TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 4月大阪公演『楠昔噺』『曾根崎心中』国立文楽劇場

初めて文楽劇場へ行ってから1年が経った。短い1年だったような、長い1年だったような。 しかし1年前は今にも増してものがまったくわかっていなかったのに、よく大阪まで行ったな。勢いだけで行ったわけだが、勢いというものはすごいものだと思った。

f:id:yomota258:20170209143409j:plain

 

『楠昔噺』。

「祖父は山へ柴刈りに 祖母は川へ洗濯に」の角書きの通り、昔々あるところにお爺さんとお婆さんがいました^^ お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました^^ から急転直下に始まる文楽的悲劇。南朝北朝が争う太平記の時代を舞台に、「桃太郎」や「舌切雀」、あるいは端午の節句の風物を織り交ぜながら語られる、とある家族の物語。話が複雑なので、あらすじをまとめながら書いていきたい。

 

碪拍子の段

河内国松原村の百姓、徳太夫(人形役割・吉田玉男)と小仙(吉田和生)はそれぞれ再婚同士の仲の良い夫婦だった。二人はきょうも連れ立って出かけ、徳太夫は山へ柴刈りに、小仙は川へ洗濯にと二手に別れた。時が経ち、山仕事を終えた徳太夫が川岸にいる小仙を迎えに来ると、小仙は徳太夫が再婚前に勘当した息子・竹五郎から自分宛に密かに詫言状が来ており、そこには実母でない自分のことを「母様」と書いてくれていたと告げる。しかし徳太夫は、婿の正作にさえ面倒をかけていない自分が出世したという竹五郎を赦しては養って欲しさと思われる、勘当を赦すつもりはないと言う。それより小仙の連れ子のおとわは赤の他人の自分を大切にしてくれる、これ以上に可愛いものはないと。しかし小仙はおとわの夫の正作が牛博労でずっと家をあけたままで不安であり、竹五郎に家に戻ってもらいたがっていたのだった。話はどこまでいっても平行線で、二人はこの話はもうしないことに。

そこへ川上から流れてくる見事な花橘の枝。小仙が拾い上げたその枝を徳太夫が欲しがった。どうせ孫への土産にしたいのだろうと小仙が言うと、孫への土産はもう山で見つけてあると徳太夫は懐から雀を取り出す。雀のほうから袖口へ飛び込んできたのを、孫に与えようと捕まえておいたというのだ。それを見た小仙は雀を欲しがり、二人は花橘と雀を交換する。しかし実は二人は花橘と雀を孫の土産にしたいわけではなかった。徳太夫の欲しがった花橘は橘氏の出である婿の正作の瑞祥、小仙の欲しがった雀は竹五郎が羽を伸ばす吉兆(竹に雀)であると思っていたのだ。

二人が連れ立って帰ろうとすると、団子売(吉田簑一郎)が通りかかる。団子売は後醍醐天皇の臣下・橘正成と鎌倉幕府方の武将・宇都宮公綱が戦う天王寺の決戦を見てきたと話す。楠木正成が幕府方の六波羅軍を破ったと聞くと、なぜか徳太夫が喜ぶ。次に落武者(吉田玉勢)が通りかかり、宇都宮公綱が現れると楠木正成は彼と一戦も交えず逃げ出したと話す。すると今度は小仙が喜びをあらわにする。二人はお互いに楠や宇都宮に縁があるのかと気色ばみ、小仙は花橘を川へ投げ捨て、徳太夫は雀の嘴を折って追い放ち、仲違いしたまま家路についた。 

絵本の昔話のように「むかしむかし」から始まるほのぼのした雰囲気の浄瑠璃。九十九折の山道を表現する、奥行きのある重層的なセットが印象的。幾重にも重なった山を徳太夫の人形がゆっくり登っていくと、途中の坂から人形が遠見の人形に差し代わる。遠見の人形は普通の人形の半分くらいの小さい人形だが、普通サイズと違わず細かく作られており、ちゃんと三人遣いだった(みな黒衣)。山を登っていく徳太夫を川岸で見送る小仙が「いとしや去年まではあのやうな足許ではなかつたに、モウ一年々々弱りが見える」とつぶやくのが妙にリアル。

小仙の人形はすそを捲るので足が吊ってあり、三味線(鶴澤清友)のメリヤスに乗せて足踏みしながら洗濯物を踏み洗いしていた。これが結構難しいとのことだが、自然にフミフミしているように見えた。小仙、和生さんが遣っているせいか、田舎の一般人婆さんだが穏やかな品があり、娘婿に武将がいてもおかしくないなと思わされた。

山から帰ってきた徳太夫が小仙の洗濯が終わるまで待っている場面、小仙が着物の裾をたくし上げて洗濯の仕上げにかかろうとすると、徳太夫が「そんなところを通りがかりの仙人が見かけたら、通力を失って落っこちる〜!」と言い出すのがかわいい。受けて小仙は「それは五十年前の話」と言っていた。

この段ですごかったのは、雀の舌を引っこ抜く徳太夫と、ビキニアーマーよりやばい格好の落武者。雀の舌、目の前でブチィと引っこ抜かれてびびった。引っこ抜かれた舌はわりと大きい赤ピンクのぺなっとした物体で怖かった。さっきまで小仙の左遣いさんが手に持った雀(原寸サイズのリアルな小道具)をぴこぴこしてあげていたというのになんという無惨。当たり前だが玉男様完全に真顔で閻魔大王状態になっておりますます怖い。落武者は裸に鎧だけを着た大胆な人形。ビキニアーマーは江戸時代からあったんだ。いやビキニじゃないけど。厚紙でできてんじゃねえかというペラッペラの鎧の胸板の両サイドからまあるいポッチ乳首がWではみ出てるのが気になって、ヤツが舞台に出ている間浄瑠璃一切頭に入らなかった。人形が動くと鎧が揺れて乳首が隠れるのではと思っていたが、隠れなかった。こだわりの着付けなのかもしれない。人形の動きはちゃんとしているのだが、客は乳首しか見てなかったと思う。文楽におけるビキニアーマーの無限の可能性を感じた。

 

