TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 11月大阪公演『仮名手本忠臣蔵』八段目〜十一段目 国立文楽劇場

年間通しての『仮名手本忠臣蔵』も最終回、八段目〜十一段目。なんだかえらいツウ好みな段だけになってしまっている気がするが、ついていけるだろうか……。

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八段目「道行旅路の嫁入」。

びっくりしたのは、戸無瀬〈吉田和生〉の覇気。小浪〈吉田一輔〉はぼや〜っとしているけど、戸無瀬には鋭さがあり、踊っているときも、どことなく気迫が感じられる。戸無瀬はこの旅が自分たち母娘にとってどういうことなのか重々わかっていて、もし大星一家に受け入れられなければ娘を殺して自害する覚悟をこの時点で持っているのだと感じた。戸無瀬の九段目はもうここから始まっているのだろう。

しかし津駒さんは濃すぎるというか、貫禄のある小浪だな。語りだけなら人形の戸無瀬と同じくらい覚悟完了しておる。小浪だって本当は後には戻れない心境で旅をしているんだから、そりゃそうだが。声に華があって小浪役が合うからこの配役、というのはわかるけど、最近の津駒さんの「他人、一切、関係ありませぇ〜〜〜〜〜ん!!!!!!」ぶりからすると、(相対的に織さんのほうを戸無瀬にしているのはわかるとはいえど)むしろ戸無瀬をやっていただいたほうがよいのではと思った。

あと、文楽名物「小石のぬいぐるみ」が出てきて、よかった。「小石のぬいぐるみ」、グッズとして売店で売って欲しい。

 

 

 

九段目「雪転しの段」、「山科閑居の段」。

和生さんの戸無瀬がすごく良かった。ものすごい威圧感、強烈な気迫。戸無瀬は自分でも言っている通り、同じ武家でも本来大星家とは格がぜんぜん違うはずだが、もう格の違いとか関係なく、人間としてここへ勝負しに来ている。すさまじい芯の強さを感じる。その芯の強さに血の通ったあたたかみを感じるのは、年齢を重ねた、(義理であっても大切にしている)子どものある女性だからか。お石と競り合う場面での気迫は圧巻。まっしろな顔が紅潮し、瞳は情熱に輝いて、体温が上がって汗が滲んでいるよう。眼光の鋭さを感じた。正月の政岡は色々な兼ね合いが悪く、ちょっと盛り上がりきれない印象だったが、今回は床がとてもよく、千歳さんの語りと和生さんの人形が予想外の方向にマッチしていて、とてもよかった。千歳さんは歳を重ねた女性の鋼のような気迫が語りに出ていて、よかった。

本蔵〈桐竹勘十郎〉はとても良かった。脈打ち、蠢めく生きた内臓をそのまま目の当たりに見ているようだった。本蔵の顔色、「そういう色が塗ってあるから」ではなく、人形の顔に本当の血色が浮かんで、あのようなたまご色になっているように思えた。文楽人形浄瑠璃だから、人形でこそできる表現が至高の芸だと私は思う。この本蔵の生々しさは、逆説的に人形で演じていることを最大限に生かしたリアルさだと思う。この感情の蠢きは人間の芝居では表現できないと感じた。
本蔵は、浄瑠璃にある人物造形そのものがとても人間らしい。戸無瀬のような若い妻がいることや、小浪のために若狭之助を捨てて山科へやってくる(若狭之助、ほんと、本蔵いなかったら今後どうすんだろうね?)といったことだけではない。由良助に突然「計略といひ義心といひ、かほどの家来を持ちながら、了簡もあるべきに、浅き工の塩谷殿。口惜しき振る舞ひや」と言い出すところが一番すごい。ほかの登場人物は由良助の本心や意向を探ろうとはすれども、誰も由良助を個人として扱おうとはしない。言うまでもなく塩谷判官もそうだった。由良助もまた個人であるはずということをわかっているのは本蔵だけで、だからこそ最期にこの言葉をかけたのだろう。そういう、一種、浄瑠璃のお約束を破ってくる人間らしさを持っているのが本蔵だから、突然ナマの臓物を突きつけてくるような勘十郎さんの演技は本当合っていたと思う。本蔵を演じる上で、人形が大きく見えるようにかなり差し上げて遣っていたり、細かい工夫をされていることはわかるんだけど、そういうことより、感情まるだしの生々しさや脈動が表現されていることのほうが、すごいことだと思った。これはほかのどなたもできないので。

