TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 3月地方公演『一谷嫰軍記』『曾根崎心中』所沢市民文化センター ミューズ

今回の地方公演は、例年開催されていた府中がなくなってしまったため、所沢公演へ行った。
ひさしぶりに乗った西武線の車両内モニタでは、『鎌倉三代記』の佐々木高綱みたいなキャラが出てくるアニメが流れていた。

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所沢市民文化センター ミューズは、埼玉県所沢市の航空公園にある大型文化施設
アークホール、マーキーホール、キューブホールの3つのホールを備えており、文楽はそのうち中ホールにあたる「マーキーホール」で上演された。中ホールといっても吹き抜けで3階層647席ある、空間としては大きなホール。馬蹄型の設計で、2階以上の客席は逆アーチ状に張り出しており、ヨーロッパの歌劇場風だった。

音響はそこそこ良く、細かく小さな音もはっきり聞こえた。太夫の声は抑えた表現までよく聞こえた。しかし、三味線の音は空間の大きさゆえか、かなり拡散して、低音が飛んでいる印象だった。

天井高が相当にあるため、定式幕は引けず、備え付けの大きなカーテン幕の引き上げ・引き下げで幕を開閉していた。文楽は幕の開閉速度が変だと興を削がれるが、降りる速度が速めで、極端に不自然ではなかった。

最前列と床前は空けて、1階席をすべて販売(2階以上は販売なし)。昼も夜も、お客さんはほぼ満席まで入っていた。
入場時、カラー印刷の写真入り配役表を配布していた。モノクロコピーのあらすじ・配役資料を配布するところは多いけど、カラー印刷物配布をくれた施設ははじめてなので、驚いた。

 

 

 

昼の部、一谷嫰軍記、熊谷桜の段、熊谷陣屋の段。

事前解説は藤太夫さん。
ここまでの年配ベテランが解説を担当するのは珍しい。しかも(いや、だからなのか)上手い。
なにがいいかって、話す内容が、ネットで検索してすぐ出てくるような内容ではないことだ。これから始まるのはすごく良い演目で、とても価値がある。文楽の中ではこういう位置付けをされている。だから、ここに来たアナタはすっごくトクしたよ、楽しんで帰ってね、と。来てくれたお客さんに、お客さんにとってこの公演にどんな価値があるかを伝えるのは、大切なことだよね。地方公演での「解説」に、いったい何が求められているかがよく考えられた話だった。そして、単なるウケ狙いではなく、作品や作者の価値、段の重要性を解説しており、誠実だった。
並木宗輔の話を含めていたのが良かった。「若木の桜の前に、“一枝を伐らば一指を切るべし”っていう制札が立っとるんですわ! これを書いたのが!!」……「あの有名な、弁慶さん!!!」に繋げるのかと思ったら、「並木宗輔!!!!!!!!!!」と、浄瑠璃の段切かのように突然現実に話を戻して、並木宗輔について説明していた。
太夫さんは、このおっさん、昼飯に入った中華屋で、天津飯と一緒にビール中瓶注文しはったんか? って感じのテンションだった。もともとこういう人なのかもしれないが、自分はなんとなくぼや〜っとそこに座っていたので、あまりに前のめりなテンションにびびってしまった。


陣屋の床〈前=竹本千歳太夫/豊澤富助、後=豊竹藤太夫/鶴澤藤蔵〉は、いずれも、とても良かった。
ストレートに、それぞれの考え、個性が出ていたのが、何より良かった。その人にしかできない、その人ならではの独自性と考えが感じられた。
だからといって、単に好き勝手にやっているということでもない。熊谷は、デッカい図体をしていながら、心根が細やかで、他人に対する気配りも繊細な人だと思う。相模も知らない(?)その性格を、わかってあげている、わかちあっている感じがした。また、相模、藤の方の嘆きは、彼女らが本当にそう泣き叫んでいるというより、人形たちの心の声が聞こえ伝わってくるように感じた。

太夫さんは、数年前なら、こうは語らなかったと思う。自分らしさを追求できる心境や立場になれて、本当に良かった。

あとトミスケはやっぱり上手い! 牽制があるのも良い!!

