TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 大阪7・8月夏休み特別公演『夏祭浪花鑑』国立文楽劇場

今年の夏休み公演第三部・サマーレイトショーは『夏祭浪花鑑』。
団七が玉男さん、義平次が玉志サンという私にとってベスト配役だったので、4連休を使って行ってきた。

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住吉鳥居前の段。

玉男さんの悠々とした団七がとても印象的。
ドーーーーーーーーーーーーーーーーンとしとる。他の登場人物とは異なるゆったりとした歩み、隆々とした筋肉が邪魔で動きにくいのかと思うほどの異様に丁寧な所作、もじゃもじゃしたまゆげを時々おもむろに「ぴこ……」とさせるさま……。
まじ、「埒外」の人……。
私が玉男さんに魅力を感じるのは、人形に何を考えているかわからない不気味さがあるところ。ものすごくいい意味で一般社会常識がなく、常人とはまったく違った思考回路で行動しているように見える。
この言い草で「ものすごくいい意味」って何だよって思われるかもしれませんけど、「常人には全く理解できない人物」というサイコサスペンス的な面白さ、こいつとは絶対分かり合えねえという迫力を感じる。

まずやばいのが、「住吉鳥居前の段」で、一寸徳兵衛〈吉田玉佳〉と出会って高札で打ち合い、お梶〈吉田一輔〉が止めに入るところ。
徳兵衛はお梶の叱咤にすぐ反応して高札を地面に置き、そちらへ向き直るが、団七はそれとは関係なく、高札に視線を向け、その棒の下の端まで手のひらでゆっくりと滑らせてから、地面に置く。なぜこいつは突然現れた自分の女房の介入(しかも久しぶりの対面)を無視したマイペース動作をしてるんだ……???
以降も団七は目線をずっと地面と水平にしていて、滅多なことでは他人を注視しない。微妙に目の焦点が合ってなさそうな、人形の顔貌のつくりそのまんまの表情をしているように見える。人の話聞いてるのか聞いていないのか。何かを考えているのはわかるけど、何を考えてるのかはまったくわからない、玉男さん特有の、人形の斜め上に「……」という吹き出しが浮かんでいる感。「人間がヒグマと戦うのは無理」的なものを感じる。義平次もよくこんな身長196cm体重110kg前科あり生真面目だけどちょっと足りない……的なヤツをよく挑発したな。殺されるに決まってんだろと思った。*1

 

玉男さんの立役は、その重量感や筋肉の質感が非常に印象的だ。
それはいったい何によって成立しているものなのか。今回のプログラムに『夏祭浪花鑑』についての玉男さんのミニインタビューが掲載されており、そのヒントになる言葉を見つけた。

遣う時の肝は二の腕で、自分の腕で団七の二の腕を下から支え張るようにして動かします。そうすると団七らしくなるんです。

ははあ、玉男さんの人形って肩から二の腕にかけての雰囲気がほかの人と決定的に違い、そこが筋骨のたくましさや人形の物理的大きさ以上の「大きさ」につながっていると思っていたけど、ご本人もそこを意識してやっていたんだなあ〜と思った。

……って、これ、文章で読むと「へえ〜〜〜」と思うのですが、実際の舞台を相当の前列席で見ても、なにをどうやっているのか、サッパリわかりません!! 自分の腕の上に団七の腕を直接乗せているという意味ではなく、差し金なり、大型の立役人形についている「ツキアゲ」という棒を使った支え方の話なんじゃないかと思うんですが、玉男さんの場合、動きにまったくカクつきがなく、差し金やツキアゲがほとんど見えない遣い方なので、わかって見ていても、具体的にどうしているかは、今回4回観ても全然わからなかった。

ところで、「住吉鳥居」での団七は、最初、牢人として縛られた姿で登場する。そのときに着てる水色の着物、なんかめっちゃ色あせてたんですけど、わざとなの? それとも照明焼け?

 

磯之丞〈吉田清五郎〉は最初にむしろをめくった駕籠から姿を見せるとき、BLの受みたいな腰つきになっていた。めちゃくちゃビックリした。総受としか言いようがない。人形遣いは逆側のむしろを下ろしたまま遣っているのでご本人はわかってないと思うけど、うーん、すごいことなっとる。と思った。そのままでいっていただきたい。

琴浦〈桐竹紋臣〉は、フワフワとシャボン玉が跳ねるような、柔らかく軽やかな動き。生身の体重を感じさせない浮遊感がある。これもどうやっているのかはわからないが、ほかの人にはない動き方。着付けに遊女の艶麗さが出ているのも良かった。でも結構綺麗に着付けてあるので、品がある感じ。襲いかかってくるキモ男〈大鳥佐賀右衛門=桐竹亀次〉から、時々逃げ遅れているのが可愛かった。

一寸徳兵衛は玉佳さん。爽やかな徳兵衛で良かった。そう、かなり爽やか。人間でいうと吉沢亮レベルの爽やかイケメンだった。玉佳さんの人形の醸し出す、現代の若手俳優的なイケメン感も文楽七不思議のひとつ。毛抜きがめちゃくちゃデカいのには笑った。無心にヒゲを抜いているのが可愛かった。

あとはやっぱり玉也さんの三婦が上手い。老人特有の仕草の雑さが的確。「住吉鳥居前」で床几にかけるときのラフさ。己が納得いくように(?)悠々と座る団七とは対極的である。「三婦内」でも、のちほど出てくるキリキリした義平次とはまったく違うタイプになっており、面白い。お辰と対話する際は、彼女の気迫を押し返すように下手へ凄むとき、奥側の肩(右肩)を若干落としているのがさりげなくも上手い。こわばった表情が出て、姿勢が綺麗に見える。常時、肩をM字にして、首は前に投げ出している姿勢も良かった。これらが鼻につく小芝居になっていないのが、さすがベテラン。

 

それにしてもなんでこんなに玉ブラザーズ第三部に固まっとるん? 何かの記念公演か?っていうほどビッシリとひしめいておられた。

 

 

 

釣船三婦内の段。

清十郎さんのお辰が出色。いままでの清十郎さんにはない艶冶な佇まいが非常に鮮烈。上体をやや前のめりに傾けて腰をひねった病的に傾いだような姿勢、三婦に迫る身の乗り出し方に色気が強く出ていた。元々が清楚な雰囲気の方なので、それが変にヤニついたものにはならない。
お辰は普通にやっていればおつぎと見分けのつかないキャラになりそうなところ、一応普通の奥さんに落ち着いたおつぎとは全く違う、気の若い情熱的な女性として成立していた。文楽業界の藤純子や、と思った(普段は北川景子)。

ふっくらした頰に大きな目の老女方のかしら。水色の玉のついた涼しげなかんざし。トレードマークの日傘、傘地は水色で、露先は赤。閉じたときに赤がちらついて美しい。着物は黒にうっすらと模様が入っているが、ほぼ見えず、真っ黒に見える。扇子はダークグレーで柄なし。簑助さんが使っていた柄入りの扇子は私物なのかな。

三婦の居宅に来訪し、おつぎと話しているあいだは昭和のバーのママ的なさっぱりと伊達っぽい雰囲気。三婦から磯之丞を預けることはできないと言われると、少しかしらを震わせ三婦を注視し「ン!?」という表情をする。ここで一度、三婦に向き直って迫る。
鉄弓で顔を焼くくだりは他の人とはやや違いがあり、顔のかなり中央めに鉄弓を当ててすぐに人形を後ろに倒し、火傷の傷を頰の中央あたりにつけていた。火傷は顔のかなり側面(こめかみ〜耳の前)につける人が多いと思うので、目立つ位置につけるのは本人の判断だろう。側面につけていると、中央から上手寄りの座席の観客には見えないので、顔の中央に寄せるやりかたは上手いと思う。顔の目立つ位置に傷をつけることがお辰の覚悟、という趣旨の話なわけだし。顔の側面に貼られると、ぶっちゃけようわからん。
三婦に火傷の傷を見せつけるくだりは、首をかなり強く奥手前へ繰る演技。大きく首を後ろに向かせて奥で一旦溜めを作り、振り返りを大きく強調した動き。もちろんそういう型ではあるのだが、非常に派手な見せ方で、清十郎さんがここまでやるのは意外だった。やや病的なまでの色気で、そのアンバランスさに興味を惹かれた。