由良助〈吉田玉男〉は、最後に庭に降り立って雨戸外しの技を本蔵に見せたあと、庭先にすっくと立っている姿がとても良かった。あれが由良助本来の姿なのだなと思った。由良助は体がちっこいのが、むしろ、よい。孔明のかしらで着付も普通の武士程度なのに由良助には巨大なオーラがあり、サイズ的にはちょこんと立っているだけのはずなのに、そうは見えないのが、本当にすごい。大きな人形を使う美麗な武将とはまた違う、強靭な精神を持っていることを感じる。快晴の冬の朝に見る、冠雪した大山のような凛々しい美しさ、峻厳さだった。
本蔵はさいごに体面をかなぐり捨てて小浪のために本心そのままで行動するが、由良助にとってそれは羨ましいことで、由良助には決して出来ないことだろうなと思う。由良助が力弥を思う気持ちは本蔵が小浪を思う気持ちと変わらないはず。それでもそんなこと一言も言わず、すっくと立っているのが良い。
あと、雪転しの段で家に帰ってきてお石にじゃれかかったり、コテンと寝るところ、なんともいえない玉男さんらしい可愛らしさがあってよかったです。ああいう愛嬌はなかなか出せないと思う。自分が観たうちの1回、出のところで被っている頭巾がずれて顔が見えなくなったんだけど、酔っ払ってフラフラしたせいで頭巾が乱れたように演じておられたのもよかったな。しばらくしてから、これまた「ウェ〜イ」と酔っ払い風仕草で直してらっしゃいました。

ほか、お石〈吉田勘彌〉も楚々としたそぶりを見せながらも夫に代わって戸無瀬と渡り合う怜悧な覇気がすばらしかった。芝居が美麗なタイプの勘彌さんが、威圧感や重厚感ある和生さんと張りあえるのだろうかと思っていた部分もあったが、戸無瀬とはまた違う強さを感じて、かなり驚いた。たとえるなら、竹の葉は薄くて軽いけど、エッジが鋭くて下手に触ると手が切れ、葉脈の繊維が強いから力任せに引きちぎろうとしても横に割くことはできない。戸無瀬が面としての勢いで押してくるなら、お石はそれを斬り払う強さがある。強さの質が違うと思った。持ち前の美麗さとしなやかな強さが同居していていて、すごく良かった。類型的になっていなくて、勘彌さんらしい表現に落ちていたのが一番よかったです。

先にも書いた本蔵のセリフ、「計略といひ義心といひ、かほどの家来を持ちながら、了簡もあるべきに、浅工の塩谷殿。口惜しき振る舞ひや」、これ、私は本当にすごいと思っていて、はじめて聞いたときは衝撃的だった。『仮名手本忠臣蔵』自体としても重要なセリフだと思うけど、映画などの忠臣蔵でこの内容を受けているものってあんまりないような気がする(そもそも『仮名手本忠臣蔵』を受けた内容のもの自体が少ないけど)。どうしてこのくだりは忘れられているのだろう。歌舞伎では九段目はあまりやらないようだが、どうしてなのかしら……。演技自体が地味で、特定の人の見せ場が設けにくいから……?

