TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

三谷文楽『其礼成心中』PARCO劇場

これが久しぶりの文楽になるとは思ってもいなかった。

渋谷パルコリニューアルに伴う、パルコ劇場再開館記念企画のひとつ。三谷幸喜演出作品を3演目上演するうちの第3弾、2012年初演の同作の再演。

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新型コロナウイルス感染拡大防止対策を踏まえた公演形態。入場時に足裏消毒×2(両方踏むのが難易度高)、手首検温、手指消毒、チラシやアンケートは直接配布なし。客席は、最前列販売なし、左右を1席ずつ千鳥に空ける方式で、販売が半分以下だったが、それでも満席になっていなかった。土曜の昼という普通は混雑するはずの日程でも、後方席には人がいない状態。

文楽だけでなく、ほかの2演目でも客入りが減少しているようだった。表面上はチケット完売でも、多くの払い戻し希望が出て目立つ空席が発生し、主催者がチケット転売サイトへの出品を許可していたようだ。でも、「なんか今日は人少ないなー」っていうときの文楽劇場より、だいぶ入ってるよね?って感じだったので、そんなにショッキングな光景ではなかった(クソ失礼)。

客の立場からすると、左右に人がいなくて楽。上演中に喋る人もいないし、静かに見られて良かった。この状態、興行側はやればやるほど大赤字、出演者からするとテンション下がること限りなしだと思うが、この感じで来月落ち着いて本公演を観られると思うと、ありがたい部分もある。

 

 


古典の現代アップデート企画って、新作か新演出か、題材の東西を問わず大量にあるけれど、本作は料理でいうと、カリフォルニアロールとかバーモントカレーみたいな感じだった。本場で楽しむ本物とは別に、外の世界で気軽に楽しむためのもの。観光気分だったり手軽さだったりを重視して、オリジナルのコピーに執着していない、割り切りのよさがある。

タイトルが示す通り、ストーリーは世話物のパロディ、メタフィクション的な展開になっている。話が途中から始まることもなく、セリフを追っていけば物語を簡単に把握できる作りだった。古典芸能だけどわかりやすいですと闇雲に銘打つのではなく、わかるように書いてあるのは、とても誠実。(あらすじは記事末尾参照)

 

舞台装置は現代演劇らしく、簡素なもの。屋体などのドールハウス的屋内表現はなく、黒い空間にシンプルな書割を立てることでその場その場を表現する。シチュエーションは屋外が多いが、古典作品だと長話になるときは屋外であってもお人形さんが地べたに「ぺと……」と座りはじめるところ、立位のまま進行する場面が結構多かった。人形遣いの下半身を隠すような手すりは基本的になく、舞台最前にかなり低い手すりが設置されているのみ。パルコ劇場は客席の傾斜が強いため、中〜後方席だと人形遣いの足元まではっきり見える状態になっていた。舞台下駄もなし。また、本公演のような舞台二段構成での移動ではなく、ステージの奥行きや任意の段差を使って人形が自在に動けるようになっていた。人形を高く持ち上げることで水中に浮遊する表現をするなど、元々人形は宙に浮いていることをいかした演出もされていた。

床は客席に出語り床を張り出して設置する方式ではなく、人形より後ろ側、舞台奥に高台を設置して、そこで演奏を行っていた。初期の人形浄瑠璃の芝居小屋を模したものだろうか。出語床が回転して交代するのと同様に、横へスライドして床が交代する。三味線さんは譜面を見ているようだった。また、今回の特例だと思うが、三味線さんはマスク着用(ライトグレーのウレタンマスクみたいなやつ)。かけ声なしの演奏だったけど、呼吸が大変そう。

人形遣いは全員黒衣。黒衣の下にフェイスシールドを着用しているのではないかと思う。照明が頻繁に反射していた。照明はかなりキツめで、シーンによって人形の表情が飛んだり、ピンライトが大きすぎて人形遣いに当たり黒衣の存在がかなり目につく状態だった。あそこまでいくと、黒衣の存在をあえて目立たせるため、わざとやっているのかもしれない。

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会場で販売されていたブックレット(床本、というか脚本集)のまえがきには、脚本・演出の三谷幸喜氏から以下の言葉が寄せられていた。

