TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 4月大阪公演『義経千本桜』伏見稲荷の段、道行初音旅、河連法眼館の段 国立文楽劇場

近所の木に「稽古中!!」って感じの初心者ウグイスがとまっていて、独特すぎる音程のホケキョをかましまくっている。

 

第一部、義経千本桜。
今回は狐忠信がらみのくだりのダイジェスト。あらすじはこちらから。

 

伏見稲荷の段。
上手に伏見稲荷の赤い鳥居。中央〜下手には瑞垣、紅白の梅が咲いている。

 

義経〈吉田勘彌〉、色気ありすぎてびびった。
文楽史上最大のお色気義経
ミナミNo.1ホスト。
ここにいるヤツ、全員抱いた。
って感じだった。文楽義経は清涼な雰囲気で表現されることが多いが、一周回って古典の世界に描かれる好色な武将としての義経に接近しており、度肝を抜かれた。しかし、気品があるため、下品には見えない。勘彌さんらしく、まつげバシバシ系の美麗ぶりで、透明感のある香りが漂ってくるような若男。非常に良かった。
細心の注意が払われた所作だが、重量からか、人形がやや不安定なことは気になる。
あとは、桔梗信玄餅を思わせるシューズが良かった。

静御前〈吉田簑二郎〉は、いままでに見たことがないタイプの静像。貴公子の愛妾というのとはまた違う。世話がかってるというか、文字通りに白拍子らしいというか。いわゆる「静御前」ではない。かなり痩せて背が高く見え、影のある哀れな雰囲気が出ていた。仮に14歳の男の娘なら、かなり良い路線行っている。ただ、静がこれだと物語に艶感がないため、初段から上演して、卿の君を愛らしい系の人ができれば、と思った。

義経を追いかけてきた逸見の藤太〈吉田勘市〉アンドおツメ雑兵ズは、きつねの出現にビビり散らして地面に__(_ _)__ピト…と、伏せていた。ちっちゃなきつねがそんなに怖いのだろうか。かく言う私も、先日、自然が多い別荘地に行ったとき、子猫くらいのサイズの台湾リス3匹がコッチに向かってズドドドドドと激走してきたので、ビビって逃げた。まじでやばい。人間、ワイルド・アニマルには勝てないですよ。
逸見藤太はかしらが鼻動きで、くたばるときが特に可愛かった。

 

狐忠信〈桐竹勘十郎〉は、きつね時の動物らしい動きが愛くるしい。勘十郎さんの動物愛を感じる。特に、しっぽへのこだわりは、絶品。ポインとした愛らしい動きやボリューム感、しっぽが常にちゃんと見えるように構える遣い方に、勘十郎さんの「動物のしっぽ、かわいいっ!」という気持ちがよく伝わってくる。リアルに寄せすぎず、人形より稚拙なものとしての“ぬいぐるみ”であること自体の可愛さも伝わってくるのも良かった。

人間の姿では、性別なり身分属性なりをあまり感じさせない。目線や所作に若干浮ついたところがあり、最初から、人外めいたものがある。体の表面がサラサラしていそうだった。きつねの正体を匂わせる浮遊の場面では、浮遊感そのものは良い雰囲気。足の揺れのバランスが左右揃っていないのが若干気になった。忠信に限らず、狐の役では同じ戸惑いがよくみられるけど、物理的に左足が動かしにくいのかな? 左手(左遣い)に当たるのを気にしているとかなの?

狐忠信は、ヘアスタイルが普通の源太とは違っていて、3本ピヨが両サイドこめかみについているのね。ただし、河連法眼館の検非違使にはついていない。

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忠信の紋が源氏車なのは、源氏の家臣だからだと思っていたが(狐の浅知恵的な感じで)、そうではなく、初演の政太夫の紋をつけているそうだ。
弁慶さんの紋は、輪宝だった。『ひらかな盛衰記』の「辻法印の段」原作では、ニセ弁慶を見たお百姓ズが、「弁慶の紋が違う、束熨斗じゃなくて輪宝のはずだ」というキツいツッコミを入れてくるが、その裏が取れた(?)。
というか、弁慶、大物浦とヘアスタイルが全然違うのは、なぜ?

 

それにしても、鎧、そんなにコンパクトにたためるか? 京都駅で売ってるお土産の生八ツ橋の箱(20個入り)くらいのパッケージサイズになってますが……。

 

 

 

道行初音旅。

鎧はさらにコンパクトに折りたたまれ、セブンイレブンで売っているおむすび&おかずセットくらいのサイズになっていた。真剣な話、いまのいままで、忠信、弁当しょってんのかと思ってた。

 

演目としてよく出るからだろうが、今回の第一部のなかでは、一番、人形演技が洗練されている。
狐忠信の所作は、道行の完成度がもっとも高い。それはケレン部分だけでなく、普通の舞踊部分も、曲に乗った動きのメリハリが非常に自然だ。
一切迷いがないのが、最も良い点。やり方は一種独特であっても、本人の中で完全に納得してやってるから、違和感にならない。
狐忠信は、普通(?)に考えたら、物語の段階を追って「きつね」度を上げていくと思う。しかし今回はそうではなく、「伏見稲荷」から相当きつねに寄せている。特に道行は、他人に擬する戦物語の箇所を除き、ほぼ全般、「きつね」だろう。きつねの所作を具体的に行うところだけでなく、「変わった」所作になっている。道行は本来、ピンポイント部分以外はきつねではやらないはずで、一種、逸脱している。しかし、いまの勘十郎さんなら、批判されない。なぜなら、物語上の整合性を上回って、完成度が高いから。耳目を引くための「やってみた」的な演技とは、まったく違う。

