TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 9月東京公演『心中天網島』国立劇場小劇場

開演前に、「いまからはじまるの、クズの話☺️?」とピュアな口調で言ってる人がいた。第二部の酒屋の前にも同じこと言ってる人がいた。文楽のお客さんはみんなピュア、と思った。

なお、私がいままでに見た一番ピュアなお客さんは、開演前に文楽せんべいを買って幕間に箱を開けた人「顔ついとる!!!!」です。

「うち帰って食べよ!」って言うてはりました。

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心中天網島』北新地河庄の段。上方文化講座記事にあらすじをつけていなかったので、ここでまとめる。

蜆川のほとり、遊び客で賑わう曾根崎新地。遊女・小春〈人形役割=吉田和生〉は下おなご〈吉田簑太郎〉に伴われて茶屋「河庄」へやってくる。近頃小春は思い合う天満の紙屋・治兵衛との逢瀬を親方から止められた上、金は太いが性悪な毛虫客・太兵衛に言い寄られ、後がない境遇だった。小春がそんなことを河庄の花車〈桐竹紋臣〉と話していると、その太兵衛〈吉田文司〉が毛虫仲間の善六〈吉田清五郎〉を伴って河庄へやって来た。花車は小春には侍の客がついていると言って二人を追い払おうとするが、毛虫2匹はお構いなく河庄へ上がり込み、ほうき三味線を手に治兵衛の悪口浄瑠璃をうなりはじめ、小春はますます暗い顔つきになる。そうしているところへ小春を呼び出した頭巾姿の侍客〈吉田玉男〉が現れ、二人を摘み出してしまう。毛虫2匹は負け惜しみをギャンギャン喚きつつ、あたりを冷やかしに出かけていった。

侍客が座敷へ上がるも、小春は変わらぬ憂鬱な顔つき。侍客は紀伊国屋の下女に品定めをされたこととや小春の暗い態度に不満な様子。花車が事情を話して取り継ぐと、小春は「十夜のうちに死ねば仏になれるというのは本当か」「死ぬにも首を括るより咽喉を切るほうが痛いか」と不思議なことを侍客へ問う。気味悪がる侍客を花車がとり繕い、座敷を替えて酒でもと、三人は奥へと去っていった。

そんな河庄の門口に、小春の思い人、紙屋治兵衛〈桐竹勘十郎〉がやってくる。治兵衛は煮売屋で小春に客がついたという噂を聞きつけ、気になって様子を見にやって来たのだった。治兵衛が店の格子に取り付いて中の様子を伺っていると、小春を連れた侍客が奥の座敷から出てくる。治兵衛は身を潜め、二人の話を盗み聞くことに。

浮かぬ顔つきの小春に、侍客はその恋男と心中でもすれば先方の一家に恨みを買う、金で解決できるなら出すので心底を打ち明けるようにと諭す。すると小春は、確かに治兵衛と心中の約束はしたが、それは義理で言ったことで、自分が死んでは貧しい暮らしの母が心配であり、やはり死にたくないのでなんとかして欲しいと語るではないか。それに驚き、歯ぎしりして悔し涙を流す治兵衛。このまま揚げ続けて治兵衛との縁を切れされて欲しいと侍客に頼む小春の声に、治兵衛は思わずかっとなり、持っていた脇差を格子の隙間から店の中へめがけて突っ込む。しかし刃先は小春には届かず、治兵衛はそれを見咎めた侍客に腕を格子へ括り付けられてしまう。たまたま帰ってきた河庄の亭主〈吉田玉翔〉はその様子に驚くが、侍客は場所柄のことで騒ぐ必要はないという。脇差を見た小春は刃を突っ込んだ男が治兵衛であると気付いて嘆くが、河庄の亭主とともに侍客に連れられて奥の一間へと入っていった。

治兵衛は格子に括り付けられた己の無様さを恥じるが、そうしているところに太兵衛と善六が戻ってくる。河庄の門口に治兵衛がいることに気付いた太兵衛は、借用書を突き出して20両を返せと迫る。その借用書は石町の出家に渡したもののはずと返す治兵衛に、それなら代官所で話そうと彼の帯を引っ張る太兵衛。ところが治兵衛が痛がるさまに、彼が格子へ括り付けられてることに気付くと、太兵衛らは面白がって蹴飛ばして張り回し、「紙屋治兵衛が盗みして縛られた」と大声を上げる。その声にがやがやと往来をいく人々が集まってくるが、そこへ先ほどの侍客が走り出てきて、善六を突き飛ばす。太兵衛の腕をねじ上げて、治兵衛が何を盗んだというのかと一喝する侍客。ここに借用書があると食いさがる太兵衛に侍客が二十両を叩きつけると、毛虫はとたんにヘコヘコとそれを受け取る。二人は侍客にどつかれつつ、野次馬に負け惜しみを叫びながら去っていった。

