TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

くずし字学習 翻刻『女舞剣紅楓』五巻目 長町美濃屋内の段

翻刻浄瑠璃 『女舞剣紅楓』の翻字五巻目。

長町にある三勝の家。三勝は父・美濃屋平左衛門、娘・お通と貧しい暮らしを営んでいたが、どうも父とは訳あり風。実は平左衛門は小勝・三勝姉妹の実の父の弟で、死んだ兄に代わって姉妹を養育しつつ、家に残った借金を返済していたのだった。しかしその借金も今日で完済。小勝に遊女の勤めもさせずに済むと喜んでいた平左衛門は、押しかけてきた善右衛門&長九郎から三勝が負わされた巨額の借金を知って仰天。そんな美濃屋へ、さらに訳あり風な女が訪ねてくるが……。
この段は明治期の稽古本にも掲載されている有名な場面で、現在でも伝承がされているのではないかと思う。

 

それにしても、私がのろのろと記事を更新しているうちに、この『女舞剣紅楓』の翻刻玉川大学出版部から刊行されたようです(国会図書館が新規所蔵したことにより気づいた)。自分の手元では全文翻刻が終わっているので、全文アップできた後に読んで、読めなかったところの答え合わせをしようと思います。正確で校訂された文を読まれたい方は『義太夫節浄瑠璃翻刻作品集成』第六期をご参照ください。

 

 

 

いままでの翻刻

 

 

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五巻目

 

 

 

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此広い大坂に住所さえ長町と言。の葉種の露ふかき。うらのこがらし吹そらす。みのやとかきし

目印の暖簾の文字はふとけれど細き煙のかせ世帯。心に波のたへまなく。家内のるすに

只一人リ。台鼓のふすいが浄るりも。憂節しげく聞へける。主ジみのやの平左衛門。此頃興行の

台頭。太夫は娘三勝が。楽屋見舞いの戻り足。ふすいは見るより。平左様お帰りか。何ンとけふも

嘸入たでござりましよ。イヤハヤけふとい見ン物。何があの昔の。仏御前や静御前のやられた白

拍子の舞は。台頭と同し事じやと。北脇から中カ船場。モ丶近ン年のはづみやう。マア悦んで下さ
れは。三勝が北国落八橋物語。何の事はない打割ました。貴様もちといて見てござれと。娘

 

自慢を取リまぜて。咄すけいきもいさきよき。マア/\おめでたうござります。夫レといふも三勝様の

名代だけ。わしも台鼓やめて狂言のあどにでもやつてほしい。扨とお帰りを待たは。市蔵様の

御様子。此頃聞ケば近江とやら伏見とやら色々の取リ沙汰。あんまり心元トなさに。向ひがはの小勝様に

逢にいたれば。是もしかへとやら年ン明キとやら。すつきりと訳が知レぬ。モあんまり気遣イさに。マア

ちよつと問に参りましたが。どふでござりますと。小声に成ツて尋れば。ヲ丶馴染だけ迚奇特

/\。ア移ればかはる人の盛衰。去年ン迄も春迄も。市蔵様の旦那のと。這廻つたわろ

達チが。ア丶いふ御身にならしやつたれば。ひとりあほうの様にいふて。かともいひてがござらぬ。しつて

 

 

 

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の通り娘小勝が恩を見た旦那殿。殊に半七殿の訳も有レば疎にもならず。三勝や見ン

なが世話で木津村にマアひつそく。お淋しからふと思ふて。小勝もやつて仕廻ました。スリヤあの揚

代を取ラずにや。ヲ丶サ。ア平左様男じやなふ。どの様にしても三十両一分ンづゝはとれる小勝様。

しやか如来を親方にしてもそふはいかぬ。何ンとわたしらがお見廻申ても大事有ルまいかい。ホ丶人は

しらず貴様は別格。すきならば見廻しやれ。そんなら私も身揚して出かけましよ。気にかゝつたが

落付たと。咄す内よりがち/\と。寒さを忍ぶ平左衛門。ふすいは見るより。アめつそうな。重着してさへ

けふの寒さ。此冷るに素布子一つ。ちやつとま一つ着さしやませ。ハテ物好キなとすゝむれば。イヤサ人

 

