TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 『壇浦兜軍記』全段のあらすじと整理

2019年 大阪国立文楽劇場 初春公演 第二部で上演される『壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)』の全段あらすじ、三段目口(阿古屋琴責の段)で阿古屋が演奏する三曲の概要をまとめる。

f:id:yomota258:20190101134644p:plain

 

 

 

 

┃ 概要

鎌倉初期を舞台に、源平合戦時にはその武勇を謳われ今なお頼朝の首を狙う平家の武士・悪七兵衛景清と彼を取り巻く人々を描く時代物。 なぜ景清が悪七兵衛と渾名されているのかをはじめ、壇ノ浦の合戦での錣引き、愛人阿古屋、目玉を抉った伝説などの景清にまつわる有名なモチーフをつなぎ合わせて構成されている。現行上演は三段目口「阿古屋琴責の段」のみ。

「阿古屋琴責の段」では「阿古屋が景清の行方を知らないというのは真実か」という点で詮議が行われるが、全段を読むと「阿古屋は本当に景清の行方を知らない」ということが明確にわかる。

阿古屋はその直前で兄十蔵が景清の行き先を話そうとするのを押しとどめ、耳を塞いで聞かないようにする。つまり阿古屋は本心を喋っており、阿古屋を無罪とする重忠の裁定は「勧進帳」で冨樫が弁慶らを見逃す温情とは違い、紛れもなく正しい判断である。阿古屋は嘘を隠すために正しく演奏したのではなく、景清を救いたい一心を三曲にあらわして弾ききる。

 

 

┃ 登場人物

*印は今回上演部分に登場する人物

悪七兵衛景清
上総の忠清の子息、平家にこの人ありと言われた武人。剛力で知られ、壇ノ浦の合戦の時には箕尾谷国時から兜を引きちぎった「錣引き」の武勇で高名を上げた。平家滅亡後も頼朝公をつけ狙い続け、平家の仇を取ろうとしている。清水観音の信仰篤く、かつて尾張にいた頃には清水寺まで日参するほどだった(マジ?新幹線使ってもキツくない?)。阿古屋の長年の恋人、でも一応熱田神宮の前大宮司の娘が本妻。

頼朝公
言わずと知れた鎌倉の名君。平清盛によって焼かれた東大寺を再興する。

畠山重忠 *
頼朝の重臣東大寺再興を命じられ、奈良へ赴任する。また、堀川御所での裁判も担当する温情厚き武人。

玉房御前
畠山重忠の妻。景清を目の前にしても心揺るがず名捌きで取りなす賢女。

本田二郎近経
畠山重忠の家臣。重忠とともに奈良へ派遣されている。

唐綾
本田近経の妻。東大寺門前のまんじゅう屋の女房に化けて景清を追跡したり、景清と互角に渡り合ったりと、『北陸代理戦争』の松方弘樹かってくらいにかなり強い。

根井大夫稀義
頼朝の家臣。壇ノ浦の合戦で娘婿・箕尾谷国時が不覚を取り、その相手だった景清が今も頼朝の命を狙っている責任を取って長浜へ隠居することに。

白梅
根井大夫稀義の娘、箕尾谷国時の妻。といっても国時は許嫁レベルなので実は顔はよく知らない。お嬢様に思えてかなり気が強い。初対面の人にいきなりカマかけて吹っかけたりと、『県警対組織暴力』の室田日出男くらいの勢いがある。

通夏
尾張熱田神宮の前大宮司。現在は息子に跡目を譲っている。源平合戦のおり景清を娘衣笠の夫としたが、景清が西国へ赴く際、絶縁させなかったことを悔やんでいる。頑固者。

衣笠
通夏の娘。平家滅亡以来姿を見せない景清を今も慕っている。白梅や阿古屋にフルスロットルで食ってかかるなど、『実録外伝 大阪電撃作戦』の渡瀬恒彦を思わせる気の強さ。

岩永左衛門 *
頼朝の家臣で畠山重忠の補佐役。悪人。根井大夫の娘・白梅に惚れており、なんとかして箕尾谷国時を蹴落としたいと思っている。しかし重忠の監視下で悪事を働いてどうするつもりだったのか、謎。

大日坊
景清の父忠清の弟、つまり景清の叔父。忠清から勘当されて平家一門とは絶縁し、沙門に入ったため平家討伐から逃れる。岩永左衛門と内通し景清を捕らえようとするが逆に斬られ、この叔父を殺したことで景清は「悪七兵衛」と呼ばれることになる。

榛澤六郎成清 *
畠山重忠の家臣。重忠を補佐する賢人。

遊君阿古屋 *
清水寺のほど近く、五條坂にある「花扇屋」の遊女。景清とは年来の恋人で、その子どもを身ごもっている。十蔵には景清の存在を、景清には十蔵の存在を隠し、景清の身を守ろうとしていた。

伊庭十蔵
阿古屋の兄。清水寺の下河原で講釈師・関原甚内として小屋を立て、老母を守り暮らしている。景清に面体がよく似ている。

荒木源五
岩永左衛門の家臣。あまりに腰巾着すぎて見せ場がない。言われたことだけしかしない指示待ちタイプ。

老母
十蔵と阿古屋の母。齢七十二歳。岡崎の村はずれの粗末な庵に住んでいるが、亡夫は武士だったらしく、武家の女らしい気風を持つ。景清を追うことを望む阿古屋と十蔵を案じ、自害する。

