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文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 吉田簑助引退[2021年4月24日『国性爺合戦』楼門の段/錦祥女 国立文楽劇場]

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4月15日、簑助さんの4月公演をもっての引退が発表された。

 私 吉田簑助は 二〇二一年四月公演をもちまして引退いたします
 一九四〇年 三代吉田文五郎師に入門し 人形の道を歩みはじめて今年でまる八一年 その間脳出血で倒れ 復帰してから二二年 体調が思うにまかせないこともありましたが 曾根崎のお初も八重垣姫も静御前も再び遣うことが出来 人形遣いとして持てる力のすべてを出し尽くしました
 今まで応援して下さったお客様 支え続けて下さった文楽協会 日本芸術振興会の方々 同じ舞台をつとめた太夫 三味線人形部の方々 そして何より私の門弟たち 本当に感謝しています お世話になりました
ありがとうございました
 皆様 どうぞこれからも 人形浄瑠璃文楽を宜しくお願いいたします
 令和三年四月吉日

 

あまりの突然のことに、驚愕。
4月公演いっぱいでの引退となると、25日千穐楽が引退日になる。正直言って、簑助さんが舞台に立てる残りの日々が限られていることは、誰もがわかっていたことだとは思う。それでも、10日前の発表とは、あまりに……。

ところが、大阪府新型コロナウイルス感染者が連日1000人を超える状況となり、17、18日ごろに情勢が変わってきて、4月25日から緊急事態宣言が発出されることになった。今回の緊急事態宣言では劇場も休館「要請」の対象となり、25日は公演中止、24日が事実上の千穐楽となった。

 

 

 

自分は引退宣言を知ってすぐに千穐楽25日のチケットを手配し、念のためその前日24日も押さえていた。

24日朝、東京駅で新幹線を待っているとき、報道に「文楽劇場25日の公演は中止」と出ているのを見て、新幹線の中で泣いた。
状況は重々承知、ここまで引っ張っていたところを見ると、最後まで協議していただろうことはわかる。国立の美術館・博物館、大阪の大型施設はすでに休館を発表しており、文楽劇場だけ特例となるとは思えなかったけど、それでも悔しい。25〜26日は周知期間でチケット販売済みイベントは開催可能と通達もされているはずで、公演ができないわけではない。中止としたのは、かなり厳しい判断だったと思う。

気が気でないまま、大阪到着。チケットはもちろん完売しており、コロナ以降はじめて補助席が出ているのを見た。それでもチケットを買えなかったり、行きたいと思っても時勢柄足を運ぶことが出来なかった方はたくさんいらっしゃっただろう。どれだけ無念なことか……。

 

 

 

楼門の段。

開演しても、もう、浄瑠璃がまったく頭に入ってこない。楼門の2階の楼閣に引かれた淡いピンク色のカーテンから、時々、きらきらとなにかが光っているのが透けて見える。錦祥女の人形が待機していて、彼女のかぶっている冠が照明を受けて輝いているのだろう。

「奥へかくとや聞こえけん」で曲調が変わり、錦祥女の出。
カーテンが開き、腰元たちが高く掲げている扇を開くと、錦祥女が姿を見せる。盛大な拍手。義太夫がかき消されて、まったく聞こえない。客を6割しか入れていないはずなのに、いままでに聞いたことがないほどの大きな拍手だった。
文楽は拍手待ちをしないので、演奏はそのまま続行。文楽でこれほどの拍手をするのは、どの出演者に対しても無礼とはわかっているが、今日だけは許して欲しい。とか言いつつ、私、これまでも、簑助さんにだけはいつも拍手をしていたが、それももう最後だ。

簑助さんはいつもと変わりなく、ムキュッ!とした強気な表情で錦祥女を遣っていらっしゃった。透明感のある、無心の美しさ。ただひたすらに父を慕う姿に、胸を打たれた。純粋な気持ちそのものが、人形のかたちを借りてあらわれているようだった。やはり簑助さんは、現実にはあり得ないような、極限的にピュアな雰囲気の女性役が映える。

先日観たときと違うなと思ったのは、動きの大きさ。簑助さんは日によって結構モーションが違うタイプだと思うが、それでもかなり大きい。以前見たときは扇を泳がせるようにサラサラと振っていたのを、時折、気持ちが昂るように、勾欄にパシッ!と当てていた。

 

いちばん印象的だったのは、最後、老一官との(そのときはお互い知るよしもない)別れの場面。勾欄の手前まで出て、伸び上がって手を挙げる演技にドキッとして、思わず手を振りそうになった。

