TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 2月東京公演『平家女護島』鬼界が島の段『釣女』国立劇場小劇場

2月文楽公演、前半に大幅な休演があったが、ひとまず、公演再開できてよかった。

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(雨に打たれてしなびたプログラム)


平家女護島、鬼界が島の段。

全段のあらすじまとめは、記事の最後につけています。

淡々とした雰囲気、そっけなさが良かった。床・人形とも、『平家物語』の世界の中の、荒涼とした島の雰囲気を感じられた。枯淡で素描的な感覚が話の雰囲気に合っている。淡白だからこそ面白い舞台だった。

 

俊寛は玉男さん。「鬼界が島」はこれまで何度も観ていて、俊寛といったら、玉男さんのイメージ。実際には和生さんが俊寛の回も何回か観ていて、和生さんは和生さんで良いんだけど、それでも「俊寛はやっぱり玉男さんだな」と思う。説明のなさが謡曲に近く、その雰囲気が好きなのかもしれない。*1

人形の線の強さ、虚無的で孤独な雰囲気。目線が鋭い。宙を掴もうとする骨ばった手は、とても大きく見える。俊寛は杖にすがって立ち上がるが、玉男さんの場合、飢餓状態でふらつくというより、体が軋んで重そうにしているのが面白い。足の指で浜の砂をぐっと掴んで立ち上がっているかのようだ。俊寛の佇まいからは、彼の内面の静けさとは真逆の、鬼界が島の荒涼とした風景も感じられた。匂いのしない乾いた砂粒、肌に刺さるように当たる潮風、目を痛めつけ眩ませる直射日光。おそろしく簡素な舞台装置でも、彼の五感を通して、鬼界が島の風景がイメージさせられる。

それとは裏腹の、流人仲間2人や千鳥への人あたりの大人しさは、不思議。成経の恋バナを聞いているときのリアクション「はわ…」「ふ…」的なものは、いかにも玉男さんな感じがする。個人としては峻厳な雰囲気なのに、世俗的なことにはなんだか微妙にトロい感じがあるというか。頭の少し斜め上のところに、「…」(三点リーダ)が浮かんでいるような雰囲気が好き。千鳥を見守る目線も、「むすこの、かのじょが、あそびにきた……」という、まさにそのまんまな感じなのが、かなり、良い。

また、それを突然ぶっちぎって瀬尾に斬りかかり、刃を交えるときの異様な目つきは、独特。瀬尾の首を高く投げ捨てるのも、不気味さがある。斬り合いは息が合っていてよかった。玉男さんも玉志さんもお互いあまり見ずにやっていたので、感覚的に合わせられるということだろう。

最後に崖を駆け上る勢いは、以前よりもおとなしめ? 体力を振り絞り、必死に登っている印象になっていた。そして、詞章だと「思い切つても凡夫心」だが、むしろ、名残の気持ちは本当になく、無の心で見ている気がした。でも、どこかに人間らしさがある。都へ帰る人たちの幸せを願っていそうな感じとか……。こういうのは、やっているほうが「おじいさん」になっていくにつれ、変わっていくのかな。
崖にからまるツタの葉っぱは初日時点でもかなり散ってしまっていて、舞台稽古で大量にちぎれたのかしらと思った。

 

玉志瀬尾は、かなりキリキリキリキリしていて、神経質そうだった。1ミクロンも融通をきかしてくれなさそう。たしかに原文通りのキャラである。

なぜか微妙に小柄な雰囲気に見えて(実際には居丈高にしているが)、体のパーツがプリプリのソーセージでできていそうな感じがした。弾力がありそうな所作で、とにかくターンが速い。ものすごい勢いで90度の角度で正確にきびすを返す。左の人、あの動作によく追いついてたなと思った。やたらリアクションがデカいのも味わいがあった。丹左衛門が喋ってるのに、丹左衛門よりリアクションがでかいがな(丹左衛門に所作の濃淡コントロールがないという問題もあるけど)。有り余っとるな、元気が。と思った。玉志瀬尾、休演期間のために2日で終わっちゃったので、仕方ないですが……。

そして、ピョコっていた。久しぶりに思い切り「ぴょこん!」としていた。船上から俊寛たちのガチャガチャ騒ぎを発見したときは、「プルルッ!」としていた。顔が赤いから……? そして、時々、「ぴーーーん!!」と、すんごい伸びていた。立ち上がったプレーリードッグのようだった。この手の謎のオリジナル動作、良すぎる。