箕尾谷国時
愛甲前司の子息で根井大夫の娘白梅の夫。壇ノ浦の合戦では義経に従っていたが、景清と対決したときに不覚を取り兜を奪われる。その恥を濯ぐため景清を討たんとそのまま放浪の身に。義父一家が自分のために浪人となったため、なんとしてでも景清を討とうとしている。人形で出したら源太とかのイケメンなんだろうけど、文章だけだとノリが良すぎてキャラが掴めない。

 

 

 

┃ 一段目 東大寺再興《鎌倉/熱田神宮東大寺

  • 頼朝による東大寺の再興、畠山重忠の派遣
  • 根井大夫の浪人、その婿・箕尾谷国時と景清の因縁
  • 景清の義父・妻、熱田神宮の前大宮司父娘の登場
  • 岩永左衛門の悪計
  • 景清、東大寺に現れる

鎌倉初期。平清盛によって焼かれた東大寺源頼朝が派遣した畠山重忠によって復興され、ついに落成の日を迎える。重忠の家臣・本田二郎近経はその完成図を持って鎌倉へ上っていた。頼朝がそれを眺めていると、重忠の妻・玉房御前が参上し、頼朝へ御台所・政子を伴っての上洛を勧める。しかし頼朝は平家の残党の蜂起が考えられる今鎌倉を離れることはできないとして、政子に老臣・根井大夫稀義(まれよし)、性格最悪・岩永左衛門をつけて供養に行かせようとする。ところが岩永は根井のような腰抜けと同道はできないので自分は辞退すると言い出す。岩永は根井の娘・白梅を妻にと望んでいたが、白梅には愛甲前司の子息を婿にという内約があったためそれを断られ、根に持っての当てこすりだった。その男は箕尾谷(みのおや)四郎国時という名で、源平合戦の折には義経公の配下にあった。しかし壇ノ浦の戦いで上総七兵衛景清と出くわして兜を奪われ敗走したという所謂「錣引き」の話が広まっていた。岩永はそれをあざ笑うが、実際は国時は太刀を折って退いただけであり、臆したわけではないことは軍奉行の記録にも明確だった。だが現実に景清は平家討伐を生き残り、今でも頼朝を狙っているのは事実であるので、国時はその雪辱を濯ごうと景清を追い続けていた。根井は国時が戻るまで自分は浪人の上、領地は返還したいと言う。それを聞いた頼朝は根井を上洛から外すことを許し、岩永と本田を奈良の重忠のもとへ送り出すのだった。

時は流れ晩春。根井大夫の一家は鎌倉を離れ近江長浜へ向かう最中、尾張熱田神宮へ立ち寄る。この宮の前大宮司の娘が景清の妻と聞いていた白梅は、夫の名誉を汚した仇をかきむしってやるとして、景清の愛人のふりをして前大宮司通夏(みちなつ)とその娘で景清の妻・衣笠に景清を出せと吹っかける。衣笠はブチ切れるが、通夏は景清は確かに婿だがここ3年姿を見せていないと返す。白梅と衣笠は言い合いになるも、根井大夫が一家は景清のために放浪している経緯を話し、改めて通夏に景清を差し出すことを迫る。しかし景清が平家滅亡以来姿を見せないのは事実であり、その際に景清について行こうとした衣笠が熱田にとどめ置かれたのを不憫と思いつつ喜んだという通夏の親心を知って根井大夫の疑いは晴れ、一行は熱田を後にする。

奈良、春日山。大仏殿再興の賑わいの中、門前のまんじゅう屋に現れたのは悪七兵衛景清・薩摩五郎信忠の二人だった。まんじゅう屋の女房は、二人を平家の残党とも知らず一門の悪口を喋り立てる。二人は東大寺の山門には能登守教経が大仏へ射かけようとして逸れた矢が刺さって残っていると聞き、末代までの誹りとならないようその矢を回収しようと考える。夕闇が迫る中で矢は見つけられないだろうと言う五郎に景清は根性があれば見つかる、二人で組体操すれば手も届くと言い出す(謎の根性論)。すると五郎が高所恐怖症だから高いとこ無理〜想像しただけで倒れるぅ〜とヘタリ込んだので、景清はもう人には頼まんとして一人で柱を伝い登ろうとする。と、こちらからは高提灯を掲げた一行と、山門の向こうからは薙刀を持った大きな人影が歩いてくるのが見える。高提灯の一行は岩永左衛門、そして山門の向こうから来た僧侶は景清の叔父・大日坊だった。大日坊は景清の父・上総の忠清の弟で、平家滅亡の折に誅せられるべきところ、岩永左衛門の取持ちで平家一門と絶縁し、赦されていたのだった。岩永はその恩を着せ、もし景清がここへ逃げて来たら助けるふりをして密告するように大日坊へ依頼する。景清を国時に討たせず、自らが首を取って国時の鼻を明かし、白梅を我が物にするためだった(しつけぇ〜)。大日坊はそれを承諾すると、一通の書状を岩永へ渡す。岩永は手紙の内容を確認すると、満足げに去っていった。