太夫住家の段

翌日、徳太夫の家。徳太夫の義理の娘・おとわ(吉田文昇)が端午の節句ちまき用の粉を石臼で挽きつつ息子・千太郎(桐竹勘次郎)を遊ばせていると、家の前を物売り(吉田玉志)が通りかかる。千太郎を褒めそやす物売りにおとわは機嫌をよくしてオモチャの槍と長刀を買い求める。にわかに雨が降り出し、おとわは物売りを牛小屋で休ませてやることに。入れ違いに奥の間から徳太夫が現れ、婿の正作は牛博労に行ったのではなく、今は後醍醐天皇に召されて楠木正成と名乗る武将になっていると知っている、しかし小仙にはこのこと他言無用だと告げる。

やがて日が傾く頃、門前に場違いな籠がつけられ、身なりの良い女(吉田勘彌)が徳太夫はいるかと訪ねてきた。小仙がどなたかと尋ねると、自分は竹五郎の妻・照葉であり、伴っている少女は娘・みどり(吉田玉彦)だと名乗る。照葉は竹五郎=宇都宮公綱の天王寺の合戦の陣中見舞いに行く途中で、徳太夫に勘当を許してもらおうと立ち寄ったのだという。小仙はそのことは徳太夫には黙っていてほしいと頼み、二人を奥の間へ通す。

また入れ違いざまに徳太夫が現れ、小仙に仲直りしようと言いだす。お互い、竹五郎は宇都宮公綱となり、正作は楠木正成となって今や敵味方に別れて争っていることを知っていた夫婦は、孫である千太郎とみどりに祝言をあげさせ和睦の筋にしようとする。しかしそれを聞きつけた照葉は、逃げ足の早い正成の息子と縁組んだと言われては家の恥と猛反対し、祝言の盃を取り上げて叩き割る。正成を侮辱されたおとわは、正成は公綱の面目を立てるために軍を引いたのだと照葉に楯突く。言い争う二人をあとに、肩を落とした徳太夫と小仙は仏壇へ灯明を上げようとを奥の間へ消える。おとわと照葉はそれぞれの息子娘に徳太夫と小仙の行動を見守るように言い含め、二人の後について行かせる。

そのとき突如庭から烽火が上がる。すると山へ次々と篝火がともり、鬨の声が聞こえる。宇都宮公綱の使いが現れ、公綱の軍勢はいま見えた遠篝に恐れをなして散り散りになった、照葉には早く陣へ来てほしいと告げる。駆け出そうとする照葉とおとわが争っていると、奥の間から斬り合う音が聞こえ、障子に血飛沫が飛び散る。血まみれの姿で現れる徳太夫と小仙。徳太夫は、正成が軍を引いたのは公綱が徳太夫の息子であり、公綱に武勲を立てさせ徳太夫を喜ばせるためだったと言う。先ほどの狼煙は徳太夫自身が上げたもので、それを合図に仕事仲間に山へ篝火を灯させ鬨の声を上げさせて公綱の軍勢を威嚇し退けるという、正成へのせめてもの返礼だったと。そして、公綱を思いそれを止めようとした小仙と斬り合いになり、二人はお互いわざと刃にかかったのだった。徳太夫は嘆く照葉とおとわの前で石臼に自らの血文字で二人の戒名を記し、公綱が後醍醐天皇へ味方すれば勘当を赦すと言って息を引き取った。

そこへ牛小屋で休んでいた物売りが姿を見せる。話は聞いていた、お悔やみをと告げて物売りが立ち去ろうとするところにかかる「宇都宮公綱待て」の声。どこからか聞こえる「楠多聞兵衛正成対面せん」との言葉に、物売りは商人の化を捨てて本性・宇都宮公綱の姿を顕す。公綱は奥の間の鎧兜姿の人影へ矢を放つが、矢が命中すると鎧が剥がれ落ち、中身は藁人形であったことが知れる。再び現れる障子の奥の鎧兜の人影に矢を射るも、当たるとこれもまた藁人形であった。そして現れた本物の楠木正成(吉田玉佳)と仕込み槍で立ち会う公綱だったが、徳太夫の亡骸が起き上がり、槍の柄をバラバラにして二人の揉み合いを制する。実の子も義理の子も思う徳太夫の魂魄に一座は涙して、二人は二親の四十九日が明けてからの勝負を約束し、公綱は小仙の亡骸を、正成は徳太夫の亡骸を抱えて別れ行くのだった。 

情と義理とに引き裂かれ巻きおこる惨劇。文楽、ふだんは人を刺そうが首を切り落とそうが直球の怖い表現はないのに、突如障子に飛び散るダイレクトな血飛沫(本当に障子に真っ赤な血飛沫がビシャア!とかかる)。突然のスプラッタ展開にどよめく客席。本当は怖い昔話。

ここでは前段のなにげない要素が伏線として回収されていて驚いた。いまわのきわの徳太夫と小仙に孫たちを会わせてやろうと、子どもたちを起こそうとする嫁たちを制する徳太夫が「(孫たちが起き出して)おいら二人を尋ねるなら、祖父は山へ柴刈りに、祖母は川へ洗濯にと言うてすかしてたもいなう」と告げるくだりには涙。だから角書きが「祖父は山へ柴刈りに 祖母は川へ洗濯に」で、出だしも「祖父は山へ柴刈りに、祖母は川へ洗濯に」から始まるんですね。そういえば徳太夫が小仙に仲直りをもちかけるくだりも、自分の話を昔話の中のお爺さんに例えて話しているし、冒頭で徳太夫の柴刈り仲間たちが出てくるのも、篝火を焚く仲間の伏線だったんだな。

この段での一番の見所は宇都宮公綱が鎧人形を射る場面。豪奢な衣装の大型の人形が本当に大きな弓を射るのだ。弓を構えたときはどうするのかな〜と思ったが、本当に弓をびゅんと飛ばしていてびっくり。しかもちゃんとまっすぐ飛んでいた。てっきり途中で後見の人が差し替えると思ったから……。人形は文楽でも一番大きい部類でかなり重いだろうに、公綱役の玉志さんはスッと綺麗な姿勢で弓を引いていた。しかもあそこまでちゃんと飛ばすとは、生身の役者がやっているならともかく、文楽人形は三人遣いで右手と左手は別の人が遣っているのにすごい。私が見た回は2本ともパーンと見事に飛んでいた*1。玉志さんは昨年5月東京の『絵本太功記』の武智光秀役でも、最後、瓢箪棚に下がる瓢箪を一発でタララララーッと綺麗に切り落としたのを覚えている。そのときあまりに普通に切り落としたのでびっくりしたのだが、今回もあまりに普通に飛ばしたので、私と私の周囲のお客さんは「!?!?!?」となっていた。公綱の射る矢の2本目はおとわの人形が射程範囲に入るので、文昇さんが微妙に警戒していた。そして宇都宮公綱と戦う楠木正成は飾り人形のような美麗さで、最後に出てくるだけある立派なものだった。