 

静御前の笠は、通常の黒の塗笠ではなく、市女笠タイプで、シアーな翡翠色のものに差し替えられていた。塗笠では第二部の浅香姫とカブるからだろうか。
静御前はもっと自信を持ってやって欲しかった。これ、もう、派手でナンボの演目でしょう。特に、扇を手元で宙返りさせるところ、後ろ向きに投げるところ(山越え)は、失敗してもいいから、思い切りやって欲しい。
山越えの扇トスは、2回見たうち、1回は失敗、1回は成功。失敗した1回は、風に乗るようなふんわりした投げ方自体は良かった。成功した1回はキャッチボール状態というか、まさに矢のように直線的に飛ばしていた。そんな投げ方初めて見た。文章的には、矢のように飛ばすのもアリだろうけど、むしろ、どうやって投げたんだ。
舞踊部分は、曲に対して尺が余りすぎだと思う。そして、静よりも忠信のほうが肩の表情が豊かなのも気になった。頑張れっ!
ミノジロオにはほんといつも、自信持ってッ!と叫びたくなる。自分のよいところがどこか、わかってないんじゃないか!? 説明するから、なんばウォークサンマルクの入って左奥のカウンター席に来て欲しい!!!!!
でも、ミノジロオの肩衣は最高。実はMIUMIUだと言われても納得する。むしろMIUMIUはあの柄のダウンコートとか出して欲しい。

 

錣さんは切になっても変わらず「奇」で、良かった。静をあまりに無限にやりすぎて完全に独自の世界に行っているが、あの変拍子、一緒に並んでる人ら、ソースケ以外誰も理解できてへんのとちゃうか感が、いや、「感」じゃなくて、事実そうであることが、そこはかとなく、良い。

 

 

 

河連法眼館の段。

舞台上部に桜の飾りが吊られた舞台。中央から上手は瓦燈口のある屋敷の屋体、手毬状の桜のペイントが施されている。下手書割の塀の奥には、桜が満開になっているさまが描かれている。

狐忠信のケレンへのこわだりは、よく理解できた。
見た目として、演出意図通りになっているのかな。スピード感は置いてしまい、仕掛けがバレてもいいから、失敗せず、落ち着いて、丁寧に進行できるようにしているのだとは思う。具体的にどういう早変わりをするかはともかく、人形遣いが追いついてくるよりもあまり先に替えの人形を差し出すのは、他人を使って人形を持ち替えている(いかにも時間を稼いでいる)感が強い。スペクタクル性や見た目の鮮やかさの点で、解決して欲しい。スピードのある転換そのものは、体力のある若いうちにしかできないことなのかもしれないが……。
後半に乗るリフトのステップは非常に簡易で、足場も狭く、驚いた。体格良い目の人だとあれは無理だと思う。勘十郎さんは小柄で体重も軽そうだから大丈夫なのかもしれないけど、おじいちゃんだから心配。多少客席からバレてもいいので、腰の位置などにバーをつけてあげて欲しい。

ドラマ部分については、色々と考えさせられることがあった。
床も合わせての話として、狐物語ののっぺり感、もうちょっと、なんとかならないかな。
以前、東京の鑑賞教室で『芦屋道満大内鑑』が出たとき、勘十郎さんの葛の葉は、きつねの表現はできていても、母親としての情緒がないと書いた。これと同じことを狐忠信でも感じた。「河連法眼館」での狐忠信の話は、かなり長い。静もいるっちゃいるけど、口を挟まず進むため、葛の葉同様、狐忠信の一人芝居状態になる。この間の演技(あるいは語り)の間持ちが非常に厳しい。特に、うなだれの演技はポーズだけにとどまらせず、説明的な振りとは異なる表情付けが欲しい。床を含めてここが引き締まり、派手なケレン部分と接続されれば、演目としての見応えがさらに上がると思う。

お人形さんが宙乗りすると、なんだか、かわいい。ほんとに高く飛んでるように見える。鼓から降り出す桜の花びらが、日によって分量違うのは、なんだか微笑ましかった。

 

なんともお行儀の良い座り方の義経、おひざを揃えてチョコ!と座っていた。ここ最近の若い武将役の中では、もっとも綺麗な座り方。そして、勘彌さんは、お袖振りがうまい。なお、ここの義経は動きや振りが決まっていないらしく、配役された本人の考えで出来るようです。

本物の佐藤忠信〈吉田清五郎〉は、気品に溢れた優美な姿。透き通るような凛々しさ、輝きある品格がすごすぎて、貴公子ぶりが義経を通り越しており、「え……もしかして……、源頼朝さんですか!? 大河でいつも見てます!!! サインくださいっ!!!!!」状態だった。
特に、刀を左肩にかけて瞑目する仕草はあまりにキラキラしていて、勝頼かと思った。清五郎さんのはみでるやる気。次は「十種香」の勝頼でお願いします。

静は、鼓を構えるときに、頭を傾けすぎのような。肩に乗せる位置など、人間の構え方とまったく同じにはできないとは思うけど、顔はまっすぐにしたほうがいいと思う。米俵かついだ力士みたいになってしまう。
鼓のラッピングは、伏見稲荷や道行とはまた違っていた。なぜ。鼓は、よく見ると桜の蒔絵が施してあるのが可愛かった。

 

咲さんは、「帯屋」で感じることと同じ印象を受けた。
ロセサンは、ゆとりある静の佇まいが良かった。

 

