TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 竹本津駒太夫・関西ラジオワイドゲスト出演 六代目竹本錣太夫襲名にあたって

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津駒さんが12/16にNHKラジオ第1・関西ラジオワイドにゲスト出演されたときのお話メモです。

内容は、2020年初春公演で六代目竹本錣太夫を襲名するにあたり、その気持ちを語るというものでした。津駒さんらしい優しく穏やかな口調、飾らないお話ぶりと正直ぶりに、改めてご襲名を嬉しく思いました。

ご出演を放送直前に知ったため録音しておらず、聴きながらメモを取った程度なので抜けがあると思いますが、ご容赦ください。

 

 

  • 初春公演で「錣太夫」を襲名し名前が変わるが、不思議な気分。いままで50年間、「津駒さん」「津駒さん」と呼ばれてきたので……。
  • 太夫の「錣」というのは兜のうしろで矢を防ぐ防具。皮に漆を塗ってある。(結構細かく「錣」の作り方を説明してくださいました)
  • 師匠からもらう最初の名前は子供の名前としてつけられている。いずれは名前を変えるという意識を持っていた。「津駒」の意味はわからない。自分は「二代目」で、初代津駒太夫は新派の伊志井寛先生。三代目津太夫の弟子だった。
  • 自分の芸歴50年、津太夫の三十三回忌にあたり、改名することになった。咲太夫さんに改名すると言ったら、立派な名前にするように、埋もれた名前をつぐようにと言われた。
  • そこで「錣太夫を頂いたらどう?」と言われた。自分が入門した当初指導を受けた六代目の寛治師匠が五代目錣太夫の相三味線のような感じだった。うまがあったらしい。寛治師匠は競馬がお好きだっただけに(笑)。
  • 「錣太夫」の名跡は80年ぶりの復活。五代目錣太夫昭和15年逝去で、たくさんのSPレコードを残している。当時それだけのレコードを残すというのは人気があったということ。
  • 五代目は体がでかく、声量があった。アドリブが得意で、チャリ場ではお客さんを見て、言うことが日によって変わった。人形さんもそれを楽しみにしていた。アドリブをやると人形も合わせないといけない。三味線はアドリブに突然には合わせられないので三味線さんには配慮するが、人形さんはどうにでも動けるので。
  • (司会者から津駒さんはどの舞台映像・写真を見ても汗びっしょりと言われ)「汗が出るのが快感」がわたしのキャッチフレーズ。
  • (司会者から演奏中はいろいろな登場人物になりきって語っているのかと質問され)語ってる最中はある種冷静。登場人物になりきっているわけではない。息は高く頭は冷静に。太夫はよりしろである。
  • 義太夫は決められた台本があり、一語一句変えずに現代にそのまま演奏する。曲も明治に成立したもの。「完成したもの」を演奏する。その上でいまのお客様に対して何が伝わるか、演奏しながら見つけなきゃいけない。どれだけ共感をもっていただけるか、どうすればお客様と響き合えるか。お客様の心をカンと打つには自分にも響きあうものがあってのこと。
  • 義太夫年表』という本にたくさんの名跡が載っている。昔は義太夫は人気があり演者も多かったのでたくさんの名跡があり、漢字の数だけあるとも言われる。
  • (襲名する名跡は自由に選べるのかと尋ねられ)勇気を持って手を挙げて「わたしこの名前が頂きたい」と言えば。勇気がいること。仲間内では名跡を継ぐ事も大事だと言われている(文楽劇場国立劇場は別の考えを持っている)。名跡を世の人に知っていただくのは有意義なこと。
  • (襲名の法則について)血筋の人は血筋の名前を継がれます。師匠筋の名跡を継ぐパターンだと、咲甫くんが織太夫を継ぎましたね。あれは師匠(咲太夫)からいただいたもの。
  • 自分は広島県生口島生まれ。現在は尾道市編入されている。(実家は?)塩を作っていた。子供の頃、本土へ行くルートは連絡船だけで、はしけから尾道への船が出ていた。
  • 中央大学法学部へ入学し、1年生の半年ほどは授業があったが、2年生のとき、70年安保のまっさかりで学校に入れなくなった。
  • そもそも、法律で人の感情をどうこうするのが合わないと感じていた。偏差値だけで入ったので……。暇をしていたとき、NHKテレビで文楽中継を観た。演目はわからないが、おじいさんが娘さんの恋についてなんかしていた。人形や三味線じゃなく、「声」にひかれた。もともと、声を出すことに興味をもっていた。剣道部でしたから(謎のTSUKOMA理論)。
  • 国立劇場に電話したら、担当者から文楽協会を紹介された。そこで文楽協会へ行ったら、頭取がいて夏巡業のお休み中だった津太夫師匠を紹介された。頭取が師匠に電話したら、当時すでに入門していた緑太夫くんが迎えにきてくれて、住吉のお宅へ連れていってくれた。
  • 師匠に会って、声を出すのをやりたいと言ったら、「ご両親の了解とってる?」と聞かれた。「いいえ?」「ええ!?  そもそもきみ文楽見たことある!?」「ありません!!!」……そのときは夏巡業で若手が東京で公演しているということで、一芝居文楽見なさいよ、そのあいだにご両親に話して説得しなさいと言われた。両親に文楽へ入門したいと言ったら、父は能をかじっていて、文楽やるなら能を紹介すると言われた。母からは、しょうがないから大学だけは卒業してと言われたが……。
  • 入門して最初の10年なんか、ひどい。給料が日立てで9日分しか出ない。学生時代の友達に呼ばれてもコーヒー代がなく、用事があるとごまかして、行けなかった。親は経済状況を知っていて、母がへそくりを送ってくれた。
  • 耳鼻科の先生からは典型的なテノールの声帯だと言われる。三(三味線の三の糸、高音)「テーン」が響く声帯。音が華やかなので、制作もそういう役をつけたがる。でも、義太夫は一と二が響かないと(義太夫三味線では一がもっとも低音で、義太夫の味になっている)。
  • (デモンストレーション)『傾城阿波の鳴門』巡礼歌の段、母と娘の会話の例
  • (デモンストレーション)『曾根崎心中』道行(天神森の段)、キレイ系の例
  • (デモンストレーション)『傾城反魂香』土佐将監閑居の段、男性の声の例
  • (男性の声は)劇場ではオツにかかって、もっと思い切りやらなくてはいけないんですが。時政ならもっとオツにかかっていなくてはいけない。自分の声はこれしかないから、この作品できないというのは通じない。
  • (最後に、錣太夫襲名にあたって)先代がずいぶん特徴的な方。直接お稽古していただくわけにはいかない、知っている人も文楽にはいない。六代目錣太夫は、津駒太夫の延長。器を広げ、いろんな声が出て、お客さんを鷲掴みにできる幅を広げる。

 

津駒さんのお話で面白いのは、現代に義太夫を演奏する意義を考えておられて、それを明快な言葉で語ってくださること。私はそのあたり、実にあいまいに聞いていて、浄瑠璃を現代流に解釈をするつもりはないのだが(例えば熊谷陣屋なら「相模がかわいそう」とか)、かと言って、なにか自分なりの思いを持って受けとめようという意思を持っているわけでもない。そこを指摘された気分になる。というか、客がそうして聞いていることをよくわかっていて、そこに何を訴えかけるかということを模索されているんだなと。私にとっては、とても示唆のあるお話だ。

あと、津駒さんが実は法学部だった話と、文楽観たことないのに津太夫師匠のところへ行って、師匠がびっくりした話は何度聞いても良い。

放送冒頭では、「土佐将監閑居の段」の説明とともに、ほんの少しだが、津駒さんが過去に「土佐将監閑居の段」を語ったときの録音が流れた。先日の西宮でお話しされていた、素浄瑠璃の会で寛治師匠とやったときのものだろうか。愛嬌ある又平だった。初春公演でじかに拝聴できることを楽しみにしています。

 

 