(略)『其礼成心中』は会話中心で物語が展開します。まるで現代劇のように。だから、こんなに長くなってしまいました。床本としては、異例の厚さだと思います。元来のテンポで上演したら、恐らく四〜五時間の大作になる分量です。でもそれを、どこもカットせずに二時間の上演時間に納めた時、『其礼成心中』は初めて現代のお客さんに楽しんで貰える作品になります。(略)

実は、この内容で上演時間2時間は長いと思っていたので、これを読んで、ちょっと驚いた。むしろ引き延ばしてるのかと思ってました……。

本作では、ドラマティックな事件は起こらないし、あっと驚くようなひねりもない。普通の人の普通の話ということがコンセプトになっているのだと思う。それをあまりに真面目に展開させているので、舞台に出る言葉=あらすじ=説明になっていて、間延びした印象があった。

この作品、三人遣いじゃなくて、全員ツメ人形でやったほうが面白そう。三谷氏の言う、「特別でない、一般の人たちの物語を掘り下げる。それがこの作品のメインテーマです。」というのに文楽として本気で取り組むとしたら、ツメ人形じゃない? 文楽に出てくるマジモンのパンピーって、やっぱ、ツメ人形でしょ。(マニア向けすぎ)
いまの時点でも、キャラクターのありかたがツメ人形っぽい。宝引のお百姓ズや寺子屋の迎えのオッチャンたちの印象に近い。この話に出てくる人物って、見た目や喋り方のような表面上の個性はあっても、あまりに素直というか、みんな同じ向きを向いていていて、おなじ理屈や行動規範に沿って動いている感じがする。顔立ちはそれぞれユニークでも、脳をクラウドで共有しているツメ人形たち的なイメージがある。

登場人物全員が普通の人という話では『近頃河原の達引』や『壺坂観音霊験記』を思い出す。あれらは相当うまくできてるんだなと思った。物語にエモーションがあり、登場人物の感情の起伏やそのやりとりがストーリーを牽引している(感情の動きそれ自体が主役)というのが演目の魅力として大きいんだな。文楽に出てくる人々って、お人形さんのサイズ感以上にデカくてクソ重い感情を抱いていて、その重量でいっぱいいっぱいになっている感じがあるよね。ああいうのは文楽ならではだったんだと気付いた。

 

ていうか、これ、もしかしていわゆる人形劇企画だったりする? NHKのテレビ人形劇の大人版・舞台版だと思うと、腑に落ちる。太夫がマイク使用だったり、三味線がほぼ伴奏扱いだったり、人形の動作の特性を引き出す本になっていないのは、そういうこと?

端的にいうと、この本、素浄瑠璃では成立しないよね。歌舞伎でいうなら、義太夫狂言に対する純歌舞伎的なものとしての人形劇をやりたかったのかなと思った(賛否は別にして)。
杉本文楽を観たときは「杉本氏は浄瑠璃に関心はあっても、人形に興味ないんじゃないか」と思ったけど、三谷氏は、人形を使うことに興味はあっても、義太夫に興味ないんじゃないかなと思った。

 

 

それにしても、半兵衛が近松に文句をつけるくだりは、あまりに筋が通っていないんじゃないだろうか。

本作には「創作が現実に影響を与える」というテーマがあるのだと思う。そこに整合性を取ろうとしすぎて、牽強付会になっているように感じた。特に、本物の九平次が迷惑していると言い出すのはさすがに唐突で無理がある。また、本作では近松が世話物をメインに書いていたかのように受け取れるけど、実際には作品数は世話物より時代物のほうがはるかに多いはず。近松は半兵衛の言う通りの、はじめから終わりまで自分で考えたものを書いていたことになる(先行文芸等の影響は別として)。なぜあのくだりをわざわざ入れたのか。チグハグな印象を受けた。 

 

 

 

床には満足、興味深い演奏。呂勢さん、千歳さん、靖さん、三味線のみなさん、良かった。

呂勢さんは昨年9月ぶりに見た。もう1年近くになるか。少しお痩せになっただろうか。上からきつく照明が当たっているから頰がこけて見えるだけかな。でも、以前と変わらぬ様子での演奏で、安心した。呂勢さんって、演目によって似合う似合わないが結構別れると感じるんだけど、本作は合っているように思った。千歳さんはとてもお元気そうだった。先日国立劇場から発表された「文楽公演における出演者の飛沫飛散状況について」の実験結果は笑い事じゃないけどおもしろすぎてめちゃくちゃ笑ったが、千歳さんも試験して結果を教えて欲しい。床の下にいる人形さんには絶対かかってたと思う。