それにしても、義経、鼓くれるなんて、気前よすぎ。

 

 

 

 

 

 

今回の『義経千本桜』は、勘彌さんが義経、清五郎さんが本物忠信というのが良かった。通し狂言ではこの配役にはできないと思うので、このあたりは見取りならでは。

 

そして、第一部は、勘十郎さんが狐忠信であることありきの演目だと思う。
勘十郎さんのいつもやる気130%ぶりはすごい。勘十郎さんは、和生さんや玉男さんとは意気込みのベクトルや、目指すところがまた違うよね。特に「道行初音旅」は、その心意気に非常に適合した演目だと思う。

勘十郎さんのおもしろさというのは、即物性だと思う。この狐忠信は、非常に即物的だ。それは、ケレンの役であること以上に。これが「劇」に対し、どうやってつながっていくことができるのだろうか? それとも、つながりを拒否するのだろうか?
その点は、以前に書いた、いわゆる「荒物」を現代にどう継承するかという点にも関わっている。観客の嗜好や層が変化していく中、そして、世の中の娯楽全般の技術力や精細度が非常に上がっていく中で、道具立てが素朴な文楽において、「緻密さ」でない技術的アプローチは、どこまで可能なのか。「昔ながら」以上のものになり得るのか。何を目指すのか、何を表現するのか。
簑助さんは、手数の多さと情緒の結合に、簑助さんでしかなし得ない回答を出して引退したと思う。簑助さんの場合、手数の多さは、「時間が余ったから、付け足し」とか「とりあえずなんか動いてるほうがそれっぽい」じゃないんだよね。中割りの技法として成立していて、それが人形の思いの横溢を存分に表現していたと思う。同じことは、ほかの人には絶対出来ない。
勘十郎さんの即物性にも、こういった独自の表現の確立は可能なのか。それは、文楽の本質をどう捉えるかにも関わってくる。文楽の歴史の中でも、その挑戦は、いまのタイミングが最後になるのではと思っている。勘十郎さんには、合う役を一層研ぎ澄ませて、さらに上のステージへ行って欲しいと思う。

 

舞台トータルとしては、「河連法眼館」は、正直微妙。興行側としては今月イチオシの段だとは思うが、なんというか、パラついた印象だった。現状だと、場面ごとにイメージが分断されている印象。また、寂しさや叙情性は良いが、それに厚みをもたせる妖しさ、夢幻性、官能性はぴんとこない。もっと色彩を出して欲しい。配役としては、できる限りの好配役でやっている状態だとは思うが……。妖美性の問題に関しては、床要因だろうな。燕三さんがやっているのは、わかかるが。東京公演ではなんとかなるのだろうか。

あまりに冷静に見てしまったのは、私が「河連法眼館」のストーリー自体に関心がないからだろう。話に入り込めず、冷静に出演者の技巧を観察してしまった。「卅三間堂」や「葛の葉子別れ」にどうにも白けてしまうところがあったが、人間以外の話は、自分向けじゃないなと思った。
プログラム編成として、狐忠信の純粋性・素朴さを際立たせるためには、やはり、二段目の知盛、三段目の権太や維盛が出ないと、映えないのだと思った。通し狂言の状態は、よく出来ていると思った。

 

人形にとって、手元の動きはとても重要だと思う。手のひらの向いている方向に違和感があると(人体として捻れた方向になっていると)かなり不自然な印象になる。特に左、常に外側に捻れていることがあるが、この手のミス、まず、改善されない。このような無意識あるいは不注意による違和感の滲み出しは、非常に勿体なく感じる。本人は手順そのものに夢中でクオリティがどうなっているかわかっていないのだろうが、客からはクオリティ自体しか見えないので、手がどのように差し出された状態になっているかは、随時チェックして遣って欲しい。主遣いの人も、自分の左がどうなっているか、本番中に見えないのであれば、録画映像などで確認して欲しいと思った。
あと、床の人は、自分の番以外も、顔を動かさない方がいいと思った。

 

最近の大阪公演のプログラムは、すごく良い。
公演内容そのものに大幅に寄せているため、いま見ている公演と、お客さん自分自身とを結び付けられるような内容になったのが、すごく良いよね。今月にしても、『摂州合邦辻』ゆかりの地の案内はすごく面白い。(人形の写真にフキダシがついて喋ってるあたり、関西オーラ)
今後はぜひ、近世大坂の都市としての固有の面白さも紹介して欲しい。上方ならではの遊女屋のシステムや、堂島など特殊性のある土地の解説、また、奉公の制度解説など、魅力ある企画を待っています。

今月は、「文楽命名150年」の企画等に合わせてなのか、『人形浄瑠璃文楽座」の歩み』という冊子が、ロビー、展示室などで配布されていた。明治期の人形浄瑠璃の流れについて、史跡の写真などを交えながら解説がされている。発行元は文楽劇場ではなく、「一般社団法人 人形浄瑠璃文楽座」となっている。構成などに手作り感があり(右綴じなのに横書き)、おそらく有志の人が作ったのだろう。職員さんかなと思うが、内部に、こういうのをやろうと言う人、しかも自力で形にする人がいることは、すごいことだと思う。
そして、松島文楽座の現在位置イメージ写真がスーパー玉出なのが、良すぎ。

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文楽 4月大阪公演『嬢景清八嶋日記』花菱屋の段、日向嶋の段『契情倭荘子』蝶の道行 国立文楽劇場