文楽 12月東京公演『一谷嫰軍記』国立劇場

今年の12月中堅公演は『一谷嫰軍記』。陣門の段・須磨浦の段・組討の段・熊谷桜の段・熊谷陣屋の段と、本筋がわかる限界まで切り詰めた特急プログラムだった。

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陣門の段・須磨浦の段。

見所は、平山武者所〈吉田玉翔〉。立派な荒武者振り。馬に乗った人形は騎馬状態の姿勢が悪いと胴体が潰れて汚くなりがちだが、初日から背筋を伸ばしてビシッ!キリッ!と乗っておられた。それ以外の場面も人形の姿勢がとても美しく、振りもキレよく綺麗に決まっていた。左手を挙げて片足立ちになり、体を突き上げる動作などではとくに顕著。ポーズを一瞬キッチリ止めてから次の動作に移行しているので、人形がたいへんシャープに見える。玉織姫の手を取ってスリスリするところでは持ち前の愛嬌を発揮されてキモカワ、しかし姫に反抗されると顔色が一瞬で卑しく変わるのも良かった。ふだんの本公演でここまでの役は来ないと思うが、自信をもってキッチリと演じられていた。

平山武者所は足遣いの方もとてもよかった。たいへん端正な、ピンとした足取り。荒武者とはいえ、下品だったり、粗雑にならないのが良かった。ポインと足を綺麗に跳ね上げる馬の乗り方も上手かった。お若い方かと思いますが……、左と足をどなたが遣っておられるのか、公開されるといいんですけど……。

平山武者所は髪型がセーラームーンにいそうなのが気になる。玉翔なら美少女の中に紛れ込めるっ!と思った。なぜ文楽時空ではツインテール系髪型の男性が多いのだろうか。

 

熊谷役は吉田玉志。実際には前後半でダブルキャスト〈前半=吉田玉志/後半=吉田玉助〉なんですが、前半に重ねて参りました。

玉志サンの熊谷は、透明感のある凛々しい武将。6月大阪鑑賞教室の松王丸も衝撃的な瑞々しさだったけど、今月の熊谷も輝くような瑞々しさだった。熊谷の心の清潔さがよく表現されている。思い切りよくいったなと思った。天然由来でキラキラしてるんだと思うけど、熊谷であのキラキラ感はすごい。一体なんなんだこの透明感は。良くも悪くも16歳の子どもがいるとは思えないピュアで若々しい雰囲気。正直、ダブルキャスト後期の玉助さんのほうがまだ老けて見える。熊谷の人形のあの外見であれだけクリアな印象に見えるは、不思議。

陣門の段、組討の段での純粋さは大変に印象的。陣門で「小次郎」を腕に抱き平家の陣門から走り出てくるとき、ずっとうつむいていっしんに「小次郎」の顔を見ているときの生真面目な表情。組討での、ギリギリまである『もしかしたら「敦盛」を助けられるのではないか』という迷いを含んだ表情。本来であれば「敦盛」を殺したくないという気持ちが痛いほど伝わってくる。浄瑠璃の趣旨を逸脱するのではないかと思わされるほどのリアリティある逡巡。そして組討の段の段切、行きたくないよーっていう馬の首をナデナデしてあげて、そのたもとに手綱と首を持ったままぐっとしゃがみこむときの悲しげな姿は心に残った。

ところで玉志サン、刀をしまうときにクルッと回すのが異様に上手くないですか。あの動作、武士の役には多いわりに上手く出来ない人がかなりいると思うんだけど、居合経験者とか、そういうことなんでしょうか。陣屋で煙管を回すのも妙にうまかったので、単に手先が器用なだけ?

 

組討の段に出てくる遠見の人形は、熊谷〈吉田和馬〉・敦盛〈吉田簑之〉ともに動きが繊細で驚き。周囲のお客さんには「遠見」用の小さい人形だと気づいていない人も多いくらいだった。ということは、遠方からの目撃者にはやっぱりそれくらいザックリとしか見えてなくて、曖昧な伝聞による思い込みで「熊谷が敦盛の首を討った」と思い込む宝引の展開は正しいということだなと、物語の設定に納得。熊谷と敦盛が落ちたあと、馬が自分で帰っていくのも可愛かった。かしこい。

  

 

 

熊谷桜の段、熊谷陣屋の段。

なんでこんなにガバガバ外部の人が侵入してくるの。近所のパンピーツメ人形4人(あのパンピー、まじでどっから入ってきたの?)、相模、藤の局が勝手に入ってくるわ、義経はいつの間にかあがりこんでるわ、一般人歓迎をかかげてる大学のキャンパスかってくらい人が侵入してきてるんですけど、警備してないのかな。挨拶して入ってくるの、梶原平三だけ。それを言ったら、陣門の段の平家の砦もノックしたら開けてくれるあたり、謎の文楽時空だけど。と、そんなことを思いながらも、軍次〈吉田玉誉〉、熊谷と相模を気遣う上品で優しげな雰囲気がとても良かった。

 

もちろん陣屋は熊谷役最大の見せ場。玉志サンご本人の持ち味のなかには熊谷のような人物像はないだろうと踏んでいたので、玉志サンが陣屋をどう演じるのかに興味を持っていた。今回、陣屋を何回か観たことで、熊谷の人物像がどう作られていくかわかったのがおもしろかった。

初日の段階では、組討・陣屋一貫して透明度の高いピュアな雰囲気だった。人形を遣う技量が熊谷の役に及んでいるのはわかるが、熊谷の性根の表現や人物描写としてはこのままでは難しいだろうと思った。それから何回か経過して、最終的には、ベースは持ち味をいかしたそのままで、首実検(陣屋の後半、衣装を変えて首桶を持っての出以降〜義経の出陣の命令)を心に障壁を作ったように演じ、そこでは凛々しさを大幅にアップするという方向にされたのかなと感じた。玉志サンは全体的に人形が都会的・スレンダーな印象に傾く人だと思うけど、首実検は武将らしい筋骨の存在を感じさせつつ、しなやかに引き締まった印象だった。玉志ならカロリーメイトやポカリスウェットの広告に出られるよ😭って感じ。わかってもらいたい、この大塚製薬的青春ニュアンス。

物語を首実検と区別したのは意外。私のイメージでは、熊谷は陣屋ではすべて芝居を打っている=妻相模を含む人前では本心を見せないのではと思っていたが、帰館〜物語は等身大で演じられており、清廉な雰囲気。熊谷が煙管を手に相模へいきさつを語るくだりは、セリフは高圧的であるものの演技は抑えられており、あたかも真実を知った相模が悲しまないようわざとそうしているよう。そして物語は、相模のことを常に親身に気にかけているのが特徴的だった。熊谷は物語の最中、相模へ何度か目線を向ける。それが「相模がうまく騙されているか確認している」というより、夫として妻が本当に心配で相模を見ている感じ。目の引き方のニュアンスがデモンストレーション等でよくある「じろり」とは、なんか違うのよ。「じっ……」って感じ。逆に藤の局のほうはあまり気にしていないのだが、物語が終わって藤の局のクドキに入ると、あたかも相模の嘆きを聞いているように辛そうにしている。同じじっと座っている演技でも、首実検での黙念ぶりとは異なる。

