TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

蓄音機文楽『新版歌祭文』野崎村の段 湯布院・束ノ間

文楽業界の広瀬アリス&広瀬すず、勘彌さんと紋臣さんがお光・お染役でご出演ということで、いままでで最も遠い最長距離出張、大分県は湯布院へ行ってきた。

f:id:yomota258:20190710222421j:image

 

湯布院といえば特急「ゆふいんの森」、湯布院映画祭と興味のある要素がいろいろとあるけど、「遠い」というイメージだった。このイベントは昨年秋の初回開催の直前に存在を知り、そのときは遠いから行くのは無理だろうと思っていた。が、調べてみると、羽田から大分空港までは1時間45分程度、大分空港から湯布院までは直通バスだと55分、合計3時間程度と、思ったよりも近かった。昼公演なら日帰りも可能で、少なくとも長門よりは近い*1

会場となっている「束ノ間」は温泉旅館。場所としてはJR由布院駅から徒歩30分程度(歩いちゃったよ……)の山の手にあり、静かで広い敷地内にたくさんの建物が散在している、こぶりな集落のような宿だった。所々にぼかぼか立っている温泉の湯気、こんもり茂った大きなアジサイに野趣があり、美しかった。

公演は、普段は食堂として使われている建物で行われた。木目の暗いブラウンが美しい平屋の日本家屋は、どこかの庄屋さんの離れの客間だった古民家を移築・改装したものだそうだ*2。玄関脇の二間続きの座敷のうち、奥側の間を舞台にして、上手のいわゆる「一間」(障子)と下手の小幕にあたる部分はもとの建物の出入り口をそのまま生かしていた。大道具は至極シンプルで、奥に黒いパーテーションを置いてのれん口を作り、下手に黒い柱を立てて家の戸口を表現していた。ぜんまいのれんの色は赤寄りの藤色だった。舞台装置自体は簡素ながら、舞台左右は建具のしつらい(元々ある部屋の間仕切り)がそのまま生かされていることと、舞台上部の欄間の繊細な透し彫りが美しく、上品な空間になっていた。そして、客席前方の上手側、本来なら床が設置される場所に、2台のフロア型蓄音機が並べて置かれていた。

床は畳敷き。舞台と客席は手すりで仕切っているだけなので段差はなく、手すりは二の手すりのみ。最前列は手すりとの距離が1m程度しか離れていなかった。客席の設定は座布団(背もたれあり)、やや高さのある座椅子、椅子席で、定員50人。私が行った回は満席だった。

客筋としては、このようなサロン形式の公演にふさわしく、社交的な意味で来ているらしい地元の方(関係者?)、会場を提供している旅館をはじめとした近隣旅館の宿泊客、技芸員の顧客がほとんどではと感じた。東京公演の前方席に近い感じ。有象無象系の客はおらず、私は完全に場違いだった。すいませんねえお染チャンとはド真逆の意味でおそろしく場違いなやつが来て🐍カミソリは持ってませんので安心してくださいね🔪カミソリ持ってると空港の保安検査に引っかかってここまで来られなくなっちゃうんでね✈️

f:id:yomota258:20190710222444j:image

(写真は終演後、舞台が川に切り替わった後のものなので、のれん口・柱は撤去されています)

 

 

 

上演前に、蓄音機の説明と、演目解説。

まず蓄音機担当の方(詳細後述)から、蓄音機の再生方法についての解説があった。今回使うのは1929年(昭和4年)発売の豊竹古靭太夫(後の山城少掾)・鶴澤清六演奏によるレコードで、蓄音機は同時代のイギリス製の機種を使用するということだった。また、戦前のレコードは収録時間が3分程度しかないため、そのままかけていてはブツ切れになるので、レコード・蓄音機とも同じものを2つを用意し、ディスク10枚組×各2面を交互にかけていくことで、途切れなく義太夫を演奏すると。前回開催時にほとんど説明せず上演したら、何をどうしているかをお客さんに理解してもらえておらず、がっかりしたので、今回はちゃんと事前説明することにしたそうだ。たしかにこの説明があったほうが企画趣旨がわかりやすい。

演目解説は野崎村の簡単なあらすじ。ご担当は緊張して言ってることが若干ごちゃごちゃになっている勘次郎さん。話の中で久作の奥さんの人形は出ません、いるつもりで観てくださいとの話があったが、現行では本公演でも久作女房はずっと奥の一間にいる設定で、人形を出していないはず。わざわざ言うとはどういうことなのかと思ったが、それは上演中にわかることになる。