それと入れ替わりに、景清が大日坊の前に立ちふさがって名乗りを上げる。景清に問い詰められた大日坊は先ほどの岩永との話は本心ではないと答え、それならばと景清は大日坊へ頼朝の仮屋への案内を頼む。大日坊はお安い御用と請け負うも、その瞬間、景清を抜き討ちにしようとする。景清はそれをかわして大日坊を組み伏せて殺そうとするが、焦った大日坊はかつて左馬頭義朝の子・源太義平が叔父・帯刀義賢を殺したことから「悪源太」と渾名され六条河原で斬首されたことを引き、ここで自分を殺してはお前も「悪七兵衛」という悪名がつくことになると脅す。景清がかまわず首を捩じ切ろうとすると、五郎が飛んできて引き離し、今度は大日坊と二人して景清をねじ伏せる。実は五郎は鎌倉方と内通しており、奈良へ来たのも景清を仲間の陣中へ誘い込むためだった。先ほど大日坊が岩永へ渡した手紙というのも五郎からの示し合わせを記した書状だったことをペラペラと喋りたてる二人。しかし景清は逆に言いたいことはそれだけかとして五郎と大日坊を跳ね返し、首だけにして持ち帰ると二人に斬りかかる。その勢いにビビった五郎はダッシュで逃げてゆき、大日坊は景清に斬り伏せられる。景清の「悪七兵衛」の名の由来は、この叔父殺しに由来しているのである。しかしこの一連の騒ぎを陰から見ていた者があった。それはまんじゅう屋の女房だった。女房は仮屋の御台所に報告するか夫に報告するかと思案するが、まずは景清の行方を突き止めてからと、忍び行く景清の後を追っていく。

翌朝、東大寺。境内は厳重な警戒が敷かれていたが、そこに寺の衆徒になりすました景清が現れる。ついに景清は頼朝の仮屋と思われる陣幕を見つけるが、そこに「待て」と声をかけたのはまんじゅう屋の女房……、その正体はなんと本田二郎近経の妻・唐綾であった。景清と唐綾は激しい斬り合いになるが、陣幕の内から玉房御前が現れて唐綾を引き止める。玉房御前は「景清ほど武勇に聞こえた士なら、頼朝を狙うにしても堂々と名乗りを上げるはず。卑しい姿に化けて女ばかりのこの仮屋に現れる卑怯者ではない」と言い、今回は頼朝は上洛しておらずここは御台所だけの仮屋、道に迷ったのであれば道案内をさせるとして本田を呼び出した。現れた本田が方角に迷っての無礼なら道案内をするが狼藉ならば容赦しないと言うと、景清は僧衣をかなぐり捨てる。頼朝が上洛しなかったことを知らず、五郎に騙されて誘い出されたことに歯噛みし、時節を待って必ず頼朝の首を獲るとして去ろうとする景清。しかしその前に岩永と五郎が立ちふさがる。五郎は岩永に取り次いで欲しくば降参せよとドヤるが、景清は容赦なく切り立てる。その勢いにビビった岩永はダッシュで逃げてゆき、郎等も散り散りになってしまい、一人残された五郎は景清に首を引き抜かれる。景清は今度こそ頼朝の首を討つとして、静まり返った陣屋を後にするのだった。

 

 

 

┃ 二段目 愛人阿古屋とその兄《清水五條坂》

  • 景清によく似た男、講釈師・関原甚内の正体と景清の計略
  • 景清の愛人・遊君阿古屋の登場
  • 宮司父娘と阿古屋の出会い、その最期

今日は清水観音の縁日、その下河原には辻講釈の小屋が立っていた。講釈師・関原甚内は調子よく韓信の物語を語っていたが、にわか雨が降ってきて聴衆たちは散ってしまう。甚内が邪魔な雨だなと思っているところへ、熱田神宮の前大宮司・通夏とその娘・衣笠が立ち寄り、花扇屋の阿古屋という遊君の居場所を教えて欲しいと言う。甚内が言葉遊びがてら道を教えると、二人は礼を言ってそのほうへ去っていった。

すると入れ替わりに現れた多数の取手が甚内を取り囲む。仔細を聞かねば縄にはかからないとして甚内は捕手たちをなぎ倒してゆくが、多勢に無勢、甚内はついに捕らえられてしまう。そこへやって来た畠山重忠の家臣・半澤六郎成清は甚内の面体を見ると、人違いだと言って縄を解かせる。半澤は、岩永左衛門が清水の下河原にいる辻講釈師こそが景清であるというので捕えに来たが、組下の者が手柄を焦って確認を怠り、面体のよく似た甚内を景清だと人違いをしてしまったと謝罪する。そして多勢に囲まれても刀を抜かなかった甚内に感心し、本名を教えて欲しいという。甚内は武勇を謳われる景清に間違われたのはむしろ名誉であると返し、自らの本名は伊庭十蔵という浪人者であり、講釈で稼いで老母を食べさせていると語った。さらに感心した半澤は老母に進上するとして金を包むが、十蔵はこれを受け取っては世間の人は先ほどの慰謝料だと思ってしまうと断ろうとする。が、思い返して受け取らないのも分が悪いとして、その金を清水寺の賽銭箱へ投げ込んで母の未来を祈る。半澤はますます感心し、重忠にこのことを言上するとして去っていく。