人がいなくなると、侍客は治兵衛の戒めを解き、みずからの頭巾を取る。その顔を見た治兵衛はひどく驚く。侍客の正体は、彼の兄・粉屋孫右衛門だった。逃げようとしたところを孫右衛門に引きすえてられて座敷に上げられた治兵衛は、畳に泣き伏せて兄に詫びる。驚いて出てきた小春を見た治兵衛は彼女に掴み掛かって蹴り飛ばすが、止めに入った孫右衛門から、小春を蹴るくらいなら自分の性根をなぜ蹴らぬかと強く叱責される。治兵衛の妻・おさんは彼ら兄弟にとってはいとこであり、おさんの母は彼らの叔母。一族の寄り合いでも治兵衛の曾根崎通いの話がのぼり、叔母は立場がないという。しかも叔母の夫、つまりおさんの父・五座衛門は大変な頑固者で、おさんを取り返して治兵衛に恥をかかせてやるとすさまじい怒りよう、そこに挟まれた叔母は大変な心労であった。孫右衛門が河庄の亭主に言い含め、祭りの仮装か歌舞伎役者のように蔵屋敷の役人に化けてここへやって来たのも、治兵衛の行動と彼が入れ込んでいる小春の様子を確かめるためだった。涙をこぼしそうになるその孫右衛門の姿に、小春は始終泣き沈み、治兵衛もまた自らの行動を深く悔いる。

観念した治兵衛は、これまであのような嘘つきの女に騙され後悔千万と、これまで小春と取り交わしてきた起請文29通を孫右衛門の前へ出し、処分して欲しいと言う。起請文をあらため、微塵も心残りはないかと念押しする孫右衛門に、治兵衛はおとなしくうなずくのだった。孫右衛門は小春に向きなおると、彼女の持っている治兵衛からの起請文を出すように促す。なにやら出しづらそうにしている小春の懐から孫右衛門が無理矢理守り袋を取り出して中身を見ると、それは起請文ではなく一通の手紙。そこには、「小春様参る 紙屋内」の文字が認められていた。驚いた孫右衛門は小春が本当の義理立てしている相手を察するが、治兵衛が往生際悪くその状の送り主を知りたがるので、退ける。孫右衛門は状の送り主は誰にも言わないと小春に告げ、小春もまた孫右衛門の情を感じて伏し拝む。治兵衛はその様子を笑い、兄に帰ろうと言って座に背をむけて立ち行こうとする。が、また向き直り、どうにも腹がおさまらないとして小春に蹴りかかった。小春はわっと泣き、堪えかねて秘密を打ち明けようとするが、ここで耐えねば先ほどの状の送り主に義理が立たないと孫右衛門に押しとどめられる。

こうして孫右衛門に連れられ河庄から去っていく治兵衛の姿に、小春はなおも深く泣き沈むのだった。

 
 
 
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太兵衛と善六はとてもキモくて良かった。最近どんどん頭が悪くなってきているので、善六のセルフ口上に条件反射で拍手しそうになった。太兵衛のほうき三味線は前奏部分が妙に長くてめちゃくちゃウザいのが良かった。善六はそこまでの展開では特にこれといって何をするでもないが、ここでの太夫のフリのキモさは満点だった。どうキモかったかというと、浄瑠璃の語り始めの「〽️結ぶの」のところの表情が入るタイミングの絶妙ぶりが無駄にものすごいリアルでキモい。世界中のありとあらゆる人に見て欲しいと思った。その口三味線に乗って相当武士入ってる玉男様の孫右衛門が悠々と小幕から出てくるのが特におもしろかった。全員ニセモノつながりなのね。

太兵衛が一度引っ込むときにピンと袖を振って出ていくのも、性格最悪だけど金持ってていやらしい粋がある感じで、良かった。脇役のひっこみ際はほかの人形の演技とかぶるとなかなかゆっくり見られないけど、出と同じく、人形の見所だよなあと思った。

床の三輪さんも良かった。華やかさと、キレのよい俗っぽさがあった。生姜がちょっと入っている、砂糖菓子のような感じ。太兵衛と善六が浄瑠璃語りをはじめるくだりの「〽️蟷螂が斧」のところ、突然の三輪サンの「素」状態で、突然うますぎて笑った。

 

治兵衛はすべての段で感情や行動のトーンが変わるので、面白いけど、難しいのだなと思った。河庄と紙屋・大和屋では、ある人の2つの側面というより、別人に見える。紙屋と大和屋・道行は程よい健康的な色気で感情や佇まいがよくわかったが、河庄は派手に傾けすぎて、軽薄に感じた。それくらいやらないと曲に対して間が持たないという判断かと思うが、とくにこれといって何をしているわけでもないのに存在感ごん太の玉男様孫右衛門が隣にどどーんといるせいで(玉男様のあの存在感ごん太ぶりもどうかと言えばどうかと思うが)、やりすぎて若作りに見える印象。正直、稚拙に見える。