 

 

 

冒頭部の久作がお夏清十郎の本を買うくだりや小助が出てくるくだりはナシで、お光が大根を刻むところ(〽引き立て入りにけり。後に娘は気もいそいそ、日頃の願いが叶ふたも、天神様や観音様、第一は親の御蔭〜)から上演。

 

はじまっての第一印象は、「非現実的だがリアル」。

義太夫が録音であることには、違和感はなかった。山城少掾の音源はCDでも出回っており(今回上演と同じものではないけど)、自分もそれを持っていて、聴き慣れているからかもしれない。蓄音機から流れる音声は戦前の録音・盤そのままのため、劇場で生演奏を聴くよりかなりくぐもっていて、トーキー映画くらいの雰囲気。軽石のように表面が柔らかくざらざらしている印象で、ノイズを除去したリマスター音源のような鋭い生々しさがなく、場内は古い時間が蘇りもういちど流れているような、非現実的な空間になっていた。

一方、人形は、座敷上演なので客席との距離がかなり近く、リアル。本公演にはない強い刺激性があった。この生々しさは距離感自体というよりも、舞台と客席との段差がないことによるものだと思う。今回は一般民家を舞台とした演目を一般民家で上演しているため、より生々しい肌理があった。それに、むかしの建物は作りが小さいので、お人形さんのサイズ感に接近しているというか……。

足拍子や人形自体の立てる物音は劇場のように反響することはないが、そのぶん本当の人間が間近で立てているように聞こえる。火をつけたお灸が燃える香りも部屋中にふんわり漂ってきて、よりダイレクトな迫真性をもって五感へ訴えかけてこられているようだった。

しかし、このリアルさが蓄音機から再生される古い義太夫の音声と乖離していない。当時と現代の人形の演技は大きく異なり、人形のかしらも現行とは雰囲気の違うものを使っていたはずなので、舞台としての見えは本来まったく違ったものだったと思う。そこに断絶がないのは、山城少掾の語りがモダンだからなのかな。今回の出演者のスマートでみずみずしい雰囲気と予想外にマッチしていた。

ただ、このやりかただと、義太夫は人形の伴奏ですね。人形さんは義太夫に合わせて演技しているとはいえど、結構下がって感じられた。そのせいか、いつ・どこに注目・傾聴すればいいかの配分が直感的にわからず、文楽を初めて観たときのように「情報量が多い!」と思われて、少し混乱した。ただ、それも数分で、すぐに慣れて、いつもと同じ感覚で観ることができた。

 

 

 

お光は勘彌さん、かわいい(涙)。日本一かわいいよ……(号泣)。勘彌さんって絶対お染タイプだよな、キリマンジャロくらいに咲いている高嶺の花で、人の男を平気で盗ってきそうな感じがする。と思っていたけれど、お光もとてもお似合いだった。在所の娘なんだけど、なんだか微妙にほかの普通の子とは違っていて、近所中で「かわいい、美人」と噂されている、でも本人は天然で全然気付いてない女の子、って感じだった。私が野崎村に住む里芋顔のツメ人形なら、毎日久作ハウスを覗き込んでお光にニヤニヤして、久作に箒で叩かれまくった挙句お灸の点火器具でつつき回されて追い払われていると思う。

勘彌さんは普段は洗練された方向の演技の方だと思うけど、お光には微妙に垢抜けない部分を作っているのがよかった。わずかな加減だと思うが、ほんのちょっとだけ女子として気が緩んでいる感があり、素朴な表情と素直な所作が愛らしい。人形って間近で見ると女形でもわりと覇気がすごいというか、異形の者としての威圧感があると思う。しかしこのお光は至近距離で見ているにもかかわらず人形に威圧感がなく、少しかすみがかかったようなふんわりしたオーラがあって、優しい匂いがしそうな女の子だった。絶妙な塩梅の可愛さに思わず合掌しそうになった。

舞台と客席の距離が近い&舞台との段差がないぶん、大根刻みのバイオレンスは半端なかった。大根を刻むさまに異様な迫力がある。刃物持ってる気が早すぎる女、めちゃくちゃ怖い。言ってはなんですが、阿部定事件を起こしそうな感じというか、お染が来なくてもクソヤバなことをやらかしそうな感があった。鏡を櫛で突くところの動作がやや緩慢なのも、「いつでもおまえをころせる」的な余裕?を感じた。

