TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 10・11月大阪錦秋公演『新版歌祭文』野崎村の段『釣女』国立文楽劇場

歌舞伎の野崎村の舞台写真を見たら、久作ハウスがめちゃくちゃデカくてびっくりした。庄屋さんか豪農かって感じ。吹けば飛ぶよなアバラ・ハウスだと思っていたので、大ショック……。

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第二部、『新版歌祭文』野崎村の段。

どんだけ野崎村やる気やねん、呪われとんのかと思ったが、今回は通常の公演とは異なり、「おみつの母」の人形を出す原作フル上演だった。

「おみつの母」は、冒頭で「万事限りの膈病」と語られている人物。病気で明日とも知れぬ命、目も見えなくなっている。娘が好きな男と祝言を上げて幸せになることだけが楽しみ、それを冥途の土産にしようとしている設定。*1原作では後半に出があるが、近年は存在をカットして上演しており、観客も存在をほぼ意識していないと思う。前回「おみつの母」ありで上演されたのは2010年5月の東京公演が最後のようなので、10年ぶりの登場のようだ。

これまで、「おみつの母」はどう扱われてきたのか。『義太夫年表』の番付で見る限り、明治期の「野崎村」上演23回は、8割程度おみつの母あり(人形配役に役名が掲載されているので、出番ありと判断)。大正期の15回はすべてあり。昭和期は昭和11年まではありだが、13年以降はなし。このあと戦中戦後を調べられていなくて、飛んで文楽協会設立以降だと、その初期にはほぼ登場していたが、1980年代後半ごろから出ない傾向が強くなって、近年では滅多に出なくなっているようだった。戦前の芸談本などを読むと、おみつの母はカットされることがあるが(歌舞伎では文楽より早くカットが常態化していたらしい)、それは良くないという認識で、野崎村で最も重要な難しい役と考えられていたようだ。

『新版歌祭文』初演(原作)では、「おみつの母」は久作がお染と久松を説諭したあと、おみつが綿帽子をかぶって出てくる直前から、長いセリフを伴う出番がある。そして、おみつが髪を切って出てきたあとも、それが見えないので、おみつがいよいよ嫁入りするとばかり思い込んで話をしてくる(ここが怖い)。いたたまれなくなったお染が剃刀を取り出したのを見て焦った久作の言葉を聞き、おみつが自殺しようとしていると取り違え、一生懸命一間から出てきて娘の髪に触り、はじめておみつが尼になったことを知る。

 

おみつの母の人形配役は、勘壽さん。登場するくだりの床は、咲さん・燕三さん。一間の障子が開くと、色あせた紫鉢巻姿で、古びたふとんに力なく寄りかかる姿勢で登場。弱りきっているのでささやくような声しか出ず、ゆっくりと喋る。客席もしんと静まり返り、彼女の話に耳を傾ける。文楽劇場がこんなにも静まり返ることがあるのかと思うほど、静かで、不穏だった。人形の動きも、血肉のつまった生身の肉体らしい印象はすでになく、枯れ木にくっついた葉っぱがフワフワ揺れているようだった。『近頃河原の達引』の与次郎ママも盲目で貧苦に苛まれた老婆という設定だけど、それよりもうだいぶ、虚ろな印象になっていた。

 

 今回鑑賞して、「おみつの母アリ」で上演したほうが、野崎村のストーリーが引き立つと感じた。ふだんからカットしないほうがいいと思う。
おみつが突然尼になること自体は、観客を驚かせるためのハッタリ、演出であって、そこにおみつの心情がつぶさに描写されているとかいう類ものではないと思う。なので、通常通り上演していると、五条袈裟をかけて以降の展開はちょっとしらじらしく、消化してます感がある。しかし、この後に「娘は見事な花嫁姿をしている」と思い込んでいるおみつの母が出ていると、「まずい!! こんなこと知ったらショックで死ぬかも……!」と緊迫した状況になり、舞台の緊張感が保たれる。なにより、「おみっちょ、気、早すぎやろ」というモヤモヤが相当緩和される。

