TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

寺山修司『身毒丸』J・A・シーザー合唱曲歌詞と説経節「信徳丸」詞章の関連

 

身毒丸

説経節のための見世物オペラ 身毒丸』は1978年6月、紀伊国屋ホールで上演された寺山修司天井桟敷)の戯曲。本作が紹介されている資料を見ると必ず“説経節「しんとく丸(信徳丸)」に題材をとった”と書かれているが、その説経節の「しんとく丸」が何なのか、私は知らなかった。いや、あらすじだけは高校生のとき『身毒丸』の上演当時のビデオを観たあと調べて知っていたのだが、あれから随分経って、謡曲浄瑠璃に興味を持ったのをきっかけにやっと原典を読んだ。あらすじしか知らなかった当時は「まあ継母に呪われる少年というモチーフが共通してるんだろう」程度に思っていたが、実際は劇中に使用されているJ・A・シーザーの合唱曲の歌詞が説経節の詞章になっていたのだった。上演CDについているブックレットでは合唱曲の作詞者がわからないが(J・A・シーザーは作曲というクレジットになっている)、台本は寺山修司+岸田理生となっている。以下、簡単に『身毒丸』の合唱曲2曲の歌詞と説経節『信徳丸』の詞章についてまとめている。

 

 

 

『慈悲心鳥』〜生母の逝去〜

流涕焦がれて嘆かるる
いまは嘆きてかなわじと
時合かなえば鳴る鐘や
これは夢かや 現かや
現の今のなにかとて 
年にも足らぬそれがしを
ひとり残して十六夜
母は先立ちたまふぞや

冒頭、ストーリーの前段として流れる合唱曲。このあとに続く本編では身毒丸の父が見世物小屋で継母を買い求めるところから始まるが、母はすでに亡くなったことがこの合唱曲によって示される。

  

説経節「信徳丸」原文

信徳丸も母の死骸に抱きつき、「これは夢かや、現かや。現の今のなにとてか。年にも足らぬそれがしを、たれやの人にあつけ(預け)おき、母は先立ちたもうぞや。行かでかなわぬ道ならば、われをも連れて行きたまえ」と、抱きつきてわっと泣き、おし動かし、顔と顔を面添えて、流涕焦がれて嘆かるる。今は嘆いてかなわじと、ちあいかなれば(時合いかなえば)、六方龕にうち乗せて……(後略)

 

[解説]

原典の説経節「信徳丸」のあらすじは以下の通り。前世の報いにより子どものなかった高安長者夫妻が清水観音に願をかけて授かった子・信徳丸は、13歳のときに生母と死に別れる。父はすぐ後妻を迎えるが、継母は自分の産んだ乙の次郎を惣領にしようとしており、生母を慕う信徳丸は継母から憎まれ釘打ちの呪いをかけられて失明し病を得る。天王寺(大阪の四天王寺)へ捨てられて袖乞いに身を落とし、その身を恥じて餓死せんとした信徳丸だったが、かつて文を取り交わし結婚の約束をしていた乙姫がついに彼を捜し出し、ともに清水観音に祈ったことにより釘打ちの呪いが解け、本復する。信徳丸は故郷に戻り、母と乙の次郎を斬首し、末永く幸せに暮らした。

信徳丸の生母は恩義あるはずの清水観音をdisったためにわかに命を奪われる。ここは信徳丸がその遺骸に取りついて泣く場面。六方龕とは六角形の喪輿。

身毒丸』合唱曲では亡くなる場面と葬儀の場面の順序が入れ替わっているが、冒頭の「流涕焦がれて嘆かるる」は説経節の定番フレーズで、説経節には「流涕焦がれてお嘆きある」という表現が頻出する。 上演当時はこの言い回しにまだ効力があった(=観客に説経節の定番と認識された)ために意図的に詞章の順序を入れ替え、冒頭に持ってきたのだろうか。それとも当時でも説経節は忘れられた芸能だったのか。説経節は他にも定番の言い回しが多々存在し、その積み重ねでストーリーが語られていく。

 

 