多少早まったり、太夫三味線が噛み合ってないところも、むしろ美点になっていると思った。大落としの噛み合ってない感は、なんでやねん!って感じで若干おもしろかったけど、それでこそ「コイツラ!」感ある。
魅力的な義太夫は、テクニック的に優れているとか、内容に対して正確で巧妙であることだけでは、足りない。そこにプラスされた何かがいる。そこにいかなる個性があるか。いかに観客を惹きつけるか。ワクワクさせられる、楽しい舞台だった。

 

 

人形は弥陀六〈吉田玉也〉に圧倒的な情緒が感じられた。唐突なまでにうまい。解像度がまったく違う。舞台の屋台骨になっていた。玉也さんの弥陀六は、やはり、腕の動きがダイナミックで、綺麗。弥陀六の人形は小さいが、彼の内面には巨大なものが秘められている。「テモ醜しい眼力じやよな」で頭巾を脱いで階に足をかけ、義経を強く睨む所作には、気持ちがめいっぱいにせり出しているのが感じられた。
しかし、以前、玉也さんが弥陀六を演じたときとは、少し演技が変わっているか? 雰囲気が変わっているのか? ちょっと違うものを感じた。
弥陀六の額のほくろは、ペイントになっていた。前までは、立体的だったよね。かしらの都合があるのか? どことなくシャープな顔をしていたようにも思ったが。
そして、弥陀六を引いてくるツメ人形は、やっぱり、弥陀六役の人に似せているのだろうか。

 

熊谷〈吉田玉助〉、相模〈吉田簑二郎〉、藤の局〈吉田一輔〉は、かなりちゃんとしていたと思う。同時に、この人たちが等身大でやったら、こうなるよな、と感じた。この段、雰囲気そのものは大きなスケールを求められるわりに、語りとの高い整合性を必要とする微細な段取りが多い。それぞれの動きも細かいので、所作の意味を理解し、その意味に沿わせて描写していかないと、ぼやける。
「御実検下さるべし」で熊谷が首桶の蓋を開け、下手から走り寄ってきた相模を右足で組み敷いて扇を首の前に置き、さらに寄ってきた藤の局を右手に持った制札で遮り、藤の局がそこに取り付いて跳ね返され、なおも寄ってくる藤の局を制札でせき止めて「諫めに遉はしたなふ」で、熊谷・相模・藤の局の全員で左右に揺れ始めるところ。書いているだけで複雑だが、ここ、型自体はできても、行為の意味として何やってたんだかわからなくなること、多くないですか。ことに、有名な演目に背伸び配役をされた出演者は、型自体を極めること自体に注意がいってしまう。客も、有名な型が極まっているかを確認している感覚があると思う。だから、それでOKと思う場合もあるのだが……、型は大切なんだけど、それだけのために来ているわけではないからなあ。今後、どうなっていくんだろう。

 

個別の演技では、熊谷の立ち位置が気になった。物語の途中で下手に向く際、人形の右肩を奥側に引くのではなく、人形自体を本当に下手へ振ったため、人形の位置自体が下手へ大きくずれてしまい、舞台センターで演技する威風堂々とした印象に欠けた。また、義経の出で下座へ平伏する際、屋体の上がり口ギリギリまで下がりすぎて、制札を抜くのに「ハッと答えて走り出」で走る距離自体がなくなっていた(短い距離でも走っているように見せるかの問題もあるけど)。演技のやり方自体は配役された人の判断だと思うが、このあたりは客からすると見栄えが「?」で、しんどい。左が慣れている人のようだったので、そういう経験ある人が引っ張るしかないのかもしれないが。