おみつの母が出る最大の効果は、「親視点」という、文楽らしい物語の捉え方がより明瞭になることだと思う。この話、おみつとお染どちらかに感情移入しようとするのは、少なくとも現代的感覚では、無理がある。二人ともなぜあんなカスな久松を好きなのか、意味不明すぎ(これ言ったら終わり? ちなみに全段読んでも、久松のええとこ、一切わかりません😉⭐️)。おみつは異様に判断が速くて怖いし、お染は世間知らずすぎだし。
そんな周りが見えていない若い子たち、彼ら彼女らの気持ちを最大限尊重してあげたい、幸せになって欲しいと願う大人の立場に立ってこそ、野崎村は面白いと思う。通常は久作ひとりで「若い子たちの気持ちを大切にしながら、事態をおさめてやりたい」という親視点を担保させているが、おみつママが出ると、親の気持ちをさらに別の切り口から見せることができる。
おみつママは、自我を殺している久作と違って、おみつかわいさや、自分の気持ちを明瞭に語るぶん、悲痛。*2若いおみつがお染と久松のために尼になったことはかわいそうだけど、彼女の幸せだけを楽しみにしていたその母の気持ちまで捨て去られることはあまりに痛ましい。しかも、ものすごい贅沢を言っているわけではなく、娘の幸せを願うという、ごくごく普通のことなのに……。なんでここまで残酷な展開にしているのか、恐ろしい。

 

 

個別の出演者について。

野崎村、最近はあまりによく観るので(そりゃ東京も大阪も地方公演も外部公演も行ってるからだけど)、どんどん人形の演技を覚えてきてしまい、人による差分に目をつけるような歪んだ見方になってきた気がする。

おみつは清十郎さん。待ってましたァーーーーッッッ!!!!と叫びたくなるような不幸役だった。今回はおみつママが登場するため、おみつの不幸度も通常比270%UPしているので、清十郎さんの不幸オーラが映えていた。また、清十郎さんだと演技に作為がなく、本当に真面目で純粋そう、でも決してモッサリはしていない娘さん像に落ちているのが良い。五条袈裟をかける前に拝む仕草も、几帳面で、良い。
おめかしは、赤いリボンを念入りに結び直すところが特に可愛い。変わってへんがな、って思うんですが、違うんです。電車の中で、一生懸命鏡を覗き込み、念入りに前髪のカールを直したり、マスカラをつけなおしている娘さんと同じ。あれはですね、自分が納得することが大事なんです。あのちょっとした一手間が、そのあとの自分のテンションにかかわるの。清十郎さんだと、その通りの娘心でやっていて、ヤッツケにせず、本当にまじめに結んでいるのが、良いのです。

今回おもしろいなと思ったのは、小助〈吉田簑紫郎〉が押しかけてガチャガチャ難癖をつけてきたとき、おみつが体を前へ倒し気味にして、いたたまれず苦しそうにしていた様子。久作が帰ってきて小助を追い払っても、しばらくはじっと辛そうにしていて、そのいかにも不幸そうな様子がとてもよかった。
ちなみに今回の小助はちょっと優しかった。人によっては、おみつの差し出すお茶のお盆をいかにも小馬鹿にしたようにおもっきりパカンと突き上げる人もいるのに、ちょい…と突っつくだけで、マイルドだった。

そういえば、おみつは冒頭部、祭文売り〈吉田玉彦〉が来る前に、ママの寝ている一間へ薬を持って入っていたけど、これ、清十郎さんはいつもこうしてる……、よね……? はたきやらほうきやらで室内を掃除する人もあったような……。何度も観ているわりに、記憶が怪しい。
そして、「後に娘は気もいそいそ❤️」でおみつが刻む大根は、寒くなって来て旬に入ったからか、巨大化していた。人間界なら100cm級サイズ。葉っぱも本物で、ワサワサピンピンしていた。おみっちょも大根のあまりの立派さに、きょうの夕ご飯にはふろふき大根を作ろうと思っているのだろうと思った。(なますだよ)

 