 

 

 

十段目「天河屋の段」。

近年上演されていた「天河屋」は、実は原作通りではなく、昭和31年(1956)の野澤松之輔作の短縮版。今回、錦糸さんが原作にもとづいた復曲を行い、大正6年(1917)10月御霊文楽座公演以来の原作上演とのことで、今年度の年間通しの目玉企画のひとつ。

天河屋の段(原作通り)あらすじ

港湾都市・堺に廻船問屋を構える天河屋義平〈吉田玉也〉は、物腰は軽快だが着実な手腕で財をなした商人。きょうも店先には大船の船頭らが来ていて、積荷の長持七棹を搬出していった。
仕事がひと段落した義平が店の奥へ入っていくと、彼の息子・芳松〈吉田和馬〉とそのお守りの丁稚・伊吾〈吉田簑紫郎〉が店先へやってくる。伊吾はお守りより自分の遊び・人形廻しに夢中で、芳松相手に「泣き弁慶*1の信太妻」なる演目を語りながら人形芝居を見せている。芳松はカカサンを呼んでくれと言うが、彼の母は義平に離縁されて実家に戻されていた。そればかりか手代や下女は難癖をつけて暇を出されており、天河屋に残されたのは主人義平と芳松のほかには伊吾だけなのであった。寝たいと騒ぎだす芳松に伊吾は自分まで眠くなってくるが、芳松は添い寝が伊吾ではイヤだと言う(ビコーズ乳がないから)。

そうこうしていると、店先へ二人の侍がやって来る。侍は原郷右衛門〈吉田文司〉と大星力弥〈吉田玉佳〉だと名乗り、主人義平への取次を頼んでくるが、名前を「はらへりえもん」「おおめし食い」と聞き間違えたアホは、ケッタイな客が来たとばかりに慌てて義平を呼びに行った。
伊吾・芳松と入れ替わりに迎えに出た義平が二人を店へ上げると、郷右衛門は義平のおかげで討ち入りの準備が整ったことに礼を述べ、今日明日にも鎌倉へ出発することを伝える。義平が後送にしている武具も今夜の船に乗せて送り出すと言う。また、義平は職人にはこちらの住所を明かさず手付金を渡して作らせたので発注元の足はつかないし、店中の者たちには暇を出したので、発送が明るみに出ることもないと説明した。それを聞いた郷右衛門と力弥は納得し、由良助らに報告して安心させるとして宿へと帰っていった。

二人を見送って義平が戸を閉めようとしたところ、妻・おそのの父・太田了竹〈吉田簑一郎〉が割り入り、家の中へ上がり込んでくる。義平が病気療養にやったおそのの様子を尋ねると、了竹は斧九太夫からの扶持も途絶えたというのに嫁入りさせた娘を養生に返されたのではたまらないと言う。そして、おそのに何かあっては大変なので、世間体用に離縁状が欲しいと義平に迫る。その様子に不審を感じながらも、居座られて由良助らのことが知れてはと思った義平は去り状を認めて了竹へ投げつけた。了竹は近頃天河屋には浪人が出入りしていて様子がおかしい、おそのは今晩中にでも口がかかっているところへ嫁にやると嘯くが、義平に蹴飛ばされて戸口から締め出されると、憎まれ口を叩いて夜闇の中へ去っていった。

夜も更け、周囲も寝静まったころ、天河屋の周囲を捕手が取り囲む。捕手たちは取引のある船頭だと名乗って義平に戸口を開けさせて天河屋へ押し入り、塩谷判官の家臣・大星由良助に頼まれて武具を鎌倉へ送ろうとした咎で義平を召し取ると言う。知らないと言う義平に、捕手たちは長持が不審であるとして蓋を開けようとするが、義平はそれを蹴散らして長持の上へどっかと座り、これはさる大名の奥方より頼まれた品で、具足櫃に入れる笑い本*2や笑い道具*3にまで名を記してあるため、それを見ては誰にも差し障りがあると一喝する。ますます不審がった捕手は芳松を捕えて喉に刀をつきつけて義平をさらに脅迫するが、義平は顔色を変えず、殺さば殺せ、こっちを一寸刻みにするならするといいと言う。義平は芳松をもぎ取り、子にほだされない性根を見よとして息子の首をしめようとする。するとそこに「待て」の声がかかり、長持の中から由良助が姿を現わす。義平は驚き、捕手たちははるか下手にすさった。
由良助は義平の心底の偽りなさを褒め称え、同志たちの中に町人である義平に万が一のことがあってはと心配する者がいるので、義平の性根を証明するためにこのような芝居を打ったと詫び、義平の性根は並の武士以上で、主人存命であれば取り立てられて一国を任せられるほどの器量であると頭を下げる。義平はいまの自分は塩谷家に取り立てられてこそあると語って皆に顔をあげさせ、討入の手伝いをできただけでもありがたく、仇討ちができ、冥途でまで塩谷判官に奉公できる塩谷判官らが羨ましいと語る。そして、今夜鎌倉へ出立するという由良助らに縁起をかつぐ蕎麦切りと酒を振る舞うと言うのだった。