には癖の有ル物。かう寒ふても重着すりや。気色が悪ルふて起て居にくい。しやう事なし

の素布子。テモ奇妙なこりやならぬ。聞てさへひや/\する。それはそふとけふは隙でもある。これ

から木津へ参ましよ。ヲ丶そりや寒いのに御太義。いてなら旦那に心得て。姉にあんまり呑

おんなと。よふいふて下されやと。いふもそこ/\出て行。アいつ見ても気がるい坊主と。いひつゝそろ

/\火燧箱。かち/\打て仏壇へ。灯明上ケて何故か。腰にさげたる帳面を。位牌へ備へ伏拝み。廻

向鉦さへせはしなく。なまいだア/\なまいた/\なまいだ。願以此功徳。みだ平等と。廻向の表へ立

帰る。浮名にふれし。三勝が。娘お通が手を引て。楽屋戻りの取リ形リも。伏見常盤にことならず。

 

 

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ヲ三勝戻りやつたか。きのふもいふたになぜにお通を連ていきやるぞいの。肝心の太夫に子が有ル

といふては見物の見込がない。コリヤぼんよ。あすから付イていくなよ。おりや夫レでもかゝ様ンがるすなら淋し

い。アレ聞て下さんせ。何ンぼでも聞事じやござんせぬ。ぢい様ンのいはんす事コレよふききやゝと。親へ気

兼もどこやらに。義理有ル中と聞へける。平左衛門はじろ/\と。お通が着ル物打ながめ。此着物はいつ仕て

着しやつた。サレバイナ聞カしやんせ。世にはしほらしいお方も有ル物。十七八な女中が此門トを通つて。此子

を見てはかはいがり。人形やつたり菓子やつたり。此つぎ/\も跡の月おこしてゞござんした。ハテなふ夫レはしほらし

い。なぜ呼込で礼いやらぬ。わしもそふ思ふてゐれど。るすの内斗リ間ちがふて逢ませぬ。したが此

 

廿日程根から見へぬげにござんす。夫レで此子が明ケ暮。おば様ンがお出んといふて。毎日門。口に待ツ

て居ます。ハ丶丶丶丶坊主めが又人形をしてやらふで。おぞいやつじやと咄シさへ。親子の中の水いらず。夫レは

そふと此半七様ンは見へぬかへ。イ丶ヤさたはなかつた。又此半七様ンでも有ルそ。けふ見へいでは済ぬ事。よも

や如在は有ルまいが。内の首尾でもわるいかと。心につもる思ひ種。物案じの体見るよりも。ハテ用

が有ルなら見へるであろ。其間におれも一休。坊主もこいと手を引て。奥の一ト間に入ル折から、色と悪

との二タ筋元結。あたまがちなる善右衛門。長九郎連レ立ずつと入リ。顔見るよりもハツトせしが。是は/\お

二人リ様。よふこそお出とあしらへば。何ンしやよふお出。わるふお出じや有ふがの。サア八十両の金いたそ。長九郎

 

 

 

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もしる通り切月さへ三度目。ことけふが絶体絶命。サア金渡せ請ケとらふ。ヲ丶長九郎が付イて居る。

金渡せサア受ケ取ル。返事はどふする三勝と。両人左右に上ケ股打。めつきしやつきのしゆらの鬼。責苦

を見るもかくやらん。三勝は気の毒の胸はさはげど押シしづめ。市蔵様の御難義を半七様ンが引

受ケて。救はしやんした恩の金。早速あげる筈なれど。ア丶これ/\おりや半七に借はせぬぞや。証文

の名当テはそなた。所詮金では得済すまい。ナア長九郎。いか様大和作り例れを当テにする口上なら。迚

も埒の明カぬ事。サアあるいたと両方から。両手を取ツて引立る。振リ払ふて。コリヤどふさんすどふするの

じや。連レていんで女房にする。ヱ丶穢しいいやらしい。手をさやつたら噛つくとこはさ悲しさ身もふるはれ

 

逃んとするを動かせず。いやでもおゝでも連ていて女房にすると。むりむたい。取付キかみ付キ追イ廻し。

ヱ丶めんどいと両人が引立て行後より。見兼て出る平左衛門。二人を掴んでづてんどう。箒おつ取りう

/\/\。打て/\打のめし。人の娘にわるぼたへいにあがらぬかとしめ付ると。ぐつとねめたる有様は。心地よくこそ

見へにけれ。三勝は小気味よく。それ見やんせのよい形リと。笑へは両人ふくれ顔。何ンとこゝらはあぢいな

所じやなア。質取て金借シて。質もおこさず金も返さす。その上にゑさし箒。シヤほんにおかしい

わい。ドレ家主で聞てこふと。立て行を。コリヤ/\待テ。たとへ三勝が金借ツてから女子の事。高が百匁か二

百匁。質のはちのとかさ高な。何ンほ程の事じや。済してしまふワレぬかせ。ヲ丶ぬかさいしや是見いと。

 

