TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 12月東京公演『桂川連理柵』国立劇場小劇場

毎年12月恒例、幹部抜き、中堅中心で行う本公演。今回は2部構成。

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第二部、桂川連理柵、六角堂の段。

この段、わりとどうでもよさげな内容ながら、そのぶん、ちょっとしたことがキャラクターの印象付けを大きく左右し、このあとの展開に深みを与えるのだなと思った。具体的には、お絹〈吉田一輔〉と儀兵衛〈吉田簑紫郎〉が、床机にどう腰掛けるかというニュアンス。そこに物語があるかないか。あとは、お絹がちょっとがに股っぽくなっているのが気になった。

小住さんはなぜ長吉をあんな極端な作り声で語っているんだ……? 「帯屋」で鼻を垂らしているという設定を受けて鼻声でやりたいということなのか……?? それともチャリ感を強調したいというピュアな心から……??? 掛け合いではそこまでせずとも元々太夫同士の声の違いがあるので、ちょっと唐突な印象を受けた。後半日程は咲寿さんが濃厚接触者指定を受けて休演になったので、小住さんが一人でお絹と長吉を語っておられたが、この場合はわかると思った。
それにしても、長吉さんが六角堂では鼻は垂らしていなくて、帯屋で垂らしはじめるのは、ハウスダストのせいなのでしょうか。実際には帯屋が増補されたことによる齟齬だと思うが、六角堂でもせめて鼻水を垂らして欲しい。

 

 

 

帯屋の段。

帯屋ファミリー人形陣のなんともいえないテンデンバラバラ、他人感が、謎のプラス方向にいっていた。こいつら全員他人だろ感がすごい。よくいままでトラブル起きなかったなこの一家、と思った。

おとせ〈吉田玉佳〉と儀兵衛の、独特の怠惰感。なんだこの勤勉感のなさは。玉佳さんと簑紫郎さんの元来のキャラによるものなのか。おとせはセカセカ感や性悪感がなく、カンカンに10円玉や1円玉をしこたま貯めていそうな微妙なセコオーラがあった。また、キセルで背中をかいてから、吸い口を膝で拭くまでの間がちょっと長く、鷹揚感があった。
儀兵衛は六角堂に続き、マヨネーズはキユーピーハーフを買って、カロリー半分なのをいいことに2倍かけるタイプって感じだった。それとポンタのポイントをこまめに貯めてそう。文楽劇場の裏のほうにあるローソンで。
この、「そこ???」的なしょうもないライフハックを好みそうな親子二人の、悪役だけど実はそれほど真面目に極悪悪事を働いているわけでなく、棚の下であーんと口を開けていてぼたもちが落ちてくるのを待っているくらいの「なんか得したーい」程度の適当な欲張り感は、意図ではなく偶然の産物かとは思うが、味わいがある。菅専助作品の悪役特有の「え? もうちょっと悪事頑張ったほうがトクする幅大きいんじゃない?」とこっちが心配になるような小物オーラ、いい加減さがにじんでいた。

そして、お絹の地味感が良かった。お絹=頭の良い美人妻のイメージが強かったが、よい意味で、普通の奥さん。あんまり化粧とかしてなさそうな感じ……。じっとしている間の、肩を若干すぼめた、自己主張のないちょっと暗そうな感じも良い。一輔さんの素朴な落ち着き感がMAXよい方向に出ていたと思う。この、「よーく見たら綺麗な人」「特別目立つ部類ではないが、清楚な雰囲気の奥さん」感が、長右衛門の愚かさ、「帯屋」のリアルさを高めている。どの場面もあまりトーンが変わらない印象も、お絹の諦めきった心情が出ていて興味深かった。

長右衛門は文司さんだったが、やはりどことなく、のどかなオーラがあるのがちょっと面白かった。周囲の人がゴチャゴチャ口論しているあいだ、長右衛門はずっとじっとしているが、そこで長右衛門が何か思案しているというより、人形が傾いているように見えた。この場面、人形が若干傾いていても(舞台センターから顔を背けて若干首をひねっている状態でも)それがフィジカルの傾きには見えず、なにか思案しているという印象に見える人もいるのはなぜなのか。何が違うのか。長右衛門、ほかの人形さんあってこその受けの芝居が大半なこともあり、かなり難しい、と思った。

