TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 1月大阪初春公演『染模様妹背門松』国立文楽劇場

続けて第二部を鑑賞。

一部と二部の入れ替え時間に1階ロビーに降りたら、いつのまにか鏡餅が片付けられていた。鏡餅は15日(小正月)の日没のタイミングで仕舞うと初めて知った。

 

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染模様妹背門松。本作に関しては、全体の構成や趣向に驚いた。

油店の段。大坂の大店、油屋の娘・お染(配役・吉田簑二郎)は山本屋清兵衛(吉田玉志)への嫁入りが決まっていたが、実は丁稚の久松(吉田勘彌)と恋仲だった。お染の兄・多三郎(吉田簑紫郎)は芸妓・おいと(桐竹紋秀)を請け出すために大阪屋源右衛門(吉田幸助)から借りた藤原定家の色紙を質入れして金を作ったものの、期限がきても色紙を返さなかったので、源右衛門が証文通りおいとを渡せと油屋へ乗り込んでくる。実はこれには仕掛けがあって、油屋の番頭・善六(桐竹勘十郎)はお染に横恋慕しており、お染をものにするためにまず多三郎を始末すべく影で源右衛門と組んで彼を陥れようとしていたのだった。

と、ここまで説明しておいてなんですが、ここの一番の見どころは善六と源右衛門の、話の本筋と関係ないボケボケの掛け合い。憎めないウザカワキャラの善六と、源右衛門の底抜けのアホっぷりがいとしい。この部分のご担当はやはり(?)、咲太夫さん。二人がホウキ三味線を手に歌う部分では現代流行を取り入れたアレンジを披露されていた。床本を確認したら意外と元の詞章にマッチしていて驚きの「PPAP」と唐突な「君の名は」はわかったのだが、「私、失敗しないので」は客席ウケていたわりに自分はまったく元ネタがわからず、終演してから調べた。……テレビ持ってないからわからなかったです……。あとは広島と阪神ネタ。登場人物が相当わんさといるのに誰が喋っているのかわかる語り分けも見事。咲さん『一谷嫩軍記』の「宝引の段」のわんさといる百姓たちがワヤワヤする部分も見事に語り分けられていたけど、今回の語り分けも面白かった。そして、果てしなく滑り続ける善六と源右衛門の人形の仕草もたまらなくかわいい。

登場人物が全体的に派手な衣装で驚いた。お染は鮮やかな濃紫地にシアン・赤の細紐と花手毬の柄の振袖に蛍光オレンジの帯。かなりサイケデリック。久松も淡い蛍光オレンジの着物(噺家にしか見えない)。兄多三郎の着物は蛍光オレンジと黒の細いストライプ。なんでみんな蛍光オレンジなんだ???

 

 

生玉の段。ここが初春公演で一番のびっくり。

久松が生玉神社の境内で善六を殺した上で自殺し、お染もあとを追うという筋だが、実はこの段は夢オチ。すべての顛末は二人の見ていた夢ということはパンフレットにも書いてあるからそれ自体は驚かないのだが、まじで仰天したのが、最後のシーンで「夢」と大きく書かれた吊り看板がスルスル下がってきたこと。

他のお客さんは一切反応していなかったが、私はもう目がそこに釘付け。浄瑠璃の詞章でもはっきり夢だとわかる表現がされているので、なにもそこまでしなくてもわかるはずなのに、その唐突な看板は何??? いつ、どのような経過でこれを下げるようになったの????? と驚愕していたら、その答えが頼りになる参考書、『文楽藝話』(初代吉田玉男・著)に書いてあった。

この吊り看板の演出は江戸時代からあるもので、しかし当時は「夢」ではなく「心」という文字が書かれていたそうだ。これは芝居の世界の約束事で夢オチであることを示すものだったが、時代が変わり意味が通じなくなってきたので、戦後まもなくから「夢」という言葉に変わったらしい。へー。では他にも夢オチのある演目なら同じ演出があるということなのだろうか。

 

もうひとつ驚いたのが、お染と久松はここにいるのに、なぜか二人を主人公にした先行作品『お染久松袂の白絞り』が劇中劇として登場すること。「油店の段」では『お染久松袂の白絞り』の本が登場し、「生玉の段」では芝居小屋に『お染久松 歌祭文』という出し物がかかっている。二人の噂が広まっていることの表現もあるだろうが、初演当時の客が二人の話を知っていることを意識してこういったメタ的な展開にしているのだろう。江戸時代からこういう自己言及的な技法がすでに存在していたのか。

