TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 5月東京公演『桂川連理柵』石部宿屋の段、六角堂の段、帯屋の段、道行朧の桂川 国立劇場小劇場

清十郎ブログが久しぶりに更新されていた。恐るべき連投で。
書いていたけど、投稿できていなかったのことだった。状況はよくわからなさすぎだが、良かった良かった。

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第三部、桂川連理柵、石部宿屋の段。

あらすじはこちらから。

長右衛門が、部屋に逃げ込んできたお半を布団に寝かせてやるところ。玉也さん長右衛門は、お半だけ布団に入れて枕を当ててやり、自分は布団の外にはみ出て、手だけ布団にかけていた。お半は長右衛門が寝る場所も作るためにちょっと布団の端に寄ってるんだけど、最終的に調整されて?、真ん中に寝かされていた。玉也長右衛門、社会性ある!と思った。(正確には「玉也には社会性がある」。長右衛門に社会性はない)
玉男様長右衛門は、最初から自分も一緒に布団に入って、お半を思い切り抱きしめていた記憶がある。社会性絶無だと思った。
ちなみに今回は、枕に紙がかかっていなかった。そういう小道具の扱いは、誰が決めるのだろう。なお、朝の場面の簪落とし/指しはアリだった。

長吉〈吉田玉佳〉は、ほかの人形よりフレーム数が8倍はありそうな動きで、せわしないソワソワとした動きが不気味だった。ひとりだけ動きがすばやい。こういう虫、これからの季節、台所に、おる。と思った。カサカサカサカサカサと高速で柱によじ登ったり、ナナナちゃんみたいにピョカアアアアアッッッッと折れ曲がるのが怖かった。
長吉さんは、いわゆる「年齢不詳」のお顔立ちで、老け顔の若年者なのか、童顔の中高年なのかわからないところも不気味だが、今回、気色の悪い動作によって、その顔立ちがより一層怖く思えたのも良かった。(実際には18歳の設定です)

 
 
 
 
 
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六角堂の段。

やはり、勘彌さんのお絹は最高だ。なんともいえない美人感、お色気奥様感がある。出てくるだけで、有難や、尊や。私が隣の家に住む男子高校生なら、模試の点が200点は下がる。
お絹は、頭巾をした状態での姿の見せ方がうまいと感じる。頭巾をかぶっていると、顔から肩が覆われてしまい、首の角度による表情が出にくい。配役された人のレベルによっては、何をやっているのかわからない場合も多い着付けだ。しかし勘彌さんの場合、たとえばうなずき演技は、首だけちょっとコックリではなく、上半身全体、胸から上全体でかがむようにするなど、強いニュアンスを入れているので、頭巾姿でも何が言いたいかがわかりやすく、かつ優美に見えるのが特色だと思う。勘彌さんは女方の人形の基本的な姿勢や所作を、かなり意識して工夫していると思う。姿勢自体の艶やかさは突出していて、現状、誰よりも美しく、お色気では簑助さんにつぐ。こういう役はそれがより活かされると思う。
お絹役の場合は、若干ラフなところもあるのがいい。勘彌さんに時々発生するあのラフさ、どういう基準でラフ化するのかは正直わからないところもあるが、美人の人の夕方のほつれ毛(おしゃれ後れ毛とかじゃなく、意図せずほどけちゃってるような)めいたものがある。

 

玉志さんの儀兵衛は、目が全く笑ってないのが良い。人形そのまんまの、死んだ目をしている。そして、動きがせわしないのもあいまって、虫っぽいのがいい。背中の模様が人面になっている虫が手足をジタバタさせてるかのような、独特の不気味さがある。
今回は、「手付け」と称してお絹にタッチするセクハラが、ちゃんとセクハラに接近していた。良かった、と胸をなでおろした。相変わらずグヘヘ感は全くなく、お絹に全然興味なさそうなのはどうなんだと思わなくもないが。
なお、この「手付け」、現行の床本は改訂が入っている。原作の原文だと「そんなら手付けにお口を祝はう」で、「ムチュー❣️」としようとしているということなので、ふとももタッチより、吸い付いたほうがより正確ですね。誰か玉志さんに言ってもらえませんか?