十蔵もまた半澤の立派な武士ぶりに感心し、早く帰って母の顔を見ようと打ち壊された小屋の片付けに勤しんでいると、編笠を深く被った浪人が現れる。それは旧知の客であった。十蔵が景清に間違われてこの体で、と話しかけると、浪人は実は自分こそがその景清であると名乗る。十蔵は驚き、その景清が昨秋に出会ってから近頃多額の金銀を贈ってくれるのは何故かと問う。すると景清は、自分によく似た十蔵に身代わりの切腹をさせて偽の書置を残せば京鎌倉は油断し、その隙をついて本望を遂げることができるだろう、折々の金銀はその命の代償であると言う。十蔵はぎょっとするが、景清は重ねて「まだ驚くことがある、花扇屋の阿古屋の兄・伊庭十蔵殿」と言う。十蔵はさらに驚き、なぜ自分の本名と阿古屋の兄であることを知っているのかと問うと、景清はこう答える。阿古屋は年来の恋人であるが、今回都を立退く前に会いに行ったところ、彼女は景清の子を身籠もるほどの仲でありながら、自身に兄がいることを景清に隠し、そして景清を庇うために兄にも景清の存在を隠していることを告白したという。阿古屋の貞心に驚いた景清は、十蔵を身代わりに仕立てようとしていたことを恥じ、十蔵を義兄と知ったならそのまま都を立ち去ることはできず、直接会って心底を打ち明けようとやって来たというのだ。その言葉に十蔵は、近頃老母のもとに心づけを届けてくれる謎の人物が景清であると気づき、知っていれば先ほどは景清と名乗って代わりに捕まったのにと歯噛みする。十蔵の母は自分の母でもあるとして心配りを頼むと、景清は誠の心の証として自分の着ていた羽織を十蔵へ贈る。十蔵は景清が今夜は醍醐に投宿することを聞き、その後のことは追っ付け相談とする。二人は井戸の水鏡に映った互いの顔を見て笑い合い、別れゆくのだった。

黄昏時、五條坂は花扇屋。ここの主人は戸平次といって、色と欲とに目が眩んだ悪名高き横着者であった。今日も帰ってくるなり下女たちを無闇に叱りつけるが、尾張から来たという忍びの客が多額の現金を積んで阿古屋を呼んでいると聞く。座敷の様子を見た戸平次はホヤホヤ顔になり、清水観音へ参っているという阿古屋を早く呼んでこいと言う。そうこうしているうち、町の歩使がやって来て、代官と名主が戸平次を呼んでいると言うので、戸平次はめんどくさげに渋々出かけていくのであった。

座敷にいるその客というのは熱田神宮の前大宮司・通夏と娘・衣笠だった。帰ってきた阿古屋が挨拶をして吸付けた煙管を差し出すと、衣笠は出し抜けに景清の行方を教えて欲しいと言う。阿古屋がそのような名は聞いたことがないと躱すと、通夏が引き取って娘の無礼を詫び、自分たちの身の上を明かした上で改めて景清の行方を訪ねる。しかし阿古屋は知らんぷり。腹を立てた衣笠が阿古屋をあそび女、自分こそが本妻であると罵ると、阿古屋もいきり立って素人娘はこれだから、夫を思う心に本妻も妾もないとブチ切れる。

女同士の喧嘩がヒートアップしていると、十蔵が花扇屋へやって来る。すだれ越しに見た羽織の紋から彼を景清だと思った阿古屋は通夏父娘を追い払おうとするが、二人は聞くことを聞かねば帰らないと意地を張る。阿古屋はそれを無視して隣の間の男に擦り寄るが、それが景清の羽織を着た兄十蔵だと気づいて不審顔。するとこれまた十蔵を景清と見間違えた通夏と衣笠がやってくるが、さきほどの講釈師と気づいて恥じ入る。通夏はその羽織を着ているからには知っているだろうと、涙ながらに十蔵へ景清の行方を尋ねる。阿古屋は通夏父娘の境遇を兄に説明し、通夏らに対しては景清は鎌倉の詮議強くもはや都にはいられない旨を語るが、通夏はそれならばある願いを叶えて欲しいと言い出す。それは、十蔵も景清に面体似て彼から授かった羽織を着ているのなら神道でいう一体分身(神仏がさまざまな姿を借りて現れること)であり、それならば娘衣笠との夫婦の縁を切って欲しいというものだった。衣笠は父を引き止めるが、通夏は景清を連れ戻すために旅に出たのではなく、平家の一門に縁を繋げば身の滅びとなる今日、景清と絶縁したいがための旅だったのだと言う。十蔵は腹を立て、講釈はその人物の魂を乗り移らせて語るものと言い、景清の魂が乗り移ったとして、そのような卑怯な心をもつ前大宮司の娘の衣笠とはこちらから絶縁すると告げる。衣笠はなんと言われようと景清は夫であり、親とは縁を切る、いやそれならこの首を斬って欲しいと言い出し、勢いに気圧された十蔵がやっぱり夫婦と言うので通夏が舅に一旦やると言った暇は暇と迫ったりと、三者三様で言い合いになる。が、通夏が一旦引き取り、今日平家に関われば鎌倉の詮議が来るのは間違いなく、改めて衣笠を離縁して欲しいと頼み込む。衣笠も通夏のあまりの弱腰に情けなさを感じ、咳き込む父を連れて隣の間へ移る。

そこへ主の戸平次がやってくる。戸平次は帰り道ではぐんにゃりしていたが、さきほどの座敷の話を聞いてテンション上がっていた。戸平次が呼びつけられたのはやはり景清の行方詮議で、阿古屋を拷問するので差し出せということだった。しかし阿古屋に惚れている戸平次はそれを断るため、阿古屋にはそんな客はなく、ましてや彼女は今や遊女ではなく自分の妻であり店にも出していないと返したという。だが代官もさすがの者で、それでも阿古屋を連れてこいと言ったと。そこで戸平次の思いついたのが、あの衣笠を阿古屋の代わりとして訴人すれば阿古屋の代わりになるし、褒美がもらえるということだった。兄妹は目配せして彼の話に乗ったふりをすると、戸平次はテンション高く再び出かけてゆき、十蔵と阿古屋が残される。阿古屋は自分が捕らわれて衣笠を逃すつもりである。十蔵はこの事態を景清に知らせに行くとして、景清の居場所を阿古屋に話そうとするが、阿古屋は耳を塞ぎ、聞いてしまえば拷問を受けたときに吐いてしまいかねないと言う。十蔵は妹の操立てに感じ入りつつ、景清のもとへ急ぐのだった。