和生さんのことをお母さん、玉男さんのことをお父さんだと思い込んでいる節があります。

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第三部、嬢景清八嶋日記、花菱屋の段。
人形黒衣。

太夫さんの語りは、それぞれの人の個性的なキャラクターが出ており、街道筋の遊女屋の賑やかさ、集う人々の睦まじさが感じられ、楽しかった。向田邦子ドラマ的。

左治太夫〈吉田玉志〉は、ギャグ顔の肝煎(女衒)なのだが……、優しそうな雰囲気、若い娘さんが無防備に親しんできてくれる感じは、よくわかる。
それは置いといて、ビシ!!と毅然とした雰囲気と、糸滝への見守りオーラがすごすぎて、近所の学問所の先生か?って感じになっていた。見守りぶりが重い。糸滝がちゃんとお話できるか、ものすごい前のめりで始終見守っていた。花菱屋の人々に負けず劣らずの奇人だった。
かなり律儀そうで身だしなみも良く、あの居ずまい、学問所の先生じゃなかったら、大坂で三指に入る豪商だ。一人だけ、世界観が西鶴になってる感じがした。

糸滝〈豊松清十郎〉は、ソワソワしていて可愛かった。糸滝は、清十郎さんの人形のどこか病んだような雰囲気に合った役だと思う。何をそんなに気にしているのか、小動物のように落ち着きがなくクルクルとしているところは、簑助さんに近い。黒衣で見ると人形が浮き立ち、低くウネウネした動きが人外めいていて、不思議だ。(擬音語が多い文)

 

 

 

日向嶋の段。
景清ハウスのボロぶり、台風来たらどうなっちゃうのかと心配になった。

 

景清〈吉田玉男〉は、冒頭の独白が超見どころ。
なんだ? この禍々しい大きさは? 
玉男さんの景清は、本当に人形の姿そのままの人が、そこに立っているようだ。気迫による圧とでもいうべきものが、舞台の重力をつくりだしている。巨大で空虚な立ち姿、侍大将としての衰えぬ気骨と勇猛さ。人形ならではの虚無的な雰囲気があり、いまも心には敗残者としての闇が立ち込めている。重盛が死んでからずっと、彼の時は止まっているのかもしれない。その瘴気が景清を巨大に見せている。観客は、緊張を強いられる。

頬骨が浮いて目が落ち窪んだかしらには、ドラマティックな影が落ちていた。襤褸の衣装がインパクト大だが、ツキアゲ*1の竹が、黄色に黒の斑点がある、自然そのままのものだった。景清の衣装に合わせてあるのかな? 黒(茶色?)に塗ってあることが多いと思う。人形の指の仕掛けの継ぎ目が、骨ばった節目に見えるのも、骸骨が動き回っているかのような景清の姿に似合っていた。いかにも骨太そうで、死んだ時に、お骨上げで骨壷に入り切らなさそうな感じがした。(突然現実的な感想)

景清の長い独白につけられた振りは、決して写実的なものではない。しかし、彼の心情をあらわす所作としては極めて自然で、様式や芝居には感じず、景清の荒れ狂う無念さをそのまま手に取るように感じられる。
玉男さんの場合、ここのポーズがよかった!とか、ここの見せ場がよかった!とか、そういうのではないんだよね。変な言い方だけど、いわゆる「見どころ」「有名シーン」がどこなのかわからない遣い方というか。(実際には、見せ場はちゃんと決めていますが、それをことさらに目立たせるような遣い方はしないという意味です)
すべての動きに思念がこもり、きわめてシンプルだが、一挙一動に強いインパクトがある。人形の遣い方としてブレがなく、そこに迷いがないことが、その説得力を生んでいるのだと思う。さらには、その動きと動きのあいだの、つなぎの精緻さが生む余白が、より一層、イメージを増幅させている。運筆の雄弁さ。玉男さんの芝居のどこが見どころ?と聞かれたら、動きと動きのあいだを見てくれっ!と叫ぶ。

それぞれの所作の精緻さ、そしてそれが文字通り緊密に結び付けられていること、それが玉男さんの人形が秘める思念の大きさなのかもしれない。
モノとして存在するそれ(人形)を、演者の観客へ与えるイマジネーションが悠々と超えてゆく。文章通りでありつつ、決して逐語的にならない。人形ならではの表現で、まさに、文楽の醍醐味にして、玉男さんの真骨頂だ。

 

糸滝と左治太夫は、『平家女護島』とは異なり、ちゃんと小舟に移り乗ってやってくるのが可愛い。(それはそう)

小船が岸へ近づいてゆくとき、糸滝は緑色の右袖を抱いて、ソワソワとしきりに岸辺のほうを気にしている。清十郎さんの糸滝は、いっしんな目線が良い。日向にいるあいだ、目線の示すものがぶれることはない。彼女の心を占めているのが何なのか、その目線からよくわかる。その愛らしさに胸を打たれる。

玉男さん景清も、清十郎さん糸滝も、相手のことをとっても気にしてるのが良かった。清十郎さんは、いつも相手役の人のことがとっても大好きそうだし、玉男さんも、相手役を「ソワ…」と気にしているのが愛らしい。こういうところは、清十郎さん玉男さん自身の持っている愛嬌だ。
むすめ、すき! おとうさん、すき! とばかりに、「きゅっ!」と抱きしめ、抱きついている。その可憐で汚れない姿は、文楽人形のなし得る、純粋性の極地だと思う。

それにしても、正面を向いて黙念とする景清に糸滝がすがりつくくだりでは、糸滝役と景清役とで手を繋いでいるのだろうか。チョコ…としていて、可愛かった。

 