お半〈吉田簑二郎〉はロリオーラが強かった。これもまた美少女というより、普通の娘さんという印象。動作がせわしなく、たとえばお染のような相当エエとこのお嬢さんというより、お三輪のようなわりと普通の子に近い。最初、信濃屋ののれん口から、後ろ向きになってコチラ側を覗く演技のバランスがかなり崩れていた。人形の胴の位置が低すぎて、姿勢が美しく見えない。帯屋に入って、のれん奥を覗き後ろ向きになってこちらを振り返るときも同。最後のほうの日程まであまりよくならなかった点をみるに、あのポーズ、主遣いから人形の姿勢が見えているのでコントロールしやすいかと思いきや、そうでもないのだなと思った。うまい人はうまいが(それはそう)。

このお絹と長右衛門、あるいはお半を見て、「帯屋」って、いままで思っていたほど無理のある話ではないのかもしれないなと思った。
美男美女夫妻と美少女の話ではなく、ものすごく普通の人たちの話だとすると、話のニュアンスがちょっと変わってきて、小市民がふとしたきっかけで底のない落とし穴に落ちた話のように思える。たとえば、松本清張の『黒い画集』のひとつのエピソードのような。浄瑠璃に輝くようなドラマチックさを求めていたから違和感があったのであって、地味な人の地味な話、日常系の嫌〜な感じの話と取れば、痛い中年の白々しい謝罪劇として、面白いかもしれない。

みんな大好き! お掃除長吉さんの赤鉢巻の結び方が、配役された人によって違うことに気づいた。
今回の清五郎長吉はイケメン気取りな結び方だった。芝居小屋で見たイケてる役者の結び方を参考にしたのかもしれない。しかし清五郎さんの長吉、清五郎特有の几帳面オーラが炸裂して、姿勢がめちゃくちゃよくて笑ってしまった。なんで誰よりも背筋伸びてんのか。おかげで、長吉がただの愚鈍ではなく、かなり計画的に行動する悪賢いタイプだという元来の設定に回帰していた。

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前半のチャリ場は、間合いが難しいのだなと思った。せっかくの中堅公演で、客席がしーんとなってしまうと、つらい(とか言って、自分はチャリ場では全然笑わないんですが……。チャリ場でめちゃくちゃ笑ったの、『夏祭浪花鑑』の道行くらいかも……)。まず、おもしろおかしさって、会話内容そのものや喋り方どうこうより、間(ま)の取り方が大きく左右してくるんだなと思った。何の音も鳴っていない間に一番意味があるのかもしれない。人形の待ち合わせとかそういうことではなく。それと、お客さんって結構人形につられて笑ってたんだなと思った。特に前半日程だと、床と間合いを読みきれない人形さんとの兼ね合いが悪く、床より早く人形がうなずいてしまうなど、演技のタイミングがおかしくなっている箇所があり、ちぐはぐさが先立ってしまっていた。逆に言えば、普段の配役で、早々から床の間合いを完全に読み切って演技をする儀兵衛役あるいは長吉役の人はどうやっているのかと思った。

太夫さんは、お絹の描写が良い。長右衛門のカス行動を遥か以前に感づいており、すでに諦めきったあとという心情がしみじみと感じられた。諦めきったそのあとで、それでも「私も女子の端ぢやもの」というところが良い。浄瑠璃は、時代物も世話物も、理不尽な悲劇を受け入れさせられる立場の女性描写が非常に重要だと、最近とみに思う。また、演者による違いも、女性描写で最大の差が出ると思う。
とても気になったところがひとつ。長右衛門が「実は隣の娘と懇ろになってしまった」と告白するところ、なんの逡巡もなくスラ〜っと言っていたのは、わざと? そこはさすがに奥さん前にして言いにくことやろと思うけど、長右衛門は文楽の中でも相当カスランクが高いカスなので、スラ〜っと言いそうでもある。事実、お絹が引っ込んでお半が出てきたらコロッと反省心を忘れ、そして次の瞬間またお半への気遣いを忘れて追い返し、さらにお半が自殺する気だとわかったら「そういえば昔心中しようと思ったけどオレだけ逃げたんだったなー」と謎の思い出しマイワールドに浸っている。こういう言動のカスは逡巡なく言うかもな。藤太夫さんがどういう意図で語っているか、知りたい。

