライトベージュに茶色系の細かい縞模様だったかな。遠くから見ると大豆色に見える)。

しつこいですが鱶七の話(まじしつこい)。玉志サンて全体的にはすごく上手くて、人形ならではのクリアな佇まいも本当綺麗に出ていると思うんだけど……、細かいところでひとつ思っていることがある。昨年12月の『鎌倉三代記』高綱や一昨年の『ひらかな盛衰記』の樋口もそうだったのだけど、段の中の動作ごとに人形から受ける印象(演技のトーン)が微妙にばらつく傾向がある気がする。端的にいうと、高綱なら井戸から出てくるとき・物語のとき・最後に木登りするときのトーンが若干ばらついて、高綱としての一貫性が見えづらい。いや、もちろん、この議論が発生するレベルにまで技量が及ばない人のほうが多いとは思うけど。

これが起こっている原因は、私は、ご本人の芸風自体やご自分で「こうやりたい」と思っている部分と、師匠から引き継ごうとしている部分がまだ乖離しているからじゃないかと思っている。観ていると、明らかに自信をもってやっておられるであろう部分とそうでない部分のつなぎが弱く、精度の落差みたいなものを感じる。その理由としては、師匠をトレースするだけにしたいくない、でもまだご自身の表現として着地しきっていないから、こうなっているのではと想像している。とはいえ始終ばらついたままなわけではなく、公演会期後半にいくほどそれがまとまっていき、最終日近くになるとほぼ解消されるので、ご自分の中でだんだん整理されていっているんだろうなと思う。昨年、2ヶ月にわたってやっていた『彦山権現誓助剣』の京極内匠役の後半・東京公演の最終日近くは本当良かった。京極内匠は嘘をついている場面が多いのでどうしてもバラつきが発生するはずなんだけど、人形のニュアンスに背筋の通った統一性があって、一人の人間の多面性というかたちでそれが表現がされていて、とても良かった。今回の鱶七もやっているうちにだんだんピントが合ってきたのだと思う。二段ある出番で太夫の傾向がまったく違うので、よりばらつく可能性が高い状態になっていたけど、中日〜後半はとても良かった。特に鱶七が物語をするところは、後期日程はかなり変わっていた。一番良かったのは後半の「物語より窺ひ見るに……」以降。金輪五郎って粗野げなキャラクターに思えるけど、武士らしい精悍なメリハリとキラキラぶりがあって見応えがあった。こっちのほうが本領発揮ですね。

衣装引き抜きはもう初日と最終日近くではクオリティに歴然とした差があった。みなさんお疲れ様ですと思った。鱶七の左遣いの方、金殿のほうは慣れた方をつけているんだと思うが、衣装の着崩れも細かくケアしておられて、よかった。それと出のところは、官女とふざけあっていた田舎漁師の風情とは打って変わり、正体不明の不気味さが出ていて、会期はじめから良かったです。

しかしこの段、初日に行ったら呂太夫さんが休演で希さんが代役となっており、「まじで」と思った。技芸員側の事情は知らないけど、国立劇場も配役に責任持ってくれと思った。希さんは頑張っていたと思うけど、若手会はともかく本公演は頑張っていれば良いというものではないと私は考えているので、津駒サン、杉酒屋で帰らず代役してくれやと思ったよ……。杉酒屋は軽い内容に対して実力があるベテランが配役される段というのは理解しています。でも、はじめから津駒サンを金殿にしといてほしかった……。

 
 
 
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やっぱり通し上演はいい、と思った。浄瑠璃そのものが持っている物語の力を感じる。段ごとに見ていくと、芝六は狂人ではないのかとか、求馬はなんでお三輪を物扱いしているのかとか、いまいちピントがあいきらないのだけれど、通しで観ると、どの登場人物も「時代の流れ」とでもいうべきものに押し流されているんだなと感じた。そのエネルギーは巨大で、ちっちゃなお人形さんたちでは抗えない。通し上演って、技芸員側からすると、どうしてもしょうもない段・しょうもない役に配役される人が出てしまって不満が出るらしいんだけど(今回道行の床10人もいるのに全員名前呼び上げていたし)、客の立場からすると見取りより通しのほうがはるかに見応えがあるよね。