久作は和生さん。かなり似合っておられた。
たしかに和生さんだったら、こうして若いモンたちの気持ちを考えてやりつつ、ちゃんとよい方に導いてあげそうだよなあと思った。
久作は、なんだか肌がふくふくとして柔らかそう、と思った。久作は不思議と表情に生っぽいところがあった。もっちりした粘土で出来た人形の表情がコマごとに変化する、クレイアニメを観ているかのような気分になった。

そして、在所ジジイ役ながら、ちょっと垢抜けて品がありそうげな佇まいなのも面白かった。出歩くところもあまりよたつかず、さっさっと歩いている。とはいえ、爺さんなので、立ち上がるときは、ちょっと体をゆするけど。そして、村外れで久松が帰ってきたことを聞きつけて、急いで戻ってくるところがめちゃ速かった。高速和生。
それと、ちょっとした部分だが、小助が帰ったあと、藁苞を片付けるところ。いわゆる小道具片付け的に後ろにサッと捌けさせるのではなく、体まるごと後ろへ向き直って両手で片付けていたのは、久作の誠実さと和生さんの几帳面さを感じた。だからどうしたレベルの些末な演技だが、こういったディティールも意外と総合的な印象に影響を与えるなと感じた。

野崎村最大の名場面(?)、久松に肩たたき、おみつにお灸を据えてもらうところ。和生久作は両足をシュッとまっすぐに揃え、端正な体育座りをして、パンチラしないよう着物の裾をコンパクトに折りまとめていたのが、いかにも几帳面で、和生さんらしかった。おみつにお灸をつけられて、熱くて払ってしまうところも、口でアツイアツイ言ってるだけでそんなに極端な振りにはせず(そのぶんちょっと床と乖離していたが)、そっと払いのけるだけなのも上品。あの部分は、いかにも熱そうというよりは、がまんしてる感を出すのが重要らしいです。でも一回、介錯の人がお灸をつけ忘れて、おみっちょに根性焼きされそうになっていた。すんでのところで清十郎さんが合図して、ギリでつけてもらっていた。よかったね。

最後のほうで涙を拭くところ(具体的にどこかは忘れた)。あの薄茶色の着物の袖で直接拭くのではなく、下に着ているクリームイエローの下着を引き出して、その先端でトントンと拭いていた。え!?久作ってちゃんと重ね着してたんだ!と驚いた。あまりに均等に綺麗に下着のイエローが見えているので、数cmだけ縫い付けてある部分的なつけ袖だと思っていた。涙を拭き終わったら、ヒュッと戻していた。どうなっているのか、マジカル。

ところで、久作はいつお染の来訪に気付いたのか。
野崎村最大の謎のひとつだけど、みなさんは、どう思われますか? これには特定の見解の伝承があるわけではなく、出演者個別の判断によるようだ。たとえば、おみつが久松とケンカしはじめるところで「あの病面が言わしくさる💢」と、普段の彼女にない汚い言い方で第三者の存在を示唆する部分で気付くとか、いろいろ見解があるらしい。
人形は、久作の目線やその間の持たせ方で気づきを表現している人もいるらしい。和生さんはあんまりこれみよがしなことをしないので、そこまで露骨にアピールしているとは思わなかった。
個人的には、最初にお染が訪ねてきた時点で気付いてるんじゃないかなーと思う。あんなちっちゃいボロ家で、玄関口でわちゃわちゃ喋ってたら、気付くでしょ、と思うから。最初におみつが祭文売りを追い払っているところで、それに気付いて奥からノシノシ出てくるくらいなんだから、お光とお染とのやりとりにに気付いていないわけないと思う。肩もみ&お灸の途中でおみつが「戸、しめてくるっ!」と言い出しても、行かなくていいというのはお染に気付いているからこその発言という理解。個人的には、おみつの悪口「あの病面が……」で初めて気付くというのは遅すぎで、あれだけ気の回る久作にはありえないと思う。

それにつけても、和生さん、久作に似過ぎだ。2月の桜丸切腹の白太夫に続き、人形と見分けがつかない。最高すぎるので、和生人形を作って欲しい。

 