オッと思ったのは靖さん。驚くほど、おヤス・パワーで全体に見応えが出ていた。靖さんって、世話物の「しょしょっ」と喋る一般人、めっちゃうまくない? まぁまぁ……、みたいな、目の前にいる人に向かってちょっと声を穏やかにして落ち着かせるように話しかけるところに妙に実感がある。実はおヤスは私たちの知らないところで万引きGメンをしていて、犯人に説諭しとるんとちゃうかと思った。

 

太夫・三味線のパフォーマンスには満足しているが、音響関係でものすごい不満がひとつ。それは、マイク・スピーカーを使用していること。
先にも書いたが、この公演では床の位置が初期の人形浄瑠璃の芝居小屋のように、舞台奥の高台に設置されている。そのためか、太夫の声を胸元のマイクで拾い、スピーカーで客席へ流しているのだ。
音響が下手なのか技術の限界なのかわからないが、声のディティールがかなり消えている。遠くから聞こえる想定の声が遠くから聞こえる声の印象に、小声になるところで小声の印象にならないのが気持ち悪かった。そのうえ、効果をかけるのはちょっと。太夫の演奏意図を理解して調整するのが難しいのであれば、生音にして欲しい。ステージ奥で演奏する場合、出語り床より大幅に音が聞こえづらいのは事実。でも、呂勢さんや千歳さん、おヤスの声がパルコ劇場程度の空間に負けるとは思えない。
もし、床の位置が人形のうしろというのが近松時代を意図した演出なら、ますますもって、マイクなしでいくべきではないか。文楽へのリスペクトを言葉で示しても、肝心の義太夫演出がこれでは、と思う。

 

 

 

人形は全体的にちょっとなーと思った。脚本通りにはやっているんだろうけど、それ以上ではないというか……。地の文での人物描写が少ない分、人形での描写が欲しいところ、人となりや内面的な膨らみ、チャーミングさが感じられない。また、明確なパロディとして『曾根崎心中』『心中天網島』の舞台をそのまま再現するようなシーンが入っているが、現状では、どういう場面なのか、本物を観たことない人には伝わらないと思う。むろん、全部が全部ダメなわけではなく、近松と半兵衛の対話シーンで一瞬燈籠の影から姿を見せる九平次は良かったんだけど。九平次の唐突な完成度激浮きには、ちょっと笑ってしまった。

普通の人を主役にするのなら、普通の人の機敏を表現できる人形遣いを配役しないと企画として成立しないと思うけど、本作は企画自体に出演者ありきの部分があるみたいですね。三谷氏がどこまで演技指導したのかは、ちょっと気になった。

本作の内容と関係ない部分では、半年間にも及ぶ休演というブランクのせいだと思うが、明らかにスキルが落ちていると思う節があった。この状況、本公演が始まったら、どうなるんだろう。

 

 

 

文楽どうこうとは違う次元で気になったこと。

アートや現代演劇が好きで観に来ているお客さんは、「ちょっと気の利いた、変わった演出」をどう捉えるのだろう。ざっくり挙げると、半兵衛とお勝が川へ飛び込むところ、人形以外に懐中電灯を持って腕まくり+ゴーグルをした黒衣が舞台に出る、みたいな演出に飽きないのかなーと思って。黒衣を介入させるのはあまりに手垢がついた手法だと思うんだけど、これ見て面白いと思えるのか?(というか、これをやるなら歌舞伎じゃない?)
大学生のときは小劇場系の現代演劇を観に行っていたが、この手の気が利いてる風の演出を何度も見せられるのが好きになれず、観なくなった。よく舞台観劇する方は、既視感のあるちょっと変わった(この矛盾が無理だった)演出をどう感じているのだろうかと、今でも思う。

あと、半兵衛やおかつが娘のおふくを不器量だと言ってしつこく笑いを取るシーンがあるが、いまどきこんなセリフを平気で上演していることにドン引きした。2020年にこれを上演する神経を疑う。

 

 

 

本作にはいろいろと工夫が凝らされていて、それによって逆説的に、あ、文楽ってこういうものだったんだ、私はここに魅力を感じていたんだと気づいた部分がたくさんあった。

こういう古典の新作に対して従来のファンがどう観るかというのは、観察している分にはいいんだけど、自分の領域だと、どうにもモヤモヤが大きいな。(歌舞伎とかオペラとかでも、従来ファンが騒いでいるのをチェックするのが面白いという根性曲がり芋)
個人的には、出演者側がもっと前のめりにいけば、より面白くなりそうにも思う。