「敦盛卿を討たる次第。物語らんと座を構へ。」からはじまる物語*1の立体的な振りは印象的だった。肩を大きく引くなどしてひとつひとつの振りに変化をつけ、大きくまとまって、やや舞踊のようなイメージ。全体的に端正な雰囲気だが、熊谷が自分で語るひとつひとつの言葉に感情を揺り動かされているよう。クルクルと変わる表情が面白い。
「中に一際勝れし緋威。」で右手で軍扇を震わせながら下手側(右膝側)へ下ろし、左手で肩衣の淵を下から上にしごきあげる部分では人形の肢体に力の漲るさまが存分に表現されており、見応えがあった。
「ヲヽイおいと。扇を持て打招けば。」での力強い動作から「駒の頭を立直し。」で敦盛の動作へ移行したときの一転した軽やかさも良い。
「定めて二親ましまさん。」で広げた軍扇を手に相模をそっと見るところでは、玉志サンは軍扇をかなり高めに、顔をやや覆い隠すように持っていた。熊谷が相模を見るとわかってる人にしかわからない演技。ちなみに、初代玉男師匠の昭和62年公演の映像を見ると、軍扇は結構下ろしていて、客の視線が熊谷の表情にいくようにしておられる。
「早首取よ熊谷。」で軍扇を下手(相模側)にかかげ、その影で相模に目線をやる演技は有名だが、ここでも軍扇をきっちり顔の真横で広げて相模から自分の表情が見えないようにしていたのも印象的。実際にはなんとなくかざす程度の「相模の視線を遮ってる風」でよくて、軍扇やポーズの見えを優先してよいと思われるのだが、こういう細かいところを律儀にやるのが玉志サンぽい。いや、ほかの人がどうするのかの平均値はわからないですけど、前述の玉男師匠の公演映像・後期玉助さんはポーズ優先。多分玉志さんは優先順位が違うんだと思う(別に自分が客から注目を浴びることに意味を見出していないと思うので。玉男師匠なんかは、お客さんの期待を配慮してやってるってことだと思った)。
「心にかゝるは母上の御事。きのふにかはる雲井の空」は相模を気にかける文章だが、そちらに引き目せず若干背を向けて、むしろ相模を見兼ねる、内面的な佇まい。
「是非に及ばず御首をと。」で次の藤の局のセリフを受けずすぐに軍扇を開いて顔を覆い隠して泣くのは、非常にリアリスティックだった。組打の段での強い逡巡をそのまま再現しているよう。

と、物語についていろいろ書きましたが、抜き書きでは断片的すぎて全然意味わからないと思いますので、参考までに詞章全文を掲載しておきます。表記は津太夫床本準拠です。

(「敦盛卿を討たる次第。物語らんと座を構へ。」で熊谷が舞台中央へ移動してきて、以下、物語がはじまる)

扨も去る六日の夜。早東雲と明る比。一弐を争ひ抜けがけの。
平山熊谷討取と。切て出たる平家の軍勢。
中に一際勝れし緋威。さしもの平山あしらひ兼。浜辺をさして逃出す。
テ健気成若武者や。逃る敵に目なかけそ。熊谷是に扣へたり
返せ戻せヲヽイおいと。扇を持て打招けば。
駒の頭を立直し。波の。打物二打三打。
いでや組んと馬上ながらむんづと組。両馬が間にどうと落つ。
ヤア/\何として其若武者を組敷てか。
サレバ御顔をよく見奉れば。かね黒々と細眉に。
年はいざよふ我子の年ばい。定めて二親ましまさん。
其御歎はいか計と。子を持たる身の思ひの余り。
上帯取て引立て塵打払ひ。早落給へ。
とすゝめさしやんしたか。そんなら討奉るお心ではなかつたの。
ヲヽサ早落給へとすゝむれど。
イヤ一旦敵に組敷れ何面目にながらへん。早首取よ熊谷。
ナニ首取といふたかいの。ヲヽマ健気な事を云たのふ。
サア其仰にいとゞ猶。涙は胸にせき上し。
真此通に我子の小次郎。敵に組まれて命や捨ん。
浅間敷は武士の。習ひと太刀も。抜きかねしに。
逃去たる平山が。後の山より声高く。
熊谷こそ敦盛を組敷ながら助るは二心に極りしと呼はる声々。
ハヽ是非もなき次第かな。仰置るゝ事有ば云伝へ参らせんと申上れば。
御涙を浮め給ひ。父は波濤へ趣き給ひ。心にかゝるは母上の御事。
きのふにかはる雲井の空 定め。なき世の中をいかゞ過行給ふらん
未来の迷い是一ツ。熊谷頼むの御一言。
是非に及ばず御首をと。

(このあと「咄す中より藤の局。」に続く)

陣屋の前半が終わって、「軍次はおらぬか早参れ」で首実検の準備に一旦引っ込むときの大きな足取り、なにげない所作だけど、玉志サンっぽくて良かった。玉志サンの場合、 「人形が大きく見える」ぶりに独特のものがある。ある瞬間に人形がとつぜん大きく見えてくるというのが、不思議。「人形が大きく見える」とか「人形を大きく遣う」というのは個人的にはあんまり安直に使いたくない言葉だと思っているけれど、首実検にそなえて奥の間へ去っていく熊谷がそうであるのは、効果的。

首実検では凛々しさMAX、熊谷は相模・藤の局に容赦せず、冷淡な態度を取る。ここでは熊谷は心を完全に覆い隠したように無の表情で演じているが、その黙念とした佇まいは、心の前に壁が立ちはだかっているような玉男さんとはまた違う雰囲気。ちょっと華奢な感じ、うっすらと本心が透けて見える感じがあった。玉男さんが漆喰なら玉志サンは雪で作った壁で、その壁をガンガン突き崩そうとしてくる相模&藤の局の情熱と自分の涙で溶けてしまいそうになりながらも、必死で持ちこたえている感じ。でもなんというか、熊谷の不可解な心を凛々しさを引き上げて表現するというのは意外というか、いや、頑張った結果、見え方として凛々しさMAXになっちゃったんだろうけど、よくここで芝居めいた方向に振らなかったなと思った。『彦山権現誓助剣』の京極内匠や金閣寺の松永大膳は芝居めいたキャラづくりがかなりうまくいっていたので、やろうと思えばやれたと思うが……、サイコパス系にいかなかったのは正直よかったと思った。そもそも論として、玉志サンの熊谷は子どもを殺せないタイプだもの。優しそう。陣屋では熊谷は芝居を打っている設定だけど、それでも相模に対して決して横柄にしない。首実検の途中、相模を組み敷くところでも、ゆっくりそっと相模のひざを払う。突き飛ばしも「ポン……」と軽く押す感じ。煙管を持っての説諭でも物語でも、どこか相模を想う真実味があるのが良かった。

 

相模/藤の局は、会期前半/後半で吉田簑二郎/吉田勘彌の二人が入れ替わるというダブルキャスト。私は前半を中心に観に行ったので、相模が簑二郎さん、勘彌さんが藤の局の回中心。

勘彌さんの藤の局はかなりよかった。相模のほうが役としては良い役なんだろうなとは思うけど、私は勘彌さんの貴婦人系の役が好きなので、藤の局役を存分に楽しんだ。怜悧さと上品さの共存がとても良かった。ひとつひとつの所作がふんわりと穏やかだが、敦盛にからむところ、からまないところで結構態度が変わるのが面白かった。青葉の笛に頬ずりするところの悲しみに満ちた表情、障子に敦盛の影が映ったのを見て駆け出すところの情熱的な表情、開け放った障子の向こうの鎧をよく見て確かめ、敦盛がいないことを知ってがっくりとうなだれる辛そうな表情、ゆっくりと閉じられるやわらかくうすいまぶたは特によかった。敦盛の影を見て駆け出すところ、初日あたりは勢いがすごすぎて、足遣いの方は大変だったと思う。人形って、走る前に体を後ろに引くけど、その引きがすごくて、足の方は人形にぶつかられていた……。

今回、勘彌さんの藤の局を見ていて気づいたのだが……、藤の局のようなタイプの姫カットの人形(顔の両サイドに長めに切りそろえた髪を垂らしている)ってたまにいるけど、あの姫カットの垂れてる部分の毛、結構演出効果がある。首をかしげるときに衣装の襟元へすべらせたり、うつむくときにスピードをコントロールしてぱらりと垂らしたりすると、なんともいえない艶やかさや色気が出る。藤の局は出のときにうしろを気にしたり、青葉の笛に頬ずりしたりと横顔(というか顔の横側)に意味が出る場面が多いので、姫カットの垂らした毛の表情にかなり効果が出ると思った。

 