簑助さんが、『平家女護島』の千鳥を遣われたときのことを思い出した。最後、赦免船が俊寛を残して鬼界ヶ島を離れるとき、千鳥は赦免船の縁から、落ちるんじゃないかというほど身を乗り出して、全身でめいいっぱい俊寛に手を振っていた。あのいっしんな愛らしさが、私にとっての簑助さんの、いちばん心に残る姿。

錦祥女のあの思い切った伸び上がり・乗り出しには、後ろについている介錯の人も、地上の玉輝さんもドキッとしたと思うけど、でも、もう、私たちも、現役の人形遣いである簑助さんともお別れなんだなと思った。簑助さんがどこか遠くへ行ってしまう。私たちは、簑助さんがいなくなる鬼界ヶ島に取り残されるのだろうか? もう二度と会えないなんて信じられない。観客は人形より不自由だから、俊寛のように慟哭できない。身動きできないし、声もあげられない。悲しい。
私は簑助さんとは他人同士だが、だからこそ、この世の別れのときに別れるのだと思っていた。でも、生きているのに会えなくなるのもこんなに辛いことなんだと思った。
人形遣いとして持てる力のすべてを出し尽くしました」と言うからには、もう、ゲスト等でもどこにも出ないということだろう。悲しい。

 

ピンクのカーテンが閉まり、盛大な拍手に送られて、蝶の精のような錦祥女は姿を隠した。引っ込む前に、左右にいるツメ人形の腰元が錦祥女の顔を長い柄の扇で隠すが、ツメ人形役の人、やりにくかったろうな……。隠さないで欲しかった。カーテンを閉めないで欲しかった。

 

自分がこの先どれだけ長生きできても、もう二度と、あれほど美しい錦祥女を見ることは叶わないだろうな。
オペラグラスも持っていったけど、ほとんど使わず、じっと錦祥女を見た。時々、簑助さんの目元が光っているようだった。

 

24日は義太夫も非常に良く、呂勢さんは復帰後最高のパフォーマンスだったと思う。素晴らしい浄瑠璃で簑助さんを送ることができて、本当に良かった。

 

 

 

楼門の段の終演後、「吉田簑助 御挨拶」として、短いセレモニーがあった。

ここ一年、表彰式などのイベントはすべて自粛されてきたが、大々的な引退公演もできないし(しないというご意思なのだと思う)、せめてという劇場・関係者の配慮だと思う。

定式幕を閉めた状態で、文楽劇場の制作課長の方から、本来の千穐楽である翌日25日は公演中止になるため、本日24日が千穐楽となり、先程の楼門をもって簑助さんが引退される旨の説明がされた。そして、準備でき次第、簑助さんから挨拶があるが、時勢柄、かけ声は不可で、その分大きな拍手を贈って欲しいというお願いがされた。

定式幕が開くと、楼門の大道具は出したまま、手すりは取り払って、舞台上手に簑助さんが立っていた。しっかりと不動の姿勢で立ち、人形を遣うときと同じ目の強さで、じっと客席を見据えていらっしゃった。拍手に迎えられ、客席に深く一礼された。下手側舞台中央には、一歩引いて勘十郎さん、簑助さんのうしろには、簑二郎さんが介添に立っていた。

幕があいたときから簑二郎さんはうつむいて泣いており、顔が上げられない状態だった。本当は簑助さんが万一転倒でもしないようについているのだろうけど、逆に、簑二郎さんが涙のあまりひとりでは立てないのを、師匠にすがって立っているようだった。それを見ていたら、自分も泣けてきた。

 

最初に、簑助さんからのメッセージを、勘十郎さんが代読した。

本日は、明日から緊急事態宣言が発令される大変な中、わたくしの最後の舞台を観に、こんなに多くの方々に命がけでお越しいただき、まことにありがとうございました。

一日前倒しの千穐楽で、お暇乞いもそこそこに舞台から去りますが、長い年月、観続けてくださって、本当にありがとうございました。

コロナが収束し、以前通りの公演ができることを切に願います。

これからも文楽をどうぞよろしくお願いいたします。

みなさま本当にありがとうございました。

一瞬声が震えて、ドキッとした。勘十郎さんがここで泣き出したら、もうこのあと客席もろとも滅茶苦茶になるわと思ったが、さすが一番弟子、しっかり読んでくださった。勘十郎さんは普段の挨拶等は若干芝居がかったというか、お、この人、十二分にリハしてきはったな、さすがしっかり者や的喋り方をされる場合が多いが、さすがに違う。読む稽古はしてきてるだろうけど、せいいっぱい、勘十郎さんが一番辛い立場だったろう……。