個人的にはせっかくの通し上演なら、「入鹿誅伐の段」をつけて欲しかった。上演時間の都合でカットしているのだと思うけど、金殿で終わると、金殿がよほどのすごい配役でない限り微妙な空気のまま放置されるので、おたの申します。

 


今回は通しになることによって、浄瑠璃の構成のおもしろさもより強く感じた。本作でよく言われるのは登場人物や舞台の対位法だと思うが、今回、いちばんおもしろみを感じたのは、イメージの連鎖。

五段構成の浄瑠璃だと、一段ずつが独立した話で相互関係は薄いものが多いと思う。とくに、時代物風のパートと世話物風のパートは関連性が薄い。しかし妹背山は単に話が続いているだけでなく、イメージが連鎖しているのが面白い。イメージの連鎖というか、ある登場人物には叶えられなかった願いを別の段の登場人物は叶えることができるが、それを叶えたとしても不幸になってしまう、という設定。

ひとつめは、「ふたつ命があったなら」というイメージ。「山の段」で切腹した久我之助は、大判事に「命がふたつあったら、ひとつの命は帝に捧げ、もうひとつの命は生きながらえて親に仕える」と言う。久我之助は当然、これを叶えられずに死ぬ。しかし妹背山の中にはこれを叶える人物がいる。二段目に登場する芝六の二人の息子、三作と杉松だ。三作は義父・芝六(ひいては帝)のために鹿殺しに加担し、身代わりとなって死のうとする。しかしその身代わりに杉松が死に、三作は生きながらえて父の願い通りに出世する(最終的には大判事に養子にもらわれますが)。ああなるほど、兄弟がいたなら、久我之助の願いも叶ったんだなと思った。

ふたつめは、「川を隔てた恋」のイメージ。「山の段」では雛鳥と久我之助は川を隔ててあれほどまで恋い焦がれながら再会が叶わなかったが、四段目で七夕様(天の川を隔てて再会を願う牽牛と織女)に祈りを捧げていたお三輪は、なんの障害もなくアッサリと恋する男・求馬と思いを遂げてしまう。というか、話がはじまった段階でもうできてるけど。浄瑠璃業界の「おぼこ」という言葉の使い方は独自性がある。しかしお三輪は入鹿誅伐のため鱶七に殺され、添い遂げることはできない*3。雛鳥は恋する男の間近に行きたいと願っていたけど、お三輪は男のすぐ側にいても不幸になってしまう。

あと、山の段で腰元たちが吉野川の流れの果て(海)には鱶がいると話しているけれど、それが、物語の流れの最後に出てくる鱶七なんだね。

 

 

 

↓ あらすじまとめはこちらから。

 

 

お正月に、初詣で三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)へ行った。

2日の午前中に行ったら人出がすごすぎて、あまりの人の多さに幽体離脱しそうになった。観光地かと思っていたのだが、初詣に来ていた人々はみなさん異様に軽装で、近隣住民だけではって感じだった。神社側も、特急祈祷など、なかなかすごい商売をやっておられた。

でも大神神社は本当に霊験あらたかでしたので、みなさま、大阪公演のおりにはぜひ奈良へも回って、大神大社にお参りしてグイグイお願いごとをしてみてください。

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東大寺の門前にいた爪黒の牝鹿。爪が黒い牝鹿は気が遠くなるほどたくさんいた。芝六はなぜあんなに苦労して探していたのだろう。しかもこいつらえさを持っていない私をガン無視してきた。まるまると太りやがって。芝六にチクってやる。

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*1:子どものころ、そういうことをしていた。私が。

*2:私は家賃入れてくれるならゴキ御前が我が家に居候遊ばされても構わない派です。家賃入れてくれるなら。

*3:でも鱶七はえらいよ、死に際に一応フォロー入れてくるからさぁ……。求馬とか、あいつ最後まで何もしないのに。鱶七が死にかけのお三輪に「それでこそ天晴れ高家の北の方」と言うけれど、「北の方」という言い回しは単に身分の高い人物の妻という意味だけではなく、不幸な娘が玉の輿に乗る場合に使うことが多いと聞いたことがある(時代がだいぶ遡るが『落窪物語』など)。