「心のうちはみな俺がこと」でほんのすこし肩を下げる仕草には、恋人が目の前にいるのに疑いがあって暗い気分である雰囲気や、小春に想われるに足る色男であるニュアンスを感じる。しかしその前後を大ぶりにして飾り立てているため、ニュアンスがかき消されている。全部が全部そこまでしなくても勘十郎さんほどの技量があれば伝わると思う。紙屋と大和屋はトーンが比較的抑えられているので、河庄も余計なものは削ぎ落としてして欲しい。派手さが役の演技に定着している阿古屋、団七、お初(曾根崎心中)はいいけど、治兵衛でこれはこしらえごとにすぎず、無理がある。それにしても治兵衛は起請文をいちいち全部持ち歩いてるのが怖い。形が残るもんはあとでどう取り扱われるかわからないから怖いと思った。

 

川庄の小春はそれこそ「とぼとぼ」出てくる*1。陰鬱というより抜け殻。心のうちがまったくわからず、まさに人形のように空虚な表情。川庄の店の中でも終始心ここにあらずで、自分自身の体とは違うところに心が浮かんでいる感じ。普段和生さんにはない雰囲気で、不思議だった。

ここでの和生さんの小春を見ると、人形だけで言えば河庄を原作で上演することも可能なのではないかと思った。色気はしおれ、相当抑えた雰囲気にされていたが、ここまでトーンを下げて舞台が成立しているなら、原作の地味さに耐えうるのでは。原作の小春は最後の治兵衛の帰り際「やっぱり本当のことを……」と言いかける場面がないなど、地味が極まっているので技量がないと間が持たないと思うが、和生さんならむしろ原作のほうが似合うかもと思った。最後、格子越しに背中を見せてシクシク泣くところは控えめな美しさがあった。この段階で小春の魅力が見えづらく、なぜ治兵衛が小春と心中しようと思ったのかはわからないのは、全体の計算から逆算すると、うまいと思う。大和屋までいくと納得するので。しかし、ちょっと上品すぎて、下級遊女というより、芸者に寄っている感じがした。

 

河庄の孫右衛門は武士に化けた町人じゃなくて、町人に化けた武士状態に寄っていた。存在感ありすぎと言ったほうが正しいか。あまりに線が太すぎて、町人であっても名字帯刀を許されてる特権階級か、町人ながら武士の上をいく武芸をたしなんだ町道場の師範代とかですかって感じだった。これは玉男さんだけでなく、すべてを青池保子作画にする三輪エフェクトもあるな。昨年の9月の『夏祭浪花鑑』の道具屋の義平次も玉男さん×三輪さんで、いくらオッチョコチョイな演技を挟んでいても上品&武人オーラが妙に強くて、真面目な人が一生懸命悪どくやってる感じで、笑ったんだったわ(失礼)。ただ、よく見ていたら、茶屋へやって来て花車がいる間はかなり武士っぽく振舞っているものの、二度目の出、花車がいなくなって小春と二人になると、同じ衣装のままでもやや丸い雰囲気になる。自分が孫右衛門のどこに武士を感じているのかと思っていたのだが、座ったときの肩や二の腕の構え方、手の置き方かな。花車がいて武士ぶりをアピールしているときは肩を武張って堂々と座っているが、小春に打ち明け話をさせたり、正体を明かしていくうち、だんだんその張りをなくして、礼儀正しい商人の座り方になる。さらに紙屋で義母を伴ってやってくるくだりでは、肩をなで肩のように落として脇を開かず、膝も広げずに揃えてしゅっと綺麗に座っていて、ものごとに一歩下がって対応する、品のある商人の佇まいになっていた。

芝居自体とは関係ないが、孫右衛門は河庄の前半と後半で左遣いが違うんじゃないかと思った。後半のほうが上手い人がついているのではないか。紙屋、大和屋ではまた違う人がついているような気がする。それは治兵衛もそう。治兵衛と孫右衛門は、段によってばらばらの左の人がついているのではないかと思った。見ていると面白い。

 

 

 

天満紙屋内の段。

天満の老舗紙屋である治兵衛の店を切り盛りしているのは、妻・おさん〈吉田勘彌〉だった。店のことも家のことも一手に取り仕切るおさんは、使いに出た下女のお玉や、子ども二人を遊びに連れて行った丁稚の三五郎が戻らないことが心配でそわそわしている。そうしているところへ、長男・勘太郎〈前半=吉田和馬/後半=吉田簑之〉がひとりで帰ってくる。おさんが手足の冷えた勘太郎をこたつに入れていると、こんどは三五郎〈吉田玉勢〉がのらのら帰ってくる。お末をどこへやったというおさんに、どこかへ落としてきたと答える三五郎。驚いたおさんが怒っていると、今度はお玉〈前半=吉田玉誉/後半=桐竹紋吉(このダブルキャスト、ちょっとかわいそすぎませんか)〉が道端で泣いていたというお末〈前半=吉田和登/後半=豊松清之助〉をおぶって帰ってくる。おさんはお末を抱いてこたつへ入れてやり、三五郎を叱責するが、アホの三五郎は屁の河童であった。そうしていると、お玉が孫右衛門とおさんの母がこっちに向かってきているのを見たと言い出す。おさんはただでさえ不品行を責められている夫が彼らに見つかって叱られないよう、こたつで寝ている治兵衛を起こす。