簑助さんのメッセージは、湿っぽくなく、簡素で、お客さんを笑わせるようなフレーズも入れられていて、客席はちょっとほっとした。でも、メッセージが読まれていくうちに簑二郎さんはめちゃくちゃに泣いてしまって、ひたすら顔を伏せるばかり。簑二郎さんのほうが倒れるんじゃないかと思った。普段無表情の人形遣いさんが、表情というか、生の感情をあらわにしているのを見ると、胸をしめつけられる。

 

最後に、楼門を弾いた清治さんから、花束贈呈。
司会から「鶴澤清治さんから花束の贈呈をいただきます。ええ〜……清治さん……(舞台袖にいない)お願いできますでしょうか……???」と呼ばれて、清治さんが小幕から、例の超ド派手肩衣姿で、大きな花束を抱えて出てきたのにはめちゃくちゃ笑った。
なんで簑助の引退セレモニーで簑助より目立っとるんや。新聞に出ていた写真を見ると、清治さんの派手さがすごすぎて、どう見ても簑助さんが清治さんに花束を贈っているようにしか見えない。気に入っとったんかその肩衣。清治のマイペース、最高すぎる。

簑助さんは清治さんが出てくると、少し表情を変えられた。清治さんは、簑助さんに少しだけ何か話しかけたようだった。すると、簑助さんもなにかを応えて、花束の下で清治さんの手を握り、さらに大きなお声でなにかを伝えていらっしゃったようだった。目をしっかり合わせて。お二人がともにした長い時間が解けて流れていったんだなと思った。

 

場内は大きな拍手に包まれ、簑助さんはそれに応えるように、花束を高く掲げ、客席を見回しておられた。花束の色合いは錦祥女の衣装に合わせているのだろう。朱色の包みの、綺麗な花束だった。

タイムテーブルがパツパツなためか、司会からこれで挨拶を終了したい旨が伝えられた。定式幕が閉められ、甘輝館への大道具の転換がはじまった。

 

 

 

夢の中のような時間だった。

今後はもう簑助さんが舞台に立たれないなんて、いまだ信じられない。簑助さんが自分でやりきったと思い、また、これ以上は芸が落ちると判断しての引退だとは思いつつ、もう少しは見ていられると思っていたので、ショックが大きい。移動の大きい役は難しくとも、今回の錦祥女や、正月の桜丸を、あれ以上に遣える人なんていないのに。

この先は簑助さんも「普通のおじいちゃん」になるのかなあと思うと、不思議な感じがする。
文楽を観るようになって以来、簑助さんにはたくさんの素晴らしい舞台を見せていただいた。本当にたくさんのものをいただいたと思う。
これからもずっとずっと、お元気でいて欲しい。

 

今回のセレモニーは、涙、涙なだけでなく、文楽アンド文楽劇場らしさも感じられた。
簑二郎号泣をよそに、清治さんは当然のように清治だったが、もうそれはもう清治だから清治なのだとして、司会をしていた文楽劇場の方もそこはかとない若干変わったお方オーラがあった。勘十郎さんはかしこまってるし、簑助さん本人はじっと客席を見ているし、舞台に出とる人全員違う表情しとる。五百羅漢像かと思った。

ちなみに客席も混沌としていた。引退公演と銘打ってチケットを販売していれば、千穐楽はやる気のあるファンで占められるだろうけど、今回の引退はあまりにも突然、しかも千穐楽の繰り上がりもあまりにも突然だったため、来ているお客さんのタイプもまばらのようだった。泣いている人はもちろんいるんだけど、「みの……? 何? 誰???(プログラムの技芸員一覧を調べはじめる)」状態の人、「エーモン見たわぁ! 人の人生見たって感じ!」とそのまんますぎる感想を言っている人、めちゃくちゃだった。これぞ文楽、これぞ文楽劇場、と思った。ずっとこのままでいて欲しいと思った。

 

24日の第三部終演後、引退セレモニーの動画が国立劇場Youtubeにアップされた。文楽劇場の、来られなかったファンのための深い配慮を感じた。
みなさん、是非観てください。



各新聞社の報道 

 

 

 

4月公演第二部『国性爺合戦』は、イープラスの配信サービスで本日から動画配信が開始されています。こちらも是非とも、観てみてください。

 

第二部『国性爺合戦』自体の感想記事。