TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

日活ヤクザ映画の「世界」

 この4月にシネマヴェーラ渋谷安藤昇特集があった。出演数の多い東映ヤクザ映画のほかに、日活ヤクザ映画もそこそこの本数が上映された。そこで改めて感じたのが、ああやっぱり日活のヤクザ映画が目指していた方向性は、東映のそれとは違っていたんだということだった。



 特集当時、上映された日活ヤクザ映画のタイトルでtwitterを検索すると、「東映ヤクザ映画に比べて下手」「リアリティがない」と書いている人がずいぶんいた。「比べて」「リアリティ」という言葉に強い違和感。*1その言葉に対する違和感や抵抗感は、逆説的に、ああやっぱり両社の世界観は違うのだと改めて認識する切っ掛けとなった。とは言っても、人と両社の違いについて語り合ったことがあるわけでもないので、私以外の人がどう認識しているかはわからない。一度、いまの自分の感じるその“違い”を、いまのうちに言葉にしておきたいと思いう。



 私がもっとも好きな日活のヤクザ映画は、1968年公開の舛田利雄監督『「無頼」より 大幹部』である。
 
 60年代末期に日活が制作したヤクザ映画をことばで表すなら、「凄惨」のひとことに尽きる。とにかく暴力描写、それに絡む心情描写がすさみきっていて、暴力描写大好きっ子の私でさえ「そこまでやる必要あるのか」と思うくらい、救いうようのないメチャクチャさである。これは70年代の東映実録路線に比しても凄惨だ。『北陸代理戦争』や『実録外伝 大阪電撃作戦』にも残酷無比なヤクザのリンチが登場するが、あれはあくまで見せしめ、示威行為というエクスキューズがついた上での残酷描写だ。だが日活はそうではなく、ただひたすらに理不尽で惨たらしい暴力の連続で、まじであくまでただの現実に存在する社会悪「暴力」そのものを殺伐と描いている。日活が何故ここまで凄惨な描写に走ったかはわからない。会社の経営悪化、世相の荒れ、色々あるのだろうが、大映、松竹などの他社に比してもあまりにも凄まじい……。
 『「無頼」より 大幹部』では、藤川五郎(渡哲也)という不幸な生い立ちの青年が長じてなお社会になじめず、一匹狼のヤクザとして社会の最底辺を彷徨する姿を描いている。一匹狼といってもカッコいいものではなく、他人とのコミュニケーションが出来なさすぎてありとあらゆる社会に馴染めず、その泥沼から抜け出す方法もわからずあてどなく彷徨しているだけ。この五郎がひたすら悲惨な状況に引きずり込まれていくのが本作の大筋である。
 本作で印象的なのは、クライマックスのキャバレーへの殴り込みシーンだろう。バックステージでの血みどろの凄惨な戦いのバックには、聞こえるはずのそのSE(効果音)はオフになり、店の歌手・青江三奈の歌う「上海帰りのリル」だけが大音量で流れる。この演出は偶然の産物*2らしいが、この聴覚が遮断された状況は、結果的にある本質を表していると思う。それは「コッチ側の人間とアッチ側の人間は、同じ世界に存在しながらも断絶している」こと。フロアで青江の歌を楽しむ所謂普通の人々は、コチラの世界を見ることも聞くこともない。バックステージのコチラからは、アチラの世界はチラチラ見えることはあっても、決して交わることはない。私はそういうイメージを抱いてしまう。
 勿論、あまりに辛辣な状況に晒された五郎の心にはもう青江の声だけしか聞こえないというイメージであったり、何かに強烈に集中していると周囲の雑音が消え、自分の心の音だけが聞こえるようになるというイメージでもあるのだろうが……。



 このような演出は、続編にあたる小澤啓一監督『大幹部 無頼』でより一層鮮烈になる。クライマックス、五郎は女子校の脇のドブ川でまたもヤクザと死闘を演じることになる。女子校のグラウンドでは、瑞々しく朗らかな女の子たちが、キャイキャイとバレーボールを楽しんでいる。しかし、誰も五郎やヤクザたちの存在に気付くことはない。五郎も生まれ育ちがもう少し“普通”に、素直にすくすくと育っていれば、あの光の中にいる側の人間だったろうに……。しかしいまやその世界を裸眼で見ることすらできない泥濘に脚をすくわれ、彼が這い上がることは未来永劫ないであろう。その絶望と断絶が、あのシーンには込められていると思う。最終的には、五郎は女子校のグラウンドに倒れ伏すが、女の子たちは叫ぶでも逃げるでもなく、不思議なものを見つけたというような目で、無言で彼を取り囲む。年頃の女の子がそうであるように……、異物を見たときのように。
 




 しかし、この『「無頼」より 大幹部』と『大幹部 無頼』、べつに凄惨一辺倒の話ではない。実はこのクライマックスまでは、結構甘っちょろい筋立てになっているのだ。甘っちょろいというのはdisりではなく、青春映画のような妙にサワヤカな友情なり淡い恋なりが描かれるという意味である。中学生のような可憐な恋模様もさることながら、象徴的なのは、渡哲也が自分の兄貴分にあたる人のことを「アニキ」ではなく「センパイ」と呼ぶことだろう。盃上の義兄弟ではなく、感化院(彼にとってはあくまで堅気の世界)の先輩後輩だから「センパイ」ということらしいが、なんにせよ「センパイ」は若者のことばだ。若かりし渡哲也がきゅるんとした目で「センパイ……」と言っているのは少女漫画みたいにホンワカしていて、ちょっと笑ってしまうのだが、ラストのあの奈落への反転を観ると、なんだか可哀想な気持ちになってきてしまうのだ。こういう若干ヘンな世界観は一体なんなのか? 何故シーンシーンでこんなにテンションが違っていて、最後には急に夢見る少年のドリーム感が一気に蒸散して、あんなことになってしまうのか?