熊谷・相模・藤の局は、藤の局が熊谷に切り掛かるところ、首実検で2回と、合計3回のカラミがあり、それを綺麗に決めるのが難しいと思う。このうち陣屋の前半、「熊谷やらぬと抜く処鐺掴んで……」では、藤の局が左手に刀を持って熊谷に駆け寄る→熊谷が局の膝下を払う→局が前のめりに転倒→反動で刀の鐺がはね上がる→熊谷が鐺をキャッチ→奪った刀で局の背を抑え込む、という演技がある。これは初代吉田玉男師匠の提案により、人形の演技を改良して演技と詞章を一致させた箇所として有名だが、これ、めちゃくちゃ難しくないですか??? 玉男師匠は「局が熊谷に刀を差し出すむかしのやりかたは理屈に合わないと思っていて、これで一気に解決」的なコメントをサクッとされているが(くわしくは吉田玉男文楽藝話』参照)、この変更によって演技の難易度は爆上がりしたのではないかと思う。この表現、手順を正確に、かつ明確に踏まないと、客は何が起こっているのかさっぱりわからない。関係する人形遣い全員の技量と努力を必要とすると思うが、当時よくまわりを説得できたなと思った。今回、初日近辺ではこれがスムーズにいかず、なぜ局が抑え込まれているのか、よくわからない状態になってしまっていた。とくに藤の局の左の人は客席側で重要な演技をするので、責任重大。書いてしまうと本当に申し訳ないんだけど、鐺の跳ね上げタイミングを何度も失敗していた。しかし跳ね上げタイミングの失敗というのはそれ単体の失敗なのではなく(もちろん手順を焦って早くやりすぎてしまってるというのもあったけど)、熊谷・藤の局の動作全体のテンポと、局が転倒する位置もまた重要になってくるようだった。みなさんで工夫を重ねられたようで、中日ごろには綺麗に決まるようになっており、関わる人形遣いさん6人の洗練を見た気がした。ああいう特殊なシーンは、舞台稽古とは別立てで個別に稽古したりするのでしょうか。

 

弥陀六はベテランががっちり抑えます!文司サン。ビシッとしてかつ爺さんらしい、良い弥陀六だった。「テモ恐ろしい眼力ぢやよな」で階に左足をかけて前傾・やや後ろ向きになって凄むところが良い。弥陀六は左の方も上手かった。弥陀六は素早く型を決めていく場面が多いけど、それに乱れがない。初日近くは文司サンより速くなりがちだったりしたけど、すぐに馴染んでガッチリ決めておられ、弥陀六のキレが際立っていた。
ところで、弥陀六が最初に舞台へ入ってくるとき、弥陀六を縛った縄を持った奴のツメ人形があとからついてくるじゃないですか。あのツメ人形、文司サンに似すぎじゃないですか????? あまりにクリソツすぎて「文司サンの孫……???」と思い始め、途中から芝居に集中できなくなった。陣門で“敦盛”が乗っている白馬のたてがみがクルンクルンしているのにも目が釘付けになって爆笑しそうになったけど、あのツメ人形はまじやばかった。絶対わざとやってると思う。

 

梶原平次景高は紋吉さん。当初は、デカイのに優しげなところが「きりんさんが好きです💛」状態の草食系梶原になっていた。日に日に人形のかしらに見合った、キリッとした所作になっていった。紋吉さんは今回の公演で向上が最も劇的だった人のひとりだと思う。
しかし、梶原平次が着てる陣羽織、『義経千本桜』の「すしやの段」に出てくる梶原平三景時が着てる陣羽織と完全に一致だよね??? 二回目の出で横向きになったときに、陣羽織の裏に「内ぞ床しき」って書いてあるのが見えちゃったので……。文楽ではお姫様が全員一緒の格好なのはわかっていたが、こんな役でも使い回しされているとは……。ファッション誌の着回しページかいな。「地方支社への出張にはギラギラ陣羽織で気分を引き締めて。内側に書かれた筆文字チラ見せでいつものスタイルを格上げ」「山奥にあるお鮨屋さんを訪問。モードな雰囲気をまとったギラギラ陣羽織はお店へのお土産も兼ねて」的な感じで……。

 

義経は玉佳さん。キラキラしてた。義経はじーーーーーーーーーーーーっとしている時間が長いのでとても大変だと思うが、本当にじーーーーーーーーーーーーっとされていて、良かった。玉佳さんは、じっとしているときのじっとしているぶりが良い(本当に端正にじっとしているので)。弥陀六の正体を見抜いたり、熊谷へ出陣を命じたりするときは勢いよくビシッとしていた。義経は首実検のときに扇を目の前に掲げているが、あれ、いままで「貴人は生臭いものは直接目に入れない」ということなのかと思っていたけど、中啓(扇)の骨の間からちゃんと見ているらしいです。←当たり前
 
熊谷は有髪の僧形になってからは演技がおとなしくなるけど、より浄瑠璃に合ったディテールある芝居で、かしらの遣い方の微細さが活きていた。「十六年も一昔。夢で有たなアと。ほろりとこぼす涙の露。柊に置初雪の日陰に。とける風情成」のところ、兜を大切そうにひざの上に乗せてやさしく手をやったり、義経の視線に気づいてそっと背を向けたり、武士であったときよりもずっと抑えめでしみじみとした繊細な所作。熊谷は最後まで義経に気を遣っている。その気遣いぶりも、設定だからそうしているというより、義経に対する等身大の親しみが感じられ、そもそも熊谷はなぜ義経の言うことをそうも素直に聞いたのか、どこかわかるような気がした。熊谷にとっては小太郎も相模も義経もみんな大切な人なんだなと思った。小次郎や相模だけが大切だったり、義経だけが大切だったら、こういう話にはならなくて、だから、武士をやめることになったんだろうけど……。このあたりまでくるとぶっちゃけ客は飽きてくるし、ヤスさんは体力と精神力の限界で日によってブレが出るしで*2大変なことになってるんですけど、玉志サンはつねに通常営業、浄瑠璃ジャストタイムでした。「堅固で暮せの御上意にハハハヽア有がた涙」の「ハハハ」でかしらを左右へ軽く振るのも浄瑠璃のリズムにキッチリ乗っていた。

最後になったが、熊谷の足の方、端正で凛とした足取りで、よかった。「時刻移ると次郎直実」で首桶を持って上手一間から出てくるときの威厳と緊張感あるキリッとした雰囲気が素晴らしかったです。

陣屋は悲しい話だけれど、なぜか段切は「良かった……」という気持ちになる不思議。最後、相模を一緒に連れて出立するのが、いいのかな。

 

 


以上は人形の感想だが、床の配役は、若手や中堅を中心とした太夫、ベテランの三味線という取り合わせ。太夫陣、初日は「ヒイイイエエエエエエ!!!!!😱😱😱😱😱😱」という状況だったが、どんどん良くなっていって、やっぱり若い人は向上が早いんだなと思った。向上と言っても、ただなんとなく良くなったとか、なんとなく頑張ったというのではなく、アプローチを変えて具体的に改善している人がいたのも印象的。

そして、三味線のベテランの人はやはりどう考えても上手いと思った(当たり前)。音ひとつひとつの意味が直感的にわかる。自分の演奏だけじゃなくて、太夫をがっちり助けて弾いている。そして、「毎日ブレなく丁寧に浄瑠璃の趣旨をきっちり演奏する」というのがどれだけ難しいことかよくわかった。

 

 

 

今回は何回か観に行ったので、回によるブレや変化などがよくわかった。

若い方は基本的に、回を追うごとに急速に向上していく。逆に、回を重ねるとクセでやるようになって地が出てくるようになってしまう人もいる。改善すべきことを探り出せず模索が続く人や、この人いま油断したなというのがわかることもある。ベテランだと毎回のパフォーマンスが非常に安定している人や、より一層の訴求や洗練を探っている人がいるのもわかる。これは公演内の一回一回の話だけど、公演ごとにこういうことがどんどん積み重なっていくのだろうな。シビアな世界だなと思った。小手先の作り事やその場凌ぎでは誤魔化せないですね。丁寧にやってる人はいつ見ても丁寧にやってる。ここでの丁寧っていうのは、浄瑠璃の意味を考えてやってるかどうかという意味です。自分が見た回がたまたまそうなわけじゃないですね。結局、自覚や積み重ねが舞台に出るんだなとしみじみと思いました。