お染は一輔さん。おっとりした、いかにもお嬢さん風の仕草。エエ振袖の着物を着せてもろとる大店のお嬢さん感あります。
でも惜しい、佇まいが均一すぎ。場面によるテンションの上下が欲しい。お嬢様は人前ではしたない行動はしないというのは、確かにそう。でも、お染は相当のっぴきならない状況、妊娠していて親にも言えない状況で、後には引けない度では、野崎村の登場人物のなかでも一番のはず。久松とふたりきりのとき、特に久松に手紙をつきつけるところは、もっとガンガンいって欲しいと思った。
ただ、カミソリを出して自殺しようとするところは、2回とも、狂言ではなく本気でやろうとした感があったのが良かった。彼女なりの真面目さ、真実味があるのがとても良い。

しかし、おみつ清十郎さん、お染一輔さんだと、二人のキャラクターの差分が出にくいな。お染の描写が難しいのかなと感じる。いままでの野崎村観劇経験からすると、お染が洗練された所作の人だと、おみつが思わず「か、かわいいんですけど……!」と言ってしまう都会の娘さん感が出て、良いのではないかと思う。そのあたりは素質なので、配役次第な気がした。

 

お染ママ・お勝は簑助さんが配役されていたが、自分が最初に観たときは体調不良により休演。勘十郎さんが代役をしていた。

勘十郎さんの場合は、おみつの母が出るぶん、通常のお勝の出より大幅に後に倒し、「イヤそれには及びませぬ」で家内に声をかける少し前から戸口で待つ形式にしていた。以降の演技は落ち着いた印象で地味めに進行。

2回目に観たときは簑助さんご出演。大丈夫かなと思っていたが、籠から降りるタイミングをさらに遅らせ、声をかける時点でも籠の横に立っている状態にして、そのあとの会話をまたいで室内へ移動する方式にしていた。歩くところはちょっとヒヤヒヤしてしまったが、普通に座って演技するところでは、美魔女お母さんで、普通にお染より可愛い。人形から体を離して遣っているのと、くりくりした人形の動きに対し簑助さんの動きがほぼないので、人形が独立してくっきり浮かび上がって見える。印象が非常に自然だった。
簑助さん、お元気そうではあったが、これだけの出番の役であってもかなり負担なのだろうなと感じた。無理はなさらないで欲しいです……。

 

久松役が文昇さんだったのには「なぜこんな地方公演風配役?」と思ったのだが、意外とハマっていた。というか、かなり良い。目立つような余計なことをせず、おみつとお染、久作とおみつママを立てるように振舞っていた。あの「いるような、いないような……」感、絶妙。二人の娘さんから思いを寄せられるようなモテ男感や、二人の諍いに戸惑ったり誠実に向き合っている印象をカットしているのが結構効果的だった。個人的には、久松はこれくらいがいいです。

 

今回は、段切の旅立ちの部分の演出も変更。
普段は「お染、お勝が乗った船は、ある程度進行したら障子を閉める」「船頭が落とした竿を取ろうとして川へ落ちる→泳いで追いつく」という演出が多いと思うが、今回は障子開けっ放しでお染もお勝も最後まで顔を見せており、船頭〈吉田玉翔〉は川に落ちず乗ったままという演出だった。そのため進行の間合いが若干違う。これは人形側の判断で意図的に変更した演出のようだけど、玉翔さん、これしか役ないのに、よくそうしたなあと思った。あれくらいの年齢の人で野崎村の船頭しか役がつかないって、本当はひどいと思う。

 

床、いままで野崎村を何度も聴いているけれど、三味線さんによって段切の雰囲気がかなり変わるなと思った。燕三さんはある瞬間からパッと切り替えたのが明瞭で、そこで雰囲気が明るくなったのが良かった。そこまでは相当悲惨な、内面的で閉じた世界の話をやっているのに、突然野崎村というひなびた土地本来ののどかさ、素朴で明るい世界に回帰したようだった。
燕三さんはおみつの嘆きの「ア丶冥加ないこと仰ります」のところのつなぎも、こぼれ落ちる涙がキラキラしているみたいで、とてもよかった。燕三さんはうまいと思った。(客全員知っとる)
呂勢さんはおもしろかったけど、お染のクドキの「聞こえぬわいのと」「恨みの丈を友禅の」のところがダマのようになっていたのが気になった。丁寧だが音が上がりきらず、なめらかさに欠ける。難しいところだけど、「友禅」。品は良いが、高音が出ていないため友禅の華やぎ感がなかった。9月も音が出きっていないところがあって気になったが……。

