TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 麻雀五輪書その1 さらば乱れ牌

志村裕次+森義一 日本文華社(1986)
全?巻

┃あらすじ
高知県F市に、地元の雀荘を荒らすならず者がいた。彼の名は山崎点心。点心の被害を受けた雀荘店主らの相談を受けた光明寺の住職は、点心をこらしめるため麻雀で勝負を申し込む。結果、カンだけで麻雀を打っていた点心はこの和尚に天狗の鼻を折られ、木に吊るされてしまった。街に現われた雀ゴロを追い払う役と引き換えに木から下ろされた点心は雀ゴロに快勝し和尚を見返した気になったが、和尚にその強さは獣の強さだと言われる。その言葉に点心は捕われ、悩み、真の強さとはなにかを考えるようになる……




熱血修行麻雀漫画。
少年漫画というかコロコロ・ボンボンのような幼年漫画に載っていそうな馬鹿設定だが、話の骨格がしっかりしていておもしろい。「麻雀五輪書」というサブタイトルや最後に佐々木小次郎という麻雀打ちが登場するのを見ると、主人公を宮本武蔵になぞらえているらしい。個人的に「○○になぞらえた話」は好きなので、続きが存在するなら読んでみたい。
第一話だけ異様に製版状態が悪いが、雑誌掲載の誌面から版を起こしているのか。




牌姿を縦構図で見せたり、倒牌時に波のように倒れるような動きをつけたりと、闘牌シーンをビジュアル的にドラマチックに見せるための様々な工夫がなされている。イメージカットの挿入が多くておもしろい。



この作品だけの話ではないが、個人的に気になるのがツモッてきた牌を手牌の上にのっける図。あれはテレビの麻雀中継の見せ方の影響なのだろうか。現実に手牌の上に牌をのっけると落としたりクルッとなったりするのであまりしないと思うが、少なくとも「人に見せる前提」があるなら上にのっけるのがわかりやすい。
現実の物理法則を取り入れることについては、リンシャン牌を下ろすか降ろさないかも気になる。実際は降ろすのがマナーとされている。世の中の麻雀の何%がリンシャン牌を降ろして行われるのかはわからないが、少なくとも麻雀を実際にやったことがない人はリンシャン牌を降ろすことは知らないと思う。知らない人から見たら、絵ヅラとしてヘンな位置に中途半端に牌があることになるので、漫画では降ろさないほうがいいと思う。まあ普通の人が「アラ今日はここで一発『さらば乱れ牌』でも買ってみようかしら」とは絶対いかないわけだが。


森先生の麻雀漫画でたまにある「流局後などに手牌を持ち上げて空中で崩す」シーンは、はじめは何をしているシーンなのかサッパリ分からず、牌をジャグリングのように空中に撒いているのかと思っていた。




擬音語(オノマトペ)の使い方について。
将棋漫画だと駒を置く音が「パチン」と出るのがかっこいい。『ハチワンダイバー』は逆に「スッ」という効果音にして早指しのリアリティを出している(らしい)。それでは麻雀漫画はどうか。強打はしてはいけないのでほぼ無音でタンッと置くのがよい……のだが、それでは地味なので、この漫画ではマナー違反ではあるが強打の効果音「パチ―ン」や「バチーン」を使っている。いまの麻雀漫画にはあまりオノマトペが派手に使われないので、興味深い。




地方を舞台にしているが特にローカルルール闘牌はなし。しかし、出てくる雀荘の名前がイカス。「東南待ち」「黒潮」「よさこい」「土佐」「ダブ東」「青い鳥」……看板や店構えはもちろん、内装も「応接間」という言葉があった時代*1のオシャレさ爆発で行きたくなる雀荘ばかりである。




森先生のお色気シーンは嫌なオリジナリティに溢れている。その嫌なオリジナリティとはトンマな雑魚キャラの生理描写を盛り込むこと。そういう描写は心底一切いらない。キモイから。しかもその直後に主人公が目覚めて股間を押さえ「ウウ……オシッコ……」と呟くシーンが入るとか、まったく意味がわからん。これ見て喜ぶ読者いるわけないだろ。女性キャラは可愛いのになぜこんなことになるのか。
また、P97と98のつながりがおかしいのが気になる。これは作家がトンチキで整合性という概念がない(あるいはモンタージュ技法出現前の映画のような、漫画の文法成立以前の遺物であるか)からなのか、それとも何らかの理由で何ページか抜いているからなのかが気になる。これを言いはじめると「この漫画は全体的に意味がわからない」と言わなくてはならないが。




しかし、竹書房が「スーパーヅガン」とか「あぶれもん」とか「勝負師の条件」とかやってる時代にこんな漫画オッペケペーとやってたら、滅んでも仕方ないと思った。

*1:端的にいうと、池袋の「珈琲 伯爵」のセンス