赦免船に乗る時、玉志サン自身が段差を上がる前に、瀬尾の人形を先に乗せてあげていた(先に人形を差し上げてから、段差を登る)のは、人形の動きが自然に見えて、良かった。

『平家女護島』の原作全段を読むと、この人、なかなか面白い。鬼界が島へ向けて出発する前、能登守教経と丹左衛門元康が書類をチョロまかし「中宮の安産の祈願なんだから、善行として俊寛も助けてあげようよ〜」とか言ってるところに、「善行程度で安産になるなら、世の中に“難産”なんかないっつの」とか毒づいている。文句言いつつ、2人の小細工を放置しているところも、良い。
なお、瀬尾(妹尾)太郎兼康さんは、地元岡山では、いまも使われている用水路を作った人として、有名だそうです。

 

勘彌さんの千鳥はかなり大人っぽかった。清楚なおねえさん、という感じ。千鳥って前からこんな顔してたかなと思った。抽象的で空虚な雰囲気。この娘さん、実在するの? 流人三人組の見た幻覚では? という印象があった。簑助さんと同系統。ただ、勘彌さんの普段の技量をかんがみるに、もう少し、何かが欲しかったと思う。
ちなみに、瀬尾に対する攻撃は、砂をグーでつかんでかける!だった。

 

それにしても、今月の鬼界が島の人々は、かなり健康そうだった。
鬼界が島、健康ランドなのかもしれない。
鬼界が島(鹿児島県の硫黄島)って、まじで温泉湧いてるらしいし。流人トリオ、イノシシとかカニとかクジャク*2とか、むしろ都より栄養価が高そうなものをいっぱい食べてるんじゃないかって感じで、栄養状態よさそうだった。それに、俊寛はR1ヨーグルトを1日5個食べてそうだったし、妹尾はヤクルト1000を1.5秒で一気飲みしていそうだった。
若手にあんまり言ったら申し訳ないが、成経〈吉田文哉〉の出など、フラフラ具合が栄養失調というよりのぼせた人みたいで、サウナから出て外気浴してる人みたいになってた。
また、赦免船から瀬尾vs俊寛の戦いを観戦してる人たちは、かなりぼーっとしていて、サウナのテレビ観てる人みたいになってた。
なんだこの日曜日の健康ランド感。
あと、赦免使に対する康頼〈吉田玉翔〉の這いつくばいがすごすぎて、びびった。まじで地面にめりこんで土下座。平たい甲虫のようになっていた。あんな平身低頭してるやつ、在所のお百姓キャラでも見たことない。地下帝国かと思った。成経は逆に「頭下げときゃいいんだろ」状態だった。なお、康頼の冒頭の出は、登ったカーテンレールから降りられなくなったネコみたいで、へっぴりな感じが、良かった。あいつそもそも崖にへばりついて何してんの? 鳥の卵盗もうとしてるとか?
丹左衛門〈吉田簑紫郎〉は代役だから色々仕方ないところもあるだろうが、座り姿勢の腰が浮きすぎていて、かつ、膝の開きが狭く、トイレ行きたい人状態になっていた。段切直前の客席に、こういう人、ときどき、おる。もっとぐっと大きく膝を開き、腰を引いたほうがいいよ!!と思った。いえ、早く都へ帰りたかったのかもしれませんが……。

近松ものはすべてそうだが、『平家女護島』は、文章に、人形の動作の余白がない。人形は、義太夫とはやや離れた、独特の間合いになる。玉男さんは元々間合いの取り方がかなりしっかりしているので余裕に見えるけど、自分でテンポや間合いを作っていかなくてはいけないので、役そのものとしては結構難しそうだと思った。そのほかの登場人物も、船の乗り降りなど、詞章に全く間に合わないところは、義太夫と関係のない独立した動き。そのためにおたすけツメが配置されているんだなと思った。
動きに文章上の間合いがないのは、人形だけではない。斜面船が異様な猛スピードで接近してくるとか(初めて見た時、笑ったもん。そもそも砂浜にあんなデカ船接岸できねえだろ)、島から遠ざかる赦免船も高速艇くらいの速度出てるんじゃねえのかとか、人形一人遣いのときはこれくらいザックリしててよかったんだなーと思った。

 

 

 

床は、呂太夫さん。淡々とした雰囲気は好き。やや薄く伸ばした墨のような印象。ねっとりとした雄渾さをもって濃く語る方法もあるだろうが、枯淡さや質朴さが語られる物語の雰囲気に合っていると感じた。階調の微妙さ、ニュアンスの出し方で聞かせているというか。ただ、ご本人は、ちょっとしんどそうだった。喉の調子が少し悪いようで、抑えつつ引いて伸ばす声が出にくいのか、冒頭の謡ガカリがブツブツ切れていた。以降も声のひっかかりが多く、心配。