『藁人形の呪い』〜継母の呪いの釘打ち〜

継母・撫子「(前略)人も嫌いし異例を授くるのさ!」

身毒丸は十八歳 十八本の釘を打つ
月の七日が縁日で 七日七本釘を打つ
七の社に七本打って いま宮殿に十四本
継子にくしや十二本 御霊殿にも十二本
まなこ潰れよ十二本 水神鍬立て十二本
母の呪いの十二本 夜叉ヶ池にも十二本
(略)
祈ることばのあらはれて その上呪ひ強ければ
一百三十六本の 釘の打ちどが異例となり
にはかに両目 つぶれたり
あゝいたはしや しんとく丸 癩病患者となりたまひ
(後略)

継母・撫子が正体を現し、身毒丸の目の前で卒塔婆へ呪いの釘を打つシーンで流れる合唱曲。『身毒丸』では撫子には「せんさく」という名の連れ子がおり、撫子はこのせんさくに家督を継がせようと身毒丸を呪う。

 

説経節「信徳丸」原文

(継母は)「(略)人のきらいし、異例をさずけてたまえ」と、ふかく祈請奉り、これは信徳が、四つのよそくに打つぞとて、縁日を、かたどりて、御前の生木(立木)に、十八本の釘を打つ。下に下がりて祇園殿、月の七日が縁日なれば、御前の格子に、七本の釘を打つ。御霊殿に八本打つ。七の社(櫟谷七野社)に七本打って、今宮殿に十四本。北野殿に参り、二十五本の釘を打つ。下に下がりて東寺の夜叉神、二十一本お打ちある。稲葉堂に参りては、これは信徳が、両眼に打ち申すとて、十二本お打ちある。あまったる釘を、鴨川桂川の水神蹴立てとお打ちある。都の神社社に打ったる釘の、数えてみたまえば、百三十六本とぞ聞こえたり。また清水に参りつつ、御前三度伏し拝み、みずから下向申さぬまに、異例を授けて、たまわれと、ふかく祈請を奉り、高安へと御下向あり。
いたわしや信徳丸は、母上(生母)の御ために、お経読うでましますが、祈る験のあらわれ、その上呪い強ければ、百三十六本の釘の打ち所により、人のきらいし異例となり、にわかに両目つぶれ、病者とおなりある。いたわしや若君は、こは情けなの次第とて、一間所にとり籠り、藤の枕にお伏しある。

[解説]

継母は我が子・乙の次郎を惣領とするため、長男である信徳丸を呪って病者にしようと、夫には信心を偽って清水観音へ呪いの釘打ちへ向かう。そして清水観音を皮切りに京都中の寺社で釘を打ちまくり、ついに呪いは成就、信徳丸は「異例」となる。異例とは通常でないこと、すなわち病気、癩病のこと。ここでいう癩病とはハンセン病だけでなく、重度の皮膚病・感染症を指すという。最初に打つ釘・十八本は清水観音の縁日が十八日であることに由来する。

異例を得た信徳丸は父によって天王寺へ捨てられる。長者のくせに子どもをフランクに捨てるところが恐ろしい。はじめは、いや〜ちゃんと育ててやろうぜ!みたいな感じなんですけど、後妻が仕事に差し障りがあるとかなんとか食い下がってきたので、ま〜、どうせこの女を離縁してもまた新しい妻がギャーギャー言うだけだしぃ〜みたいな感じでさくっと捨てる(多分。私の素人解釈による)。天王寺へ捨てるというのはよくある捨て方だったようで、当時の天王寺には孤児・病者・不具者・乞食が多く住み着いており、というのも天王寺がそういった者たちにほどこしをしていたからだそうだ。

なお、「あらいたわしや」というのも説経節の定番フレーズ。

 


原典の引用は東洋文庫説経節 山椒太夫小栗判官他』荒木繁・山本吉左右編注(1973)より。このさらに底本は天下無双佐渡太夫正本『せつきやうしんとく丸』(1648)。実際には中世より語られている物語だが、文字に残されているもので最も古いものは江戸初期のものとのこと。原文カッコ内は東洋文庫注による。