この後半は千歳さんが大変に頑張っておられた。この公演の出演者一番の熱演ではと思わされた。「人形見てるより千歳さん見てるほうが面白いらしい」と聞いていたが、確かに面白かった。

あとは勘彌さんが武家の嫁さん役をやっていたので満足。個々の性格の方向性はどうあれ、貴人・武人の娘役は勘彌さんにやって欲しい。独特の「生まれながらにしてお前らとは身分が違う」感が漂っている。ああいう身分あります系の気品感は結構難しいものだと思う。

 

『楠昔噺』、昔話や節句にちなんだエピソード構成のみならず、話そのものも聴き応えがあり、文楽らしい話で面白かった。三段目のみの上演だが、短い中にも大きなストーリーのうねりや文楽のエッセンスがたくさん込められていると感じた。そして出演者も大変に豪華で、この4月公演の一押し演目だと思う。

 

 

 

『曾根崎心中』。 

2月の東京公演で観たばかりなのでどうかなと思ったが、色々と発見があった。『曾根崎心中』って名前が有名だから初心者向けっぽいけど、話が簡素すぎるため見所が出演者各個の芸になってきてむしろレベルが高い演目のような気がする。しかしながらその意味でまさしく出演者各個の芸を楽しめた回だった。

お初役は2月東京と同じく勘十郎さん。2月東京は超情熱的で超強火なお初で観客を圧倒していた。あの調子で相手役の徳兵衛が清十郎さんだと、清十郎さんは絶対食われるだろうなと思っていた。清十郎さんは絶対張り合ってこないだろうし。しかし今回はその情熱の炎は影を潜め、可憐で儚いお初像に振っていて驚いた。やはり相手役によって演技を変えているんですね。2月東京では古典作品といえども、こんな解釈や演技で普通のストーリーを新しく見せる人がいるんだと大変に驚いたが(それは相手役の玉男さんも含む)、今回の透明感のあるお初の演技にも驚き。個人的にはこちらのほうがストーリーから受けるお初のイメージに近い。ちょっとしたしぐさの一つ一つが細やかでかわいらしく、視界のそこだけ異様に解像度が高く感じた。お初だけ4Kみたいな。甘える仕草がとくに念入りで、かわいかった。

清十郎さんの徳兵衛は、いかにもちょっとした歯車の狂いで自殺に追い込まれそうな、細やかでしなっとした若者の印象だった。人形の顔が白い胡粉で塗られているからだけでなく、印象そのものが青白い感じ。遅かれ早かれこうなるというか、社会に適合できなさそうな清楚な雰囲気だった。死ぬ前からもう死んでいるような、そんな徳兵衛の胸に顔をうずめてこすりつけているお初のほうがちょっと姉さん女房っぽい。お初はひとりでも生きていけるが、情にほだされて一緒に死ぬみたいな……。

お初の全体的な方向性以外にも2月とは違うところがあって、特に天満屋の上り口でお初が徳兵衛を打掛の中に隠してやりとりするところは結構印象が違った。2月は打掛の中は二人だけのプライベートな空間で、まるで外界から切り離されているかのような色っぽい雰囲気だったが、今回は徳兵衛の仕草がシンプルで、芝居として見せることを優先しているように感じた。あるいは固いとも思ったが、それゆえの清廉さはいかにも死にそうで、2月よりもプラトニックな雰囲気。人によって、あるいは配役の組み合わせによって演じ方は違うのだなと感じた。

そんなこんなで今回のお初と徳兵衛はちゃんと心中しそうなカップルになっていた。実際に刺すシーンまでやっていたからだけでなく、もう死ぬしかない感が出ていた。

それと今回の『曾根崎心中』は太夫・三味線が大変豪華で密度が濃い。私のお気に入り・津駒さんは天満屋に出ていて一番いいとこだったが、ちょっと不安定で本領発揮じゃなかったみたい。また別の機会によく聴かせてもらいたい。

ところで、メインキャストではないが、生玉社前でワイワイやっているツメ人形たちには大変なやる気を感じた。『楠昔噺』の徳太夫住家の冒頭で物売りにまとわりつく近所の子どもや第一部の『菅原伝授手習鑑』寺入り〜寺子屋の段で登場するアホな子どもたちもそうだけど、今回の公演、なんだかツメ人形がやる気ある。

 

↓ 2月東京公演『曾根崎心中』の感想はこちら

 

 

今回は一泊ということで時間に余裕があったため、観劇前、大阪市内の近代建築巡りに連れて行っていただいた。中之島・北浜に残る戦前の建物はいまも現役として使われているところが多く、たくさんのお客さんで賑わっていて面白かった。

f:id:yomota258:20170420021715j:plain

 

 

*1:弓は小道具で弓道用のものとかではないので、安全の範囲で飛ばしていた。鎧人形に当たってはいない

映画の文楽 2 『文楽 冥途の飛脚』マーティ・グロス監督(1979)

東京都写真美術館でのデジタルリマスター版上映。

f:id:yomota258:20170325004331p:plain

  

記録映像のようで記録映像ではない、不思議な映画。海外向けに製作されたといういきさつのため、日本では一般の劇場公開はされず、特殊な企画上映でのみ観られる作品(ソフトは発売されています)。『冥途の飛脚』を抄録ながら文楽公演の上演ほぼそのままに映像化したような内容で、ニュアンスとしては記録映像とドキュメンタリーの中間だろうか。バックステージ等の映像はなく、純粋に舞台映像に徹しているが、単なる上演のようすを撮った映像、でない何かがこの作品にはある。

 

本作の最大の特徴は、「芸」ではなく、あくまで「芸と人」あるいは「文楽とその人」を撮っているという点。本作では太夫、三味線弾き、そして人形遣いの表情が真正面から精緻に写し出されている。