しかし花扇屋の周囲は早々に捕物提灯の明かりに取り囲まれていた。先頭に立っている戸平次は早くも阿古屋を女房呼ばわりして、奥の客はどこへ行ったと騒いでいる。代官で岩永左衛門の家来・荒木源五は大宮司父娘を呼び出すが、衣笠を連れ刀を帯びた通夏は、景清とは平家滅亡以来会っておらず詮議無用と断る。源五は構わず衣笠を引っ立てようとするも、そこへ阿古屋が割って入り「大宮司父娘が景清の行方を知らない証人には私がなる、親方戸平次殿」と答えたので、戸平次はタジタジ。源五は衣笠・阿古屋もろとも引っ立てた上、阿古屋を妻と偽りお上を謀ったとして戸平次もただではおかないとする。何かを思い切ったような通夏が刀を一振り衣笠に渡すと、親の固意地は娘が受け継ぐとして、衣笠はその刀をスラリと抜いて戸平次を斬る。源五も刀に手をかけるが、その前を塞いだのは大宮司。衣笠は戸平次にとどめを刺した刀を抜くと、今度はその刃を自分の喉に突き立てる。景清の妻でいながら大宮司に降りかかる鎌倉の詮議を防ぐにはこの方法しか残されておらず、それが彼女の固意地であった。苦りきった源五は泣き沈む阿古屋だけを捕らえて帰っていく。残された通夏は娘の遺骸を抱き、神道から仏道に入るとして髷を切り落とすのだった。

 

 

 

┃ 三段目 阿古屋の拷問《堀川御所/母の住家》 *今回上演部分

  • 阿古屋の捕縛と拷問
  • 箕尾谷国時の登場と阿古屋の母の死

堀川御所の決断所では、畠山重忠により景清の行方詮議が行われようとしていた。重忠の補佐をするのは岩永左衛門である。その詮議の前に、清水寺の轟御坊がやって来る。法印は、清水寺は景清の檀那寺なのでもし姿を見せればすぐに知らせよ、そうすれば褒美を出すとの御諚を受けたが、それを断りにきたという。これは岩永の差し金で重忠は預かり知らないことだったが、誤魔化そうとする岩永の言葉に、法印は景清が来たとしても絶対に差し出さない、それを咎められ全てを没収せられたとしても沙門の恥ではないと言う。岩永左衛門は怒り、景清をかくまった遊君阿古屋は連日六波羅の松蔭に引き出され、その松が「阿古屋の松」と呼ばれるほどの厳しい拷問を受けている、お前もそのようにしてやると吐き捨てて席を外す。重忠は法印を近くに招き、景清は平家の一門として処刑するには惜しい勇士であり、源氏の幕下につけて存命させたく、その説得を法印に任せたいと心の内を打ち明ける。それを聞いた法印は重忠の仁愛に感心し、覚え置くとして清水寺へ帰っていった。

やがて榛澤成清に連れられ、阿古屋が重忠の前に引き出される。傾城の姿のままに縄もかけられていなかったが、その風情は打ち沈んでいた。成清は、重忠の命に従い拷問を取りやめて丁寧に景清の行方を問いただしたが、阿古屋は知らないと言うばかりだと報告する。すると岩永左衛門が再び姿を見せ、重忠の詮議は手ぬるく、代わりに自分が引き取って拷問すると言う。しかし阿古屋は岩永を笑い、厳しい拷問には耐えられるが、重忠のように情けをもって尋ねられるのは耐え難く、いっそ殺して欲しいと答える。業を煮やした岩永は阿古屋を水責めにせんと道具を用意させるが、重忠が押し止め、責め道具は自分が用意したとして拷問具を持って来させる。

白州に運び込まれたそれは琴、三味線、胡弓だった。岩永は拷問にかこつけ慰みにする気かと罵るが、重忠は構わず阿古屋に琴を弾くことを促す。阿古屋は乱れる糸と心を押さえ、『蕗組』の詞に寄せて景清の行方を知らないことを歌い、清水観音の参道で顔を見知るようになり、少しのきっかけから気づけば深い仲になっていたという景清との馴れ初めを語る。続けて重忠は三味線を弾くように言う。阿古屋は三味線を弾きながら謡曲『班女』の詞になぞらえ、景清に去られた身の悲しみを歌う。そして最後は遠目に一言だけ交わして別れたいきさつを語った。さらに重忠は胡弓を弾かせる。胡弓を弾きながら阿古屋はこの世の無常を歌い、重忠はこれを彼女の誠の心と受け止める。重忠は阿古屋の拷問はこれまでとし、景清の行方を知らないのは真実であるとして、阿古屋の釈放を宣言した。これを気に食わないのは岩永である。岩永が楯突くと、重忠は糸竹の調べにはその者の心の偽りが乱れになって現れると言い、琴は心の水責め、三味線は天秤責め、胡弓は矢殻責めであり、この三曲を乱れなく弾ききった阿古屋は無罪であると告げた。岩永は阿古屋が白州から連れ出されていくのを眺めるばかりだった。

以上「阿古屋琴責の段」。2019年1月大阪公演についての記事はこちら

 