そういうわけで、Youtube国立劇場チャンネルの文楽配信を観つつ、次回大阪の錦秋公演の開演時間が10時30分なことに備え、新幹線に乗り遅れたり開演時間に遅れたりしないよう、四つ足で駆け回る練習をしようと思います。

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  • PARCO劇場オープニング・シリーズ 三谷文楽『其礼成心中(それなりしんじゅう)』
  • 作・演出=三谷幸喜/作曲=鶴澤清介
  • 太夫=竹本千歳太夫、豊竹呂勢太夫、豊竹睦太夫、豊竹靖太夫
  • 三味線=鶴澤清介、鶴澤清志郎、鶴澤清𠀋、鶴澤清公
  • 人形=吉田一輔(半兵衛)、吉田玉佳(おかつ/九平次)、桐竹紋臣(おせん)、桐竹紋秀(おふく)、吉田玉勢(六助?)、桐竹紋吉、吉田玉翔(小春)、吉田玉誉(政吉?治兵衛?)、吉田簑太郎、吉田玉彦、桐竹勘介、吉田玉路、吉田簑之、吉田簑悠
    *人形配役はカーテンコール参考。若男系の役は、人形自体の見分けがつかなくて、よくわからなかった。あと、大近松が誰だったか、忘れた。玉勢さん? それと、若者のうちの誰かが、口上人形として出てくる三谷幸喜役(ツメ人形)をやっていた。
  • https://stage.parco.jp/program/sorenari2020/

 

『其礼成心中』あらすじ

元禄期の大坂。竹本座で上演された近松門左衛門作の人形浄瑠璃『曾根崎心中』の影響で、ここ天神森には心中志望の若い男女が次から次へと押し寄せ、心中をかましまくっていた。今日もまた1組、六助とおせんが森の中でお初徳兵衛気取りで盛り上がっていると、近所のまんじゅう屋「鶴屋」の主人・半兵衛がやってきてそれを阻止。半兵衛は店のそばで起こりまくる心中事件アンド死体ゴロゴロ状況に業を煮やし、夜毎森をパトロールして心中しようとする若者をとっ捕まえていたのである。しかし今夜の六助とおせんは異様に心中に執着しており、説教に耳を貸さない。半兵衛は彼らを家に連れ帰り、事情を聞いてやることに。

店番をしていた半兵衛の女房・おかつは、心中者を連れ帰ったという常にない夫の行動にびっくり。若者二人に店のまんじゅうを勧めながら話を聞いてやると、おせんは油屋の娘で親の決めた許嫁がおり、六助はそこの手代、一緒になりたくてもとても親の許しを得られそうもないので、心中しようと思ったと言う。半兵衛は駆け落ちすればいいと言うが、おせんはどこへ逃げても親に必ず見つかってしまうと嘆く(何を根拠にそう言ってるのか、よくわからなかった)。おかつは気の逸る二人に心中の惨めさを説き、おせんには嫁入り、六助には仕事に励むことを勧め、いつかおせんの夫が喉に餅を詰まらせるなどしてポックリ死んだとき、六助が暖簾分けされて自分の店を持てたなら、そのときに一緒になればいいと説得する。そういう自分も娘時分は好きな男がいて、親の決めた半兵衛と一緒になったと言うのだ。二人はその言葉に納得し、まんじゅう代を受け取ろうとしないおかつらに見送られて家へ帰っていった。

半兵衛はおかつにそんなことで夫婦生活が長続きするかと問うが、おかつは今このとき生きようと思ってもらえればいい、おせんも時が経てば夫を好きになるかもしれないと語り、念のため二人が森を出るまで見守って欲しいと頼んで夫を送り出す。それと入れ替わりに、ふたりの娘・おふくが寺子屋から帰ってくる。泣きわめくおふく。寺子屋で「おまえの家のまんじゅうは死を呼ぶまんじゅう、曾根崎まんじゅう」といじめられたのだった(まんじゅうと心中がかかっているの、わかりにくい)。それを聞きつけた半兵衛は、まんじゅうを「曾根崎まんじゅう」と名付け、おかつの人生相談をつけて高く売り出す便乗商売をはじめようと言い出す。