 

 

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懐中より証文取出し。是でもかゝぬか是でもかと。ひろげて見すれば。ヤア/\と思ひがけなく仰

天し。ヤアこりや三勝を書キ入証文。銀子四貫八百匁。ハツトせき上三勝が。胸ぐら取て引廻し。

サ丶丶丶女子のぶんで大胆な。大まいの金何ンで借リた何にした。おりやあんまりで物がいはれぬ。ヱツヱわれ

はなア。親の心子しらずと。はら/\落る涙をおさへ。コリヤわいらがほんの親はな。おれが為には兄貴。みのや

平左衛門といふてな長町の住人。死れる時枕元へおれを呼で。家に付イた借銭が凡十貫匁余り。

兄弟の娘を売ツて成リ共済してくれ。惣領息子も有ツたれど。生れ付た悪ル者故七つの年シから

内を追出す。所詮物には成まいけれど。若シ根性も直たら。勘当を赦してやつてくれと。借銭

 

の事と子供の事を。言死にした兄貴。アいとしやと思ふより。中村屋安右衛門といふおれが名をば。みの

や平左衛門といふ兄貴の名にかへて。十七年以来相続した此家。おのれやれ娘も売まい。借銭ン

も済そふと。心は鬼神ンとはやれ共。もとではなし気をもむ斗。利銀は重なる先キはせがむ。栓方な

さに。血の涙をこぼして。姉の小勝を自前奉公。ア兄貴の娘に勤をさす此金。一銭でも蹴込

ではどふも平左衛門が立ぬと思ひ。コリヤ是見い。極寒の冬でもどてら一ツ点。がた/\ふるふをこらへてゐ

るはな。身の為にせぬ兄への言訳。其誠が通じてや。けふといふけふ十七年目に。借銭ンの根切リして。アレ

見い。仏壇に備へて置イたは。借銭方の請取帳。是さへ済せば。モウ小かつに勤さそふやうがないと

 

 

 

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思ふてな。コリヤ市蔵様へやつて仕廻た。ヤレ嬉しや忝や。千部万部のお経より。コノナ一冊の請取帳

は。兄貴が冥途の闇路をてらす広太無量の弔ひと。たつた今位牌へ上ケて。回向した借銭ン

なし。舞子さすさへ無念なに。我身を書込ンで八十両の借銭。コリヤわいらを売て喰とおもや

な。コレ此艱難はせぬはやい。半七殿の手前も有ルに所存者義理しらず。おれが心を無にする

と涙はら/\打はらひ。身体の底心の底。打明カしたる真実は聞も。哀に頼もしき。始終を聞て三勝

は。何と言訳詮方も。泣しづみてぞ居たりしが。ア丶有がたや忝や。千万無量の詞にも言ほしがた
き御恩の程いつの世にかは報ずべき。八十両のこの金も。半七様と相談で。市蔵様のお為なれば

 

さら/\我身の為ならずと。聞て驚く平左衛門。スリヤ半七殿と相談で。市蔵殿の御用にか。ハア

はつと斗に当惑しあぐみ。果たる風情なり。二人はそろ/\にじり寄。何と借たが誤りか。よふ此様

にぶちすへたなア。娘に金を衒して同志打ちの狂言かやい。そふせふより手を出して。盗をせい平左衛門

と。聞クよりぐつとせきのぼす。胸おさゆれば三勝が。泣ク程二人は付キ上り。サア金済せ受ケ取ラふ。金が

ないなら三勝せう。二つに一トつの返答せい。こな大衒め泥房めと。手は得さゝず悪ツ口を。聞ク無念さ

も親の事。思ひ過して涙をはらひ。皆お前のが御心。ながふと申シませぬ。日暮迄に才覚して

急度お済し申ませう。コリヤ/\娘。日暮レ迄はマア一ト時。わりや済す当テが有かよ。なふて何ンの

 

 

 

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申しませう。そんなら日暮レが一寸ン延ても引ツ立ていぬるぞよ。いかにもいなとは申ませぬ。よいは奥