そう! そうなんだよ!! 熊谷の左、かなりうまかった!!!
秋の地方公演のとき卒倒しそうになった、物語の「中には一際優れし緋威」で、右手で扇を下にして持ち、左手で肩衣をしごき上げて極まるところ、今回は左手がかなり綺麗に極まっていた。むしろ、信じられんほど綺麗に極まっていた。なぜ秋の地方公演ではこれができなかったのか……。いや、もう、今回の左は、そもそも陣屋へ入ってすぐ、左手に刀を立てて持ち、下手に座る相模に向き合うところの、その刀の持ち方からして緊張感と熊谷の受け答えが虚構であるゆえの威圧感があり、相当良かったのだが、これくらいの人が秋にも左をやってくれれば……。経験が少ない人ができないのは不可抗力だし、地方公演の出演者都合上、ベストな配役ができないのはわかってるんだけど……、虚無……………………。

 

簑二郎さん相模は、以前見たときより、かなり良くなっていた。簑二郎さんは、演技の意味を考えてやっていると思う。そして、しばしば芝居が固くなるのは、それに気を取られすぎるせいだと思う。今回は、緊張が薄れて、自然な雰囲気になっていた。いまの佇まいのままに、相模の情熱を大きく押し出して欲しい。

玉佳義経、立教かICUに通っていて、マラソンサークルの部長をしていそうな感じがした。ノシ!ノシ!としているのも良い。鎧着てるからね。玉佳義経は、良い。

堤軍次〈吉田玉翔〉はプロテイン飲んでそうな感じだった。チョコ味とミックスフルーツ味が好きそうな感じだった。なんだ、この玉誉さんとの違いは……。いや、どっちも軍次らしくて、いいんですけど……。
ただ、梶原平次が来たときに下座へ下がって左手に持っていた刀を置くときの所作は、もっと真面目に出迎えた風になおしたほうがいいと思う。「普段の仕草」っぽすぎる。改まった場で相手から目をそらし、ながら風の整わない所作になっているのは、熊谷が陣屋に連れてきている家臣の役目をなしていない。軍次はかなり頭が良く、機転がきく人物のはず。彼は熊谷の策謀を知っている可能性があるほどの人と考え、出番が少ない役だからこそ、ひとつひとつの演技を考えて丁寧なものに欲しかった。若手に細かいこと書いても仕方ないかもしれんけど、玉翔さんは改善できる人だと思うので、誰かなんとか言ってやってくれ。(誰かなんとか言ってやってくれシリーズ)

 

  • 解説=豊竹藤太夫
  • 義太夫
    熊谷陣屋の段
    豊竹靖太夫/野澤勝平
    熊谷陣屋の段
    前=竹本千歳太夫/豊澤富助
    後=豊竹藤太夫/鶴澤藤蔵
  • 人形役割
    妻相模=吉田簑二郎、堤軍次=吉田玉翔、藤の局=吉田一輔、梶原平次景高=吉田文哉、石屋弥陀六 実は弥平兵衛宗清=吉田玉也、熊谷次郎直実=吉田玉助源義経=吉田玉佳

 

 

 