それぞれの段の冒頭、人形が出てくる前の部分は、床を真正面からとらえた映像。一番最初の淡路町の源大夫さんは目を輝かせ、表情豊かに一心に語っておられる。語りは盛り上がっていても鶴のようにすうっとした表情で、しかし突如見台を叩いてびびらせてくるのは越路さん。新口村の住大夫さんは後半にいくにつれだんだん汗をかいてきたり。三味線弾きさんはみな、カメラ目線のようでいてカメラ目線ではない、顔をあげてまっすぐ正面、どこか遠いところを見ながら静かに演奏している。そして人形の撮り方も特徴的。人形だけでなく、出遣いの人形遣いの姿が常にトリミング内に入るように写されており、かなり人形遣いの顔寄りになるカットもある。みなさん別に表情はさほどないのだが、あんまり表情がないということが写っている。

個人的にはこの撮り方、結構、普段の公演を観ているときの視界に近い。基本的には集中していると人形しか見えないとは言え、一応人形遣いも見ているし、時折床に目をやると太夫さんが人形以上に盛り上がっていたり。それで言うと、逆に自分が普段どこを見て観劇しているかわかる部分もあった。例えば、映像がいきなり太夫さんや三味線さんに切り替わるとはっとして、やっぱり自分は普段はずっと人形を見ているんだなと思ったり、メインで忠兵衛が芝居しているシーンでも、この映画では忠兵衛が映りっぱなしになっているけど、観劇時の自分は無意識にそれを受けて何らかの反応をしている梅川を見ているので一瞬違和感、など。本作には引きの映像がほとんどないので、ある人形の芝居を受けて相手の人形がリアクションする様子はほとんど写っていない。このリアクションで心情が読める部分もあると思うのだが。そこは実際の文楽公演の雰囲気とは違うかな。

また、本作は実際の劇場ステージでの撮影ではなく、撮影所のスタジオで舞台セットを組んで撮影されている。一見ほとんど上演そのままを撮っているようだが、そうではない。本作の映像は、常に舞台を端整に真正面から見たアングルから撮影されている。すなわち実際の客席からの見え方ではない。人形は常に真正面に向かって演技をするが、広いステージの上ですべての演技に対して真正面から見られる客はいない。この映画のアングルは、空想上の文楽鑑賞の理想アングルである。ただし客席から見るよりカメラ位置は高めで、身長高めの人形遣いのみぞおちくらいの高さに設定され、封印切のところなどは小判がこぼれ落ちる蓮台*1の上もよく見えるようになっている。

それと私がこの作品の特徴だと思っているのは、「空間」の捉え方が実際の文楽公演とは違うということ。実際の公演では屋外も居室も次の間も、すべての空間がシームレスにつながっており、人形はそこを自由に行き来する。エセ日本文化論な言い方になるが、これは、日本家屋の仕切りは曖昧であるという特徴を写し取ったような空間設計だ。しかし、この作品では、屋外・居室・その次の間でカットが切り替わり、絵のつながりも断絶されて、明快に別の空間として撮られており、もともとの舞台にあるシームレスさを意図的に排除しているように見える。実際には常に真正面から撮るというアングル設定とセットを組む都合上だとは思うが、強い印象を残す。それと、いまの本公演(文楽劇場国立劇場)とくらべると人形がみんなきゅっと寄っていて、ステージがかなり狭く見えるのだが、これは当時の文楽公演のステージの大きさによるものだろうか。人形側の照明が暗いこともあって、ちいさな小屋の中で人形が動いている魔術的な雰囲気がある。

そういえばこの映画、足拍子の音が入っていない。実際に文楽公演を見ていると、足拍子の音って大きなアクセントになっている気がするが。なんで入ってないんだろう。時代物じゃないからまあいいかということかしらん。

 

 

人形で印象的なのは忠兵衛(初代吉田玉男)。本作は、新口村以外は忠兵衛メインで撮影されている。淡路町の段で自宅周辺をうろついているときは結構瑞々しいというか、ヒヨっとした印象なのだが、羽織落とし〜封印切〜新口村は結構大人びた印象で、2月に観た公演での忠兵衛とは印象が違っていた。越後屋ではわりあいすっとしているけど自宅周辺で気まずそうにしているいたたまれない姿、石井輝男監督の『異常性愛記録 ハレンチ』の若杉英二を思い出した。

と書いたままでは玉男さんファンの方に刺されそうですので、ご説明いたします。『異常性愛記録 ハレンチ』はうら若いバーのママ・橘ますみにつきまとう粘着ストーカー・若杉英二がいかにド変態かということをしつこく描いた、まじで気が狂った異様な映画。若杉英二は橘の前では何を考えているかわからない、社会性という枠を逸した怪物として描かれているが(まず口調が「〇〇だよ〜ん」)、おもしろいのは橘以外の人(自分の妻、橘の母、伯母)が介入してくると途端に真顔になり、小心者の姑息な社会性のある人間に立ち返るという点。彼の正体は老舗染物会社の社長なのだ。ここだけが映画として異常にまともで、そこ以外全編狂っているこの映画のスパイスとして効いている。って、なぜか石井輝男褒め文章になってきたが、演出の区別の方向性は違えど、忠兵衛も自宅(しかも養子先)とそれ以外で雰囲気が少し違うのは面白い。

あとは2月公演の主役ふたり(忠兵衛=吉田玉男 当代、梅川=豊松清十郎)より主役ふたりが抱きつくのが速くて、やはり慣れてる人同士だと間合いを読むのが速いんだなと思った。とんとんとポーズをとっていくテンポが速く、メリハリがついていた。

 

 

本作は、本来なら上演時間3時間程度のところを抜粋編集で1時間半程度におさめられている。大きく切ってあるのは、淡路町の冒頭で忠兵衛が出てくるまで(番頭の接客と妙閑のお小言*2)、封印切の冒頭で禿が弾き語りをする前後。新口村は梅川のクドキの頭、捕物が来るところの途中など詞章を行単位でところどころ切ってある気が。リズム的にいま何か抜けたなとは思うけど、カットの切り替わり目なので普通に見る分にはそこまで気にならない。

ところで今回、会期中に2回観に行ったんですけど、2回とも越路さんが語っている封印切でド爆睡している人がおられて笑いました。本公演でも一番うまい人のとこで爆睡してる人おられますけど、やっぱり心地いい浄瑠璃が耳に入ってきて周囲が薄暗いと、人間、眠くなっちゃうんだなーと思いました。とは申せど私も人が切腹してても寝てることがしばしば(ソフト表現)あるので、人様のことは言えませぬ。

 

 

┃ マーティ・グロス監督トークセッション(2017.3.24)

この日は英字幕版を上映後、来日中のマーティ監督によるトークセッションが行われた。トークセッションはそのほとんどが会場との質疑応答形式で、以下にその内容をまとめる。監督は日本語超ペラペラなのでトークもほぼ日本語だったが、お話一部難しい部分があり、私がうまく意味を掬えていないところがあると思う。ご容赦ください。文中お名前すべて当時です。

f:id:yomota258:20170325195825j:plain

Q. 製作後32年間、日本国内での劇場上映がなされなかった理由は?

本作は海外上映を目的として製作し、日本国内上映は考慮していなかった。なぜかと言うと、当時(1979年)映画はフィルム製作の時代。35mmと16mmで、英語字幕版と日本語字幕版(英字幕がないもの)を両方製作するには予算がかかりすぎるため。日本人のかたが英字幕を見ても「うん?」となるでしょう?