三味線は、公演再開すぐは清介さんが休演だったため、清公さんが代演。緊張されていたが、とにかく、弾き切れて、良かった。少し戸惑いつつ演奏されていたけど、出来てるっ!出来てるっ!と叫びたくなった。「自分はこうしたい」という意思が感じられたのが良かった。

 

 


岩礁フジツボは、絶滅していた。
硫黄島の港は、流入する温泉の泉質の影響で、真っ赤になるそうだ。段切、俊寛が駆け上った崖の下の海も、真っ赤だったら、ドラマチックだ。

 
 
 
 
 
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  • 義太夫
    豊竹呂太夫/鶴澤清公(1/13〜2/15代役)、鶴澤清介(2/16〜)
  • 人形役割
    俊寛僧都=吉田玉男、平判官康頼=吉田玉翔、丹波少将成経=吉田文哉、蜑千鳥=吉田勘彌、瀬尾太郎兼康=吉田玉志(前半)吉田玉助(後半)、丹左衛門元康=吉田簑紫郎(代役、吉田勘市休演につき)

 

 

 

釣女。

文楽の歴史のなかにこれがあり、保持しようとするのは理解する。昭和前期の新作だとしても、当時そういう積極的な外部取り込みの動きがあったということ。
でも、現代での上演は、やるにしても、10年に1回でいいのでは? どう言い訳しても、性差別と容姿差別の行為自体を、面白おかしく笑ってくださいという趣旨の演目。文楽はもともと、かしら(顔)と性根(内面)を一致させた表現を目指す、ある意味非常に危険な趣旨を持った芸能。それを保持していくのなら、どの演目をどう舞台にかけていくか、よく考えていくべきだと私はとらえている。
この演目の場合、一番の問題は上演頻度。2022年にもなって、ここまでの頻度で執拗に繰り返し上演していると、内々の事情如何にかかわらず、性差別と容姿差別を積極的に肯定し、助長していると受け取られる。少なくとも、制作がそれを問題に感じていない、課題として意識していないということは、わかった。今回は国立劇場だが、文楽劇場や地方公演の企画制作でも同じ。そこをトータルして文楽という一座になっているんだから、もっとよく考えて欲しい。そして、出演者側で発言権のある人も。
以上、観客の立場から発言しないと、いまの文楽の客、そして今後の文楽の客を舐めくさった態度が未来永劫改善することがないと思ったので書きました。*3

 

舞台全体として、芳穂さんが非常に良かった。上記の通りの演目なので、観客のすべての人が演目自体に対しポジティブな印象を持っているとは思われない中、狂言取り込み演目らしい、明るく朗らかな雰囲気を作っていた。いやそうでなくとも、この演目は、狂言という前提あってこそ、その空気感を楽しむ演目だと思う。語るとき、芳穂さんは、狂言の表情になっていた。人形に狂言感がない中、狂言らしい、おいしそうな香りのするぷくぷくとした膨らみのある雰囲気は、芳穂さんが作っていたものだと思う。
床は全体的に落ち着いていて、たとえば食い気味になるなど、勝手なところがなくて、良かった。

 

醜女〈吉田清五郎〉は、目が一切笑ってなくて、良かった。配役上、醜女は美女より技量が高い人がやるので、たいてい美女より「美人」になってしまう。けど、清五郎醜女はバイト気分の腰元風というか、そこそこガサツに遣っていて、かしわもちの葉っぱを剥かずにそのまままるごと食べてそうな感じがするのが良かった。とはいえ、根っこのところの美人ぶりは隠しようもないから、『いとはん物語』の京マチ子みたいな感じだな*4。また、準備関係にトラブルが発生した回があり、清五郎さんが完全に真顔になっていて、良かった。いやご本人からしたら良くないけど。

大名〈吉田玉勢〉は、非常にバカっぽいのが良かった。太郎冠者〈吉田玉助〉のどうでもよさそうさも、極まっていた。一切会話が通じていなさそう。まじで。しかし、太郎冠者の人形が、立っているのと座っているので姿勢が同じなのは、なんとかならん? あとは足拍子を義太夫の間合いにはめて欲しかった。