夜の部、曾根崎心中。

生玉社前の段。

徳兵衛は、出てきた瞬間、ダメムーブをかます。やっぱり玉男さんのしょうもないヘタレ男役は最高だ。お初以外の人からはなんの価値も認められていない感が溢れている。

そう、徳兵衛は、「お初以外の人からはなんの価値をも認められていない」と思うんだけど、浄瑠璃の文章や徳兵衛の演技だけで、それがわかるわけではないんだよね。それは、冒頭で徳兵衛が連れている丁稚長蔵〈吉田玉彦〉のリアクションによるものだ。
徳兵衛が出茶屋にいるお初に気を取られているときは、長蔵は首だけこくっと俯いていて、半寝。徳兵衛に話しかけられると一応話を聞いて、自分のこと棚に上げすぎの徳兵衛の言葉に「やれやれ」とばかりにプイプイ首を振り、話の途中で出ていきそうになる。徳兵衛が話終わると彼に向き直り、それこそツメ人形の丁稚みたいな素直風の顔になって、「アイアイ合点」と言って去っていく。
お初は徳兵衛に思い入れがあるし、九平次も徳兵衛を悪意で利用する立場なので、2人のリアクションからは、徳兵衛の客観的な人物像を得ることはできない。しかし、長蔵は徳兵衛を冷静に見ている。徳兵衛は、まあ、周囲から、こういう評価を受けてるヤツってことなんだろうな。
長蔵は一言しかセリフがなく、若手がやる、一種どうでもいい役のように見える。こういうショボ顔の端役で、抑えつつも伝わるように遣うのって、かなり難しいと思う。抑えすぎて何やってるかわからないとか、逆に、目立たせるべき役でもないのに大振りにやりすぎていてうっとおしいと思うことは、よくある。このあたりは、当人のセンスによるものが大きいだろう。長蔵は、かしらだけでの小ぶりに抑えた所作の中に長蔵の心のツブヤキを感じさせ、上手い芝居だった。長蔵には確定した振り付けがあるわけではないと思うが、よく考えられている。あいつ、このあと道頓堀へ遊びに行くだろうな。

九平次〈吉田玉志〉は、すでに2軒ほど回っていて、あとはラーメン食って帰るか!って感じに酔っ払っていらっしゃった。ちょっと背中を丸めて前のめりによたついてる、ヤカラめいた姿勢。
そして、玉志さんにしてはというべきか、予想外に角の丸い雰囲気だった。九平次としての角ばりはあるが、世話物の市井の中に生きている人物である意識がなされた、自然な柔らかみのある所作。ある意味、徳兵衛より優美な雰囲気がある。勘壽さんと同じく、内田吐夢加藤泰の時代劇に出られそうな、どこか矜持や気品がある町人だ。『心中天網島』治兵衛の兄・孫右衛門役でも思ったけど、玉志サン、世話物、上手いな。
そして、九平次という人物の、背景を感じた。九平次は内面描写がほとんどなく、かなりシンプルな悪役だが、よくよく考えてみればこの人にもバックグラウンドがあるはず。それでいうと、この九平次はどこかエエ商家の手代で、少なくとも徳兵衛よりは仕事ができ、遊びを遊びと割り切る賢さがあるという解釈で演じているのだろう。玉志さん自身の特性もあるけど、所作がすっきりとして品がある。羽織の裾の直し方とか、座り姿勢で手を置いている位置とか、洗練されている。九平次はそこそこ出番があるわけだし、よく考えられているなと思った。
なお、よく九平次をやっている玉輝さんとは、演技の細部が異なっていた(くわえている楊枝をどうするか、徳兵衛への息の吐きかけ、羽織の扱いなど)。玉輝さんのほうが遊び人感というか、遊侠めいたところがある。あれは玉輝さん独特のものだな。玉志さんはもっとリアリストな印象。『冥途の飛脚』の八右衛門的に近い感じ。玉輝さんと玉志さんのキャラクターの違いは、九平次にとっての、金への意識の違いなのかもしれない。

話は玉男さんの徳兵衛に戻って、この徳兵衛にある一種の線の強さというのは、単に遣い方や人物像に対する考えがヌルいのとは違うだろう。彼の癇癪、社会不適合性の表現だよな。徳兵衛は近松物の男性主人公の中でも、とりわけ何考えてんだかわかんないし。何も考えてないかもしれないし。本人にも自覚のあるクズの忠兵衛とはまた別の方向性のダメさというか、無自覚にアレな人というか……。玉男さんは徳兵衛をどう解釈しているのだろう。玉男様は人形以上に言葉を発しないから、わからないけど……。