ところでおみっちょの左って、もしかして玉佳さん? 玉佳さんはチラシの配役には出ていなかったが、会場で頂いた出演者一覧に「吉田玉佳」って書いてあってめちゃくちゃ笑った。出遣いないんかい。玉佳さんが本公演でお光の左に入ることはないと思うが、いつもよりちょっぴり不器用なタマカ・チャン、レアで萌えた。(※小割非公開。私がそう思っただけで、実際のところは不明。)

 

お染は紋臣さん、かわいい(2回目の涙)。日本一かわいいよ……(2回目の号泣)。都会娘らしい洗練された美しさで感動した。もともとの設定でも、鄙びたド田舎へ町の商家のお嬢様の盛装でやって来るお染は野崎村の風景から浮いてしまうが、湯布院でのお染さんはまじで浮いていた。

お染が出てきたとき、率直な言葉で言うと、不気味だった。ドキッとした。お光は前述のような微妙な垢抜けなさを持っているので場にわりあいなじんでいるんだけど、お染は簡素な舞台から異様に浮き上がっていて、エネミーが来たっ!って感じ。ぎょっとした理由は、人形の大きさなのかな。なぜか人形がすごく大きく見えた。お染は豪華な髪飾りをしているのと、立っている時間が長いので、大きく見えるのだろうか。それとも、遣い方によるものなのか。素朴なお光とは全く異なる、自然体的ナチュラルさを消したかなり人工的な所作で、人形であることを主張してくる美的な動作が多いからだろうか。本物の人間はしないような極端に首をかしげた異様な姿勢が目を引く。クドキのところで久松のうしろへ回って両肩に手をかけて顔を覗き込み、また、後ろ向きになって体を傾けて顔を久松へ向ける仕草がまことに美しく、金持ちの美少女らしい、天性の森羅万象への媚態を感じた。なんでだろう、わからない。かなり怖いお染だった。でも、だから逆に可愛い、美しいと感じるのだと思う。舞台に出ていないときでも、襟袈裟についた鈴の音がチャリチャリと聞こえるのが良かった。

お染はつねに久松ばかり見ていて、決して客席側には視線を向けず、顔をすこし傾けているような状態になるので、そこも不思議な雰囲気があった。逆にお光は視線をいろいろなところに向け、気が散った山出し感があって、可愛い。目線ってかなり人形の印象を左右するんだなと思った。

 

舞台が狭いせいで、お光vsお染の戦いは熾烈さを増していた。本公演では、家のだいぶ奥にいる久松に気づいてもらおうと戸口にいるお染が伸び上がって必死でアピールする!!のをお光がさりげなく座敷と戸口を往復して阻む!!という見え方だが、今回は舞台が大変狭いため、お光の真後ろにお染がいる状態。

お光が逆ほうきで招かれざる客を追い払うところは、もはやほうきでの物理攻撃だった。あっ、でも、ここのお光はかなり可愛かった。在所娘らしく粗雑に股へほうきの柄をはさんで手ぬぐいをかぶせるけど、その所作を上品にこなされていてゲスになっていないのがよかった。おみっちょは絶対処女😭と思った(おとうさん的感性)。

そしてお光がお染を見えないように両手を広げてあたふたする様のディフェンスぶりはもはやバスケ、お灸の点火器具をお染につきつけるところは完全に根性焼きしに行っていた。あれほんまに人形に当たるでしょ。お光は本当に見えない位置からお染に突きつけなくてはいけないので、事故を警戒してものすごい目つきになっていた(勘彌さんが)。

しかしお染も負けてはおらず、懐紙に小銭?小石?を包んで家の中に投げ込むところ、投げ込んだおひねり(?)が久作の真ん前というものすごい良い位置に着地していて、一発でグリーンに乗せたナイスショット状態だった。この覇気、私が久松なら家の外にお染が来ていることに気づいた時点でちびってると思った。

この二人の個性の違いによる可愛さの違いは本当にすばらしく、湯布院まで来て良かったと心の底から思った。

 

久松は簑紫郎さん、しゅっと背筋を伸ばして座っている様子がなぜか若干若武者風だった。都会でちょこっと暮らした程度の田舎モンがこんなに洗練されてるわけないと思うけど、あれくらいの根性がなくてはサイコパス女二人に囲まれて逃げ切ることはできないと思った。田舎の許嫁と都会でつまみぐいした女が顔を合わせるクソヤバ事態、常人ではあのようなサイコ女二人に激詰めされたら武士ならずともその場で切腹してしまうと思う。なんであいつあんな他人事顔してるんだろ。私がお光なら、大根と一緒にちょきちょきちょきと切ってたなと思った。

