TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 10・11月大阪錦秋公演『団子売』『ひらかな盛衰記』辻法印の段、神崎揚屋の段 国立文楽劇場

私が観た日、第二部と第三部で清十郎さんの髪型が違っていて、「変えるの、そこ!?!?!?!?!?!?!??」と思った。

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団子売。

もう、『徳川セックス禁止令』の勢いで、人数稼ぎの景事をオマケとして付けるのを禁ず!!!!!!!!

半通しの中に突然景事を入れるのがおかしいし、辻法印(チャリ場)の前におかしみ系の景事を入れるのには相当首を傾げる。出演者の人数稼ぎをしなければならない事情はわかるが、いくらなんでも出演者と客を舐めすぎだと思う。

 

それにしても、希さん、なんか、かなり痩せた……? 周囲の人との相対的な見えかな……?
そして、錣さんの弟子の聖太夫さんの見台が、出演太夫の中で一番派手で、笑った。錣さんに貸してくださいと言った結果、この事態になってしまったのだろうと思って、味わい深かった。
あとは、玉勢さん、ピクトグラム一発芸うまそうだな、と思った。


以上、企画自体への疑念が大きすぎて、いらんとこばっか気になった。
上演内容そのものについては、いずれも頑張っておられたし、こんなもんじゃろと思う。でも、このシンプル内容で「こんなもんじゃろ」レベルでいいのか。第一部の「蘭菊の乱れ」を見てしまうと、果てしなく贅沢になってしまう。

 

  • 義太夫
    お臼 竹本三輪太夫、杵造 豊竹希太夫、竹本津國太夫、竹本聖太夫(前半)豊竹薫太夫(後半)、竹本文字栄太夫/鶴澤清友、竹澤團吾、鶴澤寛太郎、野澤錦吾、鶴澤清方
  • 人形役割
    団子売杵造=吉田玉勢、団子売お臼=吉田簑紫郎

 

 

 

ひらかな盛衰記、辻法印の段。
あまり出ないので、あらすじ。

香島の里(兵庫県川辺郡)の街道沿い、「辻法印」の表札がかかったオンボロハウス。ここには、占いを世渡りにする辻法印〈吉田玉佳〉とその女房〈吉田清五郎〉が慎ましく暮らしてた。

そんな賤が家の門口へ、福島を後にしたお筆〈豊松清十郎〉が通りかかる。お筆は、行方を求める妹・千鳥の居どころを法印に占ってもらおうとするが、法印はもったいぶるだけもったいぶっているくせに、「妹は神崎で勤め奉公しているらしい」というお筆の話したことをおうむ返しするだけ。呆れるお筆だったが、謝礼を置いて、もともとの見当通りの神崎へと向かうのだった。

お筆と入れ替わりに、法印宅へ居候している梶原源太景季〈吉田玉助〉が帰ってくる。ドリーム職人・源太の居候代はすべて「梅ヶ枝」という神崎の傾城持ちで、梅ヶ枝が法印宅へ付け届けをしており、法印らもこれに助けられていた。ところが、この梅ヶ枝というのが、実は元の身はお筆の妹・千鳥で、実家を追われた源太のために名を変えて神崎で傾城勤めをしていたのである。もちろん、そんな事情は法印もお筆も知らない、運命の不思議な掛け違い。

さて、その源太は、父・梶原平三景時が義経らと共に一の谷へ出陣すると聞きつけ、ぜひともそこに軍資金を手土産にして馳せ参じ、高名を上げて勘当を解いてもらいたいと考えていた。ただそれには梅ヶ枝に預けてある「産衣の鎧」がいる。梅ヶ枝に会うには神崎の遊所へ行かなくてはいけない。それに着ていく服がない、なぜなら無職ゆえ質屋に入れちゃったから。そこで源太は義経が兵糧米を徴発すると言い回ってそのへんの百姓をだまくらかし、「弁慶」の名義で米などを集めて衣装代を作ろうととしていた。やっとることのレベルがすべて低すぎてびっくりしますがすべて本当なんです。ところが百姓たちはツメ人形なだけあって(?)一筋縄ではいかず、「弁慶さんに会いたい」と騒ぎだしたようで、断りきれなくなった源太は法印に無理やり弁慶のコスプレをさせ、百姓たちに「目通り」させてやることに……。