お初〈吉田和生〉は、自然でふんわりとした雰囲気。ちっちゃなちっちゃなことりちゃんのように儚いお初だった。大人しげで、常に徳兵衛のことが気になるのか、元気がない。お初はよく「くたっ……」となるけど、それが「がっくり」ではなく、「くたっ……」なのが、和生お初。着物と身体の暖かさ、柔らかさを感じる。
お初には、うなじ、首筋、肩に匂い立つ表情が見え、薄幸の美人オーラがあった。上手い人形遣いの人形は、彼や彼女の背中が、そう、本来ほとんど見えないはずなのに、あたかも見えるように感じるよなぁと思った。

 

『曾根崎心中』に登場する人形たちは、端役でも、それぞれの趣味の存在を感じさせるものをちゃんと着ている。それは、昭和の復活初演時、衣装考証の外部専門家がいたからなのかな。九平次とか田舎客とか、独特。田舎客の着物の丈が短めでスネが出がちなのって、わざとなのかな。ちょっとマヌケっぽくて、良い。

 

 

天満屋の段。

天満屋の徳兵衛は、お初にだけわかる愛らしさがある。お初(と観客)だけが、彼の愛らしさを理解できる。お初の打掛の裾にスポ……と隠れてるのが、本当、愛らしい。お初の着物の裾をなんとなく整えてあげたりといった、チマチマした動きが良い。
そして、本当に隠れなくちゃいけないときは(よそへ飲みに行く九平次たちや、下女お玉が前を横切るときとか)、玉男様までヒソ……と縁の下へ入るのが、一生懸命身を縮こまらせているようで、可愛い。お初の打掛の裾に入って隠れているときは、わりとはみ出しているのに。「入れるんだ……」という感動がある。

玉男さん・和生さんは、長い年月を共にしてきただけあって、抱きつきのタイミングが上手い。かなり自然に抱きついている。よく見ると、お初の人形の位置がかなり低いのだが、その位置に一発で持っていって、2人が抱き合った姿勢を綺麗に決めるのが、さすがベテラン。そして、玉男和生カップルだと、燃え立つように情熱的なカップルというより、ひっそりと可憐な感じがするのが、いい。まあ、玉男様は相手役いっぱいいて、浮気者だけどさ。

天満屋九平次は、生玉社前のあとにさらに飲んできた人状態で、ラーメン屋でもさらにジョッキのビールを頼み、帰るには思ったよりまだ時間が早いので、近所のスナックへ寄り道しに来たのかなと思った。煙管を手に徳兵衛の悪口を得意げに言い散らすところは、かなり角ばった印象に寄せていた。セリフが自分の番でなく、姿勢としては静止するところで、まじで静止し続けていたのはすごかったが、ちょっと、端正すぎかな……。もうちょっと高いところで遊ぶ人の感じというか……。神経質さが謎の方向にいった、玉志サン特有の「俺は絶対動かん」が炸裂していた。

朋輩女郎シスターズ〈桐竹紋臣・桐竹紋秀〉は、髪型がオソロで良かった。主体的な動きがほとんどなく、背景でずっと小芝居やリアクションをしているのは、大変だ。
しかし、屋体(天満屋の建物)の中の照明はなんだか変で、朋輩女郎たちは真っ暗だった。冒頭部など、和生さん自体にやたら光が当たっていた。地方公演では照明に不自然さを感じることがそこそこあるが、技師さんが慣れていないからなのか、ホールの構造の問題なのか?

今回のお玉ちゃん〈吉田文昇〉は、相当眠そうだった。眠い〜!眠い〜!!も〜!!!って感じだった。

 

 

 

天神森の段。

天神森の生き物たちが、二人の行末を悲しんで歌っているような道行だった。池のブラックバスとかが……。(江戸時代にはブラックバス日本におらん)
錦糸さんの三味線の雰囲気は、葉っぱの揺れや水面の静かな波のようで、良かった。