治兵衛がこたつから飛び起きて番台で仕事をはじめると、お玉の話通り、孫右衛門とおさんの母〈桐竹紋秀〉が訪ねてくる。治兵衛は愛想よく二人をもてなすが、おさんの母はそれに構わず、夫の不品行は妻の油断からであり、女夫別れは夫ばかりの恥ではないとおさんを諭す。孫右衛門は、河庄で小春と別れると兄に誓って10日も経たないのに小春を請け出すとはどういう了簡だと治兵衛に詰め寄る。聞けば「天満の大尽」が小春を近日中に請け出すとの世間の噂。おさんの母は、その噂に夫・五左衛門が激怒して飛び出そうとしたところを押しとどめ、説得に来たのだという。叔母は治兵衛の父の「治兵衛を頼む」という遺言を思い出し、涙に暮れる。それを聞いた治兵衛は、小春を請け出す天満の大尽とは太兵衛に違いない、自分は関係のないこととと答える。おさんが夫が茶屋者を請け出すのを許すはずがないと口添えしたのを聞いておさんの母も納得し、五左衛門への証拠として誓紙を書くように治兵衛へ促す。治兵衛が孫右衛門から渡された牛王の札に起請文を書き、血判を押すと、おさんの母は安心して孫右衛門とともに帰っていった。

それを見送った治兵衛は、再びこたつへ潜り込む。おさんがまだ曾根崎のことを忘れられないのかとこたつ布団をひきはがすと、その枕は治兵衛の涙に濡れていた。おさんは、それなら誓紙を書かなければよかったのにとつぶやく。一昨年の秋から妻として扱われずにいて、母や孫右衛門のおかげでやっと夫婦に戻れると思ったのに、なんと酷くつれないことかと恨み泣くおさん。治兵衛は涙を拭い、小春には未練はないと言う。「たとえ治兵衛と縁が切れたとしても太兵衛に請け出されるつもりはなく、もし金ずくでそうされるなら死ぬ」と言って10日も経たないうちに請け出されるような女に心残りはない、それよりも太兵衛にせり負かされた恥をかくのが辛いと語る治兵衛。

しかしそれを聞いたおさんは、それなら小春は死ぬだろうと言い出す。小春が突然愛想尽かししたのは、自分が仕組んだことだと言うのだ。実はおさんは治兵衛と小春の心中の気配を察し、お互いにとって大切な治兵衛が死ぬことのないよう別れて欲しいと頼む手紙を小春あてに書いていたのだ。小春もそれを了承したため、あのような態度に出ていたのだった。おさんは小春から受け取った手紙を、小春と同じように肌身離さず持っていた。それほどの賢女が治兵衛を裏切っておめおめ太兵衛に請け出されるわけはなく死ぬつもりだろう、小春を助けて欲しいと夫にすがりつくおさん。治兵衛も驚き、河庄で孫右衛門が小春から受け取った手紙がおさんからのものであったと気づく。小春を殺しては義理が立たないと泣くおさんに、そうは言っても金がなければ太兵衛より先に請け出すことはできないと思い悩むが、おさんはすかさず箪笥から新銀400匁を取り出す。商売の金を仮に前金へ使い、穴埋めはあとでするというおさんは、箪笥をあけて子どもや自分の着物、かんざしを風呂敷に包み、請金を作るための質入れの準備をしはじめる。なんとしても小春を請け出し面子を立てて欲しいと言うおさんに、治兵衛は小春を請け出したあと、おさん自身はどうするつもりなのかと問う(こいつマジモンのバカか?)。うろたえ、子どもの乳母になるか飯炊きになるかと伏し沈むおさんにの姿に、治兵衛は、自身には親や仏の罰が当たらなかったとしても、女房の罰で未来は良くないだろうとおさんに詫びる。