やがて、米雑穀を持った百姓たちが法印宅を訪ねてくる。もったいぶりまくった源太が彼らに「目通り」させたのは、顔に鍋炭を塗り、大判の夜着に女房の帯をしめ、部屋の中なのに高下駄を履いて、ありあわせの金剛杖を手に仁王立ちする法印の姿だった。キョドりまくる法印だったが、百姓たちは頭を下げさせられているので特に気づいていない。ところが、一番遠くにいた百姓だけは頭を下げていなかったので、その姿を見て「そんな弁慶おるかい」的なことを辛辣にdisりまくる。百姓たちは源太と「弁慶」を微妙な目でウオッチし始めるが、しかし詐欺師の才能だけはあった源太はそれをうまくチョロまかし、「弁慶」名義の借用書を百姓たちに渡して、うまく品物をせしめることに成功する。

こうして源太と法印は、百姓から騙し取った雑穀アンドついでに夜着やらの入ったふごを二人でかつぎ、神崎へ入るための服を買い戻すべく、質屋に向かうのであった。

※この段、現行は大幅に増補されており、原作ではここまでのチャリではない。大きく異なるのは、百姓が訪ねてきたときの、偽弁慶に対する百姓の反応。原作では、お百姓ズは「あんなもんかな?」と怪しみはすれど、陰口disまではしてこない。ただし、原作のお百姓さんのほうがある意味シビアで、「弁慶さんの紋は束熨斗ではなく輪宝では?」という異様に具体的で鋭い指摘を入れてきます。

先日、「文楽プレミアムシアター」で、過去の記録映像をネット配信していた段。それで観たはずなんだけど、内容をすべて忘れたため、初見状態で楽しめた。アホで良かった。

 

幕が開くと、すさまじいボロ屋の屋体。大阪公演名物・いきすぎた貧乏ハウス。戸口に「……辻法印」と書かれた木のデカ表札がかかっている。

幕が開いた時点で法印女房が出ており、「アイツトメマスルタユ〜」の口上をよそに裁縫道具セットを出して内職の針仕事をしている。よくある内職奥さんのように糸巻きから「つつつつ」と糸を繰り出して歯でプッと切り、襟に刺しておいた針に通して縫い物をはじめるのだが、法印女房は寄り目になって(おふくは目が動かないので実際にはなれないのだが)かなり慎重に糸通しをしており、老眼?と思った。結構ざくざく縫っていたが、しつけ縫いをしているのでしょうか。

法印は、絶妙な頼りなさ。怪しいというより、ショボーンとした悲哀が愛しい。
お筆の依頼で占いをするとき、道具を乗せた机を水平・垂直ではなく、斜めに出すのが珍しいと思った。お筆をじーっと見る虫眼鏡には、おこさま用おもちゃのように、プラ板のようなものが貼ってあった。
源太は、百姓たちから軍資金を巻き上げるため、法印に弁慶コスプレをさせる。
玉佳さんが弁慶のふりをしたら、かなり本物に接近するような気がした。だが、法印弁慶はそこはかとなくソワ…としており、「合ってる」はずなのに、なんとなく腰が座らずに引けていて、頼りない。うーん、確かに若造が弁慶を「やったつもり」になったらこうなるなっ!と思った(そっち!?)。
弁慶法印の「弁慶」メイクは、「文楽プレミアムシアター」で配信していた過去映像と、今回公演で違うようだった。配信分は確かスッピンのまま。今回は黒い隈取りのような、謎のフェイスペイントをしていた。でも、法印は小顔なのでよくわからなかった。プログラム掲載のかしら割によると、法印は「斧右衛門/三枚目」となっていたが、スッピンのほうが斧右衛門で、メイク後が三枚目?