そして、お客さんの様子。陣屋の物語のところ、かなりの高確率で隣の席の人が寝ていた。後方席じゃなくて、相当の前列席や床付近の席でもそう。物語は文楽において床・人形とも見せ場にあたる場面だが……、組討から上演しているのに、物語を聞かれてない・見られていないというのは、これも出演者側からするとシビアなことだと思う。

自分自身も短期間に何回も同じ演目を観ることで、勉強になった。あんまり何回も同じ演目を観ると飽きるかなと思ったけど、まったく飽きなかった。自分の見方の傾向(クセ)、自分が文楽に求めているのは何なのかということ、あるいは自分の集中力が切れるのはどういう状況か等もわかった。何回観てもおもしろかったし、何回も行ってよかった。

あとは、去年の12月公演には「女方なのに涙を拭う仕草が忘年会会場の飲み屋でオシボリで顔を拭くおじさんにしか見えない人形」がいたが、今年は「女方なのに嘆く仕草が忘年会の帰りに道端でゲロ吐いてるおじさんにしか見えない人形」がいた。なんやねんこの忘年会のおじさんシリーズ。いくら女の人形だと言っても正体がおじさんだから仕方ないのでしょうか。でも、なぜそのようにオヤジっぽく見えてしまうのかの理由もわかったので、自分自身にはとても勉強になりました。

なにはともあれ、玉志サンが玉志サンらしく端正に勤められて、本当に良かった。大変そうだなと思ったときもあったけれど、熊谷の誠実さがよく表現されていた。ここからさらなる洗練を極めて頂き、また玉志サンの熊谷役が見られるよう、祈っています。

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*1:物語の人形演技については、玉志サンは初代玉男師匠の演技を踏まえてやっておられる可能性が高いので玉男師匠の演技を確認したが(1987年1月朝日座公演)、やはり物語の振りは基本的に同じだった。玉男師匠は高潔で、品格が高い雰囲気だった。そして、めゃくちゃ上手い(当たり前)。大きな振りをせず、コンパクトにまとめているんだけど、かしらと扇の使い方が表情豊かで、一瞬一瞬に膨大な情報量があった。とにかく上手い。私にもわかるくらい、本当に上手いです。

*2:まじで「十六年も一昔。夢で有たなア」の言い方が日によって違い過ぎだろ、どういう解釈なんだって感じだったんだけど、でも、ヤスさんは本当後半とても良くなった。明らかにやりかたを変えて、改善したんだなとわかるところもあったし。頑張ってらっしゃいました。

酒屋万来文楽『傾城阿波の鳴門』十郎兵衛住家の段 西宮白鷹禄水苑

恒例、西宮の酒造会社・白鷹主催の酒屋万来文楽

今年の公演は11月末日のたいへん寒い日に行われた。開演前、会場の中庭にいたら、楽屋口から出てきた着付姿の津駒さんが「ヲヽこの冷えることわいの」とつぶやいて腕を袖に入れてちぢこまり、人形のようにチョコチョコと庭を歩いていかれた。そのお姿が古民家を再現した建物とマッチしていて、まるで昭和30年代の日本映画みたいで、とても良かった。昔の映画だとこういうシーンよく見るけど……、いまでもこんな世界があるんだなと。文楽っていいなと思った。

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今回の演目は『傾城阿波の鳴門』。おおまかなあらすじはこんな感じ。

十郎兵衛は阿波徳島、玉木家の家老・桜井主膳に仕える中間だったが、酒の過失で処刑されるところを主膳の計らいで勘当・追放となり、阿波を離れて6年の時が経過していた。江戸では阿波の殿様・玉木衛門之助が葦原で放蕩三昧し太夫高雄を見請けしたという悪評が立っており、江戸家老となっていた桜井主膳はその犯人を探していた。また、そのころ主膳の預かっていた阿波の家宝・国次の刀が紛失。勘当を赦してもらおうと妻・お弓とともに江戸を訪れた十郎兵衛は主膳の危機、ひいては玉木家の危機を救うため、盗賊稼業に身をやつしお家転覆を狙う悪人と刀の行方を探ることに。いろいろあって十郎兵衛・お弓夫妻は大坂へやってくるが、十郎兵衛はお家の難事を救ってくれた商人・伊左衛門のため武太六から50両を借金しており、その催促に来た武太六とともに外出。家に残ったお弓は追っ手が迫っていることを仲間からの手紙で知るが、というのがここまでの話。

 

今回は、巡礼の娘・おつるが物心つかない頃に別れた実の母・お弓の家に偶然訪ねてくるも、母と名乗れないお弓が泣く泣くおつるに路銀を与えて帰す「巡礼歌の段」の部分だけでなく、その後、お弓の夫・十郎兵衛が道端でおつるに出くわし、娘とは知らず彼女が持っている金を借りようと家に連れ帰るも、もみ合ううちに過失で殺してしまうという後半のくだりもフルで上演するプログラム。
このように「十郎兵衛住家の段」フルのかたちで出るのは珍しく、文楽劇場では平成10年(1998)以降上演されていないという*1

毎年のことながら、会場が狭く、舞台に奥行きがないので、大道具は超コンパクト。客席と舞台の仕切りとしてかなり低めの手摺を立てているほかは、下手側に家の戸口のフレーム、上手側奥に、奥の一間へ続く障子のついた囲いがある程度。ただ、この障子が本当にずっと使っているものらしく、経年変化でかなり古色を帯びていて、古びた民家の雰囲気が出ていた。それ以外には、赤い針山がにゅっと伸びた針箱が上手手前にチョコンと置かれていている。それも舞台で使い古したボロボロのもので、その家でずっと使われていたもののよう。簡素な舞台装置・小道具ながら佇まいがあり、変な意味でのコンテンポラリーなそれにはなっていない。

 

和生さんはお弓役。あまりの美しさに、本当に驚いた。
目を疑うほどの清楚な美貌に、鳥肌が立つ。和生さんの老女方はすべての女性が憧れる情緒ある知的な美貌を湛えている。あんな美しい人はこの世にほかにいない。添加物的な飾りによる美しさではなく、ただ「美」がそこに存在しているという印象。普遍的な「美」で、そこにまざりものはない。そして、生っぽさはなく、かといって無機質ではない。なんとなく、本物の美人というのは無個性な顔をしているという話を思い出した。

和生さんのお弓には、まぶたや額、頰や唇にやわらかな表情があった。今回は客電を一切落とさず、休憩時間等と同じように普通に電気を煌々とつけたままで上演していたので、照明効果によるごまかしは一切きかない。にも関わらず、清楚で神秘的な霊気が彼女を包んでいた。おつるの巡礼の苦労を知り、おつるからちょっと顔をそむけてうつむいたときの、憂いを帯びた額の優しく悲しげな表情は本当に素晴らしかった。美しい眉根を少ししかめているように見えた。ゆっくりと目を閉じる仕草も美しく、涙に濡れて黒々と輝く細く長いまつげが見えるようだった。袖のかげに隠した反らせた指先の気品、そこから漂うわずかな迷いと焦りの気配も美しい。おつるを送り出したあとにお弓がひとり後悔する場面や、娘の遺骸を抱いて嘆く場面では、大粒のきらきらした涙がお弓の目からぼろぼろとこぼれ落ちているよう。自分も涙ぐんでしまった。