NHKから出ている『夏祭浪花鑑』のDVDに収録されている「三婦内」では、先代豊松清十郎がお辰を演じている。その芝居をある程度受け継いでいるのかと思ったが、演技がだいぶ違っていた。
先代豊松清十郎はかなり柔らかい演技で、やや年配感がある。今回観ていてかなり気になった「立ち直つて襟かき合はせ」のくだり、当代の清十郎さんは文章と異なり一度軽く立ち上がって裾を直す→座って帯を直す仕草のところ、先代清十郎は座ったままではあるが文章通りに襟を直している。これはなぜいまの清十郎さんがそうしているのか気になる。また、当代清十郎さんのお辰は顔に鉄弓を当てる前後で三婦に2度凄む箇所があったが、先代は後半の1回のみ、しかも「凄む」まではいかない振り。役に対する考え方が結構違うんじゃないか。当代の清十郎さんの演技は、三婦に対する描写を見る限り、今の師匠である簑助さんのほうに近いのかなと思った。

 

三婦女房おつぎは簑二郎さん・勘彌さんダブルキャストで、両方の回を見た。
それぞれの持ち味による雰囲気の差があって面白かった。また、両者で微妙に演技が違っていたのも興味深かった。
ひとつめの違い。「三婦内」は、幕が開いた時点で磯之丞・琴浦の人形が舞台に出ているが、それに加えて最初からおつぎが舞台に出ているかどうか。簑二郎さんの場合は、琴浦・磯之丞の痴話喧嘩へ割って入るように、二人の喧嘩がやかましくなってからの出。勘彌さんの場合は、最初から舞台に出ており、二人の喧嘩を聞きながら魚を焼いている。以前観た勘壽さんも確か最初から出てる派だったかな。
ちなみに、焼き魚を焼く丹念さは簑二郎さんのほうが上でした。上っていうか、かなり焼き魚に集中していて頻繁に裏返したり位置を移動させたりしていて、料理人みたいになってた。正直言ってやりすぎ。それを見ていたら自分も焼き魚が食べたくなって、夕ご飯を焼き魚にしてしまった*2。勘彌さんは家事の一環といったふうに火箸で炭をつつきながら火力を調整していた。魚はあまり動かさずにじっくり焼く方法で、これは勘壽さんと同じやり方だと思う。
ふたつめの違い。三婦は昔は喧嘩っ早かったことをおつぎが語るくだり。手に持ったうちわを使った演技が異なっていた。簑二郎さんは三婦の口真似をしているように演じ、「チョット橋詰へ出てもらおう」というセリフを言い切ったあとで、まるで三婦がそうしていたかのようにうちわを強く床へ叩きつけていたが、勘彌さんは「ウチの人がこう言うてました」といったような身振りで、すべてを説明し終わったあとにうちわを軽く伏せて「話終わりました」とアクセントをつけるような、柔らかめの仕草だった。

 

三婦内・後半は錣さん。かなり良い。
お得意の女性描写で、お辰の美麗さと可愛らしさをあわせもった侠気を表現されていた。お辰にどこか柔らかい甘みがあるのが最大の特徴。単に侠女というだけでない、ひとりの人間、女性としての彼女の人となりが感じられて、よかった。簑助さんがお辰を演じるときには、かなり可愛く振っていたので、お辰が簑助さんだったら、かなり似合っていたと思う。

前半(お辰が一度奥へ引っ込むまで)と後半(アホ二人組の出から)の三婦の描写の違いも面白かった。アホ二人組が踏み入ってきた時点で声をかなり低く落としていたのには、態度に荒っぽさはないながらも、彼の鋭敏さと凄みを感じる。非常に低くつぶやかれる「ナンマイダ」の異様な調子が印象的。前半、お辰やおつぎに相対していたときにあった、気っ風のよい町人としての矜持とはまた違ったものである。先述の『夏祭浪花鑑』のDVDには、越路太夫の「三婦内」が収録されているが、それとはまた違った表現の仕方だ。越路太夫の場合、アホ二人組の出の時点ではまだ空惚けており、三婦が念珠を切ってから描写が変化し、侠客の言動としていた。それよりも早い段階で、三婦の警戒心(本性)を表現しているということだろう。
そのほか、前半含めて三婦の喋り方がたいへんリアルで人柄を感じさせるものであることも面白かった。観客にも語りかけるようなコトバにしている。その軽妙さが祭りに浮き立つ大坂の情景に彩を添えていた。

そういえば、宗助さんのマスコット度が上がっているような気がした。錣さんがボリュームアップしたのか? ソースケさんがカワイくなったのか? 「ちょこん」としていて、幸せを呼びそうな感じになっていた。当たり前ですが三味線自体はちゃんとしてます。

 

 

 

長町裏の段。

今回、非常に注目していたのが、義平次に玉志さんが配役された点。
一寸徳兵衛が来るかと思っていたので、義平次ほどいい役がきたことに驚き。それは嬉しかったんだけど、玉志さんの誠実さと清潔感溢れる芸風で、真逆とも思えるあの小汚いクソジジイをどう演じるのか、かなり興味を引かれた。
ではどのような義平次だったか?

誰に対しても人間的感情を持たない、至極冷淡な悪人に振り切った義平次で、面白かった。ぬるさがない。悪人としてスッキリしており、現代的。蚊を払ったり周囲を注視したり、あるいは人を追い立てたりといった仕草が神経質で、義平次に狡猾さや冷淡さの印象が強く出て、適役となっていた。

ジジイながら、かなり体格よさげに遣っていたのも印象的。義平次は三婦のような侠客ではなく、ずる賢いだけのパンピージジイ。なので、わりと普通の老爺っぽく遣う人も多いように思うが、身長180cmはあるぞあのジジイ状態だった。痩せて腰はまっすぐ立たんくなってきたが、毎日ジム行って筋トレしとるゾイ。って感じ。姿勢は悪いけど背中自体は曲がっておらず、足腰が妙にしっかりしてるのが玉志サンらしいというか、半端ないカクシャクジジイになっていた。あの玉志特有のカクシャク感はほんま何やねん。ただ、これが突飛かというとそうでもなく、「三婦内」ではデッカいじじいだなと思うものの、「長町裏」で玉男さんのガチムチ団七と並ぶと、かなり馴染んでいた。

義平次は、初代玉男師匠が得意としていた役。初代玉男師匠の義平次の映像を確認してみたが、玉志さんがやっているものとイメージがかなり近しかった。体格の良さも、実は同じ。玉志さんは晩年の玉男師匠の演技をかなり細かく研究しているようなので(私の憶測)、今回の義平次も師匠に寄せているのではないかと思う。*3

あと、玉志さんはどんだけすごい大役でも常時ブルーグレーの袴なのがトレードマークだが、今回はさすがに義平次だからかいつもと違い、かなり明るめの生成色の袴だった。夏狂言なので上も白、最近は髪もかなり白くなっておられずので、照明当たると全身真っ白状態で、本人が思っているよりもある意味かなり目立ってるのではないかと思った。義平次の人形は茶色の着物に赤く塗られた顔なので、人形は引き立っていた。

 

義平次は、沼から上がってきて舅のガブのかしらに変わって以降、着付が左前になるのね。『夏祭浪花鑑』は何度か観たことのある演目だけど、今回はじめて気づいた。後半の義平次は「なかなか死なないクソジジイ」ではなく、団七の罪悪感が見せた幻覚なのかもしれない。
っていうか、玉志さんまじで素早すぎて、超素早いゾンビ状態になってました……。井戸周りで団七と追いかけ合い、団七の刀を避けるところとか、そういうゾンビゲーかと思った。