ところが、治兵衛が衣装を改め、三五郎に質入れの荷物をもたせて出かけようとしたところに舅・五左衛門〈代役=吉田玉輝〉が来てしまう。五左衛門は治兵衛の姿を見咎め、新地通いするなら女房はいらないだろうと言って離縁状を書けと迫る。おさんが取り繕って、治兵衛は心を入れ替えており、母や孫右衛門の計らいで誓紙も受け取ってあると言うが、五左衛門はそんなものアホはいくらでも書き散らすと誓紙を取り出してずたずたに引き裂いてしまった。治兵衛は深く伏して詫び、自分はどうなってもおさんにだけは苦労をさせないのでこのまま添わせて欲しいと涙を流して頼み込むが、五左衛門は受け付けず、おさんの衣装改めをはじめる。五左衛門はおさんを押しのけて箪笥を引き開け、その中がカラであることを知って激怒。三五郎が背負っていた風呂敷包みの中身を見た五左衛門は凄まじい勢いで治兵衛を罵倒し、離縁状を書くようさらに強く迫る。治兵衛は去り状は書けないとして脇差を取り出し自害しようとするも、おさんが引きとどめ、治兵衛は他人でも孫は可愛くないのか、自分も別れるつもりはないと父に向かって泣き叫ぶ。しかし五左衛門は構わず、嫌がるおさんを引きずっていく。その騒ぎにこたつで眠っていた子どもたちが起き出しておさんにすがりつくが、五左衛門の決意は変わらなかった。おさんは子どもたちのことを治兵衛に頼み、父に連れられて紙屋を去っていくのだった。

紙屋は昭和30年代の松竹か東宝の映画を見ているような、曲としての佇まいがあった。暗い品があり、締め付けられるような息苦しさがあって、こちらも憂鬱になった。

 

個人の意見としか言いようがないが、今回、小春とおさんの人形配役は逆にして欲しかった(ものすごい個人の意見)。小春を和生さんにやってもらって河庄に和生さん・勘十郎さん・玉男さんを固める意図はわかるんだけど、ご本人方の個性からすると、勘彌さんが遊女、和生さんが商家の妻のほうが明らかに似合うと思う。お客さん全員そう思ったと思う(巨大主語)。

しかし結果的には勘彌さんのおさんはかなりよかった(どっちだよ)。色気を抑えた佇まいがものすごくよかったから。人間で言うと新珠三千代みたい。三五郎やお玉にいろいろと言いつけたり、子どもをこたつに入れたりするときは普通のおかみさん風なんだけど、治兵衛と二人になると雰囲気が変わる。とても女性的な雰囲気になる。たんに女っぽいわけではなく、こぼれ出てくる色気をギリギリまで表に出さないようにして、余計な女ぶりを見せないようにつつましくしている佇まいがとても良かった。勘彌さんが「ご自分そのまんまでやってください!」という状況で奥さん役やったら道行く男が全員振り返るエロ奥さんになってしまうと思うのだが、おさんはそういう役ではなく、紙屋自体も地味な話なので、相当抑えてやってらっしゃるんだと思う。それで、建前を全面に出しながらも秘めた色気がこぼれそうになっていて、「こんな魅力的なおさんの良さがわからない治兵衛は本当に大バカでは???」状態になっていた。かなり若そうなのに、無理して商家の立派な妻、夫を立てる立派な良妻を演じているように見えるところが良い。治兵衛を見つめる美しい顔に悲しげな憂いと諦めが浮かんでいる。母から治兵衛を批判され、「ちゃう」と言いたげに肩をぴくっとさせるあたりがとても不幸呼び寄せ体質な佇まいで、よかった。私が隣家に住む男子高校生ならその色っぽさに報われない恋心を抱き、絶対自分のほうが奥さんを幸せにできるのにと勉強が手につかなくなると思う。

おさんの悲惨さは、治兵衛との関係にもある。夫婦というより、子どものころからのいとこ同士の関係そのまんまなんだなと思った。現代社会では考えられないニュアンス、微妙に怖いというか……、病的な感じがした。演じ方もあるけど、浄瑠璃に素直にいくとそうなってしまうのかな。でも、治兵衛をある程度他人というか、友達だと思っているのなら、小春に手紙を書いたのも、小春を身請けしてもいいと思うのはわかる。しかしそのときに夫の顔を立てるという言い回しをするのはよくわからないな。小春への義理と夫の面子立てとは意味が違うように思うが、なんであんなごっちゃに言ってるんだろう。でも、子供にあんまり興味なさそうな感じは、絶妙でよかった。いや、よくはないんだけど、だっこの仕方が微妙に雑というか……。右手で抱く、左手で抱く問題もあると思うが。おさんは右手で抱くので、仕事が多いからかな。酒屋・半七ママ(簑一郎さん)は左手右手とも始終「あらかわいーー!!!」って感じにお通をだっこしていた。おさんは店も家も忙しすぎて、子どもを「猫!?」みたいに扱っているのがある意味リアルで、昔の人っぽい感じがした。