 

Q. 文楽との出会い&製作のいきさつは?

陶芸の研究のため、1970年に来日した。窯元へ弟子入りし、陶工の見習い実習をした。そのとき、ヒッチハイクで日本中を巡った。常滑の窯元で修行していたので、そこから大阪、九州へ。大阪へ行ったとき、文楽を観なければ日本の伝統文化を勉強したとは言えないと思い、朝日座へ行った。朝日座というのはいまの文楽劇場の前身。最初はまったくわからなかった。1976年に記録映画『陶器を作る人たち』を作り、そのあとどうしようかと思っていたら、バーバラさん(?)に「文楽に取り組んでみては」と言われた。大阪に滞在し、朝日座に1ヶ月ほど通い、楽屋にも通い、そして製作のための寄付を集めた。大変だった。

出演者は自分で選んだ。当時は越路さんが一番えらかった。越路さんはすごいgentlemanで、???にも連れて行ってもらった(聞き取れず)。製作にあたっては越路さんに相談した。人形の配役は、簑助さんなら女の役とか、決まっているものがあるでしょう? そういうものに従って決めていった。

文楽は手品。何十回見てもわからない。何をどうしているという仕掛けはすべて知っているはずなのに、どうやっているのかわからないすごさがある。(はじめ手品という言葉にピンとこなかったのですが、前後の話から察するに、magicというニュアンスで言われているようでした)

 

Q. 文楽の映画というのは滅多にないが?

栗崎碧さんが2作撮っている。1作目は完成したが(『曽根崎心中』)、2作目は頓挫した。しかし、自分は栗崎さんの映画はあまり好きではない。理由は、セット撮りで、義太夫の意味がないから(床が写らないから)。文楽は人形の舞台の横に義太夫の床が見えている。それが大事でしょう?

 

Q. 撮影の方法は?

3日間で、初日の午前中に義太夫の録音、午後に床の映像の撮影。次に人形。カットごとに撮るのだが、いきなり途中からはじめても人形遣いはすぐにswitchできる(スタートがかかると即座にテンションをあげ、そのシーンの人形の演技を始められるというニュアンス)。玉男さん、簑助さん、勘十郎さん、すごいと思った。

床のみをずっと撮影した映像はあるのかというと、音はすべて撮っているが、映像はすべて撮っているわけではない。なぜなら、当時はフィルム撮影で、35mmは最長9分しか撮れなかった。そして、フィルムは大変高価だった。未編集フィルムは残っているが、completeではない(一段まるごと撮ってあるわけではない)。いまはNHKがすべて撮っていると思う。

 

Q. なぜ『冥途の飛脚』なのか?

自殺する話は嫌だった。自殺ものというのは、最後にばたっと倒れるというような……(心中ものを指しているようだった)。海外では日本ものと言ったら、自殺ものを連想するだろうけど。文楽を題材にした映画を海外ではじめて公開するにあたって、親子ものにしたらみんなによくわかると思った。『冥途の飛脚』には親子の愛が描かれているでしょう?(新口村の段のこと)

 

Q. 武満徹氏が音楽監修にクレジットされているが、曲を提供しているわけではないのは?

武満さんは環境音を撮った作品を通して知り合った(このあたりよく聞き取れませんでしたが、職人たちのたてる音を題材にした映像をマーティ監督が製作していた→それを武満さんが観て知り合いになったということっぽかったです)。武満さんは現代音楽の大家。武満さんは天才で、邦楽にもとても詳しかった。越路さんについての文章も書いていた。この映画を製作するにあたり、出資者を募るため有名な人を起用せねばならず、友達だった武満さんに頼んだ。武満さんはカナダまで来て、編集作業に立ち会ってくれた。

 

Q. 本作は『冥途の飛脚』すべて(上演時間3時間程度)ではなく、抜粋となっているが(87分)、収録する場面はどのようにして選んだのか?

まず先にカナダで台本を作った。台本は、床本と現代日本語訳を左右に併記したもの。それを見て撮る場面を選んだ。また、最初、JVCに提供してもらったビデオカメラで映像を撮っておいて(実際の公演かリハーサルかは意味が取れなかった)、その中から収録する場面を「ここからここを撮りましょう」と検討した。当時、videoはとても高価だったため、太秦の撮影所(大映京都撮影所)にはvideoが入ったことがなくて、ビデオを初めて見たスタッフの方々が驚いて集まってきた。videoはこういう使い方にはとても便利。

 

Q. 文楽を撮るときに大事にしたことは?

記録映画ではなく、storyにしなくてはならないと思った。文楽義太夫)はstorytellingで、storyが大事だから。angleはいつもの舞台のangle(真正面)。技術的には斜めからの映像も撮れるけど、それでは文楽の舞台らしさが失われてしまうので、まっすぐ見たときだけの映像にした。画面下部にマスクをして、映像の中ではなく黒帯部分に字幕をつけた*3(理由として、文楽を撮るにあたり映像にかぶってしまってはいけないから、という意味のことをおっしゃっていたが、うまく意味掬えず。すみません)。

 

Q. 字幕翻訳者について

英字幕作成者は黒澤さん、溝口さんの作品の英字幕も担当した方(外国の方にのみ渡された英語版解説リーフにその方の説明が載っていたらしいが、私は日本語リーフを受け取っていたのでお名前確認できず)。戦前から活動されていた方で(?)、当時日本映画の英字幕といったらその人だった。全訳せず、字幕で追いきれる分量に要約して短くしてくれた。この英訳にあたり、カナダで日本人留学生らの協力を得て、床本の文章をローマ字に直してtypeして毎日翻訳者に送っていた。最後にドナルド・キーン先生に確認してもらったが、間違っていたのは1箇所だけだった。(司会の配給会社の人よりコメント:英字幕には監督も参加しているとのこと)