あと、玉男さんも殺陣が常にマジなので、ドキドキした。義平次が団七の背中へおんぶ状に乗っかるくだり。そこで団七が刀を自分の左右両脇背後へ刺し通すが、団七の右脇側は真後ろに義平次の人形遣いがいるので多少遠慮するかなと思うところ、普通に刺していて、玉志刺さっとらんのかと心配になった。避けているのか、刺さってるけど黙っているのかはわかりません。

団七が井戸のある上段から義平次を船底へ蹴り飛ばし、義平次が手すりに突き当たって後ろ向きに決まるところは、玉男さん・玉志さんおふたりの人形の姿勢へのこだわりが非常によく出ていた。また、足遣いや左遣いの方もそれをよく理解していて、とても良かった。義平次の足の人は相当頑張ってたと思う。落ちてすぐかがんでいたので、団七がとても見えやすくなり、義平次も姿が綺麗に決まっていた。あそこまで瞬間的に回避して、すぐ引っ込むのは、そうそう簡単に出来ることではないと思う。

 

団七は、裸になって以降の、大きな肢体を存分に使った端的な所作が美しい。長い手足をめいっぱい伸ばした、と思ったら、まだそこからさらにぐんと伸びる。団七の人形の特徴を最大限に使った、全身が張り切った大の字のポーズの美しさ。アスリートのストレッチのようだ。大の字のポーズ、腕がたるみなく、本当に左右に真一文字に張っていて、人形らしい華麗さと力強さが出ていた。
どんどん「型」を決めていくという定型演技にもかかわらず、それが様式美なり、芝居事なりといった線路が引かれているようには見えない。まるで団七が筋肉のささやきに耳を傾け、それに従って体を動かしているかのような至極自然な動き。かれは頭ではなく、肉体でものを考えているのだろう。「筋肉とて人を恨むのだ」。

玉男さんは先述のインタビューで、先代玉男師匠の団七についてこう語っている。

私が入門した当時、団七は先代の(桐竹)勘十郎師匠がつとめられることが多くて、うちの師匠はたいてい殺される舅の義平次を遣っていました。ですから団七の足遣いはやっていないんです。左遣いだけですね。師匠の団七は極め極めがはっきりしていて余分な動きはされない。それなのに形が美しく迫力がある。後ろ向きの姿が特に綺麗でした。

いまの玉男さんの団七も、動きにブレがなく、非常に精緻である。ここで語られている先代の描いた団七の線上にあるのだろう。力強い表現や体幹のごん太さなど、芸風は違っていると思うが、「荒物」っぽさに振り切らないあたり、根幹は師匠を引き継いでいるんだなと思った。
ちなみに後ろ姿は「背筋すごすぎ」と思いました。人形自体には背筋ないですが、背筋がすごすぎて、『刃牙』を思い出しました。

 

団七の左は、「長町裏」ではそれまでの段とは違う人をつけていると思う。その人がやっぱりうまいです。

 

 

 

 

  • 人形役割
    釣船三婦=吉田玉也、倅市松=桐竹勘昇(前半)吉田玉征(後半)、団七女房お梶=吉田一輔、こっぱの権=吉田玉翔、なまの八=吉田玉誉、玉島磯之丞=吉田清五郎、団七九郎兵衛=吉田玉男、役人=吉田玉延(前半)吉田玉峻(後半)、傾城琴浦=桐竹紋臣、大鳥佐賀右衛門=桐竹亀次、一寸徳兵衛=吉田玉佳、三婦女房おつぎ=吉田簑二郎(前半)吉田勘彌(後半)、徳兵衛女房お辰=豊松清十郎、三河屋義平次=吉田玉志

 


休憩時間込み2時間の上演ながら、濃度が高く、大変に充実した舞台だった。
人形の配役が非常に充実していて、抜かり・たるみ一切なし。ここではすべての人について書くことはできなかったが、どの方もたいへんに力が入っているのが印象的だった。

玉男さんの衝動殺人犯役では、『女殺油地獄』与兵衛『国言詢音頭』初右衛門インパクトがすごかったが、団七もすごい。どれも衝動殺人の場面が芝居として見せ場になっている演目だけど、玉男さんには、古典芝居としての華だけにとどまらない、何かがある。主人公の内面描写に現代性があり、所作がリアリスティックに感じられる。

玉男さんの衝動殺人犯役は、人を殺すという発想に至ることの不気味さ・不可解さが存分に描かれている。インタビュー等読む限り、玉男さんは団七をわざと異様な人物として描いているわけではなさそうなので、団七からそこはかとなく漂ってくる不穏さは、もともとの持ち味のなせるものだと思う。玉男さんの場合、団七は「住吉鳥居前」や「三婦内」ではどこかぼーっとしているが、義平次を殺すくだりだけ正気になっている感じがするのが怖くて良い。団七がちゃんと相手の顔を見ているの、そこからでしかない!

団七が本当は舅を殺したくなかったのは事実だと思うけど、それでも一線踏み越えるヤバイ精神性が感じられる。ご本人は団七に同情を集めようとしてやってると思うのでこう言っては本当に失礼なんだけど、どっちかというと義平次に同情してしまう。本当は殺したくなかったら殺さないよ、普通は。そこで留まらずにやるやつは狂ってんだよ。団七の段切のセリフ「悪い人でも舅は親……」には、本当にこいつそう思ってんのか?独自の感性で言ってるだろ!という、背筋が凍りつくものがある。玉男さんにはぜひとも、『伊勢音頭恋寝刃』の福岡貢もやって欲しいと思う。

 

あとは玉男さんって、人形が立てる音にかなり気を遣ってるんだなと思った。もともといらない動きは一切しない人だが、いらない音も立てない。逆に、立てるべき音はキッチリ目立つように立てる。足拍子だけでなく、小道具の取り扱い、人形が手を握る音などのコントロールが細かい。人形が立てる小さな物音は、意外と後ろの席まで聞こえるけど、たまたま鳴っちゃってるわけじゃないんだなと思った。
音については、玉志さんも相当気を使っていると思う。特に鳴らすタイミング。義平次が団七の脇差の柄に足をかけ、チャキチャキいわすタイミングが上手い。足遣いの人も意図をよく理解しているのだと思う。あの音、タイミングよく入ると気持ちいい。床を本当によく聞いて、そのリズムや間合いに必ず合わせにいっているのだと思う。私が観た回で一度、床でこのくだりに若干出遅れがあり、柄を鳴らすきっかけが確保できなかったときがあった。やはり人形演技の手順だけをやってるわけではなく、細かく床を聞いてコントロールしているのだなと思った。

 

しかし玉男様、本当に元気だよね……。
ことし68歳になられると思うが、よく体力が持つなと思った。ゆったりとした正確な動きはかなりの安定性が必要なので、相当体力がないとできないはず。また、こういう動きが激しい役だと、人によっては上演中に見ていてハラハラすることがあるが、玉男様の場合はそんな心配はなく、暑い季節はときどき(><)な表情におなり遊ばせるのが「汗が目に入って大変そう……❤️」くらい。今回も、団七が後ろ向いてるときに一緒に汗拭いてるのが良かった。
ちなみに玉志サンはことし65歳のようです(『文楽ハンドブック』情報。誕生日は8月11日!)。どんだけすばやい65歳やねん。かなり痩せておられるのが心配ではありますが、玉男さんとは別の意味で相当元気あるなと思いました。みんな健康でいて欲しいです。

 

それにしても、玉志サンの団七はいつ見られるのか。去年の大阪鑑賞教室中止が本当に悔しい。玉志サンは玉ブラザーズの中でも先代玉男師匠の雰囲気をもっとも色濃く受け継いでいると思われる人なので、義平次がベスト配役だとは思いますが、平右衛門や鱶七を見ると、ぜひとも団七も見たい。

そういえば、ある回、舞台袖から舞台を観ている人形遣いさんの姿が見えた。ほんとはその役の左をやれればいいんだろうけど、せめてということだろう。この方は今回だけじゃなく、よく舞台を観ている(目障りという意味ではない)。今回の公演では、ほかにも舞台袖から見ている方をお見かけした。本当みんな頑張ってるな、と思った。