なにはともあれ、とにかく、おさんがエロ奥さんで、よかった。お色気奥さんは、良い。お客さん全員そう思ったと思う(2回目の巨大主語)。

治兵衛は紙屋では普通の旦那さん的な芝居で、派手さがないため、逆に一つ一つの動作に味があって、とてもよかった。孫右衛門と義母が帰っておさんも一度引っ込んだ後、ひとりでゆっくりこたつに入り直すところは、人形が涙を流すことはないはずだけど、湿った味わいがあって、よかった。どうでもいいが、治兵衛、『「シャキッとしてる演技」』が『「シャキッとしてる」演技』になっていたな。本物のドクズはあんなに脱兎の如くコタツから飛び出ないぜ勘十郎よ。あの飛び出かたはさすが勘十郎さんだなと思った。ああいう真面目な感じが勘十郎さんの良いところだが、クズが極まった私ならこたつごと番台まで移動するね。正真正銘の本物のクズなので。五座衛門の来訪に心を入れ替えて詫びるところは真実味があった。勘十郎さんはこういうところが良い。
舞台は五座衛門が出てきてからはだいぶとガヤガヤするが、おさんが治兵衛に抱きつく→おさんが五座衛門に引きずられて離されるところ、まるで人間がそうしているかのようにものすごくスムーズにいっていた。人形出遣いであれだけ人数が密集していても、ごちゃごちゃに見えない。ご出演の方々の工夫を感じた。紙屋は全体的に人形がよかった。左もうまい人をつけていると思う。

三五郎はアホ設定だけど、酒屋の丁稚より賢いらしく、鼻水を自分の服で拭いていたのが良かった。そして五座衛門はとにかくキレにキレまくっているのが良かった。鬼のように気の強い町のジジイ。登場人物の中で一番まとも。

しかし床が前後全然繋がってねえ! ここだけじゃない。河庄も紙屋も、前後つなげる気ないだろ。酒屋は3分割してもつながってたやん。なんでこうなるの。それに配役の食い合わせがおかしくないか。ほっけの後に抹茶プリン出してるみたいなセンスだよね。いや、個性があってみんないいと思っていますけど、ほっけ→だし巻き卵とか、梅こぶ茶→抹茶プリンみたいなほどよい食い合わせはできんのですか。どういうチャレンジなんだ。

 

 

 

大和屋の段。

深夜、大和屋前。あたりは鎮まり返り、火の用心の見回りをする番太の声と拍子木の音だけが十五夜の町に響いている。その静寂を破って、紀伊国屋から大和屋へ小春の迎えがやって来るが、小春は今夜は泊まりとの返事。下女は太兵衛への身請けが決まった小春の身を頼んでスタスタと帰っていった。

しばらく経って、治兵衛が大和屋の戸口をくぐって外に出てくる。治兵衛は見送る亭主〈吉田玉彦〉に、小春は朝まで寝かせておいて、先ほど渡した金で諸々を清算し、残った分で関係の衆に祝儀やらを渡して欲しいと頼む。用事で京都へ行くと言ってそのまま立ち去ろうとする治兵衛だったが、脇差を忘れたと声をかけて亭主に持ってこさせる。受け取ると、町人は気楽、侍なら切腹だったと笑う。

亭主が引っ込むと、治兵衛はそっと引き返して大和屋へ戻ろうとする。が、人が近づいてくる気配。治兵衛が身を隠して伺っていると、それは兄孫右衛門とその供をして勘太郎を背負ってきた三五郎だった。孫右衛門が大和屋の戸を叩いて紙屋治兵衛が来ていないかと尋ねると、もう帰ったとの返事。帰ったのならここまでの道で会ったはずと、続けて小春は一緒でなかったかと声をかける。小春は泊まりで二階に寝ているとの答えを得た孫右衛門は、一緒でないなら心中の心配はないとしてひとまず安心する。孫右衛門は三五郎にほかにアホが行く心当たりはないかと問うが、アホ=σ(。・ω・。) だと思い込んだ三五郎がアサッテな返事をするので叱りつける。そうして孫右衛門と勘太郎は寒風の中、治兵衛を探して裏町に向かって行った。

それを見送った治兵衛は兄の恩に伏し拝んでいたが、覚悟は決めてあると思い直し、大和屋の戸口をそっと伺う。潜り戸の隙間をそっと覗くと、そこには小春らしい人影。エヘン、という咳払いの合図に彼女であることを確信するが、ちょうどそのとき番太〈吉田玉路〉が大和屋の前へ巡ってくる。治兵衛はそれをそっとやり過ごし、人影がなくなったのを見計らって大和屋の戸口へ忍び寄る。早く出たいと言う小春に、治兵衛は固い車戸を少しずつ少しずつ、そっと開ける。やっと大和屋から出られた小春に治兵衛は羽織をかけてやると、二人は手を取り合って、蜆川の流れとは逆の東へ向かって走っていくのだった。

大和屋、床も人形も緊密だった。上手に大和屋の建物外壁が置かれ、舞台中央は往来としたシンプルな大道具で、人形も段切まではほとんど動きがないぶん、ひとつひとつの所作に密度が上がっている印象。暗く静かな中に、緊張した空気が漂っていた。

 