一方、阿古屋の母の住家。十蔵が釣竿とふごを下げて帰宅すると、老母が起き出してくる。母が十蔵にどこへ行っていたのかと尋ねると、鯉を二匹釣ってきたのだと言う。鯉の吉兆になぞらえて母の無病息災を祈る料理を作ろうという十蔵に、母は阿古屋が拷問に苦しんでいるときに殺生などもっての他と悲しむが、十蔵は今日は母の誕生日だからだと言う。母は十蔵の心遣いを喜び、その孝行は二十四孝にも勝ると言って、十蔵にも滝を登る鯉にあやかり出世して欲しいとして鯉を逃してやるように言った。そこで親子は盆に描かれた蒔絵の鶴の料理で一献とささやかな祝いの盃をかわそうとするが、十蔵がなにやら思いつき、景清から受け取った羽織を食卓道具にかけて席に置き、場を景清と十蔵の二人の息子の孝行の席に見立てる。二人は祝いの盃を交わすが、十蔵は突然飛びすさって手をつき、母にある許しを乞う。それは景清と面体似た自分が景清を名乗って阿古屋の松の下で切腹し、阿古屋への拷問を中止させた上で京鎌倉を油断させ、景清に本望を遂げさせたいという願いだった。母はその言葉を待ちかねていたと言い、その門出に十蔵の月代を剃ってやる。そして十蔵は暮れ六つの鐘をもって切腹すると母に告げ、走り去っていった。十蔵を送り出したものの、子が孝行でなければ死なせることもなかったと母が嘆いていると、榛澤六郎に送られて阿古屋が帰ってくる。縋り泣きする阿古屋の無事な姿に母はうろたえ、十蔵が彼女を助けるために景清に成り代わって切腹に行ったことを話す。それを聞いた阿古屋は兄を引き止めるべく、阿古屋の松へ走るのだった。

それと入れ替わりに母の庵に姿を見せたのは箕尾谷国時だった。壇ノ浦の合戦で不覚を取って以来景清をつけ狙う国時は、阿古屋が景清と馴染みであることを突き止め、その実家にやって来たのである。大音声で名乗りを上げた国時は阿古屋の母に景清の行方を話すことを命じ、さもなくばその首を取って姑の仇と名乗ると迫るが、母は返事をしない。国時は今度は世の中は金次第として一包みの金を母の膝下に置く。すると母は近頃は訴人の報奨金でも判金七枚は出ると嘯く。国時が半金を並べ立てていると、阿古屋が十蔵を伴って帰ってくる。家の中の様子に驚いた十蔵は、景清ここにありと大声を上げて屋内に踏み込み、国時と斬り合いになる。しかし十蔵の刀は折れ飛んでしまい、十蔵は「景清の命運これまで」と国時に首を差し出す。ところが国時は本物の景清なら刀が折れたら差添を抜くだろうとして、十蔵が偽物であると見抜く。母は国時の眼力を褒め称え、折れた刀を押し取って脇腹を刺す。兄妹は何事かと驚くが、母は国時から贈られた金を路銀にして景清を探す旅に出るように言う。そして国時には景清の行方を知っていると偽り路銀を騙り取ったことを詫びて言切れる。阿古屋は取り乱して泣き伏し、十蔵は金を国時の前に置き直す。しかし国時は母の遺骸にその金を手向けとして供え、立ち去ろうとする。十蔵はその志はありがたく思えど、国時が景清を狙うならいつまでも妨害すると告げる。返して国時は、自分にも根井大夫という親があるため、景清を討たねば孝行が立たないとして、国時と十蔵は景清を討つか防ぐかで睨み合う。こうして母の魂はこの世を旅立ち、十蔵と阿古屋、そして国時は景清を探して旅に出るのだった。

 

 

 

┃ 四段目 景清と国時の対決《長浜》

  • 根井大夫の長浜屋敷普請
  • 大工に化けた景清の潜入、根井大夫の真の目的
  • 景清と国時の再会と対決
  • 二人の真実

季節は巡って春。阿古屋はやがて女の子を産み、産土神参りのふりをして京都を抜け出して、十蔵とともに景清を探す旅に出る。道中二つ分かれの道があれば幼子の心に任せんと、子どもが喜ぶ方角に向かう。

そのころ、景清は長浜で大工に身をやつし、仲間内では「背高」と呼ばれていた。頼朝が近く来訪するとあって根井の大夫は金に糸目をつけず工事をさせており、景清もその中に紛れ込んでいたのである。通り雨で工事が中断され辻堂で大工たちが休んでいると、ちょうどそこへ十蔵・阿古屋兄妹が行かかる。景清がそれと気がつき二人に声をかけると、阿古屋は夫に泣き縋る。景清は久々の再会を喜ぶが、母の最期を聞いて婿姑の盃を交わせなかったことを悔やむ。そして十蔵には阿古屋と子どもを守り育ててくれた礼を言い、阿古屋には拷問を耐え抜いた貞節を褒め称えた。景清は根井大夫の屋敷へ頼朝が立ち寄る機会を狙うべく大工になりすましていることを語る。

根井大夫の館では、何事も凝り性の大夫が頼朝へのもてなしのひとつとして、腰元らに手伝わせながら自ら壁下地を作っていた。しかしやって来た左官が壁の細工に不吉な言葉を使ったため、大夫は不機嫌になってその男を追い払う。やってきた娘白梅がなだめると、大夫も怒りをおさめ、出入りの大工のうち人並み外れて背の高い男は手先が器用なので、その者を呼んで壁塗りをやらせたいと言いだす。「背高」がさっそく大夫の前に参上し、祝儀言葉を尽くして壁の細工しつらえを語ると、大夫はますます上機嫌になり、腰元たちに景清へのもてなしを言いつける。