 

  • 人形配役
    娘おみつ=豊松清十郎、祭文売り=吉田玉彦、親久作=吉田和生、久三の小助=吉田簑紫郎、丁稚久松=吉田文昇、娘お染=吉田一輔、下女およし=吉田和馬、おみつの母=桐竹勘壽、駕籠屋=桐竹勘介&吉田玉路、油屋お勝=吉田簑助桐竹勘十郎(代役)、船頭=吉田玉翔

 

 

 

釣女。
狂言『釣針』をもとにした松羽目物。あらすじは以下の通り。

独身の大名〈吉田玉勢〉は、太郎冠者〈吉田玉佳〉を連れて西宮のえびす神社へ参詣し、妻を授かろうと考える。一晩中お社に籠っていた二人は、西の門のきざはしに妻がいるという霊夢を見てさっそく西の門へGO。すると、その足元に釣竿が引っかかる。いつも釣竿を持っている恵比須様のこと、これで妻を釣れというお告げだと思った大名は、早速その釣針を垂らす。やがて、その先にピチピチの絶世の美女〈桐竹紋臣〉がひっかかってくる。大喜びの大名は、太郎冠者に酌をさせて早速祝言をするのだった。
美女の美女ぶりに、太郎冠者もまた妻が欲しいと乞い願い、大名と同じように釣り針を垂れる。するとまたかなりピチピチした女が引っかかってきて、太郎冠者は大喜び。ところがその女の顔を覗き込んでみると、フグのようなオフクチャン〈醜女=吉田勘彌〉だった。めちゃくちゃ吸い付いてくる醜女に、大慌てする太郎冠者。大名は恵比須様から授かった妻だし、みんなでめでたく舞おうよと言い出す(自分さえよければほかのことに無頓着なタイプ)。四人で仲良く舞っていると、太郎冠者が美女を連れ去ってしまう。大名は大騒ぎして追いかけ、醜女は大激怒してぴょんぴょんするのだった。


大名と太郎冠者、この2人、大丈夫か……。
という観客の不安感が文楽劇場に充満していた。まったくシャレにならないシリアスな珍道中感がすごい……。『まむしの兄弟』的な、かしこさひかえめな愛らしさが出ていて、とても味わいが出ていた。

 

何より、人形・太郎冠者役の玉佳さんが似合いすぎ。あの絶妙なトンマ感、味わい深すぎて、誰にも真似できん。瞳孔が開いたまったくの無の表情で、一切何も考えていなさそう(晩酌でストロングゼロを何本飲むかだけは常に思案中)なあたりが、現場猫的なオーラを感じる。なんか、「やきいも作ろ」とか言って、アルミホイルでグルグルに巻いたさつまいもを、電子レンジ最大出力で温めようとしそう。と思った。
あと、主人である大名に「あの山、なんて名前?」と問われて、眉と腕をハの字型にして「山でござる」ということろ、古典的なおもしろおかしさを超えて、そこはかとないサイコ感があって、味わいがあった。私も山の名前を聞かれたら「山でござる」と言えるよう、ハの字眉の稽古をしておこうと思った。

というか、何より、玉佳さんがめっちゃ嬉しそうなのが笑った。出てくるとき、なんでそんなに嬉しそうなんだ。本当は人形遣いが表情を出しているのは良いこととは思わないんだけど、あまりの心からのピュア・スマイルに、こっちも笑った。

そして、大名役の玉勢さんの生真面目感……。涼やかで若々しい雰囲気がかっこいいのだが……、ものすごく………………いきすぎた感じに真面目そう…………。率直に表現すると、生真面目すぎて、その……、バカそう………。じゅうたんについたペットの猫の毛をとるため、走り回る猫のかたわらで、永遠にコロコロかけてそう。と思った。