日向嶋では、左治太夫は見守り体勢がさらに高まっていた。
この几帳面さというか、神経質さ……。完全に「玉志〜」って感じになっていた。2019年9月の東京公演で『嬢景清八嶋日記』を観たときの左治太夫役は簑二郎さんで、まめやかで暖かい人柄がかなり良かったが、その人の個性がかなり反映される役ということね。玉志左治太夫は、しきりにソワついていて、素直になれない景清に、「もー!もー!もー!もー!もーーーーーーーーー!!!!!!!🐮」と言いたそうだった。それと、「ハイッ!」って感じで糸滝を抱っこして、船の乗り降りをさせてあげているのが、可愛かった。
あと、プルルッとしていた。ギャグ顔でも、かしらに色が塗ってある役は、玉志サン的には「プルルッ」とするということなのか。ご本人の中では高度な整合性がとれているのだと思うが、他人からは意味がまったくわからなくて、良い。

 

糸滝は、小舟が岸を離れていくときも、ソワソワとお父さんのほうを気にしていた。お父さんには見えないんだけど、それでもお父さんに向かって一生懸命に手を振っているところが、たまらなく愛らしかった。

 

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花菱屋の長、完全にネコミミってるのが良い。

 

 

↓ 2019年9月東京公演の感想。景清=玉男さん、糸滝=簑助さん(激かわ)。

 

  • 義太夫
    花菱屋の段=豊竹藤太夫/竹澤團七
    日向嶋の段=竹本千歳太夫/豊澤富助
  • 人形役割
    花菱屋女房=吉田文司、花菱屋長=吉田玉輝、肝煎左治太夫=吉田玉志、娘糸滝=豊松清十郎、遊君=桐竹勘次郎、遊君=(前半)吉田和馬、(後半)吉田簑之、遣り手=吉田玉峻、小女郎=吉田簑悠、久三=吉田玉路、飯炊き女=吉田玉延、悪七兵衛景清=吉田玉男、船頭=(前半)吉田玉彦(後半)桐竹勘介、土屋軍内=吉田文昇、天野四郎=吉田簑一郎

 

 

 

契情倭荘子、蝶の道行。

みんな頑張ってる。ちゃんと稽古してると思う。出ている人からすると、全力パフォーマンスだと思う。

しかし、人形の振付、どうにも、人間用のものだよね。「人形という小道具を持った舞踊家の踊り」なら、これでいいと思うけど……。なるほど、伝承演目の演出はよく出来ていると思った。

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  • 義太夫
    助国 竹本織太夫、小巻 豊竹芳穂太夫、豊竹亘太夫、竹本聖太夫、豊竹薫太夫/鶴澤藤蔵、竹澤團吾、鶴澤清𠀋、鶴澤友之助、野澤錦吾、鶴澤燕二郎
  • 人形役割
    助国=吉田玉助、小巻=吉田一輔

 

 

 

景清は、まるで玉男さんへの当て書きみたいな役なんだけど、300年前からある演目なのが不思議だ。以前はどのような上演をしていたのだろうか。玉男さんの景清を見ると、景清は元からこういう人だと思わされる。

プログラムの阪口弘之氏の解説は、以下のように書かれている。

(略)日向嶋の老残落魄の景清の乞食姿には古の武人の面影はなく、どこか「鬼界が嶋」の俊寛をさえ思わせる。

今回の実際の舞台はそうなっておらず、玉男さんの景清は、「今」を拒絶して過去に執着し、平家の武人であることを忘れていない。しかし、突然やってきた娘かわいさに過去を全て捨ててしまう。その強烈な人間性への説得力と賛歌もまた、玉男さんの景清ならではだと思う。

玉男様は、無限に良い。
玉男様・心から・LOVE💞の気持ちを新たにした。

それにしても、玉男様のTOGA PULLA的袴の柄は、何?

そして、清十郎は、なんで最近、ブログを書かないの?

 

番組編成として、「乞食に身を落とした盲目の男性をうら若い娘が尋ねてくる」という物語構造が、第二部と第三部で被っているのはどうなのか。大道具被りも気になる。最近、みどりの断片化が著しいからか、この手の被りがよくあるけれど、意図的にやっているのなら、やめて欲しいです。

 

 

 

おまけ 『嬢景清八嶋日記』の現行上演部分以外はどういう話なのか

『嬢景清八嶋日記』の、現行上演がある部分の前後の話がどうなっているのかを知りたくて、原作『大仏殿万代石楚(だいぶつでんばんだいのいしずえ)』を読んだ。

現行『嬢景清八嶋日記』の「花菱屋」と「日向嶋」は、『大仏殿万代石楚』の三段目の抜き取りを改題して上演している。『大仏殿万代石楚』の話全体は、平家敗北後の景清を主人公とし、その命運を描き出している。群像劇ではなく、景清本人のありようの変化を追っていく構成になっている。屋島の戦いでの錣引きで景清と戦った水保屋四郎(美尾谷十郎国俊)がショボキャラの悪役に設定されているのが特徴。

初段、二段目は、景清が日向に流されるまでに至る話。熱田神宮の大宮司の娘である正妻(=糸滝のママ。このあと亡くなる)のもとに潜伏し、頼朝の命を狙ったり、家臣に取り立てようとする頼朝に恩義を感じるも、目をえぐって源氏の世を見られないようにするという、景清にまつわる有名な設定やエピソードを用いた物語が描かれていく。娘の存在は示されるが、すでに乳母に預けられていて長く断絶しており、意図的に無視しているという設定になっている。