へいて待ツて居よふ。必筈を違へなと。打連レ立ツて奥へ入。無念を忍ぶ平左衛門。見るめ苦しき三

勝が。とゝ様ンもちとの内お枕なされお気休めと。せわやく娘もふ便ンさに。すご/\。立て行跡に。

心一つで。とやかくと。夫トの遅さ待チ兼て見やる表テへ夫レならで、色もすがりの匂ひ有四十余りの

女房が。用有そふに表テ口の暖簾の家名に小うなづき。ちと御免ンなりませとずつと入。こな

さんが舞子の三勝殿といふのか。いかにもわたしでござんすが。けふはいかふ取リ込ンでおめにかゝるも

そこ/\。用ならあしたの事にしてと。我くつたくにあしらいも花のあたりをよけて吹クたばこのけふり

 

つきほなくいへ共いなぬ揚口。そろ/\あがつてそばにより。ついにあふた事はなけれど。五年以来聞

及んだ三勝殿。わしや大和の五条茜屋の半七が母でござる。ヱ丶と恟りアノそれはといはんと

せしが気味悪く。うろ/\するを見て取ツて。イヤこれ三勝殿。若シやわゝしうこなたをば。わゝりにき

たかと思はしやろがみぢんもそふした心はなし。草で育た大和の女子も梅の色よき難波の

女郎も。色に迷ふは同じ事。わしやこなさんに礼いひに来ました。アノ見るかげもない半七に

ほだされて。なんぼの出世も目にかけずかはいかつて下さる。かげで聞てどの母ても嬉しがるまい様が

ない。殊にお通といふ子迄もふけた三勝殿。まめで顔見て嬉しいと余念なければ気も落付。

 

 

 

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半七様の母御様迚。さつてもきつい御すいほう。そふ御存の上からは。何を隠さん様もなくしんじつ

ほんのかゝ様に。逢た心と打とけて底意渚の海士おぶね。こぎあふせたるごとく也。イヤはて世の中

に君傾城をれき/\が。嫁にするも有ならひ。ア丶早ふすいた同士。半七と夫婦にしてむつまじ

い顔見るならば老行末の楽しみと。明ケ暮思ふて居ますると。聞て飛立嬉しさに手を合す

れば其手を取。思ふ事儘ならぬこそ浮世なれ。わしやこなたに無心が有てきましたと。詞の中チよ

り是はいかな。頼ミの無心のとは他人向。どの様な仰でも背ぬが嫁の役と。いふに顔見るより涙ぐみ。

近頃無心な事ながら。半七と縁を切て下され。ヱ丶丶と恟り。アノ半七様ンとかへ。いかにも。そりやならぬ。

 

わしやいやじや。一チ夜流レのあだ夢も別れは惜き人心。まして馴初もふ五とせ。子迄なしたる半

七様炎の中には暮ラそふが。あなたをのいて片時も浮世の日かけが見られうか。むごいつれない

どうよくな。別れといふ字は聞てさへ。胸にしみ/“\悲しいと。恨涙にくれ居たる心ぞ思ひやるせなき。

ヲ丶悲しうなふて何ンとせう。去ながら此母がいふ一ト通り聞て下され三勝殿。アノ半七にはおそのと言

て。言号の女房が有。呼取てもふ三年祝言の日を極めても。こなたとふかい半七いかな事得

心せず。同じ内に住ながらつゐに一チ言ン物いはず。親父殿の腹立無理でもなし。嫁の親の方からは。

大事の娘をすもりにして妾狂ひする半七。聟には取ラぬ取戻すと。やつさもつさの一チ門中。私

 

 

 

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がそだてがあまいから半七が気儘すると。言ももとが気の廻り。根が親父殿は入聟。それ故尻

にしかれると一ツ家中にいはしては。親父様迄あほうになる。其上夫レを苦にやんで。おそのはとうから気

のかた煩ひ。聞ても居てゞござらふが。二月キ跡から此樋の上に出養生。日増におもる病の床。

見るも悲しさいぢらしさ。せめて一チ日夫婦にして此世の年もはらしてやりたさ。義理と情に詮方なく

子迄有二人の中を。縁切に来た此母が心の内を推量して。思ひ切て見てくだされ。かはいがらしやる半

七をふ孝者といはそふと。孝行者といはそふと。コレこゝがしんぼうじや。了簡をして下されと。語ルも

涙聞クも涙ともに。思ひの渕ならん。三勝はたゞうろ/\とのくも苦しくいな船の。いな共いはず胸せま

 