 

 

 

おまけ

住吉大社へ行ってみました。

住吉鳥居前の段」でも鳥居の奥に見えている太鼓橋、湾曲がすさまじすぎてびびりました。これ毎年人転げ落ちとるやろ。年取ったらもう登れん。池にはかめさんがいっぱいいて、悠々と泳いでいらっしゃいました。路面電車にも乗れて、面白かったです。あの路面電車の唐突感、すごいですね。

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*1:わかりあえない存在、というと、吉村昭の小説『高熱隧道』を思い出す。ゼネコン技師の主人公は、黒部峡谷での水路トンネル掘削にあたり、大自然の脅威と戦う。この小説で個人的にすごく印象的だったのが、主人公ら技師たちが掘削工事の現場作業者(人夫)たちと最後まで全く分かり合えなかったこと。それぞれが持っている「常識」があまりにも違いすぎて、最終にトンネル工事は成功し自然は制圧できても、自分とはまったく違う他者の意思を思い通りにすることはできないという、不気味なわだかまりが残る。今回の団七は、あの不穏なラストシーンを思い出しす。

*2:日本一交差点のところにあるやよい軒のテイクアウトで、焼き鯖弁当。お持ち帰りだけなら遅くまで営業しているので、文楽劇場近辺に宿泊で、大阪市に営業時間規制がかかっているときはおすすめ。

*3:ひとつ、玉志さんより当代の玉男さん(2018年9月東京公演で義平次役)のほうがうまいなと思った箇所がある。義平次が団七の差している脇差を抜いて挑発するところ、玉志さんは若干持ち重りを感じさせながらもスラリと抜いていたが、玉男さんは引き抜いたとき、そのまま地面に一旦刃を落としていた。確かに町人の老爺の体力では、あの脇差を片手で抜いてそのまま構えることはできないだろう。よく考えられた演技だと思う。初代玉男師匠の昭和57年、58年の義平次役の映像を見ると、玉志さん以上にそのままスッと抜いている。ただ、初代玉男師匠は演技をどんどん改良していくタイプなので、晩年の映像も検証してみたい。

文楽 in Hyogo『義士銘々伝』弥作鎌腹の段 兵庫県立芸術文化センター

久しぶりに、兵庫県独自企画の文楽公演「文楽 in Hyogo」へ行ってきました。
本来は2年に1度の開催だそうですが、昨年の開催予定が新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止になったため、今年にスライドしてきたようです。

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第一部はトークショー
和生さんのお話だけ、断片的にメモする。

 

┃ メインゲスト・細川貂々さんについて

  • (大阪鑑賞教室公演のパンフレット掲載の細川貂々さんのあらすじ漫画について)読ませてもらっている。非常に特徴のある漫画で…………。(2019年に分割通し上演した『仮名手本忠臣蔵』の全あらすじ漫画は読まれましたかと聞かれ、ドキっとした人形のようなリアクションで)スミマセンそこは見てないんですが。
  • 細川貂々さんにペンネームの由来を質問し、高野文子の漫画に出てくる動物のテンからきているという説明を受け)…………。理由があるようでいまひとつわからない!(和生正直)

 

┃ コロナ禍での公演について

  • あした(7/8)コロナワクチンの2回目を打つ。玉男さんも一緒。副反応があるかもしれないと聞いているので、熱が出なければいいなと思っている。10日に仕事入れましたので!(剛毅和生) 若い人も、今日終わってから劇場へ戻って、1回目を打つ。最初は17:00にという話だったが、この公演の終演が16:00なので「それでは間に合わん」ということで、17:30集合にしてもらった。
  • 昨年の長期休演は、文楽の芸能史でもかつてないことだと思う*1文楽は戦時中でもやっていた。ぼくらも6ヶ月芝居なしで過ごしたのは初めて。きょうはたくさん来ていただいて、気をつけながら楽しんでいただければと思う。

 

┃ 「弥作鎌腹」について

  • 「Bunraku in Hyogo」では兵庫県に関係した演目を選ぶことになっており、「弥作鎌腹」は摂津の国が舞台ということで選ばれた。珍しい演目で、いままで2回くらいしかやったことがない。*2自分は芸歴50年ほどだが、前にやったのは25年前(1996年[平成8]4月文楽劇場公演)。珍しいからやってみようか、という話になった。
  • 「弥作鎌腹」をやろうという企画は3年前に出たものだが、去年はコロナの影響で中止になり、今年に繰り越された。
  • 今回は前半をカットし、後半から上演する。
  • 内容は、『仮名手本忠臣蔵』でいう勘平の段の外伝。弥作と和助の兄弟、悪人の七太夫が登場する。ただし後半が異なり、勘平をモデルとしている和助はまだ死なず、討入に出立するところで終わる。
  • 見どころは、弥作が七太夫・和助の両方に責められて、板挟みになるところ。弥作には発散するところがない。七太夫は強欲なところが見どころ。
  • 普通の演目とは雰囲気が違う曲。セリフが多い。上演機会が少ないので、洗練されていない部分があったりする。出演者それぞれの立場でやっているが、(おもしろいかどうかは)お客様に判断してもらうしかない。国立劇場でまたゆっくり観てみたいか、もういいか……。でも、まず一度は観ていただきたい。

 

┃ 配役について

  • 過去の公演では、弥作役で先代の玉男師匠、七太夫役で文雀師匠が出ていたが、今回はぼくが弥作、玉男さんが七太夫を演じる。役の入れ替えはその人のニンがあるので、ままあること。玉男さんとは、「七太夫のほうがやってておもしろいやなぁ〜」「そやなぁ〜」と話した。
  • 太夫=千歳さん・三味線=寛太郎さんは和生さんの指名ということで、その理由について)千歳さんは今の太夫さんで語り口が一番合っているから。寛太郎さんは、演目決定時ご健在だった寛治さんがこの曲を知っているということで、当時稽古ができたため。

 

┃ 千歳さん・寛太郎さんからの聴きどころメッセージ

  • 千歳さんより「それぞれのキャラクターの魅力が面白い曲。キャラクターを楽しませたい」
  • 寛太郎さんより「三味線だけで聴かせる場所が4箇所ある。楽しんでもらいたい」

 

トークショーは本来は漫画家・細川貂々さんと、飛び入り参加(?)の和生さんのお話を聞くというものだったようだが、司会者に問題があり、びっくりするほどトークショーとして成立していなかった。細川貂々さんは元々関東在住だったものの、宝塚好きが嵩じて宝塚へ移住したなど、いろいろ面白いエピソードをお持ちのようだったが、それが引き出されず、残念。

貂々さんについて少し書いておくと、2015年、釈徹宗さんに連れられて『絵本太功記』を観たのが文楽との出会いだったそうで、一度ですっかり馴染むことができたそうだ。千歳さんのファンで、毎日新聞の企画で好きな技芸員さんと対談できることになったときも、千歳さんを指名されたとか。
貂々さんが例年描かれている鑑賞教室のあらすじ漫画についても、お話があった。6ページの尺が与えられているが、そのうち冒頭1ページは「これまでのあらすじ」を描かなくてはいけないため、残り5ページでまとめるのが大変だけど、面白いということだった。あのあらすじ漫画、貂々さんの作風と文楽の身も蓋もなさが悪魔合体して、なんともいえない独特の味になっていて、大好きです。「寺子屋」やった年の源蔵のサイコ感はまじで最高でした。

 


第二部、『義士銘々伝』弥作鎌腹の段。

忠臣蔵の外伝もので、文楽現行ではこの段のみが上演されているという断片的な演目(素浄瑠璃では「赤垣源蔵出立の段」も演奏可能)。
和助(『仮名手本忠臣蔵』でいう勘平)の兄で、田舎で百姓をしている弥作が主人公。和助の討入への出立を前に、弟と義理はあるが悪人の七太夫とのあいだで板挟みになる弥作の苦悩を描いている。