 

Q. 歌舞伎や能・狂言には最近、新しい風が吹いていると感じる。文楽にはそのようなものはあるのか?(日本在住の英語圏出身者の方からの鋭すぎる質問)

文楽は人数が大変少ないので、他の伝統芸能のように毎日稽古して他のstageを勤められるという環境ではない。文楽は能のように大きい世界(業界)ではないので。60〜70人程度しかいないのではないか。しかし素浄瑠璃公演にも取り組んでいるし、小さいstageにもたまに出演しており、新作も時々はやっている。(客席内の「先生」と呼ばれている方から、シェークスピアなどにも取り組んでいますとの説明)

※ここは話に割って入りたくなった文楽ファンのお客さん、いらっしゃるのではないだろうか。あとで説明に入った方も最近は文楽がどうなっているかよくわからないとおっしゃっていたので……。技芸員さんはいまはゆっくり増えて、80人くらいいらっしゃるはずというのと、歌舞伎や能より興行規模は小さいが、最近は本公演以外の小さい公演もよくあり、新作についても出来る範囲で取り組んでいるという話をどなたかしてあげて欲しかった。

 

Q. 人形が出遣いで、人形遣いの表情をクローズアップで撮っている理由は?

人形と人間の関係を見せなくてはならないと思ったから。(それが文楽でしょう?というニュアンス)

 

 

 ■

監督は、文楽はstoryが大切であるということを繰り返しておられた。このstoryは、日本語でいう「ストーリー」ではなく、「義太夫節として語られること」という意味、あるいは英語ニュアンスでおっしゃっているように思った。私が監督のお話でとても共感したのは、「文楽は何十回観ても“わからない”、仕掛けはすべて知っているのに、どうなっているのかわからない」という点。文楽はシンプルな要素で構成されている。人間の声、簡易な構造の楽器、同じく簡易な構造の人形、どれもタネはものすごく簡単で、なーんだと思うのだが、そこに芸が加わると、まったく違った世界が出現する。

英語圏のお客様で、“義太夫”の意味がわからない、英語でいうと何?という質問をされた方がいらっしゃって、監督は“chant”だと答えておられたのも印象的だった。周囲に文楽を観るというと、“義太夫”って何ですかということをよく聞かれる。しかし私はいつもこれにうまく答えられない。要するに自分でも“義太夫”が何かをわかっていない。ストーリー(浄瑠璃)に節回しをつけて語る音曲で……と、余計わからなくなるようなことを答えてしまっている。日本語だとどう答えたらいいんだろう? 

最後の質問に関して。質問者の方は「あらゆる人形劇は人形を人間の動きに近づけようとするが、文楽はつねに横に顔出しの人形遣いがいて、人形は人形であることを主張してくる」とおっしゃっていたが、そう感じる人もいるんだーと思った。実は私は文楽に対して真逆の印象を持っていて、初めて文楽を見たとき「人形遣いって、顔出しで真横に立っていてもほとんど存在感ないんだな」と感じた。そして、「文楽の人形の動きって、人間のそれをトレースしているわけじゃないんだな」と。このように、トークセッションは監督と会場が対話する形式だったため、会場に来ているいろいろなお客さんの感想を聞けたのは面白かった。ただ、反応から推察するに、実際にはお客さんの半数以上は文楽ファンだろう。あとは、伝統芸能に興味がある系のかた、記録映像に興味があって来たらしい監督目的の方のようだった。

しかしこれ、せっかくトークイベントをやるなら技芸員さんをゲストに迎えて欲しかったな。メインキャストは亡くなっている方が多く、ご健在の方も本公演や特別なイベント以外にはお出ましにならない方ばかりなので難しいかもしれないが、人形の左や足で出演されていた方は現在のベテランの方のはず。東京での上映だから難しいだろうなとは思うけど、出演者側からのお話も伺いたかった。

 

 

おまけ

トークセッション終了後、ロビーで監督との自由歓談の時間があったので、前々から気になっていた床側と人形(手摺)側の照明の違いについて質問した。

 

Q. 照明について、床側(特に淡路町・源太夫さんの部分)が明るく、人形側が妙に暗いのは何故?

いま見ると、床側は照明当てすぎたなーと思う。人形と別の日に撮ったからねー。色味も場面によって違っちゃってるでしょ。いま撮るならあんなふうにはしないw まあ当時30歳の監督が撮ったものだからw 人形側の照明は、店の中、外(夜)など、場面によって変えている。

 

とのことでした。なるほどw 監督、ご回答ありがとうございました。たくさん人がいたので少ししかお話できなかったけど、足拍子のことも聞けばよかったな。

 

 

■ 

Blu-ray版ソフト

 

  

*1:っていうの? 手すりぎりぎりの高さに設置されている、小道具などを置く黒い台

*2:これをカットしたせいで妙閑役の文雀さんの出番がメッチャ少なくてやばい

*3:本作はレターボックス状態での上映になっており、映像内ではなく、レターボックス下部の黒み部分に字幕が出るようになっている

映画の文楽 1 『曽根崎心中』栗崎碧監督(1981)

大映の女優・栗崎碧(南左斗子)の監督・製作による自主制作映画。普通に考えて、俳優企画の自主制作となれば人間の俳優主演という方向にいくと思うのだが、本作は文楽人形の演技を普通の人間の俳優と同じ撮り方・演出で見せるという驚天動地の映画だった。

  • 曽根崎心中
  • 監督・製作=栗崎碧
  • 撮影=宮川一夫
  • 美術=内藤昭
  • 人形=徳兵衛:吉田玉男(初代)、お初:吉田簑助九平次:吉田玉幸、下女お玉:桐竹一暢、遊女:桐竹勘寿・吉田簑太郎(現・桐竹勘十郎)、吉田玉女(現・吉田玉男)、吉田玉也、吉田玉輝、桐竹亀次、吉田簑二郎、桐竹勘緑、吉田玉志、吉田幸
  • 太夫=竹本織大夫、豊竹呂大夫(五世)
  • 三味線=鶴澤清治、鶴澤清友、鶴澤清介、鶴澤八介
  • 栗崎事務所/1981

 