 

 

 

帯屋の段。

勘壽さんおとせ&玉志さん儀兵衛は、かなり、親子オーラがあった。玉志さんは常に浄瑠璃ジャストで演技をしているが、今回は勘壽さんも間をきつく詰めたセカセカ系のジャスト演技で、動きが完全に同じだった。勘壽さんおとせは、愛嬌があるようでないような、こざっぱりした感じが良い。重みを乗せないこのさじ加減、かなりの技巧。バッタっぽい。
なお、儀兵衛がおとせの肩もみをする前、プチイ!プチイイッッ!!と白髪抜きをするのが良かった。抜ききれへんやろ。あと、中盤でおとせが一瞬やる阿弥陀様ポーズ、あまりに良すぎる。一瞬しかやらないのが、なにより、良い。

 

帯屋前半の最大の見せ場、儀兵衛がお半から長右衛門への手紙を読み上げるくだりと、呼び出された長吉の弁明のくだり。今回はこの部分の質感がなんともいえない味わいで、良かった。素朴すぎず、かといって堅苦しくなりすぎず。品のある可笑しさが、文楽らしい。

玉佳長吉の鼻水は怖い。なんかこう……本物の鼻水のように、「たら〜っ…」と垂れてくるんじゃなくて、「ピョコッ!!!!!!!」といきなり出て、即引っ込む。鼻水が意思を持った別の生き物のようで、恐怖を覚える。長吉の鼻に寄生しているエイリアン的な……。色がきゅうり色なのもヤバイんだよねえ。焦点合ってなさそうな、開放感あふれる目元も怖い。
言ったらいかんことかもしれんが、玉佳さんの長吉には、玉男様に対する六助のようなものを感じた。

それにしても、「帯屋」での長吉の鉢巻の結び方。ここ数年の上演を見ていると、配役された出演者によって違っているのですが、それぞれ狙ってオリジナルの結び方をしているのでしょうか。師弟関係の継承を研究したいところです。

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2022.5.23更新。巻き方、日替わりなの!?

 

玉志儀兵衛は至極「まともな人」って感じ。この段での儀兵衛は、事実、正論しか言わないが、玉志さんの生来の生真面目感がキラキラ系の役とは別の意味でうまく活きていた。所作のせわしなさや手数の盛り込みは、勘十郎さんのチャリ役に近い。複雑な動きををキッチリ整理してすっきりと見せ、浄瑠璃オンタイムに乗せてやっていくのが、玉志さんの特徴。床と人形の間合いがキッチリ合っていないと、この段の可笑しさ、出ない。そこが矜持なのだろう。
帯屋の儀兵衛は、長吉に脇腹のこむらがえりを治してもらったときの真顔が特に不気味で、良かった。

玉志さん儀兵衛と玉佳さん長吉は、両者とも、人形らしい愛らしさがあった。主役級とは異なる、いかにも脇役という滑稽さ、しょうもな感があるのも良い。息がぴったり合って、一緒に踊る部分は、初日から振りがちゃんと合っていた。二人でちょっかい出し合う部分もうまい。儀兵衛の最後の箒倒し反撃は、長吉に若干無視されていましたが! 玉佳チャン反応してッ!と叫びそうになった。

そしてなにより、呂勢さん、清治さんの演奏は愛嬌に富み、登場人物やこの曲の持つ独特のチャーミングさを味わうことができた。いかにもおもしろおかしげにこしらえるより、むしろこのような温かみやのびのびした雰囲気こそ、古典らしくて、良い。呂勢さんって、平生は別にのびのびしたタイプだというわけではないので、この段を全く期待していなかったのだが、よくやったなあと思う。やりすぎないように心がけてそうな気配だけど、なんなら、もっと盛ってもいいと思う。

 

