TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

麻雀漫画と昭和の日本映画と文楽(人形浄瑠璃)について書くブログ

 阿羅漢 ―麻雀亜空間殺法の書―

安藤満[協力] + しもさか保[作画] 竹書房(発行:1巻/1991、2巻/1992、3巻/1993、4巻/1993)
近代麻雀オリジナル」(竹書房)1991〜1993年連載 
全4巻


┃あらすじ
昭和40年、東京。高校2年生の神崎充は、腕試しに入った雀荘で麻雀のおもしろさに目覚めた。自宅でひとり麻雀牌を積み研究を続けていた充は牌に「流れ」があることを発見する。フリー雀荘での沼田という老人との出会いにより、それは確信へと変わった。麻雀の勝負は点棒のやりとりではなく、空間のやりとりにある! この日から、究極の打法を探る充の麻雀研究がはじまった。




安藤満(詳細は後述)の実践譜を用いた戦術書風の麻雀漫画。
絵が旧き時代の少年漫画というか、コロコロ・ボンボン風味。劇画系の絵柄が多い竹書房では異色。変な名前の必殺技も使うことだし、3秒以内にグリーンアローへ移籍可能だ!




主人公の成長を見守る漫画として、とてもおもしろい。
主人公・充は雀荘で出会った老人・沼田、レーサーのトオル、北海道で出会った流など様々な人との出会いを重ね、亜空間殺法を改良しつづける。充は圧倒的な天賦の才を持っているわけではない。充が努力を重ねることによってどんどん強くなっていく姿は、大人向けの少年漫画といった印象。「主人公が努力に努力を重ねて栄冠を手に入れる姿」は、大人になったいま読んでこそ感動する。
主人公の親友・トオルをはじめ、偶然出会いライバルとなったトッププロ・榊原、裏プロ・極楽坊、最後のチョイ役・本能寺会長ら脇役も全員好感が持てる。なぜなら、全員が麻雀を愛していることがちゃんと伝わってくるから。ああ、そういう設定なんですね、という伝わり方ではない。読んでいるうちにそれがしみじみと伝わってくる。それはすごくシンプルなことなんだけど、すごいことだと思う。いまどきの青年誌漫画のファストフードな味に疲れてしまった人におすすめ。




全4巻で話がちゃんと話がまとまっているのもとってもマーヴェラス。
竹書房の麻雀漫画は必ずしも単行本化されないためか、打ち切りによって最後がぶっちぎり状態、大風呂敷広げすぎて収集つかなくなる、尻すぼみになる、あるいはクアッガ状態になってしまうものが非常に多い。この作品では、話が大きくなりすぎることもしぼむこともなく、最終話の充が亜空間殺法の奥義を極めるシーンにすべてが収束していく。話が収集ついている、これだけでも高く評価できる。
また、最後のチョイ役で充らと同卓することになる本能寺。最終卓にあんまり今迄の展開と関係ない人が混じるとかなり萎える(ex.『牌賊!オカルティ』の百舌プロ)が、本能寺はわずかなページに見せ場が盛り込まれてその個性を発揮しており、「おお! 最強の4人が集まった!」という気分にさせてくれた。




主人公・充は安藤プロの得意技だった「亜空間殺法」打法を使う。「亜空間殺法」とは、端的にいうと、ありえないところから鳴いて牌の「流れ」を変える打ち方。この作品ではその詳細や流れとは何かを知ることができる。
「流れ」が存在する麻雀漫画は多く存在するが、そのほとんどは「流れ」とは何かを描いておらず、話・闘牌のツメの甘さの言い訳として使用している。しかし、この作品では「流れ」を詳細に、具体的に描いている。流れはどのようなときに、どのような効果を及ぼすのか? どうすれば「流れ」を最大限に利用できるのか? 流れがあるのならば、麻雀の戦術はどのように変化するのか? ……等、「流れ」を駆使した戦術を描く、本当の意味でのオカルト麻雀漫画の最高峰。このクオリティに追随するものは存在しない。巻末には安藤満のミニ戦術論&作品解説「ここをおさえろ」付き。




