TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽『木下蔭狭間合戦』竹中砦の段 ロームシアター京都

『端模様夢路門松』の後、20分休憩を挟んで、メイン演目『木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまがっせん)』。

読みは、慣例では「このしたかげ・はざまがっせん」と切るようです。略称は「木下蔭」のようですね。

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第二部『木下蔭狭間合戦』竹中砦(たけなかとりで)の段。

長く上演がされていなかったものを、昭和9年(1934)1月四ツ橋文楽座公演以来、87年ぶりに人形付きで復活。

「竹中砦の段」は、『木下蔭狭間合戦』全十冊のうち七冊目。内容はいわゆる“陣立物”*1で、戦国時代を舞台に、長年、尾張・小田春永と美濃・斎藤義龍が争うなか、斎藤方の軍師・竹中官兵衛とその家族のドメスティックな慟哭、小田軍と斎藤軍の合戦の行方を描いている。官兵衛は全段のうちこの段にのみ登場する人物で、彼と知略を争う小田軍の軍師・此下当吉のほうが『木下蔭狭間合戦』全体の主人公。最後にやたらカッコよく出てくるのはそのためだろう。 

詳細なあらすじは、以下の過去記事をご参照ください。

 

 

 

先に書く。今回の上演の成功には、床の錣さん・藤蔵さんの力がとても大きいと思った。

舞台の情報量の大半が義太夫から来ている。まさに義太夫が主体。今回は人形付きで上演することが企画の目玉ではあるのだが、むしろ、出すことによって物理的制約の生まれる人形を超える表現になっていた。文楽義太夫は本来そういうものだと思うけど、なかなかそうもいかないことが多いので、ただでさえ難しい復活曲で義太夫が人形をしっかりリードしているのは、嬉しい。

「竹中砦」は、畳み掛けるような小刻みな展開が続き、登場人物が多い。確かに重厚な話ではあるけど、複雑……と言えば聞こえはよいが、率直に言って内容を盛り込みすぎて散漫。そのため、感情・情景描写の交通整理を行い、舞台に出っぱなしになる人物が多くともパラパラとしないよう、演奏でメリハリをコントロールする力が必要になってくる。

今回、2日間にわたる上演で、錣さんと藤蔵さんはベテランらしい底力を聞かせてくれた。初日から完成度が高く、「初めて舞台にかける曲でよくここまで」と思わされた。一度もダレることなく、刻々と変化する状況を描ききり、駆け抜けた。
二日目はそこからさらに上昇し、義太夫節らしい重みと軽快さのバランスにすぐれたすばらしい演奏だった。初日の人形の状況やお客さんの反応をみて調整されたのだろうか、間合いのコントロールがうまかった。トータルでのバランス感覚に秀で、最後の大落としが成功したのが非常によかった。大落としでの拍手にも納得。本公演だとどうしても「拍手する場面だから拍手する」的な、お義理的な拍手になってしまうことがあると思うが、今回は登場人物の感情が観客に伝わっての拍手になっていた。

今回、錣さんが太夫を勤めてくれてよかったなと思ったのは、女性登場人物の描写。竹中砦には、本来戦場(砦)にいるはずのない女性=妻関路と娘千里が出てくる。いないものをいることにしているからには、そこから意味を受け取り、存在意義と描写を検討することが重要なのではないかと思う。今回上演では端場をカットしているため関路と千里の存在感がかなり薄くなっているものの、それでも二人をおざなりにせず、存在感が担保されていたのがよかった。曲としての華やぎもよく出ていた。

このような演目を錣さん・藤蔵さんが受け持ってくれたことは本当にありがたい。ニュアンスや雰囲気を作り出せる技術があり、長時間演奏に耐えられる体力をもった人材は現在の文楽には非常に少ないので、ベストな配役だったと思う。

 

 


「竹中砦」の舞台となるのは、文字通り、合戦のさなかの砦。大道具は逆勝手(上手から人形が出入りするタイプ)で、上手に陣門が設置され、中央〜下手側に屋敷の屋体。下手には藤棚、手水鉢、植木の茂みがある。また、屋敷と陣門のあいだには烽火台。この大道具のまま、引き道具や返し等なく、最後まで展開する。

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記憶のみで描いているため、違うところがあると思う。烽火台の奥がどうなっていたのか、まったく思い出せない。『義太夫年表 明治篇』に明治時代の「竹中砦」道具帳が6点収録されているが、そのいずれとも異なる大道具だった(逆勝手であることは同)。明治時代の道具帳だと、すべてのものに軒下に幔幕(熊谷陣屋みたいなやつ)が張られているのだが、今回あったかどうか、忘れた。

 

冒頭部(端場)をカットし、官兵衛の出からの上演。チラシなどに記載されていた「完全復活!」って、端場から全部やるってことじゃなく、人形をつけたことを“完全”と称しているってことね……。文楽的にはかなりグレーな表現やな……。

 官兵衛の出「曲がれる枝を直(なお)きに撓(た)め、木は木と分くる竹中官兵衛重晴……」。かなり低音、押さえつけて潰れたような声からはじまる。非常な低音ではあるが錣さんなら出る範囲だろうから、意図的にやっているのだろう。不気味な雰囲気。ロームシアターに行くまえに立ち寄った老舗のお香屋さんで見た、異様な形に傾いだ伽羅の香木を思い出した。
官兵衛〈桐竹勘十郎〉は先の戦いで矢傷を受けたため、前線には出ず砦で療養している。人形は鬼一のかしらに白髪混じりの総髪を低い位置で束ねて後ろに流し、長羽織をつけた鈍い金色の豪奢な衣装、袴をつけない姿。刀を杖にして、しかし虚弱には見せないよう、ぐっと歩いて出る。
彼を出迎えるのは、恋に悩む娘・千里〈吉田一輔〉。娘がしらに色とりどりの花がついたティアラ、ピンクの流水・紅葉柄の振袖、黄緑の帯で、小娘風の出で立ち。千里は動きや見せ場が限られる分、指先の表現が繊細で、ちょっとした動作から優しく愛らしい雰囲気が感じられたのがよかった。また、かなりおとなしい性格にしているようだった。

官兵衛は庭先に潜んでいた犬清〈吉田玉助〉に甘言をかけて、小田軍の秘密を聞き出そうとする。犬清と千里はかねてよりの恋人同士であり、密かに子供も設けていたが、現在では敵味方に別れて面会どころか文のやりとりも叶わない。そんな犬清がなぜ敵陣である官兵衛の砦にいるのかというと、二人の恋路を見守る母関路が、直前の段・熱田社で偶然出会った犬清をかくまい、娘に会わせるために連れ帰ってきたから。しかし官兵衛はそんな余所者が砦内に侵入しているのを見抜いていたのだ。
犬清は源太のかしら、シャンパンゴールド(シルバー?)に細かい花の刺繍の布地の豪奢な肩衣・袴・小袖を着ており、髪の結い方も含め、御曹司風の派手な出立だった。

官兵衛は犬清に対して主君斎藤家に逆心があると思わせるため、庭先の藤棚に下がった藤の花を打ち落とす場面がある。藤の花は藤原氏を暗示しており、翻って斎藤家を表しているということは知識だけ(というか浄瑠璃の理解のコツとしてだけ)知っていたが、まじで意味わからなかったので調べましたところ、美濃斎藤氏の祖先が藤原氏だったということなんですね……。ここがわからないと、この後一切話についていけなくなるのがやばい。
ちなみに、官兵衛が笄を投げると同時に藤の花が落ちるタイミング、初日は官兵衛の動きより先に落としてしまったため何が起こったかわからず失敗していたが、二日目はうまいタイミングで落ちて成功しており、良かった。

官兵衛の妻で千里の母である関路〈吉田勘彌〉は、美麗な奥様らしい佇まいがあり、夫官兵衛の身分や気高さを感じさせる。関路にはしっとりと吸い付くような風情があり、泣き伏せる姿勢やお辞儀の所作が殊に美しいのが良かった。勘彌さんの悲しみの演技は2月『冥途の飛脚』の梅川が美麗だったが、武家の奥様役でも素晴らしい。せっかく良い配役をつけておきながら、関路の人となりがわかる端場(および直前の段「熱田社」)のカットは本当に勿体なさすぎる。
関路は老女方のかしらに髪は片外し、衣装はシルバーグレーの打掛と小袖、紺地に金刺繍の帯。

 

 

 

犬清から小田軍の情勢を聞いた官兵衛は、守りの薄さを突いて攻撃を仕掛けるよう指示するが、官兵衛に逆意がなかったことを知った犬清は、秘密を漏らしたことを悔やんで切腹する。

ここからの展開には、本文そのものに厳しいものがあるように思う。このあと、義龍が現れて官兵衛への疑いが晴れたことを宣言して出陣→主君の信頼を得た官兵衛が千里と犬清に祝言を挙げることを許可→関路が水盃を用意するも犬清は拒否して絶縁を宣言→千里はショックを受けて自害という流れになるのだが、展開があまりに小刻みすぎて、話にメリハリがない。これをどうプラスにいかすかが勝負の分かれ目になると思う。

登場人物の多さ、展開の速さは素浄瑠璃で聞いている分には音声として通り過ぎていくのでいいんだけど、人形をつけるとかなりややこしい見た目になる。解説で「すべての登場人物に見せ場がある」と言われていたが、それはずいぶん良い方にとった言い方で、いったい、だれの、どういう感情を軸に見ていけばいいのかわからなくなり、収集がつかない状態。現状では人形はあんまりうまくはいってないかなあ。