 

お百姓ズはツメ人形だが、『一谷嫰軍記』「宝引きの段」のように長い固有のセリフ・振付があり、メイン脇役級の演技がついていた。単なるエキストラツメではできない首のひねりや肩の傾げをしているので、やっているのはかなりまともな人と思われた。
この様子を、法印弁慶が自信なさげにしきりにチラ見しているのが可愛かった。ソワソワソワソワ……とした気弱な落ち着きのなさが玉佳さんらしくて、良かった。時々、杖や足を微妙に置き直すのも、小物感が出ていて、良いです。

 

床〈豊竹藤太夫/竹澤團七〉は、チャリの雰囲気に合っていた。藤太夫ボイスの異様に辛辣なツメ百姓、やばい。さらに、ニセ弁慶の怪しい雰囲気は、なんというか、「下手な人のもったいぶった語り方」に悪意的に寄せているんじゃないかという気がして、本来の意味以上に笑ってしまった。あそこまでマジモンの悪意がある喋り方をするヤツ、文楽で見たことない。
また、お百姓ははじめは2人しかいないが、あとで2人を呼び込む。このとき、舞台にいるヤツが遠くいにいるヤツを呼ぶのだが、その「おお〜い」という声がよかった。声に遠近感があり、舞台にいる百姓は遠くへ投げかけるような上向きの声に、遠くで騒ぐ百姓は遠くで大声で騒いでいる声のように聞こえた。

今回の「辻法印」を聴いて、藤太夫さんはやはり、独自の道を歩んでいきたいのだなと思った。錣さんもそうだけど、それまで一緒にやっていたり、導いてくれた大師匠が亡くなると、それは残念なことではあるけど、同時に軛もなくなるので、その人が本来やりたかった方向に変化していくのだろうか。しかし、変化するご当人も、変化できる精神力と体力をその歳まで持ち続けているのは、すごいことだと思う。

 

段切、去っていく法印が手を振るのが可愛く、自分も手を振ってこたえたくなった。
それにしても、あのツメお百姓たち、優しいよね。disってるとはいえど、普通、あんなん、「けったいなおっさんおるで」「あほや、あほ」(了)だよ……。

 

 

 

神崎揚屋の段。

舞台いっぱいに、鈍いサーモンピンクの壁色が艶かしい揚屋「千年屋」。

梅ヶ枝〈桐竹勘十郎〉が良い。傾城梅ヶ枝は立兵庫に、黒に紅葉・桜刺繍の長い打掛、ミント色の帯は前で結ぶ鮟鱇で、その下に手を入れている。下から覗いているのは、紫系の小袖。
かつて阿古屋(壇浦兜軍記)のときに気になった動作の子供っぽさがなくなり、かなり大人の、落ち着いた傾城姿。衣装や髪型の重みに応じた所作になっているのだと思う。梅ヶ枝は源太以外の客取りをしていないので、傾城のコスプレをしている腰元(素人娘)風にいくかと思っていたため、意外だった。黒い着付の姉のお筆〈豊松清十郎〉が出てきても、双子くらいの年塩梅に見える。勘十郎さんらしく、きせるの扱いも仕草が遊女の惰性というよりどことなくお作法風に真面目で、律儀なのがちょっと面白かった。

勘十郎さんはやはり様式美的な処理が多いなと思った。*1
梅ヶ枝でいうと、たとえば「力を落としながら奥庭へ歩いていく」という所作。これをホントに力を落としているかのように見せる演技をしているのではなく、そのポーズを“力を入れて”、美的に「力を落としている様子」を表現していると思う。

勘十郎さんは写実路線を捨てている。あくまで、主役となる人形がいかに舞台の主体として見えてくるかにこだわっているのだと思う。芝居としてわかりやすく、また、「伝統芸能」らしく大時代的である。昨今もてはやされる「自然体演技こそ良し」という価値観を最大火力火炎放射器で消し炭にするがごとき戦闘的スピリット。