先発の者たちを先に帰し、由良助が大鷲文吾〈吉田文哉〉、矢間十太郎〈吉田勘市〉とともに奥の間へ入ったのと入れ替わりに、小提灯を提げた義平の女房・おその〈吉田文昇〉が天河屋の門口へやってくる。おそのは眠っていた伊吾を呼び立て、家の様子を尋ねるが、アホすぎて要領を得ない。そして芳松がひとりで寝かされていることを知ったおそのはわっと泣き出すのだった。そうこうしていると、奥の間から伊吾を探す義平が姿を見せる。おそのは義平に言うことがあると門口から呼びかけるが、義平は取り合わない。そこで何やら一通を中に投げ込み、義平がそれを拾っているすきにおそのは家の中へ入り込む。その一通は先程義平が了竹へ渡した去り状だった。おそのは嫁に行くふりをして油断させた了竹からそれを盗み出し、息子会いたさに天河屋へ帰ってきたのであった。義平は病のふりをして実家にいろと言ったはずだ、里へ帰したのにはある理由があり、了竹が斧九太夫の旧臣である以上その理由は 明かせないと語り、病人のように振る舞えと含めてあったのに、おそのがその言いつけを破ったことを詰る。そして、芳松がいつもおそのを恋しがって泣くのを身を引き裂かれる思いでなだめすかしていることを明かし、それでも義父了竹の許しなくおそのがここへ戻ることは不義であると言って、芳松を一眼と懇願するおそのに離縁状を押し付けて戸外へ追い出してしまった。
おそのは了竹の許可が得られるならこんなことはしないと戸を打ちたたいていたが、他家へ嫁入りする気はないとして自害を覚悟し、天河屋を後にしようとするが、そのとき、突然頭巾の男が現れて彼女の島田髷を切り取り、持っていた離縁状まで奪って姿を消す。髪も離縁状も失ったおそのは、櫛笄を盗むにしてもあまりにひどいやりかた、いっそ殺してくれと泣き叫ぶ。
それを聞いた義平は思わず駆け出でようとするが、すんでのところで思いとどまる。するとそこに奥の間にいた由良助が声をかけ、暇を告げて小判と一包みを義平と妻おそのへ贈ろうとする。義平は金のために世話をしたわけではないと言うが、由良助は後々顔世御前のことも頼みたいためのものと告げて外へ出る。むっとした義平が汚らわしいと進物を蹴飛ばすと、中からあらわれたのは、おそのがしていた櫛笄と切られた髪、そして離縁状だった。それを見て駆け込んみ、驚くおその。実は、さきほどの櫛笄泥棒は由良助が大鷲に命じてさせたことだった。髪を切った尼法師の形であればどんな親も嫁入りさせようともしないし、嫁に取ろうとする者もいない。由良助は、彼女の髪がもとのように伸びる100日後には由良助らも本懐を遂げており、そのときにはこの櫛笄と添え髪で笄髷を結って天河屋の花嫁として冥途の由良助を仲人に祝言を挙げよ、それまでは大鷲と矢間を仲介人に尼の乳母天河屋の“奉公人”になれと告げる。義平とおそのはその由良助の志に深謝する。由良助は町人ゆえ討入に同行できない義平の義心を讃え、夜討ちのときに家名「天河屋」を合言葉とすると言う。そうすれば、義平も討ち入りに加わったも同然というのである。のちに「天河」の合言葉は「山・川」と言われるようになり、由良助の兵法は「忠臣蔵」と呼ばれるようになったが、このように世の言葉がはかなく移り変わっていくように、由良助たちは天河屋の人々と別れゆくのであった。