犬清・千里は物語半ばで自害した後、段切までずっと死にかけの状態になる。そのあと特に何をするでもない微妙に存在感が薄いキャラが舞台の真ん中で最後までずーーーっと死にかけというのは、なかなか間持ちしない。『絵本太功記』尼崎のさつきも光秀に突かれてからが長いが、さつきが死ぬ理由こそがドラマの最大の要になっていて、かつ、さつきは最後に自分の思いと子への想いの煩悶を告白する見せ場がある。「竹中砦」での犬清の切腹は此下当吉の策略であり、彼は当吉の道具である。犬清は春永に勘当を許されたいが故にそうしているのだけど、観客がそこにドラマを感じるのは難しいと思った。
千里は自害の後は「ううう……」という感じで多少苦しそうに体を上下させており、適度な死にかけ演技になっていると思ったが(適度な死にかけって何?って感じですが、自分がリアクションしなくてはならない場面になると反応が大きくなる等の工夫があった)、一方の犬清はただ座って静止しているだけの状態だったのは違和感があり、残念だった。

奥の襖(というか木戸)から出る主君・斎藤義龍〈吉田玉佳〉は悠々とした印象。義龍は官兵衛の本心を探るため、陰から一家の様子を見ていたという設定。鎧姿で登場し、かしらがヨード卵光的な色で塗られているので見た目は若干野卑な印象があるのだが、プリンスらしく、どこか品がある雰囲気だった。

 

 

 

竹中砦は、三人の注進が登場することで有名である。

一人目の注進・大垣三郎〈吉田玉勢〉は斎藤軍の優勢を知らせる。しかし二人目・樽井藤太〈吉田簑紫郎〉は「左枝犬清」を名乗る男に逆転されて義龍の安否が不明であることを報告し、三人目・四の宮源吾〈吉田文哉〉は義龍が討ち取られ斎藤軍が壊滅したことを伝えて倒れ臥す。官兵衛はそれぞれの報告を立て続けに聞くことによって、心境を変化させていく。

ここは義太夫の聞きどころになっている。三人の注進と官兵衛の反応の表現では、パッと素早く舞台の雰囲気を切り替えていて、良かった。その切り替えも直前の状態から「バツン!」と切るのではなく、矢継ぎ早に接続しつつ切り替えていく雰囲気が面白かった。

人形については、官兵衛のリアクションはともかく、注進は相当難しいなと思った。配役されたご本人方は一生懸命やっていらっしゃるけど、振り付けの問題なのか、何を表現すべきかまで気が回っていないのか、三人それぞれの注進がもたらす意味が見た目で区別できん。さすがに三人出てきてメリハリがゆるいのはきつい。振り付け・演技プラン・衣装をもっとハッキリ区別したほうがいいと思うが、人形つき初回上演ゆえの限界か。

官兵衛は二番目の注進が去った後、自ら義龍のもとに駆けつけるべく、鎧櫃を引き出そうとする。舞台の奥に置かれていた鎧櫃をやっとのことで引きずってくるも、運びきれずに倒してしまい、蓋が開いて鎧がこぼれる。ここでの官兵衛のよろめきは、ちょっとオーバーアクションのように感じた。
官兵衛は怪我をしている設定なので動きが少なく、最初の出の場面、犬清の刀を奪って上手まで歩いていって烽火台に刀を投げ込む場面、そしてこの鎧櫃を運んでくる場面しか動きがない。その中で烽火台に刀を投げ込む部分だけやたら元気にやってしまっており、じゃあなんで鎧櫃を引きずってくる場面はこんなにヨタヨタしているのか、その整合性が微妙だと思った(というか、刀を投げる部分はかっこよく綺麗に投げ込もうとしすぎて、官兵衛の設定と関係なく即物的に演技をやっているように見える)。
官兵衛の人物造形はさらに練り上げることができるのではと思う。現状では、動く場面を派手に見せ、そこを主体にする演技プランかと思うけど、本来は、それ以外のじっとしている場面をいかに重厚に見せるかではないかと思った。

 

 

 

義龍討死の知らせの後に、上手の陣も門から登場する小田春永〈吉田玉男〉は、重厚な存在感がある。濃い卵塗りのかしらながら、若々しい武将らしい涼しげな麗々しさ。出て来てトンと座ったらそのまま一切動かないのだが(マジやばいくらい動かない)、時々、眉を「ピョコ…」とさせてリアクションしていたのがよかった。
ところで、浄瑠璃を読んだ段階では、春永は騎馬で入ってくるかと思っていた。のしのし徒歩でやってきたので、歩いてきたの!?その身分で!?とびっくりした。

春永を前にせき立つ官兵衛を遮って、颯爽と現れる謎の武者。彼が顔の前に掲げていた兜を下ろすと、その正体は小田軍の軍師・此下当吉〈吉田玉志〉。白塗りの検非違使、聡明で爽やかな人物像で、玉志サンにはかなりの当たり役だった。当吉は、犬清と千里の子供・清松〈桐竹勘昇〉を背中の母衣に隠しておんぶしているのが可愛い(鎧の胸元におんぶひもをクロスさせている)。

 

春永は、官兵衛を陥れる為切腹した犬清と、戦場で義龍を討ち取った犬清(に扮した当吉に同行していた清松)の武勇に免じ、犬清の勘当を赦し、恩賞として義龍の首を下す。これを見た官兵衛は再び憤慨し(こういうところが無駄にややこしい)、当吉に差し出された清松に刃を向けるが、初めて見る孫の愛らしさに打ちひしがれ、ついに号泣してしまう。
この部分は「ハテ好い子だなア。祖父と孫とが初見参(略)さて可愛や。と大声上げ、勇気挫けて身も震ひ、刀持つ手は大盤石、鉄丸の如き魂も、今ぞ蕩けてはら/\/\、留め兼ねたる恩愛の、涙汲み出す如くなり」と大落としになっており、特に床の演奏は二日目は非常な盛り上がりを見せ、孤立しようとも頑迷に我を張ってきた官兵衛の意地が突き崩されていくさまが存分に表現されていた。

ただ、人形は、春永・当吉が出て以降は官兵衛の印象が薄まるのがなんとも惜しい。春永と当吉は大型でかなり華やかな人形なので、この2人が手前側にいる状態/官兵衛は屋体内下手に立っている状態で大落としになるのは、かなり厳しい。この部分はおそらく官兵衛役の勘十郎さんも検討されており、浄瑠璃の文面通りそのままではなく、「当吉がおんぶしている清松を、倒れて開きゆりかご状になった鎧櫃の上に下ろす」「官兵衛が眠っている清松を抱き取る」いう演技が追加されていた。事前に浄瑠璃を読んでいた段階では、清松を当吉が背負ったままでは間持ちしないだろうと思っていたので、うまい対応だと感じた。トークショーでも、木ノ下裕一さんから、「戦争の象徴である鎧櫃の上で子供が眠っているコントラストが面白い」というコメントがあった。
ここでもうひといき、官兵衛が清松を抱きとるところで階(きざはし)に降りるなど、ここまでにない立体感のある見せ方をつけた振りがあっても良かったと思う。
しかし、最後の場面で官兵衛が目立たないのは、春永が玉男様だったからかも……。いや、玉男様が悪いわけではなく、春永、ピクリとも動かなくても異様に存在感がありすぎて……。一体なんなんだ、玉男様のあのどっしりぶりは……。白亜紀から来たのか……。

 

当吉が清松を抱っこして踊りながら子守唄を歌う場面は、玉志サンの誠心さが出ていて、良かった。めちゃくちゃ真面目に、「パパ一年生」って感じに踊ってらっしゃいました。当吉が単なる残酷無慈悲な人物でないことを、玉志サン持ち前の透明感、清純オーラが担保していた。そして、こんな新曲同然の曲なのに、やっぱり所作がジャストタイムなのがすごかった。

ちなみに清松は人形配役がついているにも関わらず、ずっと爆睡しているせいかまったく自力で動かず! 春永が「進烈激しき戦場にて、快げなる寝顔の様、遖れ武勇の頼みあり」と言うが、まじでずっと寝ている。おそらく勘昇さんは運搬役をしてくれたのだと思うが、せっかく人形配役ついてるんだから、官兵衛に抱っこされたあたりでちょっと「ふにゃ」くらい起きて、また寝る演技くらいあっても可愛いと思った(二度と寝付かないかもしれないが!)。

こうして清松は当吉が預かり育てることになり、当吉は三好長慶の動向を探るために京都へ向かう。官兵衛は関路とともに娘・婿の菩提を弔うとして栗原山の閑居に引っ込むと告げる。そして、春永は輝かしく清洲へ凱陣を告げて、物語は幕となる。春永は段切で軍馬にサラリと飛び乗るのがカッコいい。よく見ていると、エアあぶみに一旦足をかけて、チョコっ!と跳ね上がって乗るのね。

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官兵衛だけはロームシアターのサイトの写真を見て描きましたが、ほかの人形はうろ覚え。斎藤義龍&三人の注進ズは特に記憶がないです。

 

 

 