その結果、閑古鳥の鳴いていた鶴屋は大繁盛し、一家の暮らしは裕福になる。おかつは急な贅沢暮らしやまんじゅう代の高額さに不安になるが、半兵衛はお構いなしで楽しめばいいと思っている。そこへ、1枚のちらしを持ったおふくが駆け込んでくる。そのちらしは竹本座のもので、網島を舞台にした近松門左衛門の心中ものの新作『心中天網島』が上演されているという内容だった。心中客を取られてはたまらないと慌てる半兵衛は、おもしろそうだと言うおかつを連れ、早速竹本座へ『心中天網島』を観に行く。そこから帰宅した半兵衛が芝居の出来のよさにぼーっとなっていると、またもやおふくが駆け込んでくる。なんと、網島の天ぷら屋が人生相談付きの「かき揚げ天網島」を売って大評判になっているというのだ(これ、いも天網島とか、ごぼ天網島のような、天が語尾につく天ぷらのほうがよくない?)。パクリやんけー!といきり立つ半兵衛、『心中天網島』の大ヒットとともに鶴屋の客は網島の天ぷら屋に吸い取られてしまい、たちまち家業は傾いてしまう。半兵衛は、それもこれも近松のせいだと息巻き、駆け出していく。

近松が原稿を執筆しているところに現れた半兵衛は、人の商売をめちゃくちゃに振り回すな、話を書くなら実際の事件を取り上げず、最初から最後までオリジナルで書けとわめき散らす。近松はそれに構わず筆を進め、実際の事件をモデルにしたほうが客が喜ぶからとどこ吹く風。事実をモデルにすることによって実在する関係者に迷惑をかけていると食い下がる半兵衛だったが、相手にされない。半兵衛は近松にしがみつき、『曾根崎心中』の続編を書いて欲しい、曾根崎の森に再び心中ブームを起こしたいと願う。すると、近松は、「それなり」の心中事件が起これば、それをモデルに書いてやってもいいと言い出し、半兵衛を追い出してしまう。

一方、半兵衛おかつ夫婦の一人娘・おふくには、親に言えない恋人があった。実は、網島の天ぷら屋へ偵察に通ううち、そのボンボン・政吉と恋仲になっていたのだ。家同士のライバル関係に二人は思い悩むが、おふくは思い切って父に打ち明けることを決意する。

そのころ困窮極まった鶴屋では、もう夜逃げしかないと悩む半兵衛に、おかつがどこへでもついていくと寄り添っていた。帰ってきたおふくから政吉のことを打ち明けられた半兵衛は猛反対、おふくはそれなら政吉と心中してやると騒ぎ出す。しかしおかつに取りなされ、半兵衛はおふくには好きにさせることにして、喜んで政吉のもとへ走っていく娘を見送る。おふくが幸せになりさえすればいいとしみじみ感じ入る半兵衛だったが、明日をしのぐ銭もない身の上には変わりはない。半兵衛はおかつに、ここで心中しようと言い出す。それを近松が取り立てて芝居にしてくれれば曾根崎にまた人が集まり、まんじゅうが売れるようになる。おふくはしっかり者なので、政吉とともに店を盛り立ててくれるだろうというのだ。

二人は天神森で首をくくろうと出かけるが、森の中では人に発見されない可能性がある。そこで淀川に飛び込むことにするが、実際に水へ飛び込んでみると、ゴボゴボとひたすら苦しいばかり。半兵衛は気を失って沈んでいくおかつを助け上げ、結局川岸へ上がってしまう。ビシャビシャの二人がこれでは風邪を引いてしまうと家へ帰ろうとしたところ、かつて天神森で助けたおせんと六助が現れる。あの後おせんは嫁に行き、六助は暖簾分けされて自分の店を持った。そしてついにおせんの夫が喉に餅を詰まらせてポックリ死んだため、二人は晴れて夫婦となったという。おせんはあのときのまんじゅう代として、おかつに小判を手渡す。去っていくおせんと六助を見送る夫婦は、これで借金が返せると運命の巡り合わせを不思議がる。外食して帰ろうという半兵衛を節約が肝要と止めるおかつは、持ってきたまんじゅうを割って二人で食べようと差し出すが、まんじゅうは水に濡れてベシャベシャ。しかしこれも心中に水を差す「水まんじゅう」としてある意味イケるとつぶやくおかつ。半兵衛もそれは商機と喜び、二人は家路につくのだった。