近代以降の文楽だと、山城少掾系・吉田栄三系の理知的な芸風への評価が高まり、そうでない芸風(衒いなく言えば人形芝居らしい荒唐無稽な芸風)への評価は下がったという。勘十郎さんはこのうちの後者、理知的「でない」方向を意図的に目指しているのだろう。
とはいえ、勘十郎さんを前受け狙いと評するのは違うと思う。そういう次元を超えて、勘十郎さんは客を向いてやっていると思う。そのうえで、荒唐無稽とはまた違った芝居らしさとして、歌舞伎的な様式美的、大時代的な演技をしているのだと感じている。余白を残さず、客の感受性に頼らない芝居は、私は窮屈だなと思うんだけど、逆に、わかりやすく知的だと受け止める人もいると思う。
普通は、わかりにくいほうが知的かのように思われている。「わかりやすさ」と「知的さ」は両立しないようなイメージがあるけど、その逆、「わかりやすいのに知的」って、現代の興行としての古典芸能ではすごく重要なキーワードになると思う。特に、劇場内で勘十郎さんファンらしき方々が話されているのを耳にすると、これを本当に実感する。答え合わせができるというのは、満足度としても、話題作りとしても、大きい。

様式美的な表現は、勘十郎さんが自分で納得できる間合いでたっぷりやれれば、もっと見栄えは上がるし、なんなら拍手待ちするくらいの勢いでやりたいところだと思う。理想的には歌舞伎の竹本のような方式なら、義太夫が役者に合わせてくれるので、いい感じにおさまるだろう。ただ、文楽だと義太夫の演奏が優先される。文楽として現実的なラインでは、うまい太夫さん・三味線さんだと、人形のかしらや人形の動き、衣装にあわせて、間合いを調整してくれる。『壇浦兜軍記』「阿古屋琴責の段」や、今年1月の『妹背山婦女庭訓』「金殿の段」はかなりいい感じになっていた。

けど、今回は………………、そこが最大の問題なんだよ、勘十郎がよく見えるかどうかは!!!!!!!!!!(突然の激怒)(茶碗をぶん投げる権四郎状態)

 

「神崎揚屋」、正直、床がかなりしんどかった。
今年2月東京公演の『冥途の飛脚』封印切の、封印を切ったあとの梅川のクドキがめちゃくちゃ長く感じられたのと、状態は同じ。
すべてがダメとは思わないけど、語りに間合い・緩急がなく、雰囲気が硬くなってしまっていて、有機的なエモーションの動きがないように感じた。「エモーションの動き」ってなんか日本語おかしいんですけど、「エモーション」って「動き」がないと「エモーション」たりえないんだなと思いました。
演奏の間合いが詰まりすぎてゆとりがなく、結果、人形の動きが率直すぎになっていた。一番気になったのは、奥庭になってからの一本調子。激情にもいろいろな激情の段階があると思う。無間の鐘を打ってでもという無垢な梅ヶ枝の激情を、その前段階も含めて、どう表現するのか。
色街の雰囲気は、得意な人とそうでない人がいるので仕方ないが、間合いとメリハリは本当に頼む、と思った。義太夫は時間が伸縮するのが醍醐味なのに、時間の伸縮がないのは、辛い。

 

思わず興奮してしまいました。

話を梅ヶ枝の人形に戻すと、梅ヶ枝の見え方では、打掛の扱いが気になった。梅ヶ枝は長い打掛を使った演技が多い。客席側に背を向けて打掛を大きく広げ、その中に源太を隠す演技、また、金のために客を取ることを決意し、源太にすがりつく際に背後を見せ打掛を広げる演技。お約束的な見せ場なので、かなり気をつけてやっているのはよくわかったが、客席から見ると早くやろうとしすぎて汚くなっている。介錯はそこまで焦らなくても大丈夫だと思う。加えて、大役における左のセンスの重要性を感じた。

でも、このあたりは保名がどう見えるかも大きいかな。第一部の保名と同じことなんだけど、源太は「これぞ美男子決定版」という人がやらないと、話の説得力が難しくなるな思った。玉助さんご自身はかなり頑張っていらっしゃると思う。ただ、人形の顔は元々美男子に作られているけど、舞台に立った状態で「美男子」かは、また別の話。源太は、役に求められる「美男子」の水準があまりに高すぎるように感じる。文楽の「美男子」、私が生きているうちに、観られるでしょうか。

 