しばらく後、阿古屋が子どもを抱いて昼の弁当を届けに普請小屋を訪ねてくる。景清は二人の来訪を喜ぶが、赤ん坊に熱があることに気づき、それなら弁当を持ってくるには及ばなかったのにと言う。受けて阿古屋は子どもは大切だが、景清の大工稼業が心配で昼がくるのが待ち遠しかったと語り、弁当をすすめた。しかし景清は大夫の屋敷で振る舞いを受けたと上機嫌で話す。かつての景清とはうってかわってのわずかな酒にも喜ぶその姿に阿古屋は涙するが、景清は馬鹿なことを言って彼女を追い返す(突然の景清いい人エピソード)。

そうしているうちに根井大夫が「背高」を呼びつけ、いますぐに壁塗りをせよと言うので景清は早速梯子をかけて仕事をはじめる。ところが大夫が突然小袖を脱ぐと、その下は戦出立、呼子の笛で集まってきた日雇大工たちが上着を脱ぐと彼らも捕物の出立であった。実は大夫は「背高」を景清であると見抜いており、旧臣たちとともに景清を捕える機会を狙っていたのである。梯子の上から捕手たちを次々倒していく景清、大夫と白梅が景清に迫ろうとすると、そこへ「お待ちあれ」の声がかかる。現れたのは先ほどの不祝儀の左官、実は彼の正体は箕尾谷国時で、「背高」が十蔵か景清かの見極めをするため今まで職人になりすまし、事態を見守っていたのだ。大夫と白梅は突然の婿の姿に驚き喜ぶ。国時が上着を打ち捨てると、その下は壇ノ浦の合戦のときと同じ武者出立。国時は大夫から受け取った縄を携えて景清に挑み掛かる。勝負は互角かと思われたが、景清が足場を踏み抜き庭へ落ちた表紙に国時が組み伏せ、縄をかける。阿古屋は甲斐甲斐しくも幼子を背に薙刀を手にして国時に挑み掛かるが、これに白梅が立ち向かう。ところがここに景清が割って入り、衝撃的な真実を明かす。

実は景清と国時は幼い頃に生き別れた兄弟であるというのだ。驚く国時に、景清はそのいきさつを語り出す。景清と国時の父は源氏の浪人・愛甲太郎国久、その母は平氏の家臣・上総一統であったが、景清11歳国時2歳の折、母の一族から景清を養子にと強く懇望され、景清は平家の一族へ養子に出された。そのとき父は、いつの日か兄景清と弟国時が源平に引き別れて一戦を交えることになったとき、兄が平家にいると知れば弟の心に迷いが起こるとして、国時には兄の存在を一切隠すことにした。国時は幼かったため兄を覚えておらず、景清もまた長い時を経て弟の面体はわからなくなっていたが、壇ノ浦の合戦で錣引きにして奪った兜の裏書に、亡父の筆で愛甲の苗字の由来が書かれていたのを見て、兜を奪った男が弟国時であると気づいた。景清は手柄だと思っていた錣引きを悔やむが、やがて平家は滅亡。自身は頼朝を狙って潜伏するうち、その国時が自分を狙い探し回っていると聞き、弟に捕まって名を上げさせようと考えていたのだ。国時は驚き飛びすさって頭を地につけ、自身の浅はかさを悔やむ。泣き沈みなんとか景清を逃がそうとする一同を景清は叱りつけ、鎌倉へ引いていくように命じる。奇しくも今日は3月18日、あの壇ノ浦の合戦と同じ日であった。阿古屋は「人丸」と名付けられた娘を抱き上げ、父との別れをさせる。こうして国時は景清を伴い、鎌倉へ向かって出立するのであった。

 

 


┃ 五段目 景清の牢破りと頼朝の裁定《鎌倉》

  • 景清の捕縛・脱獄
  • 頼朝の裁定

こうして自ら頼朝公の手に渡った景清は、鎌倉は扇が谷の牢に厳重な警戒でもって収監されていた。その厳しさは頼朝直々の命であり、大名たちが一日一夜ずつ交代して担当するというものだった。早朝、次の当番である根井大夫希義とその娘婿・箕尾谷国時が牢を訪れると、様子がなにやら騒がしい。シオシオとした様子で出てきた岩永左衛門が言うには、景清が牢破りをして逃げ出したというではないか。怪力無双と言われた景清に合わせて作られた堅固な監獄がそうやすやすと破られるものかと思う根井大夫だったが、岩永はこれが露見しては遠島に処せられるとして、すぐに景清を見つけるので黙っていてほしいと口止めを頼む。苦笑いをする根井大夫に岩永がすり寄っていると、景清を捕えたという知らせとともに厳重な警護に取り囲まれた景清が連れられてくる。岩永はテンション上がるが、根井大夫は一目でそれを伊庭十蔵と見抜き、景清の脱獄を言上するとして退出しようとする。