り。涙にむせびゐたりしが。つど/\母の詞をば聞クに思ひのむすぼふれ。とけぬ氷の釼キをば呑込ムつらさ

せつなさをこらへ涙の玉の緒も。きらねばならぬ縁ならば。逢ての上かとやせんと。心一トつにせめられて。

何とか胸を極めけん。我レと我身に暇乞ひむせぶ涙の顔を上。申お袋様ン。ふつつりと思ひ切リました。ヤア

すりやアノ半七と。縁切ツて下さるかと。とはれて猶もないじやくり。何はともあれわたしがのけば。半七

様ンのお名も出ぬといふ事は。よふしりぬいておりますれど。つゐした訳の中でもなし。五年以来馴なじ

み。子迄もうけていつしかに。去年より今年はふかう成リ。けふはきのふに増思ひ。神や仏の御異見でも。

思ひ切ル瀬のあらばこそ親にも子にも我身にも。かへていとしき殿御をはふ孝といはせしおその様ンの。

 

 

 

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お恨や。おふたり様のお嘆キが。あなたの御身にかゝるのが。わしや悲しうてならぬ故。あかぬ別れを致し

ます。思ひさらふと思ふ程恋の罪科思ひのしゆら。胸の煙はあびしやうねつ八かん地獄の涙のつ

らゝ。今身の上に責られてわく方もなき三勝が。心の内のせつなさを推量してたべお袋様。わ

しや義理詰になつたかと目元トうろ/\髪乱れ。わつと斗の託泣目も当テ。られぬ風情なり。

母も涙にくれながら。せな撫おろしなでさすり。ヲ丶道理じや/\。のいて下さる仏より。のかしに来た此

鬼が最前からの悲しさは。行末我身がいくつ迄。生キながらへるしらね共。一チ度に年シも寄ル思ひ。よう

のいて下さつた。三方四方の義理も立。半七が身の行末もよいが上にもよかれがしと。思ふも

 

親の因果からいぢらしいめを見ますると。逢を別れの嫁姑。顔見合せてハアはつと。嘆ク涙は湖の。

一チ夜に出来しもかくやらん。いつ迄いふても同し事もふ泣て下さんなと。しほ/\立てモ丶いにま

する。半七とこそ縁はきれ。孫のお通も有ル事なりや心はやつぱり嫁姑。煩はぬやうにして下

され。礼とてはいはね共。今から朝晩此母が、こなたの寿命を祈ます。ア苦しみの世界やと行ん

とするをコレ申。お通にちよつと逢てやつて下さりませ。ぢい様やばゝ様の所へはいつ行ク事でこさるや

と。逢たがつたおさな心。せめてツイ。顔なりと。言イもおはらず泣入レば。いや/\逢ますまい。縁きらし

ていぬるさへ悲しいに。孫の顔を見たなら猶悲しうて成ますまい。むごいきつい鬼ばゝじやと。いふて

 

 

 

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聞して下されと。互の涙くりかへし。見送クる足も行足もしどろ。もどろの憂別れ泣別。れてぞ

立帰る。始終を聞てや平左衛門。目を擦こすり奥より出。ヲ丶三かつよふのきやつた。千年ン万年ン

添よりも縁切ツて進せるが。半七殿へはきつい心中。したが日暮レ限りの八十両どふせうと思ふて

居る。イヤモウかういふ品に成たれば。半七様も見へまいし。ハテ善右衛門所へ参りましよ。お通か事を

頼ます。ソリヤ気遣ひ仕やるな。おれが乳でもなふらしてだいてねよふわいの。常からそなた

を廻してかた時はなさぬめろめ。ねざめ/\がおりやどふも成ルまいと。聞より三勝身をふるはし。畳

にくひ付泣さけびけふはいかなる悪日ぞ。かはいひ子にも夫トにも。あかぬ別れの数々は。何の報ひ

 