人形の衣装が、既視感のないスタイリングになっているのが面白かった。
実際には本公演で使うものを使いまわしているんだけど、彩りを強調し、彩度高め・コントラスト華やかめにしているようで、全体として「あ、あの曲と同じね」という印象にならないようにされていた。
おそらく、官兵衛の衣装は『奥州安達原』袖萩祭文のけん仗、関路は『一谷嫰軍記』熊谷陣屋の相模、犬清・千里は『絵本太功記』妙心寺の十次郎・初菊と同じではないかと思う(官兵衛がけん仗かはちょっと自信なし)。
三人の注進は鎧の縅の色などに原色を配し、色使いに変化を持たせているのがよかった。一人目の注進はグリーン・黒系、二人目の注進は白・赤・紫、三人目の注進はセルリアンブルーと、鮮やかな印象。倒された鎧櫃の中に入っている官兵衛の鎧もグリーンの縅で、派手だった。
ただ、犬清が十次郎や勝頼のごとき大家の御曹司のような煌びやかな肩衣姿なのは、身分や前段との関係を考えると違和感がある。明治〜大正期の「竹中砦」の写真を2枚見つけたが*2、その写真では普通の私服風袴姿かと思う。今回の制作側がその写真を見てないわけないので、今回上演では意図的に派手にしたのだと思うが、なぜ?
ちなみに、官兵衛は明治時代の写真だと髪を束ねていない。千里も、大正時代の写真では、(モノクロ写真だからわからないけど)赤などのクッキリした色の振袖を着ていたようだ。今回上演も、千里は単なる小娘ではないため、愛らしさではなく強さのある衣装でも良かったと思う。


また、かしら割についても簡単にメモしておく。よくわからなかった部分や記憶が薄い部分もあるけど、私の所見。

  • 官兵衛 鬼一ネムリ目) 薄卵塗り(けん仗と違って髪は束ねている)
  • 犬清 源太ネムリ目、アオチ眉) 白塗り
  • 千里 娘ネムリ目) 白塗り(手負いになって髪をさばく場面があるため、髷はおだんご状のシンプルなもの)
  • 関路 老女方 白塗り
  • 斎藤義龍 団七(フキ眉) 濃い卵塗り(一般的に、大笑いする男性役は口開きの文七を使うはずで、2003年に素浄瑠璃で語った綱太夫も保留付きながら文七ではないかという判断。しかし、舞台では目元が文七ほど上品には見えず、団七?と思った)
  • 大垣三郎 陀羅助(アオチ眉)卵塗り(時代物に使う上品な顔の陀羅助か)
  • 樽井藤太 鬼若 白塗り
  • 四の宮源吾 検非違使 卵塗り(だったと思うが、頭にカモの羽?って感じの彩りのよい矢が刺さっていたのが気になって、記憶が薄い。髪をさばいていたかも)
  • 小田春永 検非違使(アオチ眉) 卵塗り(おそらく『絵本太功記』に揃えていると思う。『絵本太功記』だと春永は薄卵だったと思うが、今回の春永はかなりガングロに見えた。平右衛門くらい塗っとる?って感じだった)
  • 此下当吉 検非違使(アオチ眉) 白塗り
  • 清松 男子役 白塗り

*2003年に綱太夫・現藤蔵が文楽劇場早大で素浄瑠璃を演奏した際に仮決めしたものは文楽 『木下蔭狭間合戦』全段のあらすじと整理 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹参照

 

  • 人形役割
    娘千里=吉田一輔、竹中官兵衛重晴=桐竹勘十郎、左枝犬清=吉田玉助、妻関路=吉田勘彌、斎藤義龍=吉田玉佳、大垣三郎(一の注進)=吉田玉勢、樽井藤太(二の注進)=吉田簑紫郎、四の宮源吾(三の注進)=吉田文哉、小田春永=吉田玉男、此下当吉=吉田玉志、一子清松=桐竹勘昇(黒衣)

 

 


非常に力の入った舞台だった。新作同然の曲ながら、煮詰まった状態で観劇できたことがとても嬉しく思う。

単発公演としても、80分近くある演目を上演するというのは、すばらしい試みだと思う。長門で『出世景清』の燕三さんによる復活を観たときも思ったが、外部主催公演だと技芸員さんへのおまかせ度が高く、技芸員主導での復活が叶い、結果、当事者として納得のいく現代文楽化、万全の配役で実現できるという部分があるのだろう。技芸員さん主体でというのは、ファンとしても嬉しいことだ。もちろん、それを実現できるのは、主催団体の尽力と資金あってのことだと思う。

カーテンコールなしだったけど、今回のような公演なら、あってよかったんじゃないかな。勘十郎さんや錣さん・藤蔵さんはじめ、ご出演の技芸員さんみなさんご準備に大変な思いをされただろうし、観客としてもそれを労いたい気持ちがある。玉男様の出番は少ないのになぜか人一倍ものすごく嬉しそうなお顔や、人形を離した途端テンション激下がりする玉志サンを見たかった。

また今回は、観客にも恵まれた舞台だったと思う。何度も書いている通り、「竹中砦」は一から十まですべてを聴いていないとついていけなくなるような、非常に複雑な内容だ。しかし、来ているお客さんはそれに食らいついていっていたと思う。この企画が観客に理解されたのは、来場されているお客さんが本当に文楽を好きだから、というのが大きかっただろう。2日間にわたって行ってみると、両日とも来場されている方が結構おられるように感じた。前方席はほとんどが文楽の固定客だったんじゃないかな。かなり初心者の方に配慮する方向に寄せた解説をされていたが、時には文楽を愛している人に向き合った声でもいいんじゃないかなあと思った。

 

今後、本公演に「竹中砦」を取り入れるとしたら、人形演出のブラッシュアップに期待をしたい。

人形の出入りプラン等は、おそらく早大の復曲プロジェクトでの研究をベースに組み上げているのではないかと思う。舞台にかかったらどうなるかというのは今回はじめての試みで、今回の結果を受けてどうするかが肝要だ。おそらくまだ距離感や間合いがはかりきれないのだろう、現段階では、人形たちが絡まり合ってドラマを紡ぐまではいけていなかった。また、どの人も迷いがある状態だったと思う。
先述の通り、「竹中砦」は内容の複雑さゆえに、どうしても細切れな演技がゴチャゴチャと連続してしまうという問題がある。また、現状だと人形各個に派手な振りが均等についているので、通して観たときにのっぺりとした印象がある。今回は演出の勘十郎さんの配慮で、出演者それぞれに見せ場を作ってるのもあるんだろうけど(お客さんに対するサービスとしても非常によくわかる)、それが悪い意味でのオールスター映画風になっている。今後本公演で上演をするなら、タイミングや役目に応じた強弱づけの整理が必要ではないか。これに関しては、人形遣い自身では舞台がどう見えているかは実はわからない(舞台を正面から見慣れているわけではない)という点もかなり大きいと思うので、そこをどうクリアするかが問題だろう。実は今回は木ノ下さんがそのディレクションをある程度するんじゃないかと思っていたけど、そういうわけでもなかったみたいですね。

演出を調整していくうえでは、官兵衛をいかに立たせるかが最大の課題になってくると思う。軍師としてこれまで確固たる実績を築いてきたにもかかわらず、肝要のところでミスを犯し、主君を失う官兵衛の悲劇。そして妻や娘の気持ちを無碍にしてきたにも関わらず、孫にだけは鉄壁の心を打ち砕かれるというドラマを際立たせて欲しい。
ただ、官兵衛にはほとんど動きがないので、先にも述べた通り、少ない動きの中で重い感情を描写していく演者自身の力と、それを引き立てるための他の要素の引き算が重要ではないかと感じた。

困難は多々あるだろうが、「竹中砦」が本公演に採用され、古典芸能の舞台にかかる演目として練り上げられていくことを望む。

 

 

またも長くなってきたので、木ノ下裕一さん、勘十郎さん、藤蔵さんによるトークショーメモは、次回に続きます。

文楽『端模様夢路門松』『木下蔭狭間合戦』竹中砦の段 ディスカッション(木ノ下裕一・桐竹勘十郎・鶴澤藤蔵) ロームシアター京都 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

 

 1つ目の演目『端模様夢路門松』の感想はこちら。

文楽『端模様夢路門松』ロームシアター京都 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

 

 

*1:鎧武者が登場する芝居のこと。『鎌倉三代記』三浦之助母別れ、『一谷嫰軍記』熊谷陣屋、『近江源氏先陣館』盛綱館など。

*2:朝日新聞明治38年[1905]4月15日大阪版の朝刊9面と、『義太夫年表 大正篇』の大正2年12月近松座公演のページに載っています。朝日新聞に載っている写真と同じものが早大での素浄瑠璃演会の配布リーフレットに転載されているようで、早大リポジトリ経由で見ることができます。→早稲田大学リポジトリ

文楽『端模様夢路門松』ロームシアター京都

昨年2月末に公演予定されていたものの、新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止となったロームシアター『端模様夢路門松』『木下蔭狭間合戦』。そのまま立ち消えかもしれないと思っていたが、再設定され、ちょうど一年後、2月27〜28日の2日間にわたって公演が行われた。

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ロームシアター京都(旧・京都会館)は、平安神宮の近くにある複合施設。周囲一帯が公園のようになっていて、京都府立図書館、京都国立近代美術館、京セラ美術館などの文化施設が多数ある。京都らしく高い建物がないので、歩いていると空が広くて気持ちがいい。観光客というより近隣の方が多いようで、散歩をしたりスポーツをしている人がたくさん。のんびりした雰囲気の場所だった。