 

久作は勘市さん。勘市さんのジジイには独自の味がある。いかにも在所のしっかりもんのジジイって感じだった。顔立ちと同様、所作がちょっところんとした感じなのが良い。畑で京なす育ててそうだった。そして、すごい汗だくて遣ってらっしゃった。大変そうだった。

 

ところで、義太夫を聞いていて、途中から違和感をおぼえた。もしかしてこれ、現行と違う本だろうか。お光が尼になるとして髪を切って以降の展開、奥の一間にいる設定の久作女房のセリフやそのやりとりがかなり多い。前述の通り、現行では久作女房は人形を出していない。しかし昔は出していたという話を聞いたことがある*3。もしかして今日使われているのは、その頃のレコードなのだろうか。お染が再び自殺しようとしたり(でもあの女のカミソリの取り出し方、明らかに演技だよね)、それをお光と勘違いした老母が這い出てきて娘が髪を切ったことに気づいて嘆いたり、重ねて自殺しようとするお染を止める久松が自分のほうが先に死ぬと言いだしたのを聞いて久作が一家心中すると言いだしたりと、本公演にはないくだりが展開されていた。帰ってから直近の現行床本と今回上演の床本を比較してみると、今回の上演内容は結構長い。正確には本公演でももうすこし長めに上演することもあるようだが、その場合の床本と比較しても今回上演は長かった。こういった部分に新規で演技をつけている部分があるようで、ところどころ間がもたなくなっているところがあった。

このようなくだりがあるため、お勝〈桐竹紋吉〉は出てきてから、中の様子を伺っている時間が異様に長く感じられた。出のタイミングはたぶん本公演と同じなんだけど、家の中のやりとりが長いので、声をかけるまでの時間がかなり長い。お勝はそのあいだ、じーーーーっと耳を傾けている。これは大変な役だと思った。おかあさんっぽい、でも、少しだけおしろいの匂いがしそうな、ふっくらと豊かな印象のお勝だった。

 

段切、お染と久松が野崎村から去っていくところ、本公演だとお染は川に浮かんだ船から別れを告げるが、舞台が狭すぎて川の手すりが設置できないので、お染は手すりの手前にまわり、下手の建具からそっと体をのぞかせる方式だった。人形遣いは姿を見せず、人形だけが体を乗り出している状態なんだけど、そうなると人形は普通の畳の床に立っている状態になる。実際には人形を持ち上げているので少し宙に浮いているのだが、それによって人形の位置が人間の小柄な女の子くらいの身長になっており、これが結構生々しく怖くて、美しい人形が本当に生きてひとりでに動いているようだった。

 

 

 

蓄音機から再生されるレコードのかすれた柔らかい音と、やや薄暗く、狭い空間で上演される文楽は、戦前の映画を見ているようだった。溝口健二の『浪華悲歌』の文楽のシーンもたしか野崎村のこの場面だったと思う。薄暗く狭い舞台。狭い屋台の中で、水入らずをしている父子・許嫁の人形たち。外の門扉から、在所には場違いないでたちの娘がその様子を覗いている。不気味で幻想的なシーンで、あの様子を目前にしているような感覚があった。黒い背景に浮かぶ人形たちの姿は魔術的だった。

そして、西宮の白鷹文楽とおなじく超至近距離での上演なので、人形の演技に迫力(物理)があった。間近に見る人形は、やっぱり結構怖い。動作が思っていたより激しく、結構すごい勢いで演技しているのだなと思った。女形の人形でもわりと荒々しいんだなと感じた。

しかしここまで距離が近いと、出演者の技芸のレベルの差も見える。単発公演でほとんど稽古をしていないはずなので、本番一発勝負に耐えられる力量かどうかというのもあるんだろうけど、細かい所作がはっきり見えるのでその精度がわかってしまうというか……。白鷹ではそこまでは感じなかったことだが、今回は結構克明だなと思った。