最後のほう、お初が帯をカミソリで割くときに、手を怪我してしまうくだりがあるよね。あそこで、お初が「あ!痛!」という動きをした瞬間、徳兵衛がものすごい勢いで吸い付いていたのが、びっくりした。前からこんなに勢いあったか!? 和生さんのお初のリアクションからすると、ほんの少し切れたかも?くらいのことなのに、そこまでおとなしげにしていた徳兵衛の本気というか、必死さを感じた。これから刃物で死のうというのに、ちょっと手を切っただけであんなに大騒ぎするのかという矛盾に、怖いものがあった。

 

 

 

  • 解説=竹本碩太夫
  • 義太夫
    生玉社前の段=竹本小住太夫/鶴澤清𠀋
    天満屋の段=竹本織太夫/鶴澤燕三
    天神森の段=お初 豊竹睦太夫、徳兵衛 豊竹咲寿太夫、竹本碩太夫/野澤錦糸、野澤錦吾、鶴澤燕二郎
  • 人形役割
    手代徳兵衛=吉田玉男、丁稚長蔵=吉田玉彦、天満屋お初=吉田和生、油屋九平次=吉田玉志、田舎客=吉田和馬、遊女[下手]=桐竹紋臣、遊女[上手]=桐竹紋秀、天満屋亭主=吉田玉勢、女中お玉=吉田文昇

 

 

 

「熊谷陣屋」終演後の拍手は、地方公演とは思えないほど盛大で、長いものだった。本公演でも襲名公演などでない限り、あそこまでの拍手が起こることはないだろう。固定客が多そうなコンサートホール系劇場なので、ホール自体にそういう習慣があるのかもしれないけど(アンコールがある興行が多いという意味で)、結構驚いた。でも、実際、上演内容もとても良かった。

今回の観劇は、ちょうど、一昨年の秋からゆっくり読んできた並木宗輔全作品講読の最後、最終作の『一谷嫰軍記』にたどりついたタイミングでの「熊谷陣屋」上演だったので、思い入れをもって舞台を観た。
並木宗輔作品に登場する武士の男性は、特に前期作品においては、「傍観者」だ。たとえ自分の子を身代わりにするとしても、それに対する煩悶や悲しみといった感情はすべて妻に負わせていて、「当事者」たりえない。彼自身は、社会のパーツに過ぎず、また、パーツになりきることにしかアイデンティティがない。
しかし、この作品では、「当事者」であることを引き受けた熊谷直実が、自分の命を捨てることをせず、残された家族である相模を連れて、義経の前から去っていく。この結末は、並木宗介作品をずっと読んでいると、本当に、感無量…………。
並木宗輔が豊竹座で『北条時頼記』の合作者としてデビューしてから、歌舞伎作者時代を経て竹本座に移籍し、現代に残る数々の名作を手がけ、最後に豊竹座のために作品を書いて亡くなるまでの46作品(本が残っていて、読めるものの数)の最後に、この、『一谷嫰軍記』熊谷陣屋の段がある。最後にしか書き得ない、必然的なものだと思う。並木宗輔は、生涯を通して、人間は人形であること、人形は人間であることを描いた、本当にすごい作家だと思う。全部読んで、本当に良かった。


と陶酔していたところで話は突然現実に戻るが、今回の公演に限ったことではないが、人形は、体より先に感情が動いていないと、どうにもならんわなと思った。ひとまずポーズを取ってから、「それ」っぽくしても、間に合わない。太夫は、言葉を発するよりも前、息を吸うところから語りが始まっていると聞いたことがある。できすぎた話に聞こえるが、しかし、前受け狙いの芸談としての作り事や、高尚に見せかけるためのもったいぶった嘘ではないと思う。人形にも、同じことが言えると、実感として思う。そして、気持ちが変化するポイントがどこなのかを意識することが、重要なのではないかと思った。

若手の太夫は、客席に自分の声がどれくらい、どのように聞こえているのか、把握が難しいのだろうなと思った。これも今回の公演に限ったことではないが、特に外部公演だと、声の出し方そのものに違和感がある場合が散見される。ベテランにそういった違和感はないのは、経験則によるホール形状ごとの特性なり、その場で自分の聞こえの感覚で瞬間的に調整してるんだろうなと思った。