 

 

質店の段。生玉のくだりは二人が同時に見ていた夢だったとわかりつかの間安堵するも、店の外を通る祭文売りの声やお染が久松の子を身ごもっていることをお染の母・おかつ(吉田簑一郎)に感づかれたことで、二人はこの先を悲観する。そこへ久松の父・久作(吉田玉男)が年末の挨拶にと油屋へやってくる。田舎へ帰ろうと言う久作に、久松は年季の残りをたてに油屋へとどまろうとするが……。

おののいてばかりいる二人だが、実にならない不安ばかりを会話しているあたり、頭がまわっていない感じでリアルだ。辛い思いをしているのは実は本人たち以上に親などの周囲の人だという展開が生々しい。久作が久松を革足袋で打擲する場面、一発目は本当に当てているようにしか見えなかった。さすがベテラン。

 

 

蔵前の段。深夜、蔵に閉じ込められた久松の様子を伺いに忍んでくるお染。蔵の二階の窓からから唐突に久松が顔覗かせてるの、なんかかわいいな……。勘彌さんが一切見えないのがかなしいが。

結末は上演によって2種あるらしいけど、今回は心中ENDではなく逃げ切りEND。もう死ぬしかないというところで、どこからともなく善六が蔵の前に現れ、お染と駆け落ちすべく(まだ勘違いしてたのか)蔵から金目のものを盗み出そうと鍵を開けてしまい、出てきた久松に殴り倒されて善六は昏倒、お染と久松は手を取り合って逃げていく。善六、いいとこあるわ……(?)。最後、清兵衛に押さえつけられてワタワタする善六が本当かわいかった。サカナ的な、絶妙なワタワタさだった。

しかし今までの経緯をみるに、問題解決能力皆無でそもそも何も考えていなさそうな久松より、明らかに人間として立派で考えや振る舞いもちゃんとしている清兵衛のほうが絶対いいと思うのですがどうでしょうか、お染さん。このあと久松と駆け落ちしてもろくなことにならないと思うのだが。増村保造監督の映画『好色一代男』に、遊女と大恋愛するも彼女を落籍する甲斐性もなく、主人公が用立ててくれた金で身請けして所帯を持つ男が出てくる。二人の話はこれでハッピーエンドではなく、「その後二人は」という場面が後で出てくるのだが、まあMAX良くてああいうオチなんじゃないですかねえ。

 

邪悪なツッコミはともかく、振袖の人形って難しいんだな〜と思った。前方席だったので、人形が目の前で演技しているので普通より余計なものが見えてしまうというのはあったろうが、衣装が着崩れしているというか、振袖の袖のこなしが途中からうまくいっていなくて、袖の内側(人形には二の腕はないという部分)が見えてしまっていた。演技そのものはかわいいのだが、目立つので惜しい。ものの本を読むと、この段でお染が振袖を振るクドキは見どころとのこと。衣装のこなしがうまくいくかどうかは偶然もあるだろうから、うまくいった場合を見てみたい。

衣装のこなしは他にも羽織の紐が絡まって脱げなくなった人形がいたのだが、ちょうど太夫・三味線が交代するタイミングだったので、床が回っているあいだに後ろを向いて直しおられた。偶発性のある要素は大変だ。

 

 

最初に書いた通り、不思議な構成と演出の話だった。文楽を見るようになって、話自体より芸に注意がいくことが多かったが、今回は話そのもののほうが気になった。古典というのは現代の作劇法とはセオリーがまったく異なっていて、しかし現代に残るまでの完成度があるだけあって、いままでに見たことのない世界を見せてくれる。

 

 

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帰りも新幹線が結構遅延していたが、今回は終演時間自体が早めだったので、東京駅到着以降もなんとか在来線の終電に接続できた。

同日、ジャニーズのコンサートが京セラドームであったらしく、大阪市内の地下鉄も東京行きの新幹線もコンサート帰りの女子たちでびっしり。夜遅いにもかかわらず新幹線の中がきゃっきゃとしていて、女子校の修学旅行みたいで面白かった(勝手にむこうを同類視)。