会場は、1月からの緊急事態宣言発布を受け、会場が当初予定のサウスホール(満席状態で販売)から、メインホールへ変更となった(前半分は満席状態、後ろ半分を自由席として解放)。このメインホールというのがかなり大きな会場で、4階席まである2000人収容の大型コンサートホール。地方公演で2階席まである会場には行ったことがあるが、ここまでの大型ホールで文楽をやるのはすごい。実際には2階席までしか客を入れないようにしていたけど、後ろの方、人形見えないのは確実としても、義太夫聞こえるんかいなと思った。

床は地方公演同様の対応で、客席へ張り出し式。また、字幕装置が臨時設置されており(床上に大型モニタを2台連結して縦書き表示できるように設置。下手にもあったかも)、単発公演にしてはかなり手の込んだものだった。音響は前方席で見るぶんには文楽劇場同等程度の聞こえ方。ただ、実際にはマイク使ってたんじゃないかな。床に三味線を置く「ゴトッ」という音などが不自然に大きく聞こえていた。
本舞台の見え方は大変快適。一般的なホールのため、客席にかなりの傾斜・段差がついており、前の人の頭で舞台が遮られることががないのが良かった。配席は結局すし詰め状態だったのだが、「観客収容は50%まで」という主催者側に課されたレギュレーションは、とにかく席数の半分しか客を入れなければそいつらがどんだけひしめいててもOKってことね。客席左右に人がいる状態は1年ぶりで、舞台の端っこでギュッと整列しているツメ人形の気分になった。
大きな会場なだけあって、本舞台は間口が非常に幅広く、文楽劇場より幅がありそうだった。シルバニアファミリーでいうなら、赤い屋根の大きなおうち状態。文楽は人形がおプチゆえスカスカになるのではと心配になったが、『端模様』『木下』ともに人形がどっさり出てくる内容であり、大道具も立派だったので、見栄えしていた。

 

 


第一部『端模様夢路門松(つめもようゆめじのかどまつ)』。

上演前に、スーパーバイザーの木ノ下裕一さん、勘十郎さんから挨拶があった。一年前、公演3日前の深夜に中止決定が降りた経緯、今日ついに公演が開催できた喜びを話された。

木ノ下裕一さんが話されているのをはじめて見たが、近所のオバちゃん風の気さくな方なんですね……。そして、勘十郎さんはこの直後に出番があるので黒衣だったんですけど、その黒衣が「Maison de FLEUR製ですか?」って感じの可愛さだった。腰のおおきなふんわりリボンと萌え袖が良い。リボンが機能上あんなでかい必要はないので、確実に可愛くデザインしてある&可愛く結んでるな。60代後半男性とは思えぬガーリーぶり。勘十郎ぶりっこは味わいがある。


『端模様夢路門松』は、1984(昭和59)年、勘十郎さんが30歳ごろに書いた、いわゆる「新作」。製作当時は数回再演されたようだが、以降は長く上演されていなかったものが復活された。上演時間は50分ほどあり、意外と長編。

本作はツメ人形を主人公として、登場人物のほとんどがその仲間たち、つまりツメ人形という特殊な設定になっている。ツメ人形たちにはそれぞれに個性があり、生命と意思を持っている。人間は登場しないが、人形たちは左遣いや足遣いがいてこそ三人遣いの人形は動けるということは認識しており、しかし人形や小道具たちは勝手に動き回って芝居を演じているという、よく考えたらなかなか狂った勘十郎ワールドなのでみんなよろしく。*1

“古い”新作というとこもあり、ストーリーがほとんど露出していないので、以下、あらすじをまとめる。

道頓堀の、とある操り芝居の小屋の舞台裏……。

舞台がはねて、楽屋の廊下はたくさんのツメ人形たちがひしめき合って大騒ぎ。挨拶しあいつつ、彼ら彼女らはそれぞれ寝床に帰っていく。

そうこうしていると、捕手のツメ人形たちが楽屋に帰ってくる。今日もどつかれ役に疲れたと言う定八〈桐竹紋吉〉、竹蔵〈吉田勘市〉のうしろで、門松〈桐竹勘十郎〉はひとり涙をこぼしていた。門松は、殴られてばかりの“ツメ”の生活に嫌気が差し、三人遣いになりたいと思っていたのだった。門松のビッグすぎる夢を聞いた二人は驚き、自分はしんどくてもツメがいいと言って去っていく。

嘆く門松を励ましたのは、一座の長老・老やん〈吉田簑一郎〉。くわを背負った百姓ツメの老やんは、自分も若い頃は三人遣いになってお染や初菊の相手役をやりたかったとつぶやく。門松は自分のことは棚に上げ、笑ってしまう。しかし気を取り直し、みんなが笑っても自分は三人遣い人形の演技ができると言い張り、荒物なら団七(夏祭浪花鑑)、若男なら伊左衛門(曲輪文章)がやりたいと言って、伊左衛門の出を演じてみせる。老やんは門松の振りや間合いに感心しながらも、左遣いや足遣い、床の太夫・三味線と息を合わせてこなせるかと問う。すると門松は急に不安になり、誰かに教えてもらいたいと言って泣き伏せてしまう。

老やんが去ったあと、泣きじゃくる門松を見つけてやってきたのは、小道具部屋在住の動物たち、狐・コン平、犬・タロウ、大猿、馬・馬の介。門松はつつき回してくるアニマルたちを邪魔がって追い払おうとする……が、そんな門松の目に映ったのは、三人遣いで流麗に動く大猿の姿だった。大猿に三人遣いの動きを教えて欲しいという門松に、一同はびっくり。大猿は三人遣いならではの滑らかな動きで踊ってみせるが、自分はあくまで猿なので、左や足は猿の動きだと告げる。がっかりする門松はまた廊下に泣き伏せ、アニマルたちは門松を心配しつつ、ねぐらへ帰っていった。

そこへ彼を心配した腰元のツメ人形・お梅〈桐竹紋臣〉がやって来て彼をちょんちょんする。が、門松は彼女の心配に気づかず、そのまま寝入ってしまうのだった。

翌日。
今日もツメ人形たちは斬られ役で大わらわしているが、そこに門松の姿はない。定八らが彼の穴埋めの代役の相談をしていると、そこに筵をかぶった団七?がやってくる。団七?がむしろをぱっと取ると、その正体は三人遣いの団七ボディになった門松だった。一同は見事な三人遣いの美ボディに感心するが、顔はツメ人形の門松のままでちょっと貧相。ワイワイ立ち騒いでいるところに幕が開く時間が来て、定八や竹蔵は門松に思う存分暴れるように言って、みな舞台に出ていく。

長町裏の段のクライマックス。団七となった門松は、いつも団七がそうしているように、捕手のツメ人形たちを蹴散らそうとする。しかし、いざとなると足が動かない。慌てて幕が引かれ(幕引くのここだったかな?)、仲間たちは遠慮なくやれと言うが、門松はどうしても彼らを蹴ることができず、泣き伏せてしまう……

……「門松、松よ」の声に門松が目を覚ますと、そこはいつもの楽屋の廊下。彼はもとのツメ人形ボディに戻っていた。団七になったのは、夢の中の出来事だったのだ。みなは夢の中で何になったのかとしきりに問うが、門松は恥ずかしくて答えられない。そんな門松に、かねてから彼に恋していたお梅は、三人遣いかは関係なく、今のツメ人形の姿の門松のほうが好きだと言う*2。老やんや定八らは門松とお梅を似合いの夫婦だと喜び、仲間をみんな呼んで、ツメ人形一同で段畑を踊るのだった。

 

物語は、終演後の追い出しのお囃子から始まる。

楽屋の狭い廊下*3は長物の小道具立てや舞台下駄*4、行李*5が置かれ、戸口には芸人宛ののれん*6がかかり、ツメ人形が吊るされているところ*7を、めちゃくちゃたくさんのツメ人形が行き来している。捕手、仕丁、番卒、茶屋の女中、腰元、官女、寺子屋のヤマイモ・チルドレン、『卅三間堂棟木由来』の木遣りの先頭にいる人などなど、森羅ツメ万象が舞台上に現れる。15体くらいのツメ人形が野放図に蠢き回る。おツメ、普段はMAXでも4番程度しか出ないくせに、しこたまいっぱいおる!!!! 
どの人形もどこかで見たことがあるんだけど、どこで見たかは思い出せない、でも知ってる、だけど見た次の瞬間また顔を忘れてしまう、そんなツメ人形がいっぱいいた。

そんな中、主人公の門松だけは見覚えのない顔をしている(キービジュアルの下半分の写真のヤツです)。
大きな四角いアタマに短い「ハ」の字まゆ、大きな「へ」の字口、普通のツメ人形とは違ってテカテカなペイントが施され、なんだかちょっと大きめ……。
それもそのはず、門松は実は作・簑二郎さんのオリジナルかしらだそうだ。簑二郎さんが研修生だった頃、阿波の大江巳之助さんのところに研修に行った際に彫ったものだとか。後半のトークショーで勘十郎さんが首をスポッと抜いて見せてくれたが、本当に何のしかけもなく、棒(胴串)の上に頭がついているだけの、顎の上げ下げもできないシンプルなものだった。『端模様』初演から門松のかしらとして使っており、勘十郎さんがずっと預かっているとのことだった。

ツメ人形でも、個性が与えられている人物は、見栄え感が三人遣いとそんなに変わらなかった。ふだんのツメ人形の棒立ち&カクカク動作ではなく、人となりを感じさせる動きにされている。通常のツメ人形より演技の手数が多いのはもちろん、肩の表情があるとか、目線の付け方といった部分を三人遣いに寄せているのかなと思う。
人形遣いは黒衣での上演だが、役によってはツメ人形でも三人遣いの際の人形遣いのクセがそのまま引き継がれており、あ、〇〇さんだ、とわかる状態だった。門松・勘十郎さん、老やん・簑一郎さん、お梅・紋臣さんあたりはかなりわかる。勘十郎さんは首をかなり強くかしげる所作、紋臣さんはふわっとしたつっつき動作、簑一郎さんはクワを肩にかける仕草が三人遣いのときと同様で、らしい!と思った。
逆に、性格が普通の役、定八の紋吉さん、竹蔵の勘市さんは「わたし、ツメで〜す!」って感じで、いわゆる普通のツメ人形+αの範囲を超えない、あくまでツメ人形的な動作。しかし、なんとなく勤勉そうなのは、お二人っぽかった。

 

うろ覚え、メインとなる楽屋シーンの大道具。もうちょっと楽屋の壁が横に広がっていたと思いますが、だいたいこんな感じ、ということで。

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門松は、三人遣いの人形になりたいと思っている。

え???? どうやって???