三段目は、現行「花菱屋の段」と「日向嶋の段」の間に、糸滝と左治太夫の船路の道行がある。また、日向嶋の冒頭に、日向の地元の人々が景清のご飯の準備をしているくだりが入っている。

問題は、現行上演部分のあと。四段目では、日向嶋から帰った糸滝の行く末が描かれる。のだが、あれだけ大騒ぎしておきながら、糸滝は結局遊女になっている。ええーーーー!!!!!! 船追いつかなかったの!!???!? 左治太夫、Business Person として意外とシビアだ。
しかも、糸滝に彼氏できてるし。お父さん大ショック。その彼氏ってのがまた源氏の重臣畠山重忠の息子で、先方の親御さんもエエていうてるということで、結婚することになる。

五段目では、景清もその結婚式に呼ばれ(特に前振りなく、いつの間にか唐突に参列してる)、娘が幸せになったのを見て安心し、切腹して「この血の色は平家の赤」的な感じで死ぬ。景清、日向嶋のくだりでかなりの奇人だとは思っていたが、娘の結婚式でそのムーブはすごいと思った。

 

 

 

 

以前、玉男さんがお話会で、「タマユキは体がおっきいから、ずっとしゃがんでるのが、大変(><)」とお話しされていた。そのときは、「しゃがましとけばいいんじゃない?」と思っていた。しかし、Tamasho insta のこの投稿の2枚目の写真を見て、「なるほど。」と思った。なんでこんな体格ええねん。筋肉が邪魔でしゃがめなさそう。でっかいハムスターみたいな方だなと思っていましたが、カピバラ級に、かなり、相当、大きかったようです。

 
 
 
 
 
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┃ 参考文献

*1:男性の人形の右脇から出ている細い竹の棒。根元は人形の肩についているとのことで、これを使って人形のバランスをとったり、胸回りの厚みを出したりしているそうです。玉男さんの場合、使い方がうまいのか、ツキアゲはほとんど見えませんが。

文楽 4月大阪公演『摂州合邦辻』万代池の段、合邦住家の段 国立文楽劇場

「合邦住家」で、合邦ハウスの下手側にある閻魔様の首。下に車輪がついていて、そのまま移動できるというのが衝撃的だった。それにしても、なんで首だけなの???

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第二部、摂州合邦辻、万代池の段。
あらすじはこちらから。

 

舞台中央に蒲鉾小屋。手すり上手側に、枯れたアシの葉っぱが生えた万代池、書割上手側には四天王寺五重の塔を望む風景。
大阪のかまぼこハウスはあいかわらず凄まじいボロさ。一体どういう方向の力の入れ方なのか。そして、五重の塔は、異様に精細に描かれていた。

昭和48年[1973]の復曲。構成・文章は、原作から大幅に整理がされていた。入平が四天王寺へ到着してワサワサする冒頭部、俊徳丸と浅香姫の一部やりとりはカット。ややこしいところ、まどろっこしいところは略してある状態だった。

 

下手小幕から杖を頼りにソロソロと歩みくる俊徳丸〈吉田玉佳〉は、清々しい雰囲気。顔の向け方、肩や指先の動きなど、若君らしい繊細な佇まいで、涼しげな気品がある。古風なイケメンといった感じ。というか、玉佳さんは、謎なところでなんだか玉志さんに近づいてきた気がする。最近、動きが速い。
俊徳丸は最後、閻魔カーに乗って去っていく。原作にあたる説経節『信徳丸』の文章からだと、車は『子連れ狼』の大五郎が乗っている乳母車みたいなやつだと思っていたが、本作では、合邦が勧進のために引き回している閻魔大王の首を乗せた小さな台車に乗ることになっていた。閻魔カーに乗った俊徳丸は、遊園地のアトラクションにライドオンしているようで、かなり良かった。そこに掴まるんかい。

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合邦〈吉田玉也〉は、シカクい印象の姿で、豆腐田楽が歩いているみたいだった。やはり、肩にタックをつけたパワショルっぽい着付がそう見せているのだろうか。
地獄極楽の説法を語りながら踊る合邦ダンスが良かった。足元のふわっとした動きが、映画『紅の流れ星』で、渡哲也が照れ隠しにジェンカを踊るシーンのようだった。無表情なのも良い。(人形だから)

合邦の説法につられ、群集のツメ人形たちがどんどこ集まってきていた。一番右のツメ人形が良かった。脇役でずっと動きがなく20分くらいじっとしたままの人形の人形遣いさん、ああいう虚無の目をしている。右から二番目のヤツもかわいかった。

黒の塗笠に杖をついた旅姿で現れる浅香姫〈桐竹紋臣〉はおっとりとした雰囲気。すべてが「ほわ〜ん」としたおぼこ娘の真骨頂だが、ちょっと大人っぽいかな。歩き方や姿勢がキャンキャンせず、お姉さんっぽいというか。しかし、「合邦住家」に入ると、和生さんの玉手御前の美貌と貫禄があまりにすごいので、途端にオコチャマになるんですが……。

浅香姫と入平〈吉田玉勢〉は「Let’s 熊野路」とばかりにそのままの格好で西国巡礼へGoしようとしているが、あの、私も最近、西国三十三所巡礼はじめたんですけど、お二人が突撃しようとしている熊野、つまり第一番札所の青岸渡寺ですね、とても良いところで、熊野という土地の雰囲気も本当に素晴らしく、行って良かった場所なのですが、そんな気さくに行ける立地じゃないと思う。結構すごいところにある。紀伊半島の真逆側っていうか。天王寺からなら、確かに特急くろしおで紀伊勝浦まで1本で行けますけど、それでも相当遠いので、今日のところはMIOのアウトドア用品店でトレッキングシューズを買ったり、駅で特急券を予約するにとどめたほうがいいと思いました。