冒頭、通常の文楽公演のように下手*1の小幕*2がさっと開いて手代忠兵衛と醤油樽を下げた丁稚が入場してくると、カメラが大きく引いていき、そこが劇場のステージではなく生玉神社(生國魂神社)の境内だとわかる。カメラはかなりの引きになって、画面下部は木陰の落ちた地面、そのグランドライン上を人形が歩きまわり、背後には木々ざわめく生玉神社境内の風景と空が広がるという、文楽公演の舞台をそのまま実景に写し取ったような景色を映し出す。人形遣いはすべて黒衣で背景に溶け込んでいる。映像とはまったく別次元でバックに大夫の語る浄瑠璃、三味線の音が流れているが、その姿は映らない。

 

 

人形があたかも本当に地面を、神社の境内を歩いているかのような美術の作りがうまく、実景になじむよう作られた鳥居・灯篭などを入れ込んだ構図もビシッと決まっていて、「文楽を屋外で上演しているように撮ってるのか〜さすが大映出身スタッフで作ってるだけあって映像レベル高いわ〜」と思っていたら、すごいのはここから先。

本作に関してはじめに聞いていた話は「文楽人形を外に出して舞台になった実際の場所で撮ってる」ということで、観る前はてっきり背景書割にあたるものが屋外実写というだけで、ほかは通常の文楽公演と同じように家屋セットは真横アングル、人形が浄瑠璃に合わせてノンストップで演技をしているのを記録映像のように撮っているのかと思ったら、人間の俳優・女優を撮るのと同じようにカットを割り、寄り引きを作り、ときには右から左へ、あるいは奥から手前への移動撮影をおこなって撮っていて仰天。人形を俳優に置き換えるのではなく、俳優を人形に置き換えて通常の実写映画と同じ手法で撮っている。なんでこれを撮ろうと思ったのか、それ自体がすごいわ。製作のいきさつは存じ上げないが、とにかくすさまじい執念を感じる。

というのも、おそらく監督は文楽が好きでこの映画を企画したんだと思うけど、文楽が好きな人は普通は絶対これはやらないと思うから。特に寄りの撮影。人形の顔には基本表情がないため、全身で感情表現の演技をする。人形バストアップ撮影というのは、よく観察できるように思えて、芸の鑑賞としてはその逆、ものすごく見づらい*3。もうひとつ、人形遣いを黒衣にしたのも大変な決断だと思う。*4なんで折角の玉男様簑助様が黒衣やねん!?!?!?てなりますよ。文楽をご覧になったことのない方は、出遣いすなわい「結婚式の新婦の父?」みたいな紋付姿のすんごい普通の真顔のおっちゃんが人形の背後に立ってるのに違和感あるとは思うんですけど、文楽見慣れてくると黒衣のほうが逆に違和感あるんですよ!!! しかしこの作品ではそれらのイレギュラー要素がうまくいっていて、異様な映像空間を作り出している。

 

 

寄りで撮っているもんだから、黒衣姿の人形遣いが完全に見切れて見えなくなっており、まるで人形が生命を得て勝手に動いているようでおそろしい。異様にレベルの高いパペットアニメーションを見ているような感覚。ユーリ・ノルシュテインヤン・シュヴァンクマイエルの映像を初めて見たときのような……作り手のドン引きするほどのすさまじいド執念によって本来魂がないはずのもの=紙に描いた絵や人形に生命が宿ってしまった、本来この世にあってはならないヤバイもん見ちゃった感がある。

特に怖いのがお初(吉田簑助)の寄り。前述の通り、文楽人形には基本的に表情はない。お初の人形の場合は目を閉じる仕掛けがついている程度。よって、首のかしげ方やうつむき加減、肩の表情で感情を表現しているんだけど、よくもまあこんなバストアップで表情が出てるなーと思う。人形がここまでの寄りに耐えられる演技をしていることに驚いた。目を閉じる仕草、首のかしげ方、震える面差し、徳兵衛にそえる手の表情、なにをとっても動きがきわめて繊細で驚く。実際の公演ではたとえ最前列に座っても観客はここまで近づいて見ることはできないし、記録映像でもここまで寄りでは撮らない。こんな微細な表現をしていても、それは人形遣い本人しかわからないだろう。しかも本人は人形を覗き込めるわけではないので、この演技を見ることのできる人は誰もいない。誰にも見えないのにやっているというのがすごいのだが、これはそれをとらえている映像。

f:id:yomota258:20170318224751j:image

↑ 渡邉肇『簑助伝』より、吉田簑助氏とお初の人形(2010年撮影)

 

しかしこれは人形遣いのうまさのほかに撮り方にも要因があって、バストアップになるときは若干高めのアングルから撮っているため肩〜胴体にかけてのひねりの表情も写っており、人形の感情表現がよくわかるようになっている。単に真横バストアップで撮っているわけではなく、人形を撮る工夫がなされている。さすが名匠、宮川一夫と思わされた。

このように人形の技術、撮影の技術ともにきわめて高いためか、芝居をしているのはたしかに人形のはずなのに、これはいわゆる「人形振り」の演出で、俳優に対し人形遣い役の黒衣がついているかのように見える不思議な映像に仕上がっている。通常の公演でも、人形がひとりでに動いていて、うしろについている人形遣いの3人が人形に引きずられているように見えることがあるが、その感覚を映像で再現している感じ。

 

 

徳兵衛(初代吉田玉男)とお初は、ともに透明感のある可憐で儚い印象。すっとしたしなやかな美男美女で、息をしてゆっくり上下する肩や胸元にふっくらとした色気が漂い、人形ならではの濁りの一切ない、限りない透明度を感じる。そしてふたりとも人形のはずなのに大俳優、大女優の風格。日本映画黄金期の大俳優・大女優起用の巨匠映画を観ている気分になる。って、演じている人形遣いは俳優・女優ならそれぞれの最高ランクにあたる人なので当たり前だが。

以前、にっぽん文楽の休憩時間のサービスで八重垣姫の人形が一緒に写真を撮ってくれるというのがあったのだが*5、そのとき写真を撮ってもらったお客さんがスマホに保存した人形との写真を見て、「大女優に一緒に写真撮ってもらったみたい!」と大喜びされていた。その言葉と同じことを、この映画を観て感じた。ものすごくうまい人形遣い(頭の悪い言い方ですいません)は通常の公演でも出てきた瞬間に舞台の雰囲気、そして客席の雰囲気までもさっと変えるようなオーラを放っていて、それは人間でいうと大俳優、大女優の持つそれなんだろうなと。

 

 