あらすじ

弥作は義理のある村の代官・芝村七太夫の依頼により、弟・萱野和助を彼の仲介で婿養子に出すことにする。しかし和助には主君・浅野家の仇を報じるため、今宵江戸へと出立し大石と共に討入をするという計画があったのだった。

弥作〈吉田和生〉が思い悩んでいると、七太夫吉田玉男〉が結納品を持って催促にやってくる。七太夫は婿紹介のマージンを抜くため、なんとしてでも今日和助を連れて帰りたい。弥作は延引を頼みごまかそうとするが、強欲な七太夫切腹する振りをしてゴリ押ししようとする。やむなく、和助は討入のため江戸へ出立することを告白する弥作だったが、七太夫はますます盛り上がって和助をもらっていくと言う。

その押し合いへしあいの中、酒を買いに出ていた弥作の女房・おかや〈吉田文昇〉が帰ってくる。驚いたおかやは揉め事に割って入る。そして、七太夫は夕刻までこの場から引き取り、弥作は七太夫がいないうちに和助を説得することになる。

おかやがあまりにも思い詰めた様子の弥作を心配していると、当の和助〈吉田玉佳〉が帰宅する。婿養子の件は断ってくれたか、いまにも討入へ出立すると兄夫婦へ告げる和助。弥作は七太夫が辞退をどうしても承引してくれないと言うが、和助は弥作が七太夫に討入の件を話してしまったことを知って激昂。七太夫を殺して切腹すると言い出す。弥助は大事のことは喋っていないと誤魔化し、七太夫は金さえ貰えれば引き下がるだろうとして和助から5両を借りる。和助は家に残る兄を気にかけながら、おかやに伴われて船着場へと向かう。

それと入れ替わりに、槍を手に身拵えした七太夫が踏み込んでくる。弥作は結納品と和助から借りた5両を七太夫に差し出し、婿養子の辞退を申し出る。しかし七太夫は聞き入れず、弥作を引きずり回した上、役人へ大石らの討入を注進すると言って飛び出していく。覚悟した弥作は鉄砲を持ち出し、畦道を走っていく七太夫を撃ち殺す。

家へ戻った弥作は、傍にあった刀で切腹しようとするが、百姓の身では気後れして手が震え、叶わない。弥作は壁にかけてあった草刈鎌を取り外し、腹へ突き立てる。そこへ和助を送っていったおかやが帰ってくる。暗くなっても灯のついていない我が家の暗闇を不思議に思うおかやの手に触れたのは、断末魔の苦しみで七転八倒する弥作だった。おかやが驚いているところへ、兄の様子を心配した和助が戻ってくる。和助に介抱された弥作は、実は討入の次第を七太夫に喋ってしまったこと、それを注進しようとする七太夫を殺してしまったことの次第を語る。弥作は自分が役人を殺したゆえに和助にも難儀が及ぶとして、急いで出立するように言う。息も絶え絶えの兄を見捨てられない和助だったが、構わず旅立つように促す弥作の想いに涙を流し、おかやは夫との別れを嘆き悲しむ。
そこへ突然、狸の角兵衛〈吉田玉彦〉が現れ(まじで突然現れる)、浅野浪人の討入を代官所へ注進すると言って駆け出そうとするが、和助の手裏剣で討ちとめられる(玉彦、秒の出演時間)。

こうして和助は門出の血祭りを祝う弥作を残し、東へと旅立っていくのだった。 

 

 


速いなオイ。

というのが、率直な感想。え!?!?!?!?!?!?!?!?!?!? と思っているあいだに、すべてが終わる。上演時間1時間ほどだったが、体感30分。

トークショーで和生さんが「詞が多い」とおっしゃっていたが……、地が少なく、詞で話をつないでいく構成なのかと思っていたら、詞だけでどんどんまくし立てていくということだったのね。ラリーの速いポンポンポンとした喋り、演奏速度そのものが速い。普通の人形の8倍の分量のセリフを4倍の速度で喋ってんじゃないかという高速展開だった。普通の文楽の映像を2倍速、4倍速で観ている感じ。それに伴って人形の動きも非常に速くなり、猥雑なものとなっていた。

在所のごく普通の善人が切腹するという話はたいへんに残酷ながら、この速さのせいか、どこか軽めな印象。
弥作が七太夫を射殺する場面は、あまりに突然の思い切りのよさに驚き。『冥途の飛脚』の忠兵衛のような、それまでウジウジヒヨヒヨしていたのに、変に突然振り切ってくる奴のヤバさがあった。雑な凶悪犯罪おかす奴って、こういう感じだと思う。村山新治監督の映画『七つの弾丸』を思い出した。

 

 

 

人形は全体的にあまり整理がついていない状態で、和生さん・玉男さんレベルがやって、ここまでガチャガチャした印象になるのは滅多にないなと思った。ふだんのお二人にある、心地のよい間合い、動きの余白がないというか……。これを意図的にやっているかどうかというと、在所が舞台の世話物的な場面だからというのは確実にあるにしても、不慣れによる部分も大きいんじゃないかと思った。和生さんも玉男さんもおそらく初役だし……。

 

和生さんのこれほどせわしない役は初めて見た。弥作は真面目な性格だが、常にソワソワして落ち着きがない。そして、真面目ゆえにかものすっ……ごく腰が引けた性格で、忠兵衛をさらにヘタレさせて、ショボーンとさせたような人。顔だけは頭よさそうなのに……。過去の国立劇場の上演記録を確認すると、かしらは検非違使を使っていたようだが(当時の配役は初代吉田玉男)、今回は孔明のようにも見えた。ただ、ひとりで思案する場面ではすっくと伸ばした背筋が彼の生真面目さを表現し、いくら腰が引けていても、あくまであらゆるものごとに対して誠実である人柄が感じられた。思い悩む仕草は和生さんらしい。
百姓の弥作は刀では怖気付いてしまってどうにも切腹できず、鎌で腹をさばくのが哀れ。めちゃくちゃ残酷で、痛そうだった。文楽を観るようになってかれこれ5年半近く、もはや刀での切腹はなんとも思わなくなってきた私ですが、鎌は怖い。なんか、内臓に引っかかりそうで……。
それとまったくもってどうでもいいことだが、弥作はかなりの美髪だった。終盤で切腹するので髪をさばくのだが、女方のようなサラサラヘアーぶり。結い癖も少なく、ツルンと綺麗に落ちており、シャンプーのCMに出られると思った。それと、紺色にだんごみたいな柄の、謎の着物が面白かった。

 

性悪・七太夫は玉男さん。玉男さんも、こんなに粗野な所作の役は珍しい。ただこれは結構いいと思った。義太夫が早口だったり、動きが速くやや乱雑になっていることもあってか、小物悪人感が出ていた。その点は、以前観た『夏祭浪花鑑』の義平次役より良かった。雑じじいをやろうと思えばここまでできるんだな……。でも、かさにかかって弥作に凄むところ、肩をいからせて横を向く仕草はビシッとしており、玉男ムーブだった。
後半、七太夫が畦道を駆けていくところは、遠見の人形だった。おプチでかわいかった。

 

あとは文昇さんを久しぶりに見た!! 本公演をずっと休演されていて心配だったけど、通常営業通りに女房おかやを演じていらして、良かった。思わず出で拍手した。ご無理のない範囲で、本公演にも早く復帰できるといいのですが……。
和助役・玉佳さんは、凛々しくてよかったです。

弥作ハウスの大道具は、在所の百姓家らしいおんぼろなものだった。そのなかでひときわ目をひく、奥にかかったのれんのパッチワークぶりがすごかった。貧乏でつぎはぎしてるっていうより、もはや「そういう手芸」状態。ドアノブ、トイレのふた、電話など、家中のありとあらゆるものにカバーがかかっている部類の家なのではないかと思った。 

 

 