かまぼこハウスの近くにある紅白の梅は、さっき、伏見稲荷にも生えていた気がした。

 

「万代池の段」は17年ぶりの上演だそうだ。説経節の世界の四天王寺の風景は面白かったけど、合邦住家の前段のとしての説明をしました状態だなと思った。
プログラムなどでは、おそらく差別問題への配慮として、俊徳丸がおかされた病が「癩病」ということを伏せてある。簡単に言及できることではないが、ハンセン病への差別の歴史や、四天王寺と被差別民の関係の歴史は、なんらかの形で説明したほうがいいと思った。万代池を出すならなおのことだ。

 

 

 

合邦住家の段。
さっき万代池のとこにいたツメ人形が、早速、講中の仲間に入っている気がした。奥さんツメも1人いた。

玉手御前〈吉田和生〉の圧倒的な美貌!!!
いま日本で一番美しいのは、和生さんの玉手御前だろう。
大粒の真珠のごとき、艶やかで豊満な美しさ。ほかの人とは極端に違う特殊なかしらを使っているわけではないはずなのに、圧倒的にすさまじい美女に見える。しっとりと柔らかで、濃密で官能的な香りが漂ってくるような美しさだ。だから、父や母を含め、みんな、彼女が俊徳丸に恋をしていると思い込んでしまったんじゃないかと思える。

和生さんの人形には目元に強い表情がある。玉手御前は、特に、まぶたの表情がとても印象的。悲しげに俯いた表情は、特に艶麗。露のような憂いがより一層美しさを引き立てている。お父さん、お母さんと別れるのが悲しいのかなと思わされた。ゆっくりと目をつむったり、ぱちりと開ける仕草が、彼女の気持ちの変化のポイントを表しているようだった。ママ、あるいは合邦が話しているとき、どこを向いているのか。どれくらい顔をうつむけているのか。そのニュアンスが語るものが非常に多い。このように目元が非常に印象的になっているのは、それ以外の所作のノイズを徹底的に抑えているためだろう。

同じことで、立ち上がり、座りの際に動きのヨレがなく、所作が優雅で美しいのも良かった。前半を抑えている分、後半の乱行の華やかさも引き立つ。

和生さんの玉手御前の場合、俊徳丸への恋心は、「演技」という解釈だろう。
それ以上にドラマとしてなにを重視しているかといえば、合邦一家の親子愛だと思う。合邦とその女房のかけがえのない愛娘との物語、という印象が強い。玉手御前の父母への思いは強く、大名の奥方になっても彼女はいつまでも二人の娘であって、その父母から誤解されるよう仕向けざるを得ないことが、彼女の悲しみと崇高性なのだと受け取った。
父母に不義を問われ、述懐する前に、玉手はそれまで閉じていた目を「ぱち!」と開け、前を向いて、思い切ったような表情をする。家に帰ってきたときには(父母に真実を打ち明けるか)まだ少し迷いがあっただろうけど、そのとき、彼女は覚悟を決めたのだと思う。
和生さんの玉手御前は、恋を語って俊徳丸にもたれかかるとき、直接触らないようにしているよね。体の外側をつけて重心を預けすぎず、膝元へ手を当てるにしても着物の袖を敷いている。それは、恋が芝居であっても、やっていいこと、いけないことを分けているからだと思う。*1また、嘘っぽい大げさなフリは、浅香姫が寄ってくるまで排除していることからも、恋が演技だと思わされる。(でも、そのぶん和生さんの玉手キックは面白すぎて、かなり良かった)

全般的には、何かに耐えて、ぐっとこらえているような表情が印象的だった。玉手御前の演技の組み立て方としては、わがまま娘風にするというのがよくあると思うが、内面になにかを秘めていることだけを示し、あまりスネた風に見せていないのは、やり方としては珍しいのかもしれない。

前半が大人っぽく美麗な分、手負になってからの可憐さ、年齢なりの娘ぶり(合邦とママの子という意味で)は印象的。凛としつつも、どこか可愛らしい雰囲気がある。

玉手御前は、最後、ひとりずつにちゃんとお別れの挨拶?をしているのが良い。浅香姫には挨拶していなかったが。なんでや。昔の記録映像を見ると、俊徳丸に別れを告げているところに浅香姫がソヨソヨ寄ってきて、それを見た玉手が「この子をよろしく…!」みたいに片手で拝む仕草をしていたので(玉手御前=初代吉田玉男)、出演者による協議があるのかもしれない。

 

ママ〈桐竹勘壽〉は、さすが勘壽さんの老婆役らしく、気品と優しさのある佇まい。ママは、老婆役にしては動きが非常に多い。多くある向き直り動作での大きく下弦を描くような動き、肩の使い方の巧みさで一見地味な役の表情を豊かに見せていた。体の中心の位置の使い方のうまさを感じる。動揺で常にプルプルガクガクしているのも良かった。

 