美女は、紋吉さんなのが、「紋吉が釣れたっ!」感があった。UFOキャッチャーでポムポムプリンのでっかいぬいぐるみを取った気分がした。

最後の踊りのところ、こいつら本当に好き勝手に踊ってんなと思った。なんだこの一切揃わないぶり。それにしても、能狂言や舞踊って扇の構え方に特徴(というか約束)があると思うんだけど、習っている人からしたら、あれはどう見えるのか。その感想、おもしろそう。

 

そういうことで、出演者自体は良かった。なので、この出演者をこの演目に使うことが「ハァ?」としか思えなかった。
時間稼ぎ・出演者人数稼ぎなら、『平家女護島』に「舟路の道行より敷名の浦の段」をつけるのはどうですか。別に面白いわけじゃないけど。いや、なんなら、まったく面白くないが。(素直)

 

 
 
 
 
 
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  • 義太夫
    太郎冠者 豊竹芳穂太夫、大名 竹本小住太夫、美女 竹本碩太夫、醜女 竹本南都太夫/野澤錦糸、鶴沢清𠀋、鶴澤寛太、野澤錦吾、鶴澤清允(2/16〜)
  • 人形役割
    大名=吉田玉勢、太郎冠者=吉田玉助(代役、吉田文司休演につき)、美女=桐竹紋吉、醜女=吉田清五郎

 

 

 

第三部は、初日3日前に、複数出演者の新型コロナウイルス感染により前半の公演を中止する旨がアナウンスされた。玉男さん・玉志さんの出演演目のチケットを重点的に買っている私はギャッとなった。私の2月文楽、存在しなくなるかと思った。
ひとまず公演再開できてよかったけど、本当に大丈夫なのか。大丈夫なわけないよな。

「鬼界が島」は、人形黒衣で上演して欲しいな。鬼界が島の荒涼とした寂しい雰囲気がよく出そうだ。なんか、あの島、結構、人、いるからさあ。具体的に言うと船が来る前でも16人ほどうぞうぞしてるように見えるもん。そして、現況に対しては、感染リスクの低下にもなると思う。


この部だけの話じゃないけど、舞台全体として、感じたこと。
人形は、小道具の取り扱いは丁寧にしてほしいと思う。小道具の破損などのトラブル防止は、「雑に扱わない」ということから、はじまるんじゃないかな。
また、人形遣いは、あくまで人形につられた動作でいて欲しい。クセで、人形より先に自分自身が行動してしまう人がよくいるよね。簑助さんもそうだったけど、人形が次に向く方向に、人形より先に顔を向けてしまうとか。その程度ならまだいいが、人形より先に立ち上がるのはやめて欲しい。人形より人形遣いが目立ち、「おじさんが起立した」という状態でしかなくなる。左遣いも、人形が伏せているのに立ちっぱなしだったり、人形より先に立たないようにして欲しいと思う。

 

 

 

おまけ 『平家女護島』全段のあらすじ

 

第一

平清盛はイキリまくっていた。興福寺東大寺の伽藍を焼き払い、僧侶を殺しまくって、大得意になっていた。しかし、源氏に肩入れする僧侶・文覚を取り逃がしてしまったので、腹いせに、彼が供養していた源義朝の髑髏を踏み踏みしていた。そこへ、鬼界が島へ流された俊寛僧都の妻・あづまやが連行されてくる。清盛はあづまやの美しさに魅了され、自分にかしづくように言うが、あづまやは激しく抵抗し、言うことをきかない。

六条河原では、大仏の首と義朝の髑髏が並べられ、晒されていた。清盛の命で髑髏が鴨川へ捨てられようとしたところ、大仏の鼻から手が伸びてきて、下使を打ち殺してしまう。大仏の首の中には文覚が隠れていたのだ。文覚は平家の悪逆を滅ぼすと言って大笑いし、立ち去ってゆく。

幽閉されたあづまやの元へ、常盤御前のように清盛に靡いたほうがよいという説得をしに、様々な人が訪れる。しかし、あづまやは夫・義朝の仇に擦り寄る常盤御前の態度を批判し、俊寛を恋しがる。そこへ能登守教経がやってきて、今の世で清盛に背くことはできない、しかしあづまやの貞女の道は必ず自分が守ると告げる。それを聞いたあづまやは意味を悟って自害し、教経は彼女の首を打ち落として清盛のもとへ持っていく。清盛は驚いて怒るが、教経は「おまえが顔がいいっつったんだろ!だったら顔があればいいだろうが!」と逆に責め立てて首を娶れと迫り、ドン引きした清盛は引っ込んでいく。そこへ俊寛の童・有王丸が踊り込み、清盛を討ち取ろうとする。教経とその童・菊王丸が応戦し、激しい戦いになる。しかし、鬼界が島の主を捨てて犬死する気かと教経から一喝された有王丸は、その言葉に恩義を感じ、帰っていく。(現行・六波羅の段)