ツメ人形と三人遣いの人形って、お百姓さんが帝になるくらいの絶対に越えられない壁がある気がするが……。いや、確かに金殿の官女は時々突然三人遣いになったり、よだれくりはパパがツメなのに本人はアホ顔でも三人遣いだったりするし、もしかしたら何かきっかけがあればクラスチェンジするのだろうか……? という観客の困惑をよそに、門松は伊左衛門の振りを老やんに披露する。

ツメ人形で演じられる三人遣いの振りを見て、文楽で人形を三人遣っている意義がよくわかった。先日の『曲輪文章』の感想にも書いたが、足がついているからこその腰の存在意義を実感したことが、この作品でもっとも衝撃的なことだった。

足がないツメ人形で伊左衛門の振りをすると、ペラペラして見える。上半身につられて下半身がゆらゆらするのがどうにも締まらない。かしらに文七を使うような武将の人形に比べれば、だいぶとなよっとした動きの着流しの町人の若男といえど、腰のひねり、足の踏みしめは重要なのだなと思った。*8

門松が伊左衛門の出を演じてみせるくだりでは、編笠の代わりに七行本を被っているようだった。文字が見えなかったので、何の本かはわからなかった。

 

 

 

小道具部屋の動物たちも可愛らしい。それぞれ本公演にはないような演技がついており、子供向け番組の動物キャラのような「人形劇的」な動作。本作では、この小道具アニマルたちのほうが、いわゆる「ツメ人形」的な言動をする。

きつね「コン平」は、ごん太しっぽを使ったツンツン動作がキュート。キャンキャンした幼稚な喋り方も良い。
馬の「馬の助」は駄馬だろうか、武将が乗っているやつとはちょっと違い、縄のくちなわをつけて、背中にござを引いている。そして妙にロン毛。『冥途の飛脚』淡路町の段に出てくるやつ?
1匹だけ三人遣いで激浮きの大猿は『靱猿』から。のびのびとした手足を使ったユーモラスな動作はかなり見応えあり。時々カイカイしているのが可愛い。そして、顔は虚無風なのに、お尻がグラビアアイドル的に妙にムチっとしていてリアルなのが怖かった。かしらもちゃんとあごを引けるタイプの仕掛けらしく、門松におんぶされて人形遣いの手を離れるシーンでは頭が下がり、死んでいるように見えるのも、さすが三人遣いの特権だった。
「タロー」と呼ばれている赤犬のみ、本公演では用いられないぬいぐるみ。「にほんごであそぼ」からのゲストだと思う。耳の折り曲げ以外に、まぶたが動く仕掛けがついているからか、きつねより大型だった。しっぽはとうがらしみたいに小さくて、可愛い。
これらのアニマルのうち、きつね、大猿、赤犬は勘十郎さんお手製のものだと思う。

しかし、猿、まじで流麗な動きだな……「動きがひときわちゃんとしとる!!!!!!!」と思った。解像度が全然違った。やはり三人遣いの発明は偉大なりや。 

 

登場人物たち。捕手ツメはあと2人くらいいます。

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クライマックス、門松は夢を叶え、団七の美ボディを手に入れて、長町裏の舞台を踏むことになる。ついに三人遣いになった門松は、ツメ人形のかしらに団七の体というなんとも滑稽な姿が愛らしい。
ここでもまた、三人遣いの人形が持っている舞台効果を知った。団七はこの場面で髪をさばいているというのが、大きな演出効果になっているのだな。髪の揺れや顔にかかる影でだいぶ表情がついているのだなと感じた。そして、文七のかしら自体が持っている、ぐっと噛み締めた表情も。伊左衛門に続き、現行の演出というのは、長い伝統に支えられた必然性・洗練性をもっているのだなということがよくわかった。ペイント・ヘアーかつ、ほんわか顔の門松は、おツメ顔の貧相感が高まってた。人形はやっぱり顔やなと思った。

この場面、羽織っている浴衣を完全に脱がないからなのか、団七はノーフンだった。文楽なので、ノーフンでも事故なし。(ノーフン=NO FUNDOSHI)

 

これは門松のみた夢だったというオチなのだが、門松はお梅にそのままでも好き💓と励まされ(都合よすぎやぞ勘十郎)、最後はALLツメ人形が大集合して「段畑」を踊る。

ここでは普通のツメ人形に加えて「段畑」*9に登場するらしいかぼちゃ(×2)や夕顔の鉢の化けもんも紛れ込み、小道具うちわ総動員*10で大騒ぎ。
っていうか、ゴチャゴチャぶりがすごくて、途中からあまりのゴチャゴチャぶりに笑ってしまった。三人遣い主体の本公演では、ここまでの人数の人形が出ることはないだろう。壮観。近松物などは人形一人遣い時代の作品のため、人形がやたらと登場・出入りすると言われているが、当時はこれくらい人形を出した演目もあったのかなと思った。

夜が開け、ひとしきり大騒ぎが終わると、門松はお百姓さんの衣装に着替え(っていうか、違う胴体に首を差し替えられて)、次の出番へ向かっていって、幕。

 

いま気づいたけど、片肌脱いでいる方向が逆だな……

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人形の演技は、初日と二日目では、二日目のほうがよりコメディっぽい演出に振っていた。たとえば門松の伊左衛門・団七の演技、お梅のお染風のクドキ、いずれも初日は本役想定の所作をしていたと思うが、二日目はだいぶギャグだとわかるようにしていた(ギャグではないが)。
おそらく、初日の反応を踏まえ、客に対して「おもしろさ」が伝わっていないことを感じ取っての判断だと思うけど、個人的には思い切り三人遣いで振り抜いて欲しかった。特に伊左衛門とお染の振りは、ツメ人形でどこまで三人遣いに接近できるか、もっと観たかった。

伊左衛門はやりきったほうがいいと思った。顔が月とスッポンほど違う有名キャラクターの振りを、帽子を被ることでわからなくしつつ見せているのだから、その面白さが伝わって欲しい。『曲輪文章』観たことないお客さんもいると思うので、なおのこと。(とは言うものの、前方席は間違いなく文楽の常連客だったでしょうね。そこにピント合わせるなら、滑稽なほうがいいと思う)

お梅の演じるお染風のクドキは、ツメ人形でも意外とそれっぽく見える。振袖を振る系統の演技と体をひねる演技ができないためかなりあっさりした印象で、三人遣いの振袖娘のような光沢感のあるきめ細やかな印象にはならない。ただ、相手役の後ろに回り込んで顔を覗き込むところはほとんど遜色なく、かなり可愛かった。二日目はちょっとコメディに振りすぎて『釣女』の醜女のように見えちゃっていた。

門松が団七(三人遣い)になっている場面では、団七としての所作をもっと流麗にして欲しかった。「蹴れない」となる前の部分がもっと“上手く”ないと、門松にとって、三人遣いの動き自体は出来るのに、仲間を蹴ることだけがどうしてもできないということがわからないのでは。そこが話の重要なポイントになるので、メリハリを付けて欲しかった。

 

 

  

床に関しては、お若い碩太夫さんが一人で語っていたのが良かった。若い人ならではの、どうしても一本調子になるあたりも、良い意味でツメ人形ぽい。ツメのみんなが一生懸命生きてる感があった。前述の通り、かなり大きいホールでの上演だったので、どれだけの声でどう語るかは苦労されているようだった。

 

 

 

本作は、勘十郎さんがどういう人かを知っていると、ストーリーに深みが感じられる。

って、私、勘十郎さんがどんな人か、一切知らないんですが、普段どういうふうに舞台を勤めていらっしゃるか知っていると、感じるものがある。

臆病ながら、やりたいことがあって、でも、グジグジ、ソワソワしている主人公像が勘十郎さんらしい。門松は、勘十郎さん自身がそうであるというより、そうでありたい理想の姿なのだと思う。『傾城反魂香』の又平同様、芸人としての勘十郎さんにかなり似合った役だろう。そして、どんな立場になり、根性なしと思われようが、もともとの純朴な心根を曲げることのできない繊細さと強さのある門松役は、勘十郎さんならでは。