和生さんは子どもを抱っこする仕草が本当に愛おしそうなのが、良い。「葛の葉子別れ」でも子どもを抱き上げ、胸元をくつろげてお乳をやり、寝かしつける一連の動作の優しさに感動して、「なぜお乳をあげたことがない人がこんなに自然に愛おしそうにできるのか!?!?!?」とまじびっくりしたが(いや、やってたらスイマセン!)、今回もおつるを抱く仕草が本当に愛おしそうで、驚いた。それと、人形って、女方であっても至近距離で見るとかなり迫力があると思うんだけど、和生さんの人形はそういう意味での威圧感がないのは不思議。なんか、優しそう。日本の母って感じ。

そして、これは人形関係ないんですけど、ふとしたときに和生さんを見たら、ちょっと目を潤ませておられたのも、印象的だった。

 

和馬さんのおつるもとてもよかった。いじらしく、純粋で、ちょっとぼーっとした感じ。なにより、演技が義太夫の間合いに乗っているのが良かった。ダンスのように合わせているのでなく、自然に合っている印象。義太夫の間合いを見極めるのって、難しいと思う。あの若さであれだけできたら、将来が楽しみ。和生さんが後半のトークタイムで若干親バカ入ってたのがわかる気がする。

 

十郎兵衛役は玉佳さん。十郎兵衛は背をすっと伸ばし、やや弓なりに胸を張った凛々しい姿勢が美しい。キラキラ感あるわ……。衣服は貧しくとも、十郎兵衛の清々しい内面がその姿勢にあらわれているようで、良かった。(しかし、復習で『傾城阿波の鳴門』全段読んだんだけど、十郎兵衛、やばくないか。立場が大変なのと真面目なのはわかるけど、短慮ゆえの過失多すぎだろ。団七と同じ匂いを感じる)

 

床、津駒さんのお弓はものすごく自然で、驚いた。義太夫演奏というより、あの空間は『傾城阿波の鳴門』の世界であって、その世界の中でそういう音が本当に聞こえているという印象。音楽演奏に聞こえない。お弓の思いがそのまま直接伝わってくるように感じた。劇音楽を聞いている気がせず、彼女の声を直接聞いて、気持ちを直接感じ取っているイメージ。本公演でもたまにそう感じることがあるけど、不思議な感覚。あまりに自然すぎて、津駒さんが語っているということを忘れて、上演中床を見そびれた。ものすごく良かった。

今回、津駒さんの掛け合い相手は呂勢さんの予定だったが(というか、この会自体、本来は呂勢さんの仕事だが)、11月本公演に続き病気療養のため休演。津駒さんが全部おひとりで語るかと思っていたら、芳穂さんが代演とのアナウンスがあった。芳穂さんはおつると十郎兵衛を語ってくれた。声の線が太いのでおつるは結構大変そうだったけど、十郎兵衛は凛々しくおおらかな雰囲気で、良かった。

 

三味線は藤蔵さん。メリハリのきいた音でとても良かった。演奏中、下手側をご覧になっているのは、去年拝見したときは人形を見て間合いを図っているのかと思ったが、もしかして津駒さんの床本をご覧になっているのかな。去年の廓噺もだけど、本公演であんまり出ない曲を1回きりの単発公演で暗譜演奏するのは大変そう。

 

 

今回はかなり良い席が取れ、間近で人形の演技を見ることができて、本当によかった。十郎兵衛が刀を振るう刀が目の前を通過していくような席。まるで本当にあの家の中にいる気分になった。大道具自体は簡素なものだし、人形もあくまで人形のはずなのに、義太夫の魔力かものごとの縮尺感覚が狂い自分も人形サイズになってすべてが本物サイズで見えるようになり、自分もあの家の中に居合わせている感覚というか……。狭い会場に狭い家屋が舞台の演目であることがマッチして、臨場感があった。

今回の公演、人形も床もほんとにすごく良くて、ずっと拍手していたら、和生さんがすごく嬉しそうにカーテンコールで出てくれて、嬉しかった。「まあまあ……ウチはカーテンコール慣れてませんから……」と、和生さんらしい簡素な挨拶だったけど、津駒さんも呼んでくれて、二人で挨拶してくださった。津駒さんは着付の胸元が汗でビシャビシャになっていて、大雨の中を歩いてきた人のようになっていた。

上演後の休憩時間、設置しっぱなしにされていた床をよく見てみたら、敷いてある緋毛氈の太夫席のところにボツボツと水濡れの大きなシミができていて、「……!?!? これは……、汗……????」と、周囲のお客さんとざわめいた。床に水たまりを作る男・竹本津駒太夫。津駒さんは、「津駒太夫」の名前で出るのはこの公演が最後だったそう。「津駒太夫」の名前の最後を飾る、本当に素晴らしい舞台だった。

 

 

 

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後半はこれも毎年恒例、和生さんのフリーダムなトークタイム。以下、お話内容の簡単なまとめ。

 

和生 ここ2、3日、急に寒くなったので、天気もどうかなと思っていたんですけど、お運びいただき、ありがとうございます。

『傾城阿波の鳴門』を「巡礼歌の段」の部分だけでなく、その後も含めた「十郎兵衛住家の段」でやってくださいと言われて、最初は考えた。普段の公演で「鳴門」が出るときは、お弓がおつるを追っていくところ(巡礼歌の段の段切)で終わる。その後は残酷で可哀想。でも、巡礼歌の段だけだと上演時間が短いしということで、最後までやらしていただいた。

昔は、『傾城阿波の鳴門』の「巡礼歌の段」の「ととさんの名は十郎兵衛、かかさんはお弓と申します」のくだりは、人形浄瑠璃を観たことがない人でも知っていた。今では本公演でも『傾城阿波の鳴門』自体が滅多に出ない。

「十郎兵衛住家の段」は大阪の玉造が舞台。おつるは徳島から大阪まで旅をしてきた。今日はおつるを弟子の和馬が遣っていた。おつるの出について、この会場の出てくるところからお弓の家の大道具までの距離は短いけど、おつるは徳島から大阪までの長い道のりを歩いてきたんだから、その距離を考えて歩けとだけ言った。出来てたかどうか、わかりませんけど……(これを言ってる和生さん、ちょっと親バカっぽくて、よかった)

 

−−−−−和生さん、ここで津駒さんを呼び込む。津駒さん、ビシッとした背広にネクタイをしめたメガネ姿で登場し、客席に挨拶。老舗企業の常務風。

和生 着付が汗だくになって、そのままでいたら風邪ひいてしまうということで、着替えていただいた。

津駒太夫 『傾城阿波の鳴門』「十郎兵衛住家の段」は、35年ぶりにやらせていただいた。そのときも緑太夫さん*2、喜左衛門兄さん*3で掛け合いだった。そのときも大汗……、夏で暑かった。舞台が終わって汗だくで楽屋へ戻って襦袢を脱いだら、汗でびっしょりの襦袢が置いてあった緑太夫さんのズボンの上に落ちて、緑太夫さんに「津駒クンッッッッッ😱👉😱👉😱👉」と言われた(笑)。「阿波の鳴門」というと、それを思い出します(笑)。

来年1月の初春公演で、「六代目 竹本 錣太夫(しころだゆう)」を襲名する。本当は「襲名」とせず、「改名」だけでひっそり終わらせようと思ったが、諸先輩方のところへ改名の挨拶に伺ったら、「キミ、それは了見が違うんじゃないの?」と言われた。というのも、「錣太夫」のような大きな名前は文楽の財産で、名前をおおやけに出して世間様に知っていただくのは後輩の勤めという考えがあるから。そこで、「襲名」という形をとることになった。

「錣太夫」というのは、かつて、六代目鶴澤寛治(当時・竹澤団六)が弾いていた太夫。錣太夫・団六でたくさんのレコードを残している。錣太夫には家族(後継)がおらず、六代目寛治に「錣太夫」の名前を預けて亡くなった。わたしは津太夫師匠に入門した当初、津太夫師匠の相三味線を弾いていた六代目寛治に稽古をつけてもらった。六代目寛治は「錣太夫ちゅうのがおってな〜、おもしろい奴やったわ〜」と楽しく語っていた。その六代目寛治も「錣太夫」の名前を気にしながら亡くなり、「錣太夫」は七代目寛治が預かった。七代目寛治も六代目から頼まれた「錣太夫」の名前を世に出したいと考えていた。六代目、七代目の寛治師匠の縁(?)に応えるつもりで、「錣太夫」を頂く(このあたり、私が津駒さんの話から受け取ったニュアンスです。正確な言葉ではありません)