天河屋室内のしつらえが以前に観た「天河屋」とは少し違うようだった。「天河屋」の屋号の入ったのれんがなく、屋号は普通の世話物の商家のように外へ幕状にはってあった(確か……)。長持に座る部分など、人形の演技の段取りもなんだかちょっと違う感じ。義平は丈の長いどてら(?)のようなものをロングコートを流すように羽織っていて、イメージが少し違った。長い丈の羽織ものを打掛とは違う着方で着ている人形はあまりいないと思うので、おもしろかった。

それにしても、朝の第一部の河庄から始まってこのかた、11月公演、人形が全部標準サイズのやつらばっかりなので、突然義平がドーーーーーンと出てくると、「でか!!!!!!!!!!」感がはんぱない。身長2m以上あるだろと思った。
しかし、爽やかでサラリとした義平で、とてもよかった。玉也さんにこういうみずみずしい役は普段あまりないよね。「天河屋の義平は男でござるぞ」のところ、もっと講談っぽく、濃い味の芝居味をされるかなあと思っていたけど、かなりさらっと流していて、意外だった。素地が清冽な人(玉志サンとか)ならわかるけど、玉也さんがこうするとは、粋な感じ。
それと、玉也さんの義平には目線の動かし方に結構特徴があって、面白かった。動作自体はかしらに合う品のあるものながら、顔を動かさずに目でだけ注視すべき対象を追うといった「目」での演技で表情をつけている。義平は、戸口のあたりでウロウロする場面が多い。戸口からあやしいやつが屋内へ入ってくると、顔は客席側に向けておき、目線だけ屋内のその人物の行動を追うという演技をかなりシッカリとつけてあった。至極普通に振舞っているようで、その目線から義平には慎重さや警戒心があることが客にもはっきりとわかる。
玉也さんは武士系の役でも目線の演技をピンポイントで効果的にやっていらっしゃると思うが、武士ではここまで頻繁にじろじろぎろぎろはできないところ、義平は町人・この段は世話的な話でもあるので、目線自体で芝居をさせることが成立しうるのだと思う。あと、「立役の目線の送り方の演技」にはそれ自体に高い難易度があるなと最近本当よく思うので、これが独立した演技として成立していること自体、興味深い。

この段でおもしろかったのは、通常の短縮版には登場しない登場人物である丁稚・伊吾が、「人形廻し」にハマっているという設定。子守でやっているのではなく、完全にヤツの個人的な趣味(天河屋をクビになったら人形廻しになろうと思っているアホ)。伊吾は法師姿(?)の弁慶のちっちゃな人形を持っていて「泣き弁慶の信太妻」というオリジナル演目を披露してくれる。弁慶の人形は白い頭巾に黒い法衣?を着て、両手で薙刀を持っており、この手が仕掛けで動くようになっていた。人形は棒を芯にしたつくりになっていて、その棒を人形遣いが直接握り、下部につけられた輪っか状のヒモ×2を親指・人差し指にひっかけて引くと、手がぱたぱた上下して薙刀をふりかざすことができるという仕掛けっぽかった。20cm程度の人形だけど、結構細かい細工がしてあり、最初に見たときはびっくりした。ここまで凝ったつくりの小さい人形を出すことは知らなかったが、大阪公演は前列席でも一応オペラグラスを持っていくようにしていたので、2回目にはじっくり見られて、よかった。よく見ると顔もちゃんと描いてありました。

伊吾が「こゝに哀れをとゞめしは」と語る部分は原作だと文弥節がかりになる指定がしてあるけど、今回 のコスミさんも文弥節がかりだったのかな? 文弥節自体を知らないので、よくわからなかった。

 
 