門松は、気持ちの優しさゆえに、いままで苦労を共にした仲間たちのことを思うと、舞台といえど足蹴にできないという、俳優として致命的な心性を持っていた。それは、三人遣いになりたいとは思わない仲間には理解しえない心理である。そして、門松は端役中の端役、お百姓の衣装に着替え、ツメ人形としてまた働き始めるところで物語は終わる。
このストーリーをそのまま読んだだけだと、「身の程、身の丈をわきまえろって話なのか?」とか「もともとの身分の階層を乗り越えることはできないので、そこでの幸せを追及しろってこと?」と思われるだろう。この手のオチは昭和的ほっこり感性で、現代ではいびつに思え、やや首をかしげられる展開だと思う。ただ、見方を変えると、このようなある種の歪みが、かえって良いと思える。最後、ツメ人形の体に戻った門松は、やることはやったから、以前とは違って楽しそうだ。これは私自身が勝手に見出した要素であって、脚本上の意図ではないと思うけど、「結果はどうあれ自分自身でやってみて、自分が納得することが重要」という点はとても共感できる。

門松の仲間たちも、門松の壮大な夢を聞いて驚いたり思わず笑ったりはしても、決してバカにしないし、頭ごなしにできないとは言わないのがいいよね。人間の世界でも、得難い環境だと思う。

 

 

 

新作として、非常にレベルが高い内容だった。想像以上に、話がしっかりしていた。

解説で、この企画において『端模様』は「文楽を初めて見る方向け」という位置付けであることが話されていたが、実際には内輪ネタがかなり多く、常連ファン向けの内容でもあった。内輪ネタがわからなくても、チャーミングなものとして受け止めることができ、変なひっかかりなくスルーできるようにはしてあるのは親切。ツメ人形が主人公だからといって鼻につくようなメタ方向に傾くでもなく、ツメ人形のおおらかさを活かした内容であるのが愛らしかった。

 

脚本で使用されている言葉は、近現代の大阪弁文楽の古典演目のような近世上方語とは違い、いまのおじいちゃん・おばあちゃん世代か、それより1〜2世代くらい前の人の、懐かしい言葉遣いという印象。ほとんど会話で物語が進行するので、より一層そう感じられるのかもしれない。会話主体で進むパロディ的内容の新作というと、『其礼成心中』より完成度が高いと思う。私がそう感じるにはテーマの好き嫌いの問題もあるが、なにより鑑賞しているときの快感の度合いの桁がまったく違う。会話で使う言葉の選び方、その流れの作り方、また「文楽らしさ」の取り入れ方がうまいのだと思う。なにより、登場人物がみんな文楽的チャーミングさを備えているのがいいですね。ツメ人形は、やっぱり可愛いもんね。さすがに技芸員自身が作ったものならではだなと感じた。

タイトルが『染模様妹背門松』からきているのは、生玉の段の夢オチからの連想だろうか。ただ本作の場合、脚本的にどこからが門松の夢だったのかがわかりづらい。意図なのかもしれないが、小道具部屋の動物たちが話しかけてくるのは夢なのか現実なのか、ぱっと見、判断できない。門松が倒れ伏す方向で一応区別つけてるってことだと思うけど、それにしても「泣いて倒れ伏す」という演技をあまりになんども繰り返しすぎに感じるので、もうちょっとはっきりとした差があったほうがいいと思った。泣き伏せの演技のしつこさだけは伊左衛門以上です。

 

 それにしても、出演者にようもこんなツメ人形みたいな顔の人ばっかを集めたもんやな。人形は黒衣だから実際には見えないけど、うん、って感じだった。そして床もそこはかとないツメ人形感がある。清介さんだけ唐突感がすごい。

人形の出演者は一部しか公表されていないのは残念。端役でもかなり上手い人形がいた。捕手ツメーズの中で一番下手にいる長い棒を持ったやつ、最後に出てくるカボチャのお化けのうち凸型のやつと、頭が夕顔の鉢になっているやつが良かった。冒頭部のツメ人形が無数に行き来する場面も、よく観ているとそれぞれ細かい演技をしていて、可愛かった。少なくとも名前がある役はできるだけ出演者名を発表して欲しかった。

 

 

 

  • 人形役割
    門松=桐竹勘十郎、竹蔵=吉田勘市、定八=桐竹紋吉、老やん=吉田簑一郎、お梅=桐竹紋臣
    仲間たち*11=吉田玉翔、吉田玉誉、吉田簑太郎、桐竹勘次郎、吉田玉彦、桐竹勘介、吉田玉路、吉田玉延、吉田簑悠、吉田玉征、豊松清之助

 

『木下蔭狭間合戦』竹中砦の段とトークショーの記事は次回に続きます。

文楽『木下蔭狭間合戦』竹中砦の段 ロームシアター京都 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽『端模様夢路門松』『木下蔭狭間合戦』竹中砦の段 ディスカッション(木ノ下裕一・桐竹勘十郎・鶴澤藤蔵) ロームシアター京都 - TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

 

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*1:おそらくかしら(頭部)に意識(アイデンティティ)があり、体はいくらでも付け替え可能という世界観なのだろう(門松は最後に百姓のボディになる)。左手や足といった体のパーツは別の意思に支配されており、かしらはそれを使役する必要があるという特殊なブンラク・ファンタジーである。

*2:謎のドリーミー展開はともかく、そこは三人遣いになれるよう影で努力している門松が好き、と言ってあげたほうがいい気がするが。夢に向かって努力していることが、定八たちとの違いなので。

*3:楽屋の廊下は、朝日座のイメージなのだろうか? 現在の文楽劇場の楽屋廊下はそこまで狭くないはずだが、朝日座の写真を見ると、「人形絶対通れねえ!」と言いたくなる細い廊下が写っている。

*4:舞台下駄は本物。名前が書いてあるのが見えました。一輔さん(はお父さんから譲られたものかも?字が細かくて見えませんでしたが)、玉志サン、勘彌さんから借りたようです。

*5:書割。なぜかめちゃくちゃ目立つ位置に「玉男」。なぜ。

*6:竹本勘介さん江。誰やねん。

*7:吊るされたツメ人形は書割で描かれているんですけど、舞台をうろうろしている奴らとの差は何? プルートとグーフィー的な身分差があるのか?

*8:ちょっと話はずれるが、この演技をするとき、老やんは「演技は合ってるし間も良い」と褒めてくれるが、老やん……ええ先輩やなと思った。そう、演技や間が合ってても……ということがあるからねえ。そして、老やんが、「舞台に出たとき左と足をちゃんと使えるか」と言うのも、意味深。

*9:国立劇場系列上演時は「段ばたけ(瀬戸の段畑)」という題名で、「色模様文五郎好み」より、という位置付けのようです。いままで文楽劇場で2回しか上演していないようです。

*10:うちわは『夏祭浪花鑑』や舞踊シーンなどで使用されるもののほか、配り物として作られたらしい普通のうちわ(文楽人形の絵が書いてある)も登場していた。

*11:三人遣い人形としては、スペシャルゲスト(?)として『木下蔭狭間合戦』から一の注進、大垣三郎さんがご出演でした。

文楽 2月東京公演『五条橋』『伽羅先代萩』国立劇場小劇場

今回は、人形遣いのかなりお若い方まで、全員に役がついていたんじゃないかなと思う。よかったよかった。お若い方がチョコチョコ……と出てこられるのを見ると、帯屋の儀兵衛のように「ヲ丶……居よる居よる……w」と嬉しくなってしまいます。

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第一部ひとつめ、五条橋。

オマケ演目丸出しすぎだろと思っていたが、玉勢さんの牛若丸が良かった。
だいぶ大人になってきた美少年って感じで、ほぼ義経なんだけど、ちょっといたずらっこっぽいのが良い。そして、中性的な佇まいが非常に印象的。弁慶〈吉田文哉〉ともども、みずみずしい印象。会期後半は動きが整理され、一連の動作として流麗になっていったのも良かった。最近舞踊演目の人形の状態に首をかしげることが多かったので、今回の『五条橋』を見て、安心した。今後も景事はこうあって欲しい。
プログラムの解説に「弁慶と義経は、男色の領分では不動の組み合わせ」と唐突にものすごい断定が書いてあるのが良かった。義経総攻ですねわかります。古典業界では義仲兼平派と熊谷敦盛派も多いとみています。

 

  • 人形役割
    牛若丸=吉田玉勢、弁慶=吉田文哉

 

 

 

第一部ふたつめ、伽羅先代萩

2月公演のぶっちぎりハイレベル演目。本当にすばらしかった。
政岡が非常に生っぽいのが印象的だった。『伽羅先代萩』のストーリーは、現代には一切通用しない社会倫理を含んでいて、しかもその中でもかなり特殊な極限状況。正直、いかにも泣かせるための作り話だなと思うけど、そんな中でも政岡〈吉田和生〉という人物の心のありようそのものがダイレクトに伝わってきた。あの政岡からは、生身の人間と肌を触れ合ったときのような、体温、息遣い、湿度を感じる。大仰な作り話の世界の中でも、彼女の心だけは本物。曲や振りの派手さに振り回されず、自分以外の存在に心を寄せる主人公の、その心の崇高さが高い純度をもって結晶化していた。まさに文楽の醍醐味だと思う。