 

太郎冠者の、美女に対するキモ行動は最高によかった。大名に促されて美女にお酌をするところ、やたらと美女の顔を覗き込んでいるのがまじで気色悪い。こういうオッサン、おる。と思った。そして、美女の振袖を引っ掴んでスリスリしたり、のれんのようにめくってコンニチワするところはまじでキモくて良かった。人間がやったらその場で顔面粉砕されても文句は言えないセクハラ。それがキモくないのは(キモいけど)玉佳さんのご人徳だと思う。ひたすら嬉しそうだった。

美女も負けてはおらず、最後、揚幕に連れ込まれるときには、太郎冠者の頭を扇でバシバシ叩いて反撃していた。途中、太郎冠者にしがみつかれて、ハトよめのようにピエエエエエエと伸びているのも良かった。
美女、外見は可愛らしく艶やかで、仕草もみずみずしく美しい。それこそ古典芸能でしか成立しえない、生身の女性の人間らしさを排除した、役割としての、虚構的な美女だと思う。
でもこの美女、酒を飲むスピードがめちゃくちゃ速い。大名より速い。おしゃれ立ち飲みバルに来たお勤め帰りのお姉さんか?っていうものすごい自然体ぶりで一気飲みしていた。あとからむせる演技があるので、その説得力のためにやっているのだとは思うが*3、呑み慣れオーラがあまりにすごくて、大名は今後大変なことになりそうだと思った。

醜女は元気よくピョンピョンする仕草が可愛かった。足を吊っているので、動きがチョカチョカしているのも愛らしい。太郎冠者に吸い付くアクションは、ものすごい勢いで飛び上がっていた。松方弘樹のマグロ釣りかと思った。あまりの跳躍力に人形のかしら同士がぶつかり、ガチッ!という音が鳴っていた。
最後、みんなが舞台を去ったあと、ひとり残って片肌を脱ぐところ。謎の間合いがあり、そこで突然真顔になるのも良かった。

あと最高に良かったのは、4人揃って踊るところですね。振り付け同じなのに、そこはかとなくてんでんばらばらで良かった。タイミングは合ってるし、それぞれ踊りとしては成立しててちゃんとしてるんだけど、扇の掲げ方や構え方のクセが違っていて、「うん、みんな、自由に生きてる!!!!」って感じだった。

そして、文楽劇場だと、松羽目物でもステージが広くて閉塞感がなく、良い。

 

  • 義太夫
    太郎冠者=豊竹藤太夫/竹澤團七
    大名=豊竹靖太夫/鶴澤友之助
    美女=豊竹希太夫/鶴澤清公
    醜女=竹本三輪太夫/鶴澤清允
  • 人形配役
    大名=吉田玉勢、太郎冠者=吉田玉佳、美女=桐竹紋臣、醜女=吉田勘彌

 

 

 

当初は「なんでこの演目……?」と首をかしげた謎2番組の第二部、観てみたらかなり充実していた。

野崎村はおみつの母が出るなら企画として理解できる。野崎村にはもうひとつ、簑助さん・和生さん・清治さん・咲さんの人間国宝に認定されている人たちを固めて出すという意図もあったようだけど、個人的には、そういう豪華出演者を訴求する企画をやるなら、格調高い時代物でやって欲しいと思う。それができないのは、体力的問題が大きいんだとは思う。

そして、釣女はさらに「いらんやろ……」と思っていたけど、玉佳さんと玉勢さんのヤバコンビのおかげで、謎の方向に味わいが出ていて、良かった。兄弟弟子で揃えたのが、よかったのかも。

 

それにしても、人形遣いで、人形よりも先に「人形が向く方向」を本人が向いてしまう人、かなり気になるな。オッこの人形つぎにコッチ向くなとわかってしまって、人形の見栄えに対してノイズになる。
それと、人形が方向転換で回転する際、人形遣い(持っている本人)が非常に目立ってしまっている人。具体的には、人形を軸に回転するのではなく、自分を軸に回転してしまったり、持っている腕を中心に回転してしまっている場合。急に視界へ人形遣いが入ってくるので、結構ノイズになるよなあと思った。