段切、合邦は、下手の閻魔様へお灯明を上げる。これは初代吉田栄三のやっていた型だそうだ*2。この演技は統一して決まっているものではないらしく、外へ出ず、死んだ玉手の顔を拭ってやり、鮑の盃を包んでいた袱紗を玉手の顔にかけて隠す型もあるそうだ(吉田多為蔵の型)。
私がいままでに見た合邦役、玉也さんと玉志さんはともに外で灯明を上げる型だったが、それ以外の部分では二人に相違する点があることに気づいた。玉也さんの合邦は、冒頭部で「幽霊」を語るときに手を前に出して幽霊のポーズをし*3、玉手の邪恋をなじるときには若干クネクネしている。玉志サンは確か、幽霊のくだりでは「ピョココ…」となりヒュっと伸び上がって震える仕草、邪恋を叱るくだりも怒りの説教演技*4でやっていたと思う。玉手が家へ入ってくる前後の仕草は玉志さんのほうが複雑で、上手にそれはするが、悲しそうにハの字まゆになって体育座りをしていたと思う。玉也さんの場合はこの段階ではまだ毅然としていて、上手で体をそらして座っているはず(前は体育座りしていた気がするが……)。あとあと考え込みはじめ、煙草盆に煙草を突き、顔を伏せてひたいを当てる仕草になることで、重苦しい心情を示している。
玉也さんは古い型を意図的に維持する方向に、玉志さんは師匠の近代化を受け継ぎ、道化じみた演技を排除する方向にいっているのだろう。
今後、合邦役が誰にいくのかはわからないが(基本的に入平をやっている人だと思いますが)、合邦の演技はどうなっていくのだろうか。

 

俊徳丸の人形の演技の見所について。自分はなんとなくで見過ごしてしまいましたので、ここに書いておいて、これからご覧になる方には見ておいて頂きたいのですが、この段での俊徳丸の人形演技のキモは、段切近くの「月江寺と名付くべし」で、右手を一旦引いてから前へ差し出す所作(マネキ)だそうです。

 

あとは、合邦と玉手の左がうまかった。

 

 

  • 人形役割
    高安俊徳丸=吉田玉佳(4/2-3休演、代役・吉田玉翔)、合邦道心=吉田玉也、浅香姫=桐竹紋臣、奴入平=(前半)吉田玉勢(後半)吉田簑太郎、高安次郎丸=桐竹亀次、合邦女房=桐竹勘壽、玉手御前=吉田和生

 

 

 

やはり、『摂州合邦辻』は、戯曲としては不完全であるがゆえに、演者の技量や考えによって、いかようにでも料理できる演目だと感じた。

和生さんの玉手御前の美しさは、本当、必見。宣材写真やかしらの資料写真とは全く異次元の、洗練された美貌。その所作の艶やかさを、是非とも観て欲しい。美しすぎて、目が点になる。

最近の和生さんは、濃密な情感に満ちていて、素晴らしい。人物の想いが滴るほどに行き届いた所作。動きそのものはゆとりがあり、シンプルなのに、情報量が極めて多い。単に余分な手数を排するだけでは至れない境地に達していると思う。文楽は、60代70代の人でも、そして、元がかなりの水準に達していた人でも、さらに飛躍するというのが、芸能としてのすごさだと思う。

 

 

↓ 2021年3月地方公演の感想。玉手御前=和生さん、合邦=玉志さん(代役)。


 

 

 

おまけ 万代池はどこなのか

本作の「万代池」は、現在、住吉区にある万代池公園の「万代池」とは違うようだ。オンライン公開されている江戸時代の地図を確認してみると、四天王寺の南大門を出て左手側(門に対して南東)に、小さな池が描かれているのを見ることができる。「万代池」「ばんだいケいけ」「はんだかいけ」等と名称が添えられている。
ではどういう池だったのか? 簡単に検索して引っかかったものの拾い読みのみだが、元禄2年[1689]刊の『四天王寺がらん記』(国立公文書館蔵)の説明によると、「ばんだいが池 此池の水にくでんあり」とある。どんな口伝だったのだろう。

 

『摂州合邦辻』初演(安永2年[1773])に近い時期の地図をご紹介。
水色囲いが万代池、オレンジ囲いが四天王寺、ピンク囲いが合邦が辻、黄緑囲いが月江寺

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▲『攝津大坂圖鑑綱目大成』(正徳5[1715]*5国立国会図書館蔵
「ばんだいケいけ」と書いてあります。この地図のように、合邦辻の閻魔様は、古地図では全身描いてあることも多いです。文楽でも、昔の記録映像を見ると、全身ある場合もあります。

 

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▲『増脩改正攝州大阪地圖』(文化3 [1806])国立国会図書館蔵
浮瀬(ウカムセ)も描かれていますね。

 

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▲『四天王寺独案内  一名天王寺土産』(明治28[1895])国立国会図書館蔵
明治時代の観光案内に、池のイラストが載っていた。四天王寺を西門から見た風景で、万代池は南大門の門外、右端やや下のほうにある。デカ池として描かれているが、別ページの説明には、「萬代(まんだい)の池 南大門の外にしてちりゝやたらゝの橋と共に旧跡を存するのみ」とある。明治時代後半にはすでに存在しなかったのだろうか。文久3[1863]の『国宝大阪全図』(立命館アートリサーチセンター蔵)の地図でも、万代池の箇所には石碑のようなものが描かれるのみで、池として描かれていないので、幕末ごろになくなったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

*1:この場面、玉手御前が俊徳丸に思い切りビトッとくっついたほうが、浅香姫役の人にとってはそのあとの演技が思い切りやりやすいという考えもあるようです。

*2:さらに遡ると吉田文三の型の継承とのこと。

*3:幽霊ポーズは、吉田玉造の型だそうです。

*4:怒って床を叩くのは、初代吉田玉男、初代吉田栄三の型。

*5: 宝永4年[1707]初刊図の後印版