義太夫は千歳さんらしい語り。パキパキと畳み掛けるような展開。弥作と七太夫の軽薄で腰を浮かせてやりあうような掛け合いは、文楽だから以上の意味で手より先に口が出る人々といった印象。元気よく、歯切れが良い。
ただ、速くまくしたてるような曲ではあるのだろうけど、それでもちょっと速い印象。人形の動く間合いをみていないようだった。人形の動きがせわしなくなってしまうのは、それもあるだろう。千歳さんは過去に「新口村」が「速すぎだろっ!」っていう演奏だったことがあるので(終演後、周囲のお客さんが「速いわ!」と叫んでいた)、速度コントロールが苦手とか、そういう傾向があるのもしれない。
三味線がベテランなら手綱を引けると思うが、若手だと、まず、自分が間違えずに弾くだけでせいいっぱいだよね。頼むトミスケなんとかしてくれと思った(無理I)。錦糸さんは弾いたことあるよね、錦糸さんなんとかしてくれ(無理II)。稀曲上演だとかなりしっかりした三味線さんがついていることが多いが、相当力量がある三味線さんでないとコントロールできないのだなと思った。

和生さんの話だと、太夫三味線の稽古はだいぶ以前からしているようだ。演目決定した3年前から稽古を開始していたらしい。ただやはり人形含めて何度も場数を踏まないと、どうしようもないのね。国立劇場主導の稀曲上演や復曲、『出世景清』『木下蔭狭間合戦』など外部公演での復活企画は、義太夫の稽古も人形入れた舞台稽古も、よほど何回もしてるんだろうなっと思った。

 

 

 

  • 人形
    百姓弥作=吉田和生、芝村七太夫=吉田玉男、女房おかや=吉田文昇、萱野和助=吉田玉佳、狸の角兵衛=吉田玉彦
    人形部=吉田玉勢、吉田玉翔、吉田玉誉、桐竹勘介、吉田玉路、吉田和馬、吉田玉峻、吉田玉延、桐竹勘昇、吉田玉征、吉田和登

 

 

 

平日昼間の関西での公演だったが、滅多に出ない曲ということで、行ってみた。

うーん、確かにこれは「滅多に出ない曲」になるだろうな! と思った。
つまらないとかではなく、これを面白いと感じるには観客側の修練が必要だなという部類の内容。『仮名手本忠臣蔵』をはじめとしたベーシックな演目を十分理解している人を楽しませるために書かれたような、通好みの構成だと感じた。本来、本公演でしかできない、渋い曲だと思った。

さて、このイベント自体は和生さんの個人仕事のため、和生さんが主役の弥作をやっているのだと思う。しかし、ヘタ……ショボ……とした、真面目で純粋で根性なしの弥作は、玉男さんのほうが似合いそうだなと思った。玉男さんの「ものすごく素直な男性」「ものすごいヘタレ」という超得意役柄にマッチしそうだ。七太夫のような気品のある性悪ジジイも、和生さんのほうが巧そう。過去の公演では弥作を初代吉田玉男師匠、七太夫吉田文雀師匠が演じていたそうだが、それをそのまま弟子に引き継ぐ配役でもよさそうである。*3

この演目が本公演で出るとしたら、太夫は錣さんにやって欲しいかな。千歳さんとは違う観点からの描写になりそうだと思った。

 

 

 

最後に、こういうことは言いたかないけど、主催者へのクレーム。

トークショーがあまりにもひどすぎ。司会が司会としての役割をまったく果たしておらず、ゲストの話を引き出すどころか邪魔している状況。和生さんはもともとゲスト出演の予定はなく、好意で参加してくれたそうだが、和生さんがいなかったらもっとひどいことになっていただろう。司会は諸事情により本来の方が出演できず代役だったとのことだが、それでもゲストを尊重しないような進行はアカンやろ。それと、配布パンフレットに誤植が散見されたのも残念。主役の役名が間違っているという致命的なものもあった。

単発公演は主催者が“本当に”文楽に敬意を抱いているかどうかでクオリティが大幅に左右される。いままでも「どうなの」という公演はたくさん見てきた。ただ今回は特にひどい。せっかくいい出演者を迎えているのだから、最低限、文楽という芸能や出演者へ敬意を抱き、程度の低い不手際のないようにして頂きたいと思った。おわり。

 

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↓ 2017年公演の感想

 

*1:明治19年コレラ大流行による休演は、大阪の文楽ではたしか最長5ヶ月だった……と思う。たまたまこないだ読んだ倉田喜弘『芸能の文明開化 明治国家と芸能近代化』(平凡社/1999)に書いてあった。このときは芸能によって休止期間が違っていて、寄席などの大衆芸能は休演期間がさらに長かったはず。

*2:文楽協会設立以降の公演だと、1971年(昭和46)10月朝日座公演、1978年(昭和53)2月国立劇場公演、1981年(昭和56)4月朝日座公演、1996年(平成8)4月文楽劇場公演。

*3:1971年(昭和46)10月朝日座公演  弥作=二代目吉田栄三、七太夫=初代吉田玉男 *和助=吉田文雀
1978年(昭和53)2月 国立劇場公演 弥作=二代目桐竹勘十郎、七太夫=初代吉田玉男
1981年(昭和56)4月 朝日座公演 弥作=初代吉田玉男、七太夫=二代目桐竹勘十郎
1996年(平成8)4月 文楽劇場公演 弥作=初代吉田玉男、七太夫=吉田文雀

文楽若手会『菅原伝授手習鑑』『生写朝顔話』「万才」「鷺娘」国立劇場小劇場

東京の若手会は2日間両日開催できて、本当に良かった。

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『菅原伝授手習鑑』茶筅酒の段、喧嘩の段、訴訟の段、桜丸切腹の段。
衝撃的な背伸び配役、そもそも佐太村を若手だけでやるという企画そのものがすごい。なんかもう、全体的に、「頑張ってるッッッッ!!!!!!」って感じで、とても若手会らしく、面白かった。

 

八重は紋秀さん。お辞儀の姿勢が非常に綺麗で丁寧。座り方も品がよく、ちんまりとした娘らしさがある。
クッキングのすり鉢ド下手シーンには紋秀さんのコメディアンとしてのこだわりを感じた。大根を切るとき、なぜか右手を怪我していたのには笑った。普通、右手に握っていた包丁がスベって左手を切っちゃった(><)という演技をする場面だと思うが、右手の手首を左手で抑えていた。あまりに包丁を振りかぶりすぎて手首を痛めたってことでしょうか……ってそんなわけねえだろ! 緊張してる紋秀さんはともかく、左(たぶん本公演でも八重の左やってる人)、合わせに行くな!! なんとかしてやってくれっ!!! と笑ってしまった。
それはともかく、全体的に落ち着いて整理された所作で、時代物らしい端正さがあった。ただ、八重がビックラコとする場面で、焦りすぎて人形の動きが突然速くなってしまうのが惜しい。左が合わせに行っているので(ここは合わせてくれてありがとう!!!!!)人形の仕草自体はおかしくはなっておらず、まじでそういう人には見えるが……。逆にいえば、ビックラコ&焦り演技が多い、お里やお三輪のような落ち着き皆無の暴れ娘をやれば映えるかもしれないと思った。
あとは肩を落として憂いを出す女方特有の演技……これがかなり惜しいところまで行っている。わざとらしく体をかしげたりしないのはとてもよい、だから、もう少し、うまく表情が出るようになれば、八重がもっと美しく可憐になるだろうと思う。
紋秀さんは2018年の若手会「新口村」で梅川を勤められた際、「ひ、左のほうが圧倒的に上手い!!!!(汗汗汗)」現象が起こっていたが、今回はそのような激烈な落差はなく、非常に自然な雰囲気になっていて、良かった。やはりどの方も少しずつ成長されてるんだなと感じた。

 