帯屋の後半は、どうなのか……。繁斎が喋るところまではいいけど、それ以降。特に、長右衛門の変化のなさは、どうなの。長右衛門がお半の書き置きを発見してからのくだりに、人形も床も驚きとドラマティックさ、盛り上がりがない。そこが予定調和になってしまうのは、かなり、どうなのか……。
床はもう諦めるにしても、人形に関しては、お半が煙草盆に手紙を入れていったのを長右衛門が気づくきっかけにもう少し工夫がないと、物語の静から動への変化がなさすぎだと思う。そして、長右衛門が自分で自分を抱きしめるところ、お半の顔を見てを抱きしめるところに、彼なりの感慨がなさすぎやしないかという点も気になった。長右衛門は基本じっとしていて、受け身での言動が多い。こういうところでのちょっとした動きに、長右衛門の人間味(悪い意味での、も含め)を出していかなくてはいけないのではないかと思う。

お半役の清十郎さんは、のれんからの後ろ向きの出が、以前拝見したときより安定していた。単なる少女の可憐さにとどまらず、やや異様な雰囲気があるのは、清十郎さん独特のもの。お半は登場人物のだれよりも深く思い悩んでいる設定なので、ある意味、よく合っていると思う。
ただ、清十郎さん云々よりも、清十郎さん(お半)に影響を与えるほかの要素の微妙さが気になる。お半も、「どうしたいの?どうしたいの?」と、ちょっとソワソワしているような(?)。お半にあまり集中できなかった。

 

ちなみに、配役表を見ると繁斎役は清五郎さんなんですが、帯屋の世界にあまりになじみすぎていて空気と化し、繁斎がいたことは覚えているんですが、清五郎さんが存在していたことに気づきませんでした。清五郎、今月、どこにおった???状態です。あんなになじむこと、あるか? 一種のミラクルを感じました。

 
 
 
 
 
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道行朧の桂川

床、というか三味線、なんでこんなことなってるの??? しかも、こういう状況、今回が初めてではないと思うのだが、反省とか対策はない…ってコト!? 私、ハチワレになりそう。

 
 
 
 
 
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  • 人形役割
    娘お半=豊松清十郎、下女りん=吉田玉路、丁稚長吉=吉田玉佳、帯屋長右衛門=吉田玉也、出刃屋九右衛門=桐竹亀次、出刃屋の女中=吉田玉延(前半)吉田玉峻(後半)、女房お絹=吉田勘彌、弟儀兵衛=吉田玉志、母おとせ=桐竹勘壽、親繁斎=吉田清五郎

 

 

 

第三部は、安定している人とそうでない人の落差が大きいというのが、一番の印象。六角堂から帯屋の前半までは面白かった。登場人物の個性がよく出て、世話物らしい賑やかさを楽しめた。以降は、特に床にはガッカリした。全般的にどうにも年寄り臭いのも気になる。ここが年寄り臭いと、老人の妄執めいて、単に不気味な話になってしまうと思うのだが……。

ただ、長右衛門の人形に関しては、玉也さんの責任ではなく、配役の問題だよね。長右衛門役は、その人の持つ個性による適性が相当にあると思った。玉也さんの良さが活かせる役じゃないなというのが正直なところ。玉也さんの、油の染みた揚げ菓子のような世話味や、鄙びた古風な雰囲気は、こういう異常譚の主役とはちょっと違う。玉也さんだと、本当に文字通り、裏表なしの「近所の良いおじさん」だよね。研究や稽古が足りない等とは違う次元なので、どうしようもない。それと、これも技術レベルとは関係ない次元の話として、道行は、「道行」自体に慣れていないと、空気感、雰囲気を出すのが難しいのだと思った。そういえば私、玉也さんが道行に出てるの、初めて観た。
端正さとクズオーラを併せ持つ玉男さん以外で、長右衛門に完成度の高いアプローチをする人がいるのか、いないのか。