 
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先述の通り、ここは錦糸さんによる復曲で、口を小住さん・寛太郎さん、奥を靖さん・錦糸さんが演奏していた。文楽劇場のプログラム、今回なら、どうして天河屋を復活したのかの経緯を企画者(文楽劇場制作)が語るとか、あってもいいんじゃないかと思った。もうちょっとお客さんと興行企画側とのコミュニケーションを増やしたほうがいいんじゃないか。文楽はせっかく(良い意味で)アットホームなこじんまりとした興行なんだから……。復曲を担当した錦糸さんはどういう点に注意して曲を作って、それをどういう稽古でみんなに共有したのかとか、カンタローやコスミさん、ヤスさんはそれを受けてどう考えて、どう取り組んだのかのインタビューを取るとか。襲名披露や派手な演目ばかりが技芸員の売り込みの手法じゃないと思う(もしかして詳しいことはキンシ・ホムペに載ってる!?)。
ところで、口の部分の上演中、舞台袖の暗がりに座って床本を開き、人形を少し見ながら本を読んでいる太夫さんを見かけた。ベテランの人。こういう人でも、わざわざ残って袖で人形確認しながら本を勉強するんだとちょっと驚いた。

しかし、この段が1時間あるのは長いね……。間延び感がすごいし、内容的にも正直言っておもしろくないし……。八段目からしかやらない公演で、あれだけ引き締まった九段目の後にこれいるの?って感じだった。

 

 

 

十一段目「花水橋引揚の段」「光明寺焼香の段」。

通常どちらかしか上演しないところを、両方やります!という企画。「天河屋の段」を原作通りに復活する意図はわかったが、「花水橋引揚の段」「光明寺焼香の段」は原作通りじゃなくて、増補だよね。謎の混在……。原作だと討入の場面と焼香の場面が連続した一段になっていて、焼香は高師直邸でやるはず*4。現状の文楽では討入の場面を人形遣いの人数的な事情でまず上演できないので、改作上演している理由はわかる。でも、内容がなんかカブってる感あるので、普段はどちらか片方しかやらない理由がわかる気がした。原作を尊重するなら、いずれは討入の段の後半(首を討ってから)を復活するのがいいような気がする。

あと、さすがにお人形さんはみんなオソロの格好で並んでいると、なんか、かわいい……。「よかったね……」って思った。歌舞伎でも映画でも、人間だとあの衣装着て並んでいても別になんとも思わないのだが(忠臣蔵に一切興味なしの進なので)、人形だと「がんばって……いきてる……💓」って感じがして、キュンとする。あの衣装、よく見ると由良助だけ黒の部分にも織りの模様が入ったちょっといい布で出来ているのもよかった。そして、勢揃いで並ぶ場面で人形遣いさんたちが一生懸命間合いをつめて並ぼうとしているのが本当にいい。すみっこのほうの人が入りきれなくてきゅうきゅうしているのもいい。初日近くに行ったからだと思うけど、由良助の演技に合わせてみんな一緒の演技をするところで、普段、ほかの人を覗き込むなんてこと絶対しないような人形遣いさんたちもみんな一生懸命由良助の人形を見ているのも味があった。そして一人悠々と通常営業の玉男様……。ザ・文楽って感じで、のどか……。
以上、上演内容と一切関係ない素朴な感想でした。

 

 

 

今月はやはり九段目がおもしろかった。

ほんと、和生さん、勘十郎さん、玉男さんの3人がいままでずっと人形遣いを続けてこられてよかったと思った。それぞれ別々の個性があって、力が拮抗している3人が揃っていること自体がミラクルなんだなと思う。よくもまあ見事にばっちりはまった形で個性が別れたなーと思う。戸無瀬、本蔵、由良助、全員まっすぐな心の持ち主だけど、そのまっすぐぶりが違うことが、舞台から自然に伝わってくることがよかった。いまの文楽がなしえるベスト配役だと思った。