 日活のヤクザ映画で、あ、これは突き抜けていると感じたのは、安藤昇特集で上映された1969年公開・中川順夫監督の『やくざ非情史 血の盃』である。
 その頃の日活自体の傾きが絵面に出てしまっている作品で、ぱっと見東映劣化コピーのように見えるが、まったくの別次元の何かに到達している。最大の特徴は、本作においてもクライマックスの殴り込みシーンである。それまでの話は誠に失礼ではございますがあまりにちょっとあれすぎて記憶がなく説明できないのだが、紋付袴姿の安藤昇が葬儀の行われている寺院に赴き、堂内で数珠を引きちぎった瞬間から演出のレベルが急激に跳ね上がる。薄暗い本堂内、フィルムの感度が追いつかず荒れきって粒子の出まくっている映像、妙に低いアングルで幽霊のように不気味に動くカメラ、何をとらえているのか明確でない絵面。殴り込みシーンというのは主演俳優の魅力を際立たせ、華のあるように撮るはずなのに、まったくもって安藤昇の「かっこよさ」は捉えられておらず、鮮明に映されるべき彼の姿は様々なものに遮られ、粒子が荒れすぎで顔もはっきり見えない。これは何を表現しているのだろうか?  ほとんど語られる機会のない作品で、監督も無名のため、本当は何を意図した演出だったのかはわからないが、このすさみきって暗く混沌とした映像は、確実に東映の模倣ではなかった。
 



 私は、これらは「主人公の視点から見た世界の姿」、きわめて主観的な「世界」の表現だと思う。
 あくまで主人公の心情からの視点で作られていて、そのときの感情によって常に同一であるはずの「世界」もまったく違って見える……そういう心の揺れ動きそのものを映画にしているのではないか。妙な甘っちょろさも幼稚とも取られてしまうような見識の狭さも変な自己愛も異常なまでの凄惨さも、あくまで感情の揺れ動きのフィルタを通して撮っているから、妙に歪んだ大きなブレが出ているのではないのか。しかし、その歪みは不良品ではない。歪みが起こることそれ自体が本質であって、それは、本来、青春映画の撮り方だと思う。
 というか、これは別に私の推測ではない。『「無頼」より 大幹部』について、舛田利雄監督は自ら語ってる。

僕ら、日活の場合はね。東映とは違って、やくざというのは、たまたまやくざの形を借りているだけで、やくざそのものを描こうとしているんじゃないんですよ。そういう意味じゃ、一見やくざ映画だけど青春そのものなんだ。歪な形をしているかもしれないけどね。 *3

 言ってみれば「社会」に直面した青少年の心の揺れ動きを、「大人なら黙ってスルーすべき」とか「大人なら受け入れるべき、我慢すべき」みたいにスカして描いてしまいそうなところ、戸惑いや困惑といった歪さを含めて率直に描けるところが、日活らしさ、日活ヤクザ映画の良いところだと私は思う。

*1:そもそも論として、日活のヤクザ映画が制作されたのは1960年代後半で、東映のヤクザ映画(実録路線)は70年代前半である。東映で60年代後半に制作されていたのは戦前舞台の任侠映画や現代劇だとギャング物系、現代劇のヤクザ映画もあるにせよ、実録路線につながるようなバイオレンス系のヤクザ映画が登場するのは60年代末。どのあたりの作品と比べているのか知らないが、いずれにせよ比較すること自体ちょっとおかしいのでは……というのは根本的にある

*2:オールラッシュで音声がワントラックしかつけられず、とりあえず青江三奈の歌をずっと流していたらそれが好評で、そのまま最終的にも採用した

*3:私は、別に東映も実録路線においてはやくざの世界そのものを描こうとしているわけではないと思う。ヤクザ映画というのは山岳映画やスポーツ映画等とは違って、ジャンル名に冠している「ヤクザ」のしきたりやシノギそのものを描いているわけではない。社会のセーフティーネットから漏れた世界という設定を使って、主題は別のところにある。東映ヤクザ映画とってもっとも重要なテーマは「戦後とは何か」だろう。東映ヤクザ映画を代表する作品『仁義なき戦い』の第1作目は広島へ投下された原爆のキノコ雲の記録写真がタイトルバックであり「敗戦後すでに1年。戦争という大きな暴力こそ消え去ったが、秩序を失った国土には新しい暴力が渦巻き、人々がその無法に立ち向かうには、自らの力に頼るほかはなかった」というナレーションから本編が始まることは象徴的だろう。そしてまた、東映東映で、東映流の青春映画として、ヤクザ映画を制作していたと思う。この点に関しては、中島貞夫監督『現代やくざ 血桜三兄弟』を、是非観ていただきたいと思う。対して日活は、舞台は東映と同じ戦後社会だが、意図的に客観性や社会性を消し、あくまで「ある個人の見ている世界」を描いているように思える。だってさ〜、「自分にとって楽しいこと、自分にとって辛いこと」「こうだったらいいのにな、こうなれたらいいのにな。でも現実の自分はものすごくみじめ」っていう気持ちそのものに異様にフォーカスしているんだもん。先にも書いたとおり、これは青春映画の技法だ。