配役が発表されたとき、桜丸が紋吉さんということに驚いた。しかし、思っていた以上に良かった。
出来立て大福のような、モッチリした透明感のある美青年ぶり。赤坂塩野の豆大福*1を思い出させる、ムチムチな上品さ……。簑助さんの華奢で儚げな桜丸とは異なり、健康そう……なのに死ななくてはいけない悲哀が感じられて、芝居に雰囲気を与える佇まいも良かった。
2018年の若手会で「新口村」の忠兵衛もお似合いだったが、紋吉さんは若男が似合うのかもしれない。これも、本公演で相応の役が来るとより向上されるだろうと思う。紋吉さんは端正でゆったりした雰囲気が美点だと思うので、いろいろな役を拝見したいと思う。
しかしとにかくモッチリぶりがすごいな……紋吉さんのサンリオ系なビジュアルに引っ張られてるのかもしれないが……。かなりの柔らかみと弾力性を感じた。ぽむぽむ。

 

春〈吉田玉延〉は着付が綺麗。おそらく大阪公演〈吉田玉峻〉と人形共用だと思うが、二人とも女方というわけではないのに、華奢で小柄な雰囲気に美しく着付けられていた。どなたかお兄さんが指導しているのか。足が「まじかよ(汗汗汗)」状態になっていたのはご愛嬌。逆に千代〈桐竹勘次郎〉は着付がおそろしくいかつくて、バレーの国体強化選手みたいになっていたが、演技は落ち着いた雰囲気あって良かった。そしてこっちも足が「ま……まじかよ(汗汗汗汗汗)」状態になっていた。
ああいうポルターガイストな足、本公演では絶対に存在しないけど、なんで若手会になると毎年必ず発生するんだ? 研修生を入れてやってるのか?(いま人形の研修生がいるのかは知らない) とにかく頑張れ!!!!と思った。

 

松王丸〈吉田玉路〉、梅王丸〈吉田玉彦〉は雰囲気がうまく分かれていたのが良かった。
松王丸は座ったときの「じ〜っ……」とした雰囲気、梅王丸は立っているときの「すっ」とした雰囲気が良い。
玉路さん、本公演ではまったくもっていい役がつかないけど、師匠(玉男さん)をよく見てるんだなと思った。若手であの貫禄は立派だわ。すごい真面目そうに肩から二の腕をまっすぐに下ろし、わきをしめて手のひらを太ももに当てて座っていたけど、松王丸なら、脇をもうすこし開いたほうが、より姿勢が美しく見え、貫禄が出ると思う。(検非違使の真面目キャラや律儀な町人なら、いまの座り方がいいと思います)
玉彦さんは若手ながら相当うまく、本もよく研究していると感じ、個人的に若手の中で最も注目しているのだが、今回がいままでで一番いい役かな。落ち着いた所作に理知的な梅王丸の雰囲気が感じられて、良かった。玉也さんの弟子だけど、玉也さんとはまた違う雰囲気。将来が楽しみだと思った(親戚気分)。
おふたりとも、「喧嘩の段」の絡み、俵投げや取っ組み合いも頑張っておられた。本公演では人形が派手に動き回る観客サービス的な場面だけど、若手が観客サービスをするのはなかなか難しいね。本当に頑張って、かつ、落ち着いてやっていらっしゃたが、えらいことなっとった。ほんまもんの子供の喧嘩や。俵投げがアサッテの方向に飛んでいったのが味わいだった。

太夫〈吉田簑紫郎〉って、若手会レベルではまじでどうにもなんない役で、それをやらせることに若手会の意味があるんだろうなと思った。後半はともかく前半。ただのホヤホヤジジイでいるときが相当難しいんだなと思った。今回は、後半、桜丸の出以降を重点的に稽古・研究したのかなと思ったけど、前半が曖昧になっているのはいかんともしがたい。後半の大げさな演技を大げさにやっているのは、それ自体の良し悪しは別として(勘十郎さんの真似をしてるんだろう)意図はよくわかる。しかしそれならなおさら、前半を引き締めてやらないと、この話で最も重要な白太夫の人格があやふやになると感じた。
ただ、最近、本公演でも佐太村やりすぎなので、いかに私がニワトリ頭でもそろそろ人形の演技を覚えてきてしまい、「おっこいつ間合いおかしいで!」とかのいらんことに気づきはじめたりしてしまったのもあるかも。

 

床では、芳穂さんの八重の語りが出色。喋りながらどんどん感情が高ぶっていき、涙で目と喉の奥が熱くなって、気持ちがザワザワと揺れ動くさまが存分に表現されていた。長いクドキでものっぺり一本調子だったり、単なる歌唱状態になっていないのは素晴らしい。
度々書いていることだが、現状の文楽では、女性表現が他の演者との差別化ポイントだと思っている(男性表現はちゃんとできて当たり前と解釈しています)。芳穂さんは声が明朗で太いタイプなので、「華奢な女声を出せるわけでもないから、地声いかしで明瞭にやれば良いのでは」くらいに思っていたが、今回の八重は予想以上のパフォーマンスだった。近年、道行などで女性役が配役されることがしばしば見られたが、こうして一人で語る場面に活かされたことに感動。八重はフンワリ系の娘さんだが、この調子で、強い意思を持った老女方が登場する演目にも期待したい。いつか、先代萩のような華麗さと強靭さを必要とする演目を聞くことができればと思う。

「訴訟の段」、全体は若々しく、かつ朗々とした雰囲気が出ていて非常に良かったのだが、白太夫のセリフ「善悪の差別なく」の「差別」を「サベツ」と発音していたのが気になった。これ、「シャベツ」だよね。前近代の文章では、「差別」の読みは一般的に「シャベツ」のはず。念のため確認したが、『菅原伝授手習鑑』の各種正本でも、ルビは「シャベツ」になっていた。なぜ「シャベツ」でなく「サベツ」で語るべきだと判断したのかは聞きたいな。実情としては、本人が佐太村や前近代の文章に慣れてなくて、そもそも「シャベツ」と読むことを知らないのだろうと思うが……。ただ、原文は守って欲しいので、本人だけでなく文楽全体として、こういうのってアリなの?と思った。

あとは「茶筅酒の段」の三味線、クッキングタイムでぱっと雰囲気を切り替えるのは難しいんだね……。かなりのっぺりして普通の芝居部分と地続きになってしまっており、「こんなことありえるの?」とびっくりした。そりゃ本公演では團七が弾くはずだわと思った。

 

  • 人形
    親白太夫=吉田簑紫郎、百姓十作=桐竹勘昇、女房八重=桐竹紋秀、女房千代=桐竹勘次郎、女房春=吉田玉延、松王丸=吉田玉路、梅王丸=吉田玉彦、桜丸=桐竹紋吉 

 

 


『生写朝顔話』宿屋の段、大井川の段。
こちらも若手会らしく、端正で枯淡な雰囲気。みんなめちゃくちゃ真面目にやっているためか、若手会なのになぜか枯淡化するのが味わい。静かでひんやりとした空気を感じる舞台だった。

 

次郎左衛門〈吉田玉翔〉はモッチリしていた。美男役らしく美男子ではあるのだが、現代的感覚のスラッとしたイケメンとは違って、明治時代の少年小説の挿絵にあるような肉感的な美丈夫系。武士ぶりを強く打ち出されているゆえだと思う。ゆえにじっとして朝顔の琴に耳を傾けている姿はしっかりとした佇まいで決まっており、美麗で良かった。
しかしまじでモッチリしとる、モッツァレラチーズ的な弾力感と重量感がすごい*2。桜丸といい、若手会、モチモチオーラがすごい。最近のコンビニスイーツの食感の流行を受けているのでしょうか。

朝顔は玉誉さん。おとなしげで哀れな雰囲気がよく似合っておられた。玉誉さんのなんともいえない地味女オーラはすごい。朝顔の歌を歌うところ、次郎左衛門こそが阿曽次郎だと聞いて突然駆け出すところをもっと派手にできればと思うが、琴は後述の通り床がやばすぎたので、ちょっとかわいそうだった。