するとそこに畠山重忠に轡を取らせた頼朝公が現れる。岩永は驚き平伏するが、頼朝は牢破りした景清に罪はなく取り逃がした牢番に責任があるとして岩永を処罰しようとする。そこへ国時が走ってきて、景清が戻ったという。そこに阿古屋に手を引かれて現れた景清は、両目を抉り取った盲人の姿になっていた。十蔵は驚き、景清を落ちのびさせるために代わりに捕まったのにどういうことかと問う。重忠が理由を尋ねると、景清はその経緯を語り出す。命を狙ったにも関わらずそれを許し臣下にと望んだ頼朝の情はありがたく思うが、二君に仕えることはありえないため、牢破りをしてその罰で処刑されようとした。しかし、景清を取り逃がした咎でその当番の侍が処罰されるのは心苦しく、それなら遺恨ある岩永が当番のときにと昨晩逃げ出した。目を抉ったのは、頼朝見て再び命を狙うことのないようという誓いであるという。そう言って景清が首を差し出すと、頼朝は平家の恩も忘れず、また自分への恩も忘れない景清の志を褒め称え、涙を流す。

おもしろくないのは岩永である。それなら自分がその首を落とすとして、荒木源五ともども景清に挑みかかろうとする。阿古屋は盲目の景清の首を取って手柄になると思うとはアホかと罵倒するが、景清は構わず阿古屋に目になるよう命じて岩永・源五と立ち会う。景清は阿古屋そして十蔵の助言であっさりと岩永らの太刀を打ち落とし、組み伏せる。十蔵が岩永の首をねじ切ると景清も源五の首を引っこ抜き、悪臣は成敗される。十蔵は太刀を取り、頼朝の情も景清の平家への忠もこれまでとして、景清をしがらみから解放すべく「景清」を名乗って切腹しようとするが、それを重忠が引き止める。頼朝が景清を助けたのは清水観音が頼朝夫妻の夢枕に立ち命を助けよと宣託したためで、「景清」が自害すれば観世音の大慈加護に背くことになるという。それなら岩永を殺した罪で伊庭十蔵として切腹するという十蔵だったが、頼朝がこれを押しとどめ、十蔵と景清が岩永と源五を討ったのではなく、観世音がその千手を二人に貸しての成敗だと言う。そして十蔵を家臣に取り立て、その誉れを後世に残すよう命じる。また源氏の禄を受けることのない景清には日向国の官吏を命じ、平家の物語を琵琶に乗せて語り伝えるように言う。一同は立ち去る頼朝に深く頭を下げ、涙を流すのだった。(おしまい)

 

 


┃ 阿古屋が演奏する三曲について

邦楽に詳しくなく、阿古屋が弾いている曲が何なのかまったくわからないため、形ばかりだが調べてみた。

(1)琴 蕗組

影と云ふも月の縁、清しと云ふも月の縁、かげきよき名のみにて、映せど袖に宿らず

重忠の言う「蕗組(ふきぐみ)」とは箏曲の曲名で、箏組歌の代表曲。雅楽『越天楽』に源氏物語和漢朗詠集などに取材した7連の歌からなる歌詞がついている、ということらしいが、阿古屋が歌う歌詞はオリジナルの様子。

 

(2)三味線 班女

翠帳紅閨に、枕並ぶる床の内、慣れし衾の夜すがらも、四門跡夢もなし。去にても我つまの、秋より先にかならずと、あだし詞の人心、其方の空よと眺むれど、それぞと問ひし人もなし

歌詞は謡曲『班女(はんにょ)』の一節を義太夫節に取り込んでアレンジしたもの。『班女』のあらすじは以下の通り。

謡曲『班女』
美濃の国、野上の宿の遊女・花子は旅中の吉田少将という男と恋仲になるが、少将は花子と扇を取り替えて東国へ下ってしまう。花子はその扇を眺めて客を取らなくなってしまったため宿を追い出される。やがて季節が巡り秋になり、少将は都へ戻る途中、美濃野上の宿に立ち寄り、花子を探すがそこに彼女の姿はない。都の下鴨神社では花子が少将との再会を神に祈念していたが、そこに少将とその従者が訪れ、従者は狂女となった花子をそれとは気づかず物狂いの舞を所望する。花子は「班女」と呼ばれ、扇を持った狂女として一帯で有名になっていたのだった。班女は少将と別れた後の独り寝の寂しさ、秋の再会を約したがそれが果たせず間も無く冬になる悲しさを語り、少将の形見の扇を手に舞う。そのうち少将は彼女の持っている扇がかつて自分が花子に渡したものであることに気づき、班女を近くに召し寄せて自分が花子から受け取った夕顔の扇を見せる。こうして二人は交換した扇を互いが持っていることに気づき、その契りの深さに感じるのだった。

このうち該当の詞章は花子が少将と別れ独り寝をかこつ寂しさを語る部分に出てくる。

『班女』では、「会う」に音が通じた「扇」が重要なモチーフになっている*1ということだが、ふーん、だから『生写朝顔話』でも深雪は阿曾次郎に扇に歌を書いてもらって、それを後生大事に持って追いかけてるのね。勉強になりました。

 

(3)胡弓 相の山

吉野龍田の花紅葉、更科越路の月雪も、夢と覚めては跡もなし。あだし野の露、鳥辺野の、烟はたゆる時しなき、是が浮世の誠なる

「相の山節」というジャンルの門付け歌。伊勢神宮の外宮から内宮までの道筋の間の山で、辻芸人が参拝客相手に演奏していた曲と言われている。歌詞については阿古屋が替え歌にしているのか、当時そのような歌詞が存在していたのかは不明。「相の山節」現行では阿古屋が歌うのと似たような歌詞が存在している。

 

 

 

┃ 参考文献

 

 

 

*1:これ自体は漢の成帝の寵愛を失った班倢伃(班女)が自らを「秋の扇」に例えて詩を作ったという故事からきている。