個人的には勘彌さんと紋臣さんの配役は逆がよかった(ものすごい個人の意見)。慣例上、お光のほうが格上の役なんだろうと思うけど、お染は私のなかでスクールカースト最上位、お高くとまった女、かつ非処女テイスト娘役の姫的存在である勘彌さんにやって欲しかったわ。そして、紋臣さんのほうが一見おぼこく(動作が入ると吹き飛びますが)、文楽座No.1のロリオーラがあるのと、気が逸ったような所作がお上手なので、在所娘なお光が似合いそうだと思う。でも、実際にはお二人ともお染タイプだとは思う。絶対敵に回したくない。

 

 

 

おそらくどなたもが気になっているであろう、蓄音機で義太夫を演奏するという上演形態について。

自分には外部公演に行く・行かないに明確な基準があり、義太夫文楽から出ていないものには、人形からの出演・開催地関係なく、行くことはない。今回は義太夫が生演奏ではなく録音というきわどいラインだが、戦前のレコードを蓄音機で再生させるという企画に惹かれた。ただ、正直なところ、この企画において文楽にも蓄音機にも本当は主体的な意味はなくて、珍しいことをして集客しようというイロモノだろうと思っていた。主催企業は文楽に興味があるわけではなく、対外的アピールのための企業活動としての文化事業であって(にっぽん文楽や西宮の白鷹文楽も私の中ではこのカテゴリ)、私(文楽自体の客)はそれでもいいから気に入りの技芸員さんが出ているからその方のご出演に対し金を出すつもりで行くという、そういうスタイルの企画かと思っていた。

だが、実際に行ってみると、蓄音機は本気だった(はいっ、もちろん技芸員さんも本気です!!!)。

私はこの企画を聞いたとき、戦前のレコードは数分しか収録できないはず、そうなると盤の掛け替えの時間が必要になり、演奏がすぐにブツ切れになるだろう、と思っていた。しかし、文楽では義太夫がスムーズでないと人形が動けないしリズムが崩れるので、そこをどうクリアするのか。レコードは数分で切れるはずだから、クドキのサワリとかのエエとこどりをして、そこだけ「できるだけ素早く掛け替えて」やるのかと思っていた。そして、義太夫をよくわかってないとオペレーションも難しいと思ったので、そこにも期待していなかった。

ところが実際に行ってみると、先述の通り、蓄音機2台とレコード2セットを用意し、交互に再生させて切れ目をなくすという手法がとられていた(要するに映画のフィルム上映と同じ手法)。切り替え自体はかなりスムーズで、ほぼ気付かない箇所もあった。無音の空白が入って切れ目に気づくというより、2台の蓄音機の音の個性の違いで、切り替えがわかるという感じだった。微妙に切れたなと思っても、人形の動作で繋いだりしていて、そこまでストレスではなかった。そのテクニックにかなり驚いた。

これは本(マジ)気だなと思い、終演後に蓄音機演奏のオペレーションをされていた方にお話を伺った。

表に名前を出されていないけど、その方は地元の蓄音機屋(蓄音機の梅屋)のご主人で、実はこの方が公演の企画者ということだった。旅館が客寄せのために企画・主催していると思っていたので、個人企画ということにとても驚いた。ご主人は元々文楽がお好きで、こういうことをやってみたいと前々から考えておられ、自治体の文化事業支援(?)に企画を提出し、出資を受けて開催に至ったという。客層が技芸員の引いている客だけでない雰囲気なのと、チケット代が異様に安いのが気になっていたが、これで理由がわかった。

私はこの公演、出演者の中で一番大変なのはこの方だと思ったんだけど、口上で名前を紹介されなくて残念。チラシ等にもノンクレジット。黒衣を着ておられたので、名前を出すおつもりはないということなのかもしれない。でも、蓄音機は太夫三味線に続き、ツレ弾きや琴とか胡弓のノリで名前を紹介されていたんで、口上にご主人のお名前も入れて欲しいです……。

 

伺ったお話メモ(立ち話のためメモをとったりしていないので、間違いがあったらすみません……)

  • 蓄音機2台を掛け替えして連続演奏をさせるコンサートを行った経験がある。最近も湯布院でそういうイベントを行った。(話の感じからすると、常打ちでやっているとかいう感じではなかった。呼ばれたらやっている等なのかな? 蓄音機は普段は店にある「売り物」とのことだった)
  • 義太夫が途切れると文楽は成立しないので、必ずつながるよう、2台交互に掛け替える練習をした。
  • 針は蓄音機が製造された当時のもの(金属針)を、掛け替えるごとに使い捨て。針を使い続けて短くなると音が大きくなってしまう。今回は20回掛け替えたので、20本使った。
  • 蓄音機のハンドルは一度回せば本来かなり長いあいだ再生ができるが、今回は上演中に途切れてはいけないので、かけるごとに回した。
  • 義太夫は、レコードを蓄音機で再生するのが実際の演奏の音に近いと思う。
  • 二台の蓄音機は音をチューニングして揃えている。
  • 去年、初回を行ったときはとにかく手探りだった。2回目ができるとは思っていなかった。
  • 黒衣は着たくて人形遣いさんに借りた……🌸