襲名にあたり、錣太夫のご家族に名前を頂くお願いに上がったら、「おとーちゃん喜んではるわーーー!!ありがとーーー!!!!」と言われた。

わたしはこのたび71歳になる。より一層、一生懸命勤めて参りたいと思います。

和生 (おまえは襲名しないのか視線を察した和生さん、突然喋り出す)太夫さんの名前はそういうことですが、ウチ(人形)は違うんで……。人形は名前がどうこうとあまり言いません。「玉男」も「文雀」も自分で勝手に作った名前ですし。玉男は二代目が襲名しましたが。ぼくも襲名しないのかと言われるが、するつもりはない。「かずお」というのは師匠(吉田文雀)の本名。師匠は「和男」だが、新しく生まれるという意味で「和生」にしてもらった。ぼくは一生これでいく。

最初に「錣太夫」を襲名すると伺ったときは、「しころ・だゆう、語呂がええな!」と思った。

津駒太夫 「錣」というのは、兜のうしろの垂れのことで、矢や刀を受ける防具です。「錣山親方」の「錣」と同じです。

 

−−−−−ここでネタ切れした和生さんが突然質疑応答タイムを開始。会場から質問を募る。

Q 襲名する名前にはほかの候補もあったのか?

津駒太夫 義太夫年表などを見ても、どの名前もいま誰かが名乗っている…………。…………。申し訳ありません。差し控えさせて頂きますッッッ!!!!!!(ビシッッッ!!!)

 

Q 若い人にはどのように教育しているのか? 最初は太夫・三味線・人形すべてを習うのか?

津駒太夫 国立劇場の研修生制度では、最初の1年はすべてのパートをやる。進路を決めたら、それ以外はやらない。

和生 ただ研修生は、実際には「太夫志望」「人形志望」という名目で入ってくる。

津駒太夫 ほかのことを知らなくてもいいということではない。太夫志望でも、三味線がわからなくていいというわけではない。三味線のメロディ、ツボの押さえどころが人によって違うことを知らなくてはならないし、逆に三味線は太夫の息を引き取って(息継ぎのタイミング等の間合いを推し量って)弾かなくてはいけないことをわかっていなくてはいけない。また、太夫は人形さんがどういう振りで、どこにいて、誰に向かって言っているかを心得ていなくてはいけない。

 

Q 口上で「相勤めまする太夫、〇〇△△太夫〜」と言われたあとにかけ声が飛ぶことがあるが、あれについてどう思っているか?

津駒太夫 ちょっと嬉しい❤️ 三味線の名前が呼ばれる前に、いい「間」でかけて頂くと嬉しい。「やった✊」と思う。

和生 人形については、上演中だと、歌舞伎にはかけ声をかける「間」があるが、文楽にはない。ウチはかけづらい。
芝居の途中で盛り上がったときに手がくる(拍手が起こる)のは嬉しい☺️ やりやすい。

津駒太夫 床も同じ。三味線さんが「拍手ください!ください!」と弾いているのにお客さんが「シーン‥‥」としていると、あああーー😱と思う。

和生 大落としとかなぁ。

津駒太夫 是非お願いします!!!!!!!!!!

 

Q 三味線さんが時々「はっ」等の声を出すことがあるが?

津駒太夫 きょうの藤蔵さんは声の大きい方。時々「うるさい……」とは……………………………………わたしは思いませんッ!!! ちょうどいい間でかけてくれます!!!

 

Q 文楽と歌舞伎では「くろこ」が文字も仕立も違う。それはなぜなのか?

和生 ウチの言い伝えでは、「黒衣」というのは宮中へ行って上演するときに、お公家さん方の前で顔が見えたままでは畏れ多いということで、直衣(のうし)の袖を切って頭巾にして被ったことからきていると言われている。歌舞伎とは仕立も違い、文楽の黒衣には裾の両脇にスリットがある。黒衣は神聖な衣装なので、いまでもウチではトイレに行くときは頭巾を取り、黒衣も脱ぐ。

頭巾の素材は麻。黒の麻は昔は畳の縁等に使われていたが、いまではそのような用途もなくなっているので、入手が難しい。なので、特注で布を作ってもらっている。何十mを注文し、切ってみんなで分ける。

 

Q 錣太夫襲名の口上幕*4はないのか?

津駒太夫 口上幕はせず、「床口上」のかたちを取る。簡素にお金をかけずやります。ぶっちゃけて言いますと、わたしもこのあと10年やれるのか、15年やれるのか……、襲名にかけたお金を回収できないッッッ!! これは大切なことですよッッッ!!!

師匠から最初にもらう「〇〇太夫」「△△太夫」というのは、改名前提でつけてもらっている名前*5。錣太夫にしても、むかしの人は出世魚のようにポンポン変えていた。そこには襲名興行にお金をかけて役者を縛る松竹のカラクリがあった。わたしはあえてそこを外れて、後輩にお金をかけない方法を教えるッッッ!!! むかしは襲名となったら切符をたくさん買ってくれる「旦那衆」がいたが、今はそういう時代ではないッッッ!!!

襲名披露でやる『傾城反魂香』「土佐将監閑居(とさのしょうげんかんきょ)の段」は、伊達路太夫さんが伊達太夫を襲名したときにもやった演目。以前は通称「吃又(どもまた)」と呼ばれていたが、差別用語なので今はその名前は使えない。吃又という絵師がいて、師匠に名前を貰いたいと頼みに行くが断られる。しかし最終的には筆の力でもらえて、吃りが治る。大変おめでたい演目でございます。

 

Q 襲名の演目は選べるのか?

津駒太夫 劇場からは「好きなものをいくつか候補として出してください、こちらでも検討します」と言われたので、「土佐将監閑居の段」をやらせて欲しいと頼んだ。「土佐将監閑居の段」は七代寛治師匠と素浄瑠璃の会でやり、思い入れのある曲。

 

Q ここの会場のように客席と舞台が近いところでの上演についてどう思うか?

和生 やりにくいです……(笑)。この距離だと目線が……。どこを見ていればいいか……、人形見てればいいんですけど。よそ見ができませんし。ただ、ウチはどういう会場であっても、やることは同じ。ここは横長の会場なので、上下の端の方からも見えるように、人形の向きに配慮しています。

津駒太夫 こっちも「ウワーーーー!!! こんな距離でツバ飛んだらどうしよ!!!!!」と思ってやってます。

 

Q 錣太夫襲名にあたって、定紋は変更するのか?

津駒太夫 いまは「釜敷梅鉢(かましきうめばち)」を「剣片喰(けんかたばみ)」に変えて使ってまして、こんど錣太夫の紋「太井桁(ふといげた)」になる。ただ、五代目錣太夫も若い頃の写真を見ると違う紋をつけている。それが「太井桁」になったのは……、錣太夫さんというのは本名が「井上」さんで、その井上の「井」を、こう……斜めにしてこさえられたんじゃないかと……(笑)。「わりとかわったお方」と聞いてますので……(笑)。このみちょう(よく聞き取れず)という本にも出ていたので、正式なものと捉えて「太井桁」を使います。

↓新しい紋

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五代目錣太夫は、40分の浄瑠璃を1時間に膨らまして語るお方だったと聞いている。その日のお客様を見て、演奏時間を決めていた。人形さんがついていたらできないので、素浄瑠璃ですよ。六代目の寛治師匠のおかみさんは、錣太夫を「浄瑠璃はうまいんやけど、姿が汚のおてなぁ……」とおっしゃていた。ブルドッグみたいな見た目で、汗とよだれと鼻水でグシャグシャになっていたらしい(笑)。

 

Q いまはメガネをかけていらっしゃるが、舞台ではコンタクトですか?