「亜空間殺法」とは、卓上にある目に見えない牌の流れや牌勢、様々な運、ツキを内包する空間を歪ませる技。

亜空間殺法

  1. アガリに向かわない動きで流れを変える。
  2. アガリに向かう動きで流れを変える。
  3. 相手を動かして流れを変える。

亜空間殺法は主に自分が不調のときに使い、自分の運気をプラスに転じさせる技*1。上記の"動き"とは鳴き(ポン・チー・カン)のことで、鳴いて(鳴かせて)ツモ順を本来のものから変化させることで、本来その牌をツモる予定であった人の運命(=流れ)を奪い取ったり、自分の悪い運命をほかの人に移し変えたりする。端的にいうとそういうことなのだが、単にポンしたらよい、というわけではない。使い方を誤ればより悪い流れへと身を沈ませてしまうこともある。こう書いただけではなにがなんやらよくわからん打法だが、この作品を読めばその真髄を知ることができる。
なお、闘牌は実践譜がもとになっている(らしい)。




この作品のすごいところは、「亜空間殺法」だけでは麻雀は強くなれないことをはっきり書いている点。
「亜空間殺法」だけに頼っていた充は基本が疎かになっており、途中でつまづいてしまう。基本の欠如を沼田に指摘された充は基本を見直して自分の切り出しの甘さを反省し、失敗を乗り越えた。イロモノ戦術を扱っているにもかかわらず、基本に立ち返るエピソードを入れる(しかもそれを丁寧に描いている)とは。このように充は毎度毎度ひとり勉強会&反省会をやっている。これを抜いても漫画としては破綻しない。適当に流しておけばいくらでも誤魔化しはきくはずなのだ。だけど、反省する場面を入れているところが、ほんとにすごい。




クレジットで「協力」となっている安藤満(1949-2004)は日本プロ麻雀連盟に所属していたトッププロ。実力での評価もさることながら、メディアへの露出も多く、きさくなおっさんキャラとして人気があった。『むこうぶち』や『麻雀無限会社 39(ZANK)』など麻雀漫画の原案・原作も行っており、作劇について勉強しようと劇画村塾にも入っていたらしいが、ガンで急逝した。詳しくはこちらを参照のこと。




この手の作品をオカルトだからと叩くのは的外れというものだ。
オカルトだからというのは全く批判の理由にあたらない。そこそも、この作品は「オカルト麻雀とは何か」を理論的に説明し、シミュレーションする作品。これは漫画でなくてはできない内容だと思う。そして、この作品はそれをやり遂げている。脈略もなく天和をあがる麻雀漫画は掃いて捨てるほど存在する。現実において天和は脈絡なくあるとき突然起こる現象ではあるが、漫画の中の天和には必然性が必要だ。この作品では、なぜ最後に充は天和を引き得たのか、その必然性が4巻にわたる長い物語で説明される。
それを踏まえてでもオカルトであることを批判したいのなら、「ドラえもんはオカルト漫画であります! なぜなら未来から来た機械猫が机の引き出しから出てくることはありえないからであります!」という批判も同時に行われなくてはならない。別にこの作品に限ったことではないが、描かれている戦術がオカルトだからという理由で否定するのはあまりに了見が狭すぎというか、勿体ないと感じる。
的外れな批判ではなく、漫画としての完成度が低い作品のほうをもっと手厳しく批判すべきである。描かれている戦術や麻雀がまっとうであっても、漫画としてレベルが低い作品を私は評価できない。読者を舐めんな。黒沢さんも言っている。「人は舐めてもいい。だが麻雀は舐めるな」と。(あれ?)




おまけ

物語途中で充の師となる流(ながれ)さん*2が乗る急行「きたぐに」。札幌発旭川士別方面稚内行きとのアナウンスが流れるが、「きたぐに」は大阪-青森(新潟)間の日本海側を走る急行。昭和40年代の北海道の鉄道事情を掲載したサイトを見る限り、当時SLが牽引する急行で有名なのは「急行ニセコ」(当時おそらくC62という蒸気機関車が牽引)。漫画の絵のなかに出てくるC571という蒸気機関車SLやまぐち号として残っている。「きたぐに」って、SL牽引じゃなかったんじゃないのかなあ。昭和36年の登場時点でも。鉄の人に聞かないとよくわからんけど。

┃ 参考リンク

*1:現実的には「いきなりありえないところをポンして、びびった他家が降りたり絞ったりでまわっているあいだに偶然あと付けだった仕掛けがうまいこといったよ!」という現象、と思われる。

*2:スゲェ名前。下の名前は「有蔵」……ではなく「征次」。『牌鬼師』に出てきた「ハスラー雀士のスカンクの平(へい)さん」といい勝負のおなまえ。