まとめると、「みんな、がんばって……」と思った。

 

あと、唐突だけど、初代吉田玉男師匠って、やっぱり自分のうまさをわかった上で、演技をしてたんだろうなと思った。復曲の新作曲は、実は演奏者のテクニックがいかせる作曲になっていると聞く。新規につけられた人形の演技の一部にも、それが言えるのではないだろうか。実は本人にしかできない演技をやっていて、後代に受け継がれたとしても世代が下るにつれ、元の意図や技術が伝わらず、崩壊するものが出てくるんだろうなと思った。

 

 

↓ 秋の地方公演の感想

 

 

 

春の地方公演から、府中がなくなったのは悲しい。お客さんは毎回たくさん入っていたので、イベントとして採算が取れないとかではないと思うのだが、2年も連続で中止になると、リスクがある状況でさすがにもう次はなかったということなのだろうか。自分が住んでいる自治体ではないのでリクエストしづらいが、来年はぜひ開催して欲しい。

今回の所沢のホールは、今回のお客さんの入りや盛り上がり、チケット販売状況を見ると、地元の人に愛されている場所なんだなと感じた。今後も公演が続いて欲しい場所だ。
地方公演などで、このようなローカル文化会館的な場所を訪ねることがしばしばあるが、自治体がよほど文化施策に力を入れているところでない限り、どこも老朽化が進んでいる。今回のホールも、いかにも平成初期の佇まいで、むかし世の中の景気が良かったころに、地元にも土地の広さをいかしたちゃんとしたホールを、と考えて建設されたんだろうなと感じた。
文楽の地方公演は今後いつまで継続できるのかと思ってしまうが、その理由のひとつとして、こういった文化施設の存続如何がある。今後、リニューアルや建て替えなどをされて、こういう施設を継承していくことは、どこまでできるのだろうか。かつて春の地方公演の会場だった大田区民ホールはいま、リニューアル工事をしているようだが(確かにあそこ、かなり厳しめの古さだった)、どうなるんだろう。
最近、自分が住んでいる地域の公共施設で、老朽化のため、改装工事をしたところがある。ところが、再開館したら、リニューアル前よりショボく安っぽいものなってしまった。世の中はこうやってどんどん貧しくなっていくのだなと思いました。(突然の悲観END)

 

↓ なぜ和生様サイン色紙? 施設側に和生様オタの方が? それとも和生様=人間国宝=えらい!から一座の代表として書いてもらったという素直リーズン? 和生様は和生様でなぜ「夢」? 疑問が尽きません。

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それにしても、航空公園、めちゃくちゃ久しぶりに行った。15年ぶりくらい……?

暖かく晴れた日で、公園内ではたくさんの親子連れが思い思いに遊んでいた。子供用のミニテントを張るのが流行っているのか、アポロチョコのようなポップアップ式のテントがポコポコあちこちにあった。そのテントが、時々、動き回っていた。水路の水に落ちたチョウチョを、お母さんに言って助けてもらった子供が、飛んでいくチョウチョにばいばいをしていた。

公園内にドッグランがあり、敷地も広大だからか、犬を散歩させている人がものすごくたくさんいた。常に犬が往来しており、ありとあらゆる種類の犬がいた。犬たちは犬同士で社交していた。

犬を散歩させている人に混じって、猫を散歩させている人がいた。気品のある灰色の長い毛をもったその猫は、ハーネスのついた緑色のメッシュの服を着せられており、敵意ある目をして、意地でも動かんモードに入っていた。飼い主は辛抱強く見守っていた。

文楽とは、真反対の世界だった。

 

 

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航空公園駅を降りると、飛行機がお出迎え。

 

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スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」のようなのどかさ。

 

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狭山茶ソフトクリーム。みんな食ってたから私も食った。ツメ人形だから付和雷同しちゃう。