段切の人形の演技は封印切や天満屋のように激しいものにしていたが、浄瑠璃あるいは床の雰囲気との兼ね合いからするとギリギリを攻めている感じがして、原作の良さを残しつつ現代の上演に耐えうる舞台を探っているように思った。突然盛り上がるので、結構びっくりする。特に治兵衛は紙屋までは相当ふらふらした態度や心理が続いていたけれど、そこまで思いつめていたんだなと思った。

 

河庄では生気がなく、人形のような様子の小春だったが、大和屋や道行になると、きりっとした決意を感じた。はっきりとした意思を持ったひとりの生きた個人になり、必死な表情を見せる。最初に観たときはかなり上手側の席だったので、大和屋の中で小春が何をしているかまったくわからず、扉の隙間からちいさな白い手をヒラヒラ、ぱたぱたとさせるのがちらちら見えて、可憐だなと思っていた。しかし大和屋の内がちょっと見える席で観たときは、すごく情熱的に治兵衛の助けを求めているのがわかって、印象的だった。治兵衛よりずっと焦っているようで、彼女の心のなかに燃える炎が突然見えたようで、どきっとした。川庄では相当大人っぽい雰囲気で、自制心が強そうで、とてもじゃないけど世間の倫理に外れたことはしなさそうな印象なのだが……、大和屋以降は違う。自分自身のために生きて死のうという強い意思を感じる。治兵衛のために死ぬのとは意味がまたちょっと違う気がする。治兵衛のためにと自分は耐えるべきと思っているのは河庄までで、大和屋からは自分のために行動しているというか……。紙屋には小春は出てこないけど、そのあいだに彼女の心と身体が一致して、精神性が大きく変わったことを感じた。彼女の内面が変化した瞬間が舞台では描かれないことをいかした演技だったと思う。小春は紙屋に出てこなくても、そのあいだの彼女の時間や、息遣いを感じた。

 

ところであの、回ってくる火の番の人いるじゃないですか。あの人、鼻がぴこぴこするかしらの人かな?と思ったけど、ぴこぴこせずそのまま引っ込んでいったのがちょっと残念だった。寒いからやく帰りたかったのかな……。

 

市井を舞台にした世話物は、大抵途中から話が始まり、話の核になる問題自体は解決せず、登場人物の心理の変化によってストーリーが進むものが多いように思う。その中で、『曾根崎心中』『冥途の飛脚』等は登場人物の心理が決定的に変化する瞬間やその契機がドラマの山場に設定されている。だが、『心中天網島』では、治兵衛・小春の心理が決定的に変化する瞬間やその理由を外し、ドラマの山場なく物語が構成されている。それをどう見せるかは難しいなと思った。ストーリーテリングのテクニックとしては文章で読むなら面白いけど、舞台としては色々難しいと思う。現行の舞台装置だと大和屋は屋内を見せない演出になっているので、難しさが増幅されている。もちろん、成功すれば、主人公たちの劇的なドラマを目に見せない物語の構成と一致した大変効果的な手法で、今回はそれが成功していたと思う。

 

 

 

道行名残の橋づくし。

川沿いの様々な橋を眺めながら、治兵衛と小春はこれまでのことを様々に思い返して涙する。この世では添われずとも未来ではと誓い合う二人は網島の大長寺へたどり着き、ここを死ぬ場所と定める。小春がおさんとの約束を破ったことを憚り、彼女の蔑みだけが来世への迷いになるとつぶやくと、治兵衛もともに涙する。やがて晨朝の鐘が鳴り響く。治兵衛は小春の胸を刺し、自らは水門に括り付けた帯で首をくくって死ぬのだった。

もうすぐ死ぬはずなのに、ここがいちばん人形が生きているみたいで、不気味で、気持ち悪かった。人形が良いと思うときって、良いと感じると同時に、不気味に見える。人形遣いとは関係なく、独立して動き回っている生き物のように思えるからかな。人形は人間の動きをトレースしているわけではなく、独立したそういう生き物のように見えるので、怖い。

変な言い方だが、その様子から、死のうと思って、悲しくはあってもこれで楽になれると思っている人の暗く濡れた心理を感じた。文楽ではほかにも心中物はいろいろあるけど、今回はかなり無残な印象だった。心中しても意味がない。ただ苦しむ場所が地獄に変わるだけ。口では未来で夫婦と言っているけど、そんな都合よくいかないのではないか。来世にも希望がかけられていなくて、おさんや孫右衛門を裏切ったこの人たちは、その報いをうけて地獄でばらばらになって、永遠の責め苦を受けるのだろうと思った。そういう暗さがあった。大道具はいつも通り能天気なザックリさだったけど(失礼)、人形の発する雰囲気から、地面に生えた雑草の早朝の青臭さや、樋の木の朝露に湿った質感や、そこに流れる水の冷たく無機質な匂いを感じた。自分もいつこうして追い込まれるかわからないけど、ここでは死にたくはない。

 

床は小春役の芳穂さんがよかった。配役を見たときはなかなか声が太い人を持ってきたなと思ったけれど、芯のある声に小春の意思の強さやひたむきさが感じられた。しかし今月は道行で床の人数を稼ごうとする確固たる意思が感じられすぎる。