津駒太夫 ふだんはコンタクト入れてます。わたしは本が頼りなので。

 

Q 床本は自分で書くのか?

津駒太夫 基本的には、師匠の本を借りてきて、自分で書きます。ぼくは本を汚す(書き込みをする)ので、勿体のぉて師匠の本は使えません。
師匠は役が当たるたびに床本を書き直してました。何度も来る演目はそのたび書くので、「これ何冊目や!?」となってました。

 

Q 『傾城阿波の鳴門』の作者は誰?

和生 誰やったかなあ……。いつも言うんですけど、「ボクらは研究者やないですから」(笑)。演目の名前でも、幕内では「新口村」で通るから、「外題は何ですか?」と聞かれると出てこず、「何やったかなぁ〜???」となる。
(会場から近松半二ではという声があがり、津駒さんと顔を見合わせて)半二? もうちょっと下るかなあ……。
(会場から半二、八民平七、寺田兵蔵、竹田文吉、竹本三郎兵衛の合作と聞いて)そのころの浄瑠璃は合作で書かれていた。『菅原伝授手習鑑』を段ごとに分担して書いたら変化が出て大当たりし、合作制が広まった。

津駒太夫 『傾城反魂香』は、原作は近松門左衛門。ただし、原作では吃りは治らない。それを吉田冠子が改作し、治るストーリーにした。ちなみに、吉田冠子は人形遣いの吉田文三郎。太夫人形遣いが喧嘩した事件*6の当事者だった人。

和生 今月の大阪公演の『心中天網島』でも、「紙屋」は『天網島時雨炬燵』のほうが「芝居になっている」。近松物は江戸時代から改作が入っている。近松の当時は人形一人遣いで芝居が全然違うので、三人遣いではそのままでは上演できない。

津駒太夫 お客様の好みもある。近松以後の浄瑠璃には、決まり事で太夫・人形の技量を見せるというお客さんへの当て込みがある。その当て込みで芝居がギュウギュウになる。お客さんが好まれたからそうなった。

和生 こないだも勘十郎くんと言うてたんやけど……。「これ……心中に行くきっかけがあんまりハッキリせんな……」と。「時雨」は紙屋の最後に治兵衛が太兵衛たちを殺してしまうので、心中に行くきっかけがわかるようになっているが、大和屋のあれではわからない。

 

Q 「吃又」は放送禁止用語だという話が出たが、TV放送はできるのか?

和生 放送はNHKの判断。言葉を変えればいいだけなら変えられる。「めくら」を「目の不自由な方」に言い換えて通るならやれますが。(物語の根幹に関わる場合は対応できないというニュアンス)*7

 

Q 女性のセリフが本当に女性が喋っているように聞こえた。太夫の発声について、女性の声・男性の声の演じ分けはどうしているのか?

津駒太夫 意識せずにやっていたらそう聞こえない。どうしたら変わって聞こるのかを考える。人が前にいて、「キミ、それは違うで」と言ってもらうのが稽古。

和生 わたしには詳しくは分かりませんけど、こちらは「声色」じゃないから。

津駒太夫 「息そのもの」で変える。

和生 声帯で変えるわけではない。

津駒太夫 「ハーッ」と息を放り出したときに、どの高さまで行けるか。…………、こんなん言うても、わからないですよね。

 

 

 

という感じで、今年のトークタイムは気さくすぎる和生さんと正直すぎる津駒さんのデンジャーコンビによるお話し会だった。国立劇場でやったら関係者の首が文楽並みに何個か飛びそうなノリのトークで、良かった。

津駒さんの登壇は事前予告されていなかったので、突然のご登場、嬉しかった。そういえば和生さんと津駒さんって歳近いんですね。去年は「和生津駒ってどういう組み合わせなん? 芸風違いすぎでは???」と思ったが、意外と仲良し(?)なのだろか。和生さんは始終とても嬉しそうで、津駒さんの襲名をとっても喜んでいらっしゃるようだった。文楽は芸能として容姿が関係ないのでこういうことを言っては誠に失礼なのだが、私は和生さんと津駒さんの外見がめちゃくちゃ好きなので(なぜなら私、進藤英太郎とか曽我廼家明蝶とかハナ肇みたいな顔立ちの人が大好きだから)、最高なコンビだった。

津駒さんの背広姿は、往年の東宝サラリーマン映画に出てくるハナ肇のようでまじ最高だった。妙にビシイーーーッとしていて、人形配役:吉田勘市って感じで爆笑した。津駒さんは爽やかシティボーイ風の喋り方ながら、言ってることが正直すぎてまじやばいのが最高。でも社会性はあるのがすごい。

「錣太夫」襲名について、なぜ津駒さんが錣太夫の名前をもらうのか不思議だったが、よくわかった。今回津駒さんがご自分でご説明くださった内容と、先日読んだ四世津太夫芸談本の内容からして先代錣太夫はいろんな意味でものすごい人だったようで、「うん!!!」と思った。津駒さんに最適な名前かもしれない。
なにはともあれ、私としては、襲名披露という形を取る判断になったこと、本当に嬉しいです。心よりお喜び申し上げます。

 

 

 

今回は本編もお話も、本当によい公演だった。

この公演はやはり人形や床と客席との距離の近さが醍醐味。文楽で不思議なのが、自分から人形までの距離が近ければ近いほど、人形がひとりでに動いているように見えること。人形まで2m切ってる距離で観ていると、うしろにおもいっきりでっかいおじさんis人形遣いが立ってるのはわかってるんですけど、その姿は全然視界に入ってこず(本当に全然気づかない)、ただ、悲しげな美しい人だけが(なんかちょっとちっちゃいような気がしないでもないが)そこに佇んでいるように見える。その人が木でできているとは気づかない。

客席の雰囲気もとてもよかった。先日、東京での国立劇場主催の素浄瑠璃のとき、三味線さんが最後のひとばち下ろしてないのに拍手している方が結構いらして、「素浄瑠璃でこれは???」と首をかしげた。でも、この公演では、最後のひとばちの後に拍手が起こった。この会は和生さん主体なので、観客も人形さんのファンの方が多いと思われるが、そういうのとは関係なく、ここにいるお客さんみんな文楽が好きで、浄瑠璃も最後まで聞くのが自然なんだなと思った。気持ちよく観劇ができて、本当によかった。

また来年も、楽しみ。

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  • 第十二回 酒屋万来文楽
  • 『傾城阿波の鳴門』十郎兵衛住家の段
  • 浄瑠璃=竹本津駒太夫・豊竹芳穂太夫/鶴澤藤蔵
  • 人形=吉田和生(女房お弓)、吉田和馬(娘おつる)、吉田玉佳(十郎兵衛)、吉田玉勢、吉田玉誉、吉田玉翔、吉田玉路、吉田玉延、吉田玉峻、吉田和登

*1:国立劇場では平成24年(2012)に上演。本公演ではそもそも『傾城阿波の鳴門』自体の上演が少なく、国立劇場開場以来の53年間で東西合計10回しか公演されていない。

*2:竹本緑太夫。津駒さんの師匠・四世竹本津太夫の子息。早世されたため、いまの技芸員にはいない。

*3:三世野澤喜左衛門。

*4:襲名披露口上。舞台上に関係者が並んで挨拶するアレ。

*5:いま在籍されてる太夫さんの実名でしたが、一応伏せます。

*6:寛延1年(1748)、竹本座で起こった「忠臣蔵事件」。『仮名手本忠臣蔵』の演出をめぐって太夫人形遣いそれぞれの有力者が衝突し、座元が人形遣いを優先したため怒った太夫が退座。豊竹座の太夫との入れ替わりが起こり、芸風の混交につながった。

*7:私からの補足。現代の倫理観に照らし合わせて絶対許されないレベルの差別的内容の演目は、国立劇場では現行上演していません。