 

第二

中宮となっていた清盛の娘の出産が近づき、御殿では祈祷が続いている。能登守教経、丹左衛門元康、瀬尾太郎兼康の3人は、安産祈願の一環として、鬼界が島の流人を赦免する件の打ち合わせをしていた。決定では、流人のうち、平判官康頼と丹波少将成経は赦免されるが、俊寛は清盛の憎悪が強く、赦されないことになっている。これを予期していた平重盛は、必ず清盛を諌めるように、できなければこちらの判断で備前までは連れ帰るように教経に伝えていた。教経と丹左衛門は小細工をして3人とも帰ることができるよう手筈を整え、瀬尾はブツクサ言いつつ、鬼界が島へ向けて出発するのだった。

絶海の孤島・鬼界が島では、俊寛僧都、平判官康頼と丹波少将成経が壮絶な日々を過ごしていた。俊寛に久しぶりに再会した成経は、霧島の漁夫の娘・千鳥と恋に落ちたことを語り、俊寛も妻・あづまやを思い出し、それを祝福する。
成経が千鳥を呼び寄せて俊寛に紹介していると、沖から赦免船がやってくる。赦免使・瀬尾太郎兼康が、康頼と成経のみが許される旨が記された書状を示すと、名前のない俊寛は嘆き悲しむ。もうひとりの赦免使・丹左衛門元康は、重盛・教経の心遣いの一通を取り出し、俊寛備前までは帰られる計らいをしたと言うので、俊寛も安心する。が、通行切手の人数は3人。千鳥は連れていけないと言われた成経は島に残ると言い出し、俊寛と康頼もそれなら自分たちも残ろうとする。瀬尾は怒り、流人3人を無理やり乗船させる(唐突に、あずまやが清盛に歯向かって死んだと言いながら)。
残された千鳥は嘆き悲しみ、自害しようとする。様子を見ていた俊寛は、あづまやが亡き今、都へ帰っても仕方ないと語り、自分の代わりに千鳥を都へ連れていくよう瀬尾に懇願する。瀬尾は怒って(常に怒ってるなこいつ)俊寛を船に乗せようとするが、俊寛は瀬尾が差していた刀を引き抜き、斬りつける。俊寛と瀬尾は乱闘となり、俊寛は瀬尾を倒してとどめを刺そうとするが、丹左衛門に止められる。しかし、重盛の計らいの赦免状は上使を斬った罪で打ち消し、教経の気遣いの3人分の切手残り1人には千鳥を入れて欲しいと頼み、俊寛は瀬尾の首を押し切る。一同は嘆き悲しむが、俊寛は、島に残るという千鳥を制し、赦免船を出発させる。
俊寛は、遠ざかっていく赦免船を見送る。しかし、諦めたと思ってもなお名残があり、岸から船に向かって叫び続けるのだった。(現行・鬼界が島の段)

 

第三

病が悪化した平重盛に、みなが気を揉んでいる。毎年楽しみにしていた御殿の田植えもしていなかったので(一般人がどういう生活をしているか勉強するため、自宅の庭に田んぼを作っていたのです)、気慰みのため、里人を呼んで田植えをしてもらうことに。しかし、やってきた早乙女たちの田植え唄を聞いていると、どこかおかしい。彼女らは、清盛が囲う常盤御前が館へ男を引きずり込んでいる、常盤御前に夫を奪われたと重盛に訴える。重盛は、かつて源氏の家臣・弥平兵衛宗清を常盤御前の住まう朱雀御所へ派遣し、様子を探らせることにする。