それにしても、お金を降らせる延寿(源太ママ)は、格の高い人の出遣いで人形を見えるようにして出したほうがいいような気がするんですけど、どうなのでしょう? これだと、「怪奇!ババアの手から小判が溢れ出る障子!!」状態じゃない……??
でも、ここで登場する文楽名物・生きている小判(うれションしそうなポメラニアンのように跳ね回る)、大好きなので、あいつが出てきたということで、許す。逃げ回るハムスターを捕まえようとしているかのような梅ヶ枝が良い。
私が文楽で好きな小道具、1位、小石のぬいぐるみ。2位、内臓のぬいぐるみ。そして3位が、この生きている小判です。

梅ヶ枝が手水鉢を打つくだりでは、大道具の梅の木よりも上から花びらが舞い散ってくる。かなり小粒だけど、芝居らしい非現実的な美しさがあり、『妖刀物語 花の吉原百人斬り』を思い出した。

 

  • 義太夫
    辻法印の段=豊竹藤太夫/竹澤團七、ツレ 鶴澤清允
    神崎揚屋の段=竹本千歳太夫/豊澤富助、ツレ 鶴澤寛太郎
  • 人形役割
    法印女房=吉田清五郎、腰元お筆=豊松清十郎、辻法印=吉田玉佳、梶原源太景季=吉田玉助揚屋亭主=吉田簑一郎、仲居=吉田玉峻、傾城梅ヶ枝=桐竹勘十郎

 

 

 

「神崎揚屋」、楽しみにしていたけど、いいと思えなかったことが、自分でもショックだった……。
「神崎揚屋」は、過去映像を観たことがあるがために、これが微妙に感じるのだとは思う。トミスケなんとかしてくれとは思うけど、ただもういずれも自分の感じ方でしかないので、出演者のパフォーマンスも自分がどう感じるかも、それぞれ今後どうなっていくかを自分の鑑賞の主体にして、次に舞台にかかる機会を待ちたい。

それとは別として、人形が勘十郎さんのように全部に力を込めてやる人の場合、床は全体のメリハリのコントロールがうまい人のほうが合うと思った。
プログラム掲載のインタビューで、勘十郎さんは、簑助さんの梅ヶ枝について、源太の前で金の当てがあるかのような芝居をしているとき、一人になって気持ちが決まるときの境目が印象に残っていると語っている。しかし、これは、あくまで簑助さんの芝居を解説しているのであって、自分もそうするとは言っていない。ほかのパートに任せているのではないか。和生さんや玉男さん以上に、ある意味で、床に依存する芸風だと思う。
勘十郎さんが最も良く見えるベストメンバーでの舞台が観たいな〜。制作としては、それこそ勘十郎さんが人間国宝になった記念公演として、この「神崎揚屋」を置いているんだと思うけど……。
先述の通り、すべては自分の感じ方の問題ですが……、なんか最近、勘十郎激重勢になってきている気がする、私。

 

終演後、「源太ってなんで自分で働かないの?」と、辻法印のお百姓ズよりもキツイことをナチュラルにおっしゃっているお嬢さんをお見かけした。
なぜ働かないのか……?
それはね、自分ではな〜〜〜〜〜〜〜〜んにもできないカスだからだよ……。
最近の若い子はしっかりしているので、な〜んにもできない男を見たことがないのね……と思いました。

 

それにしても、第三部、客入りが寂しすぎて、不安になった。第一部と第二部もそんな入ってるわけじゃないけど、見に行った土日両日とも、第三部のみ整理退場なしだった。開演時間の問題なのか、演目の問題なのか?

 

 

 

おまけ

展示室にあった「神崎揚屋」大道具再現。

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亭に下がった風鈴は本物。

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枝折戸は、近くで見ると意外とかなり大きい。馬用?って感じ。人形遣いさんは舞台下駄を履いているから、ゲートの位置が高いんですね。手水鉢は舞台に出ている一個しかないのか、展示物は書割だった。

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*1:「様式美」って、伝統芸能関係の文章に頻繁に使われる、定義が極めてあいまいな都合のいい言葉なので、自分の意図するところを書いておくと、私は、「形式そのもの美しさを見せること自体が目的の表現」という意味で書いています。