 

という感じで、義太夫が生演奏ではないことに逆に意味があり、かつその再生の品質がキチンとしているところがとても良かった。義太夫が好きな方が蓄音機演奏ご担当なので、安心。

もうひとつ心配していた蓄音機の音量は、結構大きかった。そりゃ生演奏ならもっと音でかいですけど、コンパクトな室内なら気にならない。音量のイメージは、名曲喫茶って感じ。ご主人は室内にお客さんが多いと音が聞こえづらくなるとおっしゃっていたが、違和感や差し支えは感じなかった。少なくとも聞こえづらいことはない。文楽劇場で声がおとなしい太夫さんが出ているときの下手ブロックよりは全っっっっっっっっっっっっっっ然聞こえます(それは言ってはいけない)。

f:id:yomota258:20190710224000j:image

 

 

 

本イベント、文楽好きの方の興味を集めている公演だと思うが、湯布院という開催地がネックとなってなかなか行かれない方も多いと思う。が、人形が好きな人には満足度が大変高い企画ではないかと感じた。個人的には、単発公演としては西宮白鷹文楽に並ぶ濃密な満足感があった。白鷹は和生さんメインなので技芸の高さと枯淡で上品な味わいにみどころがあるが、こちらはクラシカルな義太夫と出演者のモダニティの取り合わせがみどころ。本イベントが気になっていた方は、次回開催の際には是非湯布院へ行かれることを検討して頂きたい。温泉にも浸かれます(宿泊・懇親会付きプランあり。泊まらなくても束ノ間含め近隣旅館に立ち寄り湯あります)。

というか、ぜひとも東京公演もやって欲しいところ。会場設定と蓄音機の運搬の手配がつけば全然いける企画だと思う。学士会館とか、谷根千の古民家でやって欲しい。

いずれにしても、次回の開催が楽しみ。今後に期待のイベントだと思う。

f:id:yomota258:20190709141722j:plain

f:id:yomota258:20190711122032j:image


 

 


おまけ

今回使われた音源の一部を「国立国会図書館デジタルコレクション」で聴くことができる。

野崎村(五)燃ゆる思いは - 国立国会図書館デジタルコレクション

野崎村(六)エゝ愚痴なこと - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

昨年の第1回(『近頃河原の達引』堀川猿回しの段)のダイジェスト映像


蓄音機文楽2018ダイジェスト1

 

 

 

 

 

  • ゆふいん蓄音機倶楽部 蓄音機文楽2019
  • 『新版歌祭文(しんばんうたざいもん)』野崎村の段
  • 人形配役:お光=吉田勘彌/お染=桐竹紋臣/久作=吉田勘市/久松=吉田簑紫郎/お勝=桐竹紋吉/船頭=桐竹勘介/人形部=吉田玉佳、吉田文哉、桐竹勘次郎、吉田玉路、吉田簑之、桐竹勘昇
  • 蓄音機:HMV model 193(イギリス製/1929頃)
  • レコード:『野崎村(新版歌祭文より)』SP盤/Victor/13067〜70, 13100〜5/演奏=豊竹古靭太夫鶴澤清六/1930年(昭和5)6月、1931年(昭和6)1月発売
  • カーテンコールあり(出遣いの出演者のみ)

*1:文楽のために行った場所で大変だったのは、1位・長門、2位・湯布院、3位・熊谷。

*2:ってこの情報、どこで見たのか聞いたのか、すでに忘れた……。もらったパンフにも書かれていないので、妄想かもしれない……。

*3:久作女房の人形を出すか否かについて、『義太夫年表』に番付が載っている分を調べてみたところ、明治期の23回は8割程度が人形配役あり(人形有無に座は関係なし)。大正期の15回はすべて配役あり。昭和期は昭和11年までは配役ありだが、13年以降は人形配役なしとなっており、そのまま現行に至っているようだった。近世は未調査。