かあさましやと。又もさめ/“\くどき泣。平左衛門も倶涙。といふて一チ年ン中泣て斗リも居られまい。

勝手へいて顔でも洗や。物言やいふ程悲しうなる。サアまあ奥へと親と子が共に心を思ひや

りなく/\一ト間へ入にける。かく共しらず半七は。足もいそ/\門の口。ヤレ/\久しうこなんだといひ様

奥を指のぞき。なむ三客が有ルそふな。大方今ン度の台頭銀主のはり金や殿で有ふ。先ツ落

付キに一ツぷくと。たばこ引よせ遠慮なく。家内見廻し。コリヤ身体が直つたか。屋根ぶしんが出来た。

寒作りの拵か隣の酒屋のがつたらこ。賑やかな商売しやと。いへ共待テ共人切レなし。ハテめんよう

な。足おと聞クと飛で出る三勝。きつうおとなしうなられた。こんな時にはこつちから逢たう成ルが

 

 

 

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色の癖。ドリヤお通めが顔見よふと明る一ト間の内よりも。お通はようねておりますと。いふ顔じろ

/\ながめやり。どふじやきつう色がわるいの。どふでも初日の出た当座。酒が過キた物じやあろ。たし

なみや/\。扨と。彼内々の八十両宇治屋の隠居からくる筈が。御病気でこぬ故に段々の延引。

そなたのいかひ世話であろ。したがどふやらかうやら調ふた。落付キ給へと懐中より。どつかり下に八

十両。三勝見るより飛立斗。なければ済ぬ此金の。かふ調ふもまだ縁の。尽ぬ命の宝ぞと

手に取リ上しが下に置き。半七様ン。此金はどふして出来たへ。サレバサ。しりやる通リ親父とはふ付キ合で。二両

三両の金さへ自由にならぬ身の上。八十両といふ金高。急に才覚の仕様もなし。どふがなと

 

思ふ内。親父の内へ大和から取寄セられた此金。てうど八十両指当て入ルでもなし。ほしや/\と思ふから

サア悪ルい事は染り安い。彼いつぞや衒から請取ツた。吉慶よしの贋小判おれが手に有た故。金箱へ

摺かへて当分遁れの一工面と。聞て三勝アノてゝご様ンの金を贋金と摺リかへて。ハテ四五日の間

を渡し。又取かへて置ク分ン。マア善右衛門へ済してしまやと。いへど心も済やらず。若も夫トの難ン義もや

と。心付ク程身を切ル思ひ。ほしうてならぬ八十両半七が傍へ指戻し。モウ此金は入ぬわいな。ソリヤ又なぜ

に。度々切月か過た故せん方なさに。わしや善右衛門様の所へ行筈に成たわいなと。いふに驚キ

ヤアわれはと。いはんとせしがそりや誰レに相談して。相談相手は私が胸。夫レではわれどふも立ツまい

 

 

 

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がな。立ツの立タぬのといふはとつと昔の事。合せ物ははなれ物。人の心は花染と。歌に紛らすうき

思ひ。胸に涙を押シ込の。襖に顔をそむけゐる。半七はさはげ共さすがに何と男気の。こら

ゑ袋の口しめて。金懐中しずつと立。かたへに有あふ鏡台の。鏡をはつしと抜キ打に。切はなして

両手に持。合せ物に限らず。かう堅う鋳立テたる天下一の鏡でさへ。一念ンを以ツて切ル時は此通リに

放れる。破鏡再び照らさすといふてみがき立た此鏡も。かうわれ/\に成時は満足な顔は見ら

れぬぞよ三勝。相談相手の胸の鏡をナ打わつては物がない。照すも曇るも砥のこ

のかげん。思案して置ケ後にこふと。はれぬ心を押なだめ立て行をマア待ツたと。奥より出る平

 

左衛門お通を連レて。半七殿。鏡をみがく砥の粉をやりましよ。コレ爰にゐるお通といふ。かはい

ひ砥の粉で。曇切た胸の鏡をとぐ様にと。子にひかされて半七が。胸をなだむる教

訓も。仇に成リ行思ひ子の。お通を連レて立出れば。かゝ様なふといふ声に思はずわつと三勝が。コレなふ

待てとかけ出るを。コリヤ/\。爰がしんぼうと。歎ク娘を引連レてとゞむる涙行恨後チの哀を残し行。もと

はうは気で逢馴初て。ふかう成ル程逢れはせいで。隣座敷に引クしやみも。我身の上と三勝

が。涙にむせぶ思ひ草。奥には二人の牛頭馬頭が。三国一じや酒に成すましたしやん/\。嘸半

七様ンが憎ふて/\成ルまい。わしやみぢんも心はかはらぬぞへ。金のかはりに女房になれと。せがみ立テられ

 