 

 

  • 義太夫
    六角堂の段
    お絹 豊竹咲寿太夫(12/9〜竹本小住太夫)、長吉 竹本小住太夫、儀兵衛 豊竹亘太夫/鶴澤清馗(12/9〜鶴澤清志郎
    帯屋の段
    前=竹本織大夫/鶴澤燕三
    後=豊竹藤太夫/鶴澤清友
  • 人形
    女房お絹=吉田一輔、弟儀兵衛=吉田簑紫郎、丁稚長吉=吉田清五郎、母おとせ=吉田玉佳、親繁斎=吉田玉助帯屋長右衛門=吉田文司、娘お半=吉田簑二郎

 

 

 

現代ではとても理解できない価値観の話は上演に際し演者の力量が厳しく問われる、と思わされた。中堅公演ではちょっとレベルが高い演目だね。本公演レベルの三味線さんが支えているとはいえ、「本人たちなりに頑張ってる」ではいかんともしがたい、古典芸能の難しさをたいへんに痛感させられた。そのうえで「帯屋」をやろうとした企画の心意気はすごいと思う。ご出演の方が頑張っておられて、よいところ悪いところ、両方出ているのが良かったし、本公演で配役されるようなうまい人の、どこがどううまいのか、具体的にわかって良かった。

 

世話物で難しいと思うのが、「現代の観客に一切共感してもらえない話を、どう舞台で表現するか」という点。「共感」をフックにするのは現代ならエンタメの王道のやり方だが、古典ではどうするのか。こういう演目を見ると、はたして「共感」というのは、前近代や近代ではそこまで重要なことだったのだろうかと思う。内容的に共感のしようがなく、しかし現代人である観客は内容に共感して当然と思っている可能性が高い状況で、桂川のような演目はどうするのか。共感どころか、現代的感覚では説得力に欠ける展開をどう表現するのか。これは、自分が古典を享受する上で、いちばん興味を持っていることでもある。

錣さんはかつて『心中天網島』トークショーで、現代では理解しにくい内容を演じる上で注意していることは何かという質問に対し「まさにそういう葛藤を、葛藤そのものを表現したいと思っている」と語られたのを聞いて、驚いた記憶がある。「葛藤そのものを表現したい」という言葉が衝撃的だった。「それでも身に沁みてに受け取ってもらえるよう、現代の人に共感してもらえるよう芸を磨きます」とかじゃないんだ! 葛藤そのものを表現したいって、どういうこと!? と思った。残念ながら錣さんの紙屋は聴いたことがないし、帯屋もなかなか回っては来ないと思うが、自分勝手なカスしか出てこない系で言うと『伊達娘恋緋鹿子』の「八百屋の段」なんかを聴いたときを思い出すと、確かに、錣さんにはそういうところ、あるよなあと思った。

もうひとつ、微塵も共感できない系キャラクターを演じる上でのインタビューで衝撃的だったのが、玉男さんの『女殺油地獄』の与兵衛役についてのコメント。与兵衛を「非常に愛があると思っています。心がある人やと思って最後は遣おうと思っています」と話されていたのが、とても印象に残っている。なぜ与兵衛を愛がある人と解釈されたのかはわからないが、実際に舞台を見たら、玉男さんが言いたいことがわかったような気がした。一見理解不能の行動をとる与兵衛を「愛がある、心がある人」と解釈するのは、古典を現代において上演するうえでの解釈として、非常に納得できるものだった。