朱雀御所では、噂にたがわず、腰元・笛竹と雛鶴が道ゆく男を次々と引きずり込み、常盤御前の寝所に捧げていた。常盤御前は男に何かの書面に印形を押させようとするが、逃げようとした男は笛竹に斬り殺される。その死骸を雛鶴が埋め隠すので、常盤御前の館から逃れられた男はいなかった。
また次の男が寝所へ送り込まれてくるが、常盤御前がその顔を見ると、弥平兵衛宗清だった。常盤御前は旧臣に恥を知られて驚き、嘆く。宗清は夫に貞操を立てたあづまやを褒めて、不義を働く常盤御前を批判する。しかし常盤御前は、男を引き込んでいるのは源氏に一味する者を集め、息子・牛若丸に兵を上げさせるためだと告白する。宗清は聞かず、懐中にあった“雑巾”で彼女を打ち叩く。宗清は駆け出てきた笛竹=実は牛若丸に“雑巾”を叩きつけるが、開いてみるとそれは源氏の白旗だった。常盤御前と牛若丸は、いまでも源氏を思う宗清の心に感謝するが、宗清は譜代の主人に頭を下げさせる境遇を悔やむ。
宗清は牛若丸へ、平家に寝返った自分を討って館を脱出するように言うが、常盤御前も牛若丸も、どうしてもできない。ところがそのとき、敷板の下から雛鶴が宗清を突く。血に染まった雛鶴は、実は自分は宗清がかつて生き別れた娘・松が枝だと告白する。常盤御前と牛若丸のため、形ばかりでも父宗清を突くしかなかった松ケ枝だが、思わぬ深手を負った父を目の当たりにして嘆き悲しむ。宗清は源氏への忠義を立てた娘を褒め称え、館を出る常盤御前・牛若丸に松が枝を付き添わせ、見送るのだった。

 

第四

康頼、成経、千鳥を乗せて鬼界が島を出た赦免船は航海を続け、敷名の浦へ到着する。迎えにきた有王丸は、俊寛が乗っていないことに落胆。そんなところに、清盛が後白河法皇を伴って厳島参詣をする船がやってくる。丹左衛門から清盛への報告を横から聞いていた後白河法皇は、俊寛が帰還できなかったことにショックを受ける。それを見た清盛は激怒し、法皇を海へ落としてしまう。陰から様子を見ていた千鳥が海へ飛び込み、法皇を助けるが、千鳥は怒った清盛に殺されてしまう。ところが千鳥の怒りの業火が現れ舞いだしたので、清盛は慌てて都へ帰っていくのだった。(現行・舟路の道行より敷名の浦の段)

都へ帰った清盛は、あづまやと千鳥の怨霊に悩まされ、浸かった水が湯になるほどの高熱にうなされていた。清盛の妻・二位の尼は、清盛が仏罰によって無間地獄に沈む夢を見たと語る。また教経も、源頼朝八幡神の加護を受けて世に返り咲く夢を見たという。清盛は、あづまやと千鳥の怨霊、頼朝や牛若丸などの数々の幻覚に悩まされ、身を燃え上がらせて死んでいく。

 

第五

文覚は頼朝に挙兵を勧めるべく、彼が流されている伊豆へ向かっている。その船の上で、文覚は、源氏が平家を滅ぼし、源氏の世が訪れる予知夢を見るのだった。枕にしていた義朝の髑髏が見せてくれたのかな?

おしまい

 

 

 

*1:能の『俊寛』の解説つき公演を観に行ったときのレクチャーで聞いたのだが、謡曲俊寛』では、俊寛は康頼と成経にハブられているそうだ。理由は、二人が鬼界が島に作ったインディーズ神社(熊野三所)に一緒に参詣しないから。たしかに、義太夫の「鬼界が島の段」でも、俊寛だけ二人とは別行動していたように描かれている(俊寛だけ成経に彼女ができたことを知らなかった)。謡曲だと俊寛は容赦なく鬼界が島にマジ残されするのだが、康頼と成経はそれにも無関心で「ま、都に帰ったとき機会があったらとりなし頼むようにするよ〜」程度の社交辞令で済ませてくる。ドイヒー。

*2:硫黄島には野生化したクジャクが闊歩しているそうです。

*3:これだけを取り上げて書くと、国立劇場が差別的な演目に対し、古典芸能だからといって何の批判もなくやっていると思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、身体障害のある方を笑いものにするなど、内容そのものが非常に差別的で絶対に許されることがない演目は、すでに上演していません。ある談話で、そういった演目には技芸員さん自身も反対している−−不快でお客さんが喜ぶことはないし、自分たちもやりたくない旨−−発言を読んだことがあります。確か文雀師匠だったかと思いますが、その資料がいま見つからん!

*4:大正期の大阪の大店のお嬢様(いとはん)・京マチ子は不器量で人からバカにされていたが、心のとても美しい娘だった。京は番頭の鶴田浩二に恋をするも、実は鶴田には美人の恋人がいたという話。京マチ子がわざとらしい“不細工”メイクをして、不美人ゆえの不幸を耐えるヒロインを演じる。監督・伊藤大輔