今回の『先代萩』で特に感じたのは、政岡の孤高の精神性。彼女にピンライトが当たっているような印象があった。2019年に観たときは、八汐に勘壽さん、栄御前に簑助さんも出ていたので、高貴な女たちによる裏の政争劇みたいだと思ったけど(『極道の妻たち』的な)、今回は政岡だけがクッキリと浮き立っている。

「竹の間」で出てきたばかりのときは、政岡の本心がわからず、四角四面な乳人のように思える。しかし、「御殿」の前を通じて、彼女と鶴喜代君と千松の3人だけの閉塞的な世界、それぞれの立場から純粋にお互いを思う心がわかる。政岡の一心さ、二人の子供に不自由をさせる母としてのやるせなさ。その過程があるゆえに、「後」が引き立つ。だんだんと彼女に感情移入できるようになっていった。いや、気づいたら、感情移入していた。

もっとも派手な「御殿」の後でも、「和生さん」「錣さん」といった個は消えて、政岡という人物に収斂していたのが本当によかった。
そんなふうに「個」が消えているのに、特に和生さんは、むしろ、和生さんにしか成し遂げられない到達点を見せてくれたと思う。「俺が俺が」的な個性を消して、あそこまで浄瑠璃の表現自体に徹することができるのは、さらに上をいく強烈な個性。西宮で観たときより初日のほうが良く、初日より中日のほうが充実していた。そして中日より最終週のほうがもっと煮詰まっていて、本当に素晴らしかった。単なる派手で有名な曲、持て囃される見せ場というだけでない、堂々たる舞台だった。

 

 

 

竹の間の段。

冒頭で千松〈吉田簑太郎〉と鶴喜代君〈桐竹勘次郎〉が雀のカゴを持って出てくるところ、最高すぎる。緊迫した不穏な広間をほのぼのさせる、小さい子供さん独特の意味不明行動。なぜそこに雀を連れてくるのか、なぜ政岡は黙認しているのか、すべてがよくわからんのが最高に良い。八汐〈吉田玉志〉と沖の井〈吉田一輔〉は、我々の見ていないところで雀についてのせつめいを90ぷんにわたってきかされたとみた。おこさまのマイブームへのねついは、すさまじいカロリーをもっているのである。

千松の人形と簑太郎さんが似過ぎで、「そうきたか」と思った。文司さんの伴内、和生さんの白太夫につぐ、合ってるのはわかるんだけど顔が似過ぎで集中力を乱してくるヤバ配役。ちょかちょかした動きが愛らしく、会期後半は毒菓子を食べる速度がアップしていて、良かった。

八汐は玉志サンだった。玉志サンの女方は初めて観たが、意外と違和感がない。違和感がないというか、浄瑠璃での八汐の描写に沿った演技になっているので、普通に八汐になっている。ただ、八汐が打掛に手をかけて立つ姿勢を見て、元からの女方の人は、単にまっすぐ立っているわけじゃないんだなと思った。女方の人は若干腰を引いて、打掛の内側(腰回り)に空間を作っていますね。また、扇を帯に挿すときの仕草が女性の挿し方じゃない。完全にイケメン武士だなと思った。扇の挿し方だけでも人形の雰囲気がかなり変わるんだなと思った。八汐は会期通して少しずつ雰囲気が変わっていったのも面白かった。最初はちょっと線が強い、かしらの表情通りの女方。次の週は軽やかさが出た。最終的には、なぜか天然由来成分100%的なピュアネス玉志に回帰してたのも良かった。

 

ヤスさん、「願書」は「グヮンショ」じゃなくていいのか。いままで聞いているに、ヤスさんはどの演目でも「クヮ」「グヮ」の合拗音を使わない語りをしているように思う。先代萩のような純粋な時代物ならさすがに合拗音でやるかと思ったけど、普通に「がんしょ」と発音していた。御殿の錣さんは「御菓子 オンクヮシ」「願 グヮン」「顔色 グヮンショク」で発音していて、先代萩の格調高さが出ていた。竹の間と御殿では、発言するのが八汐と栄御前と異なっており、両者は身分が全く違うけど、その差なのか、単にヤスさんが合拗音を使わないというだけか。錦糸さんはそれに対してどう考えているのか。
そして、あまりに頑張ったためにそうなったのだろうと思うが、忍びの者〈吉田玉征〉の喋り方が世話っぽすぎでは。なんだこの人情味。屋根裏の配線工事をしていた商店街の組合長さん(電気屋経営)が落ちてきたのかと思うげな。八汐も嫌なオバチャン感はあるけど、卑しい出自とはいえ大名に仕えている品格かというと難しい。これも頑張りすぎたが故に起こったことだと思うけど、『冥途の飛脚』「淡路町の段」の小住さんが武張りすぎだったことを考えると、配役が逆でもよかったのかもと思った。とはいえ、若いうちから向き不向きを決めつけてもつまらない。的確な身分表現は文楽でも非常に大事な要素だと思うので、おふたりとも、頑張れ!と思った。

 

 

 

御殿の段、前。

雀に米粒をやった後、政岡が上手を向きながら、お盆に子供たちのはしゃぐ姿を写す場面が非常に印象的。「野崎村」のお光が戸口に立ったお染の姿を鏡に写す場面に使っている鏡はくすんで実際には反射しないのとは違って、お盆の表面はツヤツヤしていて本当に人形の顔が映る。私の席からは、政岡と和生さんの表情が見えた。本来見えないはずの表情に、無言のうちの美しさがあった。
政岡は、顔を上げているときは大名の子の乳母として、まるで人形のような(人形です)無表情な顔をしているが、子供たちに背を向けたり、食事の支度をしているときにこそ、行儀のよい飯炊きに集中しているように見えて、もっとも「わたくし」、ふたりの子供たちのママに戻っているのだと思う。おおきな瞳からこぼれ落ちた冷えた涙に濡れているような佇まいが大変印象的だった。露がしっとりと浮かんだ早朝の花のように、美しい。

政岡の飯炊きは、炊き上がるまでに本当に時間がかかるのがすごい。そりゃ子供二人もおなかすくよね。一番気になるのが、子供たちのボディのわりに“にぎにぎ”が巨大かつ大量すぎること。にぎにぎ1個が茶碗1杯分くらいある。ひとりあたま1.5合くらいずつ食ってないか。しかも食うのがめちゃくちゃ速い。いや、速く食わないと浄瑠璃が進んで栄御前が来てしまうからなんだけど、ものすごい速度で食べている姿がなんだか良い。本当おなかすいてたのね。時々お盆をにぎにぎでコスコスしているのも、塩をつけているようで、可愛いです。ほっぺにごはんつぶがついていそうで、愛らしい。

ところで竹の間と御殿で政岡の左って違いますよね。御殿のほうがうまい人をつけているのかな。飯炊きの所作が良いのはもちろんのこと、冒頭の打掛の引き上げ姿勢もかなり綺麗だった。それと、政岡は足が和生さんとバッチリ揃っているのがよくて、人形の状態が止まったら同時に足もビシッと止まるので、見ていて気持ちよく、乳人としての毅然とした雰囲気があった。

ちなみに狆は前半日程だとかなり興奮していて、うれションするんじゃないかと思うほど千松に飛びついていましたが、「政岡の邪魔や💢」という観客の思念が通じたのか、後半ではおとなしくなっていました。あの狆を見ると、昔よくあった、ちょこちょこ動く電動の小型犬のおもちゃを思い出します。

 

床は呂勢さん・清治さん。落ち着いて芯のある雰囲気があって、興味深い。
静かだけど気詰まりな雰囲気、政岡の神経質さや心理的閉塞が表現されていたのが印象的。あの部屋の外は魔界だという息苦しさが満ちている。御殿の前で一番辛いのは、3人それぞれがお互いを気遣いながらも、事情によって感情を表立って出せないこと。政岡、千松、鶴喜代君にとってもっとも落ち着けるこの部屋の中でさえも、精神はそばだっている。この雰囲気が表現されている点がいちばんよかった。先代萩の文章には、シチュエーションの緊張感を妨げるような穴があると思う。それをカバーし、登場人物の内面を表現する、すばらしい演奏だった。
千松をかなり幼稚な喋り方に寄せていたのは、後の展開をより効果的にするための演出だろうか。実は内面では政岡や鶴喜代君のことをよく考えている子だったということか。後になると千松は「その菓子欲しい」しかセリフがなく、すべて行動で示すので、ここでの喋り方は印象的。なお、西宮の公演の際の錣さんは、がんばって生きてる、しっかり者風の幼子にされていました。

 

後。

栄御前〈吉田簑二郎〉が来訪し、千松が八汐に刺されるくだりが、前回観たときとは雰囲気が違うように感じた。政岡が本当に動じない。以前観たときは、政岡は栄御前にじろじろと見据えながら、苦しむ千松から目をそらしつつ、自分自身も苦しそうに感じた。しかし、今回の政岡は無表情だ。人形そのままの本当の無表情。人間がやるとここが「無表情の芝居」になり、やってるやってる感が出てしまうところ、人形での表現はたいへん効果的だと感じた。もちろん、人形に「無表情な演技」をさせるのは、非常に高い技術を必要とすると思う。
栄御前が去り、ひとりになると、政岡は千松の遺骸を抱いて泣き叫ぶ。大きくつぼみを膨らませながら何日もそのまま持ちこたえていた花がぱっと開き、その華々しさとみずみずしい香りを輝くばかりに放っているよう。いや、もっと生々しいものかもしれない。彼女の気持ちは、あの真っ赤な衣装通り、限りなく純粋なまじりけのない色で、滝のように溢れ出る鮮血のようだった。死んでしまった千松同様、政岡もおびただしい血を流しているのだと思った。残酷で悲惨な情景だけど、それが美しく感じられるのは、文楽ならではだろう。