 

 

 

おまけその1。

野崎村で面白いと思うのは、お染はおみつのことをなんとも思っていない点。『妹背山婦女庭訓』のお三輪が橘姫にキレまくるのはもちろん、『義経千本桜』すしやですら、若葉の内侍はお里に目をつけて維盛のつれなさを口にする。でも、お染の場合は、おみつのことは一切視界に入っていない。あの気のつかなさ、心なさは重要だと思う。大店のお嬢さん表現(天然のウエメセ)としてはもちろん、すでに久松のことしか考えられないという精神状態になっているという表現としても。

今回、『新版歌祭文』の原作をすべて読んでわかったのだが、お染は徹頭徹尾、久松との恋のことしか考えていない。そして、それを本質的に理解してくれる人(気づいている人)は誰もいない。たとえ親たちがどれだけ計らっても、それは彼女の身の安全や今後の人生への心配であって、彼女の想いそのものは別の場所にあり、本人にとってはそれが叶うか否かのみが問題としている。

物語のクライマックスでは、恋愛沙汰以外の社会的しがらみ、つまり金銭トラブルやお家相続関連の揉め事はすべて解決される。にもかかわらず、お染と久松は突然心中してしまう(本当に最後の数行で心中して「終」)。ふたりの心のうちは誰にもわからなかった、ふたりは社会的しがらみと関係ない次元で恋を成就させたということだと思うが、この点は、『曾根崎心中』のような異様な簡潔さがある。

これを踏まえると、野崎村の時点で、お染がおみつのことを一切気にかけておらず、当たり前のように下女扱いするのも、わかる、と思った*4

 

 

おまけその2。

溝口健二監督の映画『浪華悲歌』(1936)の文楽観劇のシーン。
四ツ橋文楽座で撮影されたもののようです。このころは枝折戸が出ていたんですね。演技内容は現行と同一で、お染が小石を投げたり、お光が頭にお灸を据えたりする場面が見られます。久作が「おみつはどこも覗きゃせんがな」と言うところで股間を覗き込んで、きゅっと足を揃えるところは、いまよりかなり露骨にやってるかな。現行だとここまでやってる人、いないかも。トーキーなので、義太夫も聴けます。

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おまけその3。

展示室に置かれていたお染の人形。なんだろうこの表情……。人形は置かれているだけだと、やっぱり、ホラー感が強い。

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吉田文五郎オリジナル襟袈裟。和生さんが引き継いで保管していたものを、文楽劇場に寄贈したとかなんでしょうか?

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*1:注:「おみつの母」は久作とは再婚で、おみつは前夫との間に生まれた娘。

*2:お染のママ・お勝も、このあとの段「油屋」で、お染に説諭するくだりがある。久松から小助がだまし取った金やら、久松の父が紛失した刀と家の復興やらの問題が解決したあとも、嫁入りの決まっているお染の立場はまだ解決されない。お勝は、お染が久松の子を妊娠していることに気づいている。おなかの子をどうするか。その心残りと難題を、母として娘に諭すため、突然、「最近芝居小屋へ出入りするうちに、そこの若衆と通じて妊娠してしまった」とお染に告げる。油屋を切り盛りする立場を考え、おなかの子もせっかく大きくなってきてはいるけど、密かに堕胎薬を手に入れたので煎じてきて欲しいと言って、薬をお染に渡す。もちろんお勝の話はすべて作りごとで、久作がお夏清十郎に託して久松に諫言したように、お染を説得する手立て。お染はこれを聞き入れて山家屋へ嫁入りすることを約束する。お勝もまた、山家屋に早く離縁されるように願うと返す。そのあと家内の騒ぎにお勝が気を取られているすきに、お染は久松と示し合わせて自殺してしまう。

*3:あのむせ演技、曲輪文章の夕霧と同じアレとしか思えん。

*4:お染からすると、MAX気遣いしてると思うけど。おそらくいつもおかあさんがやってるのを見ていて、こういうときは、たしかこうするんだよね?って感じに差し出しているので。