どうせなら、長右衛門・儀兵衛・長吉は、玉也さん・玉志さん・玉佳さんでぐるぐる回す交代制にして欲しかった。
玉也さんはどうみても、仕事ができるイヤミなチャリ役の儀兵衛向きだ(実際そういう配役だったのを見たことがあるが)。玉佳さんは清潔感とともに愚行オーラがあるので、意外と長右衛門がうまくいきそう。玉志さんは清潔感と思いつめ感が非常に強く、長右衛門のしくじり感、ションボリぶりという点がうまくいきそうだ。長吉は、玉也さん・玉志さんとも、ご馳走役として、見てみたい。玉志サン長吉は、完全なるサイコパスになってしまいそうですが……。想像すると、楽しい。

 

今回の国立劇場桂川のプロモーション文言には、首をかしげた。
「大人の男性と少女の恋を軸に描かれた、世話物の傑作だよ✨様々な人の思いが交錯し、翻弄される2人の結末をぜひ劇場で見届けてね🌟」。
色々言いたいことはありますが……、「2人」の「恋愛」が主役で、それが周囲によって翻弄されているかのように喧伝するのは、あまりにも素朴というか、古いというか。
逆だよね。最近、まさに似たような事件があったよね。あれに対して、「世間」からどういう反応が起こったのかってことだと思う。世間から猛バッシングされるようなことをやらかした長右衛門、それに翻弄され、それでも長右衛門を支えようとするお絹や繁斎の情愛やそのどうしようもなさに眼目があると、ストレートに言ったほうがいいと思うわ。それが、ほかのエンタメには替えがたい、文楽の最大の特徴だと思う。

 

参考 過去の『桂川連理柵』感想一覧

もうこんなに観てるのかと思うと、怖い。
がついているのが、特に良かった公演です。

 

 

 

ゴールデンウイークに、早稲田大学演劇博物館で開催されている「奇才の浄瑠璃作者 近松半二」展を観に行った。

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早稲田大学が所蔵する半二作品の全正本の現物を中心に、近松半二登場以前の人形浄瑠璃界にまつわる資料、半二作品の番付、人形(所蔵品からの展示)、歌舞伎化された際の衣装を含む資料を展示していた。

正本が展示のメインになっており、閉じられて表紙のみが見える状態、あるいは1ページ目がめくられた正本がずらっと並んでいた。絵入番付も出ているが、ほんの少し。視覚的要素は、文楽以外を含む人形の展示で補足されている。

個人的には、半二以前の浄瑠璃界にまつわる資料のほうが興味深かった(浄瑠璃界の立役者を竹林の七仙のように絵画化した掛け軸や、浄瑠璃制作のアドバイスをもらうため故人の作者に会うべくあの世へGoする話の本など)。早大のデジタル化資料データベースに出ていないものもあり、ここが一番、見るのに時間がかかった。

会場の案内パネルには、古典芸能になじみのない方に向けても、という旨が綴られていた。ただ、実際には、元々知識がある人向けだと感じた。近松半二の業績を広く周知するための企画というより、早大が所蔵する近松半二関連資料を並べた、という感じ。読み取りは来場者に任せられている。自分は最近、半二の未翻刻化作品をデジタル化された正本で読んでいるので、ああ、現物はこういうモノなのねという感慨があった。

半二の持つ演劇人としての特性とセンス、つまり彼がいかに奇才の人で、その舞台がどのように華やかであるかは、実際の舞台を観たことがある人にしかわからないだろう。展示の性質上、仕方ないのだが、そのあたりは難しいところだ。私の半二への関心は、半二はなぜ現代でも集客力がある浄瑠璃作家なのかという点だ。半二は、話の面白さとともに、技術が大幅に躍進した人形や舞台装置のビジュアル面をいかした舞台効果が高い脚本を書いたゆえに、現代にまで文楽・歌舞伎ともに作品が継承されているのではないかと思う。その魅力の真髄に近づこうとすると、もっと予算をかけた大規模企画になるしかないのだろうなと思った。

常設展のほうには、桐竹門造作という景清の人形が出ていた。サイズは現代の景清より随分小さく、肌は茶褐色に焼け、髑髏のような全く肉付きのない顔立ち。「これ、即身仏を参考にして作りましたよね???」状態の凄まじい形相で、人形ピンでもものすごい迫力があった。また、初代吉田玉男の景清の映像が流されており、その映像を延々と観てしまった。