 

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返事もならず。ほんにかなしい身の上では有わいなア。お通がねざめに乳も呑ずにヱ丶かはいやと。

死るに極めし心根の。誠としらで半七はかはる心のつれなさを。思ひ晴さん頰かぶり一ト腰さいて

門口に。たゝずむ思ひ泣涙。内と外とにふたせ川。かはる心ぞぜひなけれ。今さら善右衛門が所へ

やつてはどふも男が立ぬ。思へば憎いやつじやなアと。露それぞ共白草の内には三勝奥口見廻し

忍び出んとする後へ。三勝どこへとずつと出る善右衛門。人に酒をしいて置イてヱ丶憎いぞへ/\。何と半

七に心残りなか。イ丶ヱ残るの残らぬのとは。ふたり思ひの有ル人の事。わしやもふ一筋にソリヤ誰を。はて

お前をいな。そふ思ふて給はれば。拙者も急度心中立るじやてや。ナアニうそばつかり。今こそそふ

 

いはんすれお前の所へいたならば。つゐ飽んすで有ふな。何ンの/\。こちの親父を八まん地獄で鯷に

する法も有レ。君と我レとはふたばの松よ。松がいやならふたばの檜の木。てんとびやゝらいたまらぬと抱

付ケば。ヲ丶嬉しと。又しめかへし機嫌取リ。ぬけて出んと思ふ気をしらぬ夫トは立聞キの。足もわな/\身もふる

ひ。歯を喰しばる無念さの。涙ほのほをあらそへり。ふたりじやらつくまん中へ。酔つぶれたる長九郎。

むまいな/\。そふいふ事を半七めに見せたら。嘸業をにやしおろ。ア見せてやりたいなアと。思はずしらず

のてんごうも胸にこたねる数々のつもる恨ぞせつなけれ。そりやそふと善右衛門様。今奥で平左

に相対してさつばりとすました。何ンのかのゝない先キに。今宵すぐに三勝殿を大和へ連レてごさり

 

 

 

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ませ夫レは千万お働。そんならついでに駕の世話も。其段もはたらいて返しの約束でモウこゝへ。

こりや近年ンの手廻し。したが一所に連レ立ツつては人目立ツ。おれは先キへいて待ツて居る。三勝連れて世話

ながら跡から追付ケきて貰ふ。サアこりや急にいそがしい平左衛門宜しう。三勝。長九郎。やがて/\と言捨て

表テへ出れば。半七は見付ケられじと酒桶の。かげに隠れてやり過し。もはや心も突詰の二尺三寸ぬき

はなし。ねたばを合す。折も折。サア駕が来た三勝殿お乗なされと長九郎が。いふに今さら気も

乱れ。とゝ様モウ今参ります。ついたら必便リを待。おりや最前ンから襖の内で。暇乞をしておいた。

けがせぬ様に気を付ケよと。涙を見せぬ襖ごし。是今ン生の別れと涙ながらに駕にのり。

 

何と長九郎様ン。とても行同し道おまへはたんと酔てそふな。相輿はいやかへ。是は千万ン忝いと。足も

よろ/\酔つかれ。現の闇に乗駕の。中をかはして三勝か。逃たもしらず籠の鳥。舁出す

かけ出す門の口。ふ心中者思ひしれと。簾ごしに半七がぐつと突込む一ト刀。ヤレ人殺しと駕舁が。

打捨逃ケる駕の内。朱に染しは長九郎。なむ三宝三勝め取リ逃したか無念ンやと。くはつとせき上

せき上し。ぜひに及ばぬ長九郎。日頃の悪事思ひしれと。又一ト刀切ラれてはつと酔ひもさめ。まけじとぬいて

半七が。肩先すつぱり切付クる。疵も覚へず半七はやら腹立に血をあやし。眼もくらみ気もくら

み死物狂いさひのめつた切。ソレ人殺しと四方よりより棒てん手に取まけば。無念ンの眼コに三勝が

 

 

 

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おもかげ立テば大勢を。西よ東よと追フて行。おはれて逃クる其隙に。内より飛出る平左衛門隣

の酒桶うつむけに。かづけた所へ又ばら/\。あばれ者は南へと。詞につれて大勢が。打テよたゝけと行跡に。

酒桶引上。此間に/\。はつと思へど三勝が。行衛を尋みだれ髪打みだれてぞ行空の

 

(六巻目へつづく)