こういった出演者の意識をもっと知りたいところだが、この手の質問、今では考えられない内容ですねとか、あるいは割り切ってますと言って、ではそのうえで、ご自分が舞台でどう表現する意図があるのは話されない方が多いと思う。基本的には、どの人も「舞台でそのように勤めております」ということなのだろうが(あるいは、キチンと話しても客には理解できないという判断で仰らないなのだと思う)、こういったインタビューがもっと聞ける機会があるといいなと思う。

 

 

 

この手の世話物で楽しみなのが、終演後のお客さんたちの登場人物罵倒&オレ解釈大会。ある意味上演そのものよりスリリング。

今回は、初心者らしきお友達をお連れだったマダムが「すごい話でしょ……笑」と言っていた。そうとしか言いようがない。大学生くらいの若者男女は「長右衛門はカス。その場その場で行動しすぎ。奥さんがいなくなった途端、お半にいい顔して。若い頃の心中未遂も所詮怖くなって逃げただけ」とものすごい的確な罵倒をしておられた。あと、「3人で心中すればいいんじゃない?」とナイスアイデアを披露されているおじさまがおられたのも良かった。

帯屋を観て「長右衛門、カスやろ」と思った方は、ぜひ、『桂川連理柵』を全段で読んでいただきたい。

帯屋の後半を観て「長右衛門も本人なりに一生懸命反省してる😢」と思った方もおられるかもしれませんが、前段読むと、反省心などという殊勝な概念は一ミクロンも持ち合わせていないまじもんのカスすぎて、まじでびっくりする。先日の『摂州合邦辻』の感想にも書いたけど、見取りになって一部が独立して上演されるようになったゆえに究極的状況に陥ったすごい話に思えるというか、「きっとこの前段はすごい話なんだろうなー」という想像力を掻き立ててくれている、その想像力そのものがおもしろさを生んでいる系の話だと思う。

まず言っておくが、長右衛門、帯屋でお絹に「家のお金を使ったのはお前の弟の才次郎のためだ」とか恩着せがましいこと抜かしてますけど、その才次郎っていうのが長右衛門自身が信濃屋へ仲人したお半の婿だからね。
しかも、お半の妊娠がわかった上で、嫁入りを嫌がるお半を、お絹に説得させようとする。
奥さんの弟の嫁として仲人してる隣家の娘さんに手ェつけて(お半と才次郎の仲人を決めたのが先か、手をつけたのが先かの前後関係ははっきり書いていないけど、どっちでも怖い)、嫁入りを嫌がったら奥さんに説得させようとするって、そんなこと、ありえる??? それで才次郎の不義(芸者との恋仲)は認めるって、言動がめちゃくちゃすぎだろ。自分のお半への不始末を才次郎に押し付けようとしつつ、才次郎とお絹にもいい顔しようとしているのがサイコパス感あって、怖い。ここまで社会倫理に背いた行動をとられるくらいなら、おとせが言っているように、おやま狂いや芸子遊びしてチャラついていたほうがはるかにましだった。その点、おとせは甘い。この点の証拠をシッカリ集めて突きつけていたら、おとせ&儀兵衛は間違いなく帯屋の家督を横領できていた。

原作を読むと面白いことが、もうひとつある。現行の「帯屋」は、相当増補がされていることがわかる。「帯屋」が現代にまで伝承され上演されているのは、この増補のおかげではないかと思う。「野崎村」で、久作が久松に肩モミモミ、お光にお灸スエスエしてもらう場面があるが、あの部分も現行では相当増補されており(お光が久作の頭に点火するくだりなど)、原作にないものをやるのは悪としている劇評がある。確かに野崎村はあのチャリがあってもなくてもテーマがしっかり成立する話だけど、『桂川連理柵』の原作を読むと、「帯屋」ではそれは言えないのではないか。現代では、増補でないと上演しようがないのではと感じる。

※『桂川連理柵』全段は、『近頃河原達引・桂川連理柵』(岩波文庫/1939)か、『菅専助全集』4巻(勉誠社/1993)で読むことができる。