■ 

物語構成は近松原作とも文楽現行曲*6とも異なるオリジナルで、生玉社前→観音巡り(浄瑠璃なし)→天満屋→天神森という流れになっている。また、実際の公演ではすべて同じセットのまま進行するシーンでも場所を細かく変えていたり、通常の上演では不可能な回想シーンや風景イメージシーンがちょこちょこ挟まれてきて面白い。

たとえば冒頭部分。普通の文楽公演(生玉社前の段)では「別客に連れられて社前の茶屋に来ていたお初が自分を呼んでいる徳兵衛の姿に気づき、茶屋から出て来て話しかけ、外でしばらく話をしていたら、九平次が通りかかる」という流れになっているところ、本作では「別客に連れられて社前の茶屋に来ていたお初が自分を呼んでいる徳兵衛の姿に気づき、茶屋から出て来て話しかけ、茶屋の屋内に二人で入ってしばらく話をしていたら、外を九平次が通りかかって、徳兵衛が話しかけに行く」という空間を感じる流れに変更されている。徳兵衛が九平次に金を貸したと語る場面は回想シーンとして入っており、通常の上演では観られないオリジナル演技が入っている。

天満屋の段の冒頭では花街を客や幇間、女郎、下女のツメ人形*7が賑わしく歩き回るシーンが入り、当時の色里の様子をありありと伝える。天満屋内も通常の文楽公演のセットにある店の上り口の部屋のほか、女郎が化粧をなおしている部屋(店先の格子の中?)、店の二階など数カ所のセットが組まれていて豪華。天満屋屋内は深いつやのある木のしつらえが印象的。

天満屋では、上がり口に腰掛けたお初の、その打掛の中に隠れた徳兵衛が心中の意思を彼女に伝えるため、お初の足を手にとって喉に当てるという有名なシーンがある。ここはみんなが期待するシーンのためか、結構文楽公演の見え方に近い、真横アングルの様式美的な撮り方を基調としていた。『仮名手本忠臣蔵』を映画化した『大忠臣蔵』(松竹/1957)*8という映画があるのだが、この作品、途中までは脚本が『仮名手本忠臣蔵』なだけで普通に実写映画の映像文法で進んでいくものの、一力茶屋の場面にくるといきなり演出が歌舞伎になり、同じくカメラが真横アングルFIXになるのだが、妙な引き絵になりすぎていて、他のシーンとのつながりにおおいに違和感があった。が、本作では天満屋のこの真横アングルの場面に違和感はなく、寄り引きのカットを織り交ぜて一連の流れの中に溶け込んでおり、うまいなと感じた。このシーン、よく見ていると、お初のバストアップのカットでも徳兵衛がちゃんと打掛の中にいる。映画ならお初役の女優さん単独で撮影すると思うが、あの人ら的にはたとえカメラの画角に入っていなくてもいつもと同じようにやるということなのか、こだわりを感じる。

最後に心中する場所、天神森はふたたび屋外ロケ。霧が立ち込め、草木生い茂る暗い池のほとりをとぼとぼと歩く二人を斜俯瞰から引きでとらえたカットでは、背景が暗いこともあって人形遣いの姿が完全に闇に溶けて消えており、人形が本当にひとりでに動いているように見える。人形だけを自然に目立たせる照明がうまい。

 

ちなみにこの映画独特の演出での私のお気に入り所は、天満屋の夜の場面。吊行灯の下で寝ている下女(桐竹一暢)を二階にいるお初の目線の俯瞰アングルで撮っているシーン。お玉がふとんからはみ出すようなものすごいガサツな寝方をしていてかわいい。通常の文楽公演ではお玉は客席側に小さい屏風を立てて寝るため、客席からお玉の寝姿は見えないのだが、こういう気持ちで遣ってらっしゃるのだな。

あとは人形にあわせた移動撮影が斬新すぎてびびる。移動撮影って映画ではごく普通の手法だが、公演を普通に見る分には絶対ない見え方だし記録映像でも絶対ありえない、またパペットアニメーションでもほぼ不可能の技法なので、人形でそれをやるとこう見えるんだというヴィジュアルショック……。

また、前述の通り本作は普通の実写映画のような撮り方になっているので、人形の振りは必ずしも通常公演と同じわけではなく、映画的空間でカメラに向かって演じるためのオリジナル演技がつけてある。人形遣いさんたちもよくやってくれたなあと思う。カメラに目線を向けて演技をするのもすごいけど、カメラに左遣いが映らないようにしていると見受けられるカットも多いので、カットを割ること前提で演技プランを工夫しているんじゃないかしら。

シーンにあわせた光を作る照明の焚き方も特異。文楽は通常は常灯のまま上演するので、だいぶ雰囲気が変わって見えた。とくに天満屋の内部はロウソクの明かりを模したオレンジ色の薄暗い照明で、人間主演の時代劇よりも凝っているくらいだった。

 

 

本作は、存在は聞いていたが観る方法がなかったものの、機会を得て鑑賞することができた。機会を与えてくださった方々に深く感謝申し上げます。

一度はスクリーンで観たい映画だが、昨年のラピュタ阿佐ヶ谷の芸事映画特集ではこれはかからなかった*9。上映用フィルムが存在しているのであれば、シネマヴェーラ渋谷の「妄執・異形の人々」特集あたりでやってほしい。間違いなくあのカテゴリの映画。

 

 

*1:向かって左側のこと

*2:舞台左右の人形の出入り口にかけられた、のれん状の小さな幕のこと

*3:文楽の記録映像は基本引き目。寄っても人形はひざ以上は写っている+人形遣いも同時に写す撮り方

*4:1体の人形に対し3人ついている人形遣いのうち主遣い(人形のかしらと右手をあやつる人。この人のみ配役表に名前が載る)が顔出し&紋付袴姿で出演すること。文楽公演は基本的には出遣い

*5:八重垣姫は上杉謙信の娘=大名の娘で品格の高い役なんですけど、このとき姫を遣っていたのは実際の公演で八重垣姫をやるような格の方ではなく若手の方だったせいか、姫が若干キャピっていて、「町に遊びに出た姫と入れ替わって姫の姿に化けた町娘」みたいになっていて可愛かったです。

*6:昭和30年の復活公演以降のアレンジ版

*7:モブキャラ。小ぶりな一人遣いの人形

*8:http://www.kusuya.net/大忠臣蔵

*9:文楽からはマーティ・グロス監督『文楽 冥途の飛脚』が上映された