そして、今回は年間通し上演の最終回ということで、客席もそわそわしていた。
具体的に言うと、討ち入りするかどうかで……。
十段目の開演直前、近くの席のお客さんが「討入するのかな……💓一年見てきたから、ここまできたら盛り上がるね……」とつぶやいていたのにはドキドキした。そのお客さん、天河屋が終わって大道具転換の幕がしまっている最中に、さらに「いよいよ討入するのかな……」とおっしゃったのでさらにドキドキしてしまったが、同行者の方が「人形そんなにもたくさん出せないから、討入の場面はないと思うよ💦でも、討入の格好はしてると思う!」と励ましておられて、ホッコリした。
「討入の格好はしてる」、確かに。あの衣装着てるだけで「なんか観た!!」感がある。私も今後ぜひとも使っていきたいフォローワードだと思った。文楽劇場もぜひ使って欲しい。
そして、終演後の帰り際、「討入しなかったね……。そりゃそうだよね……(人形的な意味で)」と話しながら歩いておられる方もいらっしゃった。4月公演でお見かけ申し上げた、討入を楽しみにしていたおじさんは今頃どこにどうしてござろうぞ。私も今回はもしかしたら頑張ってくれるのかなと思ったけど、頑張れなかったみたい……。原作に討入の場面そのものは、ある。でも、原文を読むと、登場人物が大変多く、かつ出入りが激しくて、人形がものすごく大変。用事が済んだ人形はすぐ引っ込んで次の役に回るにしても、人形遣いの人数が全然足りない。これ、やってた頃はどうしてたんでしょうね。観ても面白い内容とも思わないけど、せっかくなのでチャレンジして欲しかったですね(無責任)。

上演の構成としては、相当、文楽好きな人向けの印象だった。4月は殿中刃傷・切腹があるので、いわゆる「忠臣蔵」しか知らない方でも見やすいし、7・8月は七段目があるので歌舞伎が好きな方も入りやすいと思ったけど、今月の九段目をメインにした構成はもう文楽好きな人超ピンポイントのような気が……。そして天河屋・花水橋・光明寺も、あれを全部出すことに意義が見出せる人向けにファンサービスでやってるのかと思った。いままで文楽を観たことがなくて、今回の企画ではじめて文楽を見て、かつ継続して今月まで来てくれたという方がいらっしゃるようだったら、今月のご感想を伺いたい……。今月は第一部も地味だし、どうせいっちゅうねん感がある。

年間3分割通し上演企画自体については、当たり前の感想だけど、普通に1日で通し上演したほうが面白いと思った。バラバラに上演されたことで、『仮名手本忠臣蔵』は全段通して緊密な構成に作られていることがよくわかった。余計なものがなくスピーディーで、全編通して物語が張り詰めている。バラバラにして上演すると雑味が入って、ものすごい間延びを感じるんだなと思った。どの人にもある程度良い配役をまわすメリットは感じたけど、「通し狂言」と銘打つのは無理があり、全段通していっきに観たときに感じるエネルギーやおもしろさは損なわれるなと感じた。あとはやっぱり今月の間延び感は相当つらいですね。少なくとも、九段目で帰っても見応えにかわりがない(むしろ九段目で帰ったほうがいいまである)ようなやりかたは、避けたほうがいいと思った。

↓ 春・夏・秋と全段通し観劇するともらえる記念品の手ぬぐい。イラストは勘十郎さん。絵が凝りすぎていて、勘十郎さんのただならぬ意気込みを感じる。クオリティが高すぎてむしろ若干怖い。

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↓ 春・夏公演の感想。

 

 

 

 

2階売店の新メニュー「文楽パフェ」。

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ちょっと豪華なカップアイスに文楽せんべいを刺したもの。文楽せんべいの柄はアドリブなのかな。私は弁慶だった。注文するとカウンターの人が店の奥に消え、しばらく時間がかかってから持ってきてくれるのだが、何をしているのだろう。首を討っているのかもしれない。フレーバーはチョコと抹茶がある。文楽的にはストロベリー味を期待したが、なかった。380円。

 

 