本当、今回の政岡はどこか生っぽい雰囲気がある。清楚でみずみずしく、感情そのものが形をなしているような純然たる唯一性があった。派手な振り付けに紛れない、政岡の気持ちそのものであったと思う。
それと、今回は、和生さんがどこか悲しそうな表情をされていたのが心に残ったな。政岡も悲しそうだったけど……、なんだか、胸が痛んだ。

 

錣さん×藤蔵さんは、満を持しての配役。昨年秋の西宮の公演で「政岡・和生さん、床・錣さん藤蔵さんで本公演が観たい」と感じた願いが叶って、本当に良かった。
まず、八汐の性格の悪そうっぷり。八汐のキャラクターは竹の間から大幅に飛躍し、政岡に対する不条理な悪意と横柄さ、とはいっても素性の知れない小物ぶりが出ていた。根性が曲がった人物は錣さんが最高に得意とするところだと思うけど、これくらい決めてくれると、政岡も引き立つ。一方の栄御前は、身分があるだけのことはあるものすごい上から目線感。不気味にねじ曲がった枝ぶりの老木のような不気味さ。枯死しているのに、アメーバのように生きているんじゃないかと思わせる退廃感。文楽だと栄御前は老女方の人形を用いており、見た目は非常に美麗なので、不気味に感じる。横から押してくる八汐と、上から押さえつけてくる栄御前によって、彼女らが責めさいなむのは短い時間ながらも、政岡と鶴喜代君の窮地が感じられる。
そしてやはり政岡の描写。印象的だったのは、現代の感覚からするとまずありえない政岡の言動をどう処理していくかという点。政岡は、文章の上では最初は大名家に仕える乳人としての表面上の言葉で千松の自己犠牲を褒め、「とはいふものの」以降からが本心の言葉になっている。しかし、今回は、クドキの頭にくる「コレ千松よう死んでくれた」から、言葉は乳人でも、喋り方は大幅に政岡の親としての本心に寄せているようだった。もちろん、もとからそう演じるものなんだけど、政岡自身の気持ちにかなり振り抜いて、「本当はそんなことはまったくもって思っていない、けれどそう言わざるを得ない悔しさ」を全面に出しているというか。
現代的感覚ではありえない物語をどう表現していくかというのは、現代文楽に課せられた大きな課題だが、詞章や演出を歪めず、物語に秘められた社会の不条理さそのものを現代人に伝えるアプローチとして、とても理解できた。ここで客に悪い意味で“言葉通り”に取られて、「政岡はひどいお母さんだと思います!」とかの感想を持たれたら、終わりだからねえ……。
そして、後半すばらしかったのは、政岡の心情のディティール表現。政岡のクドキはかなり長い。その間、浜辺に打ち寄せる波の表情が1回ごとに違うように、そのときそのときで微細に表情を変えていくのが非常によかった。ここまでの女性のディティール描写ができる人はほかにいないと思う。とても満足した。

 

……なんかこの和生さん、ヘアスタイルがいつもと違うな。私は技芸員さんのヘアスタイルに敏感なのです。

 

  • 人形役割
    八汐=吉田玉志、沖の井=吉田一輔、鶴喜代君=桐竹勘次郎、千松=吉田簑太郎、乳母政岡=吉田和生、小巻=吉田簑紫郎、忍び=吉田玉征、栄御前=吉田簑二郎

 

 

 

先代萩は有名曲だけど、内容にほころびがあるなと感じる。一番不自然に思うのが、「取り替え子の噂」。栄御前ほど身分がある人物が、小巻ごときの吹き込んだ取り替え子の噂を信じ込んで、政岡にペラペラ裏事情を喋るのは無理があるように思う。だが、浄瑠璃のもととなった歌舞伎(奈河亀輔作)の時点では、取替え子の噂を流したのは政岡自身という設定になっているようだ。そちらのほうが、全員がそれぞれの立場からそれぞれの思惑で毒味役が死ぬことを期待していたという点で整合性がある。浄瑠璃もそうして欲しかった……。
もうひとつ気になるのが、「奥御殿の中は敵だらけで、政岡は疑心暗鬼に陥っている」という状況……のはずなのに、そうは思えない点。むしろはじめから沖の井は明らかに政岡の味方という態度を取るので、政岡があそこまで懸命になっている理由がわかりづらく、狭量さに見える。

今回、このあたりをカバーしているのが出演者で、モヤっとする部分を吹き飛ばす力があった。この座組で先代萩を観られて良かった。和生さんと錣さんの、ひとりの女性の多様な面、心の動きを表現する力は本当にすばらしいと思う。このお二人にしかできない舞台だろう。
11月に西宮で和生さんの御殿に対する意気込みを聞いて以来、この公演がとても楽しみだった。和生さんはなぜ御殿にそこまでこだわっているのか、御殿でなにを見せたいと考えているのか。それを和生さんの口から直接聞くことはできないけど、しかし、それを舞台を通して理解できたような気がする。

この1年、公演開催状況が非常に不安定になっていたが、その中でこの『伽羅先代萩』のような舞台が実現できたこと、本当に良かった。会期が後半にいくにつれ煮詰まっていく濃厚さ、むせ返るような情熱に満ちているのに、限りない純度と透明度があった。
私が文楽を観ていて、もっとも面白い、すばらしいと思う瞬間は、人が人を思う気持ちが、舞台上で高純度で結晶化したとき。それにもっとも心を動かされる。今回の政岡のクドキは、私が文楽に望むものがまさに眼前にあったように感じた。
和生さんと錣さんが絶頂にある今、おふたりに似合った演目で、おふたり同時に配役されたことが大きいと思う。偶然上手く行ったとか、小手先のことではない、本質をえぐる重量感を持った舞台であったことに、心から賛辞を送りたい。この舞台を観られて、本当に良かった。

 

↓ 2020年11月西宮公演(外部単発)の感想


↓ 2019年1月大阪公演の感想

 

↓ 全段のあらすじ

 

 

おまけ 伊達騒動の実録について

伽羅先代萩』は実録*1をもとにしているということで、元ネタとなっている伊達騒動ものの実録に軽く目を通してみた。
実録は写本で流通し、書写されていく過程で内容に変化が起こってバリエが発生するので、『先代萩』と近い内容のものと、やや遠いものがある。先代萩の元ネタとなった実録『仙台萩』系統作品のうち、今回は「御殿」の内容に近い展開がある『伊達厳秘録』(宝暦ごろ成立?)を読んだ。

  • 若君(実録では「亀千代」)の乳母、政岡にあたる人物は「浅岡」という名前に設定されている。彼女の夫・白川主殿は亡くなっており、子供がいる。(子供自体は登場しない)*2
  • 毒味役は塩沢丹次郎という人物。息子の幸せを一心に願っている70歳ほどの老母と暮らしている。しかし若君毒殺計画を知り、自分が死ねば母が悲しむことは承知していながら、数多くの領民を持つ若君を助けたいという思いから、毒膳を承知の上で口にして死ぬ。
  • 毒膳事件以降、浅岡は若君の食事を自分で作るようになる。
  • 逆臣らに偽の呪いの願書を突きつけられ、窮地に陥った浅岡を若君が救う展開は『先代萩』と同。若君は浅岡への対処は自ら行うと言い、逆に、自分を幼君と侮っていると言って逆臣らを扇で打擲する。実録では若君は『先代萩』よりもさらに喋り方がちゃんとしており、主君としての立場から対処をする。
  • 毒菓子は逆臣(八汐の夫にあたる人物)が差し入れてくる。浅岡が断って若君には食べさせないとするが、見せるだけは見せるとして引き取る。しかしそこに狆が走ってきて、菓子を食べて死んでしまう。状況を追求された逆臣はスゴスゴ帰って引きこもる。
  • 今回上演しない「床下の段」に出現するビッグねずみも出ます。

乳母の子供、母思いの毒味役、菓子を食べて死ぬ役が別人だったのを一人に統合したアイデアがすごい。そして、狆が実録の時点でいたことにめちゃくちゃ笑ってしまった。「狆、いるか? 雀とフリテンこいてね?」と思っていたが、そうか、もともとは主要キャラ(?)だったのか……。
先代萩』において鶴喜代君の聡明さや実直さは非常に印象的だが、『伊達厳秘録』の亀千代は、実録の性質を受けてか(講釈的な要素を含んでか)、『先代萩』よりもさらに君主としての威厳を備えたかなりシッカリした喋り方になっている。このあたりは媒体の性質の差なんだろうなと思った。

 

参考文献:高橋圭一『実録研究 筋を通す文学』清文堂/2002、博文館編輯局『帝国文庫 第14編 柳沢・越後・黒田・加賀・伊達騒動実記』博文館/1904 第4版 収録「伊達顯秘錄目錄」ほか

 

 

 

*1:実録体小説。実際に起こった事件などを元にして書かれた小説ジャンル。

*2:乳母の名前、子供の有無は『先代萩』系統でもモノによってばらついているようです。おそらく『伊達厳秘録』がもっとも出番多いと思われます。