 

出演者はよかったが……、なんというか、この道行って、つける必要、あんまりないな……。死んで完結するのを見せることにテーマ上の意味がないというか……。『曾根崎心中』で心中するところを見せるか否かが議論になった理由がわかる気がする。「道行はやらないほうがいいのでは」と酒屋の感想でも同じようなことを書いたけど、それとは真逆の意味で、これをつけずに大和屋か紙屋で止めたほうが、舞台の完成度が上がる気がする。紙屋の改作(『天網島時雨炬燵』)は最後、小春が紙屋まで来て治兵衛と二人で逃げるところで終わるようだが、それを観てみたいと思った。

 

 

 

出演者個々はよかったが、公演のひとつの部を構成する一演目としては散漫な印象だった。さら〜っと流れていって、ぼんやり状態のまま終わる。なんだかフワフワしていた。それは浄瑠璃自体の性格にも、出演者のパフォーマンスにも、両方に要因があるんだろうなと思う。

最初、初日近くに観たときは、これ大丈夫なのかと思った。見ていて/聞いていて、迷ってしまう印象だった。メリハリもなく、話の全体像がぼんやりとしていた。ただ、2回目、千穐楽前に観たときには、治兵衛と小春の人形から、散漫でメリハリのない状態を解消し、上・中・下の巻がつながったひとつの浄瑠璃にしようという思念を感じた。私の感じ方(席等の観劇状況含む)なのか、実際、勘十郎さんと和生さんがそうされたのかは、わからない。ただ、勘十郎さんも和生さんも、千穐楽前日のほうが描く人物像がくっきりしていたように感じた。人形はそれぞれの段で不思議に感じる部分もあったが、全段で観ると意図がわかった。こういう曲は佇まいを出せるか、そしてそれが的確かどうかが勝負になると思うので、大変だと思った。

今月本当にしみじみと思ったが、決まっている演奏や振り付けをこなすだけではその役ではない。「佇まい」がないとどうしようもない。「佇まい」は、こしらえものでは出ない。今回の公演では、そのある・ないの差がはっきり出ていたと思う。しかし、観ている私自身は何に「佇まい」を感じているのか? 単なる自分の思い込みなのか? 人形に「佇まい」を出せる表現力とはどのようなものか? 脇役は脇役でそこに出るにふさわしい佇まいを出しつつ、余計なニュアンスを感じさせてはいけないが、それも上手い人とそうでない人がいる。よく考えてみたいと思う。

 

それにしても、これだけ力を入れた良い配役がされていても、見応えとしてここまでしかいかないのかと思った。一曲としてちぐはぐな印象を受けるのは、紙屋と大和屋を原作に戻して上演しはじめたのがここ数十年でしかなく、文楽座としての熟練がなされていないからなのだろうか。同じ近松にしても、たとえば『冥途の飛脚』とは、上演の見応えに格段の差があるように思う。演目としての成熟は、私が生きているうちは無理だろうなと思った。もっとのちの世代になると、曲として成立するのかもしれない。

古典芸能というのは、何世代にもわたって維持し続けるべきもの。その結果がどうなるか、いますぐにはわからなかったとしても、継承すること自体で価値を生むということを、改めて感じた。いまものすごい名曲だと私が思っている尼が崎や先代萩も、初演時からいまほどの聴きごたえ・見応えがあったわけではなく、長い上演の歴史が名曲にしてきたのかなと感じる。

来月の大阪は配役変わるし、またゆっくり観よ。と思った。

 

しかし治兵衛をクズにしたのは孫右衛門だな。孫右衛門が弟を甘やかしすぎたから治兵衛はあのような取り返しのつかないドクズになったんだと思う。孫右衛門が長男なのに天満の紙屋を継がなかったのは、才覚のない次男坊で人生どうしようもない治兵衛のためではないかと思う。あるいは、孫右衛門って治兵衛の血がつながった兄ではないのかなとも思う。近世大坂の商家は必ずしも長男が商売を継ぐわけではないらしいので、よくわからない。治兵衛も治兵衛で「あにじゃひと〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっ😭😭😭😭😭😭😭」って何やねん。河庄はもちろん、大和屋で孫右衛門が自分を探しているのを見て深く反省しているけど、なんでその反省心をおさんに対して持てなかったのか。私がおさんの立場なら、小春どうこう以前の段階で、孫右衛門/治兵衛のブラコンぶりに引いてしまうと思う。

 

 

 

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玉男様ムービー、心中天網島ver。なんだか嬉しそうで遊ばされます。


国立劇場9月文楽公演 第一部『心中天網島』吉田玉男インタビュー

 

 

 

 

 

*1:治兵衛は「とぼとぼ」では出ないが、今回はそのほかが派手すぎて出が小走りに見えず、相対的にとぼとぼしていた。