岩代多喜太役の和馬さん、普通にうまくてビックリした。うまいというか、非常にキリッとしているというか、超シャッキリしていた。2017年に国立劇場で「宿屋」が上演されたとき、玉志サンが岩代多喜太をやっていて、死ぬほどのシャッキリぶりに「どういうセンス!!?!?!?!?」とめちゃくちゃビビったが、あの爆裂シャッキリの系譜を受け継ぐ若者が出てきたとは……。和馬さんには今後、和生さんが部分的にやっているシャッキリ役(塩谷判官や義賢)も勤めて欲しいと思った。
和馬さんは、以前、『傾城阿波の鳴門』のお鶴役をよく考えて遣っておられる姿を見て以来、注目していた人。今後、本公演の良い役で成長を拝見できればと思う。

なお、和登さんの下女お鍋もかなりシャッキリしていてちょっと面白かった。そこに和生オーラ出してきたか……。

 

床は、宿屋・大井川とも、やりたいことはとてもよくわかった。
おりこうさんなだけですまさないところは、非常に、「買った」! おえかきするとき、与えられたクレヨンだけを使って、太陽だから赤に塗り、空だから水色に塗り、地面だから茶色に塗る、みたいなことはせず、本から自分が感じた色を、自分のパレットで混ぜて作って塗ろうとしていることはよくわかった。浄瑠璃にもっとも重要な登場人物の魂の叫び、パッショネイトも感じる。あとは、全体を見渡した整理。緊張がほぐれ、慣れてこないと、どうしようもないので、時間はかかると思うが、頑張ってもらいたい。

琴は頑張ってもらうしかない! 笑ってしまった! あまりにすごすぎて、人形じゃなくて床を見てしまった。

 

  • 義太夫
    宿屋の段=豊竹希太夫/鶴澤清𠀋、琴 鶴澤清方
    大井川の段=豊竹咲寿太夫/鶴澤清公
  • 人形
    駒沢次郎左衛門=吉田玉翔、戎屋徳右衛門=吉田文哉、岩代多喜太=吉田和馬、下女お鍋=吉田和登、朝顔=吉田玉誉、奴関助=吉田簑悠

 

 

 

万才、鷺娘。

万才の才蔵・勘介さんが非常に良かった。
人形の目線がしっかりしており、ゆったりした動きと止めの姿勢が非常に綺麗。単に振りを覚えているだけではなく、どういう所作を見せたいのかが明瞭になっている。相当研究されて、個別に稽古されているのではないだろうか。あるいは、本公演でちゃんと上手い人の舞台を見ているということだと思う。また、ぴよぴよヒヨコちゃんズな芸歴の方だと、「人形の首の下んとこで持ってまーす、体ぶら下がってまーす」感がまるだしの動きの人が多いけど、ちゃんと背骨がある生き物として動いているのが良かった。
才蔵の所作に負けず劣らず、アイパーの鮮やかさもめちゃくちゃすごかったのも良かった。そういう意味でも特別天然記念物級の奇跡の20代だと思う。

 

鷺娘、真剣にやってるのはよくわかったけど、作業的になっていて、お稽古中丸出しなのがいかんともしがたい。せめてもっと思いっきりやったほうがいいと思った。娘の高潮する恋心のパッショネイトが欲しい。
舞踊はセンスや才能に大きく左右されるので、言い方きついけど、配役自体のミスでしょうね……。もっと向いた役をさせてあげたほうがいいと思う。

 

床はなんかこう……、若手会っていうか……、地方公演風……?(disってません)
演奏中に床本を見ない人たちが並んでいて笑った。じっと見てたらいいってもんでもないし(亘さんは自分が語らないときに目を落としてチェックしてるけど)、上を見ていないと声が出ないのだろうが、こうも並ぶと面白くなってくる。
それにしても、おヤスはどこを見て語ってるんだろう……。反対側の壁に埋め込まれた照明を見てるんでしょうか……。

 

  • 人形
    太夫=吉田簑之、才蔵=桐竹勘介
    鷺娘=吉田簑太郎

 

 


若手会は毎年楽しい。本公演ではありえない色々なミラクルを目撃できる。

若手の方の場合、本公演では役に考えがまわりきっていなくて、何がやりたいかわからないことが多いが、若手会だと皆さんよく研究して取り組まれていると思う。
なにより、「表現したいものがある!」という気持ちを持っている人を見ることができるのがいいよね。若手会の場合、特に、登場人物の必死さと出演者の必死さがシンクロするところに感動がある。「表現したいものがある」という心は、今後長きに渡って重要なものになると思う。

今回、一番感じたのは、演目自体の持っている難しさだった。
佐太村が混沌として、登場人物=出演者のせいいっぱいぶりがそのまま舞台に現れていたのは、予想していた通り。これは仕方ないというか、むしろ、若手会特有の良さに転じたと感じた。
しかし、『生写朝顔話』の宿屋と大井川はある意味、佐太村どころではなく難しいのだと感じた。この演目は、人形も床も見せ場が多い娯楽曲というイメージがあると思う。ある意味、誰がやっても派手見えを担保できる、ある意味ラクな曲と捉えている文楽ファンは多いのではないか。
しかし誰がやってもそうなるかというと、決してそうならないということがよくわかった。数年前、ある外部公演で今回と同じく宿屋と大井川が出たが、若手会より上の人がやっていたにも関わらず、あまりにひどい出来で、こんなレベルの奴らを舞台に出すなと思った。今回は若手会ということもあって、さすがにそこまでは思わなかったけど、この演目、ちゃんとした人が勤めないとエライことなるわ、と思った。

 

本公演と若手会の比較という点では、人形に「佇まい」があるというのはすごいことなんだなーと、改めて感じた。
たとえば、和生さんなら気品がある、玉男様ならどっしりしている、清十郎さんなら悲惨そう、勘彌さんなら艶冶である、玉志サンならキラキラ、清五郎さんなら松竹大船調という、「その人が持ったらどうしてもそういう風に見える」のがあると思うけど、ああいうのは、人形に佇まいが出るまで技量が及んでいるってことなんだな。

そして三味線! さすがに本公演とは音が全然違うんだけど、あらためて、本公演でエエとこを勤めるような三味線のうまい人は、ほんまにうまい! と思った。これからみんな、どのように成長していくのだろう? みんな頑張れ、と思った。

 

どの方も、若手会の舞台の成果や反省をもとにまた頑張っていかれるのだと思う。最近はSNSがあるので、反省の弁を書いている場合、一般客にもそれが伝わる。本人は本気で書いてるんだと思うけど、本人が反省しているポイントというのは、裏を返せば出来ていると本人が思っている部分もわかるので、ある意味、興味深いなと思った。

これは明確な苦言として書くが、前々から義太夫聞かずにやってるなと思っていた人形さん、やっぱり義太夫聞いてないな。これはもう若手だろうがなんだろうが文楽の根幹に関わる致命的な問題で、本当、若手会でいるうちになおしたほうがいいと思う。

 

なにはともあれ、ひさしぶりの満席状態の国立劇場で、若い人の舞台を迎えられてよかった。満席だと拍手の音圧が違う。
大阪は緊急事態宣言延長の影響で両日休演になってしまったが、振替で1日だけでも上演できて、良かった。劇場ほか関係者の方々の努力には本当に頭が下がる。若い方の場合、客前でやることに大きな意味がありますもんね……。

現状、本公演ですら短時間公演になっている中、若手のみで4時間もの舞台を勤められたこと、とても嬉しく思う。また来年も、楽しみです。

 

 

 

備考

人形部お助けお兄さんズのご出演は、以下の通り。

  • 人形部
    吉田清五郎、吉田簑一郎、吉田勘市、桐竹紋臣、吉田玉勢

清五郎さんまでお手伝いされているのか!? そこまで大きなお兄さんが!?

 

 

 

 

*1:ここの塩大福、まじ美味しい。超おすすめです。最寄駅は赤坂見附・赤坂。最近店舗が引っ越して少し遠くなってしまいましたが、国立劇場の行き帰りに是非お立ち寄りください。

*2:いま、わが家の冷蔵庫に肉のハナマサで買った巨大モッツァレラチーズ(700g)が眠っているので、つられてそう思ってしまうのかもしれません。