おまけ。

仮名手本忠臣蔵』のパロディ、十返舎一九黄表紙『忠臣瀬戸物蔵』(享和2年 1802)について。

薩摩土瓶は墨消壺の妻・染付茶碗に横恋慕するが取り合われず、殿中で墨消壺を愚弄してフタを打擲して割る。怒った墨消壺はファイヤー、擂鉢に消火されながらも土瓶にタックルして欠けさせてしまう。墨消壺はその咎で切腹、お家は断絶。墨消壺の遺臣・丼は祇園の茶屋で遊興に溺れるフリをしていたが、亡君の逮夜のため中身に綺麗な水をくんでいたところ、貧乏徳利に頭の水で盃を洗われてしまう。そこで水を汲みかえようとするが、遊女となっていた土鍋の妻・水飲みがそれを目撃、頭に差していた砂糖さじを落としたため、丼はびっくりして水をこぼし、縁の下に忍んでいた貧乏徳利に水替えを勘付かれてしまう。擂鉢の娘・小皿は丼の山科の閑居へ発送されるが、そのあとを鉢をひっくりかえして虚無僧に化けた擂り鉢がひそかについてゆく。色々あって丼らは土瓶の館へ討ち入り、ついに亡君の仇をとる。

というあまりにひどい話で、『仮名手本忠臣蔵』の全段を知っているとメチャクチャ笑える。食器になったせいか全員性格が大味になって、与一兵衛(備前徳利)・勘平(土鍋)・本蔵が別に死なないのが最高。食器ワールドは平和だった。

↓ 擂鉢(本蔵)の娘、小皿(小浪)。割れてしまう前にこじんまりとでも嫁がせたいと、擂鉢は小皿を丁寧に梱包して山科へ発送するのでした。
擂鉢が小皿に下げている札には「われもの」と書いてある。あと、小皿、ほかの瀬戸物キャラに比べて皿サイズがほんとにちっちゃいのがまじ笑った。(なぜ擂鉢から小皿が生まれるのかは不明)(この話には戸無瀬はいません)

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↓ 鉢をひっくり返して笠にして、すりこぎを尺八に山科閑居へ現れた擂鉢。
お石がいなくて誰も「ご無用」の声をかけないため、え???わし、金もらえるの???な状況になってしまう。(ひどすぎ)

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↓ 山科閑居の段の後半の内容が複雑すぎて作者が投げやりになり、突如奈良茶碗(力弥)が擂鉢をひっくり返して味噌を擦りはじめる。
(もう誰もなぜ味噌を擦っているのかわからない)(右下のにょろにょろした文字は「こゝはなんだかさつぱりとわからねへ」、摺鉢の下のにょろにょろは「さくしや(作者)わからねえはずよ おれもわからねへ」と書いてあります) 

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ところでこの話、導入部に「天河屋の段」で「はらへりえもん」「おおめし食い」が来たと思い込んで騒ぐ伊吾のセリフが引かれているんですが、あのシーン、江戸時代には有名だったんでしょうか。『仮名手本忠臣蔵』を部分的にではなく全段知っていないと全然意味わからない話で、江戸時代後期にはそんなにメジャーだったんだと思わされました。歌舞伎でも相当全段上演していたとかなのでしょうか。『仮名手本忠臣蔵』の受容史を勉強したいところです。

 

『忠臣瀬戸物蔵』は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能です。

 

 

 

*1:関西特有の言い回しの一種。負けず嫌いで、人に負けると泣いて意地を通す者のことだそうです。「涙弁慶」ともいい、「泣き不動」といった類語もあるようです。

*2:春画。鎧や兜を入れる大型の箱に入れる風習があったらしい。

*3:房事の道具類(文化デジタルライブラリーにアップされている床本注釈によるマイルド表現。もと豪速球の解説をしている注釈書もあります)。

*4:話の流れとしては、高師直邸の床の間で一同が焼香していると、若狭之助が高師直の弟がこちらに向かっていることを知らせにやってくる。由良助らは光明寺で自害しようと思っているのでそれは若狭之助に任せ、光明寺へ向かおうとするが、そこに薬師寺次郎左衛門(いたね〜!そんな人!!)と鷺坂伴内が現れるも雑魚らしく力弥にすぱっと殺され、物語は唐突に終わる。花